今日も正常営業。ただし“そういうとこ”を添えてー 作:火力万能主義
時期は特に考えてなかったので期末試験と三連休の間のどっかで(適当)
朝からカフェインとプロティン飲みながら出勤してたら帰り道ジム寄るかどうかしか、考えれない(笑)
本編が纏まる前の息抜きです、どうぞ!
番外編ー 筋肉筋肉
番外編一①
そうだ、筋トレをしよう!
筋肉は正しい。
筋肉は嘘をつかない。
筋肉は、裏切らない。
努力した分だけ応える。
積み重ねた日々を、決してなかったことにはしない。
昨日の自分より一回多く。
先週の自分より少し深く。
前月の自分よりわずかに重く。
その小さな前進を、肉体は確かに記録する。
学力は時に点数へ裏切られる。
人間関係は時に言葉へ裏切られる。
運命は時に理不尽へ裏切られる。
だが筋肉は違う。
食べ、動き、休み、また動く。
その循環の中で、人は少しずつ己を作り替えることができる。
つまり、筋肉とは希望である。
つまり、筋肉とは秩序である。
つまり、筋肉とは己の人生を己の手へ取り戻すための、もっとも原始的にして、もっとも信頼できる手段なのである。
ゆえに。
「君も、筋トレをしないか?」
昼休みの教室で、橘雅治は静かにそう言った。
彼の手にはプロテインシェイカーがあった。
机の上には、なぜか小さなホワイトボード。
そこには太い字でこう書かれている。
『筋肉は万能なり』
その横には、棒人間が両腕を掲げている雑な絵。
たぶん筋肉を表現しているのだろうが、どう見ても邪教の祭壇前で祈りを捧げる信徒だった。
「……橘君」
酒寄彩葉は、箸を持ったまま真顔で言った。
「何してるの?」
「啓蒙だ」
「やめなさい」
即答だった。
しかし、雅治は止まらなかった。
いつもの穏やかな僕の顔ではない。
かといって、完全に俺というほど剥き出しでもない。
その中間。
妙に真面目で、妙に情熱的で、妙に暑苦しい。
要するに、面倒くさい時の橘雅治だった。
「酒寄。君は知らないかもしれないが、筋肉とはただ腕を太くするためのものではない」
「いや、それくらいは分かるけど」
「筋肉は姿勢を支える。筋肉は代謝を助ける。筋肉は疲労に抗う。筋肉は睡眠の質を高める一助となり、血流を促し、日々の生活に張りをもたらす。すなわち、筋肉とは生活基盤であり、未来への投資だ」
「言い方がセミナーなのよ」
彩葉がじと目で睨む。
しかし雅治は、そんな視線を受けてもなお、涼しい顔でシェイカーを振った。
しゃかしゃかしゃか。
妙に小気味よい音が昼休みの教室に響く。
「まずは理解してほしい。筋トレとは、何も高重量を扱い己の肉体を破壊する蛮行ではない。適切な負荷。適切なフォーム。適切な休息。そこに栄養を添えることで、人体はより良き形へ向かう」
「添え物みたいに言わないで」
「栄養は主菜だとも」
「そこじゃない」
そんな二人のやり取りを、隣で弁当を食べ終わった後の
「筋トレかぁ。私はいいかなー。ほら、運動するとお腹空くし」
「諌山真実」
雅治の視線が、すっと真実へ向いた。
その瞬間、真実は本能的に一歩引いた。
「え、なに?」
「いいのか? そのままで」
「何が?」
「このままでは、十年も経たずに、美味しいものが食べたくても食べられなくなるかもしれない」
真実の手から、からあげが止まった。
「……え?」
「考えてみろ。世の中には、二十代に入ってすぐ、揚げ物を含めた脂全般が重く感じるようになった、という者もいる」
「やめて」
「かつては無限に食べられたはずの唐揚げ。深夜に食べても平気だったラーメン。甘い物を食べても翌朝には何事もなかった身体。それがいつしか、胃もたれ、胸焼け、体重計、肌荒れ、謎の倦怠感という名の四天王に包囲される」
「やめてって言ってるじゃん」
真実の声が少し震えた。
手元のからあげを見つめる目が、急に命の重みを知った者のそれになっている。
