今日も正常営業。ただし“そういうとこ”を添えてー 作:火力万能主義
正直、オチでまたギャグ一発ぶちかましたかったけど、さすがに今日は自重して次回にその分のエネルギーを回します(笑)
執筆のモチベが墜ちる?書くのがめんどい?だいじょーぶ、そん時には自分で番外編を書いてそこに好きなギャグを大盛山盛りにしてお笑いガッツ盛りのよそに見せれねーなってもんを見てはひたすら笑いながら自給自足すれば永久機関なんて夢じゃないぜ( ー`дー´)キリッ
さてさてようやくツクヨミのシーンが出ます。
シらぬイのツクヨミはツクヨミと書いてスマブラ100本抜きみたいなもんなのでノーカン。
では、12話です、どうぞ!
第十二話 月姫、ツクヨミへ行く
早めの夕食を終えた頃、時計はまだ七時前を指していた。
部屋は、どうにか人間の住処へ戻っていた。
床は拭いた。
服は畳み直した。
タンスの中身は、とりあえず見た目だけは整えた。
洗濯機はまだ低い音を立てて回っている。
冷蔵庫の中では、生き残った食材たちが、どうにか命を繋いでいる。
完全に元通り、とは言えない。
けれど、七色電柱由来の月姫型災害が通過した後にしては、かなり持ち直した方だと思う。
「ではこの辺りで帰るとしよう」
玄関の方で、橘君がそう言った。
短い。
学校で聞く声とは違う。
丁寧で、穏やかで、誰にでも角が立たない僕の声ではない。
余計な前置きがなくて。
少し雑で。
ぶっきらぼうで。
けれど、冷たいわけではない。
この部屋にいる時の、橘君の声だった。
「もう帰っちゃうの?」
かぐやが、空になったハンバーグ弁当の容器を抱えたまま顔を上げた。
さっきまで正座して、両手を上げて、泣きながら反省していたはずなのに、もう寂しそうな顔をしている。
感情の切り替えが早すぎる。
前向きというか、たくましいというか、たぶん反省と好奇心を同じ棚に入れている。
「雅治、もうちょっといてよ。かぐや、まだ話すことあるし」
「明日」
「えー」
「明日だ」
「今日がいい」
「もう遅い時間だろう」
「まだ七時前じゃん」
「俺も明日学校がある」
「かぐやも学校行く!」
「行けないし行かねぇだろ」
「行きたい!」
「まず外出許可を取れるようになってから言うんだな」
「うっ」
かぐやは分かりやすく詰まった。
短い。
やっぱり短い。
でも、その短さが今のかぐやには妙に効いている。
「……っていうか」
私は思わず、かぐやを見た。
「いつの間に名前で呼ぶほど仲良くなってるのよ」
「だって雅治は雅治じゃん」
「そうだけど」
「彩葉は彩葉。雅治は雅治。分かりやすいし、かわいくない?」
「名前にかわいいとかある?」
「あるよ。かぐや、名前もらって知ったもん」
「……」
そう言われると、少しだけ返しづらい。
名前がなかった子が、名前を得て、相手も名前で呼ぶ。
そこに名字と名前の距離感だの、礼儀だのを持ち込むのは、少し難しいのかもしれない。
それでも、釈然としないものは釈然としない。
橘君はというと、かぐやの呼び方に大して反応せず、鞄を肩にかけ直している。
「呼び方はどうでもいい」
「よくないと思うんだけど」
「本人が呼びたいように呼べばいいだろ。変なあだ名じゃなきゃ」
「雅治は変じゃない?」
「名前だ」
「それはそうだけど」
淡々としている。
こういうところだ。
学校なら、きっともう少しやわらかく整える。
けれど今は、必要なことだけを短く言う。
その雑さに、少しだけ慣れてしまっている自分がいる。
「雅治、帰ったらつまんない」
「それは知らん」
「ひどっ」
「俺は暇つぶし道具じゃねぇ」
「じゃあ遊び相手」
「もっと駄目だろ」
「えー」
「えーじゃない」
かぐやは不満そうに頬を膨らませる。
「じゃあ、かぐやも雅治の家に――」
「行かない」
「行かせない」
私と橘君の声が重なった。
かぐやが目を丸くする。
「息ぴったりじゃん」
「そういうことじゃない」
「違う」
また重なった。
なんなの。
なんでこういう時だけ重なるの。
橘君は軽く息を吐く。
「今日はもう十分やっただろ」
「やった?」
「部屋。財布。外出。パンケーキ」
「……いっぱいだった」
「なら今日は閉店だ」
「閉店?」
「店じまい。終わり。寝ろ」
「寝るには早くない?」
「反省するにはちょうどいい」
「うっ」
かぐやはまた詰まった。
私はそれを見て、少しだけ感心してしまう。
橘君は、言葉数が少ないのに、かぐやに伝わるところだけは外していない。
いや、伝わっているかは怪しい。
でも、少なくとも刺さってはいる。
「かぐや」
私は少し声を強めた。
「今日はもうこれ以上、橘君を引き止めない。明日も学校があるし、橘君にも橘君の生活があるの。私たちの都合で、これ以上迷惑かけない」
「……はーい」
かぐやは不満そうだったが、今度はそれ以上駄々をこねなかった。
少しずつ。
本当に少しずつではあるが、学んでいる。
たぶん。
「橘君」
「ん」
玄関まで見送りに出て、私はようやく口を開いた。
「いっつも、ごめんね」
思ったより、素直な声が出た。
自分でも少し驚く。
「今日も、本当にありがとう。部屋のことも、かぐやのことも、食材も、ウォレットのことも……全部」
言いながら、胸の奥が複雑に沈む。
助かった。
それは本当だ。
今日、橘君がいなければ、私はたぶん途中で完全に折れていた。
部屋を見て。
冷蔵庫を見て。
財布を見て。
かぐやを叱って。
その全部を一人で背負っていたら、どこかで泣き崩れていたと思う。
だから、感謝している。
心から。
でも同時に、悔しい。
また助けられた。
また借りが増えた。
また、自分ではどうにもできないところを見られた。
しかも今回は、部屋のあられもない姿まで見られている。
思い出しただけで、頬のあたりが熱くなる。
感謝。
羞恥。
悔しさ。
安心。
腹立たしさ。
全部がごちゃごちゃになって、どう処理していいか分からない。
それでも、気づいてしまった。
私はもう、橘君に頼ることを、以前ほど怖がっていない。
困った時に、彼の名前が頭に浮かぶ。
