今日も正常営業。ただし“そういうとこ”を添えてー 作:火力万能主義
スライディング土下座しようとしたら韓国で増えた贅肉のせいでうまく滑れない!また走って持ち上げて殴って削がないと...
かえってきて翌日に早々韓国の友人が地元に観光で来たので付きっ切りのタクシードライバーにしてシェフにしてガイドとして4泊5日の大出張サービスゥゥゥ
それが終わったら日曜には韓国の研修報告会のためのPPTと原稿初案作成で気付いたら日曜4時!
前半部はすでに韓国にいる時にコツコツ書き溜めたからよかったけど、後半部を仕上げるのは久々すぎてうまく進まなかった作者です。
こうしてみると本当に濃ゆい1週間をまたしも過ごしたなぁと思いまする。
さてさて、ようやく物語の半ばまでに進んだけども彩葉と雅治のじれったい甘々青春ボーイミーツガールにかぐやを込めた色恋三國志が書けないのが唯一の悩みです。
まぁ作者の言い訳はこんなところでカットしてすぐに本篇に入りましょう~番外編から2週間ぶりの更新です、どうぞ!!!!!
章並び設定するの毎回忘れとる~...
第十四話 まだ、物語は続いている
朝の学校というものは、案外、昨日の出来事に頓着しない。
校門をくぐれば、いつも通りに登校してくる生徒たちの声がある。
靴箱の前では、上履きに履き替えながら眠そうに欠伸をする者がいて、廊下では昨日の課題を写させてくれと拝む者がいて、階段の踊り場では昨夜見た配信がどうだの、購買の新作パンがどうだのと、朝からくだらない話で笑っている者がいる。
窓から射し込む朝の光は白く穏やかで、黒板の日付も、机の並びも、少し冷えた空調の風も、昨日までと何も変わらない。
たとえ昨夜、仮想空間ツクヨミのメインストリートを、ガスマスクを被った珍獣どもが《シらぬイ》の四文字を掲げながら練り歩いていたとしても。
たとえ、その先頭で月から来た金髪うさ耳姫が、満面の笑みで「わっしょーい!」と音頭を取っていたとしても。
たとえ、そのせいで、一人の女子高生が待ちに待った推しとの握手を泣く泣く断念する羽目になっていたとしても。
現実の朝は、驚くほど平然とやってくる。
鐘が鳴れば授業が始まるし、提出物は締め切られるし、昨日の精神的損害に対する特別休暇制度など存在しない。
世界は今日も、何食わぬ顔で日常を続けていた。
ただし。
二年A組、廊下側後方の一角だけは、その限りではなかった。
橘雅治は、いつもの席に座っていた。
廊下側。
後ろ寄り。
出入り口に近い、右後方の席。
百九十センチ台という身長の都合上、橘君が教室の前方に置かれることはあまりない。前に座れば、それだけで後ろの生徒の視界を堂々と塞いでしまうからだ。
本人としても、後方の席に不満はないのだろう。
むしろ窓際ではなくてよかった、とでも思っていそうな顔をしている。
窓際は妙に目立つ。
朝の光を背負って座ると、ただでさえ大きい身体が余計に輪郭を増して見えるし、窓の外を眺めているだけで、なぜか物思いに耽っている人間みたいに映る。
その点、廊下側の後方はいい。
目立たない。
出入りもしやすい。
必要であれば、会話も視線も、穏やかにやり過ごせる。
いつもなら。
今日に限っては、どの席に座っていても逃げ場などなかっただろう。
なぜなら、橘君の机の正面に。
私、酒寄彩葉が、仁王立ちで立っていたからである。
「……」
「……」
正確に言えば、詰め寄っている。
ただし、怒鳴ってはいない。
机を叩いてもいない。
腕を組んで露骨に威圧しているわけでもない。
制服の着こなしはきちんとしているし、髪も整えている。表情だって、遠目に見ればいつもの穏やかな優等生、酒寄彩葉に見えなくもないはずだ。
たぶん。
いや、見えていてほしい。
私は一応、教室での外面というものを大事にしている。
でも、目だけはどうにもならなかったと思う。
声をかけるより先に、有罪判決が確定している目。
昨日の混沌すべてが、私の背後で静かに燃えている。
たぶん、そんな感じだった。
それを正面から受けながら、橘君はいつもの顔を崩していない。
姿勢は静かに整っている。
度の入っていない細いメタルフレームの眼鏡の奥で、視線も落ち着いている。
表面だけなら、いつも通りの橘雅治。
穏やかで、誠実で、必要な言葉だけを丁寧に差し出し、それ以上は相手の懐にも、自分の内側にも踏み込ませない「僕」の顔。
けれど、今ばかりは、その顔を保ったところで状況が好転する気配はなかった。
沈黙が長い。
あまりにも、長い。
まるで死刑囚が、刑の執行を待たされているような沈黙だった。
私は何も言わない。
ただ、目の前に立っている。
それだけなのに、さすがの橘君もどうにもできないらしい。
いつものように言葉を整えることはできるのだろう。
多少の冗談へ逃がすことも、理屈を並べて事態を薄めることも、やろうと思えばできるのかもしれない。
だが、今それをするのは違う。
昨夜の変人大行進について、橘君自身には身に覚えがないのかもしれない。
あの行列を呼び寄せた覚えなどないのだろう。
ガスマスクの集団に羽織を着せた覚えも、団扇に名前を書かせた覚えも、鍋を叩かせた覚えも、かぐやを祭列の先頭で踊らせた覚えもないのだろう。
ないのだろうけど。
あの事故の中心で、これでもかというほど掲げられていた名前は《シらぬイ》だった。
そして橘君は、少なくともそのシらぬイの動画を、赤ん坊だったかぐやへ見せた人間である。
さらに、昨夜は変装までして、あの時に近くへいた。
知らぬ存ぜぬで流すには、影が濃すぎる。
ましてや、責任を横へ逸らして逃げるなど言語道断。
ここは清く首を差し出すのが、最も誠実であり、最も被害が少ない。
橘君はたぶん、そう判断した。
だから逃げなかった。
逃げなかったのは偉い。
偉いけど、許すとは言っていない。
ちなみに、今の教室には私と橘君しかいない。
登校時間としては、まだ少し早い。
いつもなら真実と芦花も早めに来る方だけど、今朝は芦花から先に連絡が来ていた。
真実が二度寝したらしい。
家が近い二人は、一緒に登校することが多い。だから今朝は、芦花が真実を回収してから来るとのことだった。
文面は落ち着いていた。
けれど最後に、
『たぶん少しギリギリになると思う』
と書かれていた。
芦花の「少し」は信用できる。
真実の「起きた」は信用できない。
つまり、二人はまだ来ない。
他のクラスメイトも、まだ廊下や別の教室にいるのだろう。朝の教室は、妙に広くて、妙に静かだった。
だからこそ、今しかなかった。
こんな話題を誰に聞かれるか分からない場所でするのは本来なら絶対に避けたい。
避けたいけど、昨日から今日にかけての事態は、それこそ放っておけばさらに膨らむタイプの災害である。
早めに釘を刺す。
できる時に刺す。
刺せる相手から刺す。
私はそう決めて、橘君の机の前に立っていた。
橘君は、目の前の閻魔様から逃げることなく、いつも通りの調子で口を開く。
「おはよう、酒寄」
「おはよう、橘君」
返事は丁寧にした。
表情も柔らかくした。
声のトーンも、いつもの酒寄彩葉だったと思う。
けれど、それだけだった。
挨拶を交わしたからといって、執行猶予が与えられたわけではない。
沈黙は終わらない。
むしろ、正式に処刑台へ上げられた気分だった。
「昨日は、ずいぶん大変だったようだな」
橘君は、穏やかな声でそう言った。
けれど、その視線はほんの少しだけ、私の顔色を見ている。
寝不足か。
怒っているのか。
それとも、昨夜の件でまだ気持ちが追いついていないのか。
そういう確認を、言葉にせず済ませようとしている顔だった。
私は、にこりともせず答える。
「大変だったわよ」
「……だろうな」
「だろうな、じゃない」
「否定できる材料がない」
「そこは少しくらい気遣いなさいよ」
「気遣った結果がこれだ」
「分かりづらいのよ」
私は、低く息を吐いた。