雅治は、静かに一歩踏み込んだ。
「より美味しく」
「……」
「より多く」
「……」
「より長く」
「……」
「食べ続けるための身体を作る」
真実の喉がごくりと鳴った。
「君も一緒に、筋トレをしないか?」
教室の一角に、妙な沈黙が落ちた。
真実はからあげを見た。
自分のお腹を見た。
それから、雅治を見た。
「……美味しいものを長く食べるため?」
「ああ」
「食事制限は?」
「極端な制限はしない。むしろ食べるために動く。食べる幸福を維持するために鍛える」
「……それ、ちょっとアリかも」
「真実!?」
彩葉が思わず声を上げた。
「だって、彩葉。美味しいものを長く食べたいじゃん」
「それはそうだけど!」
「揚げ物に負けない身体……いい響きだよね」
「真実、戻ってきて。そっちは危ない」
だが、真実の目にはすでに、唐揚げと未来の自分を守るための小さな決意が宿りかけていた。
雅治は満足げに頷く。
「一人目、内定だな」
「内定出さないで」
彩葉がすぐに突っ込む。
すると今度は、芦花がゆるく首を傾げた。
「でも、筋トレって大変そう。私、あんまりムキムキにはなりたくないかも」
その一言に、雅治の目が光った。
彩葉は嫌な予感を覚えた。
「あ、芦花。それ以上言わない方が――」
「綾紬芦花」
「はい?」
雅治は、先ほどより少しだけ声を落とした。
まるで、重要な契約を交わす直前の悪役のように。
「君は美容に詳しい」
「まあ、一応ね。配信もしてるし」
「ならば分かるはずだ。美しさとは、ただ表面を整えるだけでは長く維持できない」
芦花の目が、少しだけ真剣になる。
「適切な筋トレと食事管理は、身体のラインをよりはっきりと、そして長く維持する助けになる。背中、肩、腹部、脚。土台が整えば、服の見え方も変わる。姿勢が変われば、写真の印象も変わる」
「……それは、分かるかも」
「加えて、適度な運動は血流を促す。血流が整えば、肌の調子にも良い影響が期待できる。もちろん、休息と食事が伴ってこそだがな」
「うんうん」
「さらに、顔の写真を撮る前に行う短めの顔面部の筋肉ほぐし。あれも広義では、筋肉への意識と管理の一種と言える」
「……たしかに」
「表情筋も筋肉だ。首も肩も背中も繋がっている。画面に映る顔だけが美を作るわけではない。身体全体の状態が、最終的に印象を支配する」
芦花の表情が、だんだん真面目になっていく。
彩葉は頭を抱えた。
「芦花まで……」
「でも彩葉、今のは結構ちゃんとしてるよ」
「ちゃんとしてるのが余計に悪質なのよ」
雅治はそこで、すっと手を差し出した。
「綾紬。君も一緒に、筋トレをしないか?」
完全に勧誘だった。
しかも、説得力のあるタイプの勧誘だった。
芦花は少し考え、ゆるく笑った。
「軽いやつなら、ちょっと興味あるかも」
「二人目」
「数えないで!」
彩葉のツッコミが虚しく教室に響く。
だが、すでに流れは決まっていた。
真実が食の未来を守るために揺れ、芦花が美容と体型維持の理論で揺れた今、残るは一人。
酒寄彩葉。
雅治は、ゆっくりと彩葉へ向き直った。
その動きは、まるで物語の終盤。
仲間を次々と誘惑し、最後に主人公へ手を伸ばす黒幕のようだった。
「さぁ」
「こっち見ないで」
「これで君が最後だ、酒寄彩葉」
「言い方が完全にラスボス側なのよ」
「我らと共に、素晴らしき
「理想って何」
「筋肉だ」
「知ってた」
雅治はホワイトボードを持ち上げた。
そこには、先ほどよりもさらに太く、こう書かれている。
『健康な肉体は、生活を救う』
妙に正しい。
正しいから腹が立つ。
「いいのか? 酒寄」
「何が」
「健康な肉体だぞ」
「うん」
「崩れにくい生活リズム」
「……うん」
「疲れても回復しやすい身体」
「……」
「より疲労が少ない肉体」
「……」
