今日も正常営業。ただし“そういうとこ”を添えてー   作:火力万能主義

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日常シーンは終わりだと言ったけど、窓越しに雨が降るのを眺めていたらこれはもう書くしかないと思いそっこーで帰宅して書きました。
雨は止んだけど、そんな時にはYou〇beから雨のASMRを音量全開で流しながら書いたらモーマンタイ。

っていうかメモ帳で完成してからのコピペーで投稿しているせいか、3話の一日がまるごとループしていたのが発覚。
うーん、これはもはやループネタも書けという天啓だろうか

*アンケート開きました。よろしくお願いします!


第五話 また、いつもの顔をする

第五話 また、いつもの顔をする。

 

 

 

 

 月曜の朝は、容赦がない。

 

 酒寄彩葉は鏡の前へ立ち、眠気と疲れの痕を薄く塗り潰す。

 目の下へ重ねたコンシーラーを、指の腹で静かに馴染ませる。

 隠しきれているわけではない。

 けれど、何もしないよりはずっといい。

 最後に、口角だけを少し上げる。

 それで今日の顔ができあがる。

 

 橘雅治はネクタイを締め、眼鏡をかける。

 レンズの奥で一度だけ視線が沈み、次の瞬間には、学校で使う穏やかな表情へ整っている。

 の顔をつくる、というほど大袈裟ではない。

 ただ、必要な輪郭を静かに揃えるだけだ。

 

 扉が開く。

 朝の光。

 通学路。

 見慣れた校門。

 見慣れた廊下。

 見慣れた教室。

 

 何事もなかったように、一週間はまた始まる。

 

 

     *

 

 

 彩葉は真美と芦花に捕まり、月曜らしい軽口の中へ引っ張り込まれる。

 

「彩葉、顔は元気そう」

 

「それ褒めてる?」

 

「誤魔化せてるって意味では褒めてるよぉ」

 

「ちょっとぉー」

 

 そんな会話をしながら、教室の扉をくぐる。

 

 雅治はその少し後ろから入り、近くにいた男子へ静かに会釈を返し、何でもない顔で席に着く。

 

 そして始まる朝のホームルーム。

 起立、礼。

 連絡事項。

 プリント。

 黒板に書かれていく予定。

 ノートを開く音。

 椅子を引く音。

 月曜の教室は、それだけで少し騒がしい。

 

 古典。

 音楽。

 体育。

 昼休み。

 移動教室。

 また次の授業。

 

 彩葉は前を向いたまま、手を止めない。

 シャープペンの先が紙を走る。

 めくられるページ。

 板書を書き写す。

 問題を解く。

 休み時間には次の授業のノートを確認し、昼にはパンの袋を片手で開けながら単語帳を覗く。

 

 雅治は、頼まれごとを断らず、聞かれたことへ簡潔に答え、それ以上は踏み込まない。

 プリントを後ろへ回し、前の席の質問へ短く答え、教師に呼ばれれば席を立つ。

 感じがいい。

 真面目だ。

 頼りやすい。

 その印象だけを、きちんと過不足なく置いていく。

 

 誰が見ても、二人ともちゃんとしていた。

 

     *

 

 火曜もいつだってそう。

 

 朝、同じようにコンシーラーを重ねる。

 眼鏡をかける。

 

 授業の合間にバイト先からの連絡を確認し、放課後は真っ直ぐカフェへ向かう。

 笑顔を切らさず、声を落とさず、トレーを運び、皿を下げ、レジを打つ。

 ガラス越しの夕方が暗くなる頃には、足の裏がじわりと重い。

 閉店までいれば帰りは遅い。

 だから帰宅後に机へ向かう時間は削れる。

 削れた分だけ、眠る時間が後ろへずれていく。

 

 それでも翌朝には起きる。

 また誤魔化す。

 また笑う。

 

 雅治は放課後、教師に声をかけられ、去年の担任に半ば当然のような顔で細かな雑務を頼まれる。

 委員長は別にいる。

 それでも、「去年もやっていたから」という理由だけで回ってくる仕事がある。

 プリントの整理。

 備品の確認。

 提出物の取りまとめ。

 断るほどでもない。

 だから引き受ける。

 

 そのあとでジムへ寄る。

 器具を見る。

 備品を整える。

 軽く身体を動かす。

 家へ戻り、端末を開く。

 ツクヨミへ潜る。

 シらぬイとして、何かを残す。

 

 派手で。

 自由で。

 誰かの記憶に残るものを。

 

     *

 

 水曜。

 木曜。

 曜日だけが進んでいく。

 

 真美が笑う。

 芦花が呆れる。

 彩葉がため息をつきながらも付き合う。

 その横を通り過ぎる雅治。

 誰かに呼ばれて立ち止まる。

 また次の教室へ向かう。

 

 昼休み。

 真美がスマホを持って騒いでいる。

 芦花が「またそれ?」と笑う。

 彩葉も呆れながらその画面を覗き込む。

 通りがかった雅治の視線が、そのスマホへほんの一瞬だけ落ちる。

 

 そして、それを見逃さない彩葉。

 

 けれど、何も言わない。

 雅治も何も言わない。

 

 ただ、その一瞬だけが妙に引っかかった。

 

 体育。

 移動教室。

 階段。

 廊下。

 靴音。

 プリントの受け渡し。

 机の間を抜ける体温。

 何でもない場面の端々で、気づけば前より少しだけ、同じ画面へ入る頻度が増えている。

 

 ノートを受け取る手が、同じタイミングで伸びる。

 廊下の角で、どちらかが半歩だけ進路を譲る。

 席へ戻る途中、肩が触れそうな距離ですれ違う。

 

 増えている。

 それだけだ。

 

 けれど、前より少しだけ、互いの存在が「背景」ではなくなっていた。

 

     *

 

 そして木曜の放課後。

 

 最後の授業が終わり、教室の空気が一気にほどける。

 椅子を引く音。

 机を鳴らす音。

 部活へ向かう声。

 帰る支度を急ぐ足音。

 窓の外の空は、いつの間にか少し鈍く暗い。

 

 彩葉は、鞄の中身を手早く確認しながら立ち上がった。

 今日はバイトがある。

 シフトの時間までは、まだ十分に間に合う。

 少しくらい寄り道をしても余るほどには。

 けれど、彩葉にとってその余裕は、寄り道に使うためのものではなかった。

 空いたぶんだけ、今日の復習に回す。それがいつもの流れだった。

 

「彩葉、今日もそのまま?」

 

 芦花が訊く。

 

「うん。先に出るね」

 

「真美は?」

 

「私は終わった! ……って言いたいけど終わってないぃ!」

 

 真美が机へ突っ伏しながら叫ぶ。

 小テストの結果が悪かった数人は、放課後に補習らしい。ちなみに芦花も巻き込まれている。

 

「実にいつもの真美ね」

 

「笑いごとじゃないよぉ……」

 

 彩葉は小さく笑った。

 それから「じゃあまた明日」と手を上げ、教室を出る。

 

 廊下の窓の向こうは、少し暗かった。

 けれど、まだ普通の曇り空に見えた。

 湿った風が、開いた窓の隙間から細く入り込んでくる。

 降るとしても、せいぜい小雨。そう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 下駄箱まで来た時だった。

 

 遠くで、まず低く空気が鳴った。

 次いで、校舎の屋根も、アスファルトも、花壇の土も、まとめて叩きつけるような重い音が一気に膨れ上がる。

 

「……ぇ」

 

 顔を上げた次の瞬間、校門の向こうが白く煙った。

 

 どしゃぶりだった。

 

 雨、というよりもはや壁だった。

 ひさしの先から流れ落ちる水は、筋ではなく面になっていて、グラウンドの端さえ霞んで見える。

 天気予報にはなかったはず、と思いながらも、目の前で降っている以上、文句を言っても仕方がない。

 

 急いでスマホを取り出して時間を見る。

 バイトの始まりまで、まだ余裕はある。

 こんな(どしゃふり)だ、いつもより向かう時間が長引くのは目に見える。

 

 どうする。

 手元に傘代わりにできそうなのは皆無。

 雨が弱まるまでに待ってから急げばなんとか間に合う。間に合うだけは。

 それに、どの道このまま飛び出すには今の服装も引っかかる。

 

 制服のまま。

 上着代わりの体操服も今日は家に置いてきたまま。

 昨日、乾かしたまま放っておいたのだから、たぶん今ごろはしっかりずぶ濡れだ。

 そう考えると、少しだけ現実逃避したくなる。

 

 学校指定の靴。

 防水でも何でもない鞄。

 今ここで突っ切れば、髪も、袖も、足元も、全部ひどいことになる。店に着いた時の自分が簡単に想像できて、それが余計に気を重くした。

 

「……嘘でしょ」

 

 小さく呟いても、返るのは雨音だけ。

 

 少し待てばやむだろうか。

 いや、この降り方はそんな甘いものには見えない。

 下駄箱の前で立ち尽くしたまま、彩葉は鞄の持ち手を握り直す。

 

 やはり走るか。

 それとも待つか。

 でも待ちすぎても困る。

 どうする、と考えた、その時。

 

 背後から、濡れていない足音が近づいてきた。

 

「まだいたのか」

 

 落ち着いた声だった。

 聞き慣れているのに、教室の中とは少しだけ響き方が違う。

 

 彩葉が振り返ると、そこに橘雅治がいた。

 肩に鞄。

 手には、折り畳みではない普通の傘。

 どうやら今ちょうど下駄箱へ来たらしい。

 

「橘君?」

 

「酒寄」

 

 いつもの穏やかな声音。

 それだけなのに、さっきまで妙に胸を圧していた焦りが、ほんの少しだけ形を変える。

 

「……見れば分かると思うけど」

 

 雨音だけが、二人のあいだへ落ちていた。

 

 不思議にも。唐突にも。

 あれ程焦っていたのに、今なんとなく少し鎮まったような気がする。

 

