今日も正常営業。ただし“そういうとこ”を添えてー 作:火力万能主義
お気に入りはつい400名となり、総UAも時期に一万五千へと迫っている。
本当にありがとうございます、まだ10話までしかないにも関わらず、初期から共に付き合ってくださった皆さんのおかげです。
みなさんのご感想を一つ一つ読んでは、また読み直しながら初心忘れべからず、100人みんなに受かる評価よりも、一人の読者の心に残る、ささるような作品を書こうと毎日誓っています。
時々書きたいけど、まだそこまで至っていないことが悩みで書きたくない、めんどくさい、もういいかなと思う時もあります。
昨日の昼もそんな感じでしが。それでもと皆さんのご感想一つ一つ読み直すことで気合を入れなおして書き続けることができています、本当に感謝します。
これからも、毎日毎日頑張って一文一文と真剣にかつ面白おかしく、楽しく読めるような作品へなれる頑張り致します。
連載始めてからまだ二週間しかたってないのに、本当にありがとうございます!
今回の描写はすこし紛らわしくて、読んでいると「ん?」ってなるかも知れません。
僕自身の経験ではありませんが、そういった光景や人たちを見てきたことを思い出しながら書いたので、書いている僕でも複雑です。
あと、原作に入ってからシーンとシーンのつなぎをどうするかで悩む時間が伸びていく...スランプではないけど、なんかこう、ある程度敷かれたレールから外れすぎても、そのまま踏んでもだめだからその加減をようやく掴もうとし始めてるのかなー
最初のオリジナルは気にする原作の要素が少ないどころかほぼなかったわけですし。ま、このような問題もなんとかしていくのがまた作者に求められる素質にして乗り越えるべき壁だと思いましょう!
今話を見るときに一つ。左と右全部見えてしまうから人は迷うし紛らわしいと思ってしまう。
では長くなりましたが、久々のシリアス成分多めの第十話です、どうぞ!
第十話 傷だらけのガラス
昼休み。
午前の授業をどうにか乗り切った私は、机に突っ伏したい衝動を、ぎりぎりのところで押し殺していた。
無理。
本当に無理。
人間の身体は、夜中二時に月から来た疑惑の美少女へなんちゃってミートソース風うどんを食べさせた翌日に、普通の顔で英語の授業を受けられるようには作られていない。
けれど、倒れるわけにはいかない。
なぜなら私は酒寄彩葉である。
成績優秀、品行方正、文武両道を目指し、東大法学部を射程に入れなければならない、未来ある女子高生である。
……その未来ある女子高生の自室には、現在進行形で三日で十歳前後まで成長した正体不明の女の子がいるわけだけど。
どうしろっていうのよ、本当に。
「彩葉」
やわらかい声に呼ばれて、私は顔を上げた。
芦花が、私の机の横に立っていた。
その後ろには、いつものように購買で買ったらしいパンと、コンビニの新作スイーツらしきものを抱えた諌山真実。
さらに少し離れたところで、橘君が手元のタブレットを閉じながらこちらへ視線を向けていた。
いつもの昼休み。
いつもの四人。
の、はずだった。
「……ねえ、彩葉」
芦花が少しだけ声を落とす。
「大丈夫?」
うわ。
その一言で、私は心の中で天を仰いだ。
来た。
来てしまった。
この子は本当に、こういうところだけ妙に鋭い。
美容系インフルエンサーとして人の顔色や肌の調子を見る癖がついているせいなのか、それとも単純に私のことをよく見ているせいなのか。とにかく、こっちが隠したつもりの疲労や無理を、かなりの精度で拾ってくる。
「大丈夫だよ」
いつもの笑顔で返す。
口角を上げる。
声を明るくする。
目元はなるべく眠そうに見せない。
完璧。
の、はずだった。
「うそ」
芦花は即答した。
「早い」
「だって彩葉、今日ずっとまばたき重いし。さっき英語の時も答えたあと、ほんの一瞬だけ肩の力抜けてた」
「見すぎでは?」
「いつも見てるんだもん」
さらっと言わないでほしい。
その一言に、少しだけ喉が詰まりそうになる。
見てるよ、なんて、そんな何気ない言葉が、やけにまっすぐ届いてしまうから困る。
そこへ真実が、パンの袋を開けながら首を傾げた。
「それもだけどさー。なんか二人、変じゃない?」
「二人?」
私は嫌な予感しかしないまま聞き返した。
「彩葉と橘くん」
真実はごく自然にそう言った。
「連休前と後で、なんか空気違くない? 喧嘩したとかじゃないし、仲良くなったっていうのとも違うんだけど……なんか、こう、秘密基地を共有したあとみたいな?」
真実。
お願いだから、たまにそういう変なところだけ直感を当てないで。
私は一瞬だけ橘君の方を見る。
彼は、いつもの顔だった。
穏やかで。
感じがよくて。
少しだけ首を傾げるような、無難な表情。
“僕”の橘雅治。
「秘密基地とは、また面白い表現だな」
彼は柔らかく笑って返した。
「けれど、特に何か変わったつもりはないがな」
嘘。
嘘ではないのかもしれないけれど、少なくとも全部ではない。
いつもの三人の前なら、橘君はもう少しだけ仮面の奥を見せていた。
少し毒を混ぜたり、余計な一言を落としたり、真実の食欲に妙な冷静さで突っ込んだり、芦花の視線に気づいてわざと話を逸らしたり。
でも今日は違う。
ちゃんとしている。
あまりにも、ちゃんとしている。
感じのいい優等生としての輪郭が、いつもより一枚厚い。
それがありがたい反面、胸の奥が少しだけざらつく。
だって、この場所ではあの話はできない。
バイト帰りに光る電柱から赤ちゃんを拾いました。
そんでその赤ちゃんが成長しました。
月を指差しました。
名前は暫定かぐや姫です。
夜中二時にうどんを食べました。
しかも橘君はその子がまだ赤ん坊だった時に子守りしていました。
そんな話を、教室の真ん中でできるわけがない。
だから、橘君があえて踏み込んでこないことは助かる。
助かるのだ。
間違いなく。
でも、その助かる態度が、昨日までの彼とはあまりにも違いすぎる。
「彩葉」
芦花がさらに少し近づいてくる。
「本当に何かあったんじゃない?」
その声は責めていなかった。
ただ心配していた。
だからこそ逃げづらい。
私は、少しだけ視線を落とす。
弁当箱の蓋。箸。机の木目。
その上で、覚悟を決めた。
「……実は、ちょっと親戚の子のことで」
「親戚の子?」
真実がパンをかじる手を止めた。
「うん。最近、ちょっと事情があって、うちに転がり込んできたっていうか」
言いながら、自分でも無理があるなと思う。
でも、全部を隠し通すよりはマシだ。
何もなかったと言い張るには、私はたぶん今日、あまりにも疲れた顔をしている。
