今日も正常営業。ただし“そういうとこ”を添えてー   作:火力万能主義

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いっつもお読みいただきありがとうございます!
そして祝UA4550突破とお気に入りが165名となりました!
みなさんのおかげです。これからも頑張っていきたいんでどうか、これからもお付き合いくださいませ!


前回の最後にも一言言及しましたが、前回までの時間軸は初夏、つまり5月になっています。

*雅治の口調に不一致があったので呼び方を修整しました。
原作でのお迎えが9月、そして原作の内容がおよそ2か月と少し(原作でかぐやチャンネルの活動時期についてそのような言及があったと記憶しています)
なので、ようやく夏に入って夏制服に変わったということで。原作アニメではなかった制服の上着は、まだ夏服に変わる前だったからのブレーザーかなにかを羽織っていたことにしてください。
自分でも読んでいて原作じゃみんな白シャツじゃなかったっけと思い出してタイムラインをもう一度1話から計算しなおしました(汗)

 しかし原作までに実に長かったー!
 今日もまた2万字超えで書きかけたのをようやく形にできましたが、やはり長い(笑)
 でもこれが僕のスタイルなんだから、これからも頑張って長くても面白い文を書き続ける使命と義務があるッ!
 人によってはやりすぎたのかもだが、ここは割り切って進むしかない!


あとがきにもいろんな作者からの知らせやお伝えしたいことがありますので、読み終わった後にでも読んでくださったら幸いです。今日は思いついたオマケNGシーンも込みですのでお見逃しなく。

では、いよいよ原作に突入する第六話ですどうぞ!

*最後の描写を一部変更しました。大きな違いはありませんが、次回の内容のために描写を統一させた程度ですので誤差とおもってくださぁい!


第六話 始まりはいつも突然、突如にして突飛

第六話 始まりはいつも突然、突如にして突飛

 

 

 

 あれから一か月。

 

 いろんなことがあったと言えば言えるし、なにもなかったと言われればそうとも言える。

 そんな一か月だった。

 

 あの日の翌日、傘はきちんと返してもらった。

 それからは、朝の挨拶が増えた。

 昼休みに諌山真美と綾紬芦花と酒寄彩葉が騒いでいる輪の端へ、僕がいても前ほどの不自然ではなくなった。

 移動教室のついでに少し言葉を交わし、放課後に廊下ですれ違えば、何かしら一言二言は話すようになった。

 

 近づいたのだと思う。

 少なくとも、以前よりは。

 

 もっとも、その()()()()というのも、恋だの友情だのと、綺麗な言葉をすぐにあてがえるものじゃない。

 気づけば視界の中にいる。

 気づけば位置を把握している。

 気づけばあの三人娘の輪の中へ声をかけられた時、身構えずに返せている。

 

 それだけだ。

 

 たったそれだけのはずが、僕にとってはあまりにも珍しかった。

 いや、むしろ僕の思っていたよりもずっと、大きかった。

 

 シらぬイは、誰かを笑わせるためだけに始めたものじゃない。

 

 もちろん、笑われるのは嫌いじゃない。

 コメント欄が荒れ、呆れたみたいに笑われて、何だそれと騒がれて、意味の分からないものを見た顔が並ぶのは嫌いじゃない。

 でも、それはたぶん結果でしかない。

 

 始まりはもっとくだらなくて、もっと切実だった。

 

 できて当たり前。

 努力して当たり前。

 我慢して当たり前。

 

 そう言われるたびに喉の奥がざらついたのは、言葉そのものが厳しかったからじゃない。

 その言葉を寄越すのが、他でもない家族だったからだ。

 

 

 ――お前は()()()()なんだから、できて()()

 ――皆やっている。我慢するのは当たり前だ。

 ――家の名を背負う以上、お前一人の気分で逃げるな

 

 不意に蘇る声は、いつだって大きくはない。

 怒鳴られていたわけじゃない。

 今になって見れば、あれはきっと父なりの正しさで、父なりの期待で、父なりの愛情ですらあったのだと、頭では思う。

 

 ただ、それだけだ。

 

 頭で分かることと、心で受け入れることは別だった。

 そして自分は、そのあいだに横たわる溝を埋めるつもりがない。

 

 あの人にも事情はあったのだろう。

 あの人なりに守ろうとしたものも、譲れなかったものもあったのだろう。

 けれど、それで自分が削られた事実まで薄まるわけではない。

 

 理解はする。

 だが、納得はしない。

 分かる。

 それでも、受け入れない。

 

 家族だけは、と思っていた。

 家の外がどうであれ、学校でどれだけ息が詰まろうと、最後に帰る場所だけは自分を見てくれるのだと、何度も、懲りずに思ってしまっていた。

 

 だから「本家」を家と呼ぶ気にはもうなれなかった。

 あれを「家族」なんていう温かい言葉で飾れるほどのものだとは、もう思えなかったからだ。

 

 何度外れても、その期待だけはしつこく心の底に残った。

 けれど、返ってくるのはいつも同じものだった。

 僕ではなく、家の名

 僕の痛みではなく、守るべきしきたり

 僕の声ではなく、皆そうしてきたという古びた正しさ。

 

 そのたびに、期待したぶんだけ、静かに何かが削れていく。

 

 ()()()を境に、そのひび割れは、もう見て見ぬふりでは済まないところまで壊れた。

 だから今さら、父が本当は何を思っていたのかなんて知ろうともしない。知りたくもない。

 知ればまた、家族だけは違うのだと、あの人にもあの人なりの事情があったのだと、期待する余地を自分の中へ残してしまいそうだからだ。

 

 あの家に対して残っているのは、怒りというより、もう関わりたくないという静かな拒絶だけだった。

 今さら手を伸ばして、家族ごっこをやり直す気はない。

 あれを家族という名の温かさで包み直してしまえば、壊れた時の痛みまで裏切ることになる気がしたからだ。

 

 だから、自分はそこで終わらせた。

 向こうにどれだけ言い分があろうと、こちらからそれを拾いに行くことは、もうない。

 

 だから、抜け出したかった。

 けれど、あの時の自分を突き動かしていたものは、それだけじゃない。

 ただ自由になりたかった、というだけでは、たぶん少し足りない。

 

 自由でいたい。

 縛られたくない。

 決められた型へ押し込められたくない。

 それは確かに本音だ。

 

 けれど、それだけなら、もっと静かな逃げ方だってあったはずだった。

 黙って離れるとか、目立たない場所へ隠れるとか、誰にも見つからないまま、最初からいなかったみたいに消えていくとか。

 

 でも、それは嫌だった。

 

 ただ抜け出すだけでは足りない。

 ただ見えなくなるだけでは意味がない。

 の中からこぼれ落ちたまま、誰にも気づかれず、何ひとつ残さず消えていくのは、たぶん本家に吞まれるのと別の形で同じだった。

 

 何でもいいから、跡を残したかった。

 

 誰かの記憶の中に、引っかき傷みたいに残ればいいと思った。

 意味が分からないでもいい。

 悪目立ちでもいい。

 変なやつだった、頭がおかしかった、二度と見たくない、でも忘れられない――その程度でよかった。

 

 そういう形でしか、自分が確かにここにいたのだと信じられなかった。

 

 皆の中の一人じゃない。

 誰にでも置き換えのきく歯車でもない。

 ちゃんと一度きりの自分()として、この世界に引っかいた跡があるのだと、どこかで証明したかった。

 

