デスノート・オブ・カーストルーム   作:戦竜

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第2話 断片から名前へ

池寛治が死んでからというもの、2年Bクラスの教室には、

それまで当たり前のように漂っていた雑多な熱が、

まるで見えない何かに吸い取られてしまったかのような、

不自然な静けさが居座るようになっていた。

 

誰かが怒鳴ったわけでもなく、誰かが泣き崩れたわけでもなく、

教室そのものが一瞬で壊れてしまったわけでもないのに、

須藤の無遠慮な声も、池がいてこそ成立していた気安い軽口も、

軽井沢たちの輪の中で交わされる他愛ない話題も、

どれも以前と同じようには響かず、そこにいる全員が、同じ椅子に座り、

同じ授業を受け、同じホワイトボードを見上げながら、

その実、誰もが自分の耳の奥でただひとつの単語だけを反響させ続けていた。

 

名前。学校側が管理する、本来なら生徒自身ですら

自由に触れることを許されていない、もうひとつの名前。

綾小路清隆でも池寛治でもない、

学園のシステムにだけ登録された管理名が、

たった一度ノートに正確に記されるだけで、人は死ぬ。

その残酷さも異常さも、すでに教室の全員が

池の死という現実を通して理解してしまっていた。

 

茶柱が教卓に置いた黒いノートは、もう誰も表立って見ようとはしなかったが、

だからこそ逆に、その存在感は以前より大きくなっていた。

目を向けないようにしているのに、意識だけは何度でもそこへ引き寄せられる。

 

あれを使った誰かがいる。池の管理名を暴き、それを書いた誰かがいる。

その事実は、単に恐ろしいというだけでなく、このクラスの誰もが、

そしておそらくは他クラスの誰もが、

今この瞬間も「どうやって管理名を知るのか」という問いに

取り憑かれていることを意味していた。

 

デスノートそのものより危険なのは、本名でも通称でもない、

学園にだけ紐づけられた管理名へ

どうやって辿り着けるのかという、その方法の存在だ。

方法が一度見つかれば、次の死は特別なことではなくなる。

池の死は悲劇であると同時に、盤面に置かれた最初の証拠であり、

最初の技術実演でもあった。

 

オレは放課後の教室で、その沈んだ空気を一通り観察したあと、

自分から動くべきだと判断した。

池の死について感情的に騒ぎ立てることに意味はない。

犯人探しを叫ぶだけなら誰にでもできる。

しかし本当に必要なのは、犯人がどうやって池の管理名を暴いたのか、

その経路を特定することだ。

 

そこに辿り着けなければ、同じ手口で次の犠牲者が出る。

逆に言えば、そこに辿り着ければ、犯人の輪郭は自然と浮かび上がる。

問題は、そのために使うべき駒の選び方だった。

 

堀北は理性と統率には向いているが、

こういう生徒間の湿った会話の中に自然に潜り込み、

相手に何の警戒も抱かせずに情報を引き出すことには向いていない。

平田は人望があり、広く話を集めることはできるが、

相手に応じて温度や距離感を変え、

そこに小さな罠を紛れ込ませながら本音だけを抜き出すような真似は不得手だ。

そうなると、選択肢はほぼひとつしかなかった。

 

「少し話せるか、櫛田」

 

オレがそう声をかけたとき、帰り支度を整えかけていた櫛田は、

いつも通りの柔らかい笑みを浮かべて振り返った。

その笑顔はあまりに普段通りで、

一見しただけなら池の死や学園全体に広がっている異常な緊張など、

何ひとつ彼女の表面を乱していないようにも見える。

しかし、そういう人間ほど、むしろ内側では状況を

正確に見ているものだとオレは知っている。

 

櫛田は善人を演じることに長けているだけの女ではない。

人の視線の揺れ方、言葉の選び方、沈黙の意味、

声の明るさと感情の濁りの差異、そうしたものに異様なほど敏感で、

それを会話の中で自然に利用する才能を持っている。

今のような状況で、その能力は極めて有効だ。

 