「バイト、勉強、ほかにも時間と体力を費やす何か。君の生活は、どう考えても体力を消費する。ならば、基礎体力を上げることは、そのまま日常の余裕に繋がる」
痛いところを突いてきた。
彩葉は口を閉じる。
そう。
それは分かる。
分かってしまう。
自分の生活は、明らかに体力が足りていない。
気合いと根性と睡眠不足の前借りでどうにかしているだけだ。
そこへ最近は、推し活のための資金くりのためバイトをさらに増やしている。
もはや、いつ倒れてもおかしくない。
健康な肉体。
崩れにくい生活リズム。
疲れても回復しやすい身体。
欲しい。
正直、かなり欲しい。
でも。
「……でも、時間がないし」
「一日十分からでいい」
「お金もかけられないし」
「自重でいい」
「道具もないし」
「床があればいい」
「部屋が狭いし」
「四畳半でもできる」
「ぐっ」
逃げ道が塞がれていく。
雅治は、穏やかに微笑んだ。
「酒寄。筋トレとは、金持ちだけの贅沢ではない。広い部屋を持つ者だけの特権でもない。己の身体一つあれば始められる、もっとも平等に近い自己投資だ」
「なんでそんなに言葉が強いのよ」
「筋肉は強いからだ」
「意味分かんない」
真実が横から手を上げる。
「私、まずは何すればいい?」
「スクワットだ」
「揚げ物のため?」
「揚げ物のためだ」
「やる」
「真実!?」
芦花も続く。
「私は?」
「姿勢改善を含めて、軽い体幹と背中周りだな。無理に追い込む必要はない。まずは肩甲骨周りを動かすだけでも違う」
「それならできそう」
「芦花まで!」
彩葉は思わず立ち上がりかけた。
が、その瞬間、疲労で膝が少しだけ揺れた。
「……」
雅治は見逃さなかった。
「酒寄」
「何」
「まずは椅子から立つ時にふらつかない身体作りから始めよう」
「見てたの?」
「見えたとも」
「そういうところなのよ!」
彩葉は顔を赤くしながら抗議した。
しかし真実はすでに乗り気だった。
「じゃあさ、放課後にちょっとだけやる? カフェ行く前に」
「カフェは行くんだ」
「運動したら甘いものがさらに美味しいじゃん」
「それは危険思想では?」
「食べるために動く。橘くんが言ってた」
「都合のいいところだけ覚えないで」
芦花もスマホを取り出し、メモを開いた。
「じゃあ、初心者向けのメニュー作ってよ、橘くん。美容寄りと食欲維持寄りと、彩葉の生存寄りで」
「私だけ言い方おかしくない?」
「確かに、まずは生存からだな」
「橘君まで乗らないで」
雅治は短く頷き、ホワイトボードに三つの項目を書き始める。
『諌山真実:食べるための脚力』
『綾紬芦花:魅せるための姿勢』
『酒寄彩葉:倒れないための基礎体力』
「待って。私の項目だけ切実すぎない?」
「事実だろう」
「事実でも書かないで」
その時だった。
教室の入口から、通りかかったクラスメイトがホワイトボードを見て足を止めた。
「……何してんの?」
雅治は振り返った。
そして、何のためらいもなく言った。
「筋肉の啓蒙だ」
「怖っ」
クラスメイトはそのままそっと立ち去った。
彩葉は深くため息をつく。
「ねえ、橘君。自覚ある?」
「何のだ」
「今の君、だいぶ
「そうか?」
「普通じゃない」
「筋トレを勧めているだけだが」
「その勧め方が普通じゃないの」
雅治は少し考えた。
そして、静かにシェイカーを掲げた。
「では、言い方を変えよう」
「まだやるの?」
「諸君」
雅治の声が、無駄に重くなった。
「人はいつか老いる。疲れやすくなり、姿勢は崩れ、階段に敗北し、休日を寝て潰し、食べたいものを胃腸に拒まれる日が来るかもしれない」
「やめて、刺さる」
真実が胸を押さえた。
「だが、抗うことはできる。今日の一回が、明日の二回になる。明日の二回が、来月の十回になる。自分の身体と向き合うことは、自分の未来を少しだけ守ることだ」
「言ってることだけは本当に正しいんだよね」
芦花が苦笑する。
「だから君たちも」