「親戚の大人たちが色々忙しいらしくて、しばらく様子を見ることになってて」
「え、彩葉の部屋に?」
「まあ……一応」
「一応で済む話?」
真実の目が丸くなる。
芦花はそれより先に、少しだけ眉を寄せた。
「それ、彩葉が面倒見てるの?」
「ずっとじゃないよ。全部じゃないし」
全部ではない。
嘘ではない。
橘君もいた。
むしろかなりいた。
けれど、それをどう言えばいいのか。
そこで、橘君が自然に口を挟んだ。
「僕も少しだけだが手伝わせてもらった」
その声は、本当に自然だった。
柔らかく、落ち着いていて、あくまで話の補足という形で。
「たまたま僕の親戚筋にも少しつながりがある子でね。正確にはかなり遠い関係だけれど。酒寄一人では少し大変そうだったから、できる範囲で手伝わせてもらった」
うまい。
私は内心で思った。
ものすごく、うまい。
嘘をついている。
でも、嘘だけではない。
“遠い関係”という言い方は、曖昧すぎて逆に突っ込みづらい。
親戚筋。
つながりがある。
できる範囲で手伝った。
全部、何となくそれらしく聞こえる。
それでいて、具体的なことは何ひとつ言っていない。
さすが橘君。
こういう時の言葉選びが、本当に腹立つくらい上手い。
「え、待って待って」
真実が目を輝かせる。
「つまり何? 彩葉のところに親戚の子が来てて、橘くんも知り合いで、二人で子守りしてたってこと?」
「まあ、かなり大雑把に言えばそうなるかね」
橘君は穏やかに頷いた。
「大雑把すぎない?」
「細かいところは、家庭の事情もある故、な?」
その一言で、真実は「あー」と納得したように頷いた。
家庭の事情。
便利すぎる言葉である。
芦花は、納得したような、していないような顔をしていた。
「彩葉」
「なに?」
「やっぱり無理してない?」
そこに戻るのね。
けれど、芦花らしいとも思う。
「してない……とは言い切れないけど、今は大丈夫」
「今は、って言った」
「言葉の綾」
「彩葉のそういうところは信用してない」
「芦花、厳しくない?」
「心を辛いけども鬼にして、彩葉には厳しくするって決めてるから」
真顔で言われて、私は返す言葉をなくした。
その横で真実が、妙に真剣な顔で頷く。
「いやでも、子守りって大変だよね。小さい子ってほんと体力おばけだし。あとすぐお腹すくし。で、こっちもお腹すくし」
「最後のソレ、自分の話でしょう?」
「でも食べるの大事じゃん?」
「そこは否定しないけど」
真実は胸を張った。
「で、その子、何が好きなの? お菓子? ごはん? 甘いもの? しょっぱいもの?」
聞く方向が完全にグルメ系ライバーだった。
私は一瞬、夜中二時のなんちゃってミートソース風うどんを思い出す。
あの子の目がきらきら光って、「ちょううまいーっ」と叫んだ顔まで、鮮明に浮かんでしまった。
「……スパゲティ、かな」
「へえ、いいね! 子どもは好きだよねー、ミートソース!」
「まあ、ミートソース……風だけど」
「風?」
「いや、なんでもない」
まぁ乾麺もうどんも同じ麺だし。
ただ、グルメ系ライバーの前でそんなことを言えるほど空気が読めない私ではない。
芦花の視線が、じっと私に刺さる。
「彩葉、ちゃんと食べてる?」
「食べてる、よ」
「今日のお昼は?」
「……パン一個」
「全然足りないよ?」
「はい」
私は素直に昨夜のバイトでもらったあまりのパンを取り出した。
一応、店長には許可もらってるし、私が安定的に手に入れられる数少ない主食である、BAMBOOCafeの売れ残りのパン。
ここで逆らうと余計に面倒なことになる。
だから昼を抜いて食費を浮かせることなど、ここではできない。
大人しくここで消費するのが賢明だ。
そこで真実は自分のパンをひとつ割って、当然のように私の机へ置いた。
「これ半分あげる。新作の照り焼きチキンたまごパン」
「いや、いいって」
「食べるのは大事」
「真実、それ自分が言いたいだけでしょ」
「でも彩葉、食べたいし食べれるでしょ?」
「……いつもご「ごめんはなし、だよ?」うん。ありがとうみんな」
「よし!」「さすがです先生!」
なぜ勝ち誇る。
私はそのパンを見て、小さく息を吐いた。
ありがたい。
ありがたいのに、妙に悔しい。
芦花はそれを見て、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「その子のこと、無理に今すぐ全部話さなくていいよ」
思わず一瞬だけ、肩が上がりそうだった。
「でも、彩葉がまた無理しそうなら、私たちにも言って」
「そうそう」
真実が続ける。
「子守りはともかく、ごはんとか買い出しとかなら手伝えるし。あと私、子どもが喜びそうなお店とか結構知ってるよ。食べ物限定だけど」
「限定なんだ」
「そこが一番大事でしょ?」
真実らしすぎて、少しだけ笑ってしまう。
そして、その笑いを見て、芦花がようやく少し安心したような顔をした。
橘君はそのやり取りを、少し離れたところから静かに見ていた。
いつものように。
感じよく。
邪魔をせず。
必要なら言葉を足し、必要がなければ黙っている。
“僕”のまま。
そのことに、三人とも気づいていたと思う。
少なくとも私は気づいていた。
芦花もたぶん気づいている。
真実だって、言葉にはしないだけで、何かが違うとは思っているはずだ。
けれど、これまで誰もがそこまでに踏み込まなかった。
踏み込もうとすら思えなかった。
人には、言えることと言えないことがある。
聞いていいことと、今はまだ聞かない方がいいことがある。
今の橘君は、あまりにもちゃんとしていた。
ちゃんとしすぎていていた。
でも、だからこそ、この教室という広い空間では助かった。
私はまだ、あの子のことを全部話せない。
真実や芦花にも、いきなり本当のことを言うには、事情があまりにもぶっ飛びすぎている。
だから今は、この曖昧な説明でいい。
親戚の子。
少し事情がある。
橘君も遠い関係で知っている。
二人で子守りを手伝った。
それで、ひとまずはいい。
「それでさ、二人とも」
真実がパンを飲み込んでから、にこりと笑った。
「今日の放課後、例の新しいカフェ行かない?」
来た。
私は内心で小さく身構える。
「え、今日?」
「今日。だって連休明けだし、彩葉疲れてるし、甘いもの食べた方がいいって」
「また食べ物」
「食べ物は世界を救いますから」
「だからスケールが違うって」
芦花も軽く頷いた。
「私も賛成。彩葉、少しは..ううん、今日だけでも休んだ方がいいよ」
「でも、今日は……」
あの子が。
部屋にいる。
一人で。