一人で抱え込むより先に、連絡するという選択肢が出てくる。
助けられることを、完全には拒めなくなっている。
それがあまりにも自然になっている自分に、内心で一番驚いていた。
橘君は靴を履き終え、こちらを見る。
「謝らなくていい」
「でも」
「でもじゃない。今日のは事故だと思えばいい」
「事故にしては被害額が重すぎるんだけど」
「そこは否定しない」
「否定してよ」
「無理だろ」
ぶっきらぼうに返される。
その雑さに、少しだけ救われる。
変に慰められるより、ずっと楽だった。
「どうしてもと言うんなら、借りも今すぐに返さずともどっか置いとけばいい」
「……置いとけって」
「今考えたら寝られないだろ」
「う」
「確かこの前当たって浮かれてた握手券のミニライブ。今日なんだろう。なら、余計なこと考えなくていい。いや、考えるな」
「それ、命令?」
「助言のつもりだが」
「命令っぽい助言ね」
「じゃあ命令でいい」
「よくない」
言い返すと、橘君はほんの少しだけ口元を動かした。
笑った、ような気がした。
「明日、死んだ顔してたらプロテイン・・・・なんてな」
「それ脅し?」
「栄養補給だ」
「言い方」
「では、戸締まりはしっかりするように。今度はちゃんと、な」
「分かってるわよ」
「かぐやが触る前に見たか?」
「それは本当にそう」
部屋の奥から、かぐやの声が飛んでくる。
「かぐや、もう勝手に開けないよー!」
「信用回復には時間がかかるのよ!」
「えー! かぐや、がんばるのに!」
「がんばるのは最低条件!」
橘君が小さく肩を揺らした。
笑ったな。
今、絶対笑った。
「……何」
「いや」
「いや、じゃない」
「賑やかになったなって思っただけだ」
「誰のせいだと思ってるの」
「少なくとも俺だけじゃない」
「それはそう」
言ってしまってから、少しだけ悔しくなる。
それはそう、ではない。
でも、否定もできない。
橘君は扉の外へ出た。
「また明日」
「うん。また明日」
そこで終わると思った。
けれど、橘君はドアノブに手をかけたまま、一度だけこちらを見た。
「あと」
「何?」
「部屋の写真のことだが」
「っ」
心臓が跳ねた。
今、その単語を出す?
ここで?
私が一番、思い出さないようにしていたやつを?
思わず顔に出たのだろう。
橘君は、いつものぶっきらぼうな声で続けた。
「気にすることはない」
「気にするに決まってるでしょ」
「だろうな」
「分かってるなら言わないでよ」
「今度こそ撮ってない」
「……本当に?」
「ああ」
短い返事だった。
けれど、嘘をついているようには見えなかった。
「前のも、必要がなくなったら消す。誰にも見せないし、言いふらす気もない」
「……」
「だから、そこは気にするな」
気にする。
絶対に気にする。
人の部屋のあられもない姿を見られた時点で、気にするなという方が無理だ。
でも。
橘君がそう言ったこと自体は、少しだけ助かった。
この人は、たぶん私が何を気にしているのか分かっている。
分かった上で、余計な慰めも、変な冗談も、笑いもしない。
ただ、気にすんな、とだけ言う。
それが、悔しいくらいに橘君だった。
「……消してよ」
「ちゃんと消すさ」
「絶対」
「分かっているとも」
「あと、分析とかしないで」
「もうしたと言うなら?」
「しないでって言ったでしょ!」
「今後はしない」
「今後は、じゃないのよ!」
橘君は少しだけ口元を動かした。
笑ったな。
今、絶対笑った。
「じゃあな」
「……うん」
「おやすみ」
短く、それだけ。
そして今度こそ、橘君は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
かちゃり、と鍵をかける音が響いた。
私はしばらく玄関に立ったまま、閉じた扉を見ていた。
おやすみ。
その一言が、妙に部屋の中に残っている気がした。
*
「あのさぁ……」
橘君が帰って、夕食も食べて、満腹になった身体で、私はフローリングの床に横になった。
ひんやりした床が背中に触れる。
さっきまであれだけ動いていた身体が、一気に重くなる。
疲れた。
とにかく疲れた。
今日一日で、あまりにもいろんなことが起きすぎた。
かぐやの家出。
カフェ。
パンケーキ。
築地。
命名。
部屋壊滅。
ヤチヨ貯金爆散。
正座処刑。
橘君への借り。
情報の洪水で、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
特に、最近あまりにも橘君に金銭的に頼りっぱなしな気がする。
いや、気がするどころではない。
明らかに負担をバリバリ背負わせている。
反省しなければならない。
本人は「出世払いでいい」とかぬかしたけれど、そんなもの、私の気が済まない。
絶対に次の給料日から返済を始める。
少しずつでも返す。
返すったら返す。
……たぶん。
いや、返す。
返すけど、今は疲れた。
「マジで、ここでは匿えないよ」
蛍光灯を見上げながら、私は言葉を吐き出した。
いくら考え直しても、無理なものは無理なのだと思う。
「ただでさえ親に無理言って一人暮らししてるんだし、面倒ごとはごめんなのよ。何かあったら即実家に強制送還なわけだし。この四日間は、橘君が助けてくれたから乗り越えられたんだと思うし」
「〜♪」
当の本人は聞いていない。
部屋の隅で、私のノートPCに向かって、鼻歌まじりに何かを打ち込んでいる。
しかも、当然のように私のノートPCである。
「ねぇ、聞いてるの?」
「カタカタカタッ……とーうっ!」
「うん、知ってた」
聞いてない。
さっき説教したばかりなのに、また人のものを勝手に触っている。
この子、本当に学習しているのか。
いや、学習はしている。
しているのだろう。
ただ、好奇心が倫理を追い抜いているだけで。
私は身体を起こし、かぐやの方を見る。
画面には、怪しげな文字列がびっしり流れていた。
黒い画面。
白や緑の文字。
時々、妙に速くスクロールするコードらしきもの。
一瞬、背筋が冷えた。
まさか。
本当にサイバー犯罪を起こそうとしてないよね?
