今日も正常営業。ただし“そういうとこ”を添えてー   作:火力万能主義

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お久しぶりです。作者のこと火力万能主義です、生きております。生きておりました(;'∀')
一昨日に3つ目のスケジュールが終わって、掃除と後片付けやらしてたら今日の朝でした。
んで昼から急いてメモ帳開いては書いては消してを繰り返しんながらの切って貼っての作業で初期原稿案が夕食前にできて、ようやくの投稿です、はい。

最近文章に関してはGPTよりもクラウドの方がいいってまわりからよく言われるけども、INFPとして僕自身が納得がいかなきゃいくらよくても手が出せないもんですので、いつものように僕の頭ん中から原稿ひり出してはその編集だけなら今のでもよくね?ってことに落ち着きますね、コレ。
やけんコロナ時にもなんとか自分の中で納得の線がいかなかったから鬼滅の刃も見てないし、他の漫画作品やゲーム、映画、アニメもまず僕が見たいと思わない限りにはいくらまわりから流行りだの人気だのしても僕は僕自身が好きになったものしかみない主義で10年、20年前の作品も普通に見ております。

さてどうでもいいTMIはここまでにして、ようやくここまで来れました第二十五話です。
本当はもっと早くたどり着くはずが、途中本来のプロットよりもよさげなものが浮かんだおかげでそれらの筋合わせと設定の見直して時間食らいましたが、納得のいく出来だと思います。
また明後日から最後のスケジュールが始まるんで、少し多めに詰めときました。
ではどうなる、第二十五話。 どうぞ!





第二十五話 ただの家、騒がしい場所

第二十五話 ただの家、騒がしい場所

 

 

 

 

 

『なぜ、これしきのことが出来んと言うのだ』

 

 門を潜れば、砂利が鳴る。

 

 ざり、と。

 

 足の裏に伝わる硬い音が、記憶の底を掻いた。

 

『立て』

 

 膝に食い込む砂利。

 

 手のひらに刺さる小石。

 

 顎の下へ添えられた木刀の先。

 

『橘の名を背負う者が、いつまで地べたに這いつくばっている』

 

 声は、どこまでも冷たく感じた。

 

 胸の奥から体温だけを抜き取られていくような、澄み切った冷たさ。

 

 だからこそ、逃げ場がなかった。

 

  ざり

 

 整えられた松の影が、足元を横切る。

 

 昔も、同じ影があった。

 

 その下に立つ大人たちの顔は、よく覚えていない。

 

 覚えているのは、その目だけだ。

 

 俺の価値を値踏みする目。

 俺の失敗を数える目。

 俺の折れる瞬間を待つ目。

 

『面汚しめ』

 

『運よく直系に生まれただけだろうが』

 

『血だけは立派だな』

 

 廊下に響く笑い声。

 

 袖口で隠した口元。

 

 誰かの小さな溜息。

 

『若、であろう?』

 

 その一文字が大嫌いだった。

 

 名前という祝福ではない。

 

 ただ擦り付けられた役目。

 

 首に巻かれた、冷たい鎖。

 

 若。 若。 若。

 

 誰も俺の名を呼ばなかった。

 

 雅治ではなく。

 

 ただ、若。

 

 直系。

 

 跡取り。

 

 器。

 

 家のために置かれた、人の形をした何か。

 

  ざり

 

 池の水面が揺れる。

 

 揺れた水の向こうに、別の記憶が沈んでいく。

 

 黒い膳。

 置かれた箸。

 伸ばした指。

 

 横から、ぱしん、と打たれ赤くはれた手の甲。

 

『違う』 ぱしん

 

『また違う』 ぱしん

 

『箸の持ち方一つにも品位は宿る』 ぱしん

 

 物を口にすることすら、試されていた日々。

 

 着ることも。

 歩くことも。

 眠ることも。

 笑うことも。

 黙ることも。

 

 すべてに正しい形があり、すべてに間違いがあった。

 

   『橘ならば』

 

     『橘の者として』

 

       『橘が橘であるために』

 

 何度も聞いた。

 

 何度も飲み込んだ。

 

 飲み込んで、腹の底で腐らせた。

 

 ごく普通、という言葉がある。

 

 普通の家。

 普通の親。

 普通の食卓。

 普通の喧嘩。

 普通の笑い声。

 

 そんなものが何を指すのか、俺には今でもよく分からない。

 

 ただ、少なくとも。

 箸を持つ指の角度一つで、家名の重さを背負わされるものではなかったのだろう。

 

 ただ飯を食い。ただ笑い。ただ眠る。

 

 そういう当たり前を、当たり前のまま受け取れる場所も、この世にはあったのだろう。

 

 彩葉の部屋も、そうだろうか。

 

 かぐやを拾ったあの日から、彼女の生活は普通どころか、むしろ滅茶苦茶に壊されていった。

 

 それでも。

 

 あの (へや)には、食卓で誰かの指を打つ木の音よりも、皿の上を見て目を輝かせる 子供(かぐや)の声の方が似合っていた。

 

  (かぐや)が笑い、 (いろは)が呆れ、また叱る。

 

 されども、皿は並ぶ。

 

 誰かが勝手に食う。

 

 誰かが止める。

 

 誰かがまた笑う。

 

 俺の知らなかった家の形、いつのまにか共に過ごしていた普通の光景。

 

  ざり

 

 松の陰から、木刀が来る。

 

 避ける。足がもつれる。倒れる。

 

『立て』

 

 立つ。

 また来る。また避ける。また倒れる。

 

『まだ終わっておらん』

 

 終わりという名の救済など、どこにもなく。

 

 日が昇れば始まり。

 

 影が短くなり。

 

 汗が落ち。

 

 喉が焼け。

 

 影が伸びる。

 

 それでも、誰も終わりとは言わない。

 

 日がある限り続く組手と稽古いう名の 訓練(ぼうりょく)

 

 それを、この家では伝統と呼んだ。

 

 いつかに備えるべきものと呼んだ。

 

 必要なことだと、誰かが言った。

 

 必要。

 

 その言葉が、昔から分からなかった。

 

 それがなくては困るのか。

 それがなくては病むのか。

 それがなくては死ぬのか。

 

 分からなかった。

 

 心の底から、分からなかった。

 

 違うことが、そんなに悪いのか。

 

 異なることは、そんなに許されないのか。

 

 何を。どんな根拠をもって。

 

 誰が。違うというだけで、人を裁く権利を持つのか。

 

  ざり

 

『貞治様の子とは思えぬな』

 

『母君に似て、甘いのではないか』

 

 足が止まりかける。息が止まる。

 

 次の瞬間、身体だけが動いていた。

 

 木刀。

 踏み込み。

 袖を掴む手。

 背後から伸びる腕。

 

 池の水音、短い悲鳴。

 

『粗暴だ』

 

『浅ましい』

 

『やはり器ではないのか』

 

 違う。

 アンタらが勝手に期待して、勝手に失望しただけだ。

 

 そう言いたかった。

 

 叫びたかった。

 

 けれど、言えば長くなる。

 

 否定すれば、また見下される。

 

 怒れば、また母のことを()われる。

 

 黙れば、これ以上は面倒事が増えないのを知った。

 

 だから黙った。

 

 黙って。

 立って。

 倒して。

 

 また、責められる。

 

 それを繰り返す日々だった。

 

 人は、弱い。

 

 そんなことはとっくに知っていた。

 

 いくら身体を鍛えても。技術を磨いても。知識を蓄えても。

 心だけは、どうしようもなく弱いままだった。

 

 ぽっかりと空いた穴は、いつまでも空いたまま。

 

 埋まらない。

 癒えない。

 塞がらない。

 

 そう思っていた。

 

 一人で生まれて、死ぬのも一人。

 

 そんな言葉を、ずっとどこかで信じていた。

 

 なんという軟弱。

 なんという惰弱。

 なんという脆弱。

 

 なんと、か弱い生き物だろうか。

 

 人は。

 

 誰かを傷つける。

 誰かに傷つけられる。

 

 傷ついたまま、別の誰かを傷つける。

 

 一歩間違えれば落ちる。

 一言間違えれば壊れる。

 一度手を離せば、二度と戻らないものもある。

 