「いいよ、綾小路くん。どうしたの」

「池のことだ」

 

その一言で、櫛田の笑顔が完全に消えはしなかったが、

わずかにだけ輪郭を変えた。明るさを保ったまま、奥行きが一段深くなる。

軽い話題ではないと理解した表情だ。

 

「……うん」

「誰がやったと思う」

 

オレがそう言うと、櫛田は少し驚いたように目を瞬かせたあと、

すぐに笑ってごまかすこともせず、

机の端に腰を預けながら、ほんの数秒だけ考え込んだ。

その短い沈黙からも分かる。

こいつは既に、ただ怖がっているだけではなく、

自分なりに状況を分析し始めている。

 

「正直に言うと、まだ分からない。でもね、犯人そのものを探すより、

どうやって池くんの管理名に辿り着いたのかを探す方が早いと思う」

「同じ考えだ」

「だよね」

 

櫛田はそこで初めて、少しだけ安心したように笑った。

自分だけがそこに着目しているわけではなかったことに安心したのか、

それともオレが最初からその方向で考えていたことに納得したのかは分からないが、

少なくとも話は早い。

 

「一緒にやるか」

 

そう言うと、櫛田はすぐには頷かなかった。

代わりにオレの目をまっすぐ見た。

人懐こい笑顔の奥に、計るような色が混じる。

 

「条件がある」

「何だ」

「私にまで隠し事をしないこと」

「全部は無理だ」

「やっぱり」

 

苦笑した櫛田だったが、それは最初から分かっていたという顔でもあった。

 

「じゃあ、せめて私を捨て駒みたいに使わないこと」

「そのつもりはない」

「……分かった」

 

そこでようやく、櫛田は小さく息を吐き、いつもの柔らかな調子で言った。

 

「やろっか。綾小路くんとなら、

たぶん池くんを殺した人間の足跡、見つけられる気がする」

 

最初にやるべきことは、池の行動を事故のように漫然と眺め直すことではなく、

時系列を細かく分解して、どの瞬間に管理名へ繋がる糸が

外へ漏れたのかを洗い出すことだった。池は慎重な人間ではない。

むしろ自分の手元にある情報を雑に扱い、人との距離が近く、

何でもその場の軽さで喋ってしまうタイプだ。

 

だからこそ最初の犠牲者に選ばれた可能性が高いと考えられる。

だが、単に隙が多いから殺された、

で終わってしまえば、その先の防ぎようがない。

必要なのは、池の「どの隙」が鍵になったのかを特定することだ。

 

翌日、櫛田は早速動き始めた。

ただし、動いていること自体を誰にも悟らせない形で。

これが堀北や平田には真似できない。

櫛田は調査をしているのではなく、普段通りに誰とでも話しているだけに見える。

朝、席に着いたばかりの女子へ軽い調子で「昨日眠れた?」と訊き、

そこから自然に「池くんのこと、まだ信じられないよね」という流れを作る。

 

休み時間には隣の列の男子に

「池くんって昼前、何か騒いでなかったっけ」と明るく振って、

相手が警戒を持つ前に答えやすい記憶だけを掬い上げる。

昼休みに平田の周囲に集まる生徒たちの輪にも、

重い話を共有する一人として自然に入り込み、

「あの時、誰が近くにいたんだろうね」と

極めて当たり障りのない形で話題を滑らせる。

本人たちはただ不安を整理するための雑談だと思って喋っているが、

櫛田はそこで断片だけを選んで持ち帰ってくる。

しかも、相手に「自分は有益な情報を渡した」と自覚させないまま。

 

放課後、人気のない特別棟へ繋がる渡り廊下で、

櫛田はオレに最初の成果を報告した。

 

「やっぱり、昼休み前の端末が鍵だと思う」

「何が出た」

「池くん、昔の写真か何かを端末で開いてたっぽいの。

しかも一人で見てたんじゃなくて、近くにいた人間に見えるくらいの雑さで」

「誰が近くにいた」

「そこが面白いんだよね」

 