「ここでこうっ! そしてもういっちょ!」
かぐやは楽しそうに揺れながら、キーボードと向き合っていた。
目がきらきらしている。
さっきまでの正座反省モードはどこへ行ったのか。
まるで好きなものを見つけた子どもみたいに。
いや、実際そうなのだろう。
夢中になっている。
何かを作ることに。
何かを動かすことに。
自分の手の中で、新しいものが形になることに。
その姿を見ると、どうしてだろう。
強く言えなくなる。
何か、この感覚を知っている気がした。
懐かしさすら抱くこの光景。
私も、いつかはこんな姿だったのだろうか。
周りが見えなくなるくらい、何かに夢中になって。
できた、動いた、分かった、と胸を弾ませて。
誰かに見てほしくて、褒めてほしくて、でもそれを素直に言えなくて。
そんな頃が、私にもあったのかもしれない。
「はい、これで完成! ねぇ見て見て彩葉!」
「今度はなに? 言っておくけど、人のデータとかいじるのは何があっても犯罪でダメなことだからね?」
「ち〜がうよ! 彩葉の物置に置いてあった携帯ゲーム機、これ見つけたからいじってみたんだ!」
「あ、それ……」
かぐやが持ち上げたのは、古い携帯ゲーム機だった。
懐かしい。
胸の奥が、少しだけきゅっとなる。
それは昔、お兄ちゃんに買ってもらったものだった。
レトロなピクセル風の育成ゲームが入っていて、小さい頃によく交換や対戦をして遊んだ。
お兄ちゃんのデータの方がいつも強くて、悔しくて、でも一緒に遊べるのが嬉しかった。
今はもう使っていない。
物置の奥にしまったまま、存在すら少し忘れていた。
それを、かぐやは引っ張り出していた。
また勝手に。
また人のものを。
……でも、これは使っていなかったものだし。
壊していないなら、まあ。
まあ、今のはぎりぎり許す。
たぶん。
「これはね、犬DOGEだよ!」
「いぬ、どーじ?」
「そう! 犬DOGE!」
かぐやがゲーム機の画面をこちらへ向ける。
小さな液晶の中で、柴犬のような2Dキャラクターが尻尾を振っていた。
ピクセルで描かれているのに、妙に表情がある。
耳がぴこぴこ動き、こちらを見上げるようにして、ちいさく跳ねた。
『わふ!』
「……この子、もしかして」
「かぐやが作った!」
かぐやは得意げに胸を張る。
「彩葉が学校ってとこ行ってから、お昼食べるまでに頑張って組んだんだよ。ノートPCで作って、このゲーム機でも動くようにしたの。すごくない?」
「すごいけど、なんでそんな短時間で」
「楽しかったから!」
「理由になってるようでなってない」
「でも、できたよ?」
「できたことが怖いのよ」
私はゲーム機の画面をじっと見る。
犬DOGEは、尻尾を振りながら画面の端まで走り、また戻ってくる。
ただの既存キャラではない。
動きが妙に滑らかだ。
反応も早い。
画面を軽く叩くと、こちらに反応して首を傾げる。
明らかに、この子が何かを組み込んでいる。
一から。
私の古いノートPCで。
私が学校に行っている間に。
古い携帯ゲーム機へ対応させる形で。
非現実的だ。
やっぱり、かぐやは普通ではない。
月から来たという言葉を、笑い飛ばしきれないくらいには。
でも。
画面の中で犬DOGEを見つめるかぐやは、ただの得意げな女の子だった。
「これで、いつも一緒だよ〜。ふっふん、ドヤ」
「ここでドヤ顔決めんな」
かわいい。
思ってしまった。
悔しい。
「っていうか、やっぱり一生住む気満々なんだ」
「だって、他にどこ行けばいいの?」
かぐやはゲーム機を抱えたまま、当然のように言った。
「雅治の家もダメだって、お弁当食べる時に言われたし。外で捕まったら、かぐやちゃん解剖されちゃうかも〜。うへっ」
ちらっ。
こちらを見る。
演技百パーセントなのがバレバレである。
「そういう顔をしない」
「でも、ちょっとはありそうじゃない?」
「否定しきれないのが嫌なのよ」
「でしょ?」
「ドヤらない」
私はため息をついた。
「月に帰るのは? 頑張って帰る方法を思い出せばいいじゃない」
「頑張ってるよ?」
「本当に?」
「ほんとほんと」
かぐやはそう言いながら、ピコピコとゲーム機をいじる。
犬DOGEに餌をあげているらしい。
頑張っているのはそっちじゃなくて、ゲームなんでしょうが。
「でも、むずかしいしさ〜。それまでは、匿ってよ、彩葉」
「……」
まったく。
もう。
床に寝そべっていた背中を、私は無理やり引き剥がした。
身体が重い。
疲れている。
怒る気力も、泣く気力も、だいぶ使い果たした。
でも、それでも。
この子を今、放り出す選択肢は出てこなかった。
どうして私は、こんなにもこの子に甘いんだろう。
初めて拾ったのが私だからか。
ミルクを作ったからか。
泣き声を聞いたからか。
あの小さな体を抱いたからか。
それとも単純に、この子が今、私のことをまっすぐ見ているからか。
分からない。
でも、分からないままでも、答えはもう出ている気がした。
「……じゃあ、迎えが来るまでね」
「いいの!?」
かぐやの顔が、ぱあっと輝いた。
「やっ――」
「ただし、条件付き」
「へ?」
その瞬間、かぐやの動きがぴたりと止まった。
私は床に座り直し、犬DOGEを抱えたまま期待に満ちた顔をしている月姫をまっすぐ見る。
この子を放り出すことはできない。
それはもう、分かっている。
このまま外へ行かせたら、また何かをやらかす。
かといって、どこかへ預けることもできない。
警察にも、児童相談所にも、親戚にも、学校にも、教会にも、どこにも説明ができない。
七色に光る電柱から生まれ、三日で少女になり、私の服を着て、パンケーキを強奪し、ヤチヨ貯金を爆散させかけた月からの不法入国者です。
そんな説明をした瞬間、たぶん私も一緒に保護される。
だから、ここに置くしかない。
けれど、無条件では絶対に無理だ。
この部屋は私の生活圏であり、最後の砦であり、家計の細い命綱が張り巡らされた、非常に脆い城なのだ。
これ以上、月姫による自由な侵略を許すわけにはいかない。
「今から、
「彩葉条約?」
「そう。ここにいるなら、守るべきルール」
「え、なにそれ。なんかかっこいいじゃん」
「かっこよくない。破ったら普通に追い出すやつ」
