龍園翔が綾小路清隆へ向ける執着は、坂柳有栖の死を境にして、
もはや挑発や興味の範囲を完全に越えていた。
それは最初、いつもの龍園らしい、
余裕を装った嫌味や軽い煽りのように見えていたが、
時間が経つにつれて、その内側にあるものが明らかに変質していく。
綾小路を見かければ声をかける。
返事がなくても笑う。
視線を逸らされても気にしない。
だがその笑いの奥では、常に何かを計っている。
坂柳を消せる人間が学年内にいる。
しかもそれが綾小路である可能性が極めて高い。
その結論に、龍園はもうほとんど辿り着いていた。
証拠を揃えるというより、
自分の確信を現実へ変えるための機会を探している段階だった。
そして龍園翔という男は、一度そう決めた相手を、決して放ってはおかない。
櫛田桔梗を切り終えた綾小路にとって、ようやく盤面は少しだけ単純になっていた。
背後から自分の管理名へ迫ってくる観察者は、少なくとも最も危険な一本を失った。
その代わりに、正面の敵だけが濃く見えるようになる。
龍園翔。
力で押し、支配で縛り、
人の恐怖を利用して情報を吐かせることに何のためらいもない男。
しかも今の龍園は、ただ綾小路の管理名を狙っているわけではない。
あの屋上で、自分の支配が通じなかった相手。
どれだけ暴力を向けても折れず、
最後には逆に自分を見下ろすような静けさを見せた相手。
その記憶が、龍園の中でずっと燻り続けていた。
坂柳の死によって、その燻りはとうとう形を持つ。
綾小路は動いた。
なら、今度こそ自分が叩き潰す。
そういう種類の執念が、龍園の行動の端々から滲み始めていた。
最初の接触は、あまりにも露骨だった。
放課後、寮へ戻る途中の校舎裏。
普段なら人通りの少ない、
監視カメラの位置にもわずかな死角が生まれる細い通路で、
綾小路は前後から挟まれる形になった。
石崎大地、山田アルベルト、伊吹澪。
そこまでは予想の範囲内だった。
だが、その後ろにさらに見慣れない武闘派の男子生徒が二人、
無言で立っているのを見たとき、
綾小路は龍園が今回は最初から数で押し切るつもりなのだと理解した。
龍園自身は少し離れた場所に立ち、
壁へ背を預けるようにして綾小路を見ていた。
笑っていた。
だがその笑みは楽しそうというより、
ようやくこの場を用意できたことへの高揚に近い。
「懐かしいだろ、綾小路」
龍園がゆっくり口を開く。
「前は屋上だったが、今回はちょっと趣向を変えてやった」
綾小路は何も答えない。
石崎が苛立ったように一歩前へ出る。
「いくら綾小路でも、龍園さんを無視するのは許さねえ……」
「落ち着け、石崎」
龍園は軽く手を上げる。
「今日はちゃんと話もしてやるよ」
その言い方が既に嘘だった。
話し合いのために人数を増やし、逃げ道を塞ぎ、
監視カメラの死角へ誘導する必要はない。
龍園は最初から暴力で押すつもりでいる。
ただし、それを単なる集団暴行ではなく、
あくまで屋上のリベンジという物語にしたいのだろう。
自分の中でついた傷に、綺麗な形で決着をつけたい。
その歪んだ執着が見える。
「お前、やっただろ」
龍園の声が少し低くなる。
「坂柳を」
「証拠は」
綾小路が短く返すと、龍園はむしろ愉快そうに笑った。
「その答え方だよ」
「答えになってない」
「なるんだよ、俺にはな」
龍園は壁から背を離し、ゆっくり近づいてきた。
「俺はな、証拠を見て確信するタイプじゃねえ」
「知っている」
「匂いだ」
龍園はそう言って、自分の胸元を指で軽く叩いた。
「お前からは、あの女を消した側の匂いがする」
石崎たちは意味が分からないのか、龍園の言葉を黙って聞いている。