 弱くて。脆くて。矛盾だらけ。

 

 それでも、まだ生きようとする。

 

 誰かの隣に立とうとする。

 誰かを愛そうとする。

 

 人の心を傷つけ、苦しませ、壊すのが人だというのなら。

 

 人の心を癒して、慰めて、救うのもまた人なのだろう。

 

 俺は、それを知った。

 

 彩葉に。

 

 かぐやに。

 

 あの騒がしい日々に。

 

  ざり

 

 今は違う。

 

 砂利はもう膝に食い込まない。

 

 床に叩きつけられることも、倒されることもない。

 

 見下ろす視線も、値踏みする者も、今やどうでもいい。

 

 砂利はただ踏めば鳴るだけ。

 

 それだけだ。

 

 それだけの音だったはずなのに、昔はその音までもが命令のように聞こえていた。

 

   『背を丸めるな』

 

   『足音を立てるな』

 

   『目を逸らすな』

 

   『橘の者ならば』

 

 うるさい。

 

 今なら、そう思える。

 

 昔は、それすら思えなかったのに。

 

 同じであることを強いられたから、違うことを許されなかったから。

 

 俺は自由に固執した。

 

 型に沿うたびに、削れていく自分の輪郭。

 

 何にも縛られないものが欲しかった。

 

 誰にも決められない場所が欲しかった。

 

 シらぬイ。

 不知火。

 

 誰もが目にしながらも、誰にも定められない焔。

 近づこうとすると遠ざかり、遠ざかると近づくように見える存在感。

 

 故のシらぬイ。

 

 あのふざけた名は、俺にとっての逃げ場所で、生きるための吐息だった。

 

 初めてツクヨミへ足を運んだ日。

 

 世界は、何もかもが違って見えた。

 

 始めて綺麗だと思った空の色。

 現実とは違う肩身の軽さに目を開いた。

 すべてが始めて見る景色、姿勢、言葉遣い。

 

 遠くから聞こえる歓声。

 

 現実ではない。

 

 だからこそ、現実より息ができた。

 

 橘の名など、誰も知らない。

 

 若と呼ぶ者もいない。

 

 箸の角度を裁く者もいない。

 

 出来損ないと測る者もいない。

 

 ただ、創り。

 ただ、騒ぎながら。

 ただ、馬鹿(じゆう)を貫き通す。

 

 

 釣り竿でツクヨミ中を駆け回ってみた。

 

 アバター外見(スキン)をいじって踊ってもみた。

 

 誰かを困惑させ、誰もが思う方向とは別のことをする。

 

 怒られもした。

 

 時々、褒められた。

 

 その度にコメント欄が荒れた。

 

 笑われ、呆れられる。

 それでも、そこには呼吸(いき)をする場所(よゆう)があった。

 

  ざり

 

 彩葉の顔が浮かぶ。

 

 呆れた顔。

 怒った顔。

 困った顔。

 

 どうしてそうなるの、と言いたげな目と表情。

 

 けれど、最後には見捨てずにこちらを見てくる顔。

 

 かぐやの声が重なる。

 

 うるさいくらいに明るく、遠慮を知らず。

 

 勝手に懐き。

 勝手に笑い。

 勝手にこちらの中へ入り込んできた声。

 

 嫌だとは、思えなかった。

 

 むしろ、いつの間にか。

 

 そのうるささに救われていた。

 

 彩葉がツッコミ、かぐやが笑う日常。

 味のしなかったパンケーキ。

 共に初の育児で苦労し、それでも乗り切れた三日。

 

 訳の分からないシらぬイの配信。

 視聴者の悲鳴が程よく響き聞こえる。

 お決まり(テンプレ)を、常識(ルール)を覆した時の解放感。

 

 どれもこれも、昔の俺にはなかったもの。

 

 過去は消えない。

 

 辛かった事実は変わらない。

 

 傷跡も、消えない。

 けれど、色は変わる。

 

 上から塗り潰すのではなく。

 なかったことにするのでもなく。

 

 ただ、重なっていく。

 

 黒い砂利の記憶の上に、重なるツクヨミの夜景。

 

 冷たい声の上に、重なるかぐやの笑い声。

 

 値踏みする目の上に、彩葉の呆れた視線が重なる。

 

 若という鎖の上に、シらぬイというふざけた名が重なる。

 

 それは癒えたのではない。

 

 塞がったのでもない。

 

 ただ、かさぶたができただけ。

 

 触れれば痛む。

 剥がせば血が出る。

 

 それでも、むき出しのままではなくなった。

 

 それだけで、歩ける。そんな俺になれた。

 

  ざり

 

 ヤチヨと出会った夜を思い出す。

 

 月見ヤチヨ。

 

 ふざけたように明るく、軽く、どこか胡散臭く。

 

 それでいて、時折ひどく遠い目をしそうな電子の歌姫。

 

 何かを知っているようで。

 何かを隠しているようで。

 

 それでも、どこか寂しそう。

 

 おそらく、誰もが気づいてない。

 

 誰かの傷を見れる余裕など普通の人間にはないから。

 

 自分の傷を隠すだけで精一杯だった俺も含めて。

 

 けれど今は。

 

 少しだけ、分かる。

 

 人の痛みは、同じ形では重ならない。

 

 彩葉の過去と、俺の過去は違う。

 かぐやの焦りと、俺の孤独も違う。

 誰もが後悔していた日々と、俺の逃げ続けた時間も、まるで違う。

 

 けれど。

 

 今、隣に立つことはできる。

 

 同じ方向を見ることはできる。

 

 それだけで、人は少し変わる。

 

 その少しでも人は救われる。

 

 たぶん。

 

 俺は、それを知った。

 

 出会いから始まり。

 出会いから変化があり。

 変化の先に成長があり。

 

 成長の先に、ようやく少しだけ成熟と呼べるものが実る。

 

 そんな綺麗な言葉で片付けるには、俺の中身はまだ随分と散らかっている。

 

 それでも。

 

 散らかったままでも、人は進むのだろう。

 

 進むしかないのだろう。

 

  ざり

 

 白と黒い影が、記憶の中を歩いてくる。

 

 誰も近づかなかった内庭、の裏庭。

 

 誰も手を伸ばさなかった砂利の上。

 

 そこへ、とことこと。

 

  (たま)だけが来た。

 

「……(たま)

 

 猫に返事はない。

 

 ただ、倒れた額へ自分の額を押しつけただけ。

 

 こつん、と。

 

 それだけで、庭の声が少し遠くなる。

 

 面汚しも。

 

 若も。

 

 橘の名も。

 

 ほんの少しだけ、遠くなる。

 

 あの時も。

 

 あの猫だけは、俺を(わか)と呼ばなかった。

 

 (たちばな)とも呼ばなかった。

 

 直系とも、跡取りとも、器とも呼ばなかった。

 

 ただ、そこにいる(まさはる)へ近づいてきた。

 

 それだけ。

 

 けれど、それだけで十分だった。

 

 その時。

 

「にゃああああああああああああああ」

 

 白と黒い影が、今の庭を飛んでくる。

 

 狙いは顔面。

 

 殺意はなく、だが遠慮もない。

 

「久しぶりだな、(たま)

 

 片手を上げる。

 

 飛び込んできた毛玉を、顔面到達寸前で受け止める。

 

 家の飼い猫。そして、家族。

 

 名を、(たま)

 

 この家で母を除いて唯一、最初から最後まで嫌いになれなかった存在。

 

「ふしゃあ」

 

「再会の挨拶にしては、荒いんとちゃうか」

 

 手の中で納まりながらも短い前脚を伸ばし、なおも顔面を狙ってくる。

 

 相変わらずで何よりだ。

 

 俺はそのまま珠を抱え直し、腹へ顔を埋めた。

 

「ぶ、ぶ、ぶ、ぶー。ぶ、ぶ、ぶ、ぶー。ぶぶ、ぶーッぶぶぶ、ぶぶぶ     

 

「にゃ~っ」

 

 草笛の要領で、腹の毛を震わせる。

 

  弱く(ピアノ)だんだん弱く(メゾピアノ)

 だんだん強く(メゾフォルテ)強く(フォルテ)

 

 久方ぶりの 合奏(アンサンブル)である。

 