 だからシらぬイは、最初から少し歪んでいる。

 

 笑いを取りたいんじゃない。

 好かれたいんでもない。

 まして、褒められたいわけでもない。

 

 ただ、見た者の脳裏に残りたかった。

 

 次の日になっても、ふとした拍子に思い出してしまうくらいには。

 「あれは何だったんだ」と、意味もなく引っかかるくらいには。

 ちゃんと記憶の中へ居座る異物になりたかった。

 

 そのためなら、道化でもよかった。

 

 自分から全力で巫山戯る。

 自分から全力で外す。

 人が恥ずかしくてやれないことを平然とやる。

 まともに見られなくても、変人扱いされても、笑われても構わない。

 

 

 綺麗な形で覚えられる必要なんてない。

 ちゃんと残りさえすれば、それでよかった。

 

   そう思っていた。

 

 いや、そう思い込もうと()()()()、の方が近いのかもしれない。

 

 何かを考えている時。

 頭の中で形になっていなかったものが、線になって、仕組みになって、やがて実際に手の中へ現れてくる時。

 身体を動かし、手を動かし、試して、崩して、また組み直していく、その過程そのものは、どうしようもなく楽しかった。

 

 そこだけは、たぶん昔から嘘じゃない。

 

 誰にも思いつかないものを考えるのが好きだった。

 人の予想をほんの少しだけ外し、そのまま置き去りにするみたいな仕掛けを作るのが好きだった。

 「またやったな」と呆れられる瞬間も、

 「何なんだそれは」と理解を放棄される瞬間も、

 嫌いではなかった。

 

 褒め言葉なんて別にいらない。

 理解されなくても構わない。

 

 ただ、自分が置いた“予測不可”が、ちゃんと誰かの視界へ引っかかったことだけが分かれば、それでいい。

 

 ――いや。

 

 それでいい、なんて、たぶん嘘だ。

 

 それが欲しかった。

 

 誰にも渡したくないくせに。

 でも、見落とされるのは耐えられない。

 

 忘れられても構わないと思う一方で、最初から見つけられもしないのは我慢ならなかった。

 笑われることも、変人扱いされることも、半分はどうでもよかったのに、何も残せないまま通り過ぎられることだけは、どうしても駄目だった。

 

 だから作る。

 だから魅せる。

 だから、またその先をやる。

 

 シらぬイは、そういう矛盾ごと引き受けた名前だったんだ。

 

 綺麗な形で覚えられる必要なんてない。

 ちゃんと残りさえすれば、それでよかった。

 

 そうやって、シらぬイは自由の証明であると同時に、生存証明にもなった。

 

 ここにいる。

 ここにいたんだと。

 ただの一人じゃなく、確かに雅治()としていたんだと。

 誰にも見つけられないまま消えたわけじゃない。

 少なくとも一瞬は、誰かの記憶を乱して、引っかいて、残った。

 

 それだけが、妙に救いだった。

 

 だからこそ、今のこの日常は少し厄介だった。

 

 これまで欲しかったのは、自由だった。

 誰にも縛られず、誰にも回収されず、自分の痕跡だけを残して好きにやれる場所だった。

 

 なのに今は、それとは少し違うものが手の中へ入り始めている。

 

「見て見て見て、当たったの! 当たったのよ!」

 

 握手券が当たっただけで、普段より目に見えて機嫌のいい酒寄。

 月見ヤチヨに関するものなら、何よりも目を輝かせるその分かりやすさ。

 諌山の、場そのものを明るく押し出していくような声。

 綾紬の、皆の表情を見渡したうえで静かに置かれるやさしい相槌。

 

 その輪の端に、自分が立っていても前ほど不自然ではなくなっていること。

 

 少し前の自分なら、たぶん少し離れた場所から聞き流して終わっていた。

 それが今になっては、その輪の端に立ち、呆れ半分で眺めていることすら自然になっているのだから、我ながら妙なものだと思う。

 

 ――君のそれ、もう好きっていうより信仰の領域だろう

 

 そんな皮肉めいた言葉が、喉元まで浮かんで、けれど口にはならなかった。

 

 その代わりみたいに、酒寄が勢いよくこちらへ向き直る。

 当選通知の画面を、見ろと言わんばかりにこちらへ突きつけてくる。

 珍しく隠しきれていない高揚。

 分かりやすいくらい上機嫌で、子どもみたいに目を輝かせている。

 

 そういう姿を、前から知っていたわけじゃない。

 知る必要もなかったはずなのに、今はそれを見ている自分がいる。

 

 こういう、何でもないやり取り。

 諌山が騒ぎ、綾紬が静かに収め、酒寄が呆れながら返してくる、そのほんの短いやり取り。

 そういうものが、気づけばただの通り道ではなくなり始めていた。

 

 残したいのは足跡だけでよかったはずなのに。

 思い出される異物でいられれば、それで十分だったはずなのに。

 今は、思い出されるだけじゃなく、この場に居続けたいと、どこかで思い始めている。

 

 それは自由とは少し違う。

 むしろ、執着とか未練とか、そういう名前の方が近いのかもしれない。

 

 けれど、まだそこまで認めたくはなかった。

 

 

 ただ  

 もう少しだけ、このままでいたいと思ってしまったのは、たぶん本当だった。

 

 

 *

 

 

 

 木曜の昼休み。

 七月が近づくにつれて、教室の空気も少しずつ落ち着きをなくしていた。

 

 学期末テストまで、もう二週間も残っていない。

 焦る者、諦める者、最初から見ないふりを決め込む者。

 反応はそれぞれだったが、少なくとも今この瞬間の酒寄彩葉は、そのどれにも当てはまらなかった。

 

 なのに、今この一角だけは、どう考えても試験前の緊張感から外れていた。

 

 原因は明白だった

 

 酒寄彩葉が、朝からずっと機嫌がいい。

 

 いや、正確には、午前の休み時間に一度きり大きくはしゃいだあとも、その高揚がまるで下がっていないのだ。

 口数がいつもより多いわけではない。

 騒ぎ立てているわけでもない。

 それでも分かる。

 目元が明るい。

 口元がゆるい。

 何でもない時にすら、ふと息が弾んでいる。

 

 隠しているつもりなのかもしれないが、隠せていない。

 

 スマホを机の上へ伏せる動作ひとつにまで、妙な丁寧さがあった。

 大事な札でも扱うみたいに、画面を下に向ける。

 それなのに、数十秒も経たないうちにまたそっと裏返して、通知でもない当選画面を見てしまっている。

 そのたび、ほんの少しだけ口元が上がる。

 

「本当にうれしそう」

 

 綾紬が、くすりと笑いながら言った。

 

「ヤチヨは彩葉の絶対な推しだもんねぇ」

 

 諌山が机へ頬杖をつきながら、しみじみとした調子で頷く。

 その言い方が妙におかしくて、彩葉はむっとしたような、でも誤魔化しきれていない顔でスマホを胸元へ引き寄せた。

 

「……別に、そこまで分かりやすくしてるつもりはないんだけど」

 

「してるしてる。むしろ今日の彩葉、握手券の画像だけで飯三杯はいけそうな顔してる」

 

「真美、それはさすがに言い方がひどいわ」

 

「でも否定しないんだ」

 

「否定しきれないだけよ」

 

 言い返しながらも、酒寄はもう一度だけスマホの画面を見た。

 たぶん本人の中では一瞬だ。

 けれど、その一瞬に込められた満足感があまりにも分かりやすい。

 