その言葉は飲み込んだ。
代わりに、橘君が静かに口を開く。
「僕はこの後、少し個人的に引き受けている用があるから、先に外れる」
自然だった。
あまりにも自然に、彼はそう言った。
「酒寄も、少しくらい寄り道した方がいい。僕も用が済み次第にあの子に顔を見せにいくつもりだ」
私は橘君を見る。
彼はいつもの笑みを浮かべていた。
でも、その言葉の裏に何があるのか、私は分かってしまった。
先に行け。
その間に、俺が動く。
そういうことだ。
たぶん、彼はもう放課後の段取りを組んでいる。
私が真実と芦花に連れ出される間に、自分が先に部屋へ向かうつもりなのだろう。
“僕”の顔で。
“俺”の段取りを通している。
本当に、ずるい。
「……そうだね」
私は、できるだけ自然に頷いた。
「じゃあ、少しだけ」
「よし決まり!」
真実が嬉しそうに声を弾ませる。
「新作パフェあるんだよ。あと軽食もあるっぽい。レビュー見た感じ、サンドイッチもよさそうで――」
「真実、もうメニュー見てる」
「当然!」
芦花が小さく笑い、私もつられて笑った。
その間、橘君は静かに昼食を片づける。
表情は穏やか。
動きは無駄なく。
誰が見ても、いつもの橘雅治。
でも私は、もうその奥を少しだけ知っている。
知ってしまったからこそ、今の彼の静けさが気になって仕方ない。
聞けない。
ここでは聞けない。
でも、いつか聞かなければいけない気がする。
そんな予感だけが、昼休みのざわめきの中に、小さな棘のように残っていた。
*
放課後。
職員室の空気は、昼間の教室とはまた違う熱を帯びていた。
扇風機が首を振る音。
どこかで鳴る電話。
書類をめくる音。
部活の予定を尋ねる声。
机に並ぶプリントの山と、まだ夏休み前だというのに妙に慌ただしい教師たちの動き。
その中で、私は担任の先生と向かい合って座っていた。
「このままのペースなら、まったく夢じゃないよ。酒寄の目標は東大、だったな?」
「はい。できれば、法学部を目指せればと」
そう答える声は、思っていたよりちゃんといつも通りだった。
少なくとも、夜中の二時に正体不明の少女へミートソース風うどんを食べさせていた人間の声には聞こえない。
我ながら大したものだと思う。
いや、褒めている場合ではないのだけれど。
「このまま成績も内申もキープし続けるのは重要だ。けど、くれぐれも無理はしないように。酒寄は特に、優等生だからと周りからも勝手に期待されたりして大変だろうからな」
「……はい」
心身ともに健やかに、なおかつ一定のペースを維持する。
言うのは簡単だ。
たしかに理想でもある。
どちらかばかりを優先して片方が壊れるようでは、東大なんて夢のまた夢になってしまう。
体を壊してもだめ。
心をすり減らしてもだめ。
どちらも守りながら、結果を出し続けなければいけない。
ま、この三日間だけ振り返ったら、先生から頂いたありがたいお言葉とはまったく逆方向へ突き進んでいたんだけども。
「そう、ですか。はい、そういたします。ありがとうございます、先生」
綺麗に頭を下げる。
綺麗に返事をする。
綺麗に微笑む。
連休明けの学校。
ここで、もう一度思い出す。
自分が何者であるか。
どうあるべきか。
私は優秀で、完璧な女子高生であらねばならない。
お母さんがかつてそうだったように、私にも同じことができるはずだ。
いや、できなくてはならない。
成績優秀。
文武両道。
品行方正。
そのためにも、あの
面倒を見られるところは見る。
でも、それ以上はだめだ。
私はあくまで学生で、受験生予備軍で、苦学生で、未来のために今を積み上げなければならない身なのだから。
だから、はやくお迎えが来てほしい。
できれば竹取物語みたいに、さっさと月の使者でも何でも来て、この状況ごと綺麗に回収していってほしい。
……いや、いざ本当に来られたらそれはそれで困る気もするけど。
でも、だからといってこのまま居座られても困る。
非常に困る。
「いいよいいよ。先生は先生で大人なんだから、学生は子どもらしく大人に頼ればいいのさ」
先生は軽く笑ってそう言った。
その言葉に、私は一瞬だけ目を瞬いた。
大人に頼る。
その響き自体が、未だに私の中では少しだけ不自然だ。
けれど、少し前までよりは、その不自然さも薄れている。
……橘君のせいだ。
いや、せいという言い方は違うか。
でも、あの夜、助けを求めたことを「偉い」と言われてしまったせいで、私の中の何かは確実にずれた。
そこでふと、別のことを思い出す。
立花先生は去年から私たちと橘君の担任をしている。
去年から。
つまり、ただ同じ空間にいただけの私たちより長く、あの男をよく見ていることになる。
「あの、先生」
「うん?」
「橘君のことで、一つ聞いてもいいでしょうか」
先生はわずかに目を丸くした。
「へえ。酒寄が他の生徒のことを、それもあの橘のことを聞いてくるとは」
「いや、その……実は彼って、去年は委員長をしていたけど、今年はしていないじゃないですか。でも、今でもよく委員長の仕事みたいなことをしてるなって」
委員長は別の人がやっている。
けれど、その本人ですら「橘君と一緒なら助かる」「むしろ橘君の方に頼みたい」みたいなことを、半分本気で言っているのを聞いたことがある。
そういえば、私が橘君とまともに話すようになったきっかけも、あの時ちょうど先生の頼まれごとで残っていたからだった。
「ああ、そのことね」
そのこと、って。
思っていたより話が通じるのが早くて、逆に少しだけ拍子抜けする。
「実は、別に橘に任せないといけないほど大変な仕事でもないし、本来なら、委員長でも日直でもない生徒に何度も頼むのはあまり良くないんだけどね」
先生はそう言って、少しだけ困ったように笑った。
「ただ、彼自身がああだからな」
「ああ、というのは?」
「
先生はそこで、一度言葉を選ぶように間を置いた。
「教師から見れば、橘はとても扱いやすい生徒だ。成績は安定している。提出物は遅れない。授業態度も悪くない。人当たりもいい。何か頼めば嫌な顔をしないし、頼んだ以上の形で返してくることもある」
私は黙って聞いていた。
それはたしかに、私たちが教室で見ている橘君そのものだった。
「クラスメイトから見ても、似たようなものだと思うよ。困った時に声をかけやすい。頼めば手伝ってくれる。誰かが少し面倒な仕事を抱えた時、橘が近くにいると何となく安心する。実際、去年の委員長としての仕事ぶりもかなり良かった」
「……はい」
「でもね、酒寄。そこが少し気になるんだ」
先生の声が、ほんのわずかに落ちた。
「橘は、誰にとっても
