今日も正常営業。ただし“そういうとこ”を添えてー   作:火力万能主義

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二次創作週間ランキング109位!初めてのランクインだァァァァ!!!!
ありがとう!ありがとうございます!まだまだこれからなんで、今後ともよろしくお願いします!

 ふぅ赤ちゃんのかぐや。
 なら、やることは一つだけ、だろう?
 書きたかったシーンにようやくたどり着いたんで、頑張りました 
 おかげで今日はおまけ付きでも3万字ギリいかないボリュームです。残さず全部でどうぞ♡


第八話 お子育てはじめ!そして、終わり?

第八話 お子育てはじめ!そして、終わり?

 

 

 朝七時。

 

 カーテンの隙間から差し込んだ薄い朝の光が、彩葉のまぶたをじわじわと押し上げる。

 

 最初に感じたのは、身体の重さだった。

 背中も、肩も、首も、全部が鈍く痛い。

 普段の寝起きの怠さとは違う。

 疲労がそのまま体の上へ乗っているみたいな重さだった。

 

 次に来たのは、妙な違(・)和(・)感(・)だった。

 

 いつもの寝床なのに、いつものじゃない何か。

 自分の部屋ではある。けれど、寝ている位置も、身体へかかっている布団の重みも、何もかもがほんの少しずつ見慣れていない。

 

 そこでようやく、昨夜のことが、細い針みたいに頭の中へ一本ずつ戻ってくる。

 

 バイト帰り。

 家の前の電柱。

 七色の光。

 扉。

 赤ん坊。

 通話。

 橘雅治。

 泣き声。

 ヤチヨの歌。

 夜。

 

「……」

 

 彩葉は、しばらく瞬きもせず天井を見た。

 

 できれば夢であってほしかった。

 少なくとも、電柱から赤ん坊が出てくるあたりから先は、疲れすぎた頭が見た質の悪い幻覚であってくれればよかった。

 

 けれど。

 

 ゆっくりと首だけを動かしたその先に、現実はしっかりと転がっていた。

 

 自分のすぐ隣。

 布団の中。

 小さな寝息。

 

 赤ん坊がいる。

 

「……うそでしょ」

 

 思わず漏れた声は、寝起きの掠れた小さな声だった。

 けれど、それは否定じゃない。確認だった。

 夢じゃない。

 本当にいる。

 

 そして、その時だった。

 

 彩葉の視線が、赤ん坊の顔から体へ降りていく途中で止まる。

 

「……あれ」

 

 昨日より。

 ほんの少しだけ。

 でも、確実に。

 

「ちょっと待って」

 

 上体を起こしかけて、そこで体がぎしりと抗議する。

 眠った気がしないのに、眠った分だけ筋肉が固まっている。変な姿勢で落ちたのだろう。

 それでも彩葉は、布団へ片手をつきながら赤ん坊を見直した。

 

 昨日、抱いた。

 何度も抱いた。

 軽かった。小さかった。

 その感触はまだ腕の中に残っている。

 

 なのに今、目の前にいるその子は、そこからほんの少しだけ、確かに変わっていた。

 

 顔立ちの輪郭。

 頬の丸み。

 手足の長さ。

 布団の沈み方。

 

「……大きく、なってない?」

 

 その声に反応したのは、玄関近くの気配だった。

 

「気のせいじゃない」

 

 低く、少し掠れた声。

 彩葉が顔を向けると、玄関のたたきへ腰を下ろしたままの雅治がいた。

 

 スマホを片手に、壁へもたれもせず座っている。

 制服ではないが、服の皺と、目の下の影と、姿勢の硬さだけで分かった。

 

「……寝てないの?」

 

「寝るわけないだろ」

 

 即答だった。

 

 学校で聞く“僕”の口調ではない。

 短くて、ぶっきらぼうで、でも変に荒れてはいない。

 必要なことだけをまっすぐ置く、“俺”の声。

 

 彩葉はまだ寝起きで鈍い頭のまま、その言葉を受け取る。

 

「昨夜、というか今日の夜明け前に、お前が言ったとおりに光ってたぞ。その赤ん坊」

 

「……は?」

 

「今隣に眠っているその子だ。夜中に一瞬、七色に光った。そのあと、少し大きくもなってたな」

 

 あまりにもさらりと言うので、一瞬、本当に大したことではないみたいに聞こえる。

 けれど言っている内容は最悪だった。

 

「ちょっと待って。待って。いや、待って」

 

「俺も同じ反応はした」

 

「そういう問題じゃなくて」

 

「そういう問題だろ。実際起きたんだ」

 

 そう言われると、否定しきれない。

 否定しきれないどころか、自分の目でももう確認してしまっている。

 

 昨日のままではない。

 少しだけ。

 けれど、確実に違う。

 

 彩葉は思わず額へ手を当てた。

 頭痛はない。熱もたぶんない。

 夢でもない。

 となると、余計にたちが悪かった。

 

「……ほんとに、何なのよ、この子」

 

「少なくとも普通の人間じゃない」

 

「そんなの分かってるわよ……!」

 

 半ば叫びそうになって、慌てて声を落とす。

 目の前の当人がまだ寝ている。

 いや、当人と呼んでいいのかも分からないが、とにかく起こしたくはなかった。

 

 その時だった。

 

 彩葉の手に、何か冷たい感触が触れる。

 

「……ん?」

 

 布団だった。

 いや、正確には、布団の一部がしっとりと湿っている。

 

 嫌な予感がする。

 すごくする。

 

 彩葉は無言で掛け布団を少しだけめくる。

 見る。

 止まる。

 

「……うわ」

 

 その一拍のあと。

 

「うわ、濡れてる。マジかぁ……」

 

 力の抜けた声が、そのまま口から落ちた。

 

 赤ん坊――いや、もう赤ん坊とだけ呼ぶのも怪しいその子は、どうやら寝ているあいだにおもらしを済ませていたらしい。布団の一部がしっかり被害を受けている。

 

 彩葉は天井を見上げた。

 もう笑うしかない気がした。

 

 電柱から出てきた。

 七色に光った。

 夜中に少し成長した。

 そのうえで、おもらしはする。

 

 どこまで現実的なのか分からない。

 

 雅治が小さく苦笑する。

 

「この年頃なら地球人と宇宙人も関係ないのかもな」

 

「そこだけ妙に平等ね……」

 

「ああ、妙なとこで平等だ」

 

 言いながら、雅治はすっとスマホを持ち上げた。

 

「……ちょっと、何してるの」

 

「記録」

 

 答えながら、ためらいもなく濡れた布団と赤ん坊の様子を画面へ収める。

 

 彩葉は白い目を向けた。

 

「今のそれ、必要?」

 

「必要だとも」

 

「どの用途に」

 

「まだ女の子か男の子かは知らないが、将(・)来(・)の(・)切(・)り(・)札(・)として確保しておくのは戦術の掟にして定石だ」

 

「やめなさい」

 

「ただの記録だ」

 

「今の理屈でそれ通ると思ってる?」

 

「通すつもりで言ったとも」

 

「最低」

 

 雅治は涼しい顔で二枚目まで撮った。

 彩葉は本気で嫌そうな顔をしたが、同時に、それで少しだけ気が抜けたのも事実だった。

 朝起きて最初にする会話がこれでいいのか、という問題はあったが、少なくとも昨夜の緊迫感だけで押しつぶされる空気ではなくなった。

 

「……で」

 

 彩葉は小さく息を吐く。

 

「確認、しなきゃよね」

 

「何を」

 

「何を、じゃないでしょ。性別」

 

「ああ」

 

「そこで変に真顔にならないで」

 

「重要情報だろう」

 

「その言い方が腹立つのよ……」

 

 ぶつぶつ言いながらも、彩葉は布団の濡れた箇所を避けるように姿勢を変える。

 まだ寝ぼけた頭は重い。

 でも、こういう確認は後回しにできない。

 地球人だろうが宇宙人だろうが、おむつを替える側にとっては切実な情報だ。

 

 恐る恐る、しかし手つきはできるだけ丁寧に、布の端を少し持ち上げて確認する。

 

「……」

 

 数秒。

 彩葉の動きが止まる。

 

「どうだ」

 

「……女の子」

 

「そうか」

 

「そうか、じゃないのよ」

 

「いや、重要情報が一つ確定した」

 

「本当にそれだけ?」

 

「今のところはな」

 

 彩葉はじとっとした目を向ける。

 雅治は一切引かない。

 

「写真消しなさいよ」

 

「それは将来の本人の交渉材料として――」

 

「消しなさい」

 

「……検討する」

 

「今すぐ」

 

「分かった。少なくとも表に出る場所には上げない」

 

「そこまで疑ってないけど、最低ラインが低すぎる」

 

 そう言いながらも、彩葉はどこかで少しだけ安心していた。

 昨夜のあの異様な夜が明けて、朝になって、現実がぐしゃぐしゃのまま続いている。

 なのに、隣でこの男は平然と写真を撮って、ぶっきらぼうに記録だの戦術だのと言っている。

 

 呆れる。

 腹も立つ。

 でも、そのくだらなさが今はありがたかった。

 

 雅治はスマホを操作しながら、あっさりと話題を切り替える。

 

「朝七時だ」

 

「……うん」

 

「もうすぐ泣き出すかもしれない」

 

 それはつまり、空腹の時間が来る、という意味だった。

 

 彩葉は目を瞬かせる。

 さっきまでの“宇(・)宙(・)人(・)か(・)も(・)し(・)れ(・)な(・)い(・)存(・)在(・)”という異常さが、急に“朝ごはんを欲しがるかもしれない幼児”へ落ちてくる。

 

 頭がおかしくなりそうだった。

 でも、それが今の現実だ。

 

 雅治は立ち上がる。

 

「近くの二十四時間スーパーで、とりあえず粉ミルクと哺乳瓶、オムツあたりは買ってくる」

 

「え」

 

 彩葉が顔を上げる。

 

「いや、さすがにそれは悪い」

 

「悪いで済ませてる場合じゃないだろ」

 

「でも、ー」

 

 間髪入れずに返される。

 

「遠慮して赤ん坊が空腹で泣く方が面倒だ。必要なもんは今のうちに揃えた方がいい」

 

「それは……そうだけど」

 

「なら決まりだ」

 

 そう言って立ち上がろうとする雅治を見て、彩葉は慌てて口を開いた。

「待って」

 

「なんだ」

 

「何か食べてから行かないと、さすがにまずいよ」

 

 立ち上がりかけていた雅治が、そこで一瞬だけ動きを止めた。

 

「いや、いい」

 

「よくない」

 

 食い気味に返す。

 ここは引けなかった。

 

「昨日からまともに寝てないし、朝から動くんだから、何か入れてから行って」

 

「大げさだな」

 

「大げさじゃないの。こっちが落ち着かないし」

 

 そう言い切った彩葉の目は、疲れているくせに変なところだけ強かった。昨夜から散々限界みたいな顔をしていたくせに、こういう時だけ妙に頑固で、妙に譲らない。

 

 雅治はそんな彩葉を少しだけ見たあと、何も言わず、視線を部屋の中へ流した。

 