 そのやり取りを横目に見ながら、僕は半ば呆れたように息をついた。

 

「君の場合、もう推し活っていうよりも命綱だろ。だから止めはしないが、せめて十分の一くらいは自分の飯と睡眠に回したらどうだ」

 

 隣席から、静かにそう言う。

 

 ぴたり、と酒寄の指先が止まる。

 

 視線だけがゆっくりこちらを向いた。

 諌山が「あっ出た」と笑い、綾紬が「それはちょっと分かるかも」と困ったように続く。

 

「失礼ね」

 

「違うのか」

 

 いつもなら、ここで何かしら即座に切り返してくるはずだった。

 少なくとも、黙って受け流すタイプではない。

 

 けれど今日は、さすがに諫山と綾紬からも似たようなことを何度か言われていたせいか、強く言い返すだけの材料がないらしい。

 ほんの一拍だけ詰まり、それからわざとらしく肩をすくめた。

 

「……うるさいわね。今日は気分がいいから、そのくらいで見逃してあげる」

 

「寛大だな」

 

「でしょう?」

 

 得意げに胸を張る酒寄を見て、諌山が吹き出した。

 

「いやもう、ほんと最近の彩葉、前よりだいぶ笑うようになったよね」

 

「うん。前だったら、今みたいにそんな素直な顔、そうそう人前で見せなかったと思うし」

 

 綾紬の言葉はやわらかい。

 責めるでもなく、ただ見えている変化をそっと机の上へ置くような言い方。

 

 酒寄が一瞬だけ言葉に詰まる。

 それから視線を逸らして、スマホをまた伏せた。

 

「……たまたまよ」

 

「はいはい、たまたまたまたま」

 

「真美、その雑な畳み方やめてくれる?」

 

「でも実際そうじゃん。ちょっと前までの彩葉、今みたいな冗談、もっと全部正面から受け止めてたし」

 

「それは真美が毎回くだらないこと言うからでしょ」

 

「ひどいなあ」

 

「事実だろう」

 

「橘くんまで乗る!?」 

 

 諌山が机を叩いて抗議し、綾紬が笑いを零す。

 酒寄は呆れた顔をしながらも、口元だけは少し緩んでいた。

 

 そういう空気が一段落したところで、諌山が突然、机に突っ伏した。

 

「……でも現実を見たくない」

 

「急にどうしたの」

 

 彩葉が眉をひそめる。

 

「どうしたもこうしたもないよ。もうすぐ七月じゃん。七月ってことは、つまり学期末テストじゃん。しかも全然勉強してないじゃん。つまり私、終わりじゃん」

 

 見事な(ライム)だったな、今のは。

 

「途中から全部自業自得だったけど」

 

 綾紬が静かに言う。

 

「芦花も同じ穴の狢でしょ」

 

「...否定はしない」

 

 綾紬が淡々と返す。

 だがその声にも、ほんの少しだけ諦めが混じっていた。

 

「じゃあ助けてよぉ……」

 

「なんで同じ沈みかけの船同士で救助求め合ってるの」

 

 酒寄がそう言うと、諌山はがばりと顔を上げた。

 互いの目が合う刹那。

 嫌な予感しかしない目だったとそばから見ても感じ取れる。

 

「諌山ならともかく、まさか綾紬までもとは?意外だな」

 

 隣に向かってそう言うと、綾紬は苦笑するように目を細めた。

 

「失礼だなあ……って言いたいけど、否定できないのがつらい」

 

 諌山ほど大げさに騒ぎはしない。

 たぶん、自分だけが困っているわけではないことを、先にそちらへ滲ませたかったのだろう。そういうところが綾紬芦花らしい。

 

 そこで酒寄と勝手に漫才を繰り広げていた諌山からも、さすがに抗議の言葉の一つくらいは飛んできた。

 

「ちょっと!? なんで私だけ最初から終わってる前提なの!?」

 

「事実だろう」

 

「ほらぁ、だって真美だし」

 

「そこは庇うところじゃないのかな、彩葉さん!?」

 

「庇える材料があるなら考えるけど」

 

「ないって言いたいの!?」

 

「言ってる」

 

 即答である。

 

 諌山が机に額を打ちつける勢いでうなだれ、それから半分だけ顔を上げる。

 抗議する元気はまだあるらしい。

 

「いやでも、ほんとにやばいんだって。今回まだ全然まともに勉強してないし」

 

「毎回そう言ってるよね、真美」

 

 綾紬が静かに言うと、諌山はぐっと言葉に詰まり、それから無理やり胸を張った。

 

「毎回ギリギリなんだから毎回まずいの!」

 

「真実、それ開き直ってるだけだよ」

 

 諌山が顔だけ綾紬へ向けた。

 

「ほらぁ、芦花までこんなこと言う!」

 

「事実を確認しただけだよ」

 

「確認しなくていいんだって、そういうのは!」

 

 騒ぐ真美の横で、綾紬は困ったように小さく笑っている。

 反面、深いため息ををついた酒寄。

 

「つらいのはこっちよ。二人まとめて泣きつかれる未来が見えてるもの」

 

 その言い方があまりにももっともで、諫山はぴたりと動きを止めた。

 

「……ねえ、彩葉」

 

「やだ」

 

「まだ何も言ってない!」

 

「どうせノート見せて、でしょ」

 

「見せて♡」

 

「ほら」

 

「お願いぃ助けてぇぇ」

 

「やだ。ってか即答で頼まないでよ」

 

「彩葉こそ即答で断らないでよぉ!」

 

 テンポよく言い返した酒寄だったが、諌山はまったく堪えない。

 むしろ両手を合わせて拝み出した。

 

「お願いします酒寄様……どうか愚かな子羊に御慈悲を……」

 

「宗派違うでしょそれ」

 

「芦花も言って!」

 

「私も見せてほしいです」

 

「芦花まで!?」

 

 綾紬の方は静かだった。

 だから余計に断りづらいのだろう。

 酒寄は露骨に嫌そうな顔をしたあと、深く息を吐いた。

 

 「……はあ。仕方ないな」

 

「やった!」「助かる……」

 

「ただし、写すだけ写して満足とかはなし。分からないところはちゃんと聞いて。あと、返すの遅れたら許さないから」

 

「神……」

 

「今の彩葉、ヤチヨに握手券当たってるから普段よりちょっとだけ優しいかも」

 

「ちょっとだけじゃないでしょ。だいぶだよ」

 

「そこ、うるさい」

 

 騒ぎながらも、酒寄は鞄からノートを取り出す。

 その手際は慣れたものだった。

 おそらくこれまでも何度か似たようなことはあったのだろう。ただ、今はそこへ自分も自然に混ざっている。

 

 諌山が、今度は露骨にこちらを見た。

 

「で、橘くん」

 

「何だ」

 

「当然、橘くんのも貸してくれるよね?」

 

「当然ではないな」

 

「えー」

 

「でも、まあ」

 

 そこで肩を竦める。

 

「それぐらいならいつもやっていることではあるな」

 

「ほら優しい!」「いやそれ言い方がもう優等生なんだよね」

 

「君たちに合わせて崩したら、たぶん収拾がつかなくなる」

 

「否定できない」

 

 綾紬が小さく頷き、諌山が「そこは否定してよ」と笑う。

 

「知らない問題があったら聞けばいい。分かる範囲なら答える」

 

「神が二柱いる……」

 