その言葉に、胸の奥が小さく引っかかった。
「友人がいないわけじゃない。むしろ、表面上はうまくやっている。男子とも話すし、女子から話しかけられても無難に返せる。教師にも礼儀正しい。ほかの誰にも優しい。どこに置いても角が立たない」
先生は机の上に置かれたファイルへ視線を落とした。
「だけど、逆に言えば、どこに置いても
私は無意識に、三連休の橘君を思い出していた。
短くて、ぶっきらぼうで、余計な愛想なんてほとんどないのに、こちらの状態だけは妙に細かく見ていたあの横顔。
その姿と、先生が語る“橘雅治”が、同じ人間なのに少しずつずれていく。
「先生方の間でも、橘の評価は高いよ。真面目で、落ち着いていて、責任感もある。何かを任せても大きな失敗はしない。だから、つい頼ってしまう」
「……それは、分かる気がします」
「だろう? でも、彼が何をしたいのかは、あまり見えないんだ」
「何を、したいか」
「そう。何が好きで、何に怒って、何に悔しがって、何なら自分から手を伸ばすのか。そういう部分が見えにくい」
先生は椅子の背もたれに軽く体を預けた。
「進路希望を聞いても、答えはちゃんとしている。理由も整っている。将来の話をさせても、筋は通っている。でも、そこに本人の熱があまり見えない。まるで、どこかの誰かが納得しそうな答えを、先に用意しているみたいに見える時がある」
その表現は、妙に胸に残った。
どこかの誰かが納得しそうな答え。
たしかに、橘君はそういう言い方をする。
間違いではない答え。
誰も文句を言えない答え。
でも、そこに本人がいるのか分からない答え。
「それで、先生は彼にいろいろ任せているんですか?」
「うん。正直に言えば、少し試しているところもある」
先生は苦笑した。
「もちろん、悪い意味じゃないよ。無理をさせたいわけでもない。ただ、彼は頼まれれば動く。だから、いろんな場面で動いてもらえば、どこかで本人の癖が見えるんじゃないかと思ったんだ」
「癖、ですか」
「人間って、忙しい時や予想外のことが起きた時ほど、本音が出るからね」
私は思わず目を伏せた。
それなら、私はもう見てしまったのかもしれない。
七色に光る電柱。
赤ん坊。
夜中の泣き声。
薄い壁。
寝不足の三連休。
あまりにも予想外で、あまりにも意味不明で、普通なら仮面なんて被っていられない状況。
その中にいた橘君は、教室にいる
「でも、どうもうまくいかない」
先生は肩をすくめる。
「橘は、忙しくなってもあまり崩れないんだ。むしろ、淡々とこなしてしまう。頼まれた仕事を片づける。周りにも気を配る。失敗もしない。そうして、終わったら何事もなかったように元の位置へ戻る」
先生の言葉が、職員室のざわめきの中で妙にはっきり聞こえた。
「だから周りは、ますます橘を頼れる子だと思う。先生も、生徒も、みんなね。けれど、その
「……」
「去年から見ているけど、彼は自分の欲をあまり表に出さない。嫌がらない。怒らない。困った顔もしない。だから、便利な子として扱われやすい」
先生は少しだけ真面目な顔になった。
「でも、本当に何も感じていない人間なんていないからな」
その言葉に、私は何も返せなかった。
「酒寄も分かるだろう?
「ッ……はい」
「橘も、たぶん似たところがある。ただ、酒寄はまだ頑張っていることが見える。少なくとも先生には、かなり無理しているように見えるけどね」
「……それ、褒められてます?」
「心配してるんだよ」
先生は軽く笑った。
「でも橘は、その無理の色すら薄い。だから余計に分からない。あいつがどこまでなら平気で、どこから先が本当に嫌なのか。教師としては、そこが少し怖いんだ」
私は、三連休の夜の橘君を思い出した。
汗をかいて、息を少し上げながら走ってきた姿。
それでも最初に私と赤ん坊の様子を見た目。
ぶっきらぼうな言い方。
でも、ちゃんと心配している声。
学校の誰も知らない橘君。
たぶん先生も知らない橘君。
「だから、委員長としての仕事を任せたり、ほかの手伝いをお願いしたりして、彼のことを少しでも知ろうとしていたんだけどね」
先生は小さく息を吐いた。
「どうもうまくいかないんだよね、これが」
職員室のざわめきが、ふと遠く聞こえた。
先生が言っていることは、きっとすごく教師らしい悩みなのだろう。
クラスにいて、真面目で、頼れて、問題も起こさなくて、でも肝心なところがよく分からない生徒。
扱いづらい、というより。
見えそうで見えない。
近そうで近くない。
そんなもどかしさ。
私は、先生の言葉を聞きながら、思っていた。
そりゃ、分からないはずだ。
学校の中にいる限り、あの男は本当にうまくやっている。
自分の輪郭を薄めて、誰にとっても都合のいい、感じのいい優等生で居続けている。
でも私は、ほんの少しだけ知ってしまった。
でも私は、ほんの少しだけ知ってしまった。
その奥に、もっと短くて、もっとぶっきらぼうで、でもずっと温度のある俺がいることを。
「……酒寄?」
先生に呼ばれて、私ははっと顔を上げた。
どうやら少し考え込んでいたらしい。
目の前には、変わらず職員室のざわめきがあった。
書類をまとめる音。
誰かの笑い声。
コピー機の動く低い音。
部活の顧問らしい先生が、どこかへ電話をかけている声。
いつもの学校。
いつもの職員室。
いつもの放課後。
なのに、私の頭の中だけが、三連休の狭い部屋へ少しだけ戻っていた。
「すみません。少し考えていました」
「いや、いいよ。橘の話を振ったのはこっちだしね」
先生はそう言って、軽く笑った。
「まあ、とはいえ、先生としてはあまり生徒同士のことに踏み込みすぎるのもよくないからな。橘のことも、酒寄のことも、最終的には本人たちがどうしたいかだから」
「本人たちが、どうしたいか……」
「そう。周りが勝手に「こういう子だ」と決めるのは簡単だけど、本当にそれだけかどうかは分からない。酒寄だってそうだろう?」
そう言われて、私は一瞬、返す言葉に詰まった。
優等生。
真面目。
成績優秀。
しっかり者。
何でもできる子。
そう見られることには慣れている。
むしろ、そう見られるようにしてきた。
でも、それが全部ではない。
夜中に泣きそうになりながら電話をかけた私。
赤ん坊を抱えて立ち尽くした私。
意味不明な少女にミートソース風うどんを作っていた私。
お引き取りくださいと言いながら、結局は後頭部を撫でてしまった私。
そんなものは、職員室で先生に向かって綺麗に座っている酒寄彩葉の外側からは見えない。
「……そうですね」
私は小さく頷いた。