「急にこわっ」
私は指を一本立てた。
「第一項。目立たない」
「……はい」
「第二項。許可なく外に出ない」
「……はい」
「第三項。私を含めて、他の人の邪魔をしない。迷惑をかけない」
「……はい」
「第四項。人のものを勝手に触らない」
「……はい」
「第五項。お金に関わるものは絶対に触らない。ウォレット、決済、銀行、ふじゅ〜ペイ、全部ダメ」
「はいぃ……」
「第六項。分からないことは、勝手に試さず、まず聞く」
「……はい」
かぐやの顔が、みるみる白くなっていく。
ちょっと面白い。
いや、面白がっている場合ではない。
でも、少しだけ面白い。
「以上、六項。これを守ること」
「六個もある……」
「六個で済ませてあげてると思って」
「かぐや、そんなにやらかした?」
「部屋、水道、冷蔵庫、服、外出、パンケーキ、ウォレット」
「……いっぱいだった」
「自覚があるならよろしい」
かぐやは犬DOGEの入った携帯ゲーム機を両手で握りしめたまま、しゅんと肩を落とした。
しかし、すぐに何かを思いついたように顔を上げる。
「……えっと、お友達作るのは、だめ?」
「彩葉条約の第一項により、だめ」
「……じゃ、カフェは? パンケーキ、キラキラは?」
「同じく第二項により、だめ」
「……一緒に遊んだりは?」
「第三項。だ・め」
「じゃあ、じゃあ!」
かぐやはゲーム機を抱えたまま、絶望したように声を上げた。
「かぐやはこのまま外にも出れず、楽しみもなく、ずっとずっと、このまま閉じ込められるってこと? ハッピーエンドは、どこに?」
犬DOGEを握るかぐやの顔は、面白いくらい青ざめていた。
その表情があまりにも大げさで、ちょっと笑いそうになる。
でも、ここで甘くしてはいけない。
「嫌なら、この話はなかったことにしようかな〜」
「やだやだ、意地悪しないでよ〜」
「ハッピーエンドには自分でするって言ったでしょ? 何があっても、こんな状況でも、ハッピーに楽しめばいいのよ」
「こんな映えなくて、つまらなくて、暑い部屋で!?」
よし。
有罪。
ギルティ。
やっぱ追い出すか、こいつ。
私は実力行使で玄関へ引きずっていくべく、床に手をついて立ち上がろうとした。
その瞬間。
スマホのアラームが鳴った。
「……」
電子音が、部屋の中に響く。
私はスマホを手に取り、画面を見た。
午後八時三十分。
表示された予定名。
『ヤチヨ ミニライブ準備』
「……しまった」
この時間までに、予定も予習も全部終わらせるはずだった。
明日の準備も済ませて。
ノートも確認して。
スマコンの充電も見て。
飲み物を用意して。
心を整えて。
推しを迎える準備を、完璧にするはずだった。
それが、このありさまである。
でも。
仕方ない。
行かなくちゃ。
今日は、もっとも大事で、楽しみにして待っていた日なんだから。
「な、なに?」
かぐやが、私の気配を敏感に察知した。
ぱっと顔を上げ、犬DOGEを抱えたまま身を乗り出す。
「またどこ行くの? かぐやを置いて?」
「違う」
「やだやだやだやだやだー!」
「話を聞きなさい!」
遅かった。
かぐやはプロレスのタックルみたいな勢いで、私の腰へ抱きついてきた。
重い。
いや、そこまで重くはないけど、勢いが強い。
そして暑い。
圧苦しい。
夏のワンルームで、月姫にしがみつかれるという状況の暑さと面倒くささがすごい。
「離して。どこにも行かないから」
「ほんと?」
「ほんと。ただツクヨミに行くだけ」
「ツクヨミ?」
ぴたり。
かぐやの動きが止まった。
「あの、ヤチヨがいる? サーフィンしてた人がいる、あのツクヨミに?」
「……」
私は、一瞬だけ目を閉じた。
やっぱり見せるんじゃなかった。
シらぬイの動画。
あのバカ。
橘君。
なんで泣き止ませるために、よりにもよってあの変人の動画を見せたのか。
いや、分かる。
たしかにシらぬイの配信は、音が少なくて、動きが派手で、視覚的には面白い。
赤ちゃんだったかぐやが食いついたのも分かる。
分かるけど。
だからって、何も知らない月の子どもに、初期教材として与えていいものでは絶対になかった。
脳裏に、一瞬だけ最悪の映像がよぎる。
ツクヨミのどこか。
何も知らない誰か。
その背中に、満面の笑みで飛び乗る金髪うさぎ姫。
『ひゃっほっほほほいいいぃぃいぃぃぃ!』
月姫、人間サーフィン。
被害者、たぶん通行人。
周囲、騒然。
本人、超楽しそう。
そして遠くのどこかで、無言のシらぬイが親指を立てている幻覚まで見えた。
うん。
やっぱだめだ。
絶対にだめ。
あの変人とは関わらせない。
これ絶対。
ママ許さないからね。
……いや、誰がママだ。
自分で思っておいて背筋がぞわっとした。
「彩葉?」
かぐやが首を傾げる。
「なんか今、すごい顔してた」
「してない」
「してたよ。めっちゃ、うわぁって顔」
「してない」
「サーフィン、だめ?」
「だめ」
「えー。楽しそうじゃん」
「人の上に乗って滑るのは、基本的にだめ」
「基本的に?」
「例外を探すな」
危ない。
本当に危ない。
この子は言葉の隙間から、全力でハッピーエンドに向かって走り出すタイプだ。
そして、その道中に何人の通行人が轢かれるか分かったものではない。
「いい? ツクヨミに行くけど、シらぬイみたいなことはしない」
「シらぬイみたいなこと」
「人に乗らない。変な武器を作らない。知らない人を巻き込まない。勢いだけで突撃しない」
「でも、楽しそうだったよ?」
「楽しいと許されるは別」
「むぅ」
「むぅじゃない」
私はスマコンケースを持ったまま、深く息を吐いた。
今日、何回この子に社会の基本を教えているんだろう。
数えたら負けな気がする。
「とにかく、ツクヨミには行く。ヤチヨのミニライブがあるから」
「行く!」
「だから、あなたは――」
置いていく。
そう言いかけて、私は止まった。
かぐやの目が、きらきらしている。
期待。
好奇心。
楽しいことが始まる前の、全身で前のめりになっている顔。
そして、さっきまでの「閉じ込められるのは嫌だ」という青ざめた顔も、まだ頭のどこかに残っている。
置いていったら、どうなる?
おとなしく待っている?