 庭を歩きながら、三分。

 

 途中、珠が何度か前脚で俺の額を押した。

 

 だが、抵抗としては弱い。

 

 つまり了承である。

 

 たぶん。

 

 おそらく。maybe

 

 違うことが違うことを信じたい。

 

 合奏を終える頃には、珠はすっかりぐったり。

 

 前脚はだらん。

 

 尻尾もだらん。

 

 見事なまでの脱力である。

 

「元気そうで何より」

 

「 にゃー」

 

「そうか。お前も色々あったか」

 

「にゃあ」

 

「分かるよ。生きるとは戦いだな」

 

「にゃにゃ~」

 

「いや、お前はだいたい寝ていただろう」

 

「ふしゃ」

 

「図星で怒るのはどうかと思うが」

 

 珠の背を撫でながら、また歩き出す。

 

  ざり

 

 黒瓦。

 深い軒。

 閉じた障子。

 

 久方振りの本邸。

 

 その奥に、父の影が重なって見える。

 

 橘という名の檻が。

 

 昔は、あそこまで歩くだけで息が詰まっていた。

 

 大きくて。

 

 重くて。

 

 抗えない怪物のように見えていた。

 

 けれど。

 

 今はそれを目にしながらも、足は止まらない。

 

 珠を抱えたまま。

 

 過去の声を聞きながら。

 

 それでも、今の足で。

 

 前へ。

 

「……こんなものだったか」

 

 零れた声は、自分でも意外なほどに静かだった。

 

 昔は、あんなに恐ろしく見えていたのに。

 

 帰ってきてみれば、ただの家だ。

 

 広くて。古くて。面倒くさい。

 

 ただの家だ。

 

 そう思えた。

 

 そう思えるところまでは、来た。

 そもそも、俺はここへ来るつもりではなかったけど。

 

 朝一番に病院へ連絡を入れてみたら、そのどこにも橘貞治の名はなかった。

 

 そのような患者は入院していない、と。

 

 少なくとも、そこにはいない。

 

 なら、どこにいる。

 

 答えは、考えるまでもなかった。

 

 荷物はホテルに置いたまま。

 

 病院へ向かうはずだった足を、そのまま橘邸へ向けた。

 

 そして今、俺はここにいる。

 

 病室にいるはずの父がいるかもしれない場所。

 

 昔、逃げ出した家の前に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白い足袋に黒い着物。

 

 伏せられた目と揃えられた手。

 

 昔から、橘邸の人間は姿勢だけは美しい。

 

 感情を隠すための型なのか。

 

 型の中に感情を殺しているのか。

 

 昔の俺には、それすら分からなかった。

 

「お帰りなさいませ」

 

 見覚えのある顔と声。

 

 名前も、恐らく覚えている。

 

 けれど今、その名を口にする気にはなれなかった。

 

 彼女は深く頭を下げる。

 

「若」

 

 その一文字で、足の裏に残っていた砂利の感触が少しだけ強くなる。

 

「その呼び方はやめろ」

 

 声は荒れるよりも、思っていたよりかは静かに出た。

 

 相手のまつ毛が、わずかに揺れる。

 

「では、雅治様」

 

「様もいらん」

 

「では、雅治さん」

 

「それでいい」

 

 少しだけ、沈黙が落ちる。

 

 遠くで鹿威しの音がした。

 

 かこん、と。

 

 間の抜けた音だった。

 

 この家は、いつもそうだ。

 

 張り詰めているくせに、妙なところだけ風流ぶる。

 

 人の心は削るのに、庭石の角だけは丸くする。

 

 馬鹿げている。

 

「ご案内いたします」

 

「いい。自分の足で向かう」

 

 靴を脱ぐ。

 教えられたとおりに揃えようとして、少しだけ手が止まった。

 

 昔は、ここでも見られていた。

 

 踵の向き。

 爪先の揃え方。

 脱いだ靴を直す指の角度。

 

   『雑だ』

 

   『所作が荒い』

 

   『橘の者ならば』

 

 うるさい。

 

 心の中で、そう言った。

 

 それだけで、過去の声は少し遠くなる。

 

 靴を揃える。

 

 完璧ではないが。

 

 だが、乱れてもいない。

 

 それで十分だった。

 

 珠が腕の中で身じろぎする。

 

「にゃ」

 

「降りるか?」

 

「にゃ」

 

 珠は当然のように俺の腕から抜け出し、廊下の奥へ歩いていった。

 

 自由でよろしい。

 

 俺も、その後ろに続くようにして本邸の奥へ入った。

 

 磨き上げられた板間に、足音が薄く響く。

 

 障子。

 欄間。

 床の間。

 掛け軸。

 花。

 

 何もかもが、昔と変わらない。

 

 変わらないように保たれている。

 

 それが、この家の力なのだろう。

 

 変わらないこと。

 崩れないこと。

 

 同じ形を、同じまま残し続けること。

 

 それを美徳と呼ぶ。

 それを誇りと呼ぶ。

 それを血筋と呼ぶ。

 

 けれど。

 

 そこに置かれる人間まで、同じ形で残せると思うな。

 

 昔の俺は、もうここにはいない。

 

 廊下の角を曲がる。

 

 向こうから、何人かの視線が寄ってきた。

 

 襖の隙間。

 庭へ続く縁側。

 柱の影。

 

 昔ほどに露骨ではないのが感じる。

 

 けれど隠しきれてもいない。

 

 見ている。

 

 今の俺を。

 

 どれほど変わったのか。

 どれほど落ちたのか。

 どれほど戻ってきたのか。

 

 記憶の中と同じ目。

 

 違うのは。

 

 俺がもう、その目を数えなくなったことだ。

 

「ふぅー」

 

 最後に息を整える。

 

 奥座敷。

 

 この家の中でも、特に静かで重い場所。

 

 昔は、ここへ近づくことさえ少なかった。

 

 子どもが不用意に立ち入る場所ではないと言われた。

 

 では、子どもを庭で倒れるまで立たせるのはよかったのか。

 

 今更ながら、基準が分からない。

 

 襖の前に立つ。

 

 手を伸ばすより先に、向こう側から声がした。

 

「入れ」

 

 父の声だった。

 

 低く、乾いて。

 それでも、昔より少しだけ薄い。

 

 胸の奥が、ほんの少しだけ重くなる。

 

 逃げたくはない。

 

 けれど、平気でもない。

 

 それが今の正直なところだった。

 

 案内の女が、膝をついて襖に手を掛ける。

 

 す、と。

 

 音もなく襖が開いた。

 

 畳の匂いと障子越しの白い光。

 

 古い木の匂い。

 煎茶の香り。

 

 そして、その奥に父がいた。

 

 (たちばな)貞治(さだはる)

 

 背筋は伸びている。

 姿勢は崩れていない。

 

 けれど、頬は昔より削げて見えた。

 

 いや、明らかに痩せている。

 

 そう思った。

 思っただけで、口には出さなかった。

 

 父は座したまま、こちらを見ている。

 

 あの目。

 昔、何度も見た目。

 何を考えているのか分からない目。

 

 その目が嫌いだった。

 

 何も映していないようで。

 

 すべてを見透かしているようで。

 

 だから昔の俺は、あの目の前で息がしづらかった。

 

「……来たか」

 

「ああ」

 

 父の眉が、ほんの少しだけ動いた。

 

 昔なら、返事一つにも咎めが入った。

 

   『ああ、ではない』

 

   『目上への返答を弁えろ』

 

   『言葉には家の品位が出る』

 

 今は、何も言われなかった。

 

 それが逆に、落ち着かない。

 

 部屋へ入る。

 襖が閉じる。

 外の気配が遠くなる。

 

 父と二人。

 正確には、家の気配が壁の向こうにいくらでもある。

 

 それでも、この部屋の中にいるのは二人だけだった。

 

 父は、俺を見た。

 俺も、父を見た。

 

 何を言えばいいのか。

 

 分からなかった。

 

 謝るべきなのか。

 責めるべきなのか。

 何もなかったことにして座っていればいいのか。

 

 どれも違う。

 

 どれも少しずつ正しい。

 

 だから余計に、言葉にならなかった。

 

「……顔を見に来た」

 

 絞り出せたのは、それだけだった。

 