だが龍園本人は本気だった。
この男にとっては、それで十分なのだ。
「だから確かめてやる」
次の瞬間、石崎が先に動いた。
綾小路は最初の一手だけで、今回の制圧の方針を決めた。
倒すこと自体は難しくない。
問題は、どこまで見せるかだ。
龍園に対して完全に優位を再確認させる必要はある。
だが、あまりに異常な動きを見せすぎれば、
逆にこちらの異質さをまた別の形で印象づけてしまう。
必要なのは、短時間で、確実に、相手の人数の優位を無意味にすること。
その一点だった。
石崎の突進は直線的すぎた。
勢いはあるが、怒りで視野が狭い。
綾小路は半歩だけ位置をずらし、
体勢の流れに合わせるように肩を使って進路を切る。
石崎は思ったより抵抗なく前へ泳ぎ、そのまま隣の壁へ体をぶつけかける。
そこへ間髪入れずにアルベルトが入ってくるが、
巨体ゆえに通路の幅を自分で圧迫しており、
後ろの二人が十分な位置を取れない。
綾小路は正面から受けず、
アルベルトの踏み込みの外へ回るように重心を逸らし、
その動きに伊吹の突進が重なる瞬間だけを待った。
伊吹は速いが、直線で入る癖がある。
アルベルトの肩が視界を遮った刹那、綾小路は伊吹の間合いの外へ抜け、
逆にアルベルトと伊吹を同じ線上へ置く。
それだけで、数の優位は一時的に消える。
後ろの武闘派二人が入ってきても、通路の狭さが彼らの足を止める。
龍園が今回人数を増やしたのは、確かに前回の屋上の反省からだろう。
だが場所の取り方が中途半端だった。
監視カメラの死角を優先したことで、逆に動ける幅が狭くなっている。
綾小路はその一点だけで、五人分の圧力を二人分程度まで削いでいた。
数十秒後、床へ膝をついた石崎が荒く息を吐き、
伊吹が舌打ちしながら距離を取った時点で、形勢は完全に決まっていた。
アルベルトはまだ立っていたが、無理に前へ出れば
更に自分たちの連携が崩れると理解したのか、一歩引いて綾小路を睨んでいる。
増員された二人も、思ったほど簡単に押し潰せる相手ではないと
ようやく分かったのか、軽々しく飛び込めなくなっていた。
龍園だけが、最初よりもむしろ笑みを濃くしていた。
「やっぱりな」
龍園が呟く。
「そう来ると思ったぜ」
綾小路は息一つ乱していない。
それが龍園には何より面白かったらしい。
「お前、隠す気もなくなってきたな」
「最初から隠していない」
「嘘つけ」
龍園は笑う。
「前より少しだけ、出し方が変わった」
そこに気づくあたり、この男はやはり厄介だった。
櫛田を処理したことで背後への意識が減り、
目の前の敵へ対処する余白が増えた。
それが立ち回りのどこかに出ているのだろう。
「今日のところはいい」
龍園が手を上げる。
石崎が驚いたように顔を上げた。
「龍園さん?」
「引け」
「で、でも!」
「引けって言ってんだ」
低い声だった。
石崎は不満を顔に出しながらも、従う。
龍園は綾小路から目を逸らさない。
「まだ遊べる」
その一言を残し、龍園は踵を返した。
綾小路はその背中を見送りながら、確信を深める。
龍園はもう、ただ綾小路を殴りたいわけではない。
管理名へ届くかどうか、そこまで含めて綾小路を落とすつもりだ。
ならば次はこちらも、龍園の管理名を押さえに行く必要がある。
龍園翔の管理名を知る方法は、坂柳有栖の時とはまるで違う。
坂柳は学校側が残した優秀者の記録が首を絞めた。
だが龍園は、本人が用心深い。
過去データや私物から雑に漏れるタイプではない。
むしろ龍園の場合、痕跡は自分の周囲に散る。
脅した相手。
従わせた舎弟。
揉み消しに使われた記録。
呼び出し。