「だから、くれぐれも無理はしないように。酒寄は、できるからこそ抱え込みやすい。できる子に見えるから、周りもつい安心してしまう。でも先生としては、できる子ほど心配なんだよ」
「はい」
「本当に困った時は、先生でも、友達でも、誰でもいいから頼りなさい。もちろん、全部話さなくてもいい。話せる分だけでいいから」
大人に頼る。
またその言葉だ。
少し前までなら、私はたぶん、綺麗な返事だけして終わらせていた。
ありがとうございます、気をつけます。
大丈夫です。
そう言って、何も渡さず、何も見せず、全部自分で抱えて帰った。
でも今は、その言葉を聞くと、別の声が重なる。
ちゃんと人に頼れたじゃないか。偉いな
あの夜の、橘君の声。
私は軽く息を吸い、先生へ向かって頭を下げた。
「ありがとうございます。気をつけます」
「うん。まあ、そうやって綺麗に返事をするところが一番心配なんだけどね」
「……先生」
「冗談半分、本気半分だよ」
先生は苦笑しながら、手元のファイルを閉じた。
「今日の話はこれで終わり。東大法学部、十分狙える位置にいるのは本当だ。だからこそ、長く走れる形をちゃんと作っていこう。夏休み前に一度、勉強計画も見直そうか」
「はい。よろしくお願いします」
私はもう一度頭を下げて、椅子から立ち上がった。
東大。
法学部。
成績。
内申。
期待。
優等生。
完璧であること。
その全部を、もう一度胸の中へきちんと並べ直す。
私は、酒寄彩葉だ。
お母さんがかつてそうだったように、私にも同じことができるはず。
できなくてはならない。
成績優秀。
文武両道。
品行方正。
だからこそ、あの月から来たとかいう意味不明な非日常には、できるだけ早く、丁重にご退場願いたい。
面倒を見られるところは見る。
助けられるところは助ける。
でも、それ以上はだめだ。
私は学生で、苦学生で、未来のために今を積み上げなければならない身なのだから。
どうか、早くお迎えが来てほしい。
かぐや姫みたいに、月から使者でも何でも来て、あの子を迎えに来てほしい。
――いや。
いざ本当に来られたら、それはそれで困る気もするけれど。
でも、このまま居座られても困る。
非常に困る。
*
職員室を出たところで、ちょうど廊下の向こうから見覚えのある姿が歩いてくるのが見えた。
彼は鞄を肩にかけ、片手にはタブレットを持っていた。
いつものように落ち着いた歩き方で、けれどどこか急いでいるようにも見える。
その途中で、別の男子生徒が彼へ声をかけた。
「橘、悪い。これ、職員室に出しといてくれない? 俺、部活でちょっと急いでて」
手渡されかけたのは、終わりのホームルームで回収したプリントの束だった。
ああ、と思う。
やっぱりこういう時、みんな橘君へ頼むんだ。
感じがよくて。
嫌な顔をしなくて。
頼めば大体なんとかしてくれる。
だから、誰も深く考えずに彼へ渡そうとする。
けれど。
「
橘君は、穏やかな顔のままそう言った。
「今日は少し外せない用がある。日直か委員長に頼んでくれ」
「え、あ、そっか。ごめん」
「いや、こちらこそ。急いでいるところ悪いな」
断り方まで感じがいい。
けれど、確かに断った。
私はその光景に、少しだけ目を瞬いた。
いつもの橘君なら、引き受けていたかもしれない。
いや、少なくとも私が知っている“僕”の橘君なら、そうしていたように見えた。
でも今日は違う。
理由があるから断った。
優先するものがあるから、きちんと線を引いた。
そのことに、なぜか少しだけ胸がざわつく。
「お疲れ様、橘君」
声をかけると、彼は足を止めた。
「酒寄。先生との話は終わったのか」
「うん。ちょうど今」
「そうか。お疲れ様」
いつもの声。
いつもの距離感。
いつもの僕。
でも、さっき頼みを断ったせいか、私は少し違うものを見た気がした。
「珍しいね。断るんだ」
「断る理由がある時はね」
彼は穏やかに返した。
「頼まれること自体が嫌なわけじゃない。できる範囲で、無理なく済むなら引き受ける。それでクラスにうまく溶け込めるなら悪い話ではない」
「……でも、今日は違う?」
「ああ」
短い返事だった。
その一言だけ、ほんの少しだけ俺に近かった。
私は言葉を詰まらせる。
彼はきっと、あの子のことを言っている。
私が言えなかったことを、彼もまた言わないまま、ちゃんと段取りの中へ入れている。
ありがたい。
ありがたいのに、腹が立つ。
だって、こういうところだけは本当に抜け目がない。
「ほかに頼る人はいないの?」
とっさに、そんな言葉が出ていた。
自分でも少し驚く。
でも、言ってしまった。
私にはいつも、誰かに頼れと言ったくせに。
それで実際に頼ったら、偉いとまで言ってくれたあの橘君は、じゃあ誰に頼るんだろう。
あんな非日常の厄ネタに勝手に巻き込んでしまった私が言うのもおかしい。
それでも、思ってしまった。
この人も案外、抱えているものが深すぎて、こうして仮面を被っているのかもしれない、と。
彼は、ほんの少しだけ意外そうな顔をした。
「頼る……か。まさか酒寄からそれを聞かれるとはな」
「悪い?」
「いや」
彼は小さく息を吐いた。
「その時には頼るかもしれんな。僕も人の子だ。一人ではどうしてもだめな時には、それこそ誰かに頼るしかなかろう」
いつもの口調だった。
ちゃんと答えている。
けれど、全部は答えていない。
本当に見せたい部分だけを見せて、あとは曖昧な返事で終わらせる。
やっぱり、この人はうまい。
人に踏み込ませないのが。
「二人は教室で待っている。あまり待たせると、諌山が先に店へ突撃しては注文までし始めるぞ」
「フフッ真美ならありえるかも」
「なら急いだ方がいい」
そう言って、彼は少しだけ笑った。
「僕は先に行く。後のことは任せてくれ」
その
彼は僕の顔で言っている。
けれど、その奥ではもう
「……うん」
私は小さく頷いた。
「お願い」
「頼まれた」
その返事だけは、ほんの少しだけ短かった。
橘君はそれだけ言うと、私に背を向けて廊下を歩き出す。
職員室ではなく、昇降口の方へ。
私はその背中を見送った。
なんなのよ、本当に。
誰かに頼れって背中を押したのはそっちのくせに。
自分のことになると、そうやって綺麗に逃がすんだから。
本当、ムカつく。
そういうところなのよ。
あ。
そういえば、あの子のことを言っていなかった。
「……どうしよう」
今さらみたいに口から漏れた独り言は、人気の薄くなった放課後の廊下に、やけに間の抜けた響き方で落ちた。
けれど、考えてみれば、これは本当にただの“言い忘れ”だったのだろうか。
朝から、何度か目は合った。
教室で。
廊下で。
昼休みのざわめきの中で。