雅治はにこりと笑った。
「筋トレをしないか?」
完全に、悪の組織の勧誘だった。
しかも目的だけは妙に健康的な悪の組織である。
*
その日の放課後。
教室の隅では、なぜか四人が並んでスクワットをしていた。
「いーち」
「にー」
「さーん」
「諫山、膝が前に出すぎだ」
「え、難しくない?」
「椅子に座る感覚だ。後ろに重心を置け」
「綾紬、背中のラインは綺麗だが、肩に力が入っている」
「はーい」
「酒寄」
「何」
「呼吸が浅い」
「うるさい」
「吐け」
「命令しないで」
「なら提案する。吐いた方がいい」
「言い直し方が腹立つ!」
彩葉は文句を言いながらも、ちゃんと呼吸を整えた。
真実は「これ終わったら何食べよう」と呟き、芦花は鏡代わりにスマホ画面で姿勢を確認している。
そして雅治は、どこか満足そうに三人を見ていた。
筋肉は正しい。
筋肉は嘘をつかない。
筋肉は万能なり。
ただし。
「ねえ、橘君」
「なんだ」
「これ、明日筋肉痛になる?」
「なるだろうな」
「先に言ってよ!」
筋肉は、時に容赦がない。
翌日、階段の前で三人娘がそろって膝を震わせることになるのだが、それはまた別の話である。
番外編ー②
筋肉痛は、昨日の自分からの手紙
翌朝。
酒寄彩葉は、学校の昇降口を抜けた先で、静かに立ち尽くしていた。
目の前には階段がある。
ただの階段だ。
毎日見ている。
毎日上っている。
何なら急いでいる時には、二段飛ばしで駆け上がることだってある。
昨日までは。
そう。
昨日までは、ただの階段だった。
けれど今日の彩葉にとって、それはもはや階段ではなかった。
壁。
崖。
試練。
人類が己の慢心ゆえに生み出してしまった、縦方向への暴力。
その名も、階段。
「……」
彩葉は無言で右足を一段目へ乗せた。
その瞬間。
「っ、ぅ……」
太ももが悲鳴を上げた。
声にならない声が喉の奥で潰れる。
昨日の放課後、橘雅治の「初心者向けだから大丈夫だ」という言葉を信じた過去の自分を、今すぐ全力で止めたい。
初心者向け。
たしかに彼はそう言った。
初心者向けのスクワット。
初心者向けの体幹。
初心者向けの軽いストレッチ。
初心者向けの姿勢改善。
だが、今なら分かる。
橘雅治の言う
あれは、普段から筋トレをしている人間が、筋トレをしていない人間に対して言う、だいぶ危険な意味での初心者向けである。
「……橘君」
彩葉は、まだ目の前にいない男の名前を、低く呟いた。
「あとで覚えてなさいよ……」
その声には、静かな怒りと、太ももの痛みと、階段への絶望が混じっていた。
すると、背後から似たような気配が二つ近づいてきた。
「彩葉……」
「おはよぉ……」
諌山真実と綾紬芦花だった。
真実はいつもの食欲と元気が半分ほど削れている。
芦花は表情こそ穏やかだが、歩き方が明らかにぎこちない。
三人は階段の前で並んだ。
誰も最初の一歩を踏み出さない。
「……ねえ」
真実が、かすれた声で言った。
「昨日の私たち、何したんだっけ」
「スクワット」
芦花が静かに答える。
「あと、プランク」
彩葉が追加する。
「あと、なんか背中を寄せるやつ」
「肩甲骨まわり」
「それ」
真実は天井を見上げた。
「筋肉って、こんなに後から怒るものなんだね」
「遅れてくるタイプの怒りね」
「こわい」
芦花が小さく頷く。
「でも、姿勢はちょっと良くなった気がする」
「芦花、今それ言えるのすごいね」
「痛いけど、効いてる感じはある」
「前向きすぎるよぉ」
彩葉は二人の会話を聞きながら、一段目へ乗せた足をそっと下ろした。
無理だ。
今の自分に、この階段はあまりにも高い。
しかし、教室は二階にある。
つまり、上らなければならない。
世界は残酷だった。
「……行こう」
彩葉は覚悟を決めた。
「うん」
「いこう」
三人はゆっくりと階段を上り始めた。
一段。
「っ」
二段。