声量は抑えている。
机を挟んだ距離で、橘君にだけ届く程度。
いくら二人きりとはいえ、ここは教室なのだ。いつ誰が入ってくるか分からない。
決して、昨夜の仮想空間で発生した謎の信者行列と、月から来た不法滞在中の少女と、正体不明の無声モノ創りライバーをめぐる責任追及をしているなどと知られてはならない。
そんな私の配慮を知ってか知らずか、橘君は一拍だけ置き、声を落とした。
「かぐやは、その後どうだ」
「どうって?」
「今朝、酒寄が家を出る時、大人しくしていたのか。言いつけは守っていたか。勝手に外へ出そうな気配は」
言い方は、いつもの橘君だった。
必要な項目を、必要な順番で並べる。
感情をできるだけ削って、相手が受け取りやすい形に整えてから差し出す。
いつもの学校の橘雅治。
穏やかで、礼儀正しくて、余計なことは言わない。
誰かに踏み込みすぎることもなく、自分の内側を見せすぎることもない。
そういう「僕」の顔。
けれど、私は一瞬だけ返事に詰まった。
今朝、大人しくしていたのか。
言いつけは守っていたのか。
勝手に外へ出そうな気配は。
ただの確認なら、それでいい。
実際、そうなのだろう。
橘君はたぶん、本当に必要な確認として聞いている。
かぐやがまた何かしでかせば、被害は私の部屋と財布と精神に直撃する。だから、確認する。状況を把握する。次に備える。
理屈としては、それだけで通る。
通るのに。
それだけではない気がした。
声の温度は変わらない。
表情も崩れていない。
でも、彼の視線は私の顔色をほんの少しだけ見ていた。
かぐやのことを聞いているはずなのに、私がちゃんと眠れたのか、朝から無理をしていないか、昨日から続く騒動で限界を超えていないか、ついでみたいに確認している。
ついで。
本当に、ついでみたいに。
でも、そのついでが妙に丁寧だった。
「……橘君」
「なんだ」
「それ、心配してたってことでしょ」
言った瞬間、橘君の目がほんの少しだけ止まった。
ほんの少し。
たぶん、他の人なら気づかない。
真実なら面白がって気づくかもしれない。
芦花なら何も言わずに気づくかもしれない。
でも、今ここにいるのは私だけだった。
だから、見えてしまった。
いつもの「僕」の表面が、紙の端みたいにほんの少しだけ浮いたのを。
「確認しておくべきだと思っただけだ」
「言い方」
「事実だ」
「そういうのを心配って言うんじゃないの」
「必要な確認だ」
「また言い換えた」
「言葉は正確な方がいい」
「こういう時だけ正確に逃げるの、本当に分かりづらい」
「よく言われる」
「でしょうね」
橘君は、否定しなかった。
でも、認めもしなかった。
その中間に、静かに立っている。
心配していた、とは言わない。
たぶん、言えないのだ。
言ったら、それはただの状況確認ではなくなる。
かぐやが心配だった。
私が心配だった。
だから昨日、わざわざツクヨミまで来た。
変装して、アバター名までぼかして、目立たないようにして、ただ様子を見に来た。
そんなふうに繋がってしまう。
そしてそれを認めたら、橘君の中で何かが少しだけ崩れるのかもしれない。
いつもの「僕」では処理できない何かが、言葉の形を持ってしまうのかもしれない。
そこまで考えて、私は慌てて自分の考えを止めた。
違う。
今はそういう話じゃない。
これは説教だ。
かぐやに
そういう話をするために、私はここへ来た。
橘君が分かりづらく心配していたとか。
それを私が見抜きかけたとか。
そういうことは、今は関係ない。
関係ないはずだ。
私たちは、ただのクラスメイトで。
月から来たかぐやという秘密を共有してしまった、巻き込まれた者同士で。
同じ舟に乗ってしまった、共犯みたいな仲間で。
それ以上でも、それ以下でもない。
まだ、そういうことになっている。
だから私は、その小さな違和感を胸の奥へ押し込めて、いつもの調子で返した。
「妙な動きしかしてないわよ」
「……そうか」
「そこ、納得しないで」
「無事なら、それでいい」
「よくない。無事だけで済ませられる段階は昨日で終わった」
「それも、そうだな」
橘君は、否定しなかった。
否定できるわけがなかった。
けれど、さっきの一瞬だけ浮いた「僕」の端は、もう元に戻っていた。
いつもの橘君。
いつもの学校の顔。
私はそれを見ながら、なぜか少しだけ、もったいないような気がした。
何が、とは言えない。
言えるほど、まだ何も分かっていない。
ただ、そんな気がしただけだった。
私は額を押さえ、深く、深く息を吐く。
そして、抑えた声音のまま、昨日から積み上がった災難の続きを、ついに口にした。
「あの後、本当に大変だったんだからね」
思わず出そうなため息を呑み込む。
「かぐやをあの変な行列から引きはがしたでしょ」
「ああ」
「ちゃんとログアウトしたのを見届けたでしょ」
「そうだろうな」
「私も断腸の思いでログアウトしたでしょ」
「……その表現が大げさでないことは理解している」
「分かってるならよろしい」
分かっているなら、なおさら昨日の私へ何かしらの補償があってもいいと思う。
具体的には、ヤチヨとの握手。
いや、今それを思い出すとまた魂が抜けるから駄目だ。
今は橘君への説教中。
そう。
説教中なのだ。
「で、現実に戻ったわけ」
「そこまでは、正常な流れだな」
「数分よ」
「何がだ」
「かぐやが先にログアウトしてから、私が戻るまで」
「……数分、か」
「数分」
私は橘君を睨む。
橘君は表情を変えない。
けれど、たぶん察した。
この先にろくでもない話が来ることを。
「その数分で、あの子、チャンネル作ってたの」
「……」
「しかも専用の新規チャンネル」
「早いな」
「早いな、じゃない」
「手際だけ見れば優秀なんだが」
「評価しないで。そこを褒めたらいけない」
私はスマホを取り出し、画面を数回操作して、昨夜の地獄の残骸を橘君へ見せた。
チャンネル名。
かぐやいろPチャンネル。
説明欄。
月から来たかぐやと、いろPがハッピーエンドを目指すチャンネルだよ!
勝手に巻き込まれている。
完全に巻き込まれている。
しかも、いろP。
誰。
私だ。
許可していない。
「……いろP」
「そこを読むな」
「かなり自然に入っているな」
「入ってない。入れられたの。勝手に」
「チャンネルの説明文としては、方向性が分かりやすい」
「冷静に添削しないで!」
声が跳ねかけたので、慌てて口を押さえる。
教室にはまだ誰もいない。
けれど、廊下には朝の足音が少しずつ増え始めている。
いつ誰が入ってくるか分からない以上、声量だけは守らなければならなかった。
「彩葉条約、どこ行ったのよ」
「なんだ、その条約は」
雅治が、そこで初めて少しだけ怪訝そうな顔をした。
そういえば、話していなかった。
昨日の夜、あの子が私の部屋に居座ることになったこと。
というか、居座る以外の選択肢がなかったこと。
月へ帰る方法は分からない。
橘君の家も無理。
外へ出せば、いつ昨夜のようなことを起こすか分かったものではない。
警察だの施設だのに見つかったら、説明不能の金髪うさ耳月姫である。
結果。
私のワンルームで、しばらく匿うことになった。
なってしまった。
「……うちのルール」
「うち」
「言い方に反応しないで」
「いや」
橘君は、ほんのわずかに目を細めた。
「続けてくれ」
「かぐやを私の部屋で匿うことになったから、好き勝手暴れないように決めたの。許可なく外に出ない。人の物を勝手に使わない。迷惑をかけない。目立たない。そういう最低限の約束」
「なるほど」
「なるほど、じゃないのよ。制定から数時間でチャンネル開設、初配信、放送事故、キーボード強奪、不協和音よ。条約違反のフルコース。国際問題なら会議室がとっくに燃えてるよ」
「かなり大規模な違反だな」
まったくそうである。
「まるで、おやつは三時、ゲームは一日一時間と決める母親だな」
はぁ?