 父は、すぐには返さなかった。

 

 湯呑みの縁に指をかけたまま、こちらを見ている。

 

「誰の顔をだ」

 

「……あんたの」

 

「そうか」

 

 それで、会話が切れた。

 

 障子の向こうで、庭木が揺れる。

 

 葉の擦れる音だけが、やけにはっきり聞こえた。

 

「見て、どうするのだ」

 

「分からん」

 

「分からんのに来たのか」

 

「ああ」

 

 父の指が、湯呑みから離れた。

 

 飲むでもなく。

 置くでもなく。

 

 ただ、離れた。

 

 そこで、会話が切れた。

 

 謝ってほしかったのか。

 

 違う。

 

 謝らせたかったのか。

 

 それも違う。

 

 ただ、昔のままではない父の姿を見て、どうしていいか分からなくなった。

 

 電車に乗る前から考えていた台詞など、すでに白紙になって久しい。

 

 父も、何も言わなかった。

 

 湯呑みを二つ並べる。

 

 急須を取る。

 

 蓋に指を添え、音を立てずに茶葉を揺らす。

 

 湯を注ぐ所作は、昔と変わらない。

 

 静かで。

 丁寧で。

 余計なものが一つもない。

 

 それが、少し腹立たしかった。

 

 (オレ)の中はこんなにも散らかっているのに、この人の手元だけは昔と同じように整っている。

 

 湯気が立つ。

 

 父は一つを俺の前に置いた。

 

 飲め、とは言わない。

 飲むな、とも言わない。

 

 ただ、置く。

 

 こちらも、礼は言わなかった。

 

 湯呑みに手を伸ばす。

 

 指先が、少しだけ乱暴に縁を掴んだ。

 

 熱い。

 

 思ったより熱かった。

 

 昔なら、そこで眉一つ動かすことさえ許されなかった。

 

 熱いなら熱いまま、顔に出さず飲め。

 

 音を立てるな。

 

 姿勢を崩すな。

 

 そう教えられた。

 

 だから、わざと音を立てて飲んだ。

 

 こくり、と。

 

 喉を通る茶が熱い。

 

 熱すぎる。

 

 少しだけ顔が歪んだ。

 

 父はその終始を見ながらも、何も言わなかった。

 

 それがまた、腹立たしい。

 

 叱るなら叱れ。

 咎めるなら咎めろ。

 

 昔のように、所作が荒いと言えばいい。

 

 そうすれば、こちらも怒れる。

 昔と同じように、分かりやすく反抗できる。

 

 けれど父は、何も言わない。

 

 ただ、茶を飲んでいる。

 

 静かに。

 

 細まった指で湯呑みを持ち、背筋を伸ばしたまま。

 

 痩せた。

 

 その事実だけが、嫌に目についた。

 

 頬が削げている。

 

 手首が細い。

 

 湯呑みを置くまでの間が、ほんの少し遅い。

 

 昔なら気づかなかった。

 

 気づこうともしなかった。

 

 父は父だった。

 

 橘貞治だった。

 

 いつも正しく、いつも硬く、いつも遠い場所からこちらを見下ろしている人だった。

 

 なのに今は。

 

 目の前にいるのは、年を取った一人の男だった。

 

 俺の父だった。

 

 それが、ひどく扱いづらい。

 

 憎むにも。

 責めるにも。

 許すにも。

 

 まだ形が足りなかった。

 

 父が湯呑みを置く。

 

 ことり、と。

 

 小さな音が落ちた。

 

 俺も、少し遅れて湯呑みを置いた。

 

 こちらの音は、少し大きかった。

 

 わざとではない。

 

 いや。

 

 少しは、わざとだったかもしれない。

 

 父の目が湯呑みへ落ちる。

 

 それから、俺へ戻る。

 

 その目に、咎める色はなかった。

 

 だから余計に、落ち着かなかった。

 

「……昔なら」

 

 気づけば、声が出ていた。

 

 父は黙っている。

 

「今ので叱っただろ」

 

 父は、しばらく答えなかった。

 

「そうだな」

 

 短い返事だった。

 

 乾いた声。

 

 けれど、否定ではなかった。

 

 それだけで、胸の奥に何かが引っかかる。

 

「なら、叱ればいい」

 

「叱られたいのか」

 

「違う」

 

 即答だった。

 

 自分でも少し驚くくらい、子供みたいな声で。

 

 父も、それ以上は言わなかった。

 

 また、沈黙。

 

 障子の向こうで、風が庭木を揺らす。

 

 湯気が細く揺れる。

 

 俺は湯呑みの中を見ていた。

 

 茶の水面に、自分の顔が薄く映っている。

 

 酷い顔だった。

 

 怒っているようで。

 困っているようで。

 泣きそうにも見えて。

 

 そのどれも違う気がした。

 

 父が、息を吐いた。

 

 ほんの小さく。

 

 けれど、この部屋ではやけにはっきり聞こえた。

 

「雅治」

 

 名前だった。

 

 雅治。俺の名前。父が名付けた名前。

 

 俺は顔を上げた。

 

 父は、湯呑みを見ていた。

 

 こちらを見ていない。

 

 見ないまま、言った。

 

「すまなかった」

 

 彩葉とてこんな気分だったのだろうか。

 

 聞き間違いかと思った。

 

 この人が。

 あの父が。

 橘貞治が。

 

 祖父の言葉にも、家の圧にも、有力者一族との再婚話にも頑として頷かなかった男が。

 

 俺の教育と指導という名の躾から、最後まで手を引かなかった男が。

 

 

こちらより先に

 

謝った

 

 

「……すまなかった、だと」

 

 声が掠れた。

 

 父は、まだこちらを見ない。

 

「それ以外に、言い方を知らん」

 

「知らないまま、ずっと来ただろ」

 

「そうだな」

 

 あまりにあっさり認められて、次の言葉が出なかった。

 

 

 淡々としていた。

 

 父の声は、ひどく乾いていた。

 

 だから余計に、胸の奥が荒れた。

 

庭の砂利

木刀

祖父の声

箸を持つ手を打たれた痛み

母君に似て甘いのではないか

粗暴だ

浅ましい

やはり器ではない

 

 いくつもの声が、一瞬で脳裏を走る。

 

 怒り。

 

 悔しさ。

 

 悲しさ。

 

 分からなさ。

 

 どうして今なんだという苛立ち。

 

 それでも、今言ってくれたのかという痛み。

 

 全部が混ざって、喉の奥まで上がってきた。

 

 吐き出せば、たぶん止まらない。

 

 だから噛み殺した。

 

 奥歯を噛んで。息を止めて。飲み込む。

 

 飲み込んだものが、胸の奥で熱を持つ。

 

 しばらく、何も言えなかった。

 

 言葉を探す。

 

 探して。

 

 見つからなくて。

 

 ようやく出てきたのは、別の言葉だった。

 

「癌、だと聞いた」

 

 父の指が、湯呑みの縁で止まる。

 

「……誰に聞いた」

 

「叔父さんに」

 

「相変わらず、足も耳も早いやつだ」

 

「そんなことより」

 

 声が、少し強くなった。

 

「入院しなくてどうする」

 

 父は何も言わない。

 

「初期じゃないんだろ。転移もあると聞いた。医者も悪い言うてるんや。なら、ここで茶なんか煎れてる場合やないやろ」

 

 言いながら、ようやく気づく。

 

 父はあまりにも自然に、そこに座っていた。

 

 いつものように背筋を伸ばし。

 いつものように声を乱さず。

 いつものように、橘貞治としてそこにいた。

 

 だから、忘れかけていた。

 

 痩せた頬。

 細くなった手首。

 湯呑みを持つ指の、わずかな遅さ。

 

 それらは全部、確かにそこにあったのに。

 

 俺は見えていなかった。

 

  癌だ。

 

 叔父の声が、脳裏に蘇る。

 

  転移もある。

 

  初期じゃない。

 

  医者は、かなり悪いと言っている。

 

 ならば、本来なら。

 

 この人は病室にいるべきだった。

 

 点滴に繋がれ。

 

 検査を受け。

 

 治療を受け。

 

 誰かの管理下に置かれているべきだった。

 

