今日も正常営業。ただし“そういうとこ”を添えてー   作:火力万能主義

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連載初期の重くて暗くてクールで冷静に見えてた主人公はどこにいって、僕の目に映るバカ旦那はいったい誰でしょうか?
前回の話がすごく好評だったようでうれしいです。

ギャップを狙ってはいたけど、こんなに激変するとは僕も予想しなかったよ雅治君...

そして、ついに連載二週目になって総UA数が1万を突破し、評価バーもどんどん赤色で埋まっていくしお気に入りもたくさんしてくださって感謝しかありませぬ。




冒頭書き終わったと思った時点で1万字って(汗)
今さらかー

今日のは静か目です。
第九話でそ、どうぞ~
*最後の雅治の赤ちゃんだけが部屋に一人で残されることへ対する心情描写が足りず、分かっていながらも赤ちゃんを一人で放置させるという絵面でしたので、そこらへんを修正したしました。


第九話 こんばんは、そしておはよう

第九話 こんばんは、そしておはよう

 

「ねー、ねー」

 

 隣のぐずり声で、私は目を覚ました。

 

「おなかすいたぁー」

 

「……はいぃ」

 

 わかるよ、おなかがすいたのね。

 

「ミルクー」

 

 うんうん、おなかが空いたんだね。

 寝ぼけた目をこすりながらも、私はなんとか上体を起こした。頭はまだ眠気で重たいままだし、身体の節々も鈍く痛い。それでも、この三日で私の身体は、こういう声にほとんど反射で動くようにすっかり仕込まれてしまったらしい。

 

 毛布を払い、ふらつく足で立ち上がる。

 いつもの作業。ミルク作り。台所へ向かう。

 

 時計を見る。午前二時。

 まだ二時か。いつもよりは早い。さっさと飲ませて、ゲップさせて、うまくいけばまだ寝られる。

 

「……少々お待ちを~」

 

 我ながら、この三日で極限まで察知力を鍛えられた気がする。

 ただの泣き声でも、どういう意図で泣いているのかが大体わかる。おなかが空いたのか、眠いのか、抱っこなのか、おむつなのか。赤ちゃんのぐずり声なんて、もうとっくに履修済みだ。

 言葉が伝わらなくても、思いはちゃんと――

 

 ……へ?

 

「うわぁっ!」

 

「うおぉっ!」

 

 大声を上げて振り向いた。

 

 そこにいたのは、十歳前後に見える少女だった。

 

 いや、いるか普通。なんでいるの。

 っていうか、なんで素っ裸?!

 

「ビビったぁ……」

 

 それこっちの台詞なんだけど。

 

 真っ暗な部屋の中でも、その子の姿だけは妙にはっきり見えた。

 流れ星が二つ落ちてきたみたいに綺麗な瞳。驚きを立てて爛々と輝いている。

 腰まで伸びた艶やかな髪。

 暗がりの中でもそれとわかるほど白い肌。

 形のいい唇。整いすぎているくらい整った顔立ち。

 

 その造形だけを見れば、まさに美少女だった。

 

 しかし。

 

 ――……あんた、誰よ。

 

 いや、答えなくてもいい。

 分かる。分かるわよ。あの子だね?

 ついさっきまで同じ布団で寝ていた、あの子だったのよね?

 

 分かるもん。

 あの七色に光るゲーミング電柱といい、そこから生まれ落ちた赤ちゃんといい、この三日間、さんざんな目に遭ってきたんですもの。

 これぐらい、気づく。気づきたくなくても、すぐ気がつく。

 

 橘君が言っていた、あの夜中に光ったら一気に成長したというアレね?

 

「ハァ……夢ならはやく覚めて。マジで」

 

 思わず本音が口から漏れる。

 

 なのに目の前の少女は、こっちの心労なんてどこ吹く風で、きらきらした目のまま私の服の袖をつまんで引っ張っていた。

 

 だからなんでそんなに目をキラキラさせてるの。

 伸びるからやめなさい。

 というか、いつまで素っ裸でいるつもりなのよ。はやく服を着なさい!

 

「ちょ、ちょっと待って、待ちなさいって! うろちょろしない! そこ、そこに座って!」

 

 少女は私の言葉がわかっているのかいないのか、ぴたりと止まったかと思えば、次の瞬間にはまた興味津々といった顔で部屋の中を見回し始める。

 ローテーブル。タブレット。流し台。干しっぱなしのタオル。

 何もかもが珍しいのか、見るもの全部へ目を輝かせている。

 

「聞いてる? ねぇ?!」

 

 半ば叫ぶように言うと、少女はようやくこちらを見た。

 それから、ほんの少しだけ首を傾げる。

 

「……ミルクは?」

 

「っ、そうだけど!」

 

 思わず答えてしまってから、私は深々とため息をついた。

 だめだ。頭が回っていない。寝起きで、しかも目の前には、さっきまで赤ちゃんだったはずの美少女が素っ裸で立っている。回るわけがない。

 

「とにかく順番、順番だから……」

 

 私はこめかみを押さえた。

 

「まず服。次にミルク。あと勝手に歩き回らない。いい?」

 

 少女はまた目を丸くする。

 それから、やけに素直にこくんと頷いた。

 

 その反応が余計に腹立たしい。

 可愛いのがまた腹立たしい。

 そして、こんな状況なのに少しだけ安心してしまう自分にも腹が立つ。

 

「……よし。いい子。いいから座って」

 

 私が布団の上を指差すと、少女は今度こそおとなしくそこへぺたんと座った。

 素直すぎる。いや、でも素直じゃなかったらもっと困る。

 

 私はクローゼット代わりの収納箱を引っ張り出しながら、心の中で何度目かも分からない確認をする。

 

 赤ちゃんだった。

 成長した。

 目の前にいる。

 夢ではない。

 

「……ほんと、何なのよ、もう」

 

 呟いても、答えは返ってこない。

 返ってこない代わりに、その少女は布団の上で膝を抱えながら、興味津々といった顔で私を見上げていた。

 

 まるで、自分がどれだけとんでもない存在なのか、これっぽっちも分かっていないみたいに。

 

 今すぐお引き取りください。

 申し訳ないけど、橘君が買ってきてくれた西竹屋のグッズも、着替えも、ガラガラも、布絵本も、ぜんぶ段ボールへ詰めて、丁重にお返し奉る。

 ええ、そうよ。完璧ね。これでいこう。

 

「……ッ」

 

 くっ、どうしたのよ私。

 

 今すぐこの厄ネタをこの家から追い払わなくちゃ、明日の平穏なんてきれいさっぱり消え去るのよ?