 屋根を叩く音は強いのに、不思議と耳障りではない。

 言葉を急かすには激しすぎて、沈黙を気まずくするには少し優しすぎる音だった。

 

 彩葉は、白く煙る校門の向こうを見ながら、小さく息を吐く。

 

「……やみそうにないわね」

 

 雅治も外へ目を向けたまま、短く頷いた。

 

「少なくとも、今すぐどうにかなる降り方ではないな」

 

「今日に限って、って感じ」

 

「諌山と綾紬は?」

 

「補習。見事に置いて行かれたわ」

 

「運が悪かったな」

 

「ほんとに」

 

 ため息交じりに返すと、彩葉は少しだけ笑った。

 自分でも意外なくらい、自然に。

 

 橘雅治と、こうして二人きりに近い形で話している。

 教室の中ではなく。

 誰かの視線の届く場所でもなく。

 下駄箱の薄暗い湿気と、ひどい雨音に閉じ込められたみたいな場所で。

 

 それだけのことなのに、相手の声音まで少し違って聞こえる気がした。

 

 雅治は下駄箱の脇へ立った。

 すぐには帰らない気配だった。

 

 それが少しだけ意外だった。

 橘雅治は、普段なら用事を済ませたら、そのまま静かにいなくなる印象がある。

 誰とでも感じよく話すくせに、必要以上には残らない。

 そういう人だと思っていた。

 

 なのに今日は、まだそこにいる。

 

 雨音だけが、二人の間へ落ちていた。

 言葉を急かすには激しく、沈黙を気まずくするには、少し優しすぎる音だった。

 

「橘君も、今日遅かったのね」

 

 先に口を開いたのは彩葉だった。

 

「少し、先生に捕まっていた」

 

「また頼まれごと?」

 

「そういうことになる」

 

「委員長、別にいるのに?」

 

「去年も同じ担任だったからな。たまに、そのまま去年の続きみたいに扱われる」

 

「便利に使われてるじゃない」

 

 雅治は一拍置いた。

 ほんの少しだけ、目元の空気が緩む。

 

「否定はしない」

 

 あまりにもあっさりしていて、彩葉は思わず小さく笑った。

 

「もっと嫌そうにしてもいいんじゃない?」

 

 彩葉が少しだけ笑いながらそう言うと、雅治は外を見たまま、ほんの一拍置いた。

 

「そういう顔は、あまり得意じゃない」

 

 むしろ、それこそがこっちの台詞だな、と返す。

 

「どういう意味?」

 

「辛いなら辛いと、もう少し人を頼ればいい」

 

 雨音が一段強くなる。

 ひさしの先で砕ける水の白さが、二人の間へ細かく反射していた。

 

「もう一度言うが、君の方こそ少しは周りを頼った方がいい。無理をしている人間は、自分が思っているより目につくものだ」

 

「……何それ」

 

「辛いなら辛いと口にして、誰かを頼ればいい。なのに君は、そういう場面でも一人でどうにかする前提でしか動いていない」

 

 それに

 

「今みたいな状況なら、諫山や綾紬に傘を借りるなり、補習が終わるまで待つなり、いくらでもやりようはあるだろう」

 

 そんなこと、分かっている。

 言われなくても分かっている。

 真美に言えば、たぶんすぐに「いいよ!」と貸してくれただろう。

 芦花だって、少し呆れながらでも同じようにしたはずだ。補習が終わるまで待って、親の迎えが来る二人に紛れてしまう手もあった。

 

 なのに、自分(わたし)は最初からそれを数えていなかった。

 

 走るか。

 待つか。

 一人でどうにかするなら、どれが一番被害が少ないか。

 

 考えていたのは、そればかりだ。

 

「君は最初から、自分一人でどうにかする前提で焦っているように見える」

 

「……」

 

 言い返したい。

 そんな簡単に言わないでほしい、と。

 人を頼る方が、かえって面倒なこともあるのだ、と。

 誰かに借りを作るみたいで嫌なのだ、と。

 そもそも、そこまで見られていたこと自体が少し癪だ、とか。

 

 返そうと思えば、いくらでも返せる。

 

 けれど、どの言葉も喉の手前で止まった。

 どれも少しずつ本当で、少しずつ言い訳じみていたからだ。

 

「……橘君って、そういうところもあるんだね」

 

「どういうところだ」

 

「人の見られたくないところだけ、妙にちゃんと見抜くところ」

 

「見えてしまうだけさ」

 

「いちばん厄介なやつじゃない」

 

 彩葉は苦く笑った。

 でも、その苦さの中には、ほんの少しだけ助けられた感じも混ざっていた。

 

 こういうことを言われるのは嫌いだ。

 でも、適当に励まされるよりはずっとましだった。

 

 雅治は何でもない顔で立っている。

 いつもの穏やかな声。

 いつもの落ち着いた目元。

 周りのこともちゃんと見渡している。さすが元委員長だというべきか。

 それなのに、今の言葉だけは少しだけ、その奥にあるものの硬さを覗かせた気がした。

 

 雨が、どこか遠くでアスファルトを叩き続ける。

 ひさしの先から落ちる水は、白い糸みたいに途切れなく垂れていた。

 

「橘君は、逆にそういうのないの?」

 

「何が」

 

「一人でどうにかする前提で動いてる感じ」

 

「あるだろうな」

 

 あまりにも素直に返ってきて、彩葉はわずかに目を瞬かせた。

 

「そこは否定しないんだ」

 

「否定する理由もない」

 

 静かな言い方だった。

 開き直りでもなく、諦めでもなく、ただそういうものだと知っている人間の声音だった。

 

「じゃあ、何でそんなに落ち着いてるのよ」

 

「落ち着いて見えるだけだろう」

 

「それ便利よね、本当」

 

「便利だからな」

 

 そこで彩葉は、小さく息を吐いた。

 この人はやっぱり、答えているようで、答えの芯だけを少し奥に引く。

 

 でも、今日はその奥が完全には閉じていない気がした。

 

「急ぎなのか」

 

 今度は雅治(橘君)から、話を逸らすように問いかける。

 

「バイト。遅刻だけはしたくないのにね」

 

「それは焦るな」

 

「でしょう?」

 

「少し待てば弱まるかもしれないが」

 

「その少しで済む雨に見える?」

 

「見えない」

 

「正直でよろしい」

 

 つい笑ってしまう。

 ほんの数分前まで、ただ重たかった雨音が、少しだけ違って聞こえ始めていた。

 

 雅治が、不意に言う。

 

「酒寄は、いつも大変そうだ」

 

 彩葉は目を瞬いた。

 

「それ、慰め?」

 

「違う。先ほども言ったようにただ、そう見える」

 

 相手の内側へ踏み込むんじゃなく、外から見えたものだけを、過不足なく言葉にして返す。

 それが橘雅治という人間らしい気もした。

 

「……楽じゃないのは本当だよ」

 

 つい、そう答えてしまった。

 別に弱音を吐きたいわけじゃない。

 けれど、この雨の中では、少しぐらい本当のことを混ぜても許されるような気がした。

 

「勉強も、バイトも、放っておけないし。そこに他のことまで入ってくると、さすがに時間が足りなくなるの」

 

「他のこと?」

 

「息抜きとか、推しとか、そういうの」

 

「...削るつもりは」

 

 問い方は静かだった。

 責めるでも、諭すでもなく、ただ確かめるような響き。

 

 彩葉は視線を落とした。

 濡れていないはずの靴先が、妙に遠く見える。

 

「ううん、削れないの」

 

 ぽつりと落とした声は、自分で思っていたよりも柔らかかった。

 

「勉強も。バイトも。どっちも削れないし、たぶん、どっちを削っても先に私がだめになる」

 

 彩葉は唇を結ぶ。

 こんな言い方を、学校で誰かにしたことがあっただろうか。

 何か返されると思った。

 慰めでも、同意でも、あるいはもっと正しい言葉でも。

 

 けれど雅治は、何も言わなかった。

 

 

     ...」

 

 

 

 ただ、沈黙だけがあった。

 突き放すような無言ではなく、聞いたものをそのまま受け取って、変に形を変えずに置いておくみたいな静けさ。

 

 それが、かえってありがたかった。

 

 雨音が強い。

 でも、さっきまでのように重くは響かなかった。

 

 

 彩葉は、濡れていない靴先を見たまま、小さく息を吐く。

 

「……橘君って、ほんとそういうところあるわよね」

 

「今度はまたどこが?」

 

「余計なこと言わないところ。慰めようとも、正論を置こうともしないところ」

 

「...かえって正しさが要らない時もあるだろう」

 

「まあ、今は助かったけど」

 

 そこで彩葉は少しだけ顔を上げる。

 

「じゃあ、橘君は?」

 

「何が」

 

「何を削ったらだめになるの」

 

 一拍。

 

 雨が、ひさしを強く叩いた。

 雅治はすぐには答えなかった。

 けれど、はぐらかすほど長くも黙らない。

 

「……黙って何かしている時間だな」

 

「何か?」

 

「体を動かすでも、手を動かすでも。整えてる時でもいい。余計なことを考えなくて済む時間のことだ」

 

 彩葉は少しだけ目を瞬く。

 

「勉強じゃなくて?」

 

「勉強は手段だ」

 

 即答。

 その言い方が、少しだけ意外だった。

 いつもの優等生らしい答えではない。

 むしろ、勉強そのものを価値の中心へ置いていない人間の言葉だ。

 

  というか、今日はやけに口数が多いきが

 

 

「橘君って、成績も運動も普通に上の方なのに、あんまりそこに執着はないの」

 

「ないな」

 

「そこも即答なのね」

 

「特に上を狙う理由がない」

 

 その返しはあまりにも乾いていて、彩葉は少しだけ眉を寄せた。

 

「……そんなもの?」

 

「そんなものだ」

 

 一拍。

 雨が、どこか遠くで排水溝へ流れ込む音を立てる。

 

「一度手に入れてみて、別に欲しかったものじゃないと知った。それだけだ」

 

「じゃあ、成績にそこまで執着しないのも、そのせい?」

 