 なのに、目の前の父は二年前とほとんど変わらない顔で、座っている。

 

 頬が痩せた以外は。

 

 声が少し乾いた以外は。

 

 まるで、何もなかったかのように。

 

「本当は、初期だったのか」

 

「違う」

 

「他の病気と間違えたのか」

 

「それも違う」

 

「なら、どうしてここにいる」

 

 父は湯呑みを置いた。

 

 ことり、と。

 

 小さな音が、部屋に落ちる。

 

「医者の診断は正しかったとも」

 

「なら」

 

「癌だ。検査も重ねた。誤診ではない」

 

「なら、ほな、なんでここで」

 

「できん」

 

「できないじゃない。するんだよ」

 

 父の目が、静かにこちらを見る。

 

 その目が腹立たしかった。

 

 昔と同じで。

 

 けれど、昔より遠くて。

 

「私は橘家の当主だ」

 

「知っとる」

 

「GBグループのオーナーにして、最高役員。最大株主でもある」

 

「だから何だ」

 

「私が病室にいるという噂一つで、揺れるものがある」

 

「身体よりも大事やて?」

 

「論じるまでもない」

 

 一切の迷いもなく即答。

 

 その迷いのなさに、胸の奥が冷える。

 

「先祖代々、積み上げてきたものがある。受け継いできたものがある。私一人の弱さで、それを揺らすわけにはいかん」

 

「弱さ?」

 

 思わず、笑いそうになった。

 

 笑えなかった。

 

「癌が弱さか」

 

「弱みにはなる」

 

「同じだろ」

 

「違う」

 

「違わない」

 

「違う」

 

 短い言葉がぶつかる。

 

 昔と同じだった。

 

 俺が言う。父が止める。

 

 父が言う。俺が詰まる。

 

 けれど、昔と違う。

 

 今の俺は黙らない。

 

「我慢だけで治る身体なんて、橘にも、人間の仕様にも含まれてへんやろ」

 

 口にした瞬間、自分でも少しだけ息が止まった。

 

 昔、配信で使った言葉だった。

 

 ふざけた料理配信の中で。

 視聴者を笑わせるために。

 自分でも大して考えずに吐いた言葉。

 

 けれど今は、笑えなかった。

 

 父の目が、わずかに細くなる。

 

 怒ったのか。呆れたのか。

 

 分からない。

 

 だが、引く気はなかった。

 

「人は病む。倒れる。老いる。死ぬ。当たり前だろ。そんな当たり前を隠さなきゃ保てないものなら、それこそ何のための家だ」

 

「理想論だな」

 

「そうだ」

 

 今度は俺が即答した。

 

「理想論だ。青臭い。甘い。どうせそう言うんやろ」

 

「……」

 

「でも、だから何だ。甘くて何が悪い」

 

 母のことを言われた庭を思い出す。

 

  母君に似て、甘いのではないか

 

 その言葉だけで、身体が勝手に動いたあの日。

 

 今も、同じ熱が喉の奥にある。

 

「弱さを見せるな。付け入られるな。上に立つ者なら隙を見せるな。そうやって何でもかんでも隠して、飲み込んで、耐えて」

 

 言葉が止まらない。

 

 止めなければと思うのに、止まらない。

 

「それで何が残った」

 

 父は黙っている。

 

「家か」

 

 黙っている。

 

「金か」

 

 黙っている。

 

「俺か」

 

 そこで、父の目がほんの少し揺れた。

 

 初めてだった。

 

 少なくとも、俺の前では。

 

 橘貞治の顔が、ほんの少しだけ崩れた。

 

 すぐに戻ったけれど、確かに見えた。

 

 見えてしまった。

 

 俺は、息を吸う。

 

 荒れた声を、無理やり押さえた。

 

「……入院してくれ」

 

 父は答えない。

 

「今すぐ全部投げ出せとは言わへん。でも、医者の話を聞いて検査の続きを受けろ。治療に入る準備くらいはしろよ」

 

 父は、湯呑みを見ていた。

 

 湯気はもう、ほとんど残っていない。

 

「隠すんなら、治すために隠せ」

 

 声が震えた。

 

「死ぬために、我慢すんなや」

 

 父は黙っている。

 

 その沈黙が、昔のように重い。

 

 けれど、昔のように逃げたいわけではなかった。

 

「全部はまだ話せない。全部はまだ無理だ。あんたを許せるかも分からないし、許したいのかも分からない。それを確かめるためにきたのもある」

 

 それでも。

 

「母さんに続いて、アンタまで死なれたら……俺が困るんや」

 

 やっと出た言葉は、それだった。

 

 格好よくもない。

 綺麗でもない。

 

 責めているのか、縋っているのか、自分でも分からない。

 

 ただ、それだけは本当だった。

 

「今さらだろうが。遅すぎるだろうが。腹も立つし、納得もしてない。せやけど」

 

 俯いたまま奥歯を噛む。

 

「父さんまで、死なれたら困るんだよ」

 

 言ってから、気づいた。

 

 父さん。

 

 その呼び方が、自分の口から出たことに。

 

 今さら引っ込めることもできず。

 言い直すこともできず。

 

 ただ、喉の奥が熱かった。

 

 父は目を伏せた。

 

 しばらく、何も言わなかった。

 

 そして、静かに息を吐く。

 

「……お前は」

 

 そこで言葉が切れる。

 

「本当に、 春香(はるか)に似たな」

 

 今度は、腹が立たなかった。

 

 痛かった、少しだけ。

 

「ここでそれを言うのか」

 

「……そうだな」

 

 父は答えを逸らした。

 

 けれど、昔のように切り捨てる沈黙ではなかった。

 

 言葉を探している。

 

 それくらいは、分かった。

 

「入院は」

 

 父が言う。

 

「すぐにはできん」

 

 腹の奥に、また怒りが灯る。

 

 だが、その次の言葉で止まった。

 

「治療に入るための手配は進める」

 

 息が止まる。

 

「……本当だな」

 

「嘘をついてどうする」

 

「あんたは隠すのがうまいから」

 

「否定はせん」

 

「そこは否定しろよ」

 

「事実だろう」

 

 乾いた会話だった。

 

 酷く不器用で。

 肝心なところが足りなくて。

 それ以上は踏み込めなかった。

 

 踏み込めば、また壊れそうだった。

 

 まだ、足場が薄い。

 

 まだ、互いに何を言えばいいのか分からない。

 

 それでも。

 

 それでも、確かに少しだけ前へ進んでいた。

 

 俺は、ようやく息を吐いた。

 

 何もなかった頃よりは、少しだけましだった。

 

「叔父さんにも確認させるから」

 

「そうしろ」

 

「逃げるなよ」

 

「お前に言われるとはな」

 

 言い返そうとして、やめた。

 

 今のは、さすがに刺さった。

 

 刺さったが、間違いでもなかった。

 

「……逃げてきたから、戻ってきた」

 

 父は俺を見た。

 

 長く。

 

 それから、小さく息を吐く。

 

「そうか」

 

 また、それだけだった。

 

 俺は立ち上がる。

 

 足は軽くない。

 

 けれど、座っているよりはましだった。

 

 襖に手を掛ける。

 

「どこへ行く」

 

 父の声が追ってきた。

 

「母さんのところに」

 

 父の指が、湯呑みの縁で止まった。

 

 今度は、はっきりと分かった。

 

 父も、傷を持っている。

 

 同じ形ではない。

 

 重なりもしない。

 

 けれど、確かにそこにある。

 

「……そうか」

 

「ああ」

 

「線香は」

 

「持っていく」

 

「場所は覚えているか」

 

「忘れるかよ」

 

 言ってから、少しだけ声が荒れたことに気づく。

 

 父は何も言わなかった。

 

 咎めなかった。

 

 ただ、目を伏せた。

 

春香(はるか)に」

 

 そこで、父の言葉が止まる。

 

 何かを言いかけて。

 

 言えなかった。

 

 俺も、待たなかった。

 

 待てば、こちらまで何かを言わなければならなくなる。

 

 まだ無理だ。

 

「自分で言え」

 

 父の目が、わずかに揺れた。

 

 言い過ぎたかもしれない。

 

 でも、引っ込めなかった。

 

「俺は、俺の用事で行く」

 