 小さな流し台。

 最低限しかない食器。

 冷蔵庫の上へ積まれた、値引きシールつきの保存袋。

 棚の隅へ寄せられた、特売でまとめ買いしたらしい粉物や乾麺。

 生活感はある。

 だが、余裕のある暮らしの匂いはしない。

 

 それだけで十分だった。

 

 この部屋の主が、何をどれだけ削って、どこまで切り詰めて生活しているのか。

 全部を知っているわけじゃない。けれど、その輪郭くらいなら、もう見えてしまっている。

 

 だからこそ、雅治はあえて軽い調子を崩さずに言った。

 

「その部屋の感じで、わざわざ俺にまで食わせようとするな」

 

 彩葉がぴたりと止まる。

 

「……そういう言い方、ずるい」

 

「事実だろ」

 

「事実でも、今それ言われると余計に出したくなるの」

 

 雅治は黙る。

 彩葉はその沈黙の隙を逃さなかった。

 

「豪華なのは無理。でも、何もないわけじゃないから」

 

「酒寄」

 

「お願い。食べさせないまま送り出す方が、私が嫌なの」

 

 その言葉は、見栄でも義務感でもなかった。

 ただ、本当にそれが嫌なのだと分かる声だった。

 

 昨夜、自分のために走ってきた。

 寝ないまま朝を迎えた。

 なのに、そのまま何も食べずに買い出しへ出させる。そんなのは、たぶん彩葉の中でどうしても収まりが悪い。

 

 そこまで言われてしまえば、雅治ももう強くは断れなかった。

 

「……分かった。あるものでいい」

 

「最初からそう言って」

 

「押し通したのはそっちだろ」

 

 わずかに呆れたようなその返しへ、彩葉はほんの少しだけ口を尖らせる。

 けれど、そのやり取り自体がもう、断られなかったことへの安堵みたいでもあった。

 

 雅治はその顔を見て、少しだけ目を細める。

 

「……無理はするなよ」

 

「無理じゃないし」

 

「信用ならないな」

 

「今日はそこそこあるもので何とかなるって」

 

「その“そこそこ”の基準が怪しいんだが」

 

「失礼すぎるでしょ」

 

「事実確認しただけだ」

 

 いつもの調子の応酬だった。

 けれど彩葉はもう引かない。

 

 こういう時、この男は下手に優しく断ってくる。相手の負担を減らすつもりで。

 でも、それをそのまま受け入れてしまうと、自分の中の何かがどうしても落ち着かなかった。

 

 昨夜、助けを求めた。

 来てくれた。

 朝になっても、まだいる。

 それだけでも十分おかしいのに、そこでさらに何も受け取らずに出ていかれると、自分だけが一方的に頼っているみたいで、妙に居心地が悪いのだ。

 

 だから、これはたぶん見栄でも意地でもなく、せめてもの均衡だった。

 

「ちょっと待ってて」

 

 そう言って彩葉はキッチンへ向かった。

 まだ身体は重い。眠気も抜けきってはいない。

 それでも手つきだけは迷わない。

 

 何を出せるのか。

 どこまで出せるのか。

 頭の中ではもう、残っている材料と今日の食費の計算が走り始めていた。

 

 そこまで押し切られて、雅治はようやく小さく息を吐いた。

 

 

     *

 

 

 冷蔵庫を開ける前に、彩葉はいつものように頭の中で計算する。

 

 一日食費。

 理想は五百円以内。

 できれば四百円台。

 本当にきつい日は三百円台へ落とす。

 昼を学食で最低限に抑えた日は、夜へ少し回せる。

 逆にバイト先で何も賄えなかった日は、そのぶん翌日で削る。

 

 そうやって、何日も、何週間も、何か月もやってきた。

 

 今日の残弾は、少ない。

 少ないが、ゼロではない。

 

 棚の中。

 安売りで買ったパンケーキミックス。

 冷蔵庫の片隅。

 半端に残った冷凍ブルーベリー。

 開封済みの安いいちごジャム。

 牛乳は近頃に買った覚えなし。

 卵もない。

 バターもない。

 

 終わっている。

 終わっているが、その中ではまだマシな部類でもある。

 

 普段の自分だけが食べるなら、ここは迷わず別の手を選ぶ。

 水で溶いた粉を焼くだけ。

 腹は膨れる。

 カロリーも取れる。

 味はしない。

 でも生きる分には十分。

 

 それが酒寄彩葉の画期的貧困飯、「粉と水のパンケーキ」だった。

 

 安い。

 簡単。

 腹にたまる。

 ついでに洗い物も少ない。

 

 どう考えても豊かな食卓ではない。

 だが、飢えを避けるという意味においては非常に優秀である。

 

 そして今日、その一個上をいくス(・)ペ(・)シ(・)ャ(・)ル(・)メ(・)ニ(・)ュ(・)ー(・)を出すなら、これしかなかった。

 

 冷凍ブルーベリーと、安物のいちごジャム。

 

 甘味がある。

 色もある。

 見た目だけなら、どうにか朝ごはんの顔ができる。

 

「……朝食スペシャル」

 

 小さく呟いて、自分でも少しだけ虚しくなった。

 だが、虚しくなっている暇もない。

 

 ボウルを出す。

 粉を入れる。

 水を注ぐ。

 

 計量は早い。

 無駄がない。

 目分量に見えて、実際はほとんど狂わない。

 卵も牛乳も入らない分、生地のゆるさだけは失敗できないのだ。

 水が多すぎれば薄く広がりすぎる。

 少なすぎれば火の通りが悪くなる。

 

 泡立て器は使わない。

 使えば洗い物が増える。

 スプーン一本で、だまを潰しながら混ぜていく。

 粉の筋が消えるまで。

 でも混ぜすぎない程度に。

 

 その手つきだけ見れば、普通に料理ができる人のそれだった。

 

 火をつける。

 フライパンを温める。

 油はほんの少し。

 キッチンペーパーで薄く伸ばす。

 生地を落とす。

 

 じゅ、と鳴る。

 

 表面に小さな気泡が出るのを待つ。

 焦らない。

 縁の乾き具合を見て、タイミングを測る。

 ヘラを差し込む。

 ひっくり返す。

 

 焼き色は綺麗だった。

 きつね色。

 むらがない。

 焦げてもいない。

 生でもない。

 

 だから余計に、材料の乏しさが目立つ。

 

 まともな材料さえあれば、もっとちゃんとしたものになる。

 牛乳があれば。

 卵があれば。

 少しでもバターや蜂蜜があれば。

 たぶん見た目も味も、ずっと“普通の朝食”へ近づく。

 

 でも現実は違う。

 

 焼いているのは、ほとんど水で溶いた粉だ。

 ふっくらというより、みっしりしている。

 香ばしいというより、小麦が焼けた匂いそのもの。

 パンケーキというより、薄い小麦の焼き板に近い。

 

 それでも彩葉は手を抜かない。

 二枚目も、三枚目も、同じ焼き加減で揃える。

 

 冷凍ブルーベリーは少量だけ皿の端へ。

 自然解凍を待つ余裕はないので、軽く水へくぐらせて表面だけを戻す。

 いちごジャムはスプーンで丁寧にすくい、量をけちりながらも見た目だけはそれっぽく置く。

 

 頭の中で、また計算する。

 

 粉。

 一食ぶんでせいぜい三十円台。

 ブルーベリーはひとつかみで二十円前後。

 ジャムは大さじ一杯いくかどうかで十数円。

 

 全部合わせても、百円を超えるか怪しい。

 

 それでも、今日のこれは自分の中でははっきり豪華だった。

 

 ただ腹を満たすだけの粉と水のパンケーキではない。

 色がある。

 甘味がある。

 少なくとも、客へ出してもいいと思える程度の体裁はある。

 

「……よし」

 

 皿へ盛る。

 

 真正面から見れば、それなりに見えなくもない。

 横から見れば薄い。

 食べればたぶん、すぐ正体がばれる。

 

 でも、今はこれが精一杯だった。

 

「できたよ」

 

 テーブルへ置くと、雅治がその皿を見る。

 

 何も言わない。

 ただ、一度だけ全体を眺める。

 パンケーキもどき。

 激安冷凍ブルーベリー。

 安物のいちごジャム。

 どうにか朝食の顔をしている、貧困の工夫の塊。

 

 彩葉は少しだけ身構えた。

 薄いとか。

 固そうとか。

 そういう感想が来ると思った。

 

 けれど雅治は何も言わなかった。

 椅子へ座り、ただ黙々と食べ始める。

 

「いただきます」

 

 一口。

 二口。

 ジャムも。

 ブルーベリーも。

 一切コメントなし。

 

 その無言が、逆に少し怖い。

 

「……どう」

 

 結局、彩葉の方から聞いてしまう。

 

 雅治は口の中のものをきちんと飲み込んでから、彩葉を見た。

 それでも味の講評はしない。

 

「ごちそうさま。おかげで腹が膨らんで助かった」

 

 それだけだった。

 

 彩葉は一瞬、きょとんとする。

 味には触れない。

 でも、出されたものは全部食べる。

 その上で、“助かった”と言う。

 

 ずるいと思った。

 そういうところが。

 

 そして雅治は、皿を見下ろしながら、心の中でだけこう結論づけるのだろう。

 

 味はただの水溶かしの小麦粉。

 なのに焼き加減だけは丁寧で、かつしっかりとは。変な才能もあるんだな。

 

 味はともかく、腕自体は欠点なし。

 

 そういう、妙に本質だけを拾う評価を、この男はたぶん平気な顔で下す。

 

「じゃあ行ってくる」

 

「え、もう?」

 

「のんびりしてると次に泣く」

 

「……たしかに」

 

「スーパーと、西竹屋も回る」

 

「西竹屋?」

 

「ベビー用品の店だろ。ああいうのはスーパーだけだと足りない」

 

「……そこまで」

 

「ここまで来たら誤差だ」

 

 いそいそ、という言葉が似合うような妙な手際の良さで、雅治は玄関へ向かう。

 

 その背中を見送りながら、彩葉はさっきのパンケーキもどきを思い返す。

 自分で食べなくても分かる。

 味はひどい。

 いや、ひどいというほど味があるわけでもない。

 ほとんど水(・)で(・)溶(・)い(・)た(・)小(・)麦(・)粉(・)そのものだから。

 

 財布とスマホを確認して、買い物袋を持ち直す。

 玄関へ向かいかけたところで、雅治がふと足を止めた。

 

「……味は、ただの水溶かしの小麦粉だったな」

 

「ちょっと」

 

 即座に彩葉が睨む。

 

 けれど雅治は気にした様子もなく、靴を履きながら続ける。

 

「なのに焼き加減だけは妙に丁寧で、ちゃんとしてた。変な才能もあるんだな」

 

「褒めてるのか貶してるのか、どっち」

 

「観察結果だ」

 

「一番たち悪い言い方」

 

「味はともかく、腕自体は悪くない」

 

 それだけ言って、雅治はドアノブへ手をかける。

 

「じゃあ行ってくる」

 

 ぱたん、とドアが閉まる。

 