「それもある」

 

「もう一度だけ上を取ろうって気はないの?」

 

「先も言った通り、特に上を狙うような理由も、必要も僕にはない」

 

「……そんなもの?」

 

「上に行ったところで、次も同じ顔を求められるだけだ」

 

 さらりと落ちたその言葉に、彩葉は返事を失った。

 

 静かすぎて、最初は意味が遅れて届く。

 一度手に入れてみて。

 別に欲しかったものじゃないと知った。

 

 それはつまり、ただ上を知らない人間の言葉ではない。

 上へ行かなかった人間の諦めでもない。

 そこまで行って、見て、触れて、そのうえで手放した人間の言い方だ。

 

 言葉自体は淡々としている。

 けれど、その中にあるものは淡々では済まない気がした。

 できることを褒められるより先に、それを当然として扱われてきた人間の言い方だ、と、何となく思う。

 

「……嫌な言い方」

 

「嫌なものは、たぶん嫌なんだろう」

 

 あっさりとした返事だった。

 けれど、その平らな言葉の下に沈んでいるものは、少しも平らではない気がした。

 

 彩葉はふと、下駄箱の薄暗い空気の中で、初めて橘雅治という男子の()()()()()に触れた気がした

 

 真面目で。

 誠実で。

 感じがよくて。

 頼りやすい。

 

 そういう表から見えるものとは別に、もっと静かで、もっと乾いていて、たぶん簡単には誰かに渡さない何かを、この人は奥にしまっている。

 

「……ほんと、何なのよ」

 

「何が」

 

「ちゃんとしてるくせに、たまにそういう、妙に重いことを平気な顔で言うところ」

 

「...重いつもりはない」

 

「なお悪いわね」

 

 言うと、雅治は少しだけ目元を和らげた。

 

 彩葉は、そのわずかな変化を見逃さなかった。

 その程度の反応しか見せないくせに、今のやり取りがまるで何も残していないわけでもないことが分かってしまう。

 だから余計に、調子が狂う。

 

 

「……でも、ちょっとだけ分かったかも」

 

「何が」

 

「ちゃんと柔らかい言い方してるのに、奥の方は全然柔らかくないところ」

 

「観察が細かいな」

 

「そう見えてるだけだもの」

 

 雅治は返さなかった。

 ただ、白く煙る校門の向こうを見ている。

 

 その沈黙が否定ではないことだけは、もう分かる。

 

 だから彩葉も、それ以上は追わなかった。

 追えなかった、の方が正しいかもしれない。

 

 雨音は、さっきより少しだけやわらいでいた。

 けれど、その代わりに、二人の間へ落ちる静けさの輪郭が前よりはっきりしていた。

 

 遠くの空が低く鳴る。

 その少しあとで、彩葉はもう一つだけ訊いた。

 

「雨、嫌いじゃないの?」

 

「嫌いではないな」

 

「どうして?」

 

「人の足を止めるから」

 

「それだけ?」

 

「それだけで十分だろう。急いでいた人間まで、少し黙る」

 

 雅治は白く煙る校門の向こうを見たまま言う。

 

「こういう時は、無理に喋らなくて済む」

 

 その言葉に、彩葉は小さく息を呑んだ。

 

 ああ、と思う。

 この人はきっと、普段から()()()()()ことができる。

 感じよく、過不足なく、場に馴染むように話せる。

 でもそれは、喋ることが好きだからではないのかもしれない。

 

 喋れることと、喋りたいことは違う。

 

 そんな当たり前のことを、今さらみたいに思った。

 

「……ちょっとだけ分かった気がする」

 

「何が」

 

「橘君が、ちゃんとしてるのに、どこか遠い理由」

 

「そんなものまでもあるのか」

 

「あるわよ。少なくとも私にはそう見える」

 

 雅治は返さなかった。

 ただ、白く煙る校門の向こうを見ている。

 

 その沈黙が否定ではないことだけは、もう分かる。

 

 だから彩葉も、それ以上は追わなかった。

 追えなかった、の方が正しいかもしれない。

 

 雨音は、さっきより少しだけやわらいでいた。

 けれど、その代わりに、二人の間へ落ちる静けさの輪郭が前よりはっきりしていた。

 

 その時、彩葉のスマホが小さく震えた。

 

 この場にひどく不釣り合いな、軽い通知音。

 画面を見れば、ツクヨミの通知だった。

 

 月見ヤチヨのショート更新。

 

 その名前が目に入った瞬間、自分でも分かるくらい、肩の奥の力がふっと抜ける。

 ほんの少しだけ、息がしやすくなる。

 恐らく、今の自分の顔こそがまさにそうであろう。

 

 雅治の視線が、手元へ一度だけ落ちた。

 

「ツクヨミか」

 

「……橘くんもやっているの?」

 

「触ることはある」

 

「それ便利だよね、本当。橘君っていつもそればかりだし」

 

「便利だからな」

 

「便利すぎて、何も分からないのよ」

 

 彩葉は通知を消して、スマホを握り直した。

 

 言いながら、自分でも少しだけ可笑しかった。

 今日の会話は、ずっとそんなふうだ。

 相手は核心を渡さない。

 でも、何も渡していないわけでもない。

 その曖昧さが、雨に濡れた空気みたいに妙にまとわりついてくる。

 

「月見ヤチヨ、好きなのか」

 

「うん。好き

 

 そこはためらわずに言えた。

 むしろ今さら誤魔化す方が変だ。

 

「助かってるの。ほんとに。元気もらえるし、笑えるし……見てる間だけは、「ちゃんとしてなきゃ」っていうのを、一回下ろしてもいい気がするの」

 

 言葉の終わりが、少しだけ曖昧になる。

 喋りすぎたかもしれない。

   お互いに今さら

 

 けれど、雅治はそこにもすぐには何も返さなかった。

 

 ただ、視線だけがわずかに揺れる。

 それだけで十分だった。

 

 だから彩葉も、そのまま続けてしまう。

 

「最近、そこから別のライバーも見るようになったのよ」

 

「ほう。それも少し意外だな」

 

「意外って何よ」

 

「酒寄はもっと、一筋で一本道なタイプかと思っていた」

 

「何それ。私を何だと思ってるの」

 

「少なくとも、寄り道が少ない人間ではあるだろう」

 

「...言い返せないのが悔しい」

 

 小さく笑ってから、彩葉は外の雨を見る。

 煙る景色の向こうへ言葉を放るみたいに、何でもないふうで続けた。

 

シらぬイって知ってる?」

 

 ほんの一瞬。

 雅治の呼吸が止まったような気がした。

 

 けれど、それは気のせいと言い切れる程度の短さで、次の瞬間にはもういつもの静けさに戻っている。

 

「名前くらいは。確か諌山が通り際に見せていたものだったか」

 

「私も真美が騒いでるの見て知ったんだけど、最初はもっと、意味分かんない動画ばかりの変な人だと思ってた」

 

「それこそ変人ではないか」

 

「そこは否定しないんだ」

 

「話を聞く限りでは」

 

 彩葉は少し笑ったあと、声を落とした。

 

「でも、たまに妙にちゃんとしてるのよね」

 

「ちゃんとしてる」

 

「うん。ふざけてるくせに、必要なことだけはちゃんと置いていく感じ。距離はあるのに、雑じゃないっていうか」

 

 そこまで言ったところで、自分の言葉が妙に引っかかった。

 

 雨。

 静かな横顔。

 ちゃんと答えているようで、肝心なところは少し奥にしまっている喋り方。

 見ているようで、見せすぎない距離感。

 

「……あれ」

 

「どうした」

 

「いや、何でもない」

 

「そうは見えなかったが」

 

「見逃してくれないのね」

 

「たぶん、そういう性分だ」

 

 その返しが、妙におかしかった。

 少しだけ困ったように笑って、結局、彩葉は口に出してしまう。

 

「ちょっとだけ、橘君に似てるなって思ったの」

 

「僕に?」

 

「そう。変な人なのに、妙にちゃんとしてるところ」

 

「誉め言葉として受け取っておくべきか迷うな」

 

「半分くらいは誉めてるわ」

 

「残り半分が気になるが」

 

「そこは自分で考えて」

 

 雨音の向こうで、遠くの雷が小さく鳴った。

 空気がわずかに震えて、下駄箱の暗がりが一瞬だけ白くなる。

 

 その光の名残の中で、彩葉はふと口を開いた。

 

「変な話よね」

 

「何が」

 

「二年も同じクラスなのに、私、橘君のこと何も知らないの」

 

 言ってしまってから、少しだけ息を呑む。

 けれど今さら引っ込めるのもおかしかった。

 

 頼りやすい。

 感じがいい。

 真面目で、誠実で、ちゃんとしている。

 そういう印象はいくらでもある。

 

 でも、それは橘雅治という()()であって、中身ではない。

 

「それはたぶん、お互い様じゃないか」

 

 雅治は静かに言った。

 

「そうかも」

 

 彩葉は小さく頷く。

 

「でも、なんかちょっと悔しいのよ。見てたはずなのに、見てた分だけ何も見えてなかったみたいで」

 

 雅治はすぐには返さなかった。

 その沈黙が、流すためのものじゃないと分かる。

 その沈黙が、かえって続きを促してくる。

 

 だから彩葉は、もう半歩だけ、自分のことを渡してしまう。

 

「私ね、勉強とバイトと、...あと推し活で、だいたいできてるの」

 

「だいたい」

 

「だいたい。ほぼそれで回してる」

 

「ずいぶんきっちりした自己紹介だな」

 

「雨宿りのついでにしては十分でしょ」

 

「それはそうだ」

 

「ほんとは、こういうの誰かに話すの苦手なんだけど」

 

 そこまで言ってから、彩葉は苦く笑った。

 

「……なんか、今日はいいかなって。雨のせいかも」

 

「雨は人を黙らせるからな」

 

「しゃべらせてもいるけどね」

 

 言葉が落ちて、また少し静かになる。

 