 ただでさえ、電柱から赤ん坊が出てきた時点で人生の想定からだいぶ逸脱してるのに、その赤ん坊が三日でこんな見た目の美少女へ進化しました、なんて、もう厄介事の完成形みたいなものでしかない。

 

 なのに。

 

「……?」

 

 目の前の少女は、不思議そうに首を傾げて私を見ている。

 ついさっきまで赤ん坊だったとは思えないくらい整った顔で。

 それなのに、その表情だけは、まだ何も分かっていない子どものままで。

 

 どうしても、その一言が口から出てこない。

 

 ――帰れ。

 

 たったそれだけなのに。

 それだけで済むはずなのに。

 

 そして、その瞬間だった。

 

 ありもしないはずの記憶が、まるで最初からそこにあったみたいな顔をして、頭の奥へどっと流れ込んできた。

 

 

     *

 

 朝。

 

 食卓の上には、湯気の立つ味噌汁。

 焼き魚。

 卵焼き。

 炊きたてのご飯。

 

 いや待って。

 なんでそんなちゃんとした和朝食なのよ。

 誰が作ったの。私?

 そんな余裕ある主婦みたいな朝を送る予定、人生設計のどこにもなかったんだけど。

 

 そこへ、小さな足音がぱたぱたと近づいてくる。

 

『ままぁ、おはよぉ~』

 

 眠そうな声で、まだ半分夢の中みたいな娘が、当然みたいな顔で私の膝へよじ登ってきた。

 

 娘。

 

 娘???

 

 しかも向かいには、顔だけが妙にぼやけた男がいる。

 

 顔は見えない。

 見えないくせに、なんか腹立つ。

 すでに腹立つ。

 

 そいつは新聞でも読んでそうな落ち着いた雰囲気で座っているくせに、娘の皿へだけ、さりげなく卵焼きを一切れ多く乗せていた。

 

『ちょっと、何しれっと増やしてんのよ』

 

『成長期だからな』

 

『便利な言葉みたいに使わないでくれる?』

 

 私が睨むと、男は何でもない顔で一切れだけ戻した。

 いや、全部戻しなさいよ。

 反省の気配が薄い。

 

 

     *

 

 幼稚園へ行く朝だった。

 

 私は娘の髪を結びながら、ハンカチ持った? ティッシュ入れた? 上履き袋は? 水筒は? と、朝からフル回転している。

 その横で、顔の見えない男は、いつの間に買ったのか分からない光るキーホルダーを娘の鞄へ取り付けようとしていた。

 

『やめて』

 

『なんでだ』

 

『幼稚園に光る羽根つきアヒルのチャームはいらないの』

 

『だが本人は気に入っている』

 

『気に入るよう仕向けたのあんたでしょ!?』

 

 娘はその横で、きゃっきゃと笑っている。

 犯人は完全にこいつである。

 

 場面が変わる。

 

 休日。

 家族三人でお出かけ。

 

 私は荷物持ち。

 娘はご機嫌。

 顔の見えない男はやたら歩幅が大きいくせに、娘が石につまずきそうになった瞬間だけ、信じられない速さで抱き上げている。

 

『大丈夫か』

 

『だいじょーぶ!』

 

『大丈夫じゃないでしょ、膝すりむいてるし』

 

『……小さいな』

 

『何がよ』

 

『傷だ』

 

『獅子はどうのこうので強く育てようとする父親面を今すぐやめろ』

 

 そのくせ、私が絆創膏を探そうとすると、男はすでにポケットから出していた。

 

 なんなの。

 ムカつく。

 でも地味に助かる。

 いちばんムカつくやつだ。

 

 

     *

 

 

 休日。

 車の後部座席。

 窓の外へ流れていく青い空。

 前ではその顔の見えない男が運転していて、私は助手席から後ろを振り向いて、娘のシートベルトがちゃんとしているか何度も確かめている。

 娘は眠たそうにしながらも、買ってもらったばかりのよく分からないアヒルのぬいぐるみを抱えてご機嫌だ。

 

 サービスエリア。

 自販機。

 ぬるくなりかけたお茶。

 紙コップのソフトクリーム。

 娘が途中で転びそうになるより一瞬早く、その男が腕を伸ばして抱き上げる。

 私が叱る前に「大丈夫だ」とだけ言って、何でもない顔で娘の靴についた砂を払っている。

 

 

     *

 

 

 小学校の入学式。

 

 ランドセルがまだ少し大きくて、制服も歩き方も落ち着かない娘。

 私は前髪を整えて、靴下を見て、ハンカチの位置まで確認して、朝から落ち着かない。

 その横で男は、記念撮影だなんだと騒いでいる。

 

 しかもカメラのストラップに、また変なチャームがついていた。

 

『それ何』

 

『入学記念だ』

 

『何で記念が全部光るのよ』

 

『記念だからだ』

 

『会話になってないのよ!』

 

 娘はその横でまた笑っている。

 男も少し笑っている。

 私だけが本気で怒っている。

 

 ……はずなのに。

 

 その怒っている声の響き方だけが、妙にやわらかい。

 

 

     *

 

 

 

 夜。

 お風呂上がりの娘が、眠そうにふらふらしている。

 

 私はタオルで髪を拭いている。

 男はドライヤーを持って待機している。

 

『貸して』

 

『まだ何もしていないぞ』

 

『その顔は絶対変な乾かし方する顔だから』

 

『変な乾かし方とは』

 

『子どもの前髪を七三に分ける乾かし方よ』

 

『一度しかしていない』

 

『一度でもやったんじゃない!』

 

 娘はそれを見て笑っている。

 私は本気で怒っている。

 男は「なぜバレたんだ」みたいな顔をしている。

 

 ……何この家庭。

 ツッコミ役、私しかいないんだけど。

 

 

     *

 

 

 

 娘が熱を出していた。

 

 私は体温計、冷えピタ、水枕、薬、タオル、着替え、とにかく片っ端から必要なものを探している。

 頭の中はぐちゃぐちゃで、でも手だけは動かしている。

 

 その横で男は、うるさいくらい静かだった。

 

 静かなのに、必要なものだけは全部、私が口に出す前に持ってくる。

 

 水。

 体温計。

 タオル。

 薬。

 保険証。

 

 ちょっと待って。

 さっきまで光るアヒルを幼稚園バッグへつけてたくせに、こういう時だけやけに有能なの何。

 怖いんだけど。

 

『……ありがと』

 

 気づけば、私はそう言っていた。

 

 男は顔の見えないまま、短く頷く。

 

『当然だ』

 

 その言い方がまた腹立つ。

 でも、娘の額へ置いた手だけは、妙にやさしかった。

 

     *

 

 家族三人で、狭い食卓を囲んでいた。

 

 娘は今日あったどうでもいいことを一生懸命喋っている。

 私は相槌を打ちながら皿を寄せ、こぼしたご飯粒を拭き、味噌汁を冷ましている。

 男はちゃんと聞いている顔をしながら、娘にだけひっそりと唐揚げを一個多くよそっていた。

 

『あんたまた増やしてるでしょ』

 

『バレたか』

 

『毎回バレてるわよ』

 

『だが娘は嬉しそうだ』

 

『それで全部通ると思うな』

 

『思ってはいない』

 

『思ってないやつの顔じゃないのよ!』

 

 娘はそれを見て、意味もなく笑う。

 男も少し笑う。

 私だけが本気で怒っている。

 