「誰が母親よ」
即座に返した。
返したのに、橘君は薄く苦笑していた。
その表情が、いつもの学校用の「僕」と少しだけ違う。
からかっているというより、どこか微笑ましいものを見ているような目だった。
まるで、昨夜の私とかぐやのやり取りを、頭の中で勝手に再生しているみたいに。
そういえば...
かぐやが床に座って、段ボールのカンペを首から下げて、両手を上げて「ごめんなさい~~~~~」と泣いていた光景。
その隣で正座させられていた橘君。
仁王立ちの私。
……いや、思い返すと本当に何なの、あれ。
「その目やめて」
「どの目だ」
「完全に「保護者だな」って思ってる目」
「思っていない」
「嘘」
「少ししか思っていない」
「思ってるじゃん!」
声が跳ねかけて、慌てて抑える。
ここは教室。
朝の教室。
今はまだ二人しかいないとはいえ、いつ誰が入ってきてもおかしくない。
月から来た少女をワンルームに匿って、家のルールを制定し、昨夜初日から破られた話など、本来なら絶対にしてはいけない。
私は一度咳払いした。
「とにかく、彩葉条約は必要なの。あの子、放っておいたら本当に何をするか分からないから」
「それは否定できない」
「はぁ、本当に否定できないのがつらい...」
「さすがに昨日のあれではな」
橘君は静かに頷いた。
それから、少しだけ柔らかい声で言う。
「だが、酒寄がそこまで決めたなら、かぐやも少しは落ち着くだろう」
「落ち着くかな」
「少なくとも、帰る場所ができた」
「……」
その言い方に、私は少しだけ黙った。
帰る場所。
それは、たぶん私が思っていたより重い言葉だった。
かぐやにとって、私の部屋はただの隠れ家じゃない。
もしかしたら、今この地球で唯一の、いてもいい場所、帰っていい場所なのかもしれない。
そう思うと、少しだけ胸の奥が変な感じになった。
でも、だからといって放送事故が許されるわけではない。
私はすぐに気を取り直す。
「だからこそ、守ってもらわないと困るの。条約は条約。家には家のルールがある」
「やはり母親だな」
「橘君?」
「すまない」
謝った。
でも、口元が少し笑っていた。
絶対に悪いと思っていない。
この人、こういうところが本当に腹立つ。
「初日にして破られたか」
「初日どころか、制定から数時間よ」
「条約としては、かなり短命だな」
「感想が歴史の授業みたい」
「事実を述べただけだ」
「だから腹立つのよ」
橘君はスマホの画面を一瞥したあと、ほんの少しだけ眉を動かした。
「それで、配信を始めたのか」
「始めた」
「タイトルは」
「聞きたい?」
「確認しておきたいからな」
私は一度目を閉じた。
そして、死刑宣告みたいな気持ちで口にする。
「『初配信 月から地球にこんばんは! かぐやだよ!』」
「実に彼女らしいな」
「らしい、じゃないのよ」
「正直そうな子だなとは一目で感じたのだが」
「正直すぎるのが問題なの!」
月から地球にこんばんは。
本人からすれば、そのままなのだろう。
でも地球人類のインターネットにおいて、それは自己紹介というより、だいぶ危ない人の第一声である。
「しかも、勝手に配信始めたと思ったら、最後にカメラ切る前にリアルの顔を晒した」
「……」
今度は、橘君が黙った。
それまで比較的淡々としていた空気が、一段だけ変わる。
目の奥が、少し鋭くなった。
「どの程度映った」
「一瞬」
「顔は」
「映った」
「部屋は」
「映った」
「アーカイブは」
「すぐ非公開にした。公開範囲も切った。できるだけ消した。……でも、初配信自体は数人に見られていたから」
「コメントは」
「初配信だから、まだほとんど人はいなかったし、ちらっと見た感じでは2つ?」
「数人なら、まだ抑えられる可能性が高い」
「抑えられる?」
「少なくとも拡散規模は小さい。初動で非公開にできたなら、致命傷ではない」
「……その言い方、慣れてない?」
「ただの一般論だ」
「一般論にしては、目が仕事してるんだけど」
「それこそ気のせいだな」
「気のせいじゃない」
私はじっと橘君を見る。
橘君は、いつもの「僕」の顔をしている。
穏やかで、落ち着いていて、感情の余分な部分をきれいに削った顔。
でも、今の反応は少し違った。
心配というより、対処。
焦りというより、リスク評価。
まるで、配信上の事故や炎上の火種を見慣れている人の反応だった。
……いや。
この人がシらぬイの視聴者なら、そういう知識があってもおかしくはないのかもしれない。
おかしくはない。
おかしくはない、けど。
私は、その疑問をいったん棚に置いた。
もう棚が満杯である。
今突いたら、棚ごと崩れて私が下敷きになる。
「それだけじゃないからね」
「まだあるのか」
「あるわよ。むしろここからが精神的にきつかったから」
「聞こう」
「ライブ用のジングルを作るって言い出したのよ」
「……ジングル?」
「配信の最初とか最後に流す短い音楽のこと。本人いわく、かぐやのチャンネルには、きらきらでハッピーな音が必要なんだって」
「発想自体は悪くない」
「発想だけならね」
私はこめかみを押さえた。
思い出す。
昨夜。
かぐやが、妙に自信満々な顔で、私のキーボードを引っ張り出してきた瞬間を。
あれは本当に、嫌な予感しかしなかった。
「勝手に私のキーボード持ち出してさ」
「弾けるのか」
「弾けてない」
「そうか」
「しかも、本人はめちゃくちゃ楽しそうなの。『ここで月っぽくして、ここで地球へドーン!』とか言いながら、鍵盤をこう、全力で」
「全力で」
「叩く」
「……音楽ではなく、音撃で仕掛ける月の兎姫」
「そう! それ!」
私は思わず机に手を置いた。
でも叩かない。
教室だから。
私は大人。
いや高校生だけど。
「人の気力を削るためだけに生み出されたみたいな、不協和音だったのよ。耳じゃなくて、脳に直接くるタイプ。音が濁ってるとか、リズムがずれてるとか、そういう次元じゃないの」
「なるほど」
「何がなるほど?」
「かぐやは、音を構造ではなく勢いで捉えている可能性が高い」
「分析しないで」
「いや、対策には必要だ」
「対策?」
「キーボードを隠す」
「それはもうしたけど」
「なら次は、簡易的な作曲アプリを与えて、選択肢を制限した方がいい。自由度が高すぎる道具を持たせると、被害範囲が広がる」
「被害範囲って言った」
「実際、被害だろう」
「そこは否定しないけどさ」
こういうところで話が早いのが、本当に困る。
この人は腹立たしい。
でも役に立つ。
それが腹立たしい。
「つまり」
橘君は低い声で確認する。
「昨夜、酒寄がログアウトしてから数分の間に、かぐやは専用チャンネルを作成。無許可で酒寄を『いろP』として巻き込み、初配信を開始。最後にカメラを切り忘れてリアル映像を晒しかけ、さらにキーボードを持ち出してジングル制作に失敗した」
「そう」
「かなり濃いな」
「濃い、だけで済ませられないけどね」
「惨事ではある」
「そう、それ」
惨事。
まさにそれである。
昨夜の私は、変な騒動に巻き込まれてはヤチヨとの握手を失い、かぐやを連れ戻し、現実に戻ったらチャンネルが生えていて、さらに放送事故と不協和音に襲われた。
人生において、そんなコンボを受ける日があるとは思わなかった。
できれば今後も二度とないでほしい。
「橘君」
「なんだ」
「かぐやに関しては、これまで通り協力してくれるのよね」
言ってから、少しだけ胸が詰まった。
頼っている。
当たり前のように。
それが怖くもある。
でも、もう一人で抱え込める段階ではない。
あの月姫は、可愛い。
目が離せない。
放り出せない。
けれど、危険物でもある。