 雨脚は、ようやく目に見えて弱まり始めていた。

 まだ強い。

 でも、さっきまでの壁みたいな降り方ではない。

 これなら、走るつもりになれば走れなくもない。

 

 それでも今、これまで学校で見せてこなかったものを、少しだけ渡している感覚があった。

 

 その変化に気づいたのは、ほとんど同時だった。

 

 彩葉が時間を確認した、その瞬間。

 

「酒寄」

 

 雅治の声が落ちる。

 

 顔を上げると同時に、彼は手にしていた傘を軽く投げ渡した。

 勢いは弱い。

 ちゃんとこちらが振り向いた瞬間を見て、受け取れる程度の距離と速度で放られたそれを、彩葉は反射的に受け止める。

 

「ちょっと危ないじゃない」

 

 思わず抗議すると、雅治はわずかに肩を竦めた。

 

「普通に手渡しては、遠慮ばかりで碌に受け取らなさそうだろう。いつもの君の姿からして」

 

 その言い方に、彩葉は思わず目を細める。

 

「なんか、今日の橘君っていつものと違わない? こんなに乱暴だったの?」

 

「それこそお互い様だろう。僕も君も、いつもの顔も口調も崩れて久しい」

 

 らしくない。

 雨に感受性でもやられたのか、危うく()の仮面がずれかけていた。

 思わず素の感覚で話してしまったのは、自分だけじゃない。

 それは彩葉の方も同じだった。

 

 いつもの三人娘の中で見せる顔とも違う。

 教室での、隙のない優等生の話し方とも違う。

 さっきから交わしている言葉はどれも、いつもの学校の二人のものではなかった。

 

 それが少し可笑しくて、少しだけくすぐったい。

 

 雅治は外へ視線を向ける。

 さっきまで真っ白だった雨脚が、ほんのわずかに薄くなっている。

 まだ強い。

 けれど、走る気になれば走れなくもない。

 

「使ってくれ」

 

 今度は静かに言う。

 

「明日、返してくれればいい」

 

「……橘君は?」

 

「僕は走る」

 

「本気?」

 

「君よりは向いているとも」

 

 たしかにそうかもしれない。

 体力もある。

 脚も長い。

 多少濡れたところで困らない顔をしている。

 でも、そういう問題でもない気がした。

 

 手の中の傘は、まだ他人の温度を残している。

 

「……ありがとう」

 

「気にしなくていい」

 

「気にするわよ、普通は」

 

「なら、明日少しだけ気にしてくれれば十分だ」

 

「何それ」

 

 また笑ってしまう。

 

 雅治は上着を脱いで、無造作に頭へ被った。

 リュックの位置を直し、濡れることを前提にした、迷いのない動きでひさしの外を見る。

 

「バイト、間に合うといいな」

 

「橘君こそ風邪ひかないで」

 

 すると雅治は一瞬だけこちらを見て、どこか悪戯っぽく口元を緩めた。

 

「善処はする」

 

 言って、ひさしの外へ踏み出す。

 

 次の瞬間には、もう走っている。

 ためらいなく。

 迷いなく。

 雨を真っ直ぐ切って、そのまま灰色の向こうへ消えていく。

 

 彩葉はその場に立ったまま、しばらくその背中を見ていた。

 

 手の中には、橘雅治の傘。

 耳にはまだ雨音。

 なのに胸の奥には、さっきまでとは少し違う静けさが残っている。

 

「……ほんと、何なのよ」

 

 呟いた声は小さい。

 呆れにも似ていたし、感心にも近かった。

 

 二年も同じクラスにいたのに、何も知らなかった。

 なのに、今ので前より少しだけ、分からなくなった気がする。

 

 彩葉は傘を開いた。

 雨粒が布を叩く音が、頭上でまるく広がる。

 

 そのまま一歩、外へ出る。

 バイトへ向かう足は急がなければならないはずなのに、不思議といつもより少しだけ軽かった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 夜。

 

 バイトを終えて部屋へ戻る頃には、雨の匂いはもうかなり薄れていた。

 それでも、玄関を開けた瞬間にふわりと立ちのぼった湿った空気が、今日一日の終わりをまだ完全には乾かしきれていないことを教えてくる。

 

 借りた傘を壁際に立てかけ、濡れた髪をざっと拭いて、彩葉はようやく一息つく。

 水滴が、畳んだ布の先からぽたりと落ちた。

 明日、返さないと。

 

 そう思っただけのはずなのに、脳裏へ浮かんだのは傘そのものじゃなく、下駄箱の薄暗がりと、雨音の向こうで少しだけ崩れた橘雅治の口調だった。

 

 普通に手渡しては、遠慮ばかりで碌に受け取らなさそうだろう。

 

 あの言い方。

 あの軽い皮肉。

 教室で見る「感じのいい橘君」には、あまり似合わないはずの響き。

 

「……何よ、もう」

 

 誰に向けるでもなく小さく呟いて、彩葉は鞄を下ろした。

 

 制服の上着を脱ぐ。

 

 ようやく訪れたいつもの夜。

 いつもの時間。

 勉強の前に少しだけ、気持ちを切り替えるための短い休憩。

 

 髪をまとめていたものを外す。

 肩の力も、ようやく少しだけ落ちる。

 けれど、落ちきる前にスマホが震えた。

 

 画面には、予想通りの名前。

 真美だった。

 

 

『彩葉』

『起きてる!?』

『今夜のシらぬイやばい』

『違う意味でやばい』

『ちょっと見て』

『いややっぱ見なくていいかも』

『でも見て』

 

「どっちなのよ……」

 

 呆れたように呟きながら、彩葉は送られてきたURLを開いた。

 

 配信タイトルを見た瞬間、眉が寄る。

 

 

【夜のSETSUNA散歩】

 

 

 嫌な予感しかしなかった。

 視聴画面が開く。

 いつものように、白シャツ、黒の前掛け、顔の下半分を隠した無声ライバー《シらぬイ》がそこにいた。

 そこまではいい。

 問題は、その手に握られているものだった。

 

「…………」

 

 ()()()()()()()()()()だった。

 いや、正確には巨大Tボーンステーキを模した大槌。

 

 骨の白。

 焼き目のついた濃い褐色。

 脂身の照り。

 肉の断面にあたる部分の妙にジューシーな赤み。

 

 

 武器として見ればどうかしているし、料理として見ればどうかしているし、全体として見ればなおさらどうかしていた。

 

 約束されし旨味の息吹(ジューシー・カリバー)

 

 画面端の名称表示まで、どうしようもなく本気だった。

 

「……またそっちに行くのね」

 

 思わず漏れた声は、半分呆れで半分諦めだった。

 

 しかも今回は、いつもの視聴者参加型一対一カスタムではない。

 

 珍しく、SETSUNAのランダムマッチだ。

 

 つまり、相手は()()()()()()()

 

 ()()()()()していない。

 

 普通にマッチを回していた者も、配信をしていただけのライバーも、ただその時間にそこへいたというだけで、何の覚悟もないまま夜の路地裏にて、照りのいい巨大Tボーンステーキを担いだ無声ライバーの射程圏内へ放り込まれるのである。

 

 コメント欄は当然、開始直後から荒れた。

 

『待って待って待って何でランダム潜ってんの』

 

『今日は辻斬りの日か???』

 

『辻斬りの得物がステーキなの終わってる』

 

『飯テロと暴力を両立するな』

 

『また見た目だけネタで中身ガチだろどうせ』

 

『どうせじゃないんだよなあ』

 

『見た目も中身もガチで終わってる可能性ある』

 

まさしくその予想は、開幕一戦目で正しく証明された。

 

最悪な形に。

 

 

     *

 

 最初の被害者は、配信までしていたライバーだった。

 

 画面の一部に小さく、向こう側の配信も拾われる。

 中堅どころ。

 視聴者数は決して多くないが、堅実にやっているタイプの男で、今夜も淡々とSETSUNAのランクを回していた。

 

『いや今日ちょっと盛りたいんで、静かにやっていきます』

『変なのに当たらなければ勝てると思うんで』

 

 その()()()が、次の瞬間、真正面から現れる。

 

  え?』

 

 男の声が一瞬止まる。

 その視線の先、薄暗い石畳の通路の向こうから、白シャツに前掛け、顔を隠した(シらぬイ)が悠々と歩いてきた。

 

 肩には照りのいい巨大Tボーンステーキ

 夜のマップにあまりにも似合わない、いや、似合わなさすぎて逆に異物として成立している最悪の絵面だった。

 

『え、ちょ、何あれ』

『武器? 食べ物? どっち?』

 

 コメント欄が即座に騒ぐ。

 

『被害者きた』

 

『初見の顔たすかる』

 

『理解不能なナニカを見る顔』

 

『その反応、満点』

 

 シらぬイ(橘雅治)は何も言わない。

 言わないまま、歩幅だけをほんの少し狭めた。

 

 それがまず、気持ち悪かった。

 

 大槌持ちが距離を詰める時の動きではない。

 もっと鈍く、もっと重く、もっと「来るぞ」と見せるはずの間合いの入り方をしない。

 代わりに、まるで刃物持ちの軽量クラスが距離を測るみたいに、相手のステップ幅を先に読んで、その範囲へすっと自分を差し込んでくる。

 

 被害者ライバーは慌てて距離を取った。

 正しい。

 正しいのだが、シらぬイはそれを見越していた。

 

 踏み込み。

 いや、踏み込みというより、滑り込む。

 上体がぶれない。

 肩に担いだ肉塊がまるで重さを持たないみたいに、体の軸と一緒に前へ出る。

 普通なら、そこから大きく振りかぶる。

 大槌とはそういう武器だ。

 見せて、待たせて、避けた先を潰す。

 

 シらぬイは振りかぶらない。

 

 ただ落とす。

 

 肩口から、一切の無駄なく。

 斜めに。

 小さく。

 しかし深く。

 

 巨大Tボーンステーキの焼き目が、被害者ライバーのアバターの肩へめり込んだ。

 

『えっ!? はっや』

 