同行者。
暴力の後始末。
龍園が支配した人間たちの側にだけ、
龍園本人へ繋がる別名や不自然な空白が偏って残っている。
綾小路はそこを掘ることにした。
最初に当たったのは、被害者側の証言だった。
坂柳クラスの生徒。
一之瀬クラスの生徒。
龍園クラスに呼び出されたことのある者。
直接龍園に暴力を受けたわけではなくても、
石崎や伊吹を通じて圧力をかけられた経験のある者。
そういう人間たちは、表向きには何も残していないようでいて、
実際には小さな避難用のメモを持っていることが多い。
誰に呼び出されたか。
いつ何処へ行けと言われたか。
どういう言い回しをされたか。
すぐ消したつもりのメッセージの断片。
綾小路はそれらを集めた。
坂柳クラスの生徒からは、
龍園に近い人間が使っていた共有フォルダの旧管理表に、
不自然な伏せ字の名が混じっていたという話が出た。
一之瀬クラスの生徒からは、脅しに使われたメッセージの断片に、
龍園本人を直接示さない別名の頭文字が残っていたという情報が得られた。
どれも単独では弱い。
しかし龍園は支配の過程で、自分ではなく周囲の人間に処理をやらせる。
その分、舎弟側に痕跡が残る。
石崎は特に分かりやすかった。
頭が回らない。
勢いと忠誠心で動くぶん、処理が雑だ。
削除したつもりのメッセージの残骸。
呼び出し相手の名前を伏せたつもりで伏せ切れていない管理表。
暴力沙汰の後に使った保健室の記録と、
器物破損の申請が微妙に噛み合わない日付。
そうしたものを綾小路は一つずつ拾っていく。
伊吹もまた、石崎とは別方向で雑だった。
感情が先に立つため、必要以上に動く。
必要以上に動く人間は、誰かのために動いた痕跡を思ったより残す。
特に伊吹は、龍園に従っているようでいて、
内心の苛立ちを隠しきれないことが多い。
その苛立ちが、逆に龍園との接触頻度や
同行のタイミングを浮かび上がらせる。
綾小路はそこから、龍園本人ではなく、
龍園絡みの別名が何度も現れる場所を特定し始めた。
さらに綾小路は、石崎の持ち物の隙を突いて小型の盗聴器を取り付けた。
これは龍園自身の端末や私物に仕掛けるより遥かに安全で、かつ効果的だった。
龍園は警戒する。
だが石崎は違う。
綾小路を叩く機会があると思えば、足元を見ない。
実際、二度目の接触のあと、石崎が怒りに任せて綾小路へ詰め寄った瞬間、
その制服の内ポケット付近へ小さな機器を滑り込ませることは、
綾小路にとって難しくなかった。
そこから先は待つだけだった。
石崎の声。
伊吹の舌打ち。
アルベルトの低い返答。
そして、ときおり混じる龍園の命令。
全部が丸見えになるわけではない。
だが断片は取れる。
「例の名簿」
「保健室の伏せ字」
「石崎、お前またあの名前で保存してんじゃねえ」
そんな会話の切れ端が、綾小路の手元へ静かに落ちてくる。
特に決定的だったのは、龍園本人が石崎を叱るように
「その別名を口にするな」と苛立った一瞬だった。
名前そのものは完全には取れない。
だが音の流れ、伊吹の反応、直後にアルベルトが言い直した頭文字。
それらを束ねると、龍園本人へ結びつく別名義の輪郭がかなり鮮明になる。
同時に、保健室の記録も効いた。
龍園クラスの人間が暴力絡みで手当てを受けた日。
器物破損の申請が出た日。
呼び出しを受けた被害者の行動ログ。
そこに、通称とは一致しない伏せ字が繰り返し現れる。
学校側は表向き、中立を装う。
だが実際には暴力沙汰を処理するため、内部用の整理コードを残している。
そのコードの一部に、龍園本人へだけ結びつく別名の断片が紛れていた。