……ない。
絶対にない。
今日の実績がそれを証明している。
外へ出る。
部屋を漁る。
ノートPCを触る。
ウォレットを爆破しかける。
もしくは犬DOGEをさらに進化させて、私の知らない謎機能を搭載する。
どれもありえる。
むしろ、全部ありえる。
「無理だよ。スマコンもなしにって……あ」
言いかけて、私はまた止まった。
せや。
こやつ。
持っとったわ。
さっき、まさにスマコンを触っていた。
私の残高を地獄へ叩き落としかけた原因のひとつとして。
つまり、この子はスマコンを持っている。
しかも、触り方を覚えかけている。
部屋に残すより、目の前に置いて監視した方が安全かもしれない。
いや、絶対に安全だ。
少なくとも、私の目が届く。
くそー。
連れていくしかないか。
もう少し橘君を留まらせればよかったのかなぁ、という考えが一瞬だけ頭をよぎる。
いや、だめだ。
これ以上は本当に迷惑をかけすぎる。
自分でどうにかする。
「……分かった。連れていく」
「やったぁ!」
かぐやが両手を上げた。
「ツクヨミ! ヤチヨ! サーフィン!」
「最後のはない」
「えー」
「ない」
「ちょっとだけ」
「ない」
「彩葉、ガード固い」
「今日のあなたを見たら誰でも固くなるわよ」
私はスマコンケースを開きながら、もうひとつだけ大事なことを思い出した。
そうだ。
あと一つ言っておかないと。
「それと、食事は定額制!」
「増えた!」
かぐやが悲鳴みたいな声を上げた。
「彩葉条約、六個で終わりって言ったじゃん!」
「これはツクヨミ特別条項」
「特別条項!?」
「ツクヨミでも、勝手に何か買わない。食べない。応援しない。投げない。決済しない。ふじゅ〜を使わない」
「でもヤチヨにふじゅ〜したい!」
「私もしたいわよ!」
思わず本音が出た。
違う。
今はそうじゃない。
「とにかく、最初は見るだけ。分かった?」
「むぅ……」
「返事」
「はーい」
「伸ばさない」
「はい!」
よろしい。
たぶん。
いや、全然安心できない。
けれど、もう時間がない。
私はスマコンケースから、透明に近い薄いレンズを取り出した。
スマートコンタクト。
通称スマコン。
現実の視界と仮想空間をつなぐ、今の時代ではもう珍しくもないデバイス。
慣れた手つきで、片目ずつ装着する。
少し冷たい感触。
まばたきをすると、視界の端に起動前の淡い光が走った。
かぐやは、それをじっと見つめていた。
さっきまであれだけ「行く!」と騒いでいたくせに、急に口数が少ない。
「……なに」
「それ、本当に目に入れるの?」
「そう」
「こわくない?」
「最初はちょっと怖い」
「え、怖いんじゃん!」
「でも慣れる」
「痛くない?」
「ちゃんと入れれば痛くない」
「失敗したら?」
「やり直す」
「目、取れたりしない?」
「しない」
「ほんと?」
「ほんと」
かぐやはスマコンのレンズを指先でつまんだまま、じっと見つめている。
珍しく、少しだけ不安そうだった。
外には勝手に飛び出す。
パンケーキは奪う。
ウォレットは爆破しかける。
部屋は荒らす。
そんな月姫が、コンタクトレンズを前に立ち止まっている。
なんだそれ。
かわいいな、おい。
「こっち見て」
「ん」
かぐやが素直に顔を上げる。
私は自分の目元を指差した。
「こうやって、鏡を見るより、最初はちょっと上を見る。力入れすぎないで。怖かったら、一回やめていいから」
「……彩葉、やさしい」
「今だけ」
「ずっとでもいいよ?」
「調子に乗らない」
かぐやは少しだけ笑った。
それでもまだ、レンズを入れる手は止まっている。
「……かぐや、失敗したらどうしよ」
「失敗したら、私が直す」
「痛かったら?」
「すぐ外す」
「変になったら?」
「私が見る」
「……じゃあ、大丈夫かも」
そう言って、かぐやはゆっくりレンズを目へ近づけた。
少しだけ震える指。
でも、途中で止まらない。
右目。
左目。
まばたき。
「……入った?」
「たぶん。違和感ある?」
「ある。でも痛くない」
「なら大丈夫」
「おお……見える。なんか、端っこがきらってした」
「起動準備」
「すご。近未来じゃん。かぐや、いまめっちゃ現代ギャルっぽい?」
「目にコンタクト入れただけでギャルを名乗らない」
「でもテンション上がるやつじゃん!」
「分かるけど、騒がないの」
少しだけいつもの調子が戻ってきた。
私はスマホとスマコンの連携を確認し、かぐやの初期ログイン設定も最低限だけ済ませる。
細かい設定は、向こうでやるしかない。
「じゃあ、隣に座って」
「うん!」
二人で隣り合わせに座る。
部屋の蛍光灯の下。
まだ片付けきれていないワンルームの真ん中。
洗濯機の音が遠くで響く。
こんな状態でツクヨミに入るのは、たぶん初めてだ。
かぐやは私の隣に座り、少しだけそわそわしている。
そして、ログイン直前。
彼女の手が、そっと私の服の裾へ伸びた。
掴もうとして、少し止まる。
彩葉条約。
勝手に触らない。
たぶん、それを思い出したのだろう。
その手が宙で迷っているのを見て、私は小さく息を吐いた。
仕方ないな。
本当に、仕方ない。
私はその手を取った。
「え」
「はぐれないようにでしょ」
「……うん」
「服の裾より、こっちの方がいい」
かぐやは一瞬だけぽかんとした。
それから、ぱあっと笑った。
「彩葉、やっぱりやさしいじゃん」
「今だけ」
「今だけでもハッピー」
「はいはい」
手のひらが、あたたかい。
赤ん坊だった頃よりずっと大きくなっているのに、まだどこか危なっかしい手。
私はその手を握ったまま、目を閉じた。
「行くよ」
「うん!」
「せーの」
ログイン。
世界が、静かに切り替わった。
*
最初に訪れたのは、落ちる感覚だった。
身体が沈む。
床がなくなる。
重さがほどける。
さっきまで手の中にあった彩葉の体温も、蛍光灯の白い光も、洗濯機の低い音も、部屋に残っていた弁当の匂いも、ぜんぶ水の向こう側へ遠ざかっていく。
でも、不思議と怖くはなかった。
溺れている感じではない。
冷たい水に引きずり込まれるのではなく、やわらかい夜の中へ、そっと包まれていくような感覚だった。
音が遠い。
でも、無音ではない。
どこかで水が揺れている。
遠くで灯籠の火がまたたくような、ちいさな気配がある。
まるで、夢を見る直前のまぶたの裏側みたいに、静かで、暗くて、けれど優しい。
かぐやは、ゆっくり目を開けた。
「……わ」
最初に見えたのは、空だった。
いや、空だと思った。
でも、次の瞬間、それが足元にも広がっていることに気づいた。
上にも宇宙。
下にも宇宙。
天井なんてない。
床もない。
ただ、果てしない水面が広がっていて、その水面が夜空をそのまま映している。
深い青。
淡い紫。