「ぅ」
三段。
「ふっ……」
まるで重傷者の行軍だった。
朝の校舎に、女子高生三人の微妙な呻き声が小さく響く。
周囲の生徒たちは不思議そうに見るが、三人には気にしている余裕がない。
階段とは、こんなにも脚を使うものだったのか。
人類はなぜこんな構造物を当たり前のように校舎へ組み込んだのか。
エレベーターという文明の利器は、なぜこの学校に存在しないのか。
彩葉は心の中で、人類史へ抗議した。
そして、ようやく階段を上り切った時。
「おはよう」
そこに、橘雅治がいた。
爽やかな顔で。
いつものように姿勢よく。
片手にはタブレット。
もう片手にはプロテインシェイカー。
しかも、まったく筋肉痛の気配がない。
三人の視線が、一斉に雅治へ向いた。
その視線には、言葉にできない感情が込められていた。
怒り。
恨み。
疑問。
そして、なぜお前は平気なんだ、という純粋な殺意に近い何か。
雅治はその視線を受けて、少しだけ首を傾げた。
「どうかしたのか?」
「どうかした、じゃない」
彩葉が低い声で言った。
「脚が痛い」
真実が続く。
「太ももが自分のものじゃない」
芦花も静かに訴えた。
「階段が敵に見える」
雅治は三人を順番に見た。
そして、深く頷いた。
「いい傾向だ」
「は?」
彩葉の目が据わった。
雅治は、極めて真面目な顔で言う。
「筋肉痛は、昨日の自分から届いた手紙だ」
「破り捨てたいんだけど」
「それは困る。読んでやってくれ」
「読みたくない」
「内容はこうだ。昨日の私は確かに頑張った。だから今日の君は少し痛い。しかしその痛みは、明日の君を少し強くするための証である」
「いい話っぽくしないで」
彩葉が即座に切り捨てる。
真実が太ももをさすりながら涙目で言った。
「でもさ、橘くん。これ、食べたら治る?」
「治りはしないが、栄養補給は大事だ」
「じゃあ、唐揚げは?」
「タンパク質ではある」
「よし」
「ただし脂質も多い」
「裏切ったな!」
「裏切ってはいない。事実を述べただけ」
真実はショックを受けた顔で胸を押さえた。
芦花は少し考えてから、雅治を見る。
「こういう時って、ストレッチした方がいい?」
「ああ。無理に伸ばしすぎず、軽く動かして血流を促すといい。完全にじっとしているより、軽い運動の方が楽になることもある」
「軽い運動」
彩葉が反応した。
「今、軽い運動って言った?」
「言ったが」
「昨日も軽いって言った」
「あれは軽い」
「こっちの身体には重かったのよ!」
雅治は少しだけ考えた。
「なるほど。では今後は、酒寄基準で軽い運動を設定しよう」
「私を虚弱基準にしないで」
「これは生存基準だ」
「もっと嫌!」
その時、真実が妙に真剣な表情で手を上げた。
「質問」
「どうぞ」
「筋肉痛の日って、食べていい?」
「むしろ食べるべきだろう」
真実の目が輝いた。
「本当に?」
「ああ。筋肉の修復には栄養が必要だ。タンパク質、炭水化物、ビタミン、ミネラル。バランスよく食べることが重要だ」
「つまり」
真実は、ゆっくりと息を吸った。
「今日はいつもより食べていい日?」
「運動量と総摂取量を考えれば 」
「食べていい日?」
圧が強かった。
雅治は一拍置いてから、穏やかに答える。
「適切な範囲なら」
「ヨーシッ、勝った」
何に勝ったのかは分からない。
真実はすでに昼食の計画を立て始めていた。
「学食のチキン南蛮にするか、購買のカツサンドにするか……いや、筋肉のためには卵も欲しい。ゆで卵追加かな」
「真実、完全に目的が変わってる」
「食べるために鍛えるんだよ、彩葉」
「昨日までのあなた、どこ行ったの」
芦花も少し笑う。
「でも、無理しない程度ならいいかもね。彩葉も、体力ついたら少し楽になるかも」
「芦花までそっち側に」
「そっち側って何?」
「筋肉教」
「筋肉の道は誰にでも開かれている。入信は自由だ」
