主人公の名前を決めてください   作:タッチペンヲダセツッテンダロォ

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第2話

 ぽた、と。

 

 一滴が絨毯に落ちた。深紅の毛足がそれを吸い込み、さらにどす黒い染みを広げていく。

 

 エイミのショールの裾から、もう一滴。

 

 私は、その雫が絨毯に着くのを見届けてから、ゆっくりと彼女の顔を見た。エイミは死体も血の海も視界に入っていないかのように、ただ私だけを見ていた。その瞳に、恐怖と呼ぶには重すぎる何かが揺れている。

 

「エイミ。その血は、何だ」

 

 自分の声が、ひどく掠れていた。喉の奥が完全に乾いていて、言葉が砂を噛むように出てくる。

 

 エイミはゆっくりと、ひどく緩慢な動作で自分のショールの裾に視線を落とした。まるで今初めてその存在に気づいたかのように。そして、ふっと、息を吐くような笑い声を漏らした。この惨状の中において、ひどく場違いな音だった。

 

「ああ、これね」

 

 彼女は一歩、私の方へ近づく。雫が、一歩分、近づく。

 

「さっきあなたが扉のガラスを割ったでしょう。その時、破片が飛んできて。少し腕を切ってしまったみたい。大したことないわ。それより、あなたの手の甲の方が心配」

 

 嘘だ。

 

 ガラスの破片による偶発的な切り傷から、あれほど大量の血液が、布地の広範囲にわたって染み込むはずがない。そもそも、私が燭台を振り下ろす前から、エイミの首筋には血の匂いがあった。

 

 それに何より、滴り落ちている血の色が違う。

 

 生きた人間の傷口から流れ出る血は、酸素を含んだ鮮やかな赤か、あるいは暗赤色だ。しかしエイミのショールから垂れているそれは、空気に触れて長時間酸化し、水分を失って黒ずみかけた色をしている。古い血だ。それが、なぜかまだ滴るほどの水分を保っている。

 

「……そう。早く手当てをしないとな」

 

 私はそれ以上追及しなかった。

 

 今は駄目だ。私には記憶がない。自分が何者なのかも、この館の法則も、エイミと私の関係の本当のところも、何一つ確かなものがない。もし彼女がこの殺人に関わっているのなら、論理的な矛盾を今ここで突きつけることは、私自身の死に直結するかもしれない。

 

 視線を外し、部屋の中央へと向き直った。

 

 死体に近づく。足の裏で、血を吸い込んだ絨毯がぐちゃりと鳴った。

 

 男はデスクに突っ伏すようにして倒れていた。背中の刺創は、数えることを放棄させるほど多い。傷口の周囲の肉が乱暴にめくれ上がり、白濁した脂肪層と赤黒い筋肉の繊維が空気に晒されている。傷の深さと角度がバラバラだ。直線的な刺し傷だけでなく、肉を抉るような裂傷が混じっている。刃物が何度も骨に当たって滑った痕跡だ。

 

 合理的な殺害ではない。頸動脈や心臓を数回的確に突けば事足りる。それをしていない。

 

 右腕に、ズキリとした痛みが走った。

 

 目覚めた時からずっとある、あの筋肉の強張り。前腕から上腕にかけての、重いものを繰り返し振り下ろした後のような、局所的な疲労感。

 

 私は自分の右腕を見た。そして、男の背中を見た。

 

 その考えを、強引に頭の隅に押し込めた。

 

 血だまりの縁に集中する。表面張力を失い、端が暗褐色に変色してゼリー状に固まり始めている。大量出血からこの状態になるまで、少なくとも三十分から一時間はかかる。この男は、私が燭台でガラスを割るより、ずっと前に死んでいた。

 

 ここで、決定的な矛盾が生じる。

 

 もしエイミがこの部屋で男を殺したのなら、一時間以上前に浴びたはずの大量の血で濡れたショールを、なぜ今もそのまま羽織っているのか。着替えるか隠すかする時間は十分にあったはずだ。それどころか、彼女のショールの血はまだ滴っている。古く黒ずんだ色で、しかし滴るほどの水分を保ったまま。

 

 死体の血は乾き、エイミの血は滴る。同じ空間で、時間が一致していない。

 

「ねえ、もうこの部屋を出ましょう? 臭いし、汚いわ。あなたまで血で汚れてしまう」

 

 背後からエイミの声が絡みついてくる。

 

「少し待ってくれ」

 

 扉の下部に視線を走らせた。先ほど気になって確認を後回しにしていた、あの細い黒糸だ。

 

 しゃがみ込んで目を凝らす。絹糸だろう。扉の木枠と金属製カンヌキの隙間に、繊維がわずかに挟まり込んでいる。糸の先端は刃物で切断されたのではなく、強い張力に耐えきれずに引きちぎれたように毛羽立っていた。

 

 扉の外から隙間を通して糸を室内に通し、内側のカンヌキの取っ手に引っ掛けて外から引くことで密室を作るという、物理的なトリック。

 

 だが、扉の最下部を確認する。廊下との隙間を埋めるための分厚いゴム製の隙間テープが、文字通り隙間なくびっしりと打ち付けられていた。細い絹糸では摩擦抵抗に耐えられない。現に糸は途中で引きちぎれている。

 

 そして決定的なのは、糸が「部屋の内側」に落ちていることだ。

 

 外から糸を引いてカンヌキを閉め、回収しようとして引きちぎれたのなら、糸の残骸は廊下側に落ちていなければならない。部屋の内側に残骸がある以上、この糸は外から密室を作るために機能したのではない。

 

 考えられる可能性は二つ。誰かが外から密室を作ろうとして失敗した痕跡か、あるいは「犯人は外から密室を