夕焼けの名残みたいな赤。
遠くの雲は、桃色と金色を含んで、まるでまだ沈みきっていない太陽を内側に隠しているみたいだった。
けれど、その空には星もあった。
夕方と夜が、同じ場所にいる。
暮れていく空と、始まっていく星空が、境目を忘れたみたいに重なっていた。
水面には、灯籠が浮かんでいた。
ひとつ。
ふたつ。
数えきれないほど。
白く、あたたかく、内側から光る灯籠たちが、まるで星の欠片を水に浮かべたみたいに、ゆらゆらと続いている。
その光が水面に映って、またもうひとつの灯籠になる。
上の星。
下の星。
水に浮かぶ火。
どこまでが空で、どこからが水なのか、かぐやには分からなかった。
「やば……」
言葉が、勝手にこぼれた。
「なにここ。めっちゃ、きらきらじゃん……」
一歩、足を動かす。
足元には水がある。
けれど沈まない。
足の裏が水面に触れた瞬間、薄い波紋が広がった。
その波紋は灯籠の光を揺らし、星の反射を揺らし、かぐやの足元から丸く丸く、遠くへ伸びていく。
水を踏んでいる。
でも濡れない。
空を歩いている。
でも落ちない。
かぐやはもう一歩進んだ。
ぴちゃり、と小さな音がした気がした。
けれどそれもすぐに、広い世界の中へ溶けていった。
「すご……彩葉、これ見てる? ねぇ、彩葉?」
振り返る。
誰もいない。
さっきまで隣で手を握ってくれていたはずの彩葉の姿が、どこにもない。
「……あれ?」
かぐやはきょろきょろと周囲を見回した。
「彩葉ー?」
声が、水の上を滑っていく。
返事はない。
代わりに、遠くで何かが揺れた。
水面。
その先に、朱いものが立っている。
鳥居だった。
大きな鳥居。
それも、ひとつではない。
遠くへ、さらに遠くへ。
水面の上に、いくつもの朱い鳥居が並んでいる。
古くて、静かで、でもどこか生きているみたいな赤。
夕焼けの色を吸い込んだようにも見えるし、逆に鳥居の朱が空へにじんで、雲を赤く染めているようにも見える。
鳥居の柱は水の中へ沈んでいる。
なのに、その根元は見えない。
どこまでも深い水の底から、ずっと昔からそこに立っていたみたいに、堂々と伸びていた。
灯籠たちは、その鳥居へ向かって道を作っている。
水の道。
光の道。
どこにもないのに、たしかに進むべき場所だけが分かる道。
かぐやは、息を呑んだ。
呼吸なんてしているのか分からない場所なのに、胸の奥がぎゅっとなった。
月とは違う。
かぐやが知っている
何もかもが静かで。
何もかもが決まっていて。
名前すら要らない場所。
でも、ここは違う。
静かなのに、色がある。
水しかないのに、火がある。
夜なのに、夕焼けが残っている。
終わりかけの光と、始まりたての星が、同じ場所で手を繋いでいる。
それが、どうしようもなく不思議だった。
どうしようもなく、きれいだった。
「……こんなの、ずるいじゃん」
小さく呟いた。
胸の奥が、ぱちぱちする。
さっきパンケーキを食べた時とは違う。
マミのきらきらとも、ロカのあまぁい夜とも違う。
これは、なんだろう。
食べられない。
触れない。
でも、ちゃんと自分の中に入ってくる。
目から入って。
胸に落ちて。
そのまま、名前のない何かになる。
かぐやは水面に映る自分を見た。
まだ現実の姿ではない。
まだアバターも整っていない。
それなのに、水面に映った自分の瞳だけは、やたらと明るく輝いていた。
「彩葉、これ知ってたんだ」
少しだけ、悔しくなる。
彩葉は、ここを知っている。
こんな場所を知っていて、何度も来ていて、それでも現実のあの狭い部屋へ帰っていく。
あの、映えなくて。
暑くて。
つまらなくて。
でも、彩葉の匂いがする部屋へ。
かぐやは、また空を見上げた。
遠くの雲の向こうで、星が流れる。
流れ星。
ひとつではない。
雨みたいに、細い光がいくつも落ちてくる。
その光は水面へ触れる前にふっと消えて、代わりに灯籠の火が少しだけ強くなった。
「……やば」
かぐやは笑った。
勝手に笑っていた。
「ツクヨミ、めっちゃやばい。ここ、絶対楽しいやつじゃん」
さっきまでの不安は、もう半分くらい消えていた。
彩葉がいないのは少し心細い。
でも、怖さよりも先に、楽しいが来てしまう。
見たい。
もっと見たい。
この鳥居の先も。
灯籠の道の向こうも。
空と水の境目も。
ツクヨミという名前の、この大きな夜の中を。
もっと。
もっと。
かぐやは鳥居の方へ一歩踏み出した。
その瞬間、水面が大きく揺れた。
「え?」
足元から、光が走る。
波紋が幾重にも広がり、その中心から、白い泡のようなものが立ち上がった。
泡ではない。
光だ。
水が光になって、空へ昇っていく。
その光が柱になり、やがてもうひとつ、大きな鳥居の形を描き出す。
さっきまで遠くに見えていた鳥居よりも、さらに大きい。
水の中から現れたようであり、空から降りてきたようでもあった。
朱い柱。
高く反った笠木。
水に濡れたような光沢。
そこから落ちる赤い影が、水面と空の両方へ伸びていく。
かぐやは、ぽかんと口を開けた。
「……え、なに。歓迎? かぐや、歓迎されてる?」
返事はない。
けれど、灯籠が揺れた。
まるで「こっちへおいで」と言うみたいに。
その時だった。
「――太陽が沈んで、夜がやってきます」
声がした。
厳かに。
されど、優しく囁くように。
ただの案内音声ではない。
ただのチュートリアルでもない。
その声が空気に触れた瞬間、世界そのものが息をひそめた。
夕焼けの赤が、ゆっくりと水面へ溶けていく。
雲の縁に残っていた金色が薄れ、代わりに深い藍が空の奥から広がっていく。
鳥居の朱は、夜に沈むほどに鮮やかさを増し、灯籠の光はひとつ、またひとつと強くなった。
空の星が増えていく。
さっきまで夕方だったはずの世界が、今、目の前で夜へ変わっていく。
太陽が沈む。
夜が来る。
そして、その夜の中心に、彼女はいた。
朱い鳥居の上。
夕焼けと星空の境目に立つ、白い髪の少女。
月光をほどいたような長い髪が、風もないのにふわりと揺れる。
黒を基調にした衣装は夜そのものをまとっているようで、そこに海の生き物を思わせる装飾が淡く光っていた。
足元には、フグを模した意匠のヒール。
胸元には、ぺたりと張りつくようなメンダコの飾り。
肩には、白くてふわふわした謎の生き物。
FUSHI。
……とはいえ、あれは本当にウミウシなのだろうか。
ウミウシって毛、あったっけ。
でも、そんな疑問をかぐやが抱くことはなかった。
なぜなら今の彼女の頭の中は、うわ本物だでいっぱいだったからである。
足元の水面に、灯籠の光が一斉に集まる。
鳥居も。
星も。
水も。
夜も。
全部が、その少女を迎えるためにそこにあるように見えた。
月見ヤチヨ。
ここに顕現。