「一柱は信仰対象が別にいるけどね」

 

「それはそう」

 

 諌山と綾紬が感極まったように大袈裟な反応をしてみせる。

 酒寄は呆れているし、僕も半ば苦笑いでそれを見る。

 

「でも、ほんと助かるよ。今回ちょっと本気でやばいんだって」

 

「真実はいつもちょっと本気でやばいって言ってる」

 

「でも今回はさらにその上を行ってるから!」

 

「それ、下から数えた方が早い争いの範囲での誤差じゃない?」

 

「芦花、それ自分にも刺さってるよ?」

 

「ちゃんと刺さってるから言えるのよ」

 

「冷静に言わないでよぉ……」

 

 教室の一角が、いつものように賑やかに揺れる。

 

 それからの二週間、普段の日常に少しだけ変わった。

 

 ノートを借りる。

 問題を聞く。

 分からないところは教える。

 そういうやり取りが前にも増して自然になっていた。

 

 おそらく今この場にいる誰も、これが特別なことだとは思っていない。

 けれど少し前なら、僕のままでいる自分であったのならば。この輪の外側から聞いていただけだろう。

 

 それが今は、当たり前みたいに机を寄せ、酒寄と一緒に諌山たちのテスト対策に付き合っている。

 

 妙な話だと思う。

 

 しかも、結果だけ言えば、その妙な話はそれなりに成果を出した。

 

 期末が終わったあと、諌山と綾紬は昼休みに揃って大騒ぎしていた。

 赤点回避はもちろんのこと、普段よりも明らかに高い点を取っていたからだ。

 

「見て! 見てこれ! 私、生きてる!」「ほんとだ、今回ちょっと人間らしい点数してる」

 

「君たちの基準が低すぎるのだ」

 

「いやでも、次の学期始まりまで小テストないんでしょ!? だったら実質、遊び放題じゃん!」

 

「真実、それを大声で言えるのすごいね」

 

「褒めてる?」

 

「褒めてない」

 

 騒ぐ二人を、酒寄は苦笑いと呆れを半分ずつ混ぜた顔で眺めていた。

 その隣で()もまた、苦笑と呆れを混ぜたまま二人を眺める。

 

 そういう騒がしさごと、今の教室の空気になっていた。

 

 ちなみに、学期末テスト最終日。

 古典の試験のあと、酒寄がほんの一瞬だけ眠りへ落ちかけていたことに気づいたのは、僕と綾紬だけだった。

 

 諌山は終わった解放感で騒いでいたし、当の酒寄は何事もなかった顔で次の行動へ移っていた。

 けれど、机へ置いた指先がほんの少しだけ止まり、視線が落ち、まばたきの間がわずかに長くなった、その一瞬を見逃さなかった者が二人だけいた。

 

 それをわざわざ口にすることはなかった。

 ただ、綾紬が静かに酒寄の方を見て、僕もまた何も言わずに視線を逸らした。

 

 そういう、誰にも気づかれなくていい小さなことまで、前より目に入るようになっていた。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 学期末試験が終わると、教室の空気は露骨に緩んだ。

 

 帰って来た結果(成績)により、勝ち残った顔をしている者。

 完全に負けた目(赤点確定)をしているくせに、解放感だけは一丁前に享受している者。

 夏休みにはまだ早い。

 けれど、終わったばかりの試験と、次に来る三連休だけで、学生たちは十分浮かれられるらしい。

 

「ねえ、次の三連休どうする?」

 

 真美が、早くもその話を持ち出した。

 

 彩葉は筆箱を鞄へしまいながら、ほとんど間を置かずに答える。

 

「勉強、バイト、推し活。三日だけでも睡眠時間六時間確保できるのはありがたいわ」

 

「ええー?」「ええー……」

 

 真美と芦花の声が綺麗に重なる。

 

「そこ、揃うのか」

 

 雅治が静かに言うと、真美は納得いかない顔で振り向いた。

 

「だって三連休だよ!? もっとこう、あるじゃん。遊ぶとか。青春とか。夏とか」

 

「その夏とかで何をどうしろって言うのよ」

 

海! 祭り! 花火! あと何かそれっぽいやつ!」

 

「雑すぎるな」

 

「橘君はどうなのよ」

 

 芦花に振られて、雅治は肩をすくめた。

 

「いつものルーティンを守って、運動、家事、運動だろうな」

 

「ええー?」「ええー……」

 

 また綺麗に重なる。

 

「そこも揃うのか」

 

「いやだって、運動、家事、運動って何そのストイックな三段活用」

 

「三連休に入ってまで自分を追い込む人、周りに二人もいらないんだけど」

 

「好きで追い込んでるみたいな言い方しないでくれる?」

 

「実際そうじゃないの、彩葉って」

 

「フッ、さすがに否定はできまい」

 

 雅治がぽつりと差し込むと、彩葉がじろりと見る。

 けれど、昔のままよそよそしい態度と言葉で返す代わりに、半分呆れたような息だけを吐いて終わった。

 

 その一連の流れが、前よりずっと自然だった。 

 

 

     *

 

「でもさぁ、夏だよ? 海だよ? 休みだよ?」

 

 真美はまだ諦めていなかった。

 

「その三つを並べると、急に脳まで暑そうになるな」

 

「だよねッッ!!」

 

「橘君ひどくない?」

 

「真実、それたぶん褒め言葉じゃないよ」

 

「ウェ!? いやでも夏の海ってテンション上がるじゃん!」

 

「上がるのは分かるけど、真美の場合、それで終わらないでしょ」

 

「終わらないねぇ。たぶん「帝様の海辺概念!」とか言い出すよね」

 

「そりゃ言うよ!言うけどさぁ!? だって言うでしょ普通!!」

 

「普通ではないだろう」

 

 雅治のその一言で、真美が机を叩く。

 

「なんでさ! 真夏の海辺の帝様とか、もうそれだけで白米いけるじゃん!」

 

「食欲と信仰が一体化してるわよ、あんた」

 

「彩葉だってヤチヨの夏衣装来たら同じ顔するって」

 

「……否定はしないけど」

 

「ほら見ろ!」

 

 教室の端で、そんなくだらない会話が続いていく。

 

 海。

 夏。

 真昼の光。

 浮き輪。

 冷えた飲み物。

 白い砂浜。

 そこで、雅治の思考だけが別の角度へ滑っていた。

 

 ――夏、海……真夏の海辺コンセプトで一個作ってみるか。

 

 頭の中で、もう設計が始まっている。

 

 ギミックは何がいい。

 壁貼りからの妨害と足止めを組み合わせるか。

 いや、いっそ冷気と鈍足の方が分かりやすい。

 アイスをコンセプトにした武器?