櫛田は少しだけ声を落とした。

 

「何人かいるけど、一番名前が出てきたのは橋本くん」

 

橋本か、とオレは頭の中で盤面を組み替える。

坂柳のクラスにいる橋本正義は、情報に対する嗅覚が鋭く、軽薄さを装いながら、

実際には人間関係の綻びや小さな秘密を拾うことに長けたタイプだ。

しかも坂柳の側近のひとりでもある。橋本が池の端末を覗き見していた、

あるいは少なくとも視界に入る位置にいたとすれば、

その先に坂柳有栖の影が伸びてくるのは自然だった。

 

「橋本本人が動いたと思うか」

「単独ではないと思う」

 

櫛田は即答した。

 

「橋本くんって、自分で全部やるタイプじゃなくて、

誰かに渡すための情報を取る方が得意そうだし」

「同感だ」

「それにね」

 

そこで櫛田は一拍置いた。

 

「昨日から、橋本くん、落ち着きすぎてる」

「それだけで根拠になるか」

「なるよ。少なくとも私には」

 

櫛田は珍しく、はっきりと断言した。

「怖がってる人の会話って、どこかに余計な確認が混じるの。

本当にそうなのかなとか次は誰だろうとか。

でも橋本くん、そういう揺れ方をしてない。

もう先に一段進んだ場所から見てる感じ。

ああいうのってね、何かを知ってる人の空気なの」

 

感覚的な表現だが、

櫛田が人間の微細な空気を読む能力を考えれば、軽視はできない。

むしろ数字やログより早く、そこから真実に近づくこともある。

 

さらに二日かけて、オレたちは池の周辺の細部を詰めていった。

池が端末で見ていたのは、学園の公式機能ではなく、

外部から取り込まれた古いデータらしいこと。写真か連絡先か、

あるいは過去の保存ファイルの断片かまでは断定できなかったが、

少なくともそこに「阿辺という文字が映っていた可能性が高いこと。

何人かの証言から、池は「なんでこれ残ってんだよ」

「昔のやつじゃねえか」などと口にしていたこと。

その際、橋本が近くを通っていた、

あるいは一瞬足を止めて視線を向けていたらしいこと。

断片は細く、一本ずつでは決定打にならない。

しかしそれらを束ねていくと、見えてくる構図があった。

橋本は、池の端末上に偶然浮かび上がった「阿辺」という断片を見た。

だが、阿辺だけでは管理名を特定できない。

そこで必要になるのが、学園側の管理名データに近づく何らかの補助経路だ。

 

「完全な不正アクセスじゃないかもしれない」

 

夜、寮の廊下の窓際でオレがそう言うと、隣に立っていた櫛田はすぐに反応した。

 

「候補の絞り込み?」

「そうだ。全部の管理名一覧に触る必要はない。

阿辺という断片と、池寛治という表向きの名、

それに学年・クラス・顔写真の照合ができるなら、絞れる」

「でも、普通の生徒にそんな権限ある?」

「普通の生徒にはない。

だが、限定的な情報へ触れられる立場の人間ならいるかもしれない」

「橋本くんが?」

「橋本本人というより、その先だ」

 

そこまで言ったところで、

櫛田はオレより先に答えに辿り着いていたらしく、静かに言った。

 

「坂柳有栖」

 

その名前が出た瞬間、夜の空気が少しだけ冷たく感じられた。

坂柳ならやる。そこに躊躇いはない。殺すこと自体を目的にするわけではなく、

必要な一手として最も合理的な一点を選び、涼しい顔で実行する。

そのうえで、最初の犠牲者として

池を選ぶことの意味まで計算していてもおかしくない。

池の死はクラスに強い恐怖を与えるが、

堀北や平田のような中枢を失う場合ほど急激にクラスが崩壊するわけではない。

衝撃は十分、混乱も広がる。しかし盤面はまだ残る。

つまり、機能確認と威嚇、そして情報戦の開始を宣言するには都合が良すぎる。

 