 残された彩葉は、しばらく玄関の方を見たまま動けなかった。

 

「……ほんと、言い方」

 

 腹が立つ。

 でも、ちゃんと見ていたのだとも分かる。

 それがまた、少しだけ悔しかった。

 

 でも、たぶんその通りでもある。

 味はともかく、腕自体は欠点なし。

 そういう、妙に本質だけを拾う言い方を、あの男はきっとする。

 

 玄関のドアが開いて、閉まる音がした。

 

 ワンルームに残されたのは、彩葉と、少し大きくなった女の子と、まだ温かいだけで特に美味しくもない朝食の気配だった。

 

 

    *

 

 ドアが閉まったあともしばらく、彩葉はその音の余韻を聞いていた。

 

 ワンルームの中が、急に少しだけ広く感じる。

 ほんの数分前までは、そこに橘雅治という妙に存在感のある同級生がいて、ぶっきらぼうに段取りを決め、勝手に写真を撮り、勝手に朝食を食べて、勝手に出ていった。

 なのに、いなくなった途端、妙に静かだ。

 

 静かで、少しだけ心細い。

 

「……ほんとに、行った」

 

 口に出してみて、我ながら子どもみたいだと思う。

 行くと言っていたのだから行くに決まっている。

 それなのに、あの男は最後まで平然としすぎていて、いざいなくなると急に現実味が増す。

 

 彩葉は小さく息を吐き、隣の女の子へ視線を落とした。

 

 女の子。

 昨日の夜までは、ただ“赤ん坊”だった。

 今朝になって、確認して、性別が分かって、それで少しだけ輪郭が生まれた気がする。

 けれど相変わらず、何者なのかは分からない。

 電柱から出てきて、夜中に光って、少し成長した。

 

 意味が分からない。

 意味は分からないのに、寝息だけはやけに普通だった。

 

「……あなたも、ちょっとぐらい説明しなさいよ」

 

 掛け布団の上から小さな身体をそっとつついてみる。

 返事は当然ない。

 あるのは、少しだけ眉が動いた気配と、次の瞬間に戻る静かな寝息だけだった。

 

 彩葉はそこで、部屋の中を見回した。

 

 散らかったというほどではない。

 でも、整っているとも言いづらい。

 濡れた布団。

 移しかえた敷布団。

 開いたままのノート。

 飲みかけの水。

 洗っていないフライパンとボウル。

 現実へ追いつこうとして失敗した痕跡だけが、あちこちに残っている。

 

 何から手をつければいいのか分からない。

 

 とりあえず、濡れた布団をどうにかするべきだろうか。

 いや、その前にこの子が起きたらどうする。

 泣いたら。

 お腹が空いたら。

 そもそも、普通のミルクでいいのか。

 地球人と宇宙人の間に、粉ミルクで埋まる程度の差しかない保証なんてどこにもない。

 

 考えれば考えるほど、頭が重くなる。

 眠気もまだ完全には抜けていない。

 それでも、やることだけは増えていく。

 

「……ああもう」

 

 小さく呻いてから、彩葉は立ち上がった。

 足元はまだ少し頼りないが、さっきよりはましだった。

 少なくとも、朝食もどきを焼いたくらいの作業はできる。

 

 まずはフライパンを洗う。

 ついでにボウルも洗う。

 使った皿も軽く流す。

 水音が響く。

 こんな普通の生活音だけが、どうしてこんなにありがたいのか分からない。

 

 その途中で、背後から小さな声がした。

 

「……ふぇ」

 

 彩葉の肩が跳ねる。

 

 慌てて振り向く。

 女の子が起きていた。

 いや、正確にはまだ寝ぼけているだけで、起ききってはいないのかもしれない。

 でも、目が少しだけ開いている。

 口元が頼りなく動いている。

 

「え、ちょっと待って、待って待って」

 

 彩葉は濡れた手を慌ててタオルで拭き、布団のところへ駆け寄った。

 しゃがみ込む。

 抱き上げる。

 

 軽い。

 昨日抱いた時より、やっぱりほんの少しだけ重い。

 ほんの少し。

 けれど、気のせいでは済まない程度には違う。

 

「……ほんとに、昨日より大きくなってるじゃない」

 

 ぼそりと呟く。

 

 女の子は彩葉の腕の中で、まだ半分眠っているみたいな顔をしていた。

 泣くほどでもない。

 笑うでもない。

 ただ、もにゃもにゃと口を動かしている。

 

 空腹なのだろうか。

 それとも、ただ目が覚めただけか。

 

 こういう時、どういう顔をすればいいのか、誰も教えてくれなかった。

 彩葉は抱き方を少し変えてみる。

 背中を軽く撫でる。

 昨日よりは、少しだけ自然にできた気がする。

 

「橘君、まだかな……」

 

 口にしてから、自分で少しだけ驚く。

 そんなふうに、いることを前提にした言い方をしたつもりはなかった。

 でも、もう無意識のうちに、あの男が戻ってくることを当然みたいに待っている。

 

 少しだけ悔しい。

 少しだけ、安心する。

 

     *

 

 近くの二十四時間スーパーは、朝の半端な時間らしい眠たげな空気に包まれていた。

 

 橘雅治は買い物かごを片手に、食品売り場と日用品売り場を行き来していた。

 目当ては明確だ。

 だが、明確だからといって迷わないわけではない。

 

 粉ミルク。

 哺乳瓶。

 おむつ。

 おしりふき。

 ベビー用のタオル。

 ガーゼ。

 最低限必要なものを頭の中で並べる。

 

 問題は、どれを選ぶべきかだ。

 

 対象月齢。

 サイズ。

 容量。

 種類。

 説明書き。

 棚に並ぶ文字を一つ一つ追いながら、雅治は小さく眉を寄せる。

 

「……月齢不明って、だいぶ詰むな」

 

 乳児用品の棚を前にした高校二年男子としては、かなり不自然な呟きだった。

 けれど幸い、周囲にそれを気にする客はいない。

 朝のスーパーにいるのは、もっと自分の生活で忙しい大人たちばかりだった。

 

 手に取って、戻し、また別のものを見る。

 哺乳瓶は二本。

 粉ミルクは一番無難そうなもの。

 おむつは小さめのサイズから。

 ついでにビニール袋や洗剤も入れる。

 足りないよりはましだ。

 

 そこから今度は食材売り場へ向かう。

 

 食パン。

 卵。

 牛乳。

 ヨーグルト。

 バナナ。

 もやし。

 豆腐。

 納豆。

 袋うどん。

 安い野菜をいくつか。

 

 別に、頼まれたわけじゃない。

 だが今朝の食卓を見たあとで、赤ん坊用品だけ買って戻るのも違う気がした。

 

 水で溶いた粉を焼いて、そこへ冷凍ブルーベリーと安いいちごジャムを添えた“朝食スペシャル”。

 原材料費を考えれば、笑えるくらい安い。

 なのに、焼き加減だけは妙に丁寧だった。

 

 雅治はカゴへ卵を入れながら、今朝の皿を思い出す。

 

 味は、たぶん本当にただの水溶かしの小麦粉だ。

 そこは擁護しようがない。

 けれど、焼き加減だけはしっかりしていた。焦げてもいないし、生でもない。

 無駄に手際だけはよかった。

 

「変な才能もあるんだな」

 

 誰に聞かせるでもなく小さく呟いてから、雅治は自分で少しだけ笑いそうになった。

 

 味はともかく、腕自体は欠点なし。

 なんだか、その評価が酒寄彩葉そのものみたいで、少し腹立たしい。

 

 レジを済ませ、今度はその足で西竹屋へ向かう。

 

 本世界での西松屋じみた、子ども用品の専門店。

 早朝でも開いているのが助かった。

 

 服。

 肌着。

 小さな靴下。

 タオルケット。

 ベビーソープ。

 細々したものを一つずつ見ていく。

 

 そこでようやく、雅治は改めて思う。

 

「……高校二年の朝一でやる買い物じゃないな」

 

 誰に言っても仕方のない感想だった。

 

 京都の本家にいた頃の自分が見たら、鼻で笑うか、本気で嫌悪したかもしれない。

 けれど現実は、今こうして自分の手でベビー用品を選んでいる。

 

 予定はとっくに狂っていた。

 なら、ここから先は“狂ったなりに整える”しかない。

 

 そう割り切った方が、もうずっと早かった。

 

     *

 

 彩葉のワンルームへ戻ると、部屋の中からかすかな声が聞こえた。

 

「だいじょうぶ、だいじょうぶ……たぶんね。私も全然分かってないけど」

 

 開けたドアの向こうで、彩葉が女の子を抱いたまま小さく揺れている。

 たどたどしい。

 でも昨日よりは、ほんの少しだけ慣れた気がする。

 

 その姿を見た瞬間、雅治は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 

「戻った」

 

 短く声をかけると、彩葉が勢いよく振り向いた。

 

「あっ」

 

 その顔を見て、雅治は思う。

 やっぱり、待っていたのだろう。

 それを悟られたくないからか、彩葉はすぐに少しだけ眉を寄せた。

 

「遅い」

 

「これでも、だいぶ急いだ方だが」

 

「……そう」

 

 その返事が、妙に素直だった。

 言い返す元気も惜しいのか、それとも本当に少し安心しているのか。

 たぶん両方だろう。

 

「泣いたか」

 

「まだ。泣く手前までいったけど、今のところギリギリセーフ」

 

「偉いじゃないか」

 

「誰が」

 

「酒寄のことだ」

 

 そう言いながら、雅治は買ってきた袋をテーブルの上へ置いた。

 ひとつではない。

 スーパーの袋と、西竹屋の袋。

 それを見た瞬間、彩葉の目が少し見開かれる。

 

「……ちょっと待って。多くない?」

 

「最低限だ」

 

「最低限の定義どうなってるの」

 

「今朝の朝食を見たあとだと、だいぶ広めに取るしかなかった」

 

「それ、遠回しに貧乏って言ってる?」

 

「遠回しではあるな」

 

「否定しなさいよ」

 

「事実誤認になる」

 

「腹立つ……」

 

 いつものやり取りみたいなのに、内容は全然いつもじゃない。

 それが何だかおかしかった。

 

 雅治は袋から順に物を出し始める。

 

「粉ミルク、哺乳瓶、おむつ、おしりふき、ガーゼ、タオル。こっちは肌着と着替え。あと、食パン、卵、牛乳、もやし、豆腐、うどん、その他」

 

「……その他の圧が強い」

 

「お前が食う分もいるだろ」

 

 その一言で、彩葉は一瞬黙った。

 

 そこまで言われると、もう何を返していいか分からない。

 ありがたい。

 でも、ありがたいだけで済ませていい量でもない。

 申し訳ない。

 でも、今は正直助かる。

 

「……あとで絶っ対に返す」

 

「そうか」

 

「そこで遠慮しないのね」

 

「変に遠慮される方が面倒だろう?」

 

「ほんとに、そういうとこ」

 

「便利だな、その言い方」

 

 ぶっきらぼうなまま返す声に、彩葉は小さく息を漏らした。

 笑ったのか、呆れたのか、自分でも分からないような吐息だった。

 