「橘君は黙って」
雅治は素直に黙った。
が、黙ったまま、タブレットに何かを書き始めた。
彩葉は嫌な予感がした。
「……何書いてるの」
「初心者向け週間メニュー」
「やっぱり黙ってないじゃん!」
タブレットには、すでに三人分のメニューが作られつつあった。
『諌山:食事を楽しむための基礎代謝向上メニュー』
『綾紬:姿勢・肩甲骨・体幹バランスメニュー』
『酒寄:疲労耐性および生活維持能力向上メニュー』
「私だけ名称が医療リハビリみたいなんだけど」
「方向性としては近い」
「近くない!」
真実が横から覗き込む。
「私のやつ、食べる量増える?」
「増やすというより、食べても崩れにくい身体を目指す」
「やります」
「即答」
芦花も覗く。
「私の、動画にしてもいい?」
「構わないが、フォームは正確にした方がいい。間違ったまま広めると危ない」
「じゃあ橘くん、監修して」
「ぜひとも」
「軽く引き受けないで!」
彩葉が叫ぶ。
しかしもう遅かった。
筋トレの輪は広がり始めていた。
*
昼休み。
真実は宣言通り、学食でチキン南蛮定食にゆで卵を追加していた。
「筋肉のためだから」
「絶対に違う」
「タンパク質だよ?」
「タルタルソースは?」
「心のタンパク質」
「存在しない栄養素を作らないで」
彩葉は呆れながら、自分の弁当をつつく。
芦花は隣で、肩をゆっくり回していた。
「痛いけど、動かすとちょっと楽かも」
「だろう」
雅治は満足そうに頷く。
その表情があまりにも落ち着いているので、彩葉はじとりと睨んだ。
「橘君」
「なんだ」
「昨日のあれ、本当に初心者向けだったの?」
「初心者向けだ」
「じゃあ、橘君が普段やってるのは?」
「言ってもいいが、これはあくまで僕にとってのメニューだ」
「大丈夫、言う前からもう引いてる」
「なら言おう」
「やっぱ言わないで」
危険を察知した彩葉が即座に止める。
しかし真実が興味津々で聞いた。
「え、どのくらいやってるの?」
「日によるが、朝は軽く走って、夜に筋トレと叔父とのスパーリングが入ることが多い。週末はそれを午前と午後に分けて増やす」
「スパーリング?」
芦花が首を傾げる。
「つまり、殴り合い?」
「かなり大雑把に言えば」
「高校生の日常じゃないよね?」
「叔父さんの方針だ」
「橘君の叔父さんも濃そう」
「今の僕があるのは叔父のおかげだとも言える」
雅治は否定しなかった。
彩葉は小さく息を吐く。
「そりゃ、筋肉痛にもならないわけだ」
「ならないわけではない。僕も毎日なっている」
「なるの?」
「なるとも」
雅治は当然のように言った。
「ただ、筋肉痛と親しくなれば、ある程度は付き合い方が分かるようになる」
「筋肉痛と親しくなりたくない」
「最初は誰でもそう言う」
「まるで先輩面してくる悪の組織じゃん」
真実がチキン南蛮を頬張りながら言う。
「でも、昨日のスクワットで今日のご飯ちょっと美味しい気がする」
「それは運動後で身体が栄養を求めているからだろう」
「最高じゃん」
「真実が堕ちた……」
彩葉は震える声で呟いた。
芦花も少し笑う。
「でも、彩葉」
「なに?」
「倒れないためっていうのは、ちょっと大事だと思うよ」
「……それは」
彩葉は言葉に詰まる。
実際、分かっている。
自分の生活に、体力が足りていないことくらい。
バイト。
勉強。
学校。
日々の生活。
睡眠不足。
気合いだけでどうにかするには、限界がある。
それは分かる。
分かるから腹が立つ。
「……まあ、少しだけなら」
彩葉が小さく言うと、雅治の目がわずかに細くなった。
「正式参加だな」
「今のをそう解釈するのやめて」
「無理のない範囲で組む」
「聞きなさいよ」
「聞いているとも。だから無理のない範囲だ」
「そういうところなのよ」
*
その日の放課後。
場所は、教室の隅。
昨日と同じく四人が集まっていた。