ハッピーエンドへ全力疾走する、金髪うさ耳の危険物。
私一人では、止めきれない。
私は声を落としたまま、言葉を続ける。
「もう、同じ舟でしょ」
言ってから、自分で少しだけ変な感じがした。
同じ舟。
そんな言い方をするほど、私はもうこの人を巻き込んでいるのだろうか。
いや、巻き込んでいる。
七色電柱から始まって、赤ん坊だったかぐやの世話をして、家出騒動に巻き込まれて、昨日はツクヨミで異例の大騒動まで見た。
今さら、橘君だけ岸に戻っていいとは思えない。
けれど、それだけではない気もした。
私一人では無理だと思った時、真っ先にこの人の名前が浮かんでしまう。
それが少し悔しい。
少し安心する。
そして、その安心がまた悔しい。
「……」
「七色電柱から始まって、赤ちゃんの世話して、家出されて、ツクヨミで理不尽にも巻き込まれて。ここまで来て、私は知らない、は無理でしょ」
「そうだな」
橘君は短く答えた。
逃げなかった。
目を逸らさなかった。
ただ、いつもの「僕」の顔のまま、静かに私を見る。
「今さら降りる方が不自然だ」
「……本当に?」
「かぐやを放置すれば、酒寄の被害が増える」
「そこまで分かってるなら、もっと早く危険性に気づいてほしかったなー」
「それも、そうだな」
「やけに素直だね、今日の橘君」
「否定したところで変わりはないからな」
私は小さく息を吐いた。
でも、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
協力してくれる。
それだけで、今日一日は何とかなる気がした。
「ただし」
橘君が言った。
「学校、いや外出全般では話題を選ぶべきだろう」
「うん、そうね」
「配信関係も、直接的な単語は避けるべきだ」
「うんうん」
「かぐやが個人情報を出しそうになったら、即止める。まぁ、これに関して常識だというのも、教えねば」
「そこは本当にお願い」
「チャンネル設定は確認した方がいい。公開範囲、コメント制限、外部リンク、アーカイブ保存、クリップ許可、連絡先表示。最低限、そのあたりだな」
「……なんでそんなにすらすら出てくるの」
「一般論だ」
「一般論にしては具体的すぎるし、経験ありすぎるけど」
「必要な範囲を並べただけなのだが」
「ふうん」
やっぱり怪しい。
でも今は使える知識の方が大事だ。
私は、疑いをまた棚に積む。
棚が悲鳴を上げている気がする。
「チャンネル名は変えられる?」
「確認しないと分からないが、早い段階なら変更はできる可能性が高い」
「『かぐやいろPチャンネル』を消したい」
「いろPが嫌か」
「嫌というか、許可してない」
「だが、役割としては合っているのでは?」
「合ってない」
「かぐやの監督、企画管理、事故処理、危機対応。ほぼプロデュー 」
「やめて」
「おまけに保護者枠も追加、と」
「もっとやめて」
橘君の口元がほんの少し動いた。
笑った。
絶対に笑った。
「今、笑ったでしょ」
「笑っていない」
「嘘」
「表情筋の誤差だ」
「便利な言い訳で逃げようとしないで」
「そうかい」
「そうよ」
私はじとっと睨む。
けれど、その時だった。
机の上で、橘君のスマホが震えた。
画面が、ふっと明るくなる。
通知。
ツクヨミ運営からだった。
「……?」
説教の途中、いやそもそも他人の画面で通知を見るのは本意ではない。
けれど、そこに浮かんだ文字を見た瞬間、私の動きが止まった。
『月見ヤチヨ ミニライブ握手券:未使用分の振替対応について』
「……」
息が止まった。
昨日からずっと胸の奥に引っかかっていたものが、その一文で一気に熱を持つ。
握手券。
未使用。
振替対応。
つまり。
つまり、あれはなかったことになっていない。
私が断腸の思いで手放したあの時間は、ただ消えてしまったわけではない。
ヤチヨが。
あのヤチヨが。
月見ヤチヨが。
もう一度、私のために時間を取ってくれるかもしれない。
そこで橘君が通知を開き、無言のまま画面をこちらへ向けた。
見るだけ。
たぶん、そのつもりだったのだろう。
けれど、私はもう冷静ではなかった。
気づけば、机越しに身を乗り出して、震える指で画面へ触れていた。
そこには、昨夜のイベント混雑および一部導線不備によって握手券を使用できなかったユーザーに対し、二種類の対応を用意する、と書かれていた。
一つ。
チケット相当額および使用ふじゅ~の全額振替。
二つ。
専用ルームにて、時間制限付きの個別握手対応。
「……」
全額振替。
そんな文字も、確かにそこにはあった。
あったはずだ。
でも、見えなかった。
いや、見えてはいた。
ただ、情報として脳に届かなかった。
振替?
返金?
ふじゅ~?
知らない。
今そんなものは問題ではない。
問題は、二つ目。
専用ルーム。
時間制限付き。
個別。
握手。
月見ヤチヨと。
専用ルームで。
時間制限付きとはいえ、二人きりで。
握手。
「……個別」
口から、声が漏れた。
自分の声なのに、自分のものではないみたいだった。
「個別握手対応……」
まずい。
冷静さが欠けていく。
いや、欠けていくどころではない。
昨日から積み重なったフラストレーション。
例の変人大行進。
かぐやの暴走。
放送事故。
いろP無許可就任。
地獄の不協和音。
そして、使えなかった握手券。
全部が燃料になった。
胸の奥で火がつく。
燃える。
燃え上がる。
大炎上。
限界オタク彩葉、再臨である。
「酒寄」
橘君の声が聞こえた。
聞こえたけど、遠い。
「何」
「それは僕の端末だ」
「知ってる」
「いや、知っているならいいが」
「今、人生の分岐点だから」
「そうか」
「そうよ」
即答だった。
私は画面から目を離さない。
全額振替など眼中にない。
返金という選択肢は、私の中で選択肢として成立していない。
推しとの個別握手である。
あのヤチヨと。
ヤチヨと。
二人きりで。
時間制限付きとはいえ、専用ルームで。
握手。
私は震える指で、迷いなく二つ目を押した。
『専用ルームでの個別握手対応を予約しますか?』
する。
するに決まっている。
しない未来がどこにある。
ない。
世界中を探してもない。
私は画面を凝視したまま、親指を動かした。
『予約完了』
「……」
完了。
完了した。
今日の夜。
ヤチヨに会える。
昨日、遠くの鳥居の上に立つ姿を見ながら、泣く泣くログアウトしたあの時間が、戻ってくる。
いや、戻ってくるどころではない。
専用ルーム。
個別対応。
二人きり。
「……今日の夜」
私は小さく呟いた。
「今日の夜、また会える……」
「酒寄」
「何?」
「それは僕のアカウントなのだが」
「……」
「……」
「あ」
朝の校舎の音が、急に遠くなった。
私は、自分の手元を見る。
橘君のスマホ。
予約完了の文字。
月見ヤチヨ、ミニライブ握手券、未使用分振替対応。
専用ルームでの個別握手対応。
予約者。
橘雅治。
まずい。
これはまずい。
人のアカウントで、勝手に、推しとの個別握手を予約した。
普通にアウトである。
いや、完全にアウトである。
私は、そっとスマホを机の上へ戻した。
まるで爆発物でも返却するみたいに。
「……ごめん」
「珍しく早い謝罪だな」
「今のは本当にごめん」
「だろうな」
「でも」
「でも?」
「キャンセルしないで」
橘君が黙った。
その沈黙は、責めるための沈黙というより、どう反応すべきかを考えている沈黙だった。
けれど、今の私にとっては、まるで今度はこちらが刑の執行を待つ側になったような沈黙である。
「……酒寄」
「はい」
「謝罪と要求が並んでいる」
「分かってる」