 女の子がその腕の中で、小さく身じろぎをする。

 

 雅治はその動きを見て、袋から哺乳瓶を取り出した。

 

「で、ここからが本番だな」

 

「……ねえ」

 

「なんだ」

 

「普通に考えて、朝からやることじゃないわよね、これ」

 

「普通じゃないんだから仕方ないだろ」

 

 その返答が、あまりにももっともで、彩葉は言葉を失った。

 

 たしかにそうだ。

 普通じゃない。

 電柱から出てきて、夜中に光って、少し成長して、おもらしをして、今は自分の腕の中にいる。

 

 普通じゃない。

 でも、それでも。

 

 こうして哺乳瓶やミルクや肌着が並んだ瞬間、この子を“養う側”へ回ったのだという現実だけが、急にはっきりした。

 

 逃げられない。

 少なくとも、もう後戻りはできない。

 

 彩葉は腕の中の女の子を見下ろす。

 女の子は何も知らない顔で、まだ少し眠そうにしていた。

 

「……結局」

 

 ぽつりと呟く。

 

「結局、ここで見るしかないってことよね」

 

 雅治は哺乳瓶を確認しながら、短く答えた。

 

「正確には、“ここしか残ってない”だな」

 

 それは、結論というより、消去法の果てだった。

 

 でも、その不自由な結論だけが、今は妙に現実的だった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 そうして始まった三連休は、休みという言葉から連想するあらゆるものを、ほとんど最初の時点で失っていた。

 

 眠りたい。

 だらけたい。

 少しだけ好きなものを見て、ほんの少しだけ何もしない時間へ逃げ込みたい。

 

 そんな、学生らしくて、ありふれていて、誰に咎められることもないはずの願望は、三連休が始まったその瞬間から、きれいに脇へ追いやられていった。

 

 赤ん坊は泣く。

 眠る。

 目を覚ます。

 また泣く。

 そして、気づけば少し笑う。

 

 そのたびに、酒寄彩葉と橘雅治は、まだ呼び名さえ定まっていないこの共同生活未満へ、何度でも引き戻された。

 

 大変だった。

 実際、間違いなく大変だった。

 

 次のミルクはいつか。

 おむつは今か。

 寝たのに、なぜまた起きるのか。

 ようやく静かになったと思った数分後に、どうしてそんな顔で泣き出すのか。

 

 分からないことだらけで、予定は崩れ、時間の感覚は曖昧になり、二人の三連休は見る見るうちに“休み”らしい形を失っていく。

 

 けれど。

 

 その大変さを、不思議と大変さだけで終わらせないものがあった。

 

 赤ん坊は、よく泣いた。

 だがそれ以上に、よく笑ったのだ。

 

 ほんの少し機嫌が戻った時。

 抱き上げた拍子に目が合った時。

 ガラガラの鳴る音に反応した時。

 高い高いの終わりに、きゃ、と空気を弾くような声を漏らした時。

 

 その小さな顔が、一度ふっとほどける。

 それだけで、さっきまで確かにあった疲れや苛立ちが、ほんの少しだけどこかへ押しやられてしまう。

 

 また見たい、と思ってしまう。

 

 次はもっとちゃんと笑うかもしれない。

 次は今のより大きな声を出すかもしれない。

 そんなふうに思ってしまうのだから、たぶんあれはもう、ほとんど魔法だった。

 

 子どもが生まれると、暮らしの中心がいつの間にかその子になるのだと。

 結婚した人たちが、どこかくすぐったそうに、でも当たり前みたいな顔で語ることがある。

 

 その意味を、彩葉も雅治も、まだ本当の意味で知っているわけではない。

 知っているわけではないのに、この三連休だけは、まさしくそれだった。

 

 寝たいはずなのに、寝顔を見てしまう。

 少し休みたいはずなのに、笑わせる方法を考えてしまう。

 楽をしたいはずなのに、どうしたらもう少し機嫌よく過ごせるのかを、二人して妙に真剣に相談している。

 

 この三連休が、この子を笑わせるためだけに過ぎていくなんて、いったい誰が想像しただろう。

 

 しかもその中心にいるのは、電柱から出てきて、七色に光って、少しずつ成長している、どう考えても普通ではない存在だ。

 

 それなのに。

 

 それなのに、その笑顔だけは妙に普通で、妙に無防備で、妙にこちらの胸の柔らかいところへ入り込んでくる。

 

 だから困る。

 だから、放っておけなくなる。

 

 泣き声に振り回されているはずなのに。

 眠気で頭は鈍いはずなのに。

 状況だけ見れば、笑っていられるような余裕なんて、どこにもないはずなのに。

 

 どうしてか、その合間合間には小さな笑いがあった。

 どうしてか、その部屋には、慌ただしさとは別の、微かな温かさが残っていた。

 

 秘密と、寝不足と、見切り発車の共同戦線。

 その全部の真ん中で、女の子は笑う。

 

 そのたびに二人は、少しだけ困ったような顔をして、でも結局はその笑顔に負けるのだった。

 

 ――三連休の育児、開幕である。

 

 

 

     *

 

 

 

 彩葉のバイトの時間が近づく頃には、二人とも妙に手慣れた顔で役割を入れ替えるようになっていた。

 

 インターホンは鳴らない。

 ノックもない。

 いつの間にか、雅治は「来た」という前提で部屋の前まで来て、彩葉もまた「来る」という前提で鍵を開けるようになっている。

 

 これで付き合っているどころか、つい一か月前までにはろくに会話すらなかったのである。

 爆ぜろ、と言いたくなるのは、たぶん読者だけではない。

 

「酒寄、代わりに来たぞ」

 

 玄関を開けた瞬間、雅治はいつもの調子でそう言った。

 片手にはコンビニ袋。もう片方の手には、西竹屋のロゴ入りの袋。

 

 彩葉はバイト用の支度をしながら振り返る。

 

「いつもごめんね。私の都合ばかりに合わせてもらって」

 

「全然人に頼ることがなかった前よりかは、幾分もマシさ」

 

 ぶっきらぼうなくせに、返しだけはやけに優しい。

 そこがまた腹立たしい。

 

「……で、その手にある袋は?」

 

「ああ、これか?」

 

 雅治は自分の手元を見る。

 まるで何かおかしいものでも持っているのか、とでも言いたげな顔だ。

 

「暇つぶし用だ」

 

「何の」

 

「この子の」

 

 そう言ってテーブルへ置かれた袋から出てきたのは、カラフルなガラガラ、布絵本、柔らかい歯固め、それから妙に愛想のない顔をしたアヒルのぬいぐるみだった。

 

 彩葉はしばらく無言でそれを見下ろした。

 

「……親?」

 

「合理的な投資だ」

 

「どこが」

 

「泣かれるより安い」

 

「それってもう親じゃない?」

 

「違う」

 

「その返しの速さがもう怪しいのよ」

 

 けれど、赤ん坊の前へガラガラを差し出して、ほんの少しだけその目がこちらへ向くのを見た時、彩葉は何も言えなくなる。

 橘君は本人にその自覚があるのかないのか分からないまま、たぶんその辺の父親よりずっと真剣に、「どうすれば少しでも泣かれずに済むか」を考えている。

 

 彩葉は財布などを入れた出勤用のバッグを手にしながら、半分呆れ、半分だけ安心した顔で息を吐いた。

 

「……じゃあ、お願い」

 

「任せろとは言わないが、何とかはする」

 

「そこは言い切ってほしかった」

 

「言い切って外すよりマシだろ」

 

「そういう妙な誠実さ、今ちょっとムカつく」

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

 なのに、笑ってしまいそうになるからずるい。

 

 

 

     *

 

 

 赤ん坊――いや、女の子だと分かっても、二人ともまだ心の中では“この子”だの“赤ちゃん”だの、その場しのぎの呼び方しかできていなかった――をようやく寝かしつけたあとの部屋は、どこか休戦中の戦場に似ていた。

 

 起こさないように声は小さく。

 けれど、やることはやる。

 

 ローテーブルの上へノートを広げる。

 教科書を開く。

 片方はエナジードリンク。

 片方はプロテインシェイカー。

 

 何の組み合わせだ、と冷静になれば思う。

 実際、彩葉も思った。

 

「……それ何?」

 

 雅治はシェイカーを軽く振った。

 

「タンパク質は大事だ」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

「日々の適切なタンパク質の摂取は健康と筋肉にはもちろん、美容にも効果がある。主に肌や髪の毛などに」

 

 妙にすらすら出てくる説明だった。

 何なんだこの男は、と言いたくなる流暢さである。

 

 彩葉はしばらくじっとそのシェイカーを見つめ、それからぽつりと口を開いた。

 

「……私ももらっていい?」

 

 雅治が目を上げる。

 ほんの少しだけ意外そうな顔をした。

 

「いいぞ」

 

 差し出されたシェイカーを受け取り、一口飲む。

 まずい、と言い切るには少しだけ栄養っぽさが勝っていて、うまい、と言うにはあまりにも無骨な味だった。

    これで付き合ってすらないんですぜ?

 

「どうだ」

 

「絶妙に、美味しくない」

 

「..そうか」

 

「でも、たぶん体には良さそう」

 

「なら十分だろ」

 

 そんな他愛もないやり取りを挟んでから、二人は改めてノートへ向き直る。

 

 だが、その前に一つだけ、まだ決着がついていないことがあった。

 

「で」

 

 彩葉が英語のノートを開きながら言う。

 

「ほんとに古典もやらなくていいの?」

 

 雅治は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「やらなくていいだろ。五科目は大体できる」

 

「“大体”ってなによ。穴は穴でしょ」

 

「一科目くらい捨てても生きてはいける」

 

「今は生存の話してないの」

 

 即答で切り返されて、雅治は小さく舌打ちでもしたそうな顔になる。

 

「英語だけ教える。それでよくないか」

 

「よくない」

 

「なんでだ」

 

「私だけ得して、橘君だけ逃げる形になるから」

 

「逃げる、とは失礼だな。戦略的撤退と言え」

 

「どっちでもいいけど、ダメなものはダメ」

 

 きっぱり言い切る彩葉に、雅治はわずかに目を細めた。

 こういう時、この子は妙なところで引かない。

 いや、妙なところではなく、むしろ大事なところほど引かないのだろう。

 

 その視線を受けながらも、彩葉は一歩も譲らない。

 

「私だって英語、全部が全部ダメなわけじゃないの。単語とか文法はまだいい。でも、会話文とか、実際に使う言い回しとか、そういう実用寄りになるとまだ弱いの」

 

「なるほど」

 

「でも橘君、そういうの強いでしょ。実際に英会話の授業とかスラスラ言えてたし」

 

 その問いに、雅治は特に否定しなかった。

 

 普段から新しい仕掛けや武器のギミックを組む時、一からプログラムを組み、海外の動画やサイトを漁ることも多い。

 その過程で覚えた英語は、試験用の“綺麗な英語”というより、もっと生きた言葉に近かった。

 

 文章を読むだけではない。

 動画で聞く。

 コメント欄で拾う。

 海外フォーラムでニュアンスを掴む。

 そうして身についた第二外国語は、今さら授業の範囲に収まるような生ぬるさではない。

 