 ……はずなのに。

 

 その食卓の空気が、やけにあたたかかった。

 顔はやっぱり曖昧なままなのに。

 食卓の匂いだけは知っている。

 笑い声の響き方だけは、どこかで聞いたことがある。

 隣に誰かがいて、向かいにも誰かがいて、狭い部屋の空気がちゃんと温かかったことだけは、妙に生々しい。

 

 そこで、ふっと映像が乱れた。

 

 ちゃぶ台。

 味噌汁。

 玄関に並ぶ靴。

 少し高いところから降ってくる笑い声。

 怒っているのに、最後にはちゃんと温かいご飯が出てくる空気。

 誰かがいて、誰かが返して、家の中にちゃんとがあった感じ。

 

 それが、()()()()()()()()()()の記憶の中へ、何の前触れもなく混ざった。

 

 

 

 

 

 ……いや待って。

 

 

 

 

 いや、だから。

 

 

 

「いや、そんな記憶そもそもねぇし」

 

 思わず、素で口に出た。

 

 誰よ今の男。

 何であんな自然に我が物顔で食卓についてんのよ。

 まだ結婚も出産もしてないし、なんなら高校も卒業してないんですが?

 

 落ち着け、私。

 きっと疲れたのだ。

 いや絶対疲れてる。

 寝不足だし、夜中だし、目の前には三日で成長した素っ裸の美少女がいるし、脳みそが非常事態宣言を出したって何もおかしくない。

 

 これは幻覚。

 そう、ただの幻覚。

 

 なのに。

 

 顔の見えない男が娘の靴についた砂を払う手つきとか。

 こっちが言う前に必要なものを持ってくる感じとか。

 私が怒っているのに娘が笑ってる食卓の空気とか。

 変なところだけ妙に手触りがあるのが、いちばん腹立たしい。

 

 笑えるくらい馬鹿みたいな幻覚なのに。

 内容はめちゃくちゃなのに。

 妙に、嫌ではなかった。

 むしろ、厄介なくらいに手触りだけが温かかった。

 

 それがいちばん、腹立たしい。

 

「ふぅー、ふぅー……」

 

「……どゆこと~~~? だいじょーぶぅ?」

 

「いや、それこそこっちの台詞だから」

 

 なんで伸ばすの。

 なんでそんな無駄にのんびりした喋り方なの。

 こっちは頭の中が大渋滞なんですけど。

 

 こめかみを押さえたくなる。

 いや、もう押さえてる。

 頭が痛い。とても痛い。

 

 でも、とにかく、このままうやむやにしてはいけない。

 私は一度だけ深く息を吸って、なるべく冷静な声を作った。

 

「とにかく、とっとと帰ってくれませんかね? 得体のしれないものはお断りなの」

 

 頼む。

 さっさと帰ってくれ。

 マジで。

 

 私の平穏のためにも。

 そして、橘君にこれ以上迷惑をかけないためにも。

 

 しかし、少女の腕を取って、力ずくでご退場願う――という選択肢だけは、どうにも取れなかった。

 見た目がどうであれ、さっきまで赤ん坊だった子だ。

 無理やり引っ張る気にはどうしてもなれない。

 結局、言葉で言うしかない。

 

「やだー!!」

 

 そして、これである。

 

 この小さな身体のどこにそんな肺活量があるのか、声だけは一丁前に通る。

 しかも無駄にでかい。

 

「ちょっと、叫んだらダメでしょ! またお隣に怒られるわよ!?」

 

「いーやーだー! いやなのはいやっ!」

 

 強い。

 意思が強い。

 というか、ただの子どもか。

 

 こうなったら、もう実力行使しかない。

 まさかこんなに早く、リベンジの機会が訪れるとは思わなかったけれど。

 前回は電柱相手だったから負けたのよ。

 女同士でなら――

 

「ちょ、あんた、力つよっ」

 

 本当に強かった。

 

 見た目の年齢相応にしか見えない華奢な腕なのに、引っ張ってもびくともしない。

 どころか、逆にこちらの手首が持っていかれそうになる。

 

「あ、痛い痛い痛い痛いよ~!」

 

「あ、ごめん! 痛かった?」

 

「うぎゃっ?!」

 

 ――ゴンッ!

 

 乾いた、嫌な音がした。

 

 少女の身体がぐらりと傾き、そのまま後ろへ転ぶ。

 よりによって、きれいな軌道で窓際の角へ後頭部をぶつけた。

 

 私の顔から血の気が引く。

 

「……っ」

 

 いや、ちょっと待って。

 ほんとうにごめん。

 まさかそんなにきれいに転ぶとは思わなかった。

 せめて窓の角じゃなくて壁とか、もっと丸いところにぶつかってよかったじゃない――いや、そういう問題じゃない!

 

「大丈夫!?」

 

「うぅぅぅ、いたいよぉ~~~、だれか助けてぇ~!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひやりとした。

 

 ――助けて。

 

 たったそれだけの単語なのに、一瞬で昔の声が蘇る。

 

ー助けて?

ーそないなこと気軽に言えるのが私の娘やなんて、ほんま驚きやわ。

ーこの世で頼れるんは自分一人や言うたん、もう忘れてしもたん?

 せやったら――

 

 喉の奥が、苦くなる。

 

 “助けて”なんて言葉は、私にとっては説教と痛みと苦い記憶しか連れてこない単語だった。

 軽々しく使っていい言葉じゃない。

 使ったところで、返ってくるのは冷たさだと、ずっと思っていた。

 

 でも、それと同時に、もう一つ浮かぶ声がある。

 

 ――ちゃんと人に頼れたじゃないか。偉いな。

 ――だから今言う。ちゃんと頼れたのは偉い。

 

 あの人の言葉だ。

 橘君の。

 

 彼に出会ってから初めて、私は人に頼った。

 “助けて”と言った。

 そして、助けを求めたことを、偉いと褒められた。

 

 今でも信じられない。

 でも、あれは確かに現実だった。

 

 私は、泣きじゃくる少女の前にしゃがみ込んだ。

 

「……ハァ、ごめんね。こっちも、いろいろ余裕がなかったの」

 

 後頭部へ手を伸ばす。

 打ったらしい場所を、そっと撫でる。

 赤ん坊だった頃を思い出すように、力を抜いて、ゆっくりと。

 

「いたかったよね」

 

 少女の身体は、まだ痛みでびくびく震えていた。

 でも、後頭部を優しくさすってやると、その震えが少しずつ小さくなっていく。

 

 不思議だった。

 ほんの数日前まで、私はこんなこと何ひとつ知らなかったはずなのに。

 抱っこも、あやし方も、泣かれた時の宥め方も。

 それなのに今は、こうして手を伸ばせば、少しだけ落ち着いてくれる。

 

 少女の泣き声が、しゃくり上げる程度にまで下がる。

 

「でもね、まだ夜中に大声は出しちゃだめだよ」

 

 私はなるべく穏やかな声で言った。

 

