主人公の名前を決めてください 作:タッチペンヲダセツッテンダロォ
泥の底から、引き剥がされた。
そういう感覚だった。鉤爪のような何かが意識の端を掴み、強引に引き上げる。抵抗する暇もない。ただ、暴力的に、覚醒させられた。
頭蓋の奥で、鈍い痛みが脈に同調して打っている。喉が渇いている。舌が上顎に張り付いて、剥がれない。
瞼を開けようとする。開かない。睫毛が何かで固まっているのか、それとも自分の意志が筋肉に届いていないのか、判断すらできない。何度か瞬きを繰り返すと、ようやく薄い光が差し込んできた。視界は濁っている。焦点が定まらない。
天蓋があった。
色褪せた深紅の布地に、金糸の刺繍。幾何学模様が複雑に絡み合い、しかし所々が擦り切れ、長年の埃を吸って黒ずんでいる。
自分が誰なのか、分からない。
なぜこんな場所に横たわっているのか、分からない。記憶の端を手繰り寄せようとすると、何もない。焼かれたのではなく、最初からなかったかのように、ただ空白だ。
「私」という輪郭だけが、辛うじてある。
名前が出てこない。
どれだけ探しても、出てこない。名前というものが自分に存在するのかどうかすら、確認できない。名前のない人間がいるはずがないと思う。しかしその「はずがない」という論理が、実感を伴っていない。探している場所が、最初から空洞だ。
唯一はっきりしているのは、右腕の痛みだった。
前腕から上腕にかけて、鉛のような重だるさと、鋭い強張り。酷使した直後の筋肉の痛みだ。ただ、何を酷使したのかが分からない。重いものを、繰り返し、下に向かって振り下ろしたような——そういう、奇妙に局所的な疲労感だった。
上半身を起こすと、ベルベットのシーツが冷たかった。カビと埃の匂い。それに微かな、薬品に似た何かが混じっている。
視線を下ろして、自分の服を確認した。
純白のネグリジェだった。コットン製で、裾に淡い水色のレースがあしらわれている。皺一つない。染み一つない。部屋の調度品がどれも長い年月で腐りかけているのに、この服だけが、まるでつい今しがた畳まれていたかのように清潔だった。
それが、何故かひどく気になった。
ベッドから出て、重厚なカーテンを引いた。
窓の外に広がっていたのは、赤紫色に腫れ上がった空だった。雲ではなく、赤黒い斑紋が幾重にも層を成し、ゆっくりと蠢いている。その中央に、ひび割れた月が二つ浮かんでいた。見たことのない月だ。地上には枯れ果てた黒い森が広がり、風に揺れる様子がない。完全な静寂だった。
私はしばらく、その光景を見ていた。
恐怖がないわけではない。ただ、もっと根本的な部分で、自分が何を恐れるべきかの基準そのものが失われているような感覚があった。恐ろしいと思う。しかしその「恐ろしい」が、誰の感情なのか。この感情を持っている「私」が何者なのかが分からない以上、恐怖すら宙ぶらりんだった。
「——気がついたのね」
振り返ると、部屋の入り口に少女が立っていた。
分厚い黒のショールをすっぽりと羽織っている。透けるように白い肌、闇より深い黒髪。薄暗い部屋の中で、彼女だけが輪郭を持っているように見えた。
エイミ、という名前が浮かんだ。
自分の名前は出てこないのに、彼女の名前だけが、迷いなく浮かんだ。
それは、奇妙だった。
自分の名前を探した時、あそこには空洞があった。しかし彼女の名前は空洞ではなかった。エイミ、という音が、記憶の欠落の隙間に楔のように打ち込まれている。取り出そうとしなくても、そこにある。
なぜ彼女の名前だけがあるのか。
その問いが浮かんで、しかしすぐに別の感覚に上書きされた。彼女が大切な存在だという確信だ。確信の根拠がどこにもない。しかしそれは確かにある。名前と一緒に、楔のように打ち込まれている。
私は、その確信の不自然さを、頭の隅に留めた。
彼女の目が、私の顔を、指先を、呼吸を、順番に確認している。安堵の表情ではない。切迫した何かが、その視線の奥にある。
「よかった。ずっと心配していたんだよ」
彼女はゆっくりと近づいてきて、私を抱きしめた。肋骨が軋むほど強く。
冷たかった。
体温がない。人間の肌だとは思えないほど、冷たかった。生きている人間に触れた時の、あの微かな熱が、どこにもない。
首筋から、甘い香水の匂いが漂ってきた。強すぎる匂いだった。そして、その奥底に、別の匂いが隠れていた。
錆びた鉄のような。肉が酸化したような。
血の匂いだ。
私は彼女を押しのけることができなかった。できない理由が分からないまま、ただその抱擁を受け入れた。
エイミが語った状況は、簡潔だった。私たちはこの洋館に迷い込み、閉じ込められている、と。
確かめに行った。
玄関ホールの両開き扉は、扉の形をしているだけで、機能していなかった。木製の装飾は確かにそこにある。しかし扉と石壁の間に、隙間が一切ない。蝶番の溝も、鍵穴も、周囲の石材と完全に同化している。指先でなぞっても、継ぎ目の感触がない。最初から扉など存在しなかったかのような構造だった。
窓も同様だった。ガラスは壁石と滑らかに繋がり、枠との境界線がない。