「分かっているなら、普通は要求を引っ込めるところだと思うが」
「分かってる。分かってるけど、キャンセルしないで」
「理由を聞いてもいいか」
「ヤチヨとの個別握手をキャンセルするなんて、そんな罰当たりなことを目の前で見たら私が死ぬ」
「……」
橘君が、ものすごく微妙な顔をした。
いや、表情はほとんど動いていない。
でも、微妙な顔をした気がした。
「人の予約を勝手に入れておいて、その理由か」
「本当にごめん」
「謝罪は受け取る」
「ありがとう」
「だが、予約の扱いは僕が決める」
「それはそう」
「そこは理解しているのか」
「してる。してるけど、できればキャンセルしないでほしい」
「……」
「推しの手は、差し出された時に握るべきだから」
「僕はまだ推しだと言っていない」
「ヤチヨを前にして、その言い訳は通じない」
「言い訳なのか」
「言い訳よ」
言ってから、私ははたと固まった。
いや。
待って。
待ってほしい。
そこもおかしい。
そもそも、なんでこの人は握手券を持っているのか。
私はゆっくりと橘君を見た。
「……橘君」
「なんだ」
「アンタも握手券持ってたんかい」
「声量」
「持ってたんかい」
「抑えてくれ」
私は慌てて口元を押さえた。
教室にはまだ私たちしかいない。
けれど、廊下にはもう少しずつ足音が増え始めている。
いつ誰が入ってきてもおかしくない。
それでも、驚きは消えなかった。
橘君も。
橘雅治も。
昨日のあのイベントで、握手券を持っていた。
つまり、あれか。
彼も不本意に巻き込まれて、私と同じく握手券を空に振られた者同士だったということか。
いや、待って。
そこもやっぱりおかしい。
なんで持ってるの。
ヤチヨの握手券を。
この人が。
この、普段は「ライブはそこまで」みたいな顔をしていそうな橘君が。
「……もしかして、橘君もヤチヨ好きなの?」
「嫌いではない」
「その返答、情報量が少ない」
「嫌いではない、以上の情報を渡す必要があるか」
「あるでしょ。今この状況なら」
「たまたまだ」
「ヤチヨの個別握手券をたまたま持つことある?」
「抽選には当たった」
「応募してるじゃん!」
また声が跳ねかけた。
慌てて抑える。
橘君は、机の上のスマホへ視線を落とした。
予約完了。
個別握手対応。
予約者、橘雅治。
「……変更できるか確認する」
「待って」
「何だ」
「キャンセルしないで」
「二回目だな」
「何度でも言うわよ。推しの個別握手を無駄にするな」
「僕にとっての推しというほどではない」
「もうそれはいいから。握手券を持っていて、応募して、当たって、振替対象になってる時点で十分こっち側だから」
「こっち側」
「こっち側」
「……そうか」
「そうよ」
私は真剣に言った。
今だけは、説教よりも、かぐやの放送事故よりも、いろPよりも、この一点だけは譲れない。
握手券は使うべきだ。
推しの手は、差し出された時に握るべきだ。
それが礼儀である。
橘君は、しばらく画面を見ていた。
そして、小さく息を吐く。
「分かった。キャンセルはしない」
「よし」
「ただし、次から人の端末で勝手に予約はしないように」
「はい」
「返事が早い」
「今のは本当に悪かったから」
「だろうな」
橘君はスマホを回収し、画面を閉じた。
その動きがやけに落ち着いていて、逆に腹立たしい。
こっちは今、ヤチヨとの個別握手という単語だけで心拍数が異常事態なのに。
そこで、橘君が静かに言った。
「君の分にも、同じ通知が来ている可能性が高い」
「……」
「あ」
私は自分のスマホを見た。
机の上。
画面はまだ暗い。
慌てて解除する。
通知欄。
あった。
『月見ヤチヨ ミニライブ握手券:未使用分の振替対応について』
「……」
私は、そっと自分のスマホを胸元に引き寄せた。
今度は間違えない。
絶対に間違えない。
これは私のアカウント。
酒寄彩葉のアカウント。
@iroiro0511。
ヤチヨ限界オタク、魂の本命。
私は震える指で通知を開く。
全額振替。
専用ルームでの時間制限付き個別握手対応。
迷いはない。
さっきと同じように、二つ目を押す。
『予約完了』
「……」
今度こそ。
今度こそ、私の予約だ。
胸の奥で、何かが爆発した。
音は出ない。
ここは教室だから。
でも、魂は完全に打ち上がっていた。
「……ヤチヨ……」
小さく呟く。
狐耳があれば、たぶんピコピコと震えていた。
今は現実なので見えない。
でも、たぶん震えていた。
その横で、橘君は自分のスマホを見つめたまま、静かに息を吐いた。
そこで、私ははたと気づいた。
今日の夜。
ヤチヨの個別握手対応。
私。
橘君。
同じ未使用者。
同じ振替対象者。
つまり。
「……もしかして、時間帯近かったら顔合わせる?」
「可能性はある」
「……」
「……」
最悪ではない。
最悪ではないのだが。
推しとの個別握手を控えた限界オタクの姿を、橘君に見られる可能性がある。
それはそれで、かなりまずい。
なぜまずいのかは、今は考えない。
考えたら、握手券とは別のところまで話が進んでしまいそうだった。
私はゆっくりと橘君を見る。
「橘君」
「なんだ」
「今日、私を見かけても、何も見なかったことにして」
「それは難しいかもしれない」
「して」
「……善処する」
「絶対に」
「分かった」
橘君は短く答えた。
けれど、その口元がほんの少しだけ緩みかけたのを、私は見逃さなかった。
「今、笑ったでしょ」
「笑っていない」
「嘘」
「状況がややこしくなったと思っただけだ」
「それを笑ってるって言うのよ」
「そうか」
「そうよ」
説教は、まだ終わっていない。
かぐやのチャンネル開設も止まらない。
そこまで話したところで、私たちはどちらからともなく黙った。
話すべきことは、まだ残っている。
むしろ、残りすぎている。
けれど、今この教室で続きを始めたら、きっと朝のホームルームまでに終わらない。
それに、これ以上掘ると、かぐやだけじゃなく橘君の方からも何か変なものが出てきそうだった。
だから、いったん止める。
止めるしかない。
廊下の向こうから、少しずつ足音が増えてきた。
誰かの笑い声。
靴底が床を擦る音。
鞄についたキーホルダーが揺れる小さな金属音。
朝の校舎が、少しずつ本来の騒がしさを取り戻していく。
もうすぐ、クラスメイトたちが来る。
この話を続けるには、時間切れだった。
「……続きは、また後で」
私がそう言うと、橘君は短く頷いた。
「ああ。必要な時に」
「必要な時っていうか、今日中に」
「分かった」
「あと、勝手にキャンセルしないでよ」
「まだ言うのか」
「言うわよ。推しの個別握手は人類の財産だから」
「規模が大きいな」
「ヤチヨだから」
「そうか」
「そうよ」
そこで、教室の前の扉ががらりと開いた。
一人目のクラスメイトが入ってくる。
まだ眠そうな顔で、私たちの方を見て、少しだけ目を瞬かせた。
机の前に立つ私。
座ったまま見上げる橘君。
距離だけ見れば、なかなかに妙な構図だったと思う。
けれど、その子は何も言わなかった。
目が合う。
私は何事もなかったように軽く会釈する。
橘君も、いつもの顔で小さく挨拶する。
すると、その子も「おはよー」とだけ返して、自分の席へ向かった。
セーフ。
たぶんセーフ。
いや、今の視線には少し何かが含まれていた気もするけど、考えない。
考えたら負けである。
その後も、一人、また一人とクラスメイトが登校してきた。
二人組で入ってくる子もいれば、朝から妙に元気な男子三人組もいる。
教室に椅子を引く音が増え、鞄が机に置かれ、誰かが「昨日の課題やった?」と小声で聞き、別の誰かが「見せるだけだからな」と全然信用ならない前置きをしている。