席が近いから、ほんの少し顔を向けるだけで声をかけられる距離に彼はいた。
言おうと思えば、言えた。
少なくとも、橘君にだけなら言えたはずだった。
だって、彼はもう知っている。
七色に光る電柱のことも。
そこから出てきた赤ん坊のことも。
その赤ん坊が夜中に七色の光を放ち、ありえない速度で成長したことも。
あの子が普通ではないことを、私より先にその目で見ていた本人だ。
だから、橘君に言うぶんには、いまさら説明の入り口で詰まることはない。
赤ちゃんが成長した。
今度は十歳くらいの女の子になった。
話すようになった。
お腹が空いたと言った。
泣いた。
ご飯を食べた。
その事実だけなら、彼はたぶん受け止める。
驚きはするだろう。
眉間にしわを寄せるかもしれない。
短く息を吐いて、「またか」とでも言うかもしれない。
けれど、笑わない。
馬鹿にしない。
私の頭がおかしくなったなんて扱いもしない。
それはもう、分かっている。
なのに私は、言わなかった。
言えなかった、ではないのかもしれない。
たぶん、私はその話題を、どこかで避けていた。
朝、目が合った時も。
昼休みに彼がすぐ近くにいた時も。
放課後の廊下で、こうして二人で話す機会があった時でさえ。
私は、あの子の話をしなかった。
どうして。
分からない。
分からないけれど、胸の奥には、何か引っかかるものがあった。
私が本当に話さなければならなかったのは、ただの情報ではなかったからかもしれない。
赤ん坊が成長した。
それだけなら、報告だ。
でも実際には、そんな簡単な話ではなかった。
夜中の二時に目を覚ましたら、隣にいたはずの赤ちゃんが、十歳前後の女の子になっていたこと。
素っ裸で、目をきらきらさせて、私の袖を引っ張っていたこと。
私はびっくりして、困って、怒って、いっそ今すぐお引き取り願おうとしたこと。
それなのに、どうしても「帰れ」と言えなかったこと。
その子が頭をぶつけて泣いた時、「助けて」と言ったこと。
その言葉で、胸の奥に古い記憶が蘇ったこと。
お母さんの声と、橘君の声が、同じ場所でぶつかったこと。
ごめんね、と言いながら後頭部を撫でたこと。
泣き声が静かになった時、少しだけ安心してしまったこと。
お腹を鳴らして、物欲しそうな目でこちらを見上げられて。
仕方ないな、と言いながら、夜中二時に目玉焼きとなんちゃてスパゲティうどんを作ったこと。
それを食べたあの子が、目を星みたいに輝かせて。
――すごい。
――ちょううまい。
――彩葉、すごい。
そんなふうに笑ったこと。
私の家の中で。
この狭い部屋の中で。
ずっと一人で食べて、一人で寝て、一人で朝を迎えてきた場所で。
誰かが笑っていたこと。
それを見て、私も少しだけ笑ってしまったこと。
そこまで話さなければ、きっと本当には伝わらない。
けれど、それを全部話すということは、あの子の変化を報告するだけでは済まない。
それは、私自身の揺れを渡すことになる。
追い出したいと思っている。
平穏に戻りたいと思っている。
私は学生で、バイトもあって、勉強もあって、東大を目指していて、こんな非日常に巻き込まれている余裕なんて本当にない。
それは本当だ。
でも。
あの子が笑った時、少しだけ嬉しかった。
あの子が「彩葉」と呼んだ時、胸のどこかが変にあたたかくなった。
あの子が「たすけて」と泣いた時、放っておけなかった。
それも本当だった。
その矛盾を、私はまだ言葉にできない。
そして、たぶん橘君は、そういう矛盾を見つけるのがうまい。
あの三日間、私は何度も見てしまった。
彼は口では短くしか言わない。
ぶっきらぼうで、余計な慰めも言わない。
なのに、こちらが少し息を乱しただけで気づく。
声が震えた時に気づく。
無理をした時に気づく。
赤ん坊だけじゃない。
彼は、私も見ていた。
腹立たしいくらい、ちゃんと。
だから怖かったのかもしれない。
あの子が成長したことを話したら、彼はきっとその奥まで見てしまう。
私が「早くお迎えが来てほしい」と思いながら、そのくせもう少しだけ手放したくないと思い始めていることを。
そういう自分の面倒くささを、彼に見抜かれるのが嫌だった。
それに。
今日の橘君は、僕だった。
学校の廊下で、職員室の前で、プリントやファイルを抱えて、誰にでも穏やかに返す、あの橘雅治。
感じがよくて。
優秀で。
頼まれても嫌な顔をしなくて。
誰にでもほどよく近く、でも決して一定以上は踏み込ませない。
僕の橘君。
でも、私があの話を渡したかったのは、たぶんその人ではなかった。
夜中に走ってきてくれた人。
汗をかいて、息を少し上げながら、それでもまず私と赤ちゃんを見た人。
「深呼吸」と短く言って、必要なことだけを選んで動いた人。
ぶっきらぼうで、口は悪くて、でもあの子を見る目だけは妙にやわらかかった人。
私は、その人なら知っていると思っていた。
学校の僕ではなく、あの四畳半にいた俺こそが、橘君の素に近いのだと、勝手に思っていた。
でも、今日の彼は違った。
僕が、いつもより厚かった。
昼休みも。
廊下でも。
彼はちゃんと優等生だった。
感じよく、穏やかで、曖昧で、どこにも引っかからない。
まるで、三連休のあいだに見せたものを、もう一度きちんと奥へしまい込んでしまったみたいに。
その姿が、妙に遠かった。
だから私は、言えなかったのかもしれない。
俺の橘君に聞いてほしかった話を、僕の橘君へ渡したくなかった。
あの夜の、温かくて、馬鹿みたいで、どうしようもなくおかしな出来事を。
私がまだ整理できていない、あの子への感情ごと。
学校用の綺麗な顔で、穏やかに処理されたくなかった。
そんなの、ただのわがままだ。
橘君だって、彼なりに切り替えているだけだろう。
学校では
私だって同じだ。
優等生の顔をして、何でもないみたいに座っている。
なら、彼ばかり責められない。
責められないのに。
それでも思ってしまう。
昨日までの
何かあったか、と。
変化は、と。
今朝の様子は、と。
短く、必要なことだけを。
でも今日の僕の橘君は、それを聞かなかった。
聞かないことで、私が避けている話題を守ってくれたのかもしれない。
学校という場所で不用意に触れないようにしてくれたのかもしれない。
あるいは、私が話すまで待ってくれていたのかもしれない。
その可能性だってある。
あるのに、私は腹を立てている。
勝手だ。
分かっている。
話していないのは私の方なのに。
それでも、聞いてほしかったと思っている。
頼れと言ったのはそっちなのに。
ちゃんと頼れたら偉いと言ったのもそっちなのに。