 父はしばらく黙っていた。

 

 そして、ゆっくり頷く。

 

「そうだな」

 

 短い返事だった。

 

 乾いた声だった。

 

 けれど、それでよかった。

 

 俺は襖を開けた。

 

 廊下の光が差し込む。

 

 背中に、父の気配が残っている。

 

 昔のように重くはない。

 

 けれど、軽くもない。

 それでも。

 

 もう、逃げ出したい重さではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 母の墓は、本邸のさらに奥にあった。

 

 屋敷の敷地内にある一族の墓地。

 古い石段を上がった先に、ひっそりと並ぶ墓石の一つ。

 

 八月十七日。

 

 まだ残暑に入ったばかりの日差しは強く、背中にじっとりと汗が滲む。

 

 蝉の声が遠くで鳴っていた。

 

 うるさいはずなのに、不思議と静かだった。

 

 墓石の前に立つ。

 

 しばらく、何も言えなかった。

 

 ようやく。

 ようやく、ここまで来た。

 

 それだけで、胸の奥が少し詰まる。

 

 ずっと来なかった場所。

 

 来られなかった場所。

 

 来るのが怖かった場所。

 

 けれど今は、逃げるためではなく、置いてきたものを届けるためにここへ来た。

 

「……久しぶり、母さん」

 

 声は思ったより小さかった。

 

 返事はない。

 

 当たり前だ。

 

 それでも、言う。

 

「聞こえるかは知らんけど」

 

 少しだけ笑いそうになった。

 

 笑えなかった。

 

「言いたいことを、言いたい時に言うんが大事やって、最近少し分かったんや」

 

 線香を置く。

 

 火をつける。

 

 細い煙が、暑い空気の中へゆっくり昇っていく。

 

「東京に行った」

 

 まず、それを言った。

 

「叔父さんの家で世話になってる。相変わらず、あの人は足も耳も早い。いらんことまで知っとるし、肝心な時には妙に頼りになる」

 

 口にしてから、少しだけ息を吐く。

 

「やから、今は東京にある学校に通ってる。友達もできた。友達、って呼んでいいんかは、まだたまに分からんけど。たぶん、そういうもんなんやと思う」

 

 真美。

 

 芦花。

 

 ほかにも、名前を挙げようと思えばいくつか浮かぶ。

 

 昔の俺なら、誰かの名前を墓前に並べることなどなかった。

 

 誰かと関わった報告など、できなかった。

 

「ツクヨミでも配信をしてる」

 

 言ってから、少し間が空いた。

 

「……まあ、配信って言っていいのかは分からん。視聴者で遊んで、呆れられて、笑われて、たまに褒められてる。たぶん母さんが見たら、呆れると思うけど」

 

 いや。

 

 あの母さんなら盛大に声を出して笑うかな。

 

 そう思った。

 

 母の笑い方を、もうはっきりとは思い出せない。

 

 それが少しだけ痛かった。

 

「そこで、かぐやって子に会ったんや」

 

 光る電柱。

 

 赤ん坊。

 

 ありえない始まり。

 

 口に出そうとして、さすがにどう説明すればいいのか分からなくなる。

 

「光る電柱から生まれた赤ん坊や」

 

 結局、そのまま言った。

 

「意味分からんやろ。オレもまだ分からん」

 

 線香の煙が揺れる。

 

「かぐやは、明るくて、うるさくて、遠慮がなくて、勝手に懐いてくるんだ。こっちの事情なんか知らん顔で、当たり前みたいに中へ入ってくる」

 

 それが嫌ではなかった。

 

 むしろ、救われていた。

 

 その言葉は、まだ少し恥ずかしくて飲み込んだ。

 

「それから、彩葉」

 

 名前を出した瞬間、声の奥が少しだけ変わった気がした。

 

「酒寄彩葉。初めて、オレをただの雅治として見てくれた子や」

 

 若でもなく。

 

 橘でもなく。

 

 直系でもなく。

 

 シらぬイですらなく。

 

 ただ、雅治として。

 

「怒ると怖い。ツッコミも速い。かぐやには甘いようで、ちゃんと叱る。なのに自分のことになると、妙に抱え込む」

 

 言いながら、自然と顔が緩みかける。

 

 慌てて咳払いをした。

 

「……いい子や」

 

 それだけで十分だった。

 

 それ以上は、まだ母の前でも少し言いにくい。

 

「三人で過ごした」

 

 パンケーキ。

 

 騒がしい朝。

 

 ツクヨミの通知音。

 

 かぐやの笑い声。

 

 彩葉の呆れた顔。

 

 慣れない育児のような三日。

 

 配信。

 

 喧嘩。

 

 謝罪。

 

 笑い。

 

 思い出せば、どれも騒がしい。

 

 けれど、その騒がしさが、今の俺をここまで連れてきた。

 

「母さん」

 

 懐から、小さな箱を取り出す。

 

 古い箱、渡そうとして、渡せなかったもの。

 

 渡せないまま、ずっと手元に残っていたもの。

 

 指輪。

 

 箱の角を、指でなぞる。

 

「遅くなった」

 

 墓石の前に膝をつく。

 

 石蓋へ手を掛ける。

 

 普通なら一人で持ち上げるものではないのだろう。

 

 けれど、これだけは自分の手でやりたかった。

 

 片手で石蓋を持ち上げる。

 

 中の空気が、少しだけ違って感じた。

 

 母の骨壺の隣へ、箱ごと指輪を置く。

 

 音を立てないように。

 

 乱れないように。

 

 それでいて、作法のためではなく。

 

 ただ、母へ渡すために。

 

「受け取ってくれ」

 

 それだけ言って、石蓋を戻した。

 

 ゆっくりと。

 

 丁寧に。

 

 手を合わせる。

 

 目を閉じる。

 

 言うべきことは、たくさんあったはずなのに。

 

 出てきた言葉は、ひどく短かった。

 

「ありがとう」

 

 喉が熱くなる。

 

「愛してる」

 

 言えた。

 

 言えたことに、自分で少し驚いた。

 

 届くかは知らない。

 

 聞こえるかも分からない。

 

 けれど、言いたい時に言った。

 

 それだけは、確かだった。

 

「今度は、その二人も連れてくるよ」

 

 彩葉と、かぐや。

 

 そう言おうとして、少し考える。

 

「三人……いや、四人で来るかもしれんけど」

 

 誰かの顔が浮かんだ。

 

 今は分からない。

 

 それでも、なぜかそう言っておきたかった。

 

 手を離す。

 

 立ち上がる前に、桶の水を汲んだ。

 

 墓石へ水をかける。

 

 強い日差しで温まった石に、水が流れていく。

 

 布を絞る。

 

 一度。

 

 二度。

 

 丁寧に拭いた。

 

 額から汗が落ちる。

 

 暑い。

 

 日差しも強い。

 

 八月の墓参りなど、楽なものではない。

 

 それでも、これだけは自分の手でやりたかった。

 

 誰かに任せることではない。

 

 作法のためでもない。

 

 橘の名のためでもない。

 

 ただの自己満足だ。

 

 それでも。

 

 せめてもの手向けになればと思った。

 

 墓石の水気を拭き取り、最後にもう一度だけ手を合わせる。

 

「また来る」

 

 そう言って、立ち上がった。

 

 背中に日差しが刺さる。

 

 蝉の声が遠い。

 

 来た道を戻ろうとして、一度だけ振り返る。

 

 墓石は何も言わない。

 

 当然だ。

 

 けれど、来る前より少しだけ、胸の奥が静かだった。

 

 俺は桶を持ち直し、石段を下りた。

 

 母さん。

 

 たぶん俺は、ちゃんと戻る場所を見つけた。

 

 そして、その戻る場所は。

 

 今日もだいたい、騒がしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夕方。

 

 ツクヨミ、KASSEN専用ステージ控え室。

 

 酒寄彩葉は、人生で何度目か分からない頭痛を覚えていた。

 

『王者ブラック・オニキスが、異例の速度でのし上がってきた我らが超新星(スーパールーキー)、姫の子かぐや・いろPへ宣戦布告! まさに求婚! まさに藪蛇! どう転ぶかまったく予想のつかない大合戦が今、始まろうとしています!』

 