 極端な話、今からアメリカ本場へ放り出されても、雅治はたぶん何とかする。

 少なくとも困るのは相手の方かもしれない。

 

「……まあ、そうだな」

 

「でしょ。だから英語はお願い」

 

「...古典は?」

 

「私がやる」

 

 あまりにも即答だった。

 

 雅治は眉を上げる。

 

「お前、古典そんなに得意だったか」

 

「かなり」

 

「初耳だが」

 

「言ってないもの」

 

 言いながら、彩葉は古典の教科書を引き寄せる。

 その手つきに迷いがない。

 

「文法も読解も、わりと好き」

 

「なぜ」

 

 その問いに、彩葉は少しだけ視線を泳がせた。

 

「……たぶん、推し活の副産物」

 

「は?」

 

「ヤチヨ、たまに古典に出てきそうな言い回しするでしょ」

 

「そう言われると確かに……」

 

「最初は何言ってるか分かんなくて、悔しくて調べたの」

 

 雅治は一瞬だけ黙った。

 この女、推し活の方向が本当におかしい。

 

「で、調べてるうちに慣れた、と?」

 

「慣れた」

 

「それで古典が得意になった?」

 

「なった」

 

「……恐ろしいな」

 

「本気を出せば、ヤチヨ本人と平安時代の日本語で会話できる気がする」

 

「何それこわ」

 

 即答だった。

 

 彩葉は少しだけ満足そうに鼻を鳴らす。

 そこへ雅治がぼそりと付け足した。

 

「いや、そこまで行くともう特技だろ」

 

「推し活は時に人を育てるのよ」

 

「だいぶ偏った育ち方だが」

 

「そっちにだけは言われたくない」

 

 それはそうだった。

 

 しばしの沈黙のあと、雅治はようやく諦めたように息を吐く。

 

「……分かった。交換条件だな」

 

「そう。互いに苦手を一つずつ」

 

「気は進まないが」

 

「私も英語の会話文は気が進まない」

 

「その顔には見えないんだが」

 

「橘君ほど露骨じゃないだけよ」

 

 そこまで言われると、もう拒否し続けるのも大人気なかった。

 

 雅治は教科書を引き寄せる。

 古典のページを開いた、その瞬間だけ、ほんのわずかに指先が止まった。

 

 彩葉はそれを見逃さなかった。

 

 単に苦手、という反応ではない。

 もっと手前で、触れたくないものへ触れる時の止まり方だった。

 

「……そんなに嫌い?」

 

「嫌いだな」

 

「そこまで言う?」

 

「言うさ」

 

 短い返答だった。

 けれど、その短さの奥に、妙な重みがある。

 

 雅治は教科書を見たまま、淡々と続けた。

 

「俺の実家というか、本家は古い家の末裔みたいなところがあるからな。幼い頃に色々やらされた」

 

「色々?」

 

「古武術、合気道、書道、百人一首、その他諸々」

 

 彩葉は瞬きをした。

 

「多いね……」

 

「多いだろ」

 

「それで古典まで嫌いになったの?」

 

「関連項目として脳がまとめて拒否する」

 

 言い方は軽い。

 だが、軽く済ませるために軽く言っているのだと分かる程度には、彩葉もこの数日で彼の癖を覚え始めていた。

 

 だから、それ以上は踏み込まない。

 

「……じゃあ、そこは私がなんとかする」

 

「助かる、と言えばいいのか」

 

「その代わり、英語は逃がさないから」

 

「理不尽だな」

 

「等価交換でしょ」

 

「どこがだ」

 

「私が会話文で死ぬ代わりに、橘君は古典で死ぬの」

 

「字面が最悪だな」

 

 そう言いながらも、雅治はもう教科書から目を逸らしていなかった。

 

 交渉成立だった。

 

     *

 

「ここ」

 

 彩葉が古典のノートへ指を置く。

 

「“けり”を見た瞬間に全部過去へ突っ込むの、やめた方がいいよ」

 

「大体合ってるだろ」

 

「その“大体”で事故るの。文脈は」

 

「古典は変に着飾った文脈で殴ってくるから嫌いなんだ」

 

「英語だって文脈で殴ってくるでしょ」

 

「それはそうだな」

 

 今度は雅治が、英語の会話文へペン先を落とす。

 

「で、ここなんだが。これは単語の意味より、相手との距離感で見た方がいい」

 

「距離感?」

 

「そうだ。教科書英語って意味だけ追いがちだが、実際には『どういう温度で言ってるか』の方が大事なことも多い」

 

「……ああ」

 

「この返しは直訳より、『軽く受け流してる』で取った方が近い」

 

 そう説明されると、急に文の空気が見える気がした。

 単語帳の上では平たく並んでいたはずの英文が、少しだけ人の声を持つ。

 

「なるほど」

 

「で、お前はこっち。“いと”を何でもかんでも“とても”で終わらせるな」

 

「だって便利だし」

 

「便利に逃げるな」

 

「それ、英語教える側の人が言う?」

 

「俺は便利さに逃げてはいない。ただ、最短距離で殴ってるだけだ」

 

「怖い言い方しないで」

 

 寝息の隣で、エナドリとプロテインをそれぞれ片手に、苦手教科を教え合う。

 冷静に考えるとだいぶ意味が分からない。

 だが今の二人にとっては、それが不思議としっくり来ていた。

 

 彩葉は会話文のニュアンスを拾い直し、

 雅治は古典の助動詞と文脈の機微に渋い顔をする。

 

 得意と不得意。

 逃げたいところと押し通すところ。

 そういうものが、互いのノートの上へ妙に素直に出ていた。

 

 

     *

 

 

 ふとした瞬間に、彩葉は思い出す。

 

 今、自分は女子の一人暮らしの部屋へ、異性を当たり前みたいに上がらせている。

 

 しかも、それがほとんど自然になりかけている。

 

 気づくのが遅すぎた。

 いや、本当に遅すぎる。

 

 電柱から赤ん坊が出てきて。

 泣いて。

 寝かせて。

 ミルクだの、おむつだの、買い出しだの、夜泣きだの。

 そんなものに追い立てられているうちに、いちばん基本的な何かが、するりと意識の隙間から抜け落ちていた。

 

 今この部屋には、自分(女の子)と、赤ちゃんと、橘雅治(男の子)がいる。

 

 それも一度や二度じゃない。

 当たり前みたいな顔で出入りして、当たり前みたいに座って、当たり前みたいに同じテーブルで話して、同じ部屋の空気を吸っている。

 

 こんなの、本来なら全然当たり前じゃない。

 

 女子の一人暮らし。

 異性。

 しかも同級生。

 しかも、付き合っているわけでもない。

 好きだのなんだの、そういう言葉で整理できる段階ですらない。

 

 なのに、いつの間にか「来たの?」「今来た」「そこ座って」「ああ」で回っている。

 どう考えてもおかしい。

 何なら、少し前の自分(わたし)が見たらたぶん泡を吹いて倒れる。

 

 そう思った瞬間、急に色んなことが気になり始めた。

 

 床へ出しっぱなしのものはなかったか。

 洗濯物の位置は大丈夫だったか。

 化粧品やら整髪料やら、いかにも“女の子の部屋”みたいなものが妙に目につく位置へ転がっていなかったか。

 いや、そもそもそれ以前に、自分自身がどう見えているのか。

 

 寝不足で。

 化粧も甘くて。

 部屋着も適当で。

 それなのに、こんな距離で、こんな空気で、平然と話している。

 

 今さらになって、頬の内側がむずがゆくなる。

 

「……ねえ」

 

 ノートへ目を落としていた雅治が、顔だけ上げる。

 

「なんだ」

 

「今さらだけど」

 

「ああ」

 

「私、女子なんだけど」

 

 言った瞬間、自分でも何を言っているんだろうと思った。

 もっと他に言い方があっただろう。

 いや、そもそも言わなくていいことだったかもしれない。

 

 けれど、今さら飲み込むには遅かった。

 

 雅治は一拍だけ黙ってから、ひどく当然みたいな顔で言った。

 

「今さらだろ」

 

 彩葉はそこで、一度本気でむっとした。

 

「いや、もっとこう、言うことはないの?」

 

「例えば?」

 

「え、そこから?」

 

「具体例がないと対応しづらいのだが」

 

 真顔で言うな。

 そういうところが腹立たしい。

 

「だから、その……少しくらい気まずいとか、緊張するとか、そういうの」

 

「必要か?」

 

「必要かどうかじゃなくて!」

 

 そこで少しだけ声が大きくなって、慌てて布団の方を見る。

 女の子(赤ちゃん)は寝ている。

 起きていない。

 そのことに安堵しつつ、でも安堵した分だけ余計に腹が立つ。

 

 なんなのだ、この男は。

 

 こっちは今さらになって、部屋の中のあれこれや、自分の格好や、匂いや距離感まで気になっているのに。

 こっちは昨日から、見えてはいけないものでも見せていないか、変な意味で意識されていないか、逆にまったく女として見られていないんじゃないかと、頭のどこかでずっと落ち着かないのに。

 

 それなのに向こうは、まるで本当に何とも思っていないみたいな顔をする。

 

 それが妙に悔しかった。

 

 女子として。

 異性として。

 少しぐらいは意識しなさいよ、と言うのも変なのに、でもまるで意識されていない感じがすると、それはそれで腹が立つ。

 

 面倒くさいことこの上ない。

 自分でもそう思う。

 でも、そう思ってしまったものは仕方がなかった。

 

「……なんだ藪から棒に」

 

 雅治が言う。

 

「別に」

 

「顔はそうでもないようだが」

 

「そういう橘君こそ、何とも思ってないの?」

 

 そう返した時、雅治は少しだけ視線を逸らした。

 ほんの一瞬。

 けれど確かに。

 

「今の部屋の優先順位、上から順に並べてみろ」

 

「赤ちゃん、ミルク、オムツ、睡眠不足、勉強……」

 

「だろ」

 

 即答だった。

 

 それが、理屈としては正しいのがまた腹立たしい。

 

「でもそういう問題じゃ――」

 

「そういう問題だ」

 

 ぴしゃりと切られて、彩葉は言葉を失う。

 

 悔しい。

 悔しいっ。

 悔しいッッッ。

 でも、その優先順位に自分でも納得してしまうのがもっと悔しい。

 

 赤ちゃんがいて、状況が状況で、そんな中で男女がどうこうなんて言っている場合ではない。

 それは分かる。分かりすぎるほど分かる。

 分かるのに、それでも少しだけ、女として見られていないような気がしてしまう自分がいる。

 

 その幼さも、面倒くささも、全部分かったうえで、なおさら少し腹が立つのだった。

 

 彩葉はふいと顔を逸らした。

 

「……もういい」

 

「よくないから言い出したんだろう」

 

「そこで追ってこないでよ」

 

「追ってはいない。ただの確認だ」

 

「その確認癖ほんと嫌」

 

 ぶつぶつ言いながらも、彩葉はノートへ視線を戻す。

 戻してしまえば、勉強するしかない。

 そうしているあいだだけは、余計なことを考えずに済む。

 