 男の声が素直に裏返る。

 大槌の一打を食らった時の反応じゃない。

 もっと大振りの予兆があると思っていた相手が、予兆らしい予兆もなく速度だけで差し込まれた時の反応だった。

 

 画面端のゲージが灯る。

 

 焼き加減:レア

 

 焼けた脂が散るみたいな、妙に食欲を刺激するのに圧倒的に不吉なエフェクトが相手へ纏わりつく。

 

『待って待って待って焼けてく焼けてるって!!』

『焼き加減レアって何』

 

『状態異常が料理なの頭おかしい』

 

『まだ火が通ってません、じゃないんだよ』

 

 シらぬイは追わない。

 いや、追っているのに、追って見えない。

 

 被害者ライバーが後方ステップで逃げる。

 もう一歩。

 さらに横へ切る。

 逃げの判断はむしろ悪くない。

 なのに、気づけばシらぬイは、その全部の()()()へ先回りしている。

 

 左へ切ると思わせて右。

 右へ膨らむと思わせて、急停止。

 止まった、と思わせたところから、今度は大槌の腹で小さく押すみたいな一打。

 

 妙だ。

 この武器は重いはずなのに、軌道の切り返しが速すぎる。

 重さを活かしているのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『いや待って動きがキモい』

 

『大槌の間合いじゃねえだろこれ』

 

『持ってる物体と動きが一致してない』

 

 被害者ライバーの配信側でも悲鳴が上がる。

 

『ちょ、待って、待って、意味分かんないこれ』

『何でその重さで止まるの!?』

『うわ、いや、うわっ』

 

 シらぬイは本当に容赦がない。

 容赦がないのに、やっていることが完全にふざけている。

 

 二打目。

 三打目。

 小さく刻む。

 叩き割るのではなく、表面をじわじわ炙るみたいに。

 肉を焼く時にじっくり火を通すみたいな嫌な丁寧さで、相手へ焼き加減を積み上げていく。

 

 ミディアム

 

 表示が切り替わる。

 

 その瞬間、明らかに一撃の圧が変わった。

 

 音が深くなる。

 画面の揺れが重くなる。

 大槌の断面から弾ける脂の粒が、さっきより濃い。

 そして何より、相手の回避が一拍ずつ遅れ始める。

 

 恐怖を覚えたからだ。

 

 次に当たったらまずい。

 ここから先は、ネタの範囲を超える。

 そう体が判断している。

 

 だがシらぬイは、そこで本命を出さない。

 

 わざと外す。

 届く一打を、あと数センチ手前で止める。

 回避の方向へ置けるのに、置かない。

 当てない一撃を何度も見せることで、被害者ライバーの頭の中へ 「次こそ来る」 を植えつける。

 

 恐怖の育て方が、うますぎた。

 

『ひっでぇ』

 

『完全に遊んでる』

 

『遊んでるのに精度高いの最悪』

 

『相手の脳だけ焼いてる』

 

 被害者ライバーの顔が、配信画面の隅でだんだん険しくなる。

 最初の「何これ」ではない。

 理解が追いつかないまま、本能だけで危険を察知した人間の顔だった。

 

『いや無理無理無理、これ何、何が正解!?』

 

 シらぬイはそこで、ようやく見せる。

 

 音声認識字幕がふっと走った。

 

 

   走れ筋肉

 

 

 コメント欄が一瞬止まり、次の瞬間に爆発する。

 

『喋った!?!?!?』

 

『いや字幕起こしかこれ!?』

 

『待って待って待って今なんて言った!?』

 

『筋肉?????』

 

『夜中に何を解放してんだ』

 

 彩葉も、そこで一瞬だけ息を止めた。

 

「え、喋った……?」

 

 いや、正確には喋っていたのだろう。

 ただ、それが今までは事前に用意した字幕やテロップとして処理されていた。

 今回は違う。

 その場で出た言葉が、そのまま文字になって零れている。

 つまり、いつもの几帳面に整えられたシらぬイではなく、熱のままに動くシらぬイが、そのまま漏れている。

 

 だが、それでも不思議と雑には見えなかった。

 

 シらぬイの全身から武器へ、金色の粒が走る。

 大槌の表面の照りが、ぐっと濃くなる。

 

 踏み込み。

 被害者ライバーは反射で横へ切る。

 普通の相手なら正解だ。

 だがシらぬイは、その()()を餌にしている。

 

 最初から横へ逃がすつもりで、正面を圧していた。

 

 横へ流れた相手の回避終点。

 そこへ、肉塊の腹を横から叩き込む。

 潰すというより、押し焼く。

 金色の脂が飛ぶ。

 焼き加減が最終段階へ届く。

 

 ウェルダン

 

『あっ終わった』

 

『終わったな』

 

『中まで火が通った』

 

 被害者ライバーが叫ぶ。

 

『待っ――』

 

 そこで二段目。

 

   滾れ脂ァ

 

 大槌全体が、焼き上がった肉の表面みたいにぎらりと光る。

 相手のアバターへ刻まれていた旨味が一斉に脈打ち、内部から圧を膨らませる。

 

 シらぬイは一歩引いたまま、後ろに振り向く。

 それがまた気持ち悪い。

 普通なら追撃する。

 追撃したい状況だ。

 でもこいつは違う。

 

 もう次に何が起こるか分かっているから、自分の一撃で終わらせに行かない。

 

 見せるために下がる。

 

   弾けろ旨味ィィィ

 

 一度目の爆発。

 

 被害者ライバーのアバターが大きく仰け反る。

 HPが吹き飛ぶ。

 それでもまだ一筋だけ残っている。

 「生きている」と思わせる余白。

 

 そこへ、遅れて。

 

   二重の旨味(ジューシー・バースト)

 

 二度目が来る。

 

 今度は外側じゃない。

 内側だ。

 さっきまで蓄積していた旨味が、アバターの内部から弾けるみたいに、深く、大きく、えげつなく爆ぜる。

 

 被害者ライバーの配信画面で、HPバーがきれいに消失した。

 

『あっ』

 

『死んだ』

 

『じょうずにやけましたー』

 

『おいしそうに死ぬな』

 

『被害者の顔やばいwww』

 

 向こう側の男は、ほんの二秒ほど言葉を失っていた。

 それからマイク越しに、心底信じられないものを見た声で漏らす。

 

『……いや、何これ

 

 それがすべてだった。

 

 彩葉はそこで、とうとう吹き出した。

 

「っ、ふ……」

 

 だめだった。

 今日いちばん笑ったかもしれない。

 意味が分からないのに、意味が伝わる。

 理不尽なのに、理屈だけは通っている。

 おかしいのに、戦闘だけは異様にうまい。

 

 コメント欄は完全に祭りと化していた。

 

『今の反応百点』

 

『被害者配信者、理解不能なナニカを前にした顔してた』

 

『夜中になにしとんだワレェ』

 

『これだからシらぬイはやめられねえ』

 

 

 

     *

 

 

 

 最初の数戦が終わった頃には、今夜の配信の空気はもう完全にいつもと違っていた。

 

 違う理由は、約束されし旨味の息吹(ジューシー・カリバー)の頭の悪さだけではない。

 むしろ本当に火をつけたのは、その直後だった。

 シらぬイの周囲に、焼けた脂が弾けるような金色の粒子が走る。

 

 大槌の表面に浮かぶ照りが、ぐっと濃くなる。

 

 そして画面中央へ、いつもの手打ちテロップではない、生の音声をそのまま文字へ起こしたような字幕。

 

 走れ筋肉

 

 その瞬間(コメント欄が、一拍だけ止まったのである。

 その一拍の静止のあと、次の瞬間には爆発していた。

 

『は?????』

 

『待って今の何』

 

『喋った????』

 

『いや音声字幕!?』

 

『解釈違いです』

 

『無声ライバーが自分から音声字幕使うな』

 

『ルール違反だろそれは』

 

『今までの無声は何だったんだよ』

 

『解釈違いで死ぬ』

 

『ちょっと待てこっちの心の準備が』

 

『無声の掟を自ら破るな』

 

 

 荒れ方が、さっきまでと少し違った。

 ただ笑って騒いでいるのではない。

 古参の一角が、本気で頭を抱えている。

 ずっと無声ライバー・シらぬイを見てきた人間ほど、その一線がどれだけ大きいのかを知っている。

 

 シらぬイは今まで、自分の声を()()()()表に出したことがない。

 

 事前に用意したプラカード。

 決められた字幕。

 整えられた無音の芸。

 それがシらぬイの型であり、掟であり、信仰みたいなものだった。

 

 なのに今夜、そのシらぬイが自分でその線を踏み越えた。

 

 しかも出てきた第一声が、

 走れ筋肉。

 である。

 

 最悪だった。

 彩葉はそこで、笑うより先に呆れて息を止めた。

 

「いや、そっち……?」

 

 もっと他にあるでしょう。

 あるはずでしょう。

 もし本当に()を使うなら、もっとこう、何かあるはずでしょう。

 

 なのに筋肉だった。

 

 コメント欄はもはや阿鼻叫喚だった。

 

『せめてもっとそれっぽいこと言え』

 

『無声配信者の初ボイスが筋肉なの何???』

 

『解釈違いすぎて床転がってる』

 

『今まで守ってきた何かをその場の勢いで壊すな』

 

『いやでも好き』

 

『好きになるな』

 

『好きになっちまうだろこんなの』

 

 だが、シらぬイ(雅治)は当然のように何も説明しない。

 弁明しない。

 

 言い訳しない。

 「今夜だけです」とも言わない。

 「これは演出です」とも言わない。

 

 ただ、そのまま次の獲物へ向かって歩いた。

 

 その態度が、余計に火へ油を注いだ。

 

『待ってちゃんと説明して』

 

『解釈違い起こした視聴者にケアを入れろ』

 

『修整班出動』

 

『荒ぶる修整者たち』

 

『今夜のシらぬイ、マジで危険物』

 

 

 そして、その()()()()ちの中から、ほんとうに何人かがSETSUNAへ潜った。

 