 溶ける前提の一発芸も悪くない。

 アヒルボート。

 ……いや、あれは機動兵器に落とし込める。

 水辺限定で挙動が変わるのも面白いかもしれない。

 

 水鉄砲(ライフル)水ロケット(ランチャー)スイカ(グレネード)水ホース(火炎放射器)・・・さすがに一個だけでは迷うな

 

 真面目に考えているのに、出てくる案が全部ろくでもない。

 

「橘君、今また変なこと考えてるでしょ」

 

 不意に彩葉がそう言った。

 

 雅治は一瞬だけ視線を上げる。

 

「なぜそう思う」

 

「今の顔」

 

「どんな顔だ」

 

「何かロクでもないことを思いついたような顔」

 

「それはだいぶ失礼だな」

 

「否定しないんだ」

 

「否定しないだけさ」

 

 その返しに、芦花が肩を揺らし、真美も「ほらやっぱり!」と笑う。

 仮面はちゃんと被ったままだ。

 穏やかで、礼儀正しくて、少し距離のある橘雅治。

 なのに最近、その仮面の奥だけが前より少し、生きているように見えた。

 

 

     *

 

 

 

「そういえばさあ、ヤチヨの次のミニライブ、衣装ぜったい新しいの来ると思わない?」

 

「来る。たぶん夏寄り。たぶん白基調。いや、水色もありえる」

 

「早口になってるよ彩葉」

 

「その予想をしてる時の彩葉、ちょっと楽しそうでいいよねえ」

 

「真美は帝アキラのことになるともっとひどいでしょ」

 

「私はいいの! 帝様は別枠だから!」

 

「何の別枠なんだ」

 

 僕がそう返すと、諌山が胸を張る。

 

「信仰」

 

「君たち、そっち方面だけはやたら自己分析が正確だな」

 

「橘君にだけは言われたくない気がするけど」

 

「...君がそう言うのであれば、そういうのだろう」

 

「出たよ便利な言い方ぁ」

 

 酒寄がそう言って少しだけ笑う。

 その笑い方が、前よりずっと自然になっていることを、()は気付かれないよう目で追っていた。

 

     *

 

土曜。

 

 諌山は昼まで寝ていたらしい。

 綾紬はそれを知っていたらしい。

 酒寄は朝から勉強とバイトの予定をきっちり詰めていて、翌週の月曜にて諌山に「人の形したスケジュール帳」と呼ばれていた。

 

「失礼ね」

 

「いやでもほんとにそうじゃん」

 

「そうやって言うなら、自分の提出物くらい期限内に出しなさいよ」

 

「うっ」

 

「刺さってるね」

 

「芦花は他人事みたいな顔してるけど、半分くらい自分にも刺さってるからね?」

 

「半分で済めばいいんだけどねえ」

 

 隣席でのやり取りは、相変わらず緩い。

 そこへ短い相槌が混ざるだけで、なぜだか少しだけ空気が締まる。

 真面目になるわけではない。

 ただ、散らかりきらずに済む。

 

「橘くんってさ、休日もちゃんと寝ては起きてそうだよね」

 

「起きてるな」

 

「彩葉、それ願望混じってる?」

 

「別に」

 

 またしも即答。

 その即答の早さで、諌山と綾紬が顔を見合わせて笑う。

 

     *

 

 廊下ですれ違う。

 購買の前で立ち止まる。

 移動教室の途中で二、三言葉を交わす。

 諌山がどうでもいいことで騒ぎ、綾紬が「はいはい」と受け流し、酒寄が「後にしなさい」とまとめる。

 

 その一つ一つは取るに足らない。

 わざわざ思い出すほどの出来事でもない。

 

 なのに、そういう取るに足らない断片の方が、あとから妙に残る。

 

     *

 

いつかの夜。

 

 シらぬイは、案の定またやらかしていた。

 

 その日の配信タイトルはやけに爽やかだった。

 だが中身は爽やかさの欠片もない。

 

 画面に映ったのは、以前にも動画に出演したことのある巨大なトウモロコシの形をした大砲(砲モロコシMk-Ⅱ)だった。

 

 正確には、大砲に見える。

 いや、どう見ても大砲なのだが、その上にシらぬイが当然の顔で跨っている時点で、もう色々と終わっている。

 

『待って何これ』

『とうもろこし?』

『いや待ってでかい』

『でかい以前に乗るな』

 

 無声のまま、シらぬイは砲口を真下へ向ける。

 

 次の瞬間、発砲。

 

 爆音。

 反動。

 ノックバック。

 それをそのまま推進力へ変えて、巨大トウモロコシ砲はフィールドを()()()()()みたいに跳ね始めた。

 

『何で飛ぶんだよ』

『飛んでない、跳ねてる』

『もっとだめだろそれ』

『移動方法の倫理観がない』

 

 上へ跳ねる。

 着地する。

 また地面へ向けて撃つ。

 爆風と反動を利用して、縦横無尽に戦場を荒らし回る。

 

 普通に走ればいい場所で跳ねる。

 隠れればいい場所でわざわざ視界へ飛び込んでいく。

 そのくせ、着地点だけは妙に正確で、視聴者参加枠のプレイヤーたちと、いつの間にか混ざっていた修正者軍団の残党ばかりを的確に轢いて(爆撃して)いく。

 

『またいつものモルモット枠が死んでる』

『修正者残党まで巻き込まれてて草』

『無言なのに煽り性能だけ高すぎる』

『その一回止まってこっち見るのやめろ』

『絶対わざとだろ』

 

 実際、わざとだった。

 

 着地のたび、ほんの一拍だけ止まる。

 そしてこちらを見る。

 いや、画面越しの視聴者を見ているように見せる

 それだけで十分煽りになると分かっている動きだった。

 

 いつものシらぬイ(ロクデナシ)である。

 

 真面目に作り込み、

 全力でふざけ、

 誰も思いつかないものを本気で実装して、

 その成果を最悪の形で実演する。

 

 

     *

 

 木曜から金曜へ。

 金曜から、また次の金曜へ。

 

 教室でのどうでもいい会話。

 放課後の短いやり取り。

 推しの話になると急に早口になる彩葉と真美。

 それを見て笑う芦花。

 静かに茶々を入れる雅治。

 

 夏が近づく。

 空気が変わる。

 学生たちは少しずつ浮ついていく。

 

 そして、その浮つきがまだ日常の延長にいると思っていた、その金曜の夜。

 酒寄彩葉の家の前の電柱が、七色に光った。

 

 

     *

 

 

 

 

 

 

 彩葉の心は、実際に少しだけ軽くなっていた。

 

 いつも胸の奥へ張りついていた重さが、綺麗さっぱり消えたわけではない。

 勉強もある。バイトもある。生活費も、学費も、将来もある。

 東大法学部に入る。その一点だけを目印に、眠気も空腹も不安も押し殺して、細い綱を渡るみたいに前へ進み続けなければならない現実は、相変わらずそこにあった。

 

 それでも、だ。

 

 教室で真美がどうでもいいことで騒ぎ、芦花がそれを静かに受け流し、そこへ橘雅治が何でもない顔で一言差し込む。

 そういう光景を前にした時、以前よりずっと自然に肩の力が抜けるようになっていた。

 

 少しだけ、笑える。

 少しだけ、息がしやすい。

 少しだけ、学校という場所が、ただ消耗するだけの戦場ではなくなり始めていた。

 

 それはたぶん、救いと呼ぶにはまだ小さすぎる。

 けれど、救いではないとも言い切れない。

 そんな半端な温度の変化が、この一ヶ月のあいだに確かに生まれていた。

 

 金曜の教室も、見慣れたまま賑やかだった。

 

 真美は相変わらず、試験範囲を前にして「終わった」を連呼していたし、芦花はそんな親友の騒ぎを笑いながら、でもちゃっかり自分の分もノートを借りる算段を整えている。

 雅治は雅治で、いつも通りの整った顔で淡々と受け答えしているくせに、前より少しだけ遠慮なく混ざってくるようになっていた。

 

 言葉を交わす回数も増えた。

 目が合って、逸らさなくなった。

 気づけば、教室の中で雅治のいる位置をなんとなく把握している自分までいる。

 