 けれどその直後、どうしても意識の端に残る。

 

 この部屋に自分と橘君がいること。

 それが当たり前みたいに回り始めていること。

 そして、その“当たり前”を、自分だけが今さら妙に意識してしまっていること。

 

 それが何だか、無性に悔しかった。

 

     *

 

 その日の帰り道。

 雅治は珍しく、駅までの道を少しだけ遠回りして歩いていた。

 

 理由は特にない。

 いや、特にないわけではないのだが、今はまだ名前をつけたくなかった。

 

 夏の夜気が少しだけ肌にまとわりつく。

 コンビニの明かり。

 信号待ちの赤。

 遠くで鳴く蝉の残響。

 そんなものをぼんやり受け取りながら、ようやく一人になった頭の中で、さっきのやり取りが遅れて浮かび上がってくる。

 

 ――私、女子なんだけど。

 

「今さら、はないだろ……」

 

 小さく漏れた独り言は、自分でも思っていた以上に反省の響きを帯びていた。

 

 平然としていたつもりだった。

 実際、そう振る舞っていた。

 

 赤ちゃん。

 ミルク。

 おむつ。

 買い出し。

 睡眠不足。

 やることは山ほどある。

 だから、余計なことを意識しないようにしていた。

 

 正確には。

 

 五感に入ってくる情報すべてを、なるべく意識しないようにしていた。

 

 部屋の匂い。

 洗いたてのタオルの柔らかい匂い。

 シャンプーか柔軟剤か分からない、ふわりと鼻先を掠める女子特有の甘い香り。

 手を伸ばした時に近づく距離。

 振り向いた時、思ったよりずっと近くにある顔。

 化粧が薄くても分かる目元の整い方。

 寝不足で少しだけ力の抜けた表情のせいで、普段より余計に目についてしまう輪郭。

 

 意識しないようにしよう、と考えている時点で、半分はもう意識している。

 その程度のことは分かっている。

 

 なのに、見ないようにすればするほど、逆に目に入る。

 

 聞かないようにすればするほど、声の温度が妙に残る。

 

 触れないように、近づきすぎないように、変に線を越えないように。

 そんなふうに気をつけていたからこそ、逆に全部が輪郭を持ってしまっていた。

 

「むっつり中学生か、俺は……」

 

 思わず出た言葉に、自分で少しだけ眉を寄せる。

 

 過去のことがあって、恋愛ごとなんて願い下げだ。

 面倒で、重くて、下手をすれば人を縛る。

 そんなものに今さら自分から近づきたいとは思わない。

 

 それでも。

 

 優れた容姿をしている。

 気を抜くと危うく見える。

 放っておけない。

 目で追ってしまう。

 つい余計な一言が出る。

 気づけば、応援したい相手になっている。

 

 いわゆる“推し”みたいな感情が、どこかで芽を出しかけているのも分かっている。

 

 そんな相手と、三日三晩ずっと一緒にいるわけではない。

 寝食を共にしているわけでもない。

 だが、それでも十分、距離感は狂っていた。

 

 普通ならもっと、ぎこちなくなる。

 普通ならもっと、互いに線を引く。

 なのに今は、赤ちゃんという中心が一つあるせいで、妙な自然さだけが先へ進んでしまっている。

 

 そして自分は、その自然さを利用していたのだろう。

 

 気にしていない顔をすることで。

 今さらだろ、と切って捨てることで。

 相手が意識していることに、あえて鈍く振る舞うことで。

 

 そうしないと、たぶん自分の方が持たないから。

 

 鼻先を掠める匂いも。

 近い距離も。

 ふとした瞬間に見える顔の整い方も。

 全部をいちいちまともに受け止めていたら、平然となんてしていられない。

 

 だから、気にしていないふりをした。

 

 ただ、それだけだ。

 

 平気そうに見えて、実は全然平気じゃなかった。

 余裕なんて、少しもなかった。

 

「……あの言い方は、さすがに悪かったな」

 

 夜道の真ん中でそんなことを呟きながら、雅治は片手で顔を覆った。

 

 思い出すのは、少しだけむっとした彩葉の顔。

 悔しそうで、でもどこか本気で気にしていた顔。

 あれを見ておきながら、「今さら」で片づけたのは、たぶんだいぶ不誠実だった。

 

 分かっている。

 分かっているのに、その場ではそうするしかなかった。

 

 数歩先の信号が青に変わる。

 雅治は息を吐いて歩き出す。

 

 今はまだ、赤ちゃんが先だ。

 優先順位は本当にその通りだった。

 だから、余計なことは後回しにする。

 

 後回しにするしかない。

 

 それでも、帰り道のあいだ中、頭のどこかへ残り続けるのは、ミルクでもおむつでもなく、少し頬を膨らませたまま「私、女子なんだけど」と言った彩葉の顔だった。

 

 それを思い出してしまう時点で、たぶんもう、平気なふりは限界に近いのだろう。

 

 

 

     *

 

 

また連休のいずれの日か。

 

 勉強も、バイトも、最低限だけ片づけたあとの、ほんの短い休み時間だった。

 

 彩葉はスマホを片手に、ヤチヨの配信の切り抜きを眺めていた。

 短い尺の中に笑いどころと見せ場が詰まっていて、疲れている時ほどこういうものは頭に優しい。

 

 隣では雅治が、女の子の機嫌をガラガラで取ろうとしている。

 不器用だが、妙に真剣だ。

 

 彩葉は画面を指で払う。

 次の切り抜きへ移るはずだった。

 そのはずだったのに、スクロールの勢いが少しだけ滑って、別の動画が表示される。

 

「あっ」

 

「どうした?」

 

 雅治が顔だけこちらへ向ける。

 

 彩葉は微妙な顔のまま、スマホの画面を見下ろした。

 

「いや、これは……子供の教育的に悪いかもって」

 

「何がだ」

 

「これ」

 

 画面に映っていたのは、シらぬイの切り抜きだった。

 

 巨大なトウモロコシ型の大砲に跨って、砲口を地面へ向けたまま発砲し、その反動で縦横無尽に飛び跳ねながら、視聴者を無言で轢き散らかしていく。

 しかも、途中途中でわざと相手の目の前へ着地し、何も言わずに煽るという、どう考えても性格の悪い動き付きだ。

 

 雅治は少しだけ身を乗り出して画面を見た。

 

「……そうか?」

 

 彩葉はゆっくりと顔を上げた。

 

「いや、普通じゃないし」

 

「どこがだ」

 

「全部よ」

 

 即答だった。

 

「どこから突っ込めばいいのか逆に分かんないんだけど。まず武器がトウモロコシなのも意味分かんないし、それで跳ね回ってるのも意味分かんないし、何より無言なのが一番怖いのよ」

 

「無言の圧は大事だろう」

 

「そこで同意しないで」

 

「理にかなってると思うが」

 

「かなってないの。少なくとも乳幼児向けでは絶対ないの」

 

 彩葉がそう言うと、雅治はもう一度だけ画面を見る。

 巨大トウモロコシ砲。

 妙に無駄のない機動。

 逃げ惑う視聴者たち。

 阿鼻叫喚のコメント欄。

 

 少しだけ考えてから、雅治はあっさりと言った。

 

「……変人ではあるな」

 

「でしょ?」

 

「だが、想像力あふれて面白くはある」

 

「教育に悪いって言ってるの!」

 

「両立するだろ、それは」

 

「しなくていい両立なのよ!」

 

 思わず声が大きくなって、彩葉は慌てて布団の方を見る。

 女の子は起きていない。

 そのことにほっとしてから、また画面を見る。

 

「こういうの見て育ったら、絶対ろくでもない方向に好奇心伸びるわよ」

 

「それは偏見じゃないか」

 

「偏見じゃないの。事実として危ないの」

 

「例えば」

 

「例えば将来、「私もトウモロコシ砲で跳びたい!」とか言い出したらどうするのよ」

 

「その時は止める」

 

「今のうちから止めるべきでしょ!」

 

「だが本人の創造性は尊重したい」

 

「育児方針が急に厄介!」

 

 あまりにも真顔で返してくるせいで、彩葉はついに耐えきれず吹き出した。

 

 疲れていた。

 眠かった。

 状況はひどい。

 それでも笑ってしまう。

 

 その笑い声の隣で、雅治はスマホ画面のシらぬイを見たまま、小さく肩をすくめる。

 

「少なくとも、自由な発想は大事だ」

 

「自由がすぎるのよ、あれは」

 

「……確かに、だいぶ自由だったな」

 

「今さら!?」

 

 ワンルームの中には、女の子の寝息と、二人分の疲れた笑いだけが、やわらかく残った。

 

 

 

     *

 

 

 

 

 

 三連休、最後の夜だった。

 

 今日も一日、長かった。

 ミルク。

 おむつ。

 抱っこ。

 寝かしつけ。

 泣き声。

 笑い声。

 そして、その合間合間に差し込まれる、ほんの少しだけの沈黙。

 

 その全部をどうにかこうにか乗り切った彩葉は、いつもの布団の上で赤ちゃんと添い寝していた。

 

 四畳半の部屋にある大きなものといえば、愛用のローテーブル  というより、実質ちゃぶ台に近いそれ  と、壁際へ寄せたタブレット端末くらいのものだ。

 その画面からこぼれる淡い光が、真っ暗な部屋の輪郭だけをぼんやりと照らしている。

 

 彩葉はもう、深く眠っていた。

 寝落ちに近い、重たくて、抗いようのない眠りだ。

 三連休のあいだ、何度も夜中に起きて、何度も泣き声に引き戻されて、そのたびに眠りの底へ沈みきれないまま朝を迎えてきた。今夜くらいは、もう意識の方が先に限界を迎えていた。

 

 だから最初、その小さな異変には気づかなかった。

 

「きゃっ、きゃっ、きゃっ」

 

 くすぐったいような、湿り気のない笑い声が、暗い部屋に転がる。

 

 タブレットの画面が切り替わっていた。

 誰も触っていないはずなのに、次々と。

 

 巨大隕石が落ちてくる映画。

 命がけの恋を演じる男女のアップ。

 ヤチヨの切り抜き。

 アニメ。

 スポーツ中継。

 派手な色。

 激しい音。

 人の顔。

 歓声。

 悲鳴。

 光。

 

「きゃっ、きゃっ、くあはは」

 

 布団の中で眠っていたはずの赤ちゃんは、いつの間にか目を覚ましていた。

 

 いや、目を覚ました、というより。

 画面の光に呼び起こされたと言った方が近い。

 

 小さな体をもぞもぞと起こし、彩葉の横からそろそろと這い出して、タブレットの正面へ寄っている。

 その姿はまだ幼い。

 よちよちとした動きの延長線上にある、危なっかしい四つ足歩行。

 だが、その目だけは異様なほどはっきりしていた。

 

 まるで、貪るように画面を見ている。

 

 吸い込まれるように。

 のみ込むように。

 映像の一つ一つを、色も音も動きも丸ごと、その瞳の奥へ流し込んでいるみたいに。

 