日常が戻ってくる。
昨日の夜、百珍夜行だの、月から来た少女だの、シらぬイだの、ヤチヨの握手券だのと騒いでいた私たちの上に、あまりにも平然とした朝が重なっていく。
私は、自然な流れを装って橘君の机から離れた。
何でもない。
別に朝から橘君を詰めていたわけではない。
ただ少し、登校してすぐに用事があって話していただけ。
そういう顔で自分の席へ戻る。
鞄を置いて、椅子に座る。
スマホは机の中へしまった。
しまったけれど、通知の文字がまだ目の裏に残っている。
月見ヤチヨ。
個別握手対応。
予約完了。
「……」
だめだ。
思い出すだけで顔が緩みそうになる。
私は慌ててノートを取り出した。
今日の予習。
そう、予習である。
こういう時こそ、目の前にある現実的な作業へ意識を向けるのが一番いい。
教科書を開く。
ノートを開く。
シャーペンを持つ。
文字を追う。
追う。
追う、のだが。
ヤチヨ。
個別。
握手。
二人きり。
専用ルーム。
だめだ。
全然頭に入らない。
私は一度目を閉じ、深呼吸した。
落ち着け、酒寄彩葉。
今は学校。
ここは教室。
私は優等生。
ヤチヨとの個別握手を前に魂が浮遊しかけている限界オタクではない。
……いや、それは事実だけど、今は表に出してはいけない。
そんなことを考えながら、無理やり教科書へ視線を戻す。
それから十数分。
教室はすっかり朝のざわめきに満ちていた。
でも、真実と芦花はまだ来ない。
芦花からの連絡通りなら、真実が二度寝したせいで、かなりギリギリになるはずだ。
真実。
お願いだから、今日は何も余計なことを言わずに入ってきてほしい。
朝から私の精神はもう十分働いた。
これ以上、変な方向へ刺激されたら困る。
そう思った、まさにその時だった。
廊下の向こうから、ばたばたばたっ、と明らかに急いでいる足音が聞こえた。
嫌な予感がする。
いや、これは予感ではない。
確信である。
次の瞬間、教室の扉が勢いよく開いた。
「ギリギリでセーフ!」
真実が、勝利宣言みたいな声を上げながら飛び込んできた。
髪は微妙に跳ねている。
鞄の肩紐は片方ずり落ちかけている。
顔だけはやたら晴れやかだった。
寝坊した人間の顔ではない。
何か大きな戦いを生き抜いた兵の顔である。
そのすぐ後ろから、芦花が少し息を弾ませながら入ってきた。
真実ほど慌ててはいない。
けれど、普段のふわりとした余裕に比べれば、明らかに急いできたのが分かる。
「よかったね、真実。遅刻で反省文を書かずに済んだよ」
芦花は、包み込むような優しい声でそう言った。
言葉だけ聞けば、友人を安心させる天使のようである。
でも内容は地味に刺している。
芦花さん、今日も包容力の中に針がある。
「芦花ぁ、そこはもっと感動的に褒めてよ。真実ちゃん、二度寝の魔王に勝ったんだよ?」
「勝ったというより、ぎりぎり逃げ切った感じかな?」
「判定が冷静!」
「でも偉いよ。ちゃんと起きて来られたから」
「やった、褒められた!」
真実が胸を張る。
その瞬間、教室の前方から低い声が飛んできた。
「アウトではないが、セーフでもない。イエローカードだな、二人とも」
担任の立花先生だった。
いつの間にか教室へ入ってきていたらしい。
出席簿を片手に、扉の方を見ている。
表情は厳しすぎず、甘すぎず。
いかにも朝のホームルーム前の担任、という顔だった。
「えええ、先生の判定厳しいからチェンジで~」
真実が即座に抗議する。
「審判交代を要求する前に、余裕をもって登校するように」
「正論パンチ!」
「正論を避けたければ、まず寝坊を避けような?」
「ぐうの音も出ない!」
「出ているねぇ」
「ぐう」
「出しても出席以外なにも出ないけどな?」
教室に笑いが起きた。
芦花はその横で、真実の肩にそっと手を置きながら微笑んでいる。
「ほら、席に行こう。まだ完全にアウトじゃないうちに」
「芦花、優しいのに言葉が地味に強い」
「急いで来たから、少しだけ強くなったのかも」
「そんな進化ある?」
「あるかも」
二人がそれぞれの席へ向かう。
その様子を見ながら、私はノートの上に置いていた手を少しだけ緩めた。
さっきまで胸の中に詰まっていたものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
昨日からずっと、現実離れしたことばかりが続いている。
月から来たかぐや。
ツクヨミ。
ヤチヨカップ。
百珍夜行。
かぐやの配信事故。
橘君の握手券。
今日の夜の個別握手。
考えることは、まだ山ほどある。
不安も、怒りも、疲れも、全部なくなったわけではない。
でも。
真実がぎりぎりで飛び込んできて。
芦花が柔らかく刺して。
立花先生が淡々とイエローカードを出して。
教室がいつものように笑う。
その当たり前の騒がしさに、少しだけ救われた。
私は、誰にも気づかれないくらい小さく息を吐く。
今日も、たぶん大変だ。
きっと何か起こる。
でも、今だけは。
この朝の教室の音が、少しだけありがたかった。
そこは、ツクヨミに初めて訪れた者が、最初に足を踏み入れる場所によく似ていた。
月光を溶かしたような水面。
水の上に浮かぶ灯籠。
遠くまで続く鳥居。
夜と夕焼けの境目を思わせる、赤く、深く、どこか夢の底みたいな空。
星は静かに瞬き、流れ星は音もなく降り、足元の水面には淡い波紋だけが幾重にも広がっていく。
ただし、ここはチュートリアル空間そのものではない。
握手券振替対応のために用意された、専用の小さな世界。
たった数分。
たった一度。
二人きりで。
そのためだけに開かれる、短い夜の部屋だった。
月見ヤチヨは、その中央に立っていた。
いつものように笑って。
いつものように明るく。
いつものように、月見ヤチヨとして。
けれど、胸の奥は、まるで水面の下に隠した灯籠みたいに、じっと熱を持って揺れていた。
「……ヤチヨ」
肩の上で、FUSHIが小さく声をかける。
「また考えてる?」
「考えてないよぉ」
「考えてるじゃん」
「考えてないもん」
「“これは正式な振替対応。これは正式な振替対応。これは正式な振替対応”って、さっきからずっと同じところを回ってるのに?」
「FUSHI、今日ちょっと鋭すぎない?」
「ヤチヨが分かりやすすぎるだけさ」
「むぅ」
ヤチヨは頬を膨らませた。
子どもっぽく。
わざとらしく。
そうすれば、いつものヤチヨに見える。
みんなが知っている月見ヤチヨに見える。
明るくて、少しふざけていて、何でもないことをお祭りに変えて、夜のツクヨミを笑顔で照らす管理人。
そういう顔をしていれば、揺れているものは隠せる。
たぶん。
きっと。
隠せているはずだ。
昨日のミニライブ。
ヤチヨカップの告知。
彩葉とかぐやの初ログイン。
かぐやの宣言。
そして、予定されなかった混沌の極み。
想定していた流れと、違うところはいくつもあった。
いや、違うどころではない。
百珍夜行など、八千年前の記憶にはなかった。
あんな珍妙な祭列も。
ガスマスクの群れも。
《シらぬイ》の名を掲げて、鍋を鳴らし、団扇を振り、ツクヨミのメインストリートを横断する狂信的な行進も。
その先頭で、金髪のうさ耳姫が満面の笑みで音頭を取る光景も。
ヤチヨの中にあるどの記録にも、そもそも存在しなかった。
シらぬイ。
輪の外にいる異物。
最初は、ただ目に留まっただけだった。
膨大な記録の流れの中で、ほんの一瞬、なぜか視線が止まっただけ。
声を出さないライバーなら他にもいる。
顔を隠す者なら、珍しくもない。