『帝ファンダムが一時的に騒然としましたが、恐らくノリで言っているだけだと思いまーす』

 

『これで負けたら負けたで面白いンゴw』

 

 ソッコーで決まったかぐやと帝のバトルは、『世紀の竹取合戦』なんて大げさなタイトルを掲げながら、当然のように私を巻き込んでくれやがった。

 

 ちなみに、ツクヨミ最大規模を誇るこの大会場のボルテージを煽るのは、実況と解説でお馴染みの二人。

 

 乙事照(おこってる)(こと)

 

 そして、忠犬(ちゅうけん)オタ公。

 

 こちらもこちらで、モニター席に座ったまま好き勝手言ってくれやがる。

 

 私に相談するよりも先に、かぐや一人で段取りなど全部決めてくださったおかげで、今、私は大変不機嫌です。

 

『ヤチヨカップの結果発表まで残り一時間! この試合の勝敗によって、優勝者が決まると言っても過言ではありません!』

 

『結果次第では、黒鬼を含めた上位五名を追い越して逆転勝利もありえるかも!?』

 

『ルールはSENGOKU!』

 

 説明しろ。

 

 どうしてこんなことに。

 

 みんなで協力するとは言った。

 

 言ったけどさぁ。

 

「……よりにもよって、プロ相手に十八番芸勝負はないでしょーよ」

 

 今いるのは、ツクヨミ内の『KASSEN』専用ステージ、その控え室。

 

 本試合に参加するのは、かぐや、いろP、まみまみ。

 

 対戦相手は黒鬼三人で揃い踏み。

 

 おまけにルールは三対三なのだから、助っ人枠はあり。

 

 むしろ、相手が黒鬼全員。

 

 しかも本人の一番の推しである帝と同じステージに立てるということで、まみまみが暴走した。

 

 ROKKAの譲歩もあり、記念すべき三人目は彼女のものとなったのである。

 

 のはずだった。

 

「よっしゃー、勝つぞ~!」

 

「帝様とKASSEN、帝様とKASSEN、帝様とKASSEN、帝様とKASSEN、帝様とKASSEN、帝様とKASSEN」

 

 このありさまなんだから、計画も準備もあったものではない。

 

 ああ。

 

 今すぐ観客席に座っているはずの芦花に会いたい。

 

 会って、頭を撫でてもらいたい。

 

 でも。

 

 これで推しのヤチヨとの初コラボライブができると思えば。

 

 デュフフフ。

 

「ねぇ彩葉、だいじょーぶ? なんか顔が変だよ」

 

「どうせヤチヨのこと想像してんだから、そっとしてあげよ」

 

 聞こえてるわよ、そこの二人。

 

 とはいえ、まだ試合は始まっていない。

 

 なぜなら、肝心の相手がいまだに控えステージへ上がってこないからだ。

 

 最初は、少し遅れても誰も気に留めなかった。

 

 帝アキラだ。

 

 ブラック・オニキスだ。

 

 王者様の登場には、それ相応の溜めというものがあるのだろう。

 

 そんな風に、会場の誰もが勝手に納得していた。

 

 けれど。

 

 予定していた開幕時刻が、残り三分を切ったあたりから空気が変わり始める。

 

 観客席のざわめき。

 

 実況席の困惑。

 

 ステージ上に浮かぶカウントダウン。

 

 三分。

 

 二分。

 

 一分。

 

 そして、最後の一分を残したその時。

 

 虚空に、巨大なモニターが浮かび上がった。

 

 映し出されたのは、暗い洞窟の中らしき場所を疾走する黒鬼。

 

 いや。

 

 黒鬼だけじゃない。

 

 虎の前後に車輪を掴ませたバイク、らしきものに乗っている。

 

 意味が分かんないのはシらぬイ(あのばか)だけで十分なんだよ、チクショー。

 

 ただ現れるだけでも、すでにお腹一杯だというのに。

 

 次の瞬間。

 

 ズドォォォォォン!

 

 ステージの端に切り立った崖。

 

 それが猛烈な爆発とともに崩落した。

 

 巻き上がる土煙。

 

 砕けた岩の破片。

 

 その中から、エンジン音とも咆哮ともつかぬ異音を響かせ、虎バイクに乗った帝をはじめとした三人が飛び出した。

 

『来ました! 黒鬼ご来臨~!』

 

 乙事照の声と共に、観客から黄色い声があがる。

 

 予想していたよりも派手な演出により、会場のボルテージはいまにも天元突破しそうである。

 

「あわわわわ……」

 

 ちなみに約一名が、興奮のあまり振動モードと泡吹きのスイッチが入った模様。

 

 マジで今にも口から泡が出そう。

 

 というか。

 

 今からこの男たちに勝たなきゃならないのかと思うと、やはり覚悟しておいても、この期に及んであまり前向きにはなれそうにない。

 

「どーも、対戦受けてくれてありがと」

 

 先頭に立った帝アキラが、不敵な笑みを浮かべながら告げる。

 

 絶対的な余裕がある者にしかできない佇まい。

 

 先ほどまで遅刻するのではないかという不安をすべて吹き飛ばし、登場しただけで全会場を掌握してみせるカリスマ性。

 

 やはり、トップに立つ者はそこにいるだけで雲の上にいる人物のように感じる。

 

「俺の姫、かぐやちゃん!」

 

「どるぅらぁ帝! 勝負じゃい!」

 

 こらこら。

 

 はしたないからやめなさい。

 

 アイドルのアの字もないわよ。

 

「ヘヘッ、前傾姿勢かわいすぎ」

 

 それをまた「かわいい」の一言で言いきれるアンタもたいがいやけど、なに。

 

 これって私がおかしいってわけ?

 

 曲者だらけの中では、逆に常識人が曲者扱いされるってわけ?

 

 ってか半分煽ってんでしょコレ。

 

「あの、私っっ、ふぁふぁファンでっっ」

 

 挨拶が終わった途端に、どう見てもこの状況が見えていない真実が話しかけた。

 

 帝はそんな真実を一瞬見やると、

 

「まみ、悪いけど今日は手加減できない」

 

 と、ウィンクを一発。

 

 つーか今の一瞬でユーザー名を確認して、名前まで推論し終わったのかよ。

 

 プロってすげぇ。

 

 まぁ打ち抜かれた真実は、顔中に『!?』を大量に浮かべたまま、くるくると駒のように倒れていった。

 

 ……ハァ?

 

「真実、大丈夫!?」

 

 倒れた真実の目前に様々なグルメ写真を見せてみるも、反応も返事もない。

 

 ただのしかばねのようだ。

 

 じゃねーよ。

 

 マジでどうしよコレ。

 

 どうしよ。

 

「ねぇ、どうする~?」

 

 そう言いながら、ちゃっかり真実のアバターからメロンパンとおにぎりを毟るんじゃありません。

 

 勝手に食べない。

 

 味しないからって、ぺっ、もしない。

 

 アンタ仮にもアイドルなんでしょーが。

 

 品を守りなさい。

 

 オタクの夢を与えるどころか壊してどうすんのよ。

 

 マジでシらぬイ見せるんじゃなかった。

 

 どうする。

 

 マジで今からでも芦花に頼んで、代打に出てもらうよう頼むしかないかな。

 

 でも。

 

 ここでいきなり一人枠が浮いたのなら。

 

 ヤチヨが助っ人として入ってくれるかも。

 

「……あり

 

「え? ありって何が?」

 

「このまま一人が足りないままじゃ試合はできない。でも、今から新しい誰かを見つけて頼むのも難しい。だったら、やt  

 

「助っ人? あるよ?」

 

「あるの!? ここで!? 今ぁ!?」

 

「もちのろん~!」

 

 満面の笑みで、かぐやは胸を張った。

 

 私は、咄嗟に身構えた。

 

 だてに破天荒悪童歌姫の手綱を握ってきたわけではない。

 

 この顔をしている時のかぐやは、大体ろくでもない。

 

「……ちなみに、その助っ人って誰」

 

「えへへ」

 

「その笑い方やめなさい。不安しかない」

 

 いや。

 

 待て。

 

 そもそも、今ここで一人欠けたなら、まだ手はある。

 

 SENGOKUには欠員救済のため、一定条件下でヤチヨのサポートアバターが臨時参加するシステムがある。

 

 つまり。

 

 今、真実が倒れた。

 

 今、チームに空きができた。

 

 今、ヤチヨが来る可能性がある。

 

 すなわち。

 

 私の推しとの初コラボライブである。

 

 あり。

 

 大あり。

 

 むしろ全然あり。

 

 真実には悪いけど、ここは安らかに眠っていてもらって、私はヤチヨと肩を並べて帝様と黒鬼を相手に――

 

来い、ガンダァァァァァム!!