「証拠が欲しい」

 

オレがそう言うと、櫛田は少しだけ笑った。

 

「証拠ね。じゃあ、会話で崩そうか」

「崩せるのか」

「橋本くんからなら、たぶん」

 

その笑い方は明るいのに、中身は鋭い。

櫛田はこういうとき、人の守っているつもりのラインを会話の温度差だけで壊す。

 

 

翌日の昼休み、櫛田は橋本へ接触した。

もちろん、それもあくまで自然な形でだ。

中庭のベンチ付近で何人かが立ち話をしているところへ、

たまたま通りかかったような顔で加わり、池の話題に触れ、

そこから少しずつ「怖いよね」「管理名なんてどうやって分かるんだろう」

「偶然ってあるのかな」と、誰でも口にしそうな不安を共有する。

橋本も最初は軽く流していたらしい。「いやー、怖いよね」

「俺もマジ勘弁だわ」などと普段通りの調子で。

しかし櫛田はそこで質問を深めない。

代わりに一度、自分の方から少しだけ隙を見せる。

「私だったら、もし断片だけでも名前が見えたら、

それが頭から離れなくなるかも」と。

これは告白ではなく、橋本に「そのレベルのことなら考えてもおかしくない」と

安心させるための撒き餌だ。

相手が自分の思考を異常だと思っているうちは口が固いが、

「みんな同じような想像をしている」と感じれば、

人は少しだけ踏み込んだ言葉を漏らす。

 

実際、橋本は漏らしたらしい。

 

「断片って、案外バカにできないんだよね」

 

それが、櫛田の持ち帰った言葉だった。

たったそれだけだが、十分だった。

橋本は何も知らない人間では言えない方向へ、既に思考を進めている。

断片情報から管理名へ辿り着けることを、知っている側の口ぶりだった。

 

その夜、櫛田はオレの部屋に来た。

もちろん長居するつもりはないし、見られることも避けているのだろう、

ドアを閉めたまま廊下側へ神経を向ける癖が抜けていない。

それでも、今はそうした警戒そのものが正しい。

 

「たぶん、橋本くんは自分で全部知ってるわけじゃない」

 

そう切り出した櫛田は、部屋の中央までは入らず、

すぐ帰る前提の位置に立ったまま話を続けた。

 

「でも、断片から辿り着ける方法があるってことは知ってる。

しかも、それを私に言ったとき、自分で言い過ぎたって顔を一瞬した」

「なら、その方法は坂柳経由だ」

「うん。橋本くんって、自分が仕掛けたことを自慢したいタイプではあるけど、

背後の主導権までは奪いたがらない感じがあるの。

だからあれは、自分の手柄を半分だけ匂わせてるんじゃなくて、

知ってる側の空気が漏れたんだと思う」

「坂柳へ会いに行く」

 

オレがそう言うと、櫛田は意外そうな顔をした。

 

「もう?」

「これ以上橋本を揺さぶると、向こうへ警戒が伝わる」

「それはそうだけど……坂柳さん、簡単に口を割るかな」

「割らせる必要はない。反応を見ればいい」

「綾小路くんらしい」

 

櫛田はそう言って、ほんの少しだけ笑った。

しかし、その笑みの奥には別の感情もある。

池の死に対する怒りか、先に一手打たれたことへの苛立ちか、

あるいは坂柳のようなタイプへの本能的な嫌悪か。

そのどれか、あるいは全部だろう。

 

 

翌日の放課後、オレは櫛田とともに特別教室棟の一角へ向かった。

坂柳がよく使用する静かな教室。こちらから呼び出したわけではないが、

あいつならオレたちの動きも、橋本の空気も、櫛田の接触も、

かなり前の時点で把握している可能性が高い。

実際、扉を開けた先にいた坂柳有栖は、

驚きもせず、いつも通りの柔らかな笑みでこちらを迎えた。

 