 変だな、と彩葉は思う。

 

 少し前まで、橘雅治なんて「感じのいい優等生」以上の輪郭を持たない相手だった。

 成績がよくて、穏やかで、当たり障りがなくて、誰に対しても一定の温度で接する男子。

 そういう認識だった。

 

 それが今は、違う。

 

 静かなのに刺さることを言う。

 冷たいわけではないくせに、妙に本質へ触れてくる。

 人のことはよく見ているくせに、自分のことは最後まで簡単に明け渡さない。

 ときどき、ほんの一瞬だけ、あの“優等生”の仮面の裏にいる別の誰かが覗く。

 

 そこまで分かるようになってしまった時点で、もう以前と同じ距離ではないのだろう。

 

 もっとも、だからといって、何かが大きく変わったわけでもない。

 授業が終われば、現実はすぐに足元へ戻ってくる。

 

 放課後。

 真美は「三連休! 三連休!」と、まだ始まってもいない休みに向けて騒いでいた。

 芦花が「その前に、今日のうちに少しは見直ししなよ」と呆れ、彩葉は「言われなくても真美はやらないでしょ」と返す。

 その横で、雅治が小さく笑った気配がした。

 

「酒寄」

 

 呼ばれて振り向く。

 

「英語のノート、月曜……じゃないな。連休明けでいい」

 

「うん、分かった。ありがとう」

 

「どういたしまして。……あと」

 

「あと?」

 

「寝不足の顔で三連休を迎えるなよ」

 

 それだけ言って、雅治は大仰でもなく視線を外した。

 

 彩葉は一瞬だけ返事に困る。

 真美が「出たよ、橘くんの静かな正論」と笑い、芦花が「でも正しいんだよね」と小さく続けた。

 

「分かってるわよ」

 

 そう返した自分の声が、思っていたより少しやわらかかった。

 

 雅治は何も言わなかった。

 ただ、ほんのわずかに口元だけが緩んだように見えた。

 

 そのあと、彩葉はいつも通りバイトへ向かった。

 

 

 

 

     *

 

 

 

 

 今日も、忙しかった。

 

 金曜の夕方は、店も人も妙に落ち着かない。

 週末へ逃げ込む直前の街は、どこか浮き足立っていて、そのぶんだけ注文も足音も途切れない。

 彩葉は笑顔を貼りつけたまま動き続け、気づけば外はすっかり暗くなっていた。

 

 ようやく解放され、店を出る。

 肩が重い。脚も重い。頭の芯までじわじわと疲れが滲んでいる。

 それでも、明日から三連休だという事実だけが、細い光みたいに意識の先へぶら下がっていた。

 

 寝たい。

 できれば、六時間。いや、贅沢を言うなら七時間。

 少しくらいならゲームもしたい。

 ヤチヨの配信も追いたい。

 その前に見直しもやらなければいけない。

 

 やりたいことも、やるべきことも山ほどある。

 けれど今この瞬間だけは、まず部屋へ帰って、鞄を下ろして、椅子へ座って、ほんの少しだけ息を吐きたかった。

 

 そんなことを考えながら、自宅のある路地へ曲がった、その時だった。

 

 電柱の根元が、七色に光っていた。

 

「……は?」

 

 足が止まる。

 

 疲れているのだと思った。

 もしかしたら、睡眠不足がついに視界へまで来たのかもしれない。

 だが、見間違いではない。

 電柱はちゃんとそこにあり、ちゃんと意味不明な色で発光していた。

 

「いや、待って。何これ」

 

 近づくでもなく、遠ざかるでもなく、彩葉はその場で眉を寄せる。

 

 ぷしゅう、と間の抜けた音がした。

 電柱の根元から、やけに古臭い模様の煙のようなものが吹き出す。

 何気にとあるロクデナシライバー(シらぬイ)が思い浮かんだのは気のせいだろうか。

 というか、なぜ電柱が放熱する。

 

 次の瞬間、電柱の側面へ、竹でできた取っ手つきの円い扉が現れた。

 

「……ほんとに何」

 

 疲れが一周回って笑いそうになる。

 世界はときどき、こちらの限界を見計らったようにふざけてくる。

 

 しかし私には、これ以上面倒ごとを背負い込める余裕がない。

 

 母親(お母さん)との確執。

 学費。

 生活費。

 勉強。

 バイト。

 睡眠不足。

 将来への焦り。

 どれ一つだって軽くないのに、その上まだ何かを積まれるのは、さすがに無理だった。

 

 しかも今は、ただしんどいだけじゃなかった。

 少し前の私より、今の学校はずっと楽しかった。楽しく感じるようになった。

 真美が騒いで、芦花が笑って、そこへ橘君が何でもない顔で一言差し込む。

 そういう時間が、ちゃんと息継ぎになっていた。

 だからこそ、ここでまた何かに飲み込まれたくなかった。

 

 扉がひとりでに開こうとした瞬間、彩葉は反射で駆け寄り、取っ手ごと押さえつける。

 

「だめ。無理。今日は無理。ほんとに無理」

 

 扉の向こうに何があるのかも分からない。

 分からないが、ろくでもないことだけは分かる。

 だから閉める。

 今ここで終わらせる。

 

 そのはずだった。

 

 閉じたはずの扉が、彩葉の腕を押し返して、ゆっくりと開く。

 

「ちょ、待っ――」

 

 中にいたのは、赤ん坊だった。

 

「……は?」

 

 脳が理解を拒否する。

 

 七色に光るゲーミング電柱。

 竹の取っ手つきの扉。

 その向こう。

 赤ん坊。

 

 意味が分からなかった。

 頭のどこかが「知らん」と言って仕事を放棄した。

 

「御免なさい、しかしこちらも手一杯なので……」

 

 思わず丁寧に断ってしまった。

 誰に向かって言っているのか自分でも分からない。

 とにかくこの場から離れようと、踵を返しかけたその瞬間。

 

 赤ん坊が泣いた。

 

 大声で。

 容赦なく。

 何の遠慮もなく。

 

 彩葉の足が止まる。

 

 見捨てたい。

 正直に言えば、今は本当に見なかったことにしたい。

 自分の生活だけで、もうぎりぎりなのだ。

 

 けれど、それができない。

 できない程度には、私はどうしようもなく心のやわらかい(甘い)側で生きていた。

 

「うぅ……っ、失礼します!」

 

 ほとんど勢いだけで、赤ん坊を抱き上げる。

 

 軽い。

 あたたかい。

 柔らかい。

 生きている。

 

 その瞬間、電柱の光が消えた。

 扉も消えた。

 何事もなかったみたいに、ただの普通の電柱へ戻る。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

 

 彩葉は赤ん坊を抱いたまま、空いた手で電柱を叩く。

 

「おーい! すみません! 完全に忘れ物なんだけど!」

 

 ひどい言いがかりだった。

 でもそうとしか言えない。

 あまりにも一方的すぎる。

 

 電柱は当然、何も答えない。

 

 どうする。

 警察?

 説明できるのか、これを。

 

 母親(お母さん)

 論外だった。

 こんな状況で頼ったところで、助けになる以前に、私の方が先に責められる未来しか見えない。

 

 真美に電話する?

 下に弟たちがいるし、面倒見がいいのは知ってる。

 だから、きっと心配してくれる。たぶん駆けつけようとしてくれる。

 でも、こんな時間に、赤ちゃんを拾ったなんて意味の分からない相談をぶつけるのはあまりに急すぎる。

 それに、真美だってさすがに赤ちゃんのあやし方までは知らないだろう。

 

 それとも芦花?