 配信を見ながら同じ時間帯のマッチを回し、

 

「いやちょっと待て」

「今のは違う」

「こっちは心の整理がついてない」

 

 そんな顔のまま、しかし同時に絶対に物申したい気持ちで挑戦状を叩きつける。

 最悪の類友だった。

 

『今から行く』

 

『一発殴らせろ』

 

『解釈違いを起こされた側の怒りを受けろ』

 

『お前のその筋肉発言は許さん』

 

『修整者一号、出る』

 

 その一号は、開始五秒で焼かれた。

 

 まだ怒っていた。

 たぶん本気で怒っていた。

 でも、約束されし旨味の息吹(ジューシー・カリバー)に頬を引っぱたかれ、焼き加減をレアからミディアムへ育てられ、最後は旨味を爆ぜさせられて沈んだ。

 

 字幕が落ちる。

   燃えあがれバーベキュー

 

 修整者一号、爆散。

 

『は??????』

 

『修整者ホームラン』

 

『怒りごと飛ばされた』

 

『説明しないで物理で黙らせるな』

 

『解釈違い勢の扱いが雑すぎる』

 

 二号は、もっと正面から来た。

 剣を振るいながらコメント欄では「まず話し合おう」と言っていたのに、シらぬイは一歩も話し合う気がなかった。

 

 肉塊で受ける。

 骨の柄で流す。

 そのまま肩口へ押し込む。

 焼き加減が上がる。

 

 距離を取ろうとしたところへ、今度は武器の断面で真横から殴り抜く。

 

 壁へ激突。

 脂が弾ける。

 字幕。

   いい音だな

 そのまま二号もホームラン。

 

『喋るな!!!!』

 

『そこ喋るな!!!!』

 

『今の一番だめだろ』

 

『解釈違い勢をホームランしながら追い打ちで音声字幕入れるな』

 

『こっちの情緒が死ぬ』

 

 三号は、もう完全に半笑いで入ってきた。

 怒りたいのか、笑いたいのか、自分でも分からなくなっている夜の視聴者特有のテンションだった。

 

 当然のように焼かれた。

 

 四号も。

 五号も。

 六号も。

 解釈違いを起こされた視聴者たちの怒りは、等しくTボーンステーキの錆――いや、旨味へ変わっていった。

 

 千切っては投げ。

 千切っては投げ。

 修整者だろうが被害者ライバーだろうが、SETSUNAにいる以上は同じだった。

 

 理不尽で、自由で、破天荒な嵐が、何もかもをぶっ壊していく。

 

 それでもコメント欄から人が消えないのは、

 この破壊の中にちゃんと「笑ってしまう何か」が残っているからだった。

 

 そんな中でも、折れずに現る解釈違いに癇癪を起こした修正者軍団(視聴者)の残党。

 その七号だった。

 

 彼は先ほどの開幕戦の時から苛立っていた。

 いや、正確には苛立つことでしか自分を保てない類の相手だった。

 

 そして、巨大Tボーンステーキを模した大槌――《約束されし旨味の息吹(ジューシー・カリバー)》を見た瞬間から、もう駄目だったのだろう。

 シらぬイが構えるより先に、得物(ガンブレード)を構えながらシらぬイの存在そのものへ噛みつくような勢いで突っ込んでくる。

 

 だが、シらぬイはまともに受けなかった。

 

 半歩。

 また半歩。

 ぬるりと滑るように横へ流れ、すれ違いざまに肉塊じみた槌頭を肩口へ擦らせる。

 次の瞬間にはもう反対側。

 さらに一歩。

 もう一歩。

 

 気がつけば、シらぬイは七号を中心に、円を描くように高速の横ステップを繰り返していた。

 

 右。

 左。

 右。

 また右。

 残像が一瞬遅れて視界へ貼りつき、肉の照りばかりが妙に目につく。

 まるで巨大Tボーンステーキが意思を持って周囲を旋回しているみたいな、最悪の光景だった。

 

 七号が焦れて振り向く。

 そのたびに、もうそこにはいない。

 

 視界の端。

 真後ろ。

 斜め前。

 横滑りするような異様な機動で、シらぬイはじわじわと相手の認識を削っていく。

 

 そして、画面中央へ唐突に字幕が流れ始めた。

 

「「「「「「ha,ha,ha,ha,ha,は,は走れ筋肉ぅ,,u,u,u,u,u

 

 七号の動きが止まる。

 

トゥーへぁーちゃんと食べる方が続きますトゥーへぁー

レロレロレロレロレロレロ

WRYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY

オラァオラァオラァオラァオラァオラァオラァオラァ

無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄

 

 音声認識の自動字幕に見せかけた、どう見ても悪意しかないフェイクテロップの嵐。

 

 意味が分からない。

 文脈もない。

 統一性もない。

 あるのはただ、「理解しようとするほど脳が滑る」という最悪さだけだった。

 

「ジューシー」「ジューシー」「ジューシー」  「 Full Charge

 

 しかも、しれっと打撃時のエフェクトと字幕すら律儀にそれっぽく変えている完成度の高さ。

 すれ違いに当てたことで溜まる旨味(爆弾)

 

 コメント欄が崩壊する。

 

『なんだこれ』

 

『字幕が狂ってる』

 

『音声認識壊れた???』

 

『いや絶対わざとだろこれ』

 

『SAN値攻撃やめろ』

 

『相手の顔が完全に理解不能なナニカを見る顔』

 

 七号はとうとう苛立ちを通り越して混乱した。

 照準が甘くなる。

 踏み込みが雑になる。

 目だけがシらぬイを追い、身体がついていかない。

 

 そこへ、シらぬイが初めて真正面から踏み込んだ。

 

 肉の表面を焼くような金色の粒子が槌頭へ走る。

 これまで打ち込まれていた旨味が、相手の内部で限界まで膨れ上がっている。

 

 振り上げる。

 叩き込む。

 

 爆ぜる。

 

 一度目の爆発で七号の体勢が崩れ、遅れて二度目が内側から弾けた。

 真の旨味は二度はじける。

 

 相手のHPがきれいに消し飛ぶ。

 

 最後に画面へ静かに出たのは、もはや料理番組の締めみたいな一文だった。

 

 「よく焼けました。」

 

 七号はそのまま、理解不能のまま沈んだ。

 

 これで8匹目(キール)

 

 画面の向こうでは、焼けた脂みたいな金色の粒子がまだぱちぱちと弾けていた。

 巨大Tボーンステーキの照りだけが、妙に艶めいて残っている。

 勝敗表示が出るまでのほんの数秒、配信画面には奇妙な静寂があった。

 

 いや、静寂というのは正しくない。

 正しくは、誰もすぐに言葉へできなかっただけだ。

 

 何を見せられたのか。

 何をされたのか。

 何で巨大な肉塊を振り回している側が、こんなに無駄なく強いのか。

 しかも最後の最後で、料理番組みたいな顔をして「よく焼けました。」などと締めたのか。

 

 理解が追いつかない。

 追いつかないくせに、目だけは逸らせない。

 

 その数秒遅れの困惑が、次の瞬間にはそのままコメント欄の雪崩になった。

 

 流れる。

 荒れる。

 叫ぶ。

 笑う。

 呆れる。

 でも誰も、配信画面からは離れない。

 

『情緒が焼けた』

 

『まさかのボイスフィッシングならぬ字幕フィッシングかよ』

 

『でも笑う』

 

『くやしいけど笑う』

 

『こいつ絶対それ分かってやってるだろ』

 

『分かってなきゃここまで本気で巫山戯られない』

 

 彩葉は、そこでその言葉に少しだけ引っかかった。

 ――こいつ絶対それ分かってやってるだろ。

 

 そうなのだと思う。

 

 ただ暴れたいわけじゃない。

 ただ目立ちたいわけでもない。

 ただ勝つためだけに暴れているなら、もっと効率のいいやり方はいくらでもある。

 だがシらぬイは、効率だけではなく印象を取りにきている。

 

 何をされたか。

 どんな武器でやられたか。

 どんな字幕が出たか。

 どれだけ意味が分からなかったか。

 

 その全部を、相手の脳へ無理やり焼き込む。

 

 もっと鮮明に。

 もっと強く。

 もっと忘れられない形で。

 

 そうすればきっと、この夜は少なくとも忘れない。

 忘れない記憶の中には、ときどき笑ってしまうようなものだってある。

 

 言葉にしないまま、シらぬイはそれをやっていた。

 

 人の感情は、案外しぶとく残る。

 強烈で鮮明なものほど、長く。

 

 故に、全力でふざける。

 故に、全力で記憶に残す。

 故に全力で、誰かの口元を少しでも緩ませるために。

 

 それが、気味が悪いほどまっすぐだった。

 

 そのためなら、無声ライバーの掟だって、その夜だけは平然と踏み越えてしまう。

 

 必要なら自分の型すら壊してみせる。

 そこまで本気なのが、少しだけ怖かった。

 

 そしてたぶん、少しだけ格好いいと思ってしまった。

 

 挑戦者は尽きない。

 むしろ増えていく。

 

『次俺いく』

 

『今から潜る』

 

『旨味にされに来た』

 

『いや俺ならいける』

 

『同類しか増えてなくて草』

 

 類友だった。

 真正面から挑戦状を叩きつける視聴者が増えるたび、コメント欄は歓声と悲鳴で埋まっていく。

 そしてそのほとんどが、きれいに焼かれて沈んでいった。

 

 彩葉はベッドの上で何度も肩を震わせた。

 真美が半分酸欠状態に落ちいながらも、より大きい画面を探し出す。

 芦花も零した飲み物を拭きながらも目を離さない。

 

 呆れているのに、笑っている。

 笑っているのに、画面から目が離せない。

 

 夜はどんどん更けていく。

 でも配信は終わらない。

 むしろ最後に向かって、熱だけが増していく。

 

 焼かれ。

 弾け。

 ホームランに打たれ。

 

 四九もののアバターがそのままTボーンステーキの出汁へと散っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