「ご近所迷惑だし、騒いだからって痛いのが消えるわけじゃないから」

 

「……うぅ」

 

「うん。いたいのはいたいよね。分かる」

 

 それでも、さっきみたいにわあわあと叫び続けることはない。

 だんだんと呼吸が整っていく。

 肩の震えも止まっていく。

 

 私はその様子を見ながら、心の中でこっそり拳を握った。

 

 ――壁ドンなし。

 

 幸いにも、今日は壁ドンが飛んでこなかった。

 

 ナイス、私。

 さすが私。

 三日間の育児特訓は伊達じゃなかった。

 

 少女はまだ少し涙目のまま、じっと私を見上げている。

 その目にはさっきまでの反抗心も、きらきらした好奇心も少しだけ引っ込んで、代わりに“助かった”みたいな頼りない色が浮かんでいた。

 

 私はもう一度ため息をつく。

 

 今すぐお引き取りください。

 その決意は、たった今、自分の手で思いきり揺らされた気がした。

 

 ――立ち上がったやつが全部やるんや。やりたいなら、相手が立つまで座っとき。

 

 そうね。

 お母さんなら、そう言うよね。

 っていうか、実際にそう言われたし。

 

 こんな時にまで思い出したくないのに、変なところで記憶は律儀だった。

 けれど、その言葉だけは、今の状況に妙にしっくりきてしまう。

 

 もう三日だ。

 たった三日。

 でも、私にとっては十分すぎるくらい長かった。

 

 この子の面倒を見るって決めたのは私だ。

 最初に拾ったのも私。

 勝手に助けを求めて、橘君を巻き込んだのも私。

 

 なら、やらなくちゃ。

 

 わたしが責任をもって。

 立ち上がったんは私なんやから、最後まで立たなくちゃ。

 

 

 

    *

 

 

 

「卵、うどん、ミートソース……ぅぅぅ、三日分の食費がぁ……」

 

 冷蔵庫を開けながら、思わず呻く。

 

 しかも、よりによって午前二時だ。

 こんな時間に、こんな重たいものを食べるなんて。

 

 昨夜、橘君がまたしても買ってきてくれた食材のおかげで、パジャマ姿のままコンビニまで走らずに済んだのは、本当にありがたい。

 ありがたいのだけれど、やっぱり心は痛む。   

 

 卵。

 うどん。

 ミートソース。

 

 どれも安くはない。

 正確には、買えないほど高いわけじゃない。でも、今の私の中では確実に「慎重に切り崩すべき食材」に分類されるものたちだ。

 

 一気に三日分の食費が消える。

 そう思うと、胃のあたりがきゅっとなる。

 

 けれど、じゃあ他に何を食べさせるのかと聞かれれば、答えはない。

 

 ミルク以外に何が食べられるのか。

 何が好きなのか。

 何を食べさせていいのか。

 

 まだ分からないことだらけだ。

 

 分からない。分からないけど、だからといって、頭を打って痛がっている子を見て見ぬふりはできないし、さっきからぐぅー、と分かりやすすぎる音でお腹を鳴らして、あんな物欲しそうな目で見上げられてしまったら、こっちだって意地を張りきれない。

 

 しかも追い打ちみたいに、あの「たすけてぇ~」である。

 あんなふうに泣かれておいて、はいそうですかと突っぱねられるほど、私は器用じゃない。

 

 夜中の二時に食べるものとしては、どう考えても重い。

 重いし、カロリーだって高い。

 こんな時間に、こんなものを食べたら胃に悪い。

 ……でも、どうせ食べるなら、少しでも美味しく食べたいと思ってしまうのが人間というものである。

 いや、私は宇宙人相手に何を“人間というものである”みたいな顔で語ってるのよ。

 

 そもそも、この子って地球の食べ物で大丈夫なんだろうか。

 いやでも、ミルクはがぶ飲みしてたし。

 今さらか。

 今さらだわ。

 ここまで来て「実は乳製品NGの月の民でした」とか言われても、もう知らない。

 

 だから、子どもが好きそうなもの。

 それでいて、今この部屋にあるもの。

 そして、できれば失敗しにくいもの。

 

 その条件だけで選んだ結果が、目玉焼きと、すぐ茹でれるうどんと余ったミートソースだった。

 

 うどんの麺を、半玉ではなく一玉まるごと茹でる。

 鍋の上へ蓋代わりみたいにフライパンを乗せて、その上で卵を落とす。

 切り口を少し広げたミートソースの袋を、レンジへ放り込んで温める。

 

 手は、思っていたよりずっと迷わずに動いた。

 火加減を見る。

 麺の具合を見る。

 白身が固まりすぎないように、黄身が死なないように、フライパンの様子をうかがう。

 うどんに絡めるなら、ソースは少し緩めの方がいい。なら温めすぎない方がいいか。そんなことを考えながら、袋の端を持つ指先の動きまで、我ながら妙に丁寧だった。

 

 別に。

 優しくしているつもりなんてない。

 ない、はずなのに。

 

 後ろから聞こえてくる、すすり泣きを我慢したみたいな鼻声とか、時々鳴るお腹の音とか、そういうのがいちいち耳に入ってくるせいで、雑に済ませる気にもなれなかった。

 

 少女の方をちらりと見る。

 

 さっきまであんなに騒いでいたくせに、今は布団の端にちょこんと座って、頭を打ったところを気にするようにしながら、じっとこっちを見ている。

 痛かったのだろう。

 お腹も空いているのだろう。

 そのくせ、目だけはまだきらきらしていて、こっちが何をしているのか知りたくて仕方ないみたいな顔をしている。

 

「……そんなに見られるとやりづらいんだけど」

 

「おなかすいた……」

 

「知ってる」

 

 知ってるから作ってるの。

 そう言い返した声が、思ったよりきつくならなかったのは、たぶん眠いせいだ。きっとそうだ。

 

 フライパンの上で、卵の縁がじゅっと鳴る。

 レンジの中ではミートソースが温まり、部屋の空気にトマトの匂いが少しずつ混ざっていく。

 

 こんな時間に。

 こんな状況で。

 宇宙人かもしれない正体不明の少女へ夜食を作っている。

 

 文字にすると全部がおかしい。

 全部がおかしいのに、私の手つきだけは、やけに落ち着いていた。

 

 たぶん、落ち着いて見えるだけだ。

 頭の中はぜんぜん落ち着いていない。

 食費のことも痛いほど気になるし、夜中二時にうどん一玉まるごと使う罪悪感だってある。

 卵だって、今の私にとっては雑に扱っていい値段じゃない。

 

 それでも。

 

 どうせ食べさせるなら、少しでも美味しい方がいい。

 どうせ食べるなら、痛いのもお腹が空いたのも、少しだけ忘れられるくらいの方がいい。

 

 そこまで考えてしまってから、私は心の中で小さく舌打ちした。

 

 ……ほんと、甘いな。私。

 

 けれど、今さらそこで手を抜く理由もない。

 