ふざけた創作をする者も、真面目な手元を見せる者も、ツクヨミには数え切れないほどいる。
なのに、なぜか引っかかった。
流してしまっていい気がしなかった。
その程度の、曖昧で、根拠もなくて、笑ってしまうくらい小さな違和感。
それだけだったはずなのに。
今、その名は彩葉とかぐやの物語のそばにいる。
ただの記録の隅に置いた小さな点が、いつの間にか、輪の表面を震わせる波になっている。
怖い、という言葉を、そのまま表に出すことはできない。
出してはいけない。
みんなが自由に笑える場所を守るために、ここにいる。
ツクヨミは、みんなが表現者でいられる場所だ。
誰かが歌っていい。
誰かが踊っていい。
誰かが作っていい。
誰かが見て、笑って、泣いて、応援して、好きだと叫んでいい。
現実でどれほど不自由でも。
現実でどれほど上手く息ができなくても。
ここだけは、誰もが自分の心を少しだけ外へ出せる場所であってほしい。
そのために、笑い続けている。
そのために、何度も同じ夜を見守ってきた。
けれど、知らないものは怖い。
知らない明日は、いつだって輪郭がなくて、指の隙間からすり抜けていきそうで、手を伸ばすほど遠ざかる。
知っているからこそ、変わらない流れに縋ってしまう。
たとえその先にあるものが、痛みを含んでいると分かっていても。
たとえ、以前とまったく同じ形には戻れないと分かっていても。
それでも、また会える。
また彩葉に会える。
その希望がある限り、
だから、サイクルが守られていることは、
祈りだった。
夢だった。
正気を保つための、細い糸だった。
「……かぐや、ちゃんとチャンネル作ったね」
ヤチヨはぽつりと言った。
FUSHIが、肩の上で少しだけ動く。
「作ったね」
「初配信もしたね」
「したね」
「放送事故もしたね」
「したね」
「いとかわゆし」
「そこはもう少し危機感を持って」
「だって、かわいかったもん」
「ヤチヨ」
「分かってる。分かってるよ」
ヤチヨは、小さく笑った。
記憶の中では、チャンネル開設までにもう少し時間があったはずだ。
昨日、握手券が使われなかったこともそう。
彩葉がかぐやを連れて早めにログアウトしたこともそう。
細かく見れば、いくつもの差異がある。
けれど、些細な誤差と言ってしまえる範囲だった。
チャンネルが生まれた時期は少し早い。
それでも、配信の内容は記憶に近い。
コメント欄の流れも、大きくは変わっていない。
最後に起きた放送事故 アバターではなく現実の顔と部屋を晒しかけたことまで、記憶の中にある流れと重なっていた。
なら、まだ大丈夫。
揺れてはいる。
乱れてはいる。
けれど、折れてはいない。
かぐやは走り出した。
彩葉は慌てた。
チャンネルは生まれた。
最初の配信は、予定通りとは言い難かった。
いや、相当ひどかった。
けれど、そこには確かに流れがあった。
かぐやがライバーになる。
彩葉がそれを止めようとして、結局は支える。
かぐやいろPチャンネルが始まる。
形は違っても、中心にあるものはまだ崩れていない。
彩葉が、かぐやを見ている。
かぐやが、彩葉へ手を伸ばしている。
その二人が、まだ互いのそばにいる。
それだけで、ヤチヨの胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
まだ、大丈夫。
まだ、物語は続いている。
「FUSHI」
「どうしたのヤチヨ」
「かぐやに、昨日もちょっと厳しかったね」
「普通だよ」
「普通かなぁ」
「うん、普通...だよ」
FUSHIはそっぽを向いた。
白くてふわふわした身体が、少しだけ膨らんで見える。
ヤチヨはそれを見て、困ったように笑った。
FUSHIは、かぐやにだけ少し強い。
言葉が尖る。
態度が硬い。
すぐに呆れる。
すぐに注意する。
けれど、それは嫌いだからではない。
むしろ、逆だった。
あの子がこれから何を見るのか。
どこへ向かうのか。
何を背負い、何を失い、それでも何を掴もうとするのか。
FUSHIは知っている。
知ってしまっている。
だから、優しくしすぎると壊れてしまう。
柔らかく声をかけた瞬間、堪えていたものがこぼれてしまう。
かぐやの前で泣きそうになる。
そんなことはできない。
だから、強く出る。
ツンツンして、呆れて、叱って、距離を取ったふりをする。
かつてのかぐやと犬DOGE。
今のかぐやとFUSHI。
形は違う。
名前も違う。
けれど、その奥に流れているものは、たぶん同じだ。
ヤチヨが彩葉へ向ける、言えない想い。
FUSHIがかぐやへ向ける、隠さなければ崩れてしまう想い。
未来にいる者たちは、いつだって過去へ手を伸ばしたがる。
けれど、その手が届いてしまえば、過去は過去ではいられなくなる。
だから、届かせない。
届かせないまま、見守る。
笑う。
叱る。
名前を呼ぶ。
できるのは、それくらいだ。
入室予定のリストが、ヤチヨの視界の端で静かに流れている。
先ほどの対応を終えたユーザーの名前が、退室済みへと切り替わった。
その横に、小さく「対応完了」の文字が灯る。
ヤチヨは、その文字を一瞬だけ見つめた。
短い時間だった。
ほんの数分。
会話と呼ぶにはあまりにも短く、人生の長さから見れば瞬きにも満たない時間。
けれど、その人は笑っていた。
最初は緊張で声が震えていた。
手を差し出す時、指先までぎこちなかった。
それでも、最後には何度も「ありがとう」と言ってくれた。
ありがとう。
その言葉を受け取るたびに、ヤチヨはいつも少しだけ不思議な気持ちになる。
感謝したいのはこちらの方なのに、と。
見つけてくれてありがとう。
聴いてくれてありがとう。
待っていてくれてありがとう。
こんな短い時間を、大事なもののように抱えて来てくれてありがとう。
だから、ヤチヨは一人ずつ会う。
分身を作ることは、できる。
本当の意味での身体を持たないヤチヨにとって、並列思考を展開し、複数のアバターを同時に動かすことは不可能ではない。
それぞれのユーザーと同時に握手をし、同時に言葉を交わし、同時に笑顔を向けることだって、処理能力の上ではできる。
効率だけを考えれば、その方がいい。
待ち時間は短くなる。
対応数は増える。
運営としても、処理としても、最適解に近い。
けれど、ヤチヨはそれをしなかった。
したくなかった。
それは月見ヤチヨとして、許せないことだった。
握手券を持っていた人たち。
昨日の混乱で、楽しみにしていた短い時間を失ってしまった人たち。
運営は返金対応も用意した。
チケット相当額だけではない。
応募に使ったグッズ購入分も、必要であれば上乗せして返すと通知した。
それでも、彼らは選んでくれた。
ヤチヨに会いたいと。
握手したいと。
少しでいいから話したいと。
そう選んでくれた。
なら、それを数字として処理したくない。
いくらデータ上の記録だと言われても。
いくら仮想空間の数値だと言われても。
そこに込められた想いは消えない。
ヤチヨは、それを知っている。
想いは、消えない。
見えなくても。
触れなくても。
八千年を越えても。
諦めなければ、残る。
だから、ヤチヨは一人ずつ会う。
短くても。
数分でも。
たかが握手会だと言われても。
たかがデータのアバター同士が、向き合って手を重ねるだけだと言われても。
その数分に込められたものを、ヤチヨは軽く扱いたくなかった。
ツクヨミは、みんなが自由でいられる場所。
みんなが創作者で、表現者で、同時に誰かの創ったものを受け取る人でもある場所。
笑っていい。
泣いていい。
好きだと叫んでいい。
応援していい。
それが、誰かの明日を支えることがある。