龍園は自分一人で強いのではない。
人を脅し、従わせ、後始末を誰かに押しつけ、
誰かの記録に自分の影を残してきたからこそ強い。
そしてその履歴そのものが、今になって首を絞めている。
綾小路はそこに、龍園らしい崩れ方を見る。
支配した数だけ、痕跡が増える。
痕跡が増えた分だけ、管理名への線が濃くなる。
それが龍園翔の急所だった。
龍園はその間にも、綾小路への接触をやめなかった。
三度目は寮の裏手だった。
四度目は体育館脇。
どちらも監視カメラの死角や、人目の薄い場所が選ばれていた。
しかも回を追うごとに人数が増える。
前回の失敗を踏まえ、龍園は位置取りを変え、包囲の仕方も変え、
綾小路の逃げ道を先に消すようにしてきた。
だが、それでも綾小路を止めきれない。
むしろ龍園は、綾小路がその都度きっちり制圧してくることに、
苛立ちより興奮を強めているように見えた。
「ああ、やっぱりお前だ」
三度目の接触のあと、石崎が倒れたまま息を荒げる横で、龍園は笑っていた。
「やっと、本物が出てきたって感じだな」
「お前の趣味には付き合わない」
「付き合ってるだろ、もう十分」
龍園の瞳は爛々としている。
危険だった。
このままでは、龍園は綾小路を倒すことそれ自体を、
自分の生死より優先しかねない。
そういう種類の男だ。
だからこそ、ここで終わらせる必要があった。
決定的な材料が揃ったのは、五度目の盗聴ログを整理していた夜だった。
石崎が伊吹に向かって、
「あの名前、また使うなって龍園さんに言われただろ」と苛立ち混じりに言い返し、
伊吹が「うるさい、あんたが勝手にメモ残したからでしょ」と吐き捨てる。
アルベルトが英語で正しい呼び方の一部を言いかけ、石崎が慌てて止める。
音は不鮮明だった。
だが、これまでに拾った保健室記録、共有フォルダの古い管理表、
呼び出しメッセージの頭文字と重ねると、一つの名前へ綺麗に収束する。
龍園翔の管理名。
本人が用心深く消したつもりだったもの。
しかし舎弟の雑さ、被害者の断片的な記録、暴力の後始末、
器物破損の書類、その全てが回り回って一つの名へ繋がる。
綾小路は、その名前を前にして、坂柳のときとはまた別の感覚を覚えた。
坂柳は学校が保存した記録に殺された。
龍園は、自分が人を支配してきた歴史そのものに殺される。
それは、あまりにも龍園らしい終わり方だった。
最後の接触は、龍園の方から仕掛けてきた。
屋上だった。
まるで最初のあの夜の焼き直しのように。
ただし今回は、龍園の側が最初からリベンジだと公言していた。
監視カメラの位置を確認し、屋上への導線を押さえ、
石崎、アルベルト、伊吹に加え、
さらに増員した武闘派の男子生徒たちまで配している。
数で押し、逃げ道を塞ぎ、今度こそ綾小路を跪かせる。
その意図はあまりにも明白だった。
夜の屋上に吹く風は冷たく、フェンスの向こうに見える校舎の明かりが遠い。
龍園はその中心に立ち、前回よりもずっと高揚した目で綾小路を見ていた。
「来たな」
「お前が呼んだ」
「そうだ」
龍園は笑う。
「やっぱここが似合うと思ってよ」
石崎たちが半円を描くように囲む。
増員された連中も位置を取る。
龍園は一歩も前へ出ない。
今回は最初から、全員で叩き潰すつもりだ。
「今日は遊びじゃねえ」
龍園の声が低く落ちる。
「お前が坂柳をやったかどうか、もう関係ねえんだよ」
「そうか」
「俺が、お前をここで潰す」
それは宣言だった。
同時に、龍園自身への呪いでもある。
この男はもう、綾小路を倒さなければ前へ進めないところまで来ている。
だからここで終わらせる。
綾小路はそう決めていた。