 茹で上がったうどんを湯切りして皿へ盛る。

 その上へ温めたミートソースをかける。

 最後に、黄身がぎりぎり生きているくらいの目玉焼きをそっと乗せる。

 

 午前二時の罪深い一皿。

 なんちゃってミートソース風スパゲティ(うどん)の完成である。

 

 私も少しだけ小腹が空いていたから、昨夜のうちに茹でておいたゆで卵を一つだけ剥いて口へ放り込む。

 塩もつけない。

 つけなくても、今はもう十分だった。

 

 そうしてどうにか皿へ盛りつけたそれを、ちゃぶ台の上へ置く。

 

 ミートソースに絡めたうどん。

 上に目玉焼き。

 午前二時に食べるには重い。

 でも、子どもはこういうのが好きそうだ、という偏見だけはある。

 

「……よし」

 

 私が向かいへ座ると、少女は興味津々といった顔で皿を見つめていた。

 

「いただきます」

 

 私が手を合わせる。

 

 すると、目の前の少女も見よう見まねで、小さな手を胸の前で合わせた。

 

 意味は分からないはずなのに、ちゃんと真似するのはえらい。

 

 私は思わず少しだけ口元を緩める。

 

 少女は私の顔を見てから、今度は皿へ視線を落とした。

 そして、おもむろにフォークを掴む。

 

 その持ち方はぎこちない。

 それでも、どうにか麺を巻き取ろうとして、真剣な顔で手首をひねる。

 危なっかしい。

 でも、止めるほどではない。

 

 やがて、どうにか絡んだ麺をそのまま口へ運ぶ。

 

「――っ」

 

 その瞬間だった。

 

 ただでさえ大きいその瞳が、さらにきらきらと散った。

 今にも星でもこぼれ落ちそうなくらい、露骨に輝く。

 

「すごい! これなに? ちょううまいーっ」

 

 気に入ったらしい。

 ひと口で終わらない。

 止まらない。

 

 ぱくぱくと、勢いよく食べ進めていく。

 目を丸くして、頬をふくらませて、また次のひと口を急ぐその様子は、まるで“食事”という概念自体が初めてみたいだった。

 

 知識では知っていた。

 でも、実際に経験してみて、はじめて感動した。

 そんな顔だった。

 

「ミートソースに絡めたスパゲティ...じゃなくうどんだけど。どう、美味しい?」

 

「スパゲティ、大好き! おいしい!」

 

 好き、って。

 さっき初めて食べたくせに、もう好きって言うんだ。

 

 でも、その迷いのなさが妙におかしくて、私は少しだけ笑いそうになる。

 

「この黄色と白いのは? ぷりぷりして、やわらかい!」

 

「それは目玉焼きの黄身と白身ね」

 

「たまご?」

 

「そう、たまご」

 

「たまご、おいしい!」

 

 ひとつ覚えるたびに、目を輝かせる。

 知っていくこと全部が面白い、みたいな顔で。

 その反応がいちいち大きくて、いちいち素直で、見ているこっちまで妙に気が抜ける。

 

 ……こうやって喜んで笑っている姿を見ると、やっぱり、あの赤ちゃん本人なんだなと改めて感じる。

 

 笑い方が似ている。

 目を細める時の無邪気さが、そのままだ。

 とくに、橘君が馬鹿をして、私に怒られて、その様子を見ていた時に浮かべる笑顔と、驚くほどよく似ている。

 

 まったく。

 変なところばかり引き継がないでほしい。

 

 けれど、その“変なところ”が妙に愛嬌になってしまっているから、余計に困る。

 

 食卓が騒がしい。

 

 フォークの触れ合う音。

 ソースの飛び散らないように気をつける私の声。

 「これなに」「おいしい」「もっと」という、感想とも会話ともつかない小さな歓声。

 

 いつぶりだろう。

 こんなふうに、騒がしい食事の風景を、自分の家の中で見るのは。

 

 京都の実家にいた頃は、ある時期を境に、食卓はいつも張りつめていた。

 話していても、どこかで誰かが機嫌を損ねないかを気にしていた。

 笑うとしても、声の大きさを考えた。

 息をつく場所すら選ばなければならなかった。

 

 学校では、真美と芦花がいて、最近は橘君も混ざるようになって、少しずつ騒がしくなってきた。

 けれど、この家の中では、ずっと私一人だった。

 

 帰ってきても、一人。

 食べても、一人。

 寝ても、一人。

 

 静かなのは当たり前で、誰かの笑い声が部屋に残ることなんて、ほとんどなかった。

 

 なのに今は。

 

 こんな時間に。

 こんな家で。

 たった二人しかいないのに。

 

 どうしても、胸の内から込み上げてくるものがある。

 

 まさか、家の中で誰かの笑顔を見ながら、自分まで笑える日が来るだなんて。

 一か月前の私なら、想像もしなかったかもしれない。

 

 少女は頬へソースをつけたまま、また私の方を見て笑った。

 

「彩葉も食べないの?」

 

「私はいいの。見てるだけでお腹いっぱい……って言いたいところだけど、そういうわけにもいかないから食べるわよ」

 

 言いながら、私はさっき剥いたゆで卵の残りを口へ入れる。

 

 味気ない。

 でも、その味気なさすら、今は少しだけやわらかく感じた。

 

 少女はまたスパゲティへフォークを伸ばす。

 そのたびに目を輝かせて、「おいしい!」と、いちいち大きな声で言う。

 

「そんなに何回も言わなくても、聞こえてるって」

 

「だって、おいしい!」

 

「はいはい」

 

「彩葉、すごい!」

 

 その言葉に、私は一瞬だけ返事を止めた。

 

 すごい。

 そんなふうに、真正面から、何の含みもなく、何の計算もなく言われるのは、なんだかひどく久しぶりな気がした。

 

「……ありがと」

 

 それだけ返すのが、精一杯だった。

 

 少女はもう次のひと口へ夢中で、たぶん私の声なんて半分も聞いていない。

 それでもよかった。

 

 ちゃぶ台の上。

 午前二時。

 ミートソーススパゲティと目玉焼き。

 どう考えても、普通じゃない。

 

 普通じゃないのに。

 

 その光景だけは、どうしようもなくあたたかかった。

 

 

 


 

 

 

 

     *

 

 三連休が終わった朝、雅治は目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。

 目を開けた瞬間、時間を確かめるより先に、耳だけが何かを探していた。

 泣き声はない。

 そこでようやく、自分が自室にいるのだと理解する。

 

 最初に感じたのは、静けさだった。

 

 自分の部屋だ。

 見慣れた天井。見慣れたカーテン。見慣れた朝の薄明かり。

 ベッド、机、衣類棚、工具箱、参考書の本棚、簡易の撮影機材。

 その端には、作りかけのまま手を離していたものまで転がっている。

 

 いつもの俺の部屋。

 何も変わっていない、俺の場所だ。

 

 泣き声はない。

 誰かの寝息も、布団の擦れる音もない。

 次はミルクか、おむつか、それともただ寂しいだけかと、意識を張っておく必要もない。

 