かぐやは、息をするのも忘れて見上げていた。
知っている。
まだ、本当には知らない。
でも知っている。
彩葉が大好きな人。
画面の向こうで歌っていた人。
ツクヨミの夜を始める人。
そして今、この世界の夜を連れてきた人。
「あっ……」
胸の奥が、ぱちっと光る。
かぐやの瞳が、灯籠よりも、星よりも、ずっと強く輝いた。
「ヤチヨ!」
呼ぶと、鳥居の上の少女――月見ヤチヨは、ぱっと表情を明るくした。
厳かだった空気が、次の瞬間には花火みたいに弾ける。
「正解!」
ヤチヨは満点の笑顔で手を振った。
「仮想空間ツクヨミへようこそ! 管理人の月見ヤチヨで~す!」
その声と一緒に、夜が完成した。
星が咲く。
灯籠が揺れる。
水面がきらめく。
鳥居の向こう側から、まだ見ぬ街の気配がふわりと流れ込んでくる。
「このモフモフはFUSHI」
「ヤチヨがツクヨミと僕を作ったんだ」
FUSHIはどこか自慢げだった。
いや、しゃべるんだ。
しかも一人称、僕なんだ。
でも今のかぐやには、その驚きすら「ツクヨミすご」の中に飲み込まれていく。
「すごっ……本物のヤチヨだ……!」
「ふふん。そうだよ~。本物のヤチヨだよ~」
ヤチヨは楽しそうに笑うと、かぐやの手をひょいと取った。
その手はやわらかくて、でも不思議と頼もしい。
「さあ、お出かけする前に……その格好じゃつまらない!」
「え?」
ヤチヨが指を鳴らす。
すると、かぐやの目の前に透明なディスプレイがぱっと浮かび上がった。
そこには、髪型、目の色、耳、しっぽ、衣装、アクセサリー――ありとあらゆる選択肢が、ずらりと並んでいる。
「ここでツクヨミでのアバターを決めるの。好きに変えちゃっていいよ!」
「好きに!?」
「うん。かわいくても、かっこよくても、盛っても、映えても、なんでもあり!」
かぐやの目が、今度は別の意味で輝いた。
「じゃあ、髪はこれで、服はこれ!」
迷いがない。
いや、むしろ楽しそうすぎる。
項目を開いては「これかわいい!」「これもいい!」「うわ、耳つけれるじゃん!」と、どんどん決めていく。
さっきまで彩葉が見当たらなくて少し不安そうにしていたのに、今や完全にキャラクリの海へ潜っていた。
キャラクリは時間が溶ける――と誰かが言っていた気がする。
実際、楽しいものだ。
自分がどんな姿になるのか、どんなふうに世界へ出ていくのか。
それを選ぶ時間は、それだけでひとつの冒険みたいなものだから。
やがて、かぐやは満足そうに胸を張った。
「うん、これで準備は整ったね」
ヤチヨがにっこり笑う。
「さあ、いってらっしゃ~い!」
「え、うん! ……え?」
次の瞬間、ヤチヨはかぐやの手を引いて走り出した。
「ちょ、ちょっと待って待って待って、どこ行くの!?」
「鳥居の向こう! ツクヨミ本番!」
「え、説明みじかっ!」
「大丈夫大丈夫! なんとかなるよ~!」
「いや、勢いでなんとかしないで 」
そして。
ヤチヨは、鳥居へ向かって、かぐやを放り出した。
ダイナミックエントリーッ。
「ひゃっ !?」
緑がかった光の境界を抜ける。
鳥居の向こう側。
そこが、本当の仮想空間ツクヨミだった。
*
「うわわわぁっ!」
金髪のギャルいかぐや姫のおなり~、なんて。
鳥居の向こうから飛び出してきたその姿を見た瞬間、正直ちょっとだけそう思った。
朱色と若草色を基調にした、華やかで少し和風寄りのコーデ。
頭には、金キラの月の髪飾り。
そこからぴょこんと伸びるウサギの耳。
何より目を引くのは、煌びやかなほどに美しい金髪だった。
足元まで届きそうな長さのストレートロング。
その髪に沿うように、なだらかに垂れたロップイヤーのウサミミが揺れている。
背中には大きな水引が結ばれていて、どこかおめでたい雰囲気すらあった。
どうやら、月のウサギがモチーフらしい。
なるほど。
月から来たかぐや姫。
ウサギ。
金髪。
ギャル。
情報量が多い。
でも、めちゃくちゃ似合っているのが腹立たしい。
似合っていたのだけれど
「ヴェェエエエ、口に入っちゃったぁ」
その月のお姫様は、ただいま顔面からダイビング中である。
どう見ても、鳥居を抜ける時に勢い余ってズッコケたのが一目で分かった。
同じく鳥居をくぐってログインしてくる通行人たちにも、そう見えたのだろう。
何人かがこちらを見て、くすっと笑いながら通り過ぎていく。
馬鹿にしているというより、ほほえましい子動物や、小さい子どもの初挑戦を見守っているような表情だった。
まあ、みんな初ログインの時に一度は味わう、第一歩のズッコケという名の洗礼である。
これもヤチヨのいたずらだと思えば、いくらでも受けられる。
……いや、受ける側はたまったもんじゃないだろうけど。
「ほら、手ぇかして」
しゃがみこんで手を差し出すと、かぐやは石畳みたいに見えるログイン足場から顔を上げた。
「ありがとう、ってか……もしや、いろはぁ?」
金髪ギャルいかぐや姫は、私のアバターを指さした。
「こら、人に向かって指さししない」
「あ、ほんとだ。ごめん」
「謝れるのはえらい」
言いながら、引っぱり起こす。
そのついでに、私は改めて自分のアバターへ向けられた視線を意識した。
現実の私と同じ、紫がかった黒のショートヘア。
涼しげな緑の目。
額には赤いひし形。
そして、きつねの耳としっぽ。
衣装は黒と青を基調にした、少し近未来寄りの和風スタイル。
現実の制服姿よりも少しだけ軽やかで、少しだけ鋭くて、少しだけ
ツクヨミの中での私は いろだ。
「そう。ここでは、いろ」
「いろ……!」
かぐやは、ちょっと感動したみたいに目をきらきらさせた。
「なんか、かっこいいじゃん」
「そういうもんでしょ。アバターなんだから」
言いながらも、ちょっとだけ耳が動いた気がした。
いけない。
褒められて反応するな、私の狐耳。
と、そこで私はようやく気づいた。
かぐやの周りを、ちょろちょろと何かが走り回っている。
「というか、それって」
「あっ」
かぐやがぱっとそっちを振り返る。
「犬DOGEだ! 連れてこれるんだね!」
そう言ってひょいと抱き上げたのは、昼間あいつが私のノートPCで勝手に組み上げていたAIペット、犬DOGEだった。
柴犬っぽいフォルムの小さな機械仕掛けの犬。
ぴこぴこと電子音みたいな鳴き声を立てながら、腕の中で尻尾を振っている。
「いや、私も初見だけど」
思わず素で返す。
ほかのアプリやサイトと連携して、ツクヨミ外部からの持ち込みが可能なのは知っていた。
でも、まさか個人が作った携帯端末用の改造プログラムにまで対応するとは。
さすがヤチヨ。
ツクヨミだけにとどまらず、現実にすら通用する表現の自由を可能とするとは。
なんでもありのツクヨミらしい。
……いや、感心してる場合か?