「お二人でお越しになるとは思いませんでした」

 

杖を突いたその姿は相変わらず華奢で、声音も穏やかで、

教室に差し込む夕方の光の中ではむしろ無害にすら見える。

だが、その穏やかさの内側にあるものを知っていれば、

そんな印象には到底騙されない。

 

「話がある」

 

オレがそう言うと、坂柳は楽しそうに首を傾げた。

 

「池くんの件、でしょうか」

 

最初からそこを口にしてくる時点で、

向こうもこの場の目的を完全に理解している。

 

「おまえがやったのか」

 

単刀直入に問うと、坂柳はすぐには答えず、

代わりに櫛田へちらりと視線を移した。

その一瞥だけで、まるで

「なるほど、ここまで来たのはあなたの働きも大きかったのですね」

とでも言うような、妙に納得した笑みが浮かぶ。

 

「どうしてそう思われますか?」

「池の端末に表示された断片。そこから学園側の管理データへ近づける補助線。

橋本。全部を一本に繋げたとき、最も自然に中心へ来るのがおまえだ」

「なるほど。とても綺麗な推論です」

 

否定はしない。その時点で、半分以上は認めているようなものだった。

 

「阿辺太樹」

 

オレがその名を出すと、坂柳の目の奥に、ほんのわずかだけ鋭さが差した。

 

「池寛治の管理名だ」

「ええ」

 

今度はあっさり頷いた。

 

「どうやって辿り着いた」

「辿り着いた、というよりは、見えていた断片を整えただけです」

 

坂柳はそう言い、まるで授業の解説でもするかのような、

落ち着いた口調で続けた。

 

「池くんは不用意でした。自分でも意識しないまま、

過去の保存データを端末で開き、

そこに映っていた旧い情報の一部を周囲へ晒した。

断片だけなら、ほとんど価値はありません。

しかし、断片がどこに属する情報かを推定し、

そこへ近づける別の手段がある場合、話は変わります」

「橋本を使ったな」

「使った、とは少々乱暴ですね」

 

坂柳は微笑んだ。

 

「彼は彼なりに有能です。

私が方向を与え、彼が拾い、私が選別した。役割分担と言うべきでしょう」

「学園システムにはどう触れた」

「そこまでお話しする義理はありません」

「限定的な照合か」

 

そう言うと、坂柳は否定しなかった。

 

「完全な侵入は、さすがにリスクが高すぎますから」

 

やはりそうか。橋本が見た断片は、

おそらく「阿辺」あるいはそれに近い一部だった。

それをもとに、池寛治という在籍データ、学年、クラス、顔写真など、

複数の周辺情報を組み合わせる。そして何らかの限定権限、

もしくは照会経路を使って候補を絞る。

総当たりではなく、断片から照準を合わせる形だ。

つまり管理名は、外部から完全に守られているわけではなく、

条件が揃えば限定的に手を伸ばせる脆さがある。

坂柳はそこを見つけ、橋本の拾った断片を通して突いたのだ。

 

「最初の標的に池を選んだ理由は」

 

オレがそう訊くと、坂柳は今度こそ迷わず答えた。

 

「最も効率的だったからです」

「効率?」

「はい」

 

その答えはどこまでも冷静だった。

 

「堀北さんや平田くんのような中核を最初に失えば、

Bクラスは混乱どころか防御姿勢へ固まり、情報の流れがかえって鈍るでしょう。

しかし池くんは違う。彼の死は、クラス全体に十分な恐怖を与えます。

それでいて、機能停止には至らない。生徒たちは怯えながらも、

考え、動き、疑い始める。つまり情報戦が加速するのです」

「試し撃ちじゃなく、盤面を動かすための一手か」

「その通りです」

 

坂柳は穏やかに頷いた。

 

「デスノートとは、名前を知っている者だけが人を殺せる道具ではありません。

誰もが名前を知る方法を求め始めるよう盤面を設計する道具でもあるのです」

 