 あの狭い四畳の部屋とは違う。

 ここは、俺だけの、俺のためだけに合わせられた空間だった。

 

 それなのに。

 

 身体のどこかだけが、まだ三連休の続きをしていた。

 

 一人でいることに慣れていたはずなのに、今朝の静けさはどこか空きすぎていた。

 楽なはずだ。実際、楽でもある。

 なのに、身体のどこかだけが、その楽さをまだうまく受け取りきれていなかった。

 

 物音ひとつに反応しかける。

 意識が浮いた瞬間、時計を見るより先に「次は何だ」と構えそうになる。

 そんな自分に気づいて、雅治は小さく息を吐いた。

 

「……癖になったか」

 

 たった三日。

 されど三日だ。

 

 突然の泣き声に叩き起こされて、ミルクを作って、様子を見て、また眠らせる。

 片方が部屋を空ければ、もう片方がそれを埋めるように残って、泣き声と寝息のあいだをどうにか繋いでいく。

 

 そんなことを何度も繰り返していたせいで、頭より先に身体が覚えてしまったのだろう。

 

 だが、今日は違う。

 

 起きてすぐ、あの部屋へ向かうわけにはいかない。

 今日は平日だ。学校がある。

 三連休のあいだみたいに、朝から酒寄とあの子のところへ行ける日じゃない。

 

 その当たり前が、少しだけもどかしかった。

 

 酒寄は起きているだろうか。

 あの子はどうしているだろうか。

 夜のあいだに、また何か起きていないだろうか。

 

 気になる。

 気になるが、今はどうにもできない。

 

 雅治は布団から起き上がった。

 少しだけ重たい肩を回し、水を飲む。

 頭は起きている。

 むしろ、妙に冴えていた。

 

 だから、走るか、と思った。

 

 平日の朝の日課。

 早く起きた日は走る。

 頭を整えるためでもあり、身体を学校の時間へ戻すためでもある。

 

 短く着替えて外へ出る。

 朝の空気はまだ薄く冷えていて、肺へ入る一息目が少しだけ鋭い。

 

 走る。

 

 足音。

 呼吸。

 一定のリズム。

 

 一歩、また一歩と前へ出しながらも、頭の中から完全に消えるわけではなかった。

 

 誰にも言えない秘密。

 意味不明で、大変で、どうしようもなく慌ただしかった三日間。

 

 それでも。

 

 ()()()()()

 

 育児とは、あるいは自分以外の命に責任を持つということは、思っていたよりずっと重い。

 重くて、面倒で、寝不足になって、思い通りにはいかなくて、たぶん大人だって投げ出したくなることがあるのだろうと思う。

 

 なのに、楽しいと。 

 そう思ってしまう時点で、たぶんだいぶおかしい。

 育児めいた何かに振り回されて出てくる感想がそれか、と自分でも思う。

 

 それでも、あの三日間は充実していた。

 

 始めてだった。

 僕ではなく、()として、誰かと話せたのは。

 

 嬉しかった。

 ほかでもない、その()を頼ってくれたことが。

 

 酒寄彩葉は、ああいう形で人を頼るような女じゃない。

 少なくとも、雅治にはそう見えていた。

 そんなやつが、七色に光る電柱だの赤ん坊だのという意味不明な事態に追い込まれて、最後に自分へ手を伸ばした。

 

 あれが嬉しくなかったと言えば、嘘になる。

 

 不思議だった。

 

 赤ん坊。

 いや、もうその呼び方も少し違うのかもしれない。

 あの子は今、どうしているだろう。

 

 たった三日だ。

 たった三日間しか触れていない。

 たった三日しか、あの子を抱いて、あやして、寝顔を見ていない。

 

 それなのに、もう気になって仕方がない。

 

 朝はどうしているだろう。

 ちゃんと食べただろうか。

 夜のあいだにまた急に大きくなったりしていないか。

 酒寄一人で、ちゃんと回っているだろうか。

 

 走っている最中ですら、ふとした拍子に思い出す。

 ミルクの甘い匂い。

 洗いたてのタオルの感触。

 狭い部屋に溜まっていた、あの夜の熱。

 

 そんなことを、平日の朝のランニング中に考えている。

 我ながらどうかしている。

 

 けれど、あんなに笑えるものなんだなとも思った。

 

 赤ん坊(あの子)でも。

 酒寄でも。

 

 あんなに楽しそうにしていられるのだと、目の前で見せつけられた。

 

 なら、も。

 も。

 あんな風に笑うことができたのではないか。

 

 ふと、胸の奥から何かがせり上がってくる。

 

 見れば見るほど、考えれば考えるほど、込み上げてくるものがある。

 だが、それは俺の闇だ。

 

 一度背中を向けて逃げ出した張本人が、いまさら他人にそれをぶつけてどうする。

 そんな真似をすれば、それこそ“本家”で嫌というほど見てきた大人たちと同じ穴の狢になるだけだ。

 

 それだけは、御免だった。

 

 走る速度を少し上げる。

 肺が熱くなる。

 朝の冷気を切り裂くみたいに足を前へ出す。

 

 走り終えて家へ戻る頃には、額にも首筋にも汗が滲んでいた。

 シャワーを浴びて、制服へ袖を通す。

 

 キッチンの隅へ置いたシェイカーに、学校で飲む分のプロテインを入れる。

 水を入れるのは後でいい。

 今日も一本、鞄へ入れようとして――そこで手が止まった。

 

 酒寄が前に、一口だけ興味を示して飲んだことを思い出した。

 

 あの時は半信半疑みたいな顔をしていた。

 味の感想は、たしか、思ったより悪くないだったか。

 いや、意外と飲める、だったか。

 細かい言葉は曖昧なのに、その時の顔だけは妙にはっきり思い出せる。

 

「……一本、増やすか」

 

 誰に言い訳するでもなく呟いて、もう一本シェイカーを取り出す。

 こちらにも同じようにプロテインを入れる。

 

 意味があるかは知らない。

 酒寄が飲むかも分からない。

 もしかしたら、いらないと一蹴されるかもしれない。

 

 だが、持っていくくらいなら勝手だろう。

 

 そう片づけて、二本のシェイカーを鞄へ入れた。

 

 家を出る。

 

 今日からまた登校日が始まる。

 夏休みまでには、もう二週間もない。

 

 一分でも早く学校が終わってほしい。

 放課後の時間が待ち遠しい。

 

 そんな風に感じたのは、いったいいつぶりだっただろう。

 

 校門が見えてくる。

 昇降口へ入る。

 下駄箱の前で靴を履き替えながらも、頭の中は別のことを考えていた。

 

 今日から酒寄は、もっと大変になる。

 

 学校があって、バイトがあって、そのうえであの子の世話までしなければならない。

 授業が終われば終わり、ではない。

 放課後にはまた別の時間が始まる。

 家へ帰っても休めるわけではなく、バイトへ行く前も、帰ってきた後も、あの子のことを気にし続けることになる。

 