 スマコン(スマート・コンタクト)などつけていない。

 そんなものをつけられる年齢でもない。

 

 それなのに、その瞳は淡く光っていた。

 

 ボウ、と。

 青とも銀ともつかない、夜の底に浮かぶような微光。

 

 タブレットの画面がさらに切り替わる。

 

 スイカバー事件。

 辻切りならぬ辻焼き。

 どう見てもろくでもない動画。

 しかし、その合間に妙に完成度の高い武器解説や、無駄に丁寧なものづくり配信が挟まるあたりが、なおさらたちが悪い。

 

 そう。

 最後に映ったのは、例の動画だった。

 

   シ(・)ら(・)ぬ(・)イ(・)

 

 チャンネル登録されていたせいで、半ば自動的に流れてきたのだろう。

 彩葉は眠る前、そこまで見ていた記憶はない。

 けれどアルゴリズムとやらは残酷で、見た人間が望もうが望むまいが、ろくでもないものほど容赦なく次へ差し込んでくる。

 

 画面の中でシらぬイが動く。

 跳ぶ。

 燃やす。

 轢く。

 笑う。

 いや、笑ってはいない。

 何も言わずに、ただひたすらに理不尽を押しつけていく。

 

 赤ちゃんは、その画面に完全に見入っていた。

 

 タブレットの青白い光。

 そして、窓の外から差し込むもう一つの光。

 

 満(・)月(・)だった。

 

 雲ひとつない夜空に浮かんだ月の光が、カーテンの隙間からすうっと差し込んでくる。

 その月光が、タブレットの淡い明かりと混ざり合い、部屋の隅で小さな体を照らした。

 

 その瞬間だった。

 

 赤ちゃんの髪が、音もなく、ぞろりと伸びた。

 

 一本、二本、という生易しいものではない。

 柔らかな産毛に近かった短い髪が、月光を浴びた途端、まるで光を求める植物の蔓のように、するすると長さを増していく。

 

 葉が広がるように。

 光合成を行う草木が、少しでも多くの月明かりを掴もうとするように。

 

 伸びる。

 広がる。

 揺れる。

 

 そしてまた、あの七(・)色(・)の(・)光(・)が生まれた。

 

 強くはない。

 けれど確かに、全身の輪郭をなぞるように、淡い虹色が小さな体を包み込んでいく。

 

 肩。

 腕。

 脚。

 指先。

 頬。

 瞳。

 

 まるで動画の早送りのようだった。

 

 成長が、時間を圧縮して進んでいく。

 骨が伸びる。

 手足が長くなる。

 丸かった頬の線が少しだけ細くなる。

 よたよたとしていた重心が、見る間に安定していく。

 

 タブレットの映像はまだ流れ続けている。

 火花。

 爆発。

 字幕。

 笑い。

 理不尽。

 シらぬイのろくでもない所業の数々。

 

 その前で、赤ちゃんは、いや、もう赤ちゃんとは呼べないその存在は、七色の光の中で静かに大きくなっていった。

 

 しばしののち。

 

 布団の隣にいたのは、もう二歳児ほどの幼さを持つ赤ん坊ではなかった。

 

 そこに立っていたのは、小学生ほどの身長を持った女の子だった。

 

 月光を受けて伸びた髪が、肩口から背へ流れている。

 手足はまだ華奢で、全体の輪郭には子どもらしい丸みが残っている。

 だが、明らかに“赤ちゃん”のサイズではない。

 

 女の子はしばらく無言でタブレットを見つめていた。

 瞳の奥には、画面の光とは別のかすかな明滅が残っている。

 

 それから、ゆっくりと口を開いた。

 

 舌足らずで。

 けれど、どこか妙に覚えたてらしい抑揚で。

 

「……サーフィン、しようぜ。おまえ、ボードな!」

 

 部屋は静かだった。

 

 彩葉は眠っている。

 タブレットだけがまだ淡く光り、満月の光が床へ白く伸びている。

 

 そしてその真ん中で、シらぬイのろくでもない動画から最初に学んだらしい言葉を口にした女の子は、少しだけ満足そうに笑った。

 

  やはり、教育にも情緒にも害悪でしかなかった

 

 

 ママ(彩葉)は泣いていいかもしれん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おまけコーナー

 

仮親、情操教育に失敗する

 

 

 酒寄彩葉がバイトへ出たあとの、午前と午後のあわいみたいな時間だった。

 

 ワンルームの中は静かで、静かすぎて、逆に落ち着かない。

 ついさっきまで「行ってくるね」「無理するなよ」「そっちこそ」みたいなやり取りがあったせいで、部屋の空気だけが取り残されたように薄く揺れている。

 

 そんな中、橘雅治は布団の上でご機嫌そうに手足をばたつかせている女の子を見下ろし、しばらく真顔で考え込んでいた。

 

「……暇だな」

 

 真顔で言うな。

 

 だが事実だった。

 ミルクは飲ませた。

 おむつも替えた。

 体温も問題ない。

 泣いていない。

 ならば次に必要なのは何か。

 

 刺(・)激(・)で(・)あ(・)る(・)。

 

 成長には適切な刺激が必要だ。

 視覚。

 聴覚。

 好奇心。

 未知との遭遇。

 そう、情操教育だ。

 

 そして、その結論へ至るまでにかかった時間は実に三秒だった。

 

「よし」

 

 雅治はスマホを取り出した。

 迷いなく動画アプリを開く。

 検索履歴は使わない。そんなものを開けば、うっかり余計なものまで見られかねないからだ。男には男の慎重さがある。

 

 そして辿り着いた先が、シ(・)ら(・)ぬ(・)イ(・)の(・)切(・)り(・)抜(・)き(・)チ(・)ャ(・)ン(・)ネ(・)ル(・)だった。

 

「これも早期教育だ」

 

 誰に向かって言い訳しているのかは分からない。

 だが、言った。

 

 布団の上の女の子は、意味も分からず「きゃっ」とでも言うように小さく声を漏らした。

 たぶん何も分かっていない。

 だが目だけはきらきらしている。

 新しい光る画面が見えているからだろう。

 

「よし。興味はあるな」

 

 何を確認しているんだお前は。

 

 再生されたのは、シらぬイ名物、視聴者参加型KASSENの切り抜きだった。

 

 映像の中でシらぬイは、なぜか視(・)聴(・)者(・)と(・)思(・)し(・)き(・)敵(・)プ(・)レ(・)イ(・)ヤ(・)ー(・)の(・)背(・)中(・)へ(・)乗(・)っ(・)て(・)い(・)た(・)。

 普通ならそこから攻撃なり離脱なりする。

 だがシらぬイは違う。

 

 そのまま空中を、サーフボードのように滑走し始めたのである。

 

 しかもただ乗るだけでは終わらない。

 乗っている相手の頭を、マップの壁へ、地面へ、段差へ、ついでに角へと、実に無駄のない軌道で叩きつけていく。

 

 外道である。

 あまりにも外道である。

 

 しかも画面下には、切り抜き師による悪意と才気に満ちた字幕が堂々と表示されていた。

 

 「サーフィンしようぜ! お前ボードな!」

 

 圧巻だった。

 

 この世には、ここまでひどい一文を、ここまで爽やかなノリで叩きつけられるのかという驚きがある。

 

 女の子(赤ん坊)は画面の中を飛び回る光と動きに、ぱちぱちと目を瞬いていた。

 笑っているのか、ただ機嫌がいいのかは分からない。

 だが少なくとも泣いてはいない。

 

 雅治はそれを見て、小さく頷いた。

 

「やはり映像教材は強いな」

 

 違う。

 断じて違う。

 

 ママ 彩葉 が見たら間違いなく「だから教育に悪いって言ったでしょ!」と額に青筋を立てるやつだった。

 子供の教育にも、情緒にも、たぶん人生観にも害悪でしかない。

 

 しかし、当の仮パパ  雅治  はそんなことをまるで気にしない。

 

「いいか。ああいう発想力が大事なんだ」

 

 何もよくない。

 というか、相手はまだ言葉もろくに分からない乳児である。

 そこへ説法を始めるな。

 

 雅治は動画を次へ送った。

 

 次に流れたのは、シらぬイが巨大な敵を踏み台にしながら、空中で不自然な三段跳びを決め、そのまま真上から別の敵の頭へ踵落としのように着地する映像だった。

 字幕にはこうある。

 

「上にも下にも逃げ場はない」

 

 女の子は「うー」と声を漏らした。

 反応している。

 何に反応しているのかは分からない。

 だが、雅治は都合よく解釈した。

 

「理解が早いな」

 

 たぶん違う。

 

 

     *

 

 

 ところで。

 

 海外で「パパが一人で赤ちゃんを見ると起こること」というジャンルが、なぜあんなにも定番として語られるのか。

 その答えは、たぶん万国共通である。

 

 男は、目の前に小さくて壊れやすそうで、それでいて思ったより丈夫そうなものがあると、つい試(・)し(・)た(・)く(・)な(・)る(・)生き物だからだ。

 

 そしてお父さんは、もっとバカである。

 

 それを地で行くように、雅治の脳内にも、ろくでもない発想がいくつか生まれていた。

 

「……軽いな」

 

 まずい。

 

 その確認から始まることに、ろくなものはない。

 

 女の子を片手でそっと支える。

 もちろん本気で雑に扱う気はない。

 ないのだが、男という生き物は、そこへ“もう少しこうしたらどうなる”を足し算し始める。

 

「このくらいなら……」

 

 ひょい。

 

 持ち上げる。

 

 ひょい。

 

 下ろす。

 

 ひょい。

 

 また持ち上げる。

 

 完全に筋トレだった。

 

 しかも本人はいたって真面目な顔をしている。

 スクワットの負荷が少し足りない時にちょうどいいかもしれない、みたいなことを考えている顔だ。やめろ。

 

 女の子は、持ち上げられるたびに「きゃ」「あー」と楽しそうな音を出した。

 楽しそうではある。

 だがそれで合法になるわけではない。

 

「……体幹もいるな」

 

 なぜ分析を始める。

 

 次に雅治が試したのは、床へ寝そべった状態からの下半身トレーニングだった。

 本来なら脚だけを上げる動作で腹筋と下腹を鍛えるやつである。

 

 だが今日は違った。

 

 足のあいだに女の子をそっと挟み、持ち上げる。

 下ろす。

 また持ち上げる。

 

 高い高いである。

 どう見ても、横着な高い高いである。

 しかも本人の顔が真剣すぎる。

 

 女の子は、視界が上下するのが面白いのか、手をぱたぱたさせて上機嫌だった。

 だが、その光景のどこにも“健全な育児番組”の気配はない。

 

 いつものシらぬイである。

 いや、シらぬイ成分がじわじわ漏れ出している雅治である。

 

「いいか。浮遊感に慣れるのは大事だ」

 

 どこの英才教育だ。

 

 しばらくしてから、雅治は女の子をきちんと抱え直し、満足そうに一度頷いた。

 

「泣いていない。よし」

 

 基準が雑すぎる。

 