その言葉を聞いたとき、櫛田がほんの少しだけ息を呑んだのが分かった。

櫛田は坂柳を見ている。表情は穏やかなままだが、

その目の奥には明らかな嫌悪と警戒があった。

相手が単に冷酷なのではなく、人の恐怖の流れを設計し、

それを戦略に組み込む種類の人間だと、はっきり理解したからだろう。

 

「あなた、最低だね」

 

珍しく、櫛田が感情を滲ませた。

坂柳はその言葉にすら微笑みを崩さなかった。

 

「褒め言葉として受け取っておきます」

「池くんは、人だよ」

「ええ、知っています」

「なのに」

「だからこそ価値があるのです」

 

その一言で、教室の空気がさらに冷たくなる。坂柳は悪びれない。

そこに良心の欠片を期待するだけ無駄だと分かるほど、

あまりに自然に言ってのける。

オレは櫛田がこれ以上感情で踏み込む前に、会話の軸を戻した。

 

「つまり、断片情報から管理名へ辿り着ける経路があると証明したわけだ」

「証明、と言うほど大げさではありません」

「他クラスも同じ方法に気づく」

「いずれは」

 

坂柳は静かに答えた。

 

「ですが、最初に成功例を出した者が得る優位は大きい。

皆が同じ方向を向き始める頃には、

すでに先行している者が一歩も二歩も前へ出ている」

「自分のことか」

「さあ、どうでしょう」

 

その笑みは、肯定に等しかった。

 

教室を出たあとも、櫛田はすぐには口を開かなかった。

特別教室棟の廊下を並んで歩き、階段を下り、

人気の少ない渡り廊下まで出て、ようやく彼女は息を吐くように言った。

 

「ほんとにやってたんだ」

「ああ」

「しかも、全然迷ってなかった」

「坂柳らしい」

「らしいで済ませたくないんだけど」

 

そう言いながら、櫛田は手すりに指先を置き、薄く笑った。

その笑みはいつもの対人用の明るいものではなく、どこか乾いている。

 

「でも、これで分かったね」

「何が」

「管理名って、守るだけじゃダメなんだよ」

 

オレは黙って先を促した。

 

「だって守る側に回ってるだけだと、ずっと後手になるから。

相手がどうやって暴くのかを先に知って、

同じ道筋を逆から塞がなきゃいけない。それに……」

 

櫛田はそこで一瞬だけ視線を落とした。

 

「人って、名前そのものを奪われるんじゃなくて、

名前に辿り着くための会話の中で崩れるんだと思う」

 

その感覚は、櫛田にしか言えない種類の真実だった。

デスノートは最後に書くだけだ。実際の殺しは、その前の無数の雑談、

気の緩み、過去への不用意な言及、安心させる微笑み、何気ない共感、

そのすべての積み重ねの先にある。池はノートに書かれて死んだ。

だが、池を本当に殺したのは、もっと前の段階――気を抜いて端末を見せ、

過去の断片を晒し、誰かに「阿辺」という文字を渡してしまった、

その瞬間だったとも言える。

 

その晩、オレは改めて整理した。

池の死に至る流れ。池が端末に残っていた古い情報を開いたこと。

橋本がそこから断片を拾ったこと。坂柳が学園管理データへ直接ではなく、

限定的な照合で絞り込んだこと。そして最も重要なのは、

それらが偶発的な幸運ではなく、誰かが断片の価値を理解し、

それを管理名へ繋げる発想を持っていたからこそ成立したということだ。

つまり、この試験の本当の脅威は、

管理名を知る方法が特定の天才だけのものではなく、

一度構造が見えれば、他のクラスも模倣できるという点にある。

会話から過去の断片を抜き出す者。端末から文字の一部を拾う者。

教師やシステム周辺の限定権限に近づく者。

そうした役割を分担すれば、いずれ他クラスも池と同じ手順を再現し始める。

坂柳はその最初の成功者になっただけだ。

そして最初の成功者であることそれ自体が、大きな優位になる。

 