 学校とバイトだけでも十分きつい。

 それを、あいつは今までずっと無理やり両立させてきた。

 そこへさらに、育児まがいの何かまで乗る。

 どう考えても、軽いわけがなかった。

 

 だが、酒寄が諌山と綾紬に事情を明かすことさえできれば、少なくとも酒寄の心身への負担は確実に減る。

 

 先日の金曜、帰り際に聞こえていた。

 近くに新しくできたというカフェの話。

 

 あの二人が酒寄をそちらへ誘導する。

 そのあいだに俺が先に部屋へ戻って、あの子の面倒を見る。

 

 少なくとも今日は、それで何とかなるはずだ。

 

 朝から午後三時、放課後までのあいだ、あの子を一人にしておくことへの後ろめたさはある。

 

 あるにはあるが、完全な無力な赤ん坊を置き去りにしている、という感覚とは少し違っていた。

 

 そもそも、あの子は普通の赤ん坊ではない。

 七色に光る電柱から現れ、夜中に光って成長した存在だ。

 人間の乳児と同じ常識だけで測る方が、むしろ危うい。

 

 もしかすると、昨夜のうちにまた成長している可能性すらある。

 

 それに、朝から酒寄からの連絡はなかった。

 慌てた通話も、短いメッセージも、救援要請もない。

 そして何より、酒寄は問題なく登校している。

 

 なら、少なくとも今朝の時点で、即座に対応しなければならない異常は起きていない。

 

 そう判断するしかなかった。

 

 もちろん、不安が消えるわけではない。

 部屋の外へ出ていないか。

 また妙な成長をしていないか。

 変な力を使っていないか。

 考え始めればきりがない。

 

 けれど、ここで勝手に動けば、それこそ酒寄の判断を踏みにじることになる。

 

 あの子を拾ったのは酒寄だ。

 最初に抱き上げたのも酒寄だ。

 そして今朝、学校へ来ると決めたのも酒寄だ。

 

 だから、こればかりは酒寄の裁量に委ねるしかない。

 

 昇降口から階段へ向かう。

 上履きの底が床を鳴らすたびに、頭の中では育児の段取りばかりが並んでいく。

 

 放課後の動き。

 酒寄のバイトの時間。

 あの子の食事。

 今日の様子。

 もしまた急に成長していたら。

 もし何か喋り出していたら。

 もし部屋の外へ出たがったら。

 

「……はぁ」

 

 思わず息が漏れた。

 

 ったく、なぜ俺が朝から育児のことで頭を悩ませなければいけないのか。

 

 時々、本気で思う。

 俺は今、何をやっているんだと。

 

 高校二年の夏、朝っぱらから考えることが、赤ん坊――いや、もう赤ん坊ですら怪しいが――の世話の段取りで埋まっているのは、だいぶおかしい。

 

 おかしいのに。

 

 少なくとも、悪くはない。

 

 階段を上りきる。

 廊下へ出る。

 窓から差し込む朝の光が、ワックスの残る床へ細く伸びていた。

 教室のある方向からは、早めに来た生徒たちの笑い声が微かに聞こえる。

 

 いつもの朝だ。

 何も変わっていない。

 変わっていないはずだ。

 

 けれど、教室の扉を前にした瞬間、意識の内側へ小さな段差があるのが分かる。

 

 三連休のあいだに纏っていたものを、そこで一度、静かに脱ぐ。

 

 赤ん坊の泣き声に反応するための耳。

 酒寄の呼吸の乱れに気づくための目。

 短く、無駄なく、必要なことだけを通す“俺”の輪郭。

 

 それらを扉の外へ置いていくように、息をひとつ吐く。

 

 代わりに引き上げるのは、もう少し柔らかい声。

 もう少し曖昧で、もう少し人当たりのいい表情。

 教室の中で角を立てずにやっていくための、“僕”だ。

 

 被る。

 ほんの一瞬で。

 

 そうしてから、何事もなかったような顔で扉を開ける。

 

「おはよう」

 

 近くにいた級友たちへ、いつもの温度で声をかける。

 

「お、橘。今日は早いな」

 

「今日は少し早めに目が覚めたのでな。ついでに軽く走ってから来ただけさ」

 

「え、朝から? 相変わらず意識高……」

 

「ただの習慣さ。慣れるとそこまで苦でもない」

 

 軽く笑って返す。

 

 感じがよく、頼りになり、優秀で。

 しかし、誰にも一定以上の距離は許さない。

 

 いつもの、橘雅治()に戻る時だ。

 

 

 

 


 

 

 

     

 

そして、時間がたち午前の三限目の教室。

 

 夜中の二時。

 突如として()()()()()()()()()()()()へミートソース風うどんを食べさせ、頭を打った女の子をあやし、存在しない家族の記憶に脳を殴られた彩葉。

 

 朝には朝で、雅治は雅治で、平静を装いながらも内心では育児の段取りと放課後の動線を組み直していた。

 

 そんな二人が、何食わぬ顔で同じ教室に座っている。

 

 青春とは恐ろしい。

 いや、これはもう青春というより、寝不足(さとり)やる気(狂気)で無理やり日常へ復帰した者たちの執念に近い。

 

 午前中の英語の授業。

 

 教壇の前では、発音のいい英語教師がいつも通り教科書を片手に授業を進めている。

 電子黒板に映る例文。

 ノートを取る音とタブレットを操作する指先。

 シャーペンの芯が紙を擦る音とペン先が画面を擦る小さな音。

 窓の外では夏の光がやけに明るい。

 

 そんな、どこまでも平穏な教室の一角で。

 

 酒寄彩葉は、目を開けたまま気絶していた。

 

 正確には、意識だけが落ちていた。

 

 三連休でたまった疲労。

 そこへ昨夜――というか、もはや今朝方まで続いた意味不明な騒動。

 加えて睡眠時間の圧倒的不足。

 

 耐えられるわけがなかった。

 

 姿勢は綺麗なままだ。

 タブレットは開いている。

 ペンも手に持っている。

 ぱっと見では、真面目に授業を受けている優等生そのものである。

 

 ただし、中身だけが死んでいた。

 

 英語教師が、教科書の一節を指し示しながら生徒を見回す。

 

「では、次。酒寄」

 

 その瞬間だった。

 

 彩葉の意識が急浮上する。

 

「はい」

 

 返事が自然すぎたせいで、誰にも気づかれなかった。

 本人だけが、心臓を飛び出しそうなくらい跳ね上げていた。

 

 やばい。

 何の質問?

 どこ?

 今どこをやってた?