 男はやはりバカだった。

 お父さんはもっとバカだった。

 そしてま(・)だ(・)父(・)親(・)で(・)す(・)ら(・)な(・)い(・)見(・)習(・)い(・)ですらこの有様なのだから、人類の未来はたぶん明るくない。

 

     *

 

 さらに悪いことに、雅治は自分の行為を遊(・)び(・)だと思っていなかった。

 

 彼の中では、これはれっきとした観察であり、接し方の模索であり、発達への刺激であり、つまるところ「泣かせないための工夫」の一環だった。

 

 だからこそ、余計にタチが悪い。

 

「……なるほど」

 

 何かを理解したように呟く。

 やめろ。

 お前が何かを理解した時、大抵ろくなことにならない。

 

「静的な玩具だけじゃ弱いか」

 

 何が弱いんだ。

 

「映像刺激。上下運動。軽い空間把握。これを組み合わせれば  」

 

 育児メモを取るな。

 

 女の子はもう完全にご機嫌で、抱っこされながら「うあー」と声を出していた。

 それを見た雅治は、ほんの少しだけ口元を緩める。

 

「よし、機嫌はいいな」

 

 その笑みだけ見れば、たしかに優しい。

 優しいのだが、そこへ至る過程がだいぶダメだった。

 

 もしこの瞬間、彩葉が帰ってきていたなら。

 

 まず玄関で足を止める。

 次に部屋の中から聞こえてくる、シらぬイ切り抜きの悪ノリ全開字幕と、女の子の妙にご機嫌な声に不穏なものを感じる。

 そしてドアを開けた先で、片手筋トレからの足高い高いをかます雅治を見て、たぶん三秒くらい無言になったあと、

 

 「何してんの!?」

 

 と叫ぶだろう。

 

 実に正しい反応である。

 

 だが幸いにして、今ここに彩葉はいない。

 だからこそ、このろくでもない仮パパはのびのびと自由を満喫していた。

 

 そして、その自由の代償は、ちゃんと数分後にやってくる。

 

  ぴんぽーん。

 

 インターホンが鳴った。

 

 雅治の動きが止まる。

 

  ぴんぽーん。

 

「橘くん、いま両手ふさがっているから開けてくれない?」

 

 ドアの向こうから、彩葉の声。

 

 最悪だった。

 

 スマホ画面には一時停止されたままの外道サーフィン。

 布団の上にはガラガラと布絵本。

 そして雅治の腕の中には、妙にご機嫌な女の子。

 

 完璧に、言い逃れのできない現場である。

 

  ぴんぽーん。

 

「あれ、聞こえてないのかな?」

 

 いや、聞こえている。

 聞こえているが、どう開けても地獄なのだ。

 

  ぴんぽーん。

 

「ねぇ開けてよー。今日はせっかくお安く買い物もできたんだからさー」

 

 その一言で、雅治はとうとう観念した。

 

「……まずいな」

 

 今さらである。

 

 女の子を抱え直し、スマホ画面へ視線をやる。

 外道サーフィンの字幕が、あまりにも輝いている。

 

 「サーフィンしようぜ! お前ボードな!」

 

 どこからどう見てもアウトだった。

 

 雅治は小さく息を吐き、ようやく玄関へ向かった。

 ドアを開ける。

 

 買い物袋を両手へ提げた彩葉が、少しだけ眉を上げて立っていた。

 そのまま中へ入ろうとして、一歩目で止まる。

 

 視線が、雅治の顔を見る。

 次に、腕の中の女の子を見る。

 次に、ローテーブルの上へ置かれたスマホ画面を見る。

 

 止まる。

 

 さらに二秒ほど止まる。

 

 それから彩葉は、ものすごくゆっくりと顔を上げた。

 

「……何してんの?」

 

 静かだった。

 だが、静かな方が怖い。

 

「いや」

 

「いや、じゃないの」

 

 即座に切られた。

 

 彩葉は靴も脱ぎきらないまま、ずかずかと中へ入る。

 スマホを覗き込む。

 一時停止された外道サーフィン。

 字幕。

 逃げ惑う視聴者。

 空中を滑走するシらぬイ。

 

 そして、そのすぐ横で、やけに満足そうな顔をして立っている雅治。

 

「これ見せてたの?」

 

「映像刺激は発達に  」

 

「ダメ」

 

「まだ最後まで言ってない」

 

「最後まで言ってもダ・メッ」

 

 即断即決だった。

 

 彩葉はさらに視線を落とす。

 床に転がるガラガラ。

 布絵本。

 妙に位置のずれたクッション。

 そして、何かを上下運動させた形跡のある雅治のシャツの乱れ。

 

「……まさか」

 

 嫌な予感がした。

 とてもした。

 

「他に何したの」

 

「少し遊んだだけだ」

 

「その少(・)し(・)が信用ならないのよ」

 

「高い高いと」

 

「普通の?」

 

「広義では」

 

「広義の時点でダメじゃない!?」

 

 彩葉が詰め寄る。

 雅治はそこで初めて、ほんの少しだけ視線を逸らした。

 

「片手で持ち上げたり」

 

「ダメ」

 

「足のあいだで上下させたり」

 

「ダメ!」

 

「だが本人は楽しそうだった」

 

「それで許されると思ってるの!?」

 

 彩葉の声が上ずる。

 しかし怒鳴り切れない。怒鳴れば腕の中の女の子が驚くからだ。

 その結果、声量だけ抑えた説教という、いちばん圧の高い状態になる。

 

「何でそんな発想になるのよ!」

 

「海外で父親が一人で見る時に起こること全般を」

 

「参考にするな!!!」

 

「全部が全部悪いとは」

 

「悪いに決まってるでしょ!」

 

 だが、ここで問題が一つあった。

 

 腕の中の女の子が、妙にご機嫌なのである。

 

「あー」

 

 きゃっきゃとまでは言わない。

 けれど、明らかに機嫌がいい。

 雅治の腕の中で手をぱたぱたさせ、さっきまでの“楽しかった時間”の続きでも求めるみたいに目を輝かせている。

 

 彩葉はその顔を見てしまった。

 

「……なんで楽しそうなの」

 

「成功例だからな」

 

「そこで誇らしげな顔しないで」

 

「誇ってはいない。検証結果だ」

 

「その言い方がいちばん腹立つのよ……!」

 

 雅治は少しだけ真面目な顔になる。

 

「泣いてはいなかった」

 

「だからって何してもいいわけじゃないの」

 

「もちろん限度は守ってる」

 

「その限(・)度(・)ってのが人によって違うから言ってるの!」

 

 彩葉は額へ手を当てた。

 疲れている。

 眠い。

 買い物帰りだ。

 そのうえで、帰宅して第一声が「何してんの?」になる人生を、誰が想像しただろう。

 

 それでも、女の子が泣いていないことだけは救いだった。

 

「……とりあえず、その動画消して」

 

「消すほどでは」

 

「  今すぐ止めて」

 

「もう止まってる」

 

「そういう揚げ足じゃなくて!」

 

 彩葉がスマホへ手を伸ばし、しっかりと画面を消す。

 やれやれ、と言いたげに雅治がそれを見る。

 

「教育の機会が」

 

「失われてない。むしろ守られたの」

 

「そうか?」

 

「そうなの」

 

 そこまで言い切ってから、彩葉はじっと雅治を見た。

 

「あと」

 

「なんだ」

 

「赤ちゃんで筋トレしない」

 

「してない」

 

「したでしょ」

 

「遊びだ」

 

「もっとダメ」

 

 反論の余地がなくなった雅治は、そこで小さく息を吐いた。

 その顔が、ほんの少しだけ気まずそうだったのを、彩葉は見逃さなかった。

 

「……一応、落としそうなことはしてない」

 

 ぼそりとした言い訳。

 たぶんこれが、今のこの男なりの譲歩だった。

 

 彩葉は少しだけ目を丸くする。

 それから、怒り半分、呆れ半分のまま、ふっと息を抜いた。

 

「……当たり前でしょ」

 

「ああ」

 

「そこを守れば何してもいい、にはならないからね」

 

「善処する」

 

「絶対しない人の返事それ」

 

 そう言った瞬間だった。

 

 女の子が、唐突に雅治の腕の中でぴょこぴょこと身をよじった。

 そして、さっきの上下運動を思い出したのか、期待するように雅治の服を掴む。

 

 雅治がそれを見て、つい条件反射みたいに腕を少し上げる。

 

「やらない」

 

「まだ何もしてないが」

 

「しようとしたでしょ」

 

「これは反射だ」

 

「体に染みつかせないで」

 

 しかしそこで、女の子が不満そうに「うー」と声を漏らした。

 明らかに、「さっきの続きまだ?」の顔である。

 

 沈黙。

 

 彩葉と雅治の目が合う。

 

 先に目を逸らしたのは彩葉だった。

 

「……ちょっとだけ」

 

「何がだ」

 

「普通の高い高いなら、ちょっとだけ」

 

 そこで雅治は、悪びれもせず、余計な一言を付け足した。

 

「チョロいな」

 

 その瞬間、彩葉のこめかみにぴしりと青筋が浮いた気がした。

 

「誰がチョロいって?」

 

 声が低い。

 笑っていない。

 今すぐにでもおでこへ血管が浮きそうな顔だった。

 

 雅治はそこでようやく、しまった、という顔をした。

 遅い。

 

「……訂正する」

 

「もう遅い」

 

「寛容だなと思った」

 

「もっと腹立つ」

 

「そうか」

 

「そうなの!」

 

 それでも結局、今度はちゃんと、普通に。

 余計な筋トレ要素も、外道サーフィンも、シらぬイ成分も抜きで。

 両手でしっかり支えて、ふわりと持ち上げる。

 

 女の子は「きゃ」と声を漏らして、ぱっと笑った。

 

 彩葉はその顔を見て、悔しそうに眉を寄せる。

 

「……ずるい」

 

「何がだ」

 

「私がやるより楽しそう」

 

「慣れの差だろ」

 

「それで済ませる?」

 

「分析結果だ」

 

「今日ほんとその言い方多いね!?」

 

 けれど、怒鳴り切れない。

 女の子があまりにも嬉しそうだったからだ。

 

 結局その日、酒寄彩葉の説教は十分ほど続き、橘雅治はその大半を「そうか」「善処する」「いや、それは誤解だ」で乗り切ろうとして、さらに五分ほど延長された。

 

 ただし、当の女の子だけは終始ご機嫌で、途中から二人の顔を交互に見ては、何だか面白そうに手を叩いていた。

 

 男はやはりバカだった。

 お父さん(まさはる)はもっとバカだった。

 そしてママ(いろは)は、そのバカさ加減に呆れながらも、最後にはきっちり軌道修正してしまうのだった。

 




いつもここまで読んでくださってありがとうございます!

いやー久々のギャグとシリアス抜でのお二人の絡みが書けたおかげで筆が進む進ぅ!

そして、哀れ彩葉オカン。守備失敗により、原作よりもハチャメチャな悪童になりますよ御宅の娘さん。ヤッタネー!

ご感想とお気に入り、評価お待ちしておりまーす!

本篇の第二十六話の初期原稿、幻の竹取合戦が見たい?    26.5話扱い

  • 見たい!今すぐに見たい!
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