ただし今日はスクワットではない。
筋肉痛対策のストレッチである。
「では、まず太ももの前側を軽く伸ばす」
「軽くね」
「軽く」
「本当に軽くね」
「信用がないな」
「昨日の今日であると思ってるの?」
彩葉は警戒心を全開にしながら、雅治の説明通りに片足を後ろへ曲げる。
「痛っ」
「無理に引くな。伸びている感覚があるところで止めればいい」
「それ先に言って」
「始める前にも言ったのだが」
「もっと大きく言って」
真実は壁に手をつきながら、足を伸ばしている。
「あー、これ気持ちいいかも」
「だろう」
「なんか、身体がほぐれるとお腹空く」
「真実は何してもお腹空くでしょ」
「それはそう」
芦花はさすがに身体の使い方が綺麗だった。
姿勢を少し直すだけで、動きが映える。
「綾紬はそのままでも十分綺麗だが、骨盤と肩の位置を意識するともっと安定する」
「こう?」
「ああ。いい」
「ありがと」
芦花がふにゃっと笑う。
その瞬間、近くを通りかかった男子生徒が、なぜか足を止めかけた。
雅治が無言でそちらを見た、いや振り向いただけが正しい。
しかし、男子生徒はそっと通り過ぎていった。
彩葉はそれを見て、半眼になる。
「橘君」
「なんだ」
「今、威圧した?」
「していないが」
「したよね?」
「視界に入っただけだと思うが」
「その身長でその目線は圧なのよ」
雅治は納得していない顔だった。
その横で、真実が伸びをしながら言った。
「でも、なんか四人でこういうのやるの、変な感じだね」
「変な感じ?」
芦花が聞き返す。
「うん。なんかさ、部活でもないし、授業でもないし、ただの放課後なのに、謎に橘が先生みたいになってるし」
「先生というより、教祖では?」
彩葉がぼそっと言う。
「筋肉教の」
「やめてくれ。僕はただ伝えるのみだ、無理矢理にではない」
「それを教祖って言うのよ」
雅治は少し考える。
「では、案内人で」
「言い換えても怪しい」
芦花がくすくす笑う。
「でも、ちょっと楽しいかも。無理しないなら」
「うん。運動した後ってご飯おいしいし」
「真実はそればっかり」
「大事じゃん」
真実は堂々としていた。
彩葉は呆れたように息を吐く。
けれど、嫌ではなかった。
放課後の教室。
窓の外から差し込む夕方の光。
机を少し寄せた隅のスペース。
そこに集まって、よく分からない理由で身体を伸ばしている四人。
冷静に考えると、かなり変だ。
でも、変なわりに悪くない。
「酒寄」
「何?」
「少し顔色が戻ったな」
「……そう?」
「ああ」
雅治はいつものように、さらっと言った。
彩葉は少しだけ目を逸らす。
「それ、筋トレの効果?」
「まだそこまで早くは出ない」
「じゃあ何」
「笑ったからじゃないか」
「……」
余計なことを言う。
本当に、余計なことを。
彩葉は無言でストレッチの姿勢を深くした。
「痛っ」
「無理に伸ばすなと言っただろう」
「うるさい」
「怒ると呼吸が浅くなる」
「本当にうるさい」
真実と芦花が顔を見合わせて笑った。
*
翌日。
階段の前で、また三人娘が立ち尽くしていた。
昨日より、少しだけマシ。
でも、やっぱり痛い。
その横を、雅治が平然と通り過ぎようとする。
「橘君」
「なんだ」
彩葉が低い声で言う。
「筋肉痛は、昨日の自分からの手紙なんだっけ」
「ああ」
「じゃあ、今日の私は昨日の自分に言いたいことがある」
「何だ」
「便箋を選べ」
「……」
「できれば燃えやすいやつ」
「それは手紙を読む気がないのでは」
「ない」
雅治は少しだけ口元を緩めた。
「では、今日も軽く動かそう」
「悪魔」
「筋肉の案内人だ」
「悪魔の別名みたいに言わないで」
朝の校舎に、彩葉のツッコミが響いた。
筋肉は正しい。
筋肉は嘘をつかない。
筋肉は万能なり。
ただし、筋肉を語る男は、時々とても面倒くさい。
ルビ振り忘れてましたー