戦いは短かった。
人数が多いことは、狭い屋上では必ずしも優位にならない。
むしろ動線が重なり、味方同士の位置が干渉する。
綾小路は正面から受けず、石崎の勢いを利用して
隣の増員組と衝突させるように位置を切り、
伊吹の直線的な踏み込みを半歩外して空振りに変える。
アルベルトが巨体で圧力をかけようとした瞬間には、
その重さが逆に足元の自由を奪う場所へ誘導する。
相手が多いほど、一人を倒すことより、連携が成立しない形へ崩す方が早い。
綾小路はそれを徹底した。
数の圧力は、十数秒で雑音に変わる。
誰がどこへ入るか分からなくなり、龍園の指示も通りにくくなる。
石崎が荒い息を吐いて膝をつき、増員の一人が動きを止め、
伊吹が明らかに苛立ちを露わにした時点で、もう勝負は決まっていた。
龍園だけが、最初の位置から動かずにそれを見ていた。
だが次の瞬間、その龍園がゆっくりと一歩、前へ踏み出す。
倒れかけた取り巻きたちを一瞥し、
それを戦力としてではなくもう使えない駒として
切り捨てたような視線で通り過ぎると、そのまま一直線に綾小路へ距離を詰めた。
躊躇はない。
むしろ、ここからが本番だと言わんばかりに、
口元にわずかな笑みすら浮かべている。
「……やっぱりな」
低く吐き捨てるような声。
「てめぇだけだよ、最後まで立ってんのは」
言葉と同時に、龍園の拳が放たれる。
無駄のない一直線の打撃ではない。
あえて体重を乗せ、威力だけを叩き込むような重い一撃。
だがその軌道は粗い。
綾小路は半歩だけ身体を外へ流し、
その拳を紙一重で避けると同時に、踏み込んだ龍園の軸足へ軽く足を当てる。
バランスが崩れる。
だが龍園は倒れない。
むしろ、その崩れを利用するように体を回し、肘を振り抜いた。
距離が近い。
避けきれない角度。
綾小路は腕で受ける。
鈍い衝撃が骨に伝わる。
だがその瞬間、もう片方の手で龍園の肩口を押さえ、さらに体勢を崩す。
互いに、距離を潰し合っている。
打撃ではなく、制圧。
一撃で倒す戦いではない。
崩した側がそのまま勝つ戦い。
龍園はそれを理解している。
だからこそ、無理に引かない。
距離を取らず、むしろ密着するように踏み込む。
頭突きすら厭わない勢いで前へ出る。
「逃げんじゃねぇよ」
その言葉は挑発ではない。
純粋な意志だ。
綾小路は応じない。
応じる必要がないからだ。
龍園の攻撃は確かに重い。
だが、読める。
次に来るのは右。
その次は掴み。
予測通り、龍園の手が襟元へ伸びる。
その瞬間、綾小路はわずかに体を沈め、
伸びてきた腕の内側へ入り込むと、肘を支点にしてそのまま引き落とす。
龍園の身体が前へ崩れる。
床に叩きつける。
衝撃が走る。
それでも龍園は、すぐに腕をつき、無理やり身体を起こす。
視線がぶれない。
呼吸は荒い。
だが、まだ折れていない。
「……はは」
短く笑う。
「やっぱ最高だな」
その言葉とともに、再び踏み込む。
だがその一歩は、先ほどよりもわずかに遅い。
ほんの数センチ。
ほんのコンマ数秒。
綾小路はその遅れに合わせ、今度は回避ではなく前へ出る。
龍園の視界の内側へ入り込み、腕を払うのではなく、肩ごと押し返す。
体勢が完全に崩れる。
そのまま足を払う。
龍園の身体が横に流れ、地面へ落ちる。
起き上がろうとする。
だが、その前に綾小路の足が龍園の腕を押さえつけた。
完全な制圧。
動けない。
それでも龍園は、歯を食いしばり、無理やり身体を起こそうとする。
だが――そこでようやく、止まる。
動きが、完全に止まる。
勝敗は、そこで確定していた。
笑ってはいなかった。
だが目は、まだ死んでいない。