 あの子はいつも落ち着いている。

 たぶん、最初に私を落ち着かせようとしてくれるのは芦花だ。

 でも、だからこそ迷惑をかけたくない。

 今この状況を渡してしまったら、あの静かな優しさに甘えることになる。

 それが、今は妙に怖かった。

 

 腕の中で、赤ん坊がまたぐずり始める。

 

 呼吸が浅い。

 速い。

 胸の奥だけが勝手に上下して、ちゃんと息が吸えない。

 足まで震えてきそうだった。

 

「辛いなら辛いと口にして、誰かを頼ればいい」

 

 そんな中で、思考を重ねた最後に脳裏へ浮かんだのは、橘君の顔だった。

 

 橘雅治。

 少し毒がある。

 普段はきっちり猫を被っている。

 それなのに、並みの大人よりずっと落ち着いていて、何があってもなんとかしてくれそうな、たった一人の異性の友達

 

 何があっても動じない、ぶれない口調。

 クラスの男女たちがふっかける悪戯みたいな話題でも、平気な顔でやり過ごす横顔。

 少なくとも、笑わない。

 少なくとも、最初に「は?」だけで終わらせたりはしない。

 

 まず状況をそのまま受け止める。

 それから整理する。

 必要なら、静かに現実へ引き戻してくれる。

 

 そういう人だと、いつの間にか私は思っていた。

 

 私は震える指でスマホを取り出した。

 文字を打つには指先が言うことを聞かなかった。

 

 だから連絡先を開く。

 緊急連絡先。

 スクロール。

 「た」行。

 たちばな まさはる

 

 その名前を見つけた瞬間、ほんの一瞬だけためらいが走った。

 私が、自分から誰かを頼る。

 しかも、よりにもよって橘君を。

 

 でも、迷っている暇はなかった。

 私はそのまま通話ボタンを押した。

 

 数コールも待たなかった。

 

『もしもし』

 

 いつも通りの、落ち着いた声だった。

 それだけで、喉の奥に詰まっていた何かが少しだけほどける。

 

「……橘君」

 

『どうした』

 

 問い返しが短い。

 余計な前置きがない。

 そのことが、今はひどくありがたかった。

 

「ごめん。あの、変なこと言うけど」

 

『ああ、言ってくれ』

 

「……赤ん坊を拾ったの」

 

 一泊の沈黙。

 

『続けてくれ』

 

 笑わない。

 驚いても、まず聞こうとする。

 だから私も、どうにか言葉を繋ぐことができた。

 

「拾ったっていうか……電柱から出てきたの。七色に光る電柱の中から。扉が開いて、そこにいて、抱いたら消えて……」

 

 自分で言っていても意味が分からない。

 頭がおかしいと思われても仕方がない内容だ。

 

 それでも橘君は、電話の向こうで一度だけ息を吐き、それから静かに言った。

 

『今、どこにいる。家の近くか?』

 

「う、うん。家の前」

 

『そこを動くな。今からそっちに向かう』

 

 短く言い切って、それからすぐに続ける。

 

『できるだけ人目につかないよう隠れていろ。部屋に戻るのだけは俺が着くまで待て』

 

「……え?」

 

『路地で赤ん坊を抱えたまま突っ立ってるのも危ない。けど、事情が分からないまま一人で部屋に連れ込むのも後で面倒になる。だからまず隠れろ。入口の陰でも階段の死角でもいい。人目だけは避けて、()を待て』

 

 その言葉で、ようやく気づく。

 

 確かにそうだ。

 このまま道端で立っているのは目立ちすぎる。

 でも、何も分からないまま私一人で部屋へ運び込むのも、後からどう見られるか分からない。

 

 そこまで一瞬で考えている。

 やっぱり、この人はこういう時に強い。

 

 短い、しかし落ち着いて的確な指示(アドバイス)

 それだけだった。

 それだけなのに、思わずその場で少しだけ膝の力が抜けそうになった。

 

「……ごめん」

 

『謝るのはあとでいい。赤ん坊は大丈夫か』

 

「ぐずってる、けど……」

 

『分かった。とにかく、隠れて待て。十分で行く』

 

「十分……?」

 

 互いの家は近くない。

 どころか、駅の方向すら真逆だ。

 そんなこと、私だって知っている。

 

『間に合わせる。だから酒寄、君は余計なこと考えなくていい。赤ん坊を落とすな。それだけ守れ』

 

 その一言に、また胸の奥が少しだけ緩んだ。

 

「……分かった」

 

『あと、深呼吸しろ。ちゃんと吸って、吐け』

 

「……うん」

 

『じゃあ待ってろ』

 

 通話が切れる。

 

 私はスマホを握ったまま、その場に数秒立ち尽くした。

 とうとう、自分から誰かを頼ってしまった。

 それが情けないとか悔しいとか、そういう感情は少し遅れてくる。

 今はただ、一人では無理だと認めてしまった事実だけが、やけに鮮明だった。

 

 言われた通り、私は慌てて周囲を見回した。

 マンションの入口横、共用階段の下にできた狭い死角。

 外灯の光が少しだけ届きにくいそこへ、赤ちゃんを抱えたまま身を寄せる。

 

 夏の夜気はまだ重かった。

 腕の中の赤ちゃんは温かくて、小さくて、軽い。

 軽いのに、抱えているものの重さだけはどうしようもなく現実的だった。

 

「大丈夫……大丈夫だから」

 

 自分に言い聞かせるみたいに小さく呟きながら、背中をそっと撫でる。

 泣き声が大きくならないように、ただ必死で揺らす。

 時間の進み方がおかしい。

 一分がやけに長い。

 

 十分なんて、無理に決まってる。

 そう思ったのに。

 

     *

 

 本当に、十分もかからなかった。

 

 路地の向こうから走ってくる人影が見えた瞬間、私は最初、うまく認識できなかった。

 でも近づくにつれて、見慣れた顔がそこにある。

 

 橘君だった。

 

 真夏の夜の熱気を切って走ってきたのだろう。

 額にも、首筋にも、シャツの襟元にも、はっきりと汗が浮いている。

 息も少し上がっていた。

 普段の、何事にも乱れない橘雅治からは想像しづらいほど、その身体はちゃんと走ってきた人のそれだった。

 

 それでも彼は、自分の乱れを整えるより先に、私と腕の中の赤ちゃんを見た。

 

「酒寄」

 

 少しだけ上がった息のまま、そう呼ぶ。

 

「大丈夫か」

 

 その一言で、泣きそうになった。

 

 大丈夫じゃない。

 でも、大丈夫かと聞いてくれる人が来たことが、もう駄目なくらいありがたかった。

 

 橘君はすぐ目の前まで来ると、まず周囲を一度見た。

 それから私の顔を覗き込む。

 

「その子、こっち寄越せ。お前は一回呼吸整えろ」

 

「いいか、まず吸って。ゆっくり吐くんだ」

 

 私の腕から赤ん坊が軽く持ち上げられる。

 そして自分でも息を整えながら、私に同じリズムを取らせる。

 私は頷いて、言われた通りにする。

 うまくいかない。

 でも、目の前で同じように呼吸してくれるから、少しずつ乱れが収まっていく。

 

「……説明はあとで聞く」

 

「信じるの?」

 