いざこっちが言葉にできないでいると、何も聞かずに僕の顔で距離を取る。
本当に、ずるい。
でも、もっとずるいのは私だ。
だって私は、橘君の俺を知っていると思っている。
彼の素に触れたと思っている。
あの三日間、同じ狭い部屋で、同じ赤ちゃんを見て、同じ泣き声に振り回されて、同じように寝不足になって。
だから少しだけ、特別なものを知った気になっていた。
でも、彼が本当に見せていたのは、彼が見せてもいいと思った部分だけなのかもしれない。
冷静で。
頼れて。
ぶっきらぼうで。
ふざけてるようで。
でも優しい。
そんな俺だけを、私は見せられていたのかもしれない。
その奥に何があるのかまでは、まだ知らない。
知らないくせに、私は勝手に期待している。
俺の橘君なら、分かってくれるはずだと。
俺の橘君なら、私が言葉にできないものまで拾ってくれるはずだと。
そんなこと、頼まれた方はたまったものじゃない。
それでも。
あの子が笑ったことを。
私の家に、久しぶりに誰かの声が残ったことを。
その声が、思っていたよりずっとあたたかかったことを。
最初に話したかった相手は、きっと橘君だった。
ただし、学校の僕ではなく。
あの部屋で、汗をかいたまま息を整え、赤ん坊を見て、私に「深呼吸」と言った俺の方へ。
だから、言えなかった。
言い忘れたのではない。
たぶん私は、無意識にその話題を避けていた。
彼が僕でいる間は、あの夜の続きを渡したくなかった。
それだけは、今さらみたいに分かってしまった。
そして、それが分かった瞬間、余計に腹が立った。
彼にではない。
あの子にでもない。
こんなにも面倒くさい自分自身に。
*
その頃。
橘雅治は、午前の授業が始まってからずっと、どこか上の空だった。
もちろん、ぱっと見では分からない。
姿勢は崩れていない。
タブレットには必要な板書がきちんと写されている。
教師がこちらを見るタイミングでは顔を上げ、当てられれば答えられる程度には授業の流れも追っている。
だから、ほとんどの人間は気づかない。
橘雅治は今日もいつも通り。
真面目で、落ち着いていて、授業をそつなくこなす優等生。
そう見える。
けれど、彼の右手だけは、授業とは別の場所を走っていた。
短く削れた鉛筆が、ノートの裏へ隠したメモ用紙へ、細かい線と記号を書き込んでいく。
ツクヨミの仕様。
システム補正。
観測判定。
干渉条件。
疑似的な二重状態。
見せ札と本命。
観測されるまで確定しない事象。
箱を開ける前に、箱そのものをすり替える手順。
けれど、それは単なる暇つぶしではない。
授業が退屈だから内職しているのではない。
面白いことを思いついたから手を動かしているだけでもない。
あえて、思考を別のものへ割いていた。
自分の頭を休ませないために。
余計なものが入り込む隙間を作らないために。
自分自身へ、何かしらの作業を与え続けるために。
そうしていないと、考えてしまう。
酒寄彩葉のことを。
あの子のことを。
三連休のあいだ、あの狭いワンルームで過ごした時間のことを。
それから、もっと奥に沈めたはずのものを。
これまで欲しかったのは、
誰にも縛られず、誰にも回収されず、誰かの顔色を読み続けることもなく、自分の痕跡だけを残して好きにやれる場所。
自由。
その言葉だけが、ずっと目印だった。
京都を出た。
逃げた、と言われれば否定はできない。
だが、それでも離れた。背を向けた。
もうあの場所の空気に、あの大人たちの視線に、あの家の理屈に、自分の形を決めさせないと決めた。
だから
俺は自由だ。
もう縛られていない。
もう誰かに求められた形だけで生きる必要はない。
過去のことも、本家のことも、あの家で向けられた言葉も視線も、今の俺を縛れるはずがない。
そう言い聞かせてきた。
言い聞かせて、言い聞かせて、言い聞かせ続けてきた。
けれど、いつからだろう。
自由だという言葉そのものが、鎖のように足首へ絡みつき始めたのは。
自由になったのだから、もう傷ついてはいけない。
自由になったのだから、過去に振り回されてはいけない。
自由になったのだから、欲しかったものを今さら羨んではいけない。
自由になったのだから、あの場所を思い出して胸を詰まらせるなど、あまりにも筋が悪い。
そうやって、自由という言葉で自分を縛っている。
そのことに、雅治自身はまだはっきりとは気づいていない。
ただ、胸の奥に沈めていた何かが、最近になって、静かにせり上がってきていることだけは分かっていた。
きっかけは、あの子の笑顔だった。
赤ん坊だった。
何も分からないはずの、ただ泣いて、眠って、ミルクを欲しがって、抱かれれば安心して、笑うだけの存在。
なのに、その笑顔を見た瞬間、胸の奥のどこかが妙に騒いだ。
あんなふうに笑うのか、と。
あんなふうに、ただ嬉しいから嬉しいと、楽しいから楽しいと、顔いっぱいに出せるものなのか、と。
泣けば抱き上げられる。
お腹が空けばミルクをもらえる。
眠れば布団をかけられる。
笑えば、その笑顔をまた見たいと誰かが思う。
たったそれだけの光景が、どうしてこんなにも胸に引っかかる。
俺は自由だ。
だから、そんなものに揺らされる必要はない。
俺は自由だ。
だから、かつて自分が欲しかったかもしれないものを、他人の赤ん坊の笑顔に重ねる必要などない。
俺は自由だ。
だから。
だから。
否定に否定を重ねる。
これは違う。
羨望ではない。
未練ではない。
怒りではない。
寂しさでもない。
ただ、三日間慣れない育児めいたことをしたせいで、少し感覚がおかしくなっているだけだ。
そう片づける。
片づけようとする。
だが、思考を止めれば浮かんでくる。
あの子の小さな手。
抱き上げた時の重み。
ミルクの甘い匂い。
泣き声に慌てる酒寄。
眠気を噛み殺しながらも、あの子を見捨てられない酒寄。
不器用で、危なっかしくて、なのに一度立ったら最後まで立とうとする
彼女の生き方は不器用だ。
見ているだけで、たまに腹が立つくらい不器用だ。
それでも、できる側の人間だと思う。
壊れかけても立つ。
泣きそうでも前を見る。
誰かのために、自分の睡眠も時間も削ってしまう。
自分ではそれを弱さだと思っているのかもしれないが、
だから、目で追ってしまう。
だから、口を挟んでしまう。
だから、放っておけない。
けれど、それすら本当に純粋な善意だけなのかと問われれば、答えは濁る。
彼女を応援したい。
彼女には、自分のようになってほしくない。
彼女が夢を叶えるところを見たい。
その気持ちは本物だ。
だが同時に、彼女を見ていると、自分が背を向けたものまで見えてしまう。