翌日、教室に入ると、昨日までとは少し違う緊張が流れていた。

池の死を「突発的な悲劇」として受け止めていた空気が、

徐々に「再現可能な手口」として認識され始めている。

まだ何も知らないはずのクラスメイトたちでさえ、

本能的にそう感じ取っているのかもしれない。

誰も端末を机に無造作に置かない。

誰も過去の話を軽々しくしない。何気ない会話の中でさえ、

相手がどこまで探りを入れているのかを気にするような、

浅い疑心が広がり始めていた。

池の死は終わった出来事ではない。

今も、教室全体の行動をじわじわ書き換え続けている。

 

「おはよ、綾小路くん」

 

櫛田がいつもの調子で声をかけてくる。

だが、その笑顔の裏でこいつもまた、

昨日までとは違う視点で教室を見ているはずだ。

誰が不用意か。誰が沈黙しすぎているか。誰が他人の端末を気にしているか。

誰が会話の断片に過敏に反応するか。

今や教室そのものが、巨大な観察対象になっている。

 

「おはよう」

 

それだけ返すと、櫛田はほんの一瞬だけ目を細め、

オレにだけ分かる程度に小さく囁いた。

 

「次が出る前に、手を打たないとね」

 

その通りだった。坂柳は、

自分が最初の一手を打ったことで何が起こるかを理解している。

管理名は暴ける。断片には価値がある。そう学園全体へ教えてしまった。

なら、次の死は坂柳の手によるものとは限らない。

むしろ、これから本当に危険になるのは、坂柳に刺激されて動き出す他の誰かだ。

恐怖に耐えかねて先制しようとする者、

自分のクラスを守るために必要悪へ踏み込む者、

あるいは単純に盤面の遅れを取り戻そうとする者。

最初の一人を殺したことで、坂柳は名前の価値を証明しただけでなく、

名前を巡る戦争の始まりまで宣言してしまったのだ。

 

池寛治はもういない。

だが、彼の死はただ喪失としてそこに残るのではなく、

この学園の全員へ静かに命令を下している。気を抜くな。過去を晒すな。

会話のひとつひとつを疑え。相手の笑顔を信じるな。

名前とは、もはや自分を示す記号ではなく、知った者が殺せる急所だ、と。

 

その現実の中で、オレと櫛田は同じものを見ていた。

坂柳有栖という最初の成功者の姿を通して、

この試験が本当は何を競わせるものなのかを。

殺しの道具としてのデスノートではない。

会話から断片を抜き取り、断片を情報へ変え、

情報を管理名へ繋げ、管理名を死へ変換する、

その一連の流れをどれだけ早く、どれだけ正確に構築できるか。

その技術こそが、この試験の本体だ。

 

そしてそれを最も早く理解したのが坂柳であり、

それを最も危険な形で実演されたのが池だった。

 

オレは教室の中で、以前よりもさらに慎重に人の動きを見るようになった。

櫛田は会話の海に潜り、オレはその海面にできる微かな波紋を読む。

 

そうするしかない。なぜなら、次に消える名前は、

もう池のように偶然拾われる断片から始まるとは限らないからだ。

坂柳が示した方法を学んだ誰かが、今度はもっと意図的に、

もっと狡猾に、もっと静かに、別の管理名へ手を伸ばす。

 

戦争はまだ始まったばかりで、しかもその戦場は教室でも廊下でもなく、

人と人との会話そのものの中にある。

笑顔の中に探りがあり、共感の中に照会があり、

雑談の中に殺意へ繋がる断片が潜む。

そんな世界で生き残るには、自分の名前を守るだけでは足りない。

誰がどのように名前へ近づくのか、その道筋そのものを先回りして読むしかない。

 

池の死は、そのことを教えるにはあまりにも高すぎる代償だった。

しかし、もう失われたものを悔やむだけでは遅い。

次を止めるには、オレたちもまた、同じ土俵で戦わなければならない。




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