     *

 

 

 

 

 

 時間も真夜中を通り過ぎて2時に迫る。

 

 そして、今宵の最後の一人が現れた。

 

 マッチング成立の短い音。

 暗転。

 

 夜のSETSUNAの路地裏(マップ)に、二つの影が読み込まれる。

 

 ここにて一層、コメント欄がざわつく。

 いつもの馬鹿騒ぎとは少し違う、認識の共有に近いざわめきだった。

 

『あ』

 

『来た』

 

『最後にこいつか』

 

アサKURA(アサクラ)ニキオッスオッス』

 

『終わったかもしれん』

 

『いや始まったわ』

 

 新たな挑戦者の名前を見ても、彩葉には意味が分からない。

 だが、今までの「また被害者か」「今夜も地獄」の騒ぎ方とは違うことだけは分かった。

 コメント欄のざわめきは、面白がっているだけのものじゃない。

 

 古い観客が、知っている劇の幕が上がる時みたいな息の呑み方をしている。

 

 相手のアバターもまた、明らかに異質であった。

 

 金髪。

 ヘビ柄のジャケット。

 片手に提げたサーベル。

 細身なのに、立ち方だけで危険だと分かる

 

 試合開始まで残り数秒。

 その首が、ぐるりと一度だけ回る。

 サーベルの切っ先が地面へ擦りつけられ、石畳を嫌な音で引っ掻いた。

 

『出た出た出た』

 

『社会人の檻が降りた』

 

『勤務中は礼儀正しいのにゲームだとこうなる男』

 

『浅倉憑依モード入った』

 

『修整者とか被害者とかそういう段階じゃなくなった』

 

『真打登場』

 

 

 アバター名、アサKURA(アサクラ)

 古参視聴者の一人。

 サーベル使い。

 読み合いからの斬り返しと、斬り結びの最中に格闘(蹴り)を混ぜ込む剣戟が得意なプレイヤー。

 

 厄介なのは強さだけじゃない。

 知っているのだ。

 シらぬイが、見た目で油断を誘い、その油断ごと刈り取る人種であることを。

 

 だから初見殺しは通じにくい。

 ネタ武器の圧も、意味不明な字幕も、ある程度までは織り込み済みで来る。

 

 そしてシらぬイも、そのことを当然知っている。

 

『ラスボス来た』

 

『シらぬイに慣れてる側の被害者候補』

 

『いやむしろ加害者側だろこいつ』

 

『どっちにしろ地獄』

 

 

 

 

 

 そして、試合開始。

 だが、どちらも動かない。

 ただ、路地の真ん中に立って、互いの癖と間合いを測る。

 

 シらぬイの手には《約束されし旨味の息吹(ジューシー・カリバー)》。

 両手持ちの巨大大槌。

 見た目だけならふざけきっている。

 だが、ここまで四十九人を辻焼き(つじやき)してきた時点で、もはやこの武器がただのネタで片づかないことは誰の目にも明らかだった。

 

 アサKURAが先に動いた。

 

 歩く、ではない。

 回る。

 サーベルの切っ先を地面へ擦りつけながら、金属音を引きずって、ゆっくりと円を描く。

 

 蛇が獲物の周りを這うような回り込みだった。

 首がまた一度、ぐるりと回る。

 サーベルの切先が石畳を撫で、嫌な火花を散らす。

 

『うわ、やりやがった』

 

『完全にそのまんまじゃねえか』  

 

『夜中に浅倉威すな』

 

『あーもうこれ絶対ろくでもない試合になる』

 

 シらぬイは踏み込まない。

 あえて正面を向けたまま、約束されし旨味の息吹(ジューシー・カリバー)を肩に担ぎ、ほんの少しだけ重心を落とす。

 

 アサKURAが消える。

 

   いや、消えたように見えるほど踏み込みが鋭かった。

 

 サーベルの間合いは長い。

 そこへ蹴りの射程まで混ざる。

 踏み込む一歩が深く、退く一歩が軽い。

 読み合いでわずかにでも置く動きを見せれば、その外側から斬り返される。

 

 最初の火花が散った。

 

 シらぬイが大槌を振り下ろす。

 アサKURAはその外へ逃げない。

 むしろ踏み込む。

 大槌の懐へ潜り込むように入り、サーベルの刃を立てたまま、シらぬイの手首と柄の間へ滑り込ませる。

 

 斬り上げ。

 直後、蹴り。

 

 サーベルで開いた軌道へ、そのまま膝と足先が流れ込んでくる。

 剣と格闘が一つの連続動作になっていた。

 

 それに対するお返しのごとく  

 

     シらぬイも一歩大きく踏み出しながらの、あえて大振り。

 あえて分かりやすい軌道。

 「そうそう、こういうのを読んでるんだろう」と言わんばかりに、古参の慣れを逆手に取る。

 

 アサKURAがそれを見切る。

 軽くかわす。

 カウンターを入れに踏み込む。

 

 その瞬間。

 

 シらぬイが大槌を()()()()()

 

 いや、違う。

 持ち直したように見せて、柄の途中で手を滑らせ、重心の位置だけをずらしていた。

 そのズレた重心から繰り出された二段目の振り戻しが、常識より半歩深いところへ届く。

 

 だが直後に、シらぬイが半歩退く。

 そして、大槌の腹で蹴りを受ける。

 

 まるで鞭のようにしなる高速の蹴り。

 

 だが、そこで終わらない。

 アサKURAは足を引かず、受けられた反動ごと回転へ変え、今度は逆側から首筋を薙ぎに来る。

 

 最初の空気から違った。

 

 前の相手たちも画面越しで「何だこれ」と戸惑っている。

 

 息をする間もなく行われるは攻守の嵐。

 

『うわ上手い』

 

『これよこれこれ』

 

『斬り結びの途中に蹴り入るのほんと気持ち悪い』

 

『ステーキ相手にチャンバラしてんの絵面終わってるのに内容ガチ』

 

 シらぬイも引かない。

 

 大槌の柄を短く持ち替え、肉塊の断面を無理やり近接用の壁みたいに差し込む。

 骨の白い柄に沿ってサーベルが滑る。

 金属音。

 脂の照りを模した外装へ火花が弾け、焼き目の表面をなぞる。

 

 斬り結ぶ。

 押し合う。

 そこへ互いに体重を預ける。

 普通の大槌使いなら、ここは不利だ。

 重さがあるぶん、近すぎる距離では操作の自由が落ちる。

 

 だがシらぬイは、そもそもこの距離を嫌がらない。

 

 柄を押し込む。

 肉塊の厚みで押す。

 押しながら、踏み込みの角度だけをずらす。

 わずかに外れた軸へ、今度は大槌の下端を蹴り上げるみたいに使って、アサKURAの剣筋を押し上げる。

 

 そこへ、短い一打。

 

 大振りではない。

 ただ、近距離で肉の塊を相手の肋へ()()

 

 挑戦者の反応が間に合う。

 間に合うが、受けるしかない。

 

 鈍い音。

 焼け脂みたいな粒が散る。

 受けた時点で、焼き加減が入る。

 

  レア

 

『うわ、入った』

 

『でもまだ浅い』

 

『さすが上位は簡単に焼けねぇってことか』

 

 挑戦者は強い。

 強いからこそ、逃げない。

 逃げるより、()()()()()方を選ぶ。

 

 一瞬、アサKURAが笑ったように見えた。

 実際には表情なんて細かくは読み取れない。

 けれど、動きがそう言っていた。

 

 面白い。

 もっと来い。

 そういう圧だった。

 

 首がまた回る。

 ぐるり。

 サーベルの切っ先が石畳を引っ掻く。

 そこから急加速。

 

 斬り込む。

 払う。

 蹴る。

 戻る。

 また入る。

 

 槌の腹と柄で斬撃をいなし、蹴りの勢いを受け流す。

 

 絶えずに再び詰めよるアサKURA。

 回る。

 横を取る。

 シらぬイの鈍器の死角へ入ろうとする。

 

 その判断そのものは正しい。

 だが、シらぬイの気持ち悪さは、正しい判断を正しいまま狩るところにある。

 

 肩の高さから肉塊が消える。

 落ちた? 違う。

 沈めたのだ。

 低く。

 足元へ。

 そこから、床を擦るみたいな軌道で掬い上げる。

 

 巨大Tボーンステーキでやる動きではない。

 

 アサKURAの足元を払う。

 体勢を浮かせる。

 そこへ着地を狩る一打。

 

  ミディアム

 

『うわぁ』

 

『足元いった』

 

『その見た目で足払いするな』

 

『気持ち悪さが増してきた』

 

 アサKURAはそこで初めて後ろへ下がった。

 

 たった一歩。

 でも、その一歩は()()だ。

 つまりもうすでに、シらぬイのテンポへ足をかけている。

 

 シらぬイはそこを逃がさない。

 

 追わない。

 すぐには追わない。

 むしろ立ち止まり、肉塊を肩に戻し、わざと「次どうする?」の間を置く。

 

 挑戦者(チャレンジャー)が迷う。

 詰めるか。

 引くか。

 スキルを切るか。

 その思考の濁り、たった一拍。

 

 

 

 

 

 

 

    ならば、それすらも絡み取り、噛み砕くだけ

 

 

 

 

 

 

 もう一度走り出す。

 

 先程と同じヘビを連想させる動き。

 だが、注目すべきは速度ではない。

 テンポが先程とは()()なのだ。

 剣で一。

 蹴りで半。

 その半歩の()()()が、これまでの攻防でのリズムだった。

 

 しかし、今のは違う。

 

 斬る、蹴る、避ける、踏み込む。

 一拍と半拍。連続の半拍。あえて一拍を速めるかズラせる。

 不協和音ならぬ、予測不能の変拍子のラッシュ。

 そして、ついにシらぬイの大槌の起動と噛み合わない位置へ刺さる。

 