これ、冷静に考えれば、昼間の短時間でかぐやが作った謎プログラムが、ツクヨミ側に認識されて、しかもアバターのお供として連れてこられているということである。
どういう技術力?
どういう適応力?
どういう月姫?
やっぱりこの子、何も知らないくせに、できることの範囲がおかしい。
「えへへ。これでいつも一緒だよ~」
かぐやはどや顔で犬DOGEを抱えなおした。
「その
「ハッピーそうじゃん?」
「否定はしないけど」
でも、本当にツクヨミってなんでもありなんだな、と少しだけ感心する。
いや、本当に感心してる場合ではない。
今日はヤチヨのミニライブがあるのだ。
それも、限界オタクとしては一秒たりとも無駄にできない大切な日である。
なのに今、私の隣には、月から来た不法入国者にして金髪ギャルうさ耳かぐや姫と、機械犬DOGE。
情報量が多い。
かなり多い。
けれど、かぐやはもうそんなことより先に、目の前へ広がる景色へ心を奪われていた。
「……わぁ」
小さく息を呑む。
視線の先に広がっていたのは、仮想空間ツクヨミの夜の町だった。
月明かりが照らす町。
水面の向こう、そして鳥居の先へ続くように、和と未来が混ざった不思議な街並みが広がっている。
建物の窓からはあたたかな光が漏れ、通りには無数の灯りが並んでいた。
太陽が出ていなくても、充分すぎるほど明るい。
朱い橋。
並ぶ屋台。
遠くから聞こえる楽しそうなざわめき。
水路の上を滑る小舟。
空をゆっくり泳いでいく魚のような影。
屋根の上に浮かぶ小さな灯籠。
どこか古いのに、どこか未来めいている。
夜の世界なのに、沈んだ暗さはまるでない。
むしろ、夜だからこそ光が際立っている。
これから何かが始まる前の高揚感で、町全体がゆっくり息をしているみたいだった。
にぎやかで。
きらきらしていて。
どこもかしこも誰かの楽しいが形になったみたいな景色。
景気がよさそうである。
「すご……なにここ……」
かぐやがぽかんと呟く。
「ツクヨミ」
私は少しだけ胸を張って答えた。
「私の好きな場所」
そう言うと、かぐやは一瞬だけこちらを見る。
それからまた、町の方を見た。
「……うん」
その顔には、さっきまでの転倒の恥ずかしさなんてもう残っていなかった。
「これ、好きになるやつじゃん」
「でしょ」
「やば。夜なのにめっちゃ明るいし、全部キラキラしてるし、楽しそうだし、映えるし!」
「うん、まあ、そう」
「彩葉が好きなの分かるかも!」
「ここでは、いろ」
「あ、そっか。いろが好きなの分かるかも!」
かぐやは一応言い直した。
一応。
けれど、三秒後にはたぶん忘れる顔だった。
私は小さく息を吐く。
まあ、いいか。
どうせこの子にとって、私は彩葉なのだろう。
現実でも、ツクヨミでも、部屋でも、カフェでも、月から来たこの子の目に映っている私はたぶん同じだ。
そのことが、少しだけ照れくさくて、少しだけ面倒くさい。
「ほら、行くよ」
「どこに?」
「決まってるでしょ」
私は、灯りの海みたいに輝く町の奥を見た。
「ヤチヨのミニライブ会場」
そのひと言で、かぐやの目がさらに輝いた。
「行く!」
即答である。
「絶っ対行く!」
「大声出さない。目立つ」
「あっ、第一項」
「そう。彩葉条約、忘れてないならよろしい」
「じゃあ、目立たないようにテンション高めで行く!」
「矛盾してるのよ」
「でもハッピーだから!」
「はいはい。とにかく、はぐれないで」
「だいじょぶ!」
「そのだいじょぶが一番だいじょぶじゃないんだけど」
私が言い終わるより先に、かぐやは犬DOGEを抱えたまま一歩前へ飛び出した。
「ちょ、待ちなさい!」
「ほら、彩葉! 早く早く!」
「だから、ここでは――」
言いかけて、やめた。
かぐやはこちらを振り返り、月明かりの下で、きらきらした顔をしている。
金髪。
ウサ耳。
犬DOGE。
そして、初めてのツクヨミに胸を弾ませる、どうしようもなく前のめりな月姫。
これはもう、何度言っても直らないやつだ。
「……もういいわ。はぐれないでよ、かぐや」
「うん!」
返事だけは百点満点だった。
月明かりの下、きつね耳の私と、金髪ギャルうさ耳かぐや姫と、機械犬DOGEが走り出す。
仮想空間ツクヨミの夜は、こうしてまたひとつ、騒がしく幕を開けた。
次回こそは腹抱えて笑いながら彩葉の胃袋をマッハで殴るような何かがくることを信じて、皆さんもお休みなされ~
やっとの休日かと思えば来週から韓国へ行きますんでまた更新頻度が墜ちるやも
感想、お気に入り、評価いつも感謝しております。
今日もこのバカのくだらない話に付き合ってくださって、ありがとうございました!