出口はない。
「館の主のところへ行こう」
気づいたら、口からそう出ていた。
なぜ「館の主」という存在を知っているのか、自分でも分からなかった。だが確信があった。この異常な空間を支配しているルールを知っているとすれば、その人物しかいない、という確信が。しかしその確信もまた、根拠がない。名前と同じように、どこかから打ち込まれたような確信だ。
エイミの顔が、一瞬だけ変わった。
甘い表情が抜け落ち、恐怖に近い何かが浮かんだ。瞳孔が縮んだ。呼吸が止まった。それは本当に一瞬で、次の瞬間には元の微笑みが戻っていた。
「……そうね。行きましょう。ずっと一緒にいるから」
声の端が、微かに震えていた。
二階へ上がった。足首まで沈む深紅の絨毯が、足音を吸い込んでいく。廊下の壁に等間隔で並ぶ甲冑と、顔の部分だけが黒く塗りつぶされた肖像画が、私たちを見ていた。
私の足は、迷わなかった。
なぜかは分からない。だが体が知っているかのように、二階の最奥へと向かっていた。名前も記憶も失っているのに、この廊下の構造だけは分かる。その不自然さを、今は考える余裕がなかった。
分厚い樫の木の扉の前で止まった。中央に曇りガラスの装飾がはめ込まれた、豪奢な扉だ。
扉の隙間から、匂いが漏れていた。
エイミの首筋から感じたものとは比べものにならない。圧倒的な質量を持った「死」の匂いだった。鉄の錆と、消化管の内容物と、肉が空気に触れて変質し始めた匂い。
ノブを回した。
回らない。内側から施錠されている。
「お休みになっているのよ。戻りましょう?」
エイミが私の腕を掴んだ。指が、肉に食い込むほど強く。顔が青ざめている。この扉の向こうに何があるか、彼女は知っている。知っていて、私に見せたくない。
廊下の装飾台に、青銅の燭台があった。
ずっしりと重い。
「下がれ」
「やめて、お願い——」
燭台を、扉の曇りガラスに向かって振り下ろした。
破砕音と共にガラスが砕け散り、破片が廊下に降り注いだ。一枚が飛んで、私の手の甲を浅く切った。エイミの喉が、ヒュッと鳴った。
腕を差し込み、内側を手探りした。
スライド式のカンヌキだった。指を引っ掛け、重い摩擦音を立てながら引き抜く。
扉が開いた。
部屋の中央のマホガニーのデスクに、男が突っ伏していた。
フロックコートの背中が、赤黒かった。数えることのできない数の刺創が広がっている。何度も、何度も、執拗に刃物を突き立てた痕跡だった。刃は衣服を貫通し、肉を裂き、肋骨の隙間から臓器を穿っている。デスクから床へと流れた血が、深紅の絨毯に巨大な染みを作っていた。
吐き気を奥歯で噛み締め、部屋の状況を観察した。
血だまりの縁が、ゼリー状に凝固し始めている。表面は乾燥し、端が暗褐色に変色していた。出血から少なくとも三十分から一時間は経過している。「つい今しがた」ではない。
窓は三つ。すべて内側から鉄の掛け金で封鎖されている。掛け金の周囲に積もった埃は均一で、最近動かされた痕跡がない。壁を叩いて回ったが、隠し通路を示す空洞音はない。天井に通気口はない。
密室だ。
扉の下部に目を落とした時、絨毯の毛足に絡みついている細い黒糸が見えた。十センチほど。先端が刃物で切断されたのではなく、強い力で引きちぎられたように毛羽立っている。
外から糸を使ってカンヌキを引いたのか。しかし扉の下には分厚いゴム製の隙間テープが隙間なく打ち付けられており、細い絹糸が摩擦に耐えられるわけがない。そして決定的に、糸の残骸は「部屋の内側」に落ちていた。外から糸を引いたなら、残骸は廊下側になければならない。
この糸は、外から密室を作るために機能したのではない。
では誰が、どうやって。
背後からの視線に気づいた。
振り返ると、エイミが立っていた。
死体も、血の海も、まるで目に入っていないかのように。ただじっと、暗い瞳で私だけを見ていた。
その時、気づいた。
彼女のショールの裾から、ぽた、と。
赤黒い雫が、絨毯に落ちていた。
次の一滴が落ちるまで、私は動けなかった。
血だまりの縁を、もう一度見た。ゼリー状に固まり始めた、時間の経過した血。
エイミのショールから垂れ落ちる血は、古く黒ずんだ色をしているのに、まだ滴るほどの水分を保っていた。
二つの血の間で、時間が違っている。
右腕に、ズキリとした痛みが走った。
あの筋肉の疲労感が、心臓の鼓動に合わせて鳴っている。重いものを、繰り返し、下に向かって振り下ろした後のような痛みが。
私は自分の手を見た。
綺麗だった。血の一滴もない。
ただ、微かに——石鹸の匂いがした。
私は、その匂いをしばらく嗅いでいた。
自分の手から石鹸の匂いがする。目覚めてから一度も水場に行っていないのに。つまり、誰かが私の手を洗った。あるいは私が自分で洗って、その記憶がない。
どちらにせよ、洗う必要があった何かが、この手についていたことになる。
右腕の痛みが、また鳴った。
私は、その事実を手の中に収めて、エイミを見た。
彼女のショールから、また一滴が落ちた。