「ほんとに……ふざけた野郎だな、お前」
龍園がゆっくり言う。
「知っている」
綾小路は一歩ずつ距離を詰める。
龍園は今さら下がらない。
下がれる人間なら、そもそもここまで来ていない。
「俺のことも読んでたか」
「お前は読みやすい方だ」
龍園の口元がわずかに歪む。
「言うじゃねえか」
「龍園」
綾小路はその名を呼んだ。
そして続けて、管理名を口にした。
その瞬間だけ、龍園の表情が初めて明確に変わった。
驚愕。
それに近い何かが、ほんの一瞬だけ剥き出しになる。
やはり当たりだ。
「……誰から聞いた」
龍園の声が低くなる。
「お前が残した」
「俺が?」
「違うな」
綾小路は静かに言い直す。
「お前が支配した連中が残した」
石崎。
伊吹。
被害者たちの断片。
保健室の記録。
器物破損の処理。
共有フォルダの管理表。
盗聴器に残った会話。
龍園は自分一人ではなく、他人を使って支配してきた。
だからこそ、その他人の側に痕跡が偏って残る。
それが今、龍園の首を絞めている。
龍園は数秒、綾小路を睨み、それから低く笑った。
「ああ……そうかよ」
その笑いには、悔しさより納得が混じっていた。
「最後まで、そこか」
「お前らしい終わり方だ」
綾小路は黒いノートを取り出した。
石崎たちの息を呑む気配が背後で重なる。
龍園だけは目を逸らさない。
「やれよ」
そう言った。
挑発でも虚勢でもない。
ここまで来たら、龍園も理解しているのだろう。
逃げても意味がない。
今さら頭を下げる自分でもない。
なら、最後まで自分のままでいるしかない。
綾小路は黙って、その管理名を正確に書いた。
文字は静かに並ぶ。
夜風だけが屋上を抜けていく。
誰も動かない。
そして、書き終えた瞬間に、龍園翔の運命は決まった。
「水中雅明」。
龍園はしばらく地面に寝転んだまま、綾小路を見ていた。
その視線には、敗北への純粋な屈服はない。
むしろ、最後まで相手を見届けようとするような、妙な執着の残り火があった。
「やっぱ……お前は切れ者だったぜ」
かすれた声で、そう言う。
それが、綾小路へ向けた最後の確認だったのかもしれない。
綾小路は何も答えない。
答える必要がなかった。
やがて龍園の呼吸が荒くなり、そのままゆっくりと力を失っていく。
石崎が名を呼びかけかけて、だが途中で声を失った。
伊吹は唇を噛み、アルベルトはただ目を閉じる。
屋上には、風の音だけが残る。
龍園翔は死んだ。
坂柳有栖に続いて、もう一人の中心が盤面から消えた。
それは学年にとって、単なる一人の死ではない。
暴力と支配で盤面を荒らし回っていた
最大の不確定要素が消えたという意味であり、
同時に、この試験がいよいよ綾小路清隆の手によって
静かに整理され始めていることの証明でもあった。
坂柳は記録に殺され、龍園は支配の履歴に殺された。
それぞれが、それぞれらしいやり方で、
自分の積み上げてきたものそのものに追いつかれた。
綾小路は屋上を去る前に、一度だけ夜空を見上げた。
あの時、龍園に囲まれ、試され、
沈黙のまま暴力を受け止めていた自分とは、もう位置が違う。
今は盤面の中心に近い場所で、名前を知り、名前を書く側にいる。
そこへ来るつもりは、本来なかった。
だがもう、戻ることもできない。
残るのは、一之瀬か、それともさらに別の誰かか。
いずれにせよ、学年はまた大きく形を変える。
そしてその変化の中心に、綾小路清隆がいるという事実だけが、
夜の屋上にひどく静かに残っていた。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。