 

「待ちなさい」

 

 遅かった。

 

 かぐやが高らかに叫び、パッチン、と指を鳴らす。

 

 次の瞬間。

 

 地面が割れた。

 

 いや、割れ方がおかしい。

 

 控えステージの床ではない。

 

 帝アキラの足元だ。

 

 ピシリ、と亀裂が走る。

 

 黒鬼の三人が一斉に視線を落とす。

 

 観客席のざわめきが、一瞬で消えた。

 

 直後。

 

 ズゴォォォォォォォン!!

 

 赤熱化したタケノコドリルを片手に、地の底より現れたるは我らがシらぬイ。

 

 ただし。

 

 出所は帝の足元。

 

 厳密に言えば、ケツの下。

 

 つまり。

 

  牙突・()

 

 帝の貞操(たま)と社会的生命(たま)、その両方を根こそぎ刈り取らんとする禁断の一撃。

 

 一石二鳥ならぬ、一刀二玉(いっとうふたたま)

 

 さすがにこれは、かぐやも黒鬼も予想できなかった。

 

 帝も固まった。

 

 会場も固まった。

 

 実況席も固まった。

 

 私も固まった。

 

 そして、次の瞬間。

 

「疾――ッ」

 

 身体が勝手に動いた。

 

 霹靂一閃、二刀流。

 

 (つむじ)

 

 (こがらし)

 

 (あらし)

 

 目にも留まらぬ疾さの抜き打ち。

 

 これぞ緋村抜刀斎ならぬ、酒寄抜刀斎。

 

 かぐやの叫びと共に良からぬ何かを感じ取った私が、すかさず斬り伏せた。

 

HIT HIT HIT HIT HIT

HIT HIT HIT HIT HIT

HIT HIT HIT HIT HIT

HIT HIT HIT HIT HIT

 

Critical HIT!!

 

PERFECT!!

 

Game Over

 

 テッテテテレー。

 淡い桜色のエフェクトを散らしながら、シらぬイの身体が即退場していく。

 

 いや、退場させた。

 

 この私が。

 

 酒寄彩葉が。

 

 いろPが。

 

 全力で。

 

《不正入場者:シらぬイ》

 

《状態:即時退場》

 

《処刑者:いろP》

 

《罪状:そういうとこ》

 

 哀れシらぬイ。

 ここが年貢の納め時であったとは、だぁれが思えただろうか。

 

「雷兄、もう息してていいよ」

 

「……ふぅー」

 

「やっぱ雷兄ってシらぬイに弱いんよね。まさか出るとは俺も予想できなかったけど」

 

 しかし乃衣さんや。

 先ほどから帝の腰、っていうか下半身への熱い目線はどうにかできませんかね。

 そんなに見つめなくとも無事やで。

 今は。

 

「なんでぇ!? 助っ人だよ!? かぐやちゃんの助っ人だよ!?」

 

「どこがじゃい」

 

 思わず素で返した。

 

「どこをどう見たら、対戦相手の足元からケツを掘りに行く男が助っ人なのよ」

 

「でも雅治だよ?」

 

「だからよ」

 

 そう。

 

 だからである。

 

 駅のホームで。

 

 人の目の前で。

 

『俺が、シらぬイだ』

 

 などという爆弾だけ落として、電車に乗って逃げやがった馬鹿野郎。

 

 そのうえ今度は、帝相手に天誅だか怨念だか知らないけど、とんでもない方向から乱入してきた馬鹿野郎。

 

 さらに言えば。

 

 私はまだ、かぐやが勝手に試合の段取りを決めたことも許していない。

 

 よって。

 

 これは処理である。

 

 教育的指導である。

 

 秩序の維持である。

 

 そして何より。

 

 ヤチヨの席を空けておくためである。

 

 私利私欲?

 

 知らない言葉ですね。

 

『えー、ただいま謎の乱入者がいろP選手によって秒で処刑されました』

 

『きれいにすっ飛んでいきましたねー』

 

『判断が早いンゴwww』

 

『むしろ処理が美しすぎて芸術点が入りそうなぐらいです』

 

 実況席は黙ってろ。

 

「むぅー。せっかく雅治呼んだのにぃ」

 

「呼ぶな。少なくとも今は呼ぶな。あと出すならせめて正面から出しなさい」

 

「でも正面からだと面白くないよ?」

 

「その発想がすでにダメなのよ」

 

 かぐやは頬を膨らませる。

 

 私は額を押さえる。

 

 真実はまだ倒れている。

 

 帝は無事だった。

 

 たぶん。

 

 社会的にも。

 

 肉体的にも。

 

 ぎりぎり。

 

《チームかぐやいろP、欠員を確認》

 

《SENGOKU規定により、臨時サポートプレイヤーを招集します》

 

 来た。

 

 私の耳が、ぴくりと動いた。

 

 いや、アバターの耳が動いた。

 

 そんな機能あったんだ私のアバター。

 

《サポートプレイヤー、接続中》

 

 一拍。

 

 二拍。

 

 三拍。

 

 ……あれ。

 

 来ない。

 

 ほんのわずか、会場の空気が揺れた。

 

 実況席も、一瞬だけ間を空ける。

 

 その直後だった。

 

 空から、巨大な玉手箱が降ってきた。

 

 どごん、と。

 

 ステージ中央に着地した玉手箱が、月色の煙を噴き上げる。

 

 蓋が開く。

 

「じゃっじゃーん! よ、呼んだ~?」

 

 玉手箱の中から、ぴょーんと飛び出したのは。

 

 バトル用の、さわやかな青と白の衣装を着た月見ヤチヨだった。

 

 着地の瞬間、ほんの一瞬だけ足元がもつれた。

 

 ように見えた。

 

 けれど次の瞬間には、もう完璧な笑顔でポーズを決めている。

 

 つまり問題なし。

 

 ヤチヨは今日も完璧です。

 

「えええええええええ!?!?」

 

 叫んだのは、たぶん私だった。

 

 いや、確実に私だった。

 

「えへへっ、絶対勝とうね」

 

 可愛らしくポーズまで決めてくださったヤチヨが、にっこり笑った。

 

 ヤチヨ。

 

 やはりヤチヨは尊い。

 

 そして正しい。

 

 降りてきただけでこんなに癒されるんや。

 

 やっぱしヤチヨは素晴らしい。

 

『おおっと、ここで月見ヤチヨ参戦! これはまさかの公式サポート枠!』

 

『玉手箱から出るの、竹取合戦としては微妙に別作品では?』

 

『細かいことはいいんですよ。かわいいは正義ンゴ』

 

 実況が珍しくも正しいことを言っている。

 

 かわいいは正義。

 

 ヤチヨは正義。

 

 今この瞬間、世界はかなり正しい。

 

「彩葉、だいじょーぶ?」

 

「大丈夫に見える?」

 

「すっごい元気そう!」

 

「そうね。今だけは元気よ」

 

 かぐやはご機嫌。

 

 ヤチヨは尊い。

 

 帝は面白そうに笑っている。

 

 シらぬイは処刑された。

 

 私は頭が痛い。

 

 それでも、推しが隣にいる。

 

 そういうとこやぞ。

 




ここまでお読みいただきありがとうございます!
おかげで総UAがもうすぐで10万になります。本当にありがとうございます。
これからもどうか「今日も正常営業。ただし“そういうとこ”を添えて」をよろしくお願いします!!

しかし、彩葉さんや。いくら頭の中がごちゃまぜの状態であっても雅治の正体バレは気にしてあげようぜ?(笑)

番外編を時間列に合わせて本篇の合間に入れてみる?

  • 話の展開やネタの繋がりがあってよさそう。
  • 「番外」やから別途でいいんじゃね?
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