逃げ出した場所。
逃げ出したはずの記憶。
逃げたかったはずの息苦しさ。
常にトップを求められた。
できても当たり前だった。
努力するのは当たり前。
結果を出すのも当たり前。
お前一人が大変なわけではない。
甘えた口を利くな。
その程度で立ち止まるな。
できるだろう。
できて当然だろう。
笑顔より叱責。
称賛より確認。
温度より評価。
抱擁より、次の課題。
唯一の拠り所だった母も、
整理はつけた。
つけたはずだった。
あれは過去だ。
今の自分とは違う。
自分はもう自由だ。
もう本家の人間としてではなく、自分で選んだ場所で、自分の足で立っている。
なのに、あの子が笑うたびに、どうしても思ってしまう。
俺も、あんなふうに笑えたのではないか
俺も、あんなふうに誰かに見てほしかったのではないか
その問いが浮かんだ瞬間、雅治はすぐに蓋をする。
違う。
今さらだ。
そんなことを思う資格はない。
一度背中を向けて逃げ出した張本人が、何を今さら欲しがる。
自分が捨てたものを、他人の笑顔に重ねて勝手に傷つくなど、お門違いもいいところだ。
まして、それを酒寄に向けるなど論外だった。
彼女もまた、抱えている。
母への憧れと反発。
認められたいという願い。
優秀であらねばならないという縛り。
頼ることが下手で、立つことばかり覚えてきた危うさ。
そこへ、
それこそ、本家で嫌というほど見てきた大人たちと同じになる。
そんな醜い真似だけはしたくなかった。
だから逃げる。
より自由で。
より派手で。
より面白くて。
より馬鹿で。
より理不尽で。
誰にも縛られない、
ツクヨミの仕様を崩す。
観測判定の裏をかく。
ヤチヨ相手に通じるかも分からない禁じ手を考える。
システムの補正を逆手に取る。
笑える方へ。
派手な方へ。
自由な方へ。
そうやって思考をずらす。
そうしていれば、見なくて済む。
あの子を心配していることを。
酒寄を応援したいと思っていることを。
諌山や綾紬と話す時間が、思っていたより悪くなかったことを。
四畳半の部屋で過ごした三日間が、短くとも、どうしようもなく暖かかったことを。
あの時間が愛おしかったことを。
できることなら、もう少し続いてほしいと願ってしまったことを。
その願いだけは、本物だった。
嘘ではなかった。
だから、余計に厄介だった。
雅治は左手でタブレットに板書を写しながら、右手でメモ用紙に線を引く。
優等生の顔で。
誰にも気づかれないように。
静かな姿勢のまま、内側だけを激しく動かし続ける。
朝一番に、酒寄へ聞かなかった。
あの子はどうしている。
変化はあったか。
何か起きたか。
本当なら聞くべきだった。
少なくとも、あの三日間の
短く、必要なことだけを。
だが今日、学校にいたのは
僕の橘雅治は、教室でそんな話題を振らない。
誰が聞いているか分からない場所で、無防備な言葉を落とさない。
酒寄が話さないなら、こちらから踏み込まない。
相手の判断を尊重する。
理屈としては正しい。
けれど、それだけではない。
酒寄からその話を聞けば、あの三日間の続きをまた受け取ることになる。
あの子が今どうしているのかを知ることになる。
もっと深く心配することになる。
もっと強く、あの狭い部屋へ意識を引き戻されることになる。
そして何より。
酒寄が、あの子をどう見始めているのかを知ってしまう。
彼女がまだ追い出したいと思っているのか。
それとも、もう少しだけ手放したくないと思い始めているのか。
それを知るのが、少し怖かった。
なぜなら、それを知れば、自分の中にある同じ感情も認めなければならなくなるからだ。
だから僕でいた。
誰にも期待されすぎず。
誰にも深く踏み込ませず。
見て、聞いて、話して、それでも互いの傷にはならない距離を保つ。
僕を求める人には、僕として。
シらぬイを面白がる者たちには、シらぬイとして。
あの子に必要なのが保護者なら、保護者として。
その場に合う顔を出せばいい。
そうすれば、全部守れる。
僕も。
俺も。
シらぬイも。
誰かに見せていい部分も。
見せてはいけない部分も。
そうすれば、きっとよくなる。
これまでそうやって、どうにかやってきた。
今もなお、うまくやれている。
破綻していない。
そう思うことにした。
けれど、言い聞かせるたびに、胸の奥から別の声がせり上がる。
本当にそうか。
今の俺は自由なのか。
僕は本当に、あの場所から逃げ切れたのか。
解放されたのか。
なら、このもやつくものは何だ。
なぜ、赤ん坊の笑顔を見てから、あの感情が止まらない。
なぜ、酒寄の疲れた顔を見ると放っておけない。
なぜ、諌山や綾紬と一緒にいる空気を、悪くないと思う。
なぜ、あの狭い部屋の時間を、もう一度ほしいと思ってしまう。
答えは出ない。
出ないまま、雅治は鉛筆を動かし続ける。
僕も本物だ。
俺も本物だ。
シらぬイもまた、嘘だけでできているわけではない。
けれど、どれも完全ではない。
どれも本物で、どれも偽物でもある。
あるいは、
透明に見える。
向こう側が見えるように装える。
けれど実際には、罅が入り、歪み、見る角度によって映るものが変わってしまう。
百パーセントでそこにいるように見せながら、未だに百パーセントを出せない。
出さない。
出せば、割れてしまう気がする。
だから今日も、
静かに。
真面目に。
優等生の形を崩さずに。
その奥で、蓋をしたはずのものが、少しずつ、少しずつ、浮かび上がってくる音を聞きながら。
本当はすぐにカフェからのツクヨミまでに持っていきたかのです。
ですが、今日の朝にいただいた指摘で前話を読み直しながら感じたモヤっとしたもの、加えて思いつきによる最後のギャグシーン。
それを見て少々プロットの予定を変えて、先に雅治の負の麺、というよりかは、彼の抱えたものを彩葉の抱えたものと対照的に見せながら、さきに書いておこうと結論になりました。
少々強引にカーブをしてしまったんで皆さんもシートベルトはいつもちゃんとつけているのか確認するように。
前回まではギャグ色を濃ゆく出しすぎたんでここでお塩加減を整えるためのシリアスだと思ってください(汗)
今回の話を込めて、作者としての僕の彩葉と雅治に対する解釈についても活動報告で書いておこうと思います。
気になる方はどうぞ。
あと、今週からこの5月はほぼ更新ペースが半分以下に落ちるかも知れません。
今週は仕事が忙しいので、5月の半ばでは韓国へ十日ほど言ってきますのでノートパソコンを打ち込める時間が限られるためです。少しずつメモって集めて書けば週に1話ペースなら投稿できるかも知れません。