「今はそこが優先じゃないだろう」

 

 そう言われると返す言葉がない。

 

 赤ん坊がまた泣いた。

 反射的に肩が跳ねてしまう。

 橘君が周囲を一度だけ見回し、低く言った。

 

「とにかく中に入ろう。ここで泣かせ続けるのはまずい」

 

「う、うん」

 

「今度は一緒に入る。君一人じゃない」

 

 その言い方が、やけに静かで、やけにまっすぐだった。

 橘君がいる。

 それだけで、パニックが少しだけ形を失う。

 

 部屋へ向かって階段を上がる。

 玄関先に立って鍵を取り出す。

 まだ指先は少し震えていたけれど、さっきよりはましだった。

 橘君は何も言わず、私の半歩後ろについてくる。

 まるで、本当にもう一人で抱えなくていいと示すみたいに。

 

 部屋へ入る。

 靴を脱ぐ。

 ワンルームの狭い空気が、いつもとは別の場所みたいに思えた。

 

 そこまで来たところで、限界が来た。

 

 誰かに頼った。

 来てくれた。

 一緒にここまで入ってきた。

 もう一人じゃない。

 

 その事実だけで、張りつめていた糸が全部切れた。

 

 私はそのまま、部屋に入るなり崩れ落ちた。

 

 赤ちゃんを抱えた橘君が落とさないように、少し離れた途端に膝からガクッと力が抜ける。

 床へ座り込むみたいに、しゃがみ込むみたいに、情けないほどあっさりと。

 

「酒寄!」

 

 すぐそばで橘君の声がした。

 いつもよりずっと近い、焦りを隠しきれていない声だった。

 

 でももう、身体が言うことを聞かない。

 

「……ごめん」

 

 かろうじてそう言うと、橘君は息を整える間も惜しむみたいに私の前へ膝をついた。

 

「謝るな。酒寄はもう十分頑張ったんだ。そのまま座ってろ、少しは楽になるはずだ」

 

 そういいながらも彼は嫌な顔一つせずに手をさし伸ばしてくれた。

 その手を見た時、私はようやく思った。

 

 ああ。

 ちゃんと頼ってよかったのかもしれない、と。

 

 




うーむ、原作の「超かぐや姫!」の「超」枠は我らが超人ごと彩葉さんのはずだが、さすがに上げて墜とすからの逃げ道をあえて残すのは世界中の歴史において証明された必勝の√の一つ。
孫氏兵法は今でもよく読んで見たりしてます。

今からは作者の挨拶ならぬ挨拶の独り言のオンパレードです。少し飛ばしたら今日のおまけコーナーのNGシーンです。ここには載せないボツ案も活動報告の所であげようと思いますので、気になる方はどうぞ身に来てください。
では、始めます。


えー、前回までを含めて、前半と後半の雰囲気の違いや単純に1話ごとの文字数が多すぎるといった意見を直接ではなくとも、ある方々から頂いており、それでアンケートも投稿した直後に開くことにしました。
アンケートは明日の日付が変わる時までとします。どうぞ皆さんのご意見お待ちしております。

 僕としては、前半部と間奏、後半部までを一気に読み続けることを前提として書いています。というか、物語の構成と各シーンを想像するときがまさにそうです。
 それぞれ別々のシーンを想像しては、それぞれメモ帳を開いては書いて、後にそれを一つに合わせることで原稿を書いています。
 だからですかねー二度コピペされたり、誤字が多かったり、苗字と名前呼びが異なったりする部分もありました。
 今はもう原作の物語に突入するから大丈夫ですけども、実は昼のパートと夜のパートで1話あたりに2,3個切り分けることも考えてはいました。

 でも、この仮面を被ったまま過ごしている故の昼と夜でのテンションの違い、ギャップをタイムラグなくダイレクトで伝わってほしいと思ってそのまま繋げたら、まぁこうなったわけです。はい。

 今の所アンケートではほぼ僕のやりたい方でいい、に票が集まっていますので、今後ともこれぐらいのボリュームで持ってくると思います。
 おかわりする間もないよう特盛メガ盛りでおまけもつけさせて頂きますので、どうぞお待ちください♡。



 ちなみにですが、前回の雨エピソードのあとでの配信。
 翌日にもう一度読んでみたら昨日のぼくのテンションは何だったんだと一人でツッコミました(笑)

 まぁ僕の考えているプロットを読み直しても少々はしゃいだのは間違いないのですが、順番が早まっただけだし、いつかは物語に入れていたから致し方なし。
 こればかりは僕の技量と経験問題なんでなんかあったらズバズバと書いてほしい。っていうか感想そのものがほしぃぃぃぃぃ
 それかもう個人でDM送ってここはこうしたらどうなのとか送ってくれるだけでもすごいたすかります!




 いつもお読みいただぎ、最後まで読んでくださって、僕の愚痴までに付き合ってくださってありがとうございます!
 一つのマイナスよりも、それを超えるプラスな応援をたくさんもらっているから沈んでももういっぺん起き上がるだけ!!


 ヒロイン枠だけが悩み種だぁぁぁ



おまけ 『推しへの冒涜は許されない。いいねぇ?』



「君のそれ、もう推し活っていうか命綱だろ。だから止めはしないが、その熱量の一割くらいは自分のために残しておけ」

 呆れ半分、皮肉半分。
 橘雅治としては、ほんの少しだけからかうつもりで言っただけだった。

 いつもなら酒寄彩葉は、そこで何か一言、間髪入れずに言い返してくる。
 少なくとも、そう思っていた。

「――今」

 ぴたり、と酒寄の動きが止まる。

「ヤチヨのこと、侮辱したわね? ねぇ」

 その瞬間。

 首が、回った。

 ありえない角度で。

 九十度?
 いや、九十度どころではない。
 明らかに人体の可動域に対する挑戦だった。

 教室の空気が、一瞬だけ凍る。

「……」

「……」

 真美が笑いを堪えきれずに肩を震わせ、
 芦花は「え、今のどうなってたの」とでも言いたげに目を瞬かせる。

 雅治は思った。

 いや、そんなわけがない。
 ただの錯覚だ。
 疲れているだけだ。
 たぶん。
 おそらく。
 そうであってほしい。

「……いや」

 らしくもなく、ほんの少しだけ声が引いた。

「……なんでもない」

「そう」

 彩葉は、にこりと笑った。

 今度はちゃんと、普通の角度で。

「なら、いいの」

 よくなかった。

 まったくよくなかったが、これ以上触れてはいけないと本能が告げていた。

 その横で真美が、ついに吹き出す。

「だ、だめ……っ、今の彩葉、完全に推しを穢された信徒の顔だった……」

「信徒っていうか、もはや守護霊でも降りてきてたよね」

 芦花の冷静な補足に、彩葉がすっと二人の方を向く。

「芦花」

「うん、ごめん、今のは私が悪かった」

 即座に謝るあたり、綾紬芦花は生存本能が高い。

 雅治は静かに思った。

 どうやらこの話題に関してだけは、
 酒寄彩葉に踏み込む角度を慎重に見極める必要があるらしい。

 たとえそれが、
 物理的な首の角度よりはまだまともだとしても。

昼パートと夜パートの前後分けにしてほしい?

  • 雰囲気の違いがあれだ。一度分けるべし。
  • シリアスとギャグの部分だけ分けてほしい。
  • 文字数が多すぎるから何回か分けるべし。
  • このまま作者の好きにしてもかまわない
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