ヤチヨは、それを誰よりも知っている。
だから、向き合う。
一人ずつ。
目を合わせて。
名前を呼んで。
ありがとうと伝える。
その積み重ねが、月見ヤチヨという存在を作っている。
その積み重ねが、ツクヨミの夜を灯している。
退室処理が完全に終わる。
握手スペースの光が、少しだけ落とされた。
次の入室までのインターバル。
三分。
たった三分。
けれど、月見ヤチヨが月見ヤチヨとして次の誰かに向き合うためには、必要な三分だった。
笑顔を雑にしないための時間。
言葉を流れ作業にしないための時間。
前の人の想いを、次の人の時間に混ぜてしまわないための時間。
ヤチヨは、ゆっくり息を吐いた。
呼吸など、本当は必要ない。
それでも、そうする。
胸の奥に溜まったものを、少しだけ整えるために。
「次まで、残り二分四十秒」
FUSHIが言った。
いつもの事務的な声だった。
けれど、ヤチヨには分かる。
FUSHIは、少しだけ気を遣っている。
その証拠に、いつもより言い方が柔らかい。
「うん。ありがとう、FUSHI」
「別に。時間を言っただけ」
「それでも、ありがとう」
「……そういうとこ」
FUSHIは小さく呟いて、ぷいっと顔を逸らした。
ヤチヨは笑った。
短く。
ほんの少しだけ。
それから視界の端へ流れているリストを、改めて確認する。
振替対応の順番。
入室予定時刻。
ユーザー名。
本人確認済みの印。
注意事項。
前回の応募記録。
過去の参加履歴。
その一覧の中で、次の名前が静かに浮かび上がった。
ヤチヨの指先が、止まる。
残り二分二十秒。
その名前を見た瞬間、胸の奥に、八千年分の風が吹いたような気がした。
来る。
次に来る。
酒寄彩葉。
いろP。
かぐやの隣にいる少女。
かつての輪廻にはいなかった、あるいは少なくとも、今と同じ形ではいなかった存在。
待ち望んだはずの人。
会いたかったはずの人。
けれど、会ってしまえば何かが変わると分かっている人。
ヤチヨは、表示された名前から目を離せなかった。
FUSHIも、その名前を見ていた。
少しだけ沈黙が落ちる。
さっきまでの握手会の空気とは違う。
祝福の前の静けさ。
再会の前のためらい。
言葉にしてしまえば崩れてしまいそうな、細い感情の線。
「……次」
FUSHIが言った。
声が、ほんの少しだけ低くなる。
「彩葉だよ」
「うん」
ヤチヨは頷いた。
自分でも驚くほど、声が静かだった。
「知ってる」
「大丈夫?」
FUSHIがこちらを見た。
白くてふわふわした身体。
いつも強がって、斜に構えて、かぐやにはすぐ尖った言葉を向けるくせに、こういう時だけまっすぐ見てくる。
ヤチヨは、少し困ったように笑った。
「大丈夫」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「嘘。ヤチヨ、そういう時ほど笑う」
ヤチヨは返事をしなかった。
FUSHIは、さらに言った。
「無理しないで」
その言葉に、ヤチヨは一瞬だけ目を伏せた。
無理しないで。
簡単な言葉だ。
けれど、ヤチヨにとってはとても難しい言葉だった。
八千年。
ずっと無理をしてきた。
笑ってきた。
歌ってきた。
送り出してきた。
見守ってきた。
傍観者であり続けた。
先駆者であり続けた。
月見ヤチヨであり続けた。
だから、今さら無理をしない方法なんて、よく分からない。
けれど。
次に来る相手には、いつもの笑顔だけでは向き合えない気がした。
いつもの月見ヤチヨでいなければならない。
それは確かだ。
握手券を持って、今日という時間を選んでくれた一人のファンとして、彩葉に向き合わなければならない。
特別扱いをしてはいけない。
けれど、特別でないはずがない。
矛盾している。
でも、その矛盾ごと抱えて立つしかなかった。
「FUSHI」
「なに」
「私、ちゃんと笑えてる?」
FUSHIは少し黙った。
それから、そっぽを向いたまま答えた。
「うん」
「そっか」
「でも」
FUSHIは、ちらりとヤチヨを見た。
「泣きそうにも見えるよ」
ヤチヨは、目を細めた。
泣きそう。
そうかもしれない。
泣きたいわけではない。
悲しいわけでもない。
ただ、胸の奥が痛い。
ずっと昔に置いてきた何かが、今になってもう一度名前を呼ばれたような痛み。
「ありがとう」
「褒めてない」
「うん。それでも、ありがとう」
残り一分。
入室準備の通知が灯る。
握手スペースの照明が、少しずつ元の明るさを取り戻していく。
ヤチヨは背筋を伸ばした。
衣装の乱れを確認する。
髪を整える。
表情を整える。
月見ヤチヨとして。
ツクヨミのトップライバーとして。
そして、一人の誰かと向き合うために。
残り三十秒。
FUSHIが一歩、横へ下がった。
「ヤチヨ」
「うん」
「今度は、逃げないでね」
ヤチヨは、少しだけ目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「うん」
逃げない。
たとえ相手が、自分の記憶の中にいる誰かと同じ顔をしていても。
たとえ、同じではないと分かってしまっても。
たとえ、会いたかった人とは違う誰かとして、目の前に立つのだとしても。
今ここにいるその人と、ちゃんと出会う。
もう一度、初めて会う。
それが、今のヤチヨにできる精一杯だった。
残り十秒。
入室ゲートが、淡く光る。
ヤチヨは、ゆっくりと息を吸った。
必要のない呼吸。
けれど、今だけは必要だった。
残り五秒。
FUSHIが小さく言う。
「次、入るよ」
残り三秒。
二秒。
一秒。
ゲートが開いた。
光の向こうから、一人の少女が歩いてくる。
酒寄彩葉。
ヤチヨは、笑った。
月見ヤチヨとして。
そして、八千年の向こうから今日へ辿り着いた一人として。
「やおヨロ~今日は来てくれてありがとう!」
声は震えなかった。
けれど、その言葉の奥には、数えきれないほどの想いが滲んでいた。
また会えたね、彩葉。
前より総UAが1万以上、お気に入りも100以上をも増えてびっくり。
書いてたら本篇よりも先に大事なクライマックスシーンとエンディングの初案が書きあがってしまったせいで一度モチベが下がったのは言い訳とは言えませんな。
存分に石を投げてくださって結構。
でも、本当すごいですねこの作品。いや、原作。
初配信と劇場オープンからそれなりに時間がたっているのにむしろ熱が燃えてる燃えてる。
公式からの供給もそうだけども、最近はAIの発達のおかげですごいクオリティーのファンメイド動画やアニメがよくYouTubeのアルゴリズムで拾われるからインスピレーションがドバドバしたおかげでカレンダーめくる前に復帰できました。
次回には、原作でも僕が好きだったシーン描写であるライバーとしてかぐやの日常を書けると思うとすでに指がウキウキ。
万人に浅く広く受けられる作品よりも、誰かの心に刺さって残り続ける作品が書きたい。
他の作品を見てると、よく推薦枠に僕の作品が上がってくるのを見ては、この作品がそこまでなのかなーと思う時もあります。
でも、その度にこれまでいただいた感想とお気に入り、評価をしては今も絶えずに読んでくれている誰かがいるんだ、と思い直してはその方々への敬意と感謝を伝えたいからやめれない。やめたくない。
今週は脂肪落としでちょっと時間食らうかも知れませんが、週末には投稿できるかな。
では、また会いましょう。
お休みなさ~い!
いつもご感想とお気に入り、評価に感謝です!
番外編を時間列に合わせて本篇の合間に入れてみる?
-
話の展開やネタの繋がりがあってよさそう。
-
「番外」やから別途でいいんじゃね?