 

 だが、そこは酒寄彩葉である。

 脳は死にかけていても、蓄積と反射だけで優等生は成立する。

 

 視線を一瞬で黒板、タブレット、教師の指先へ走らせる。

 文法の位置を捉える。

 設問の意図を読む。

 そして――答える。

 

 すらすらと。

 

 あまりにも自然に。

 あまりにも淀みなく。

 

 教室の空気は何も変わらない。

 教師も「ああ、そうだな」と頷いて次へ進む。

 クラスメイトたちも、いつものことのように流していく。

 

 だが、当人の内心だけが修羅場だった。

 

  っぷねー

 

 彩葉は表情を崩さないまま、内心だけで全力の安堵を吐いた。

 

  橘君のノートで教わった部分で本当に助かった……

 

 昨夜、いや一昨夜かその前か、もはやいつだったのか曖昧になりつつあるが、放課後に教え合った箇所がちょうど当たったのだ。

 英語は比較的苦手。

 単語だけならまだしも、実用寄りの言い回しや細かい文の捌き方になると経験値の差が出る。

 そこを、雅治のやたら整理されたノートで何とか補っていた。

 

 命拾いした。

 いや別に死ぬわけではないが、社会的な何かは危なかった。

 

 朝からママは大変である。

 

 そして、当の仮パパである雅治はというと。

 

 教科書代わりのタブレットを目の前で開き、左手で板書を取りながら、右手に持った短い鉛筆でノートの裏に隠したメモ用紙へ何やら書き込んでいた。

 

 優等生らしい静かな横顔。

 落ち着いた姿勢。

 誰が見ても真面目そのもの。

 

  ただし、やっている内容だけが真面目ではなかった

 

   ツクヨミの仕様上、普通のやり方でシステムの矯正と補正を迂回するのはむずかしい。あえて鎌をかけるように餌を撒いて、本命を裏で隠し通す   …いや、あのツクヨミとヤチヨならそんな子供だましが効くはずがない)

 

 おい、仮面はどこにいった優等生。

 

 メモ用紙の上には、簡易構造図のようなものと、訳の分からない記号と数式、どう見ても授業とは何の関係もない設計メモがC(コンピューター)言語と共に並んでいる。

 どうやら昨夜までのがまだ完全に引っ込んでいないらしい。

 

 むしろ、授業中という制約があるせいで、余計な方向へ頭が回っているまである。

 

 英語教師の声が教室へ響く。

 

「次、ここの構文だが――」

 

 その声を右から左へ流しながら、雅治の頭の中では別の授業が進行していた。

 

(シュレーディンガーの方程式。あるかないかは箱を開けるまで誰にも観測できない二重の事象、  ……いける。これならいけるッ。あのツクヨミの中でも再現できる。()()()()()  

 

 またしてもシらぬイ(ロクデナシ)成分が暴走していた。

 

 いくら仮面()を被っても、三日間ずっと暴れっぱなしだったのだ。

 完全な切り替えには至っていないらしい。

 むしろ、表向きが静かになった分だけ、内側でろくでもない発想が培養されている。

 

 危険である。

 非常に危険である

 

 教室の窓際では、綾紬芦花がちらりと彩葉の横顔を見ていた。

 

 ぱっと見ではいつも通り。

 いつもの優等生。

 髪も整っているし、ノートも取っているし、姿勢も綺麗だ。

 

 だが、芦花の目はそういう()()()()()()に騙されるほど鈍くはない。

 

 疲れている。

 

 たぶん、かなり。

 

 目元のごくわずかな重さ。

 瞬きの間隔。

 呼吸の浅さ。

 そして、答え終えたあとの一瞬だけ抜けた肩の力。

 

 ああ、彩葉、また無理してるんだな、と。

 それだけはすぐに分かった。

 

 一方で、真実はというと、授業中にもかかわらず、頭の片隅の三割くらいを「昼、何食べようかな」で占められていた。

 しっかり者ではある。

 あるのだが、食に対してだけはブレない。

 

(今日の学食、日替わり何だっけ……いやその前に、彩葉ちょっと眠そう? あと橘くん、何かまた変なこと考えてない?)

 

 マイペースに見えて、見るところは見ている。

 

 そして、その真美でさえ、なんとなく思った。

 

 この二人。

 なんか、微妙に変じゃない?

 

 いつもの二人だ。

 いつもの橘と、いつもの酒寄。

 

 そう見える。

 そう見えるのに、ほんの少しだけ、何かが違う。

 

 空気の厚みとでも言うのか。

 距離感の測り方とでも言うのか。

 言葉にしづらい、けれどたしかな違和感。

 

 それはたぶん、同じ秘密を知ってしまった者同士にだけ出る、目に見えない綻びのようなものだった。

 

 もちろん、当人たちはそんなことを気にしている余裕などない。

 

 彩葉は英語の設問へ答え終えた反動で、次の睡魔と戦っていた。

 雅治は雅治で、教室の真ん中に座りながらツクヨミの()()()()()()()などという物騒すぎるものを練っていた。

 

 授業は進む。

 黒板は埋まる。

 チャイムはまだ鳴らない。

 

 だが、そんな平和な午前の裏側で、二人の脳内だけは一切平和ではなかった。

 

 なお。

 

 例の女の子 元赤ん坊(かぐや)と出会って、平穏も理性も常識も根こそぎ破壊されるまでに残された時間は、もう五時間を切っていた。

 

 これまで散々好きに暴れ回ったツケを払う時が、いよいよ訪れようとしているのかもしれない。

 

 さらに、なお。

 

 たかが〇歳児に負けるようではシらぬイ(バカ)の名折れかもしれないが、相手もまた、月から来た得体の知れない何かである。

 

 喰うか喰われるか。

 どちらの狂気と好奇心が勝るかは、まだ誰にも分からない。

 

 少なくとも、この時点の橘雅治は知らなかった。

 

 放課後、自分が持ってきた二本目のシェイカーごと、平穏な優等生生活の残骸をまとめて吹き飛ばされる未来を。

 

 





一度原作に入るとプロットも組みやすいし、一々想像する苦労も減るには減るけど、逆に雅治という異物が挟んだことによるバタフライエフェクトを計算することにリソースを割いている感じ。
結局頭が痛いのは相変わらずか。ハハッ

途中にカットされたかぐやとのハッピーエンド騒ぎは原作通りに行きます。
ただ、彩葉のことは彩葉と呼ぶけども、雅治のことはデカイ人としか呼んでいません。
パパと呼ばないだけマシか。

最初はここまで全部入れようかと思いましたが、さすがに原作のシーン全部をなぞるのはテンポが悪いし、どこでハーメルンの規定に引っかかるかわかりませんのでここはカットしました。

しかし、齢17歳にしてすでにママみと貫禄を見せ始める彩葉ママ。
三日間の特訓に加わって、子供とアホ旦那の二重の攻撃をさばききったのはやはり伊達ではない。


さてさて、かぐやがシらぬイのこと、雅治までも手玉に取るのか、それともここは先達としての威厳を貫くシらぬイとなるのか。
シらぬイVSかぐやVSダークライ。
最後の勝利者は誰になるか。

なお、苦労人にして常識人ママ枠である彩葉のストレスはマッハになり吹っ切れるかも知れん。

ここまでお読みいただきありがとうございました。
いつも僕のくだらないノリに付き合ってくださって感謝しかありませんが、これからもよろしくお願いします。
では、さらば!



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