 シらぬイの肩が切れる。

 脇腹に浅い蹴りが入る。

 今夜ここまでほとんど一方的に焼かれてきた相手たちとは違う。

 珍しくも互いに攻守が噛み合い、まともなチャンバラが成立していた。

 

 コメント欄が沸く。

 

『うわノーヒット崩れた』

 

『さすがアサKURA』

 

『ステーキvsサーベルでここまでちゃんとした剣戟になるな』

 

『いやならんだろ普通』

 

 

 彩葉は、そこでようやく息を詰めていたことに気づいた。

 

「……すご」

 

 呆れでも笑いでもなく、今の一瞬だけは純粋にそう漏れた。

 見た目は完全に悪ふざけなのに、やっていることはどうしようもなく本物だ。

 

 アサKURAがさらにギアを上げる。

 

 首を回す。

 肩を落とす。

 剣先を地面へ擦る。

 そのまま、ほとんど滑り込むような低姿勢から切り上げた。

 

 狙いは利き腕。

 約束されし旨味の息吹(ジューシー・カリバー)を支える右側だ。

 

『やば』

 

『そこ行くか』

 

『利き腕だ』

 

『浅倉だなあ』

 

 だがシらぬイは、その一撃を()()()()()

 

 いや、もっと正確に言うなら、

 

 

 

 

 

    来てほしかった

 

 

 

 

 右半身をわずかに()()

 致命傷にはならないが、明らかに通る角度。

 あまりにも露骨な隙。

 上位ランカーなら逆に警戒する。

 だがアサKURAは、その奥に踏み込むタイプだ。

 罠と知っていても、噛み砕けるなら噛みに行く。

 

 だから『来る

 

 サーベルが走った。

 

 鋭い。

 迷いがない。

 肩口から右腕が持っていかれる。

 アバターの関節ごと、きれいに飛ぶ。

 

 コメント欄が爆発した。

 

『うわあああああ』

 

『腕いった!!!!』

 

『やりやがった!!!!』

 

『そこ差し出したのかよ』

 

『気持ち悪っっっ』

 

 彩葉が息を呑む。

 

「ちょ……!」

 

 だが、その次の瞬間。

 シらぬイは倒れない。

 

 右腕を失った反動で、むしろ前へ沈む。

 その落ちる軌道を利用して、一気に踏み込んだ。

 

 アサKURAの姿勢が、ほんのわずかに崩れる。

 利き腕を切り飛ばした手応えで、体重が前へ乗りすぎた。

 その一瞬を、シらぬイは一秒も残さず拾う。

 

 右脚が跳ね上がる。

 

 高い。

 異様に高い。

 そのままアサKURAの首へ絡みつく。

 

「え」

 

 彩葉の口から、素で声が出た。

 

 

 

 

 

フライング・ヘッドシザース

 

 

 

 格闘技じみた挟み込み。

 だがただの足技じゃない。

 シらぬイは失った右腕の代わりに、残った全身の体重をその一瞬へ叩き込んでいた。

 

 首へ脚を絡めたまま、勢いで捻る。

 アサKURAの上体が持っていかれる。

 バランスを崩す。

 耐える。

 それでも耐え切れない。

 そのまま押し倒される。

 

 うつ伏せに近い体勢で、石畳へ叩きつけられるアサKURA。

 その背中へ、シらぬイが乗る。

 

 マウント。

 

 右腕はない。

 それでも残った左腕だけで、約束されし旨味の息吹(ジューシー・カリバー)を持ち上げる。

 いや、持ち上げるというより、押し立てる。

 骨の柄を支点に、巨大Tボーンステーキを背中へ突き立てるみたいに。

 

    ウェルダン

 

 そしてコメント欄が沸騰する。

 

『来たーーーーーー』

 

『おい待て』

 

『その体勢はまずい』

 

『ゼロ距離だぞ』

 

『自爆する気か!?』

 

 シらぬイの字幕が走る。

 

   走れ筋肉

 

 残った片腕だけで、なお武器がぶれない。

 狂っている。

 

   滾る脂

 

 アサKURAの背中へ、旨味が連続で刻まれる。

 一発。

 二発。

 三発。

 近すぎる。

 もはや叩くではない。

 押し込む。

 埋め込む。

 焼き目のついた肉塊を背骨へ押し当てたまま、旨味だけを染み込ませていく。

 

 逃げ場がない。

 距離もない。

 見た目は間抜けな肉塊なのに、やっていることは完全に処刑だった。

 

 アサKURAが暴れる。

 

 蹴る。

 肘を上げる。

 首を抜こうとする。

 だがシらぬイは乗ったまま離れない。

 離れないどころか、あえて自分ごと爆心地へ残る位置にいる。

 

 コメント欄が絶叫する。

 

『ゼロ距離やめろ!!!!』

 

『それ自他諸々終わるやつだろ!!』

 

『満身創痍で何してんだこいつ』

 

『最後の最後で一番頭おかしいことしやがった!!』

 

 字幕。

 

 

 

   爆ぜ(はじけ)ろ旨味ー!!!!

 

 

 

 一度目の爆発。

 

 至近距離。

 逃げ場なし。

 アサKURAの背中から、旨味(爆炎)が派手に吹き上がる。

 画面全体が揺れる。

 シらぬイ自身のHPまで巻き込んで削る。

 

 それでも、まだ終わらない。

 

 

   二重の旨味(ジューシー・バースト)ー!!!!

 

 遅れて二度目が来る。

 

 連続で。

 連鎖して。

 背中に染み込ませた旨味が一斉に弾ける。

 

 爆発。

 爆発。

 爆発。

 

 アサKURAの体力が、今度こそ完全に消し飛ぶ。

 その巻き添えでシらぬイのHPも瀕死まで削れる。

 画面の端に残った体力は、もはや息をしているのが不思議なほど細い。

 

 けれど勝敗表示は、もう出ていた。

 

 

   勝者  シらぬイ

 

 連続五十人辻焼き

 達成だった。

 

 コメント欄は完全に壊れた。

 

『うわあああああああ』

 

『焼いた!!!!』

 

『丸焼きだ!!!!』

 

『最後の最後で自爆特攻すな』

 

『瀕死で勝つの芸術点高すぎる』

 

『アサKURAすら旨味にされた』

 

『夜中になにしとんだワレェェェェ!!!!!』

 

『芸術点高すぎて腹立つ』

 

『これだからシらぬイはやめられん』

 

 画面の中で、右腕を失ったままのシらぬイが、約束されし旨味の息吹(ジューシー・カリバー)を地面へ立てて、ほんの少しだけ体を預ける。

 

 満身創痍。

 瀕死。

 なのに、その立ち姿だけは妙に静かだった。

 

 いつものように、事前に用意した一言のテロップが流れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   計画通り

 

  某超悪人面の画像を顔に張ったままで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その一言で、彩葉は完全に堪えきれなくなった。

 

 それだけだった。

 

 余計な勝利宣言もない。

 煽りもない。

 計画通り。

 ただ、その一言だけを残して配信は途切れる。

 

 時刻は、初夏の深夜二時だった。

 

 部屋の静けさが戻る。

 けれど彩葉の胸の奥では、まだ旨味と雨音と笑いの残り火が、じんわりと混ざって燻っていた。

 

 そして彩葉は、とうとう笑いを堪え切れなかった。

 

「っ、ふ……ほんっとうにや、やだ、もう……っ」

 

 肩が揺れる。

 おかしい。

 意味が分からない。

 なのに、最後の最後まで本気すぎて、もう笑うしかない。

 

 笑いすぎて息が乱れる。

 目尻に少し涙まで滲む。

 昼間、雨の下で少しだけ柔らかく揺れた心の上へ、今度は容赦なく意味不明な馬鹿が全力で叩きつけられている。

 

 なのに、それが嫌じゃない。

 嫌じゃないどころか、むしろ少し救われている。

 

 全力で巫山戯る。

 全力で笑わせる。

 全力で、人の記憶へ焼きつくような馬鹿をやる。

 

 勝つためだけじゃない。

 強さを見せびらかすためだけでもない。

 見た誰かの中に、少しでも鮮明な何かを残すために。

 できるなら、その口元が少しでも緩むように。

 

 シらぬイは、そんなふうにしか見えなかった。

 

 画面の向こうでは、まだ次を求めるコメントが流れている。

 けれど最後の挑戦者を丸焼きにしたあと、シらぬイはほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 白シャツ。

 前掛け。

 顔の見えない無声の男。

 その手にはまだ、巨大Tボーンステーキ。

 

「……ほんと、変な人」

 

 彩葉は笑いの余韻を含んだまま、そう呟く。

 呆れたようにそう言っても、声はもう少しも硬くない。

 

 壁際には、借りた傘がまだ立てかけられている。

 昼の雨。

 夜の暴走。

 どちらも今夜のうちには、たぶん忘れられそうになかった。

 

 

 そして翌日。

 橘雅治の体温は、いつもより一度だけ高かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




二人きりになったからと言ってマジでアクセルで踏み込んできた主人公。
 今日はやけによーくしゃべらっしゃる。

本当は原作にはいってから雨の中で二人きりになってあおはるしているのを描き出したかったが、これはこれでありだな。
互いにもっとうまくできる方法なんて、手段なんていくらでもあるのに、と見えているしそう言っているけど、どっちもどっちなんですね。

作者のみが知っていては隠しに隠していても、読んでいる人にはそんなもん知らねーし状態になるからむしろいい機会。

でも、こう、いろいろ説明して僕なりの解釈とかダラダラと解き明かしたくなるけど、ここはあえてお口チャックならぬお指チャックということで。


福岡の帰りで思いついたネタをカフェインが入ったことによってアクセル全快した頭がフィルターをかけずにそのまま書きました。
 帰りのバスの中でボー〇ボ見るんじゃなかった。

昼パートと夜パートの前後分けにしてほしい?

  • 雰囲気の違いがあれだ。一度分けるべし。
  • シリアスとギャグの部分だけ分けてほしい。
  • 文字数が多すぎるから何回か分けるべし。
  • このまま作者の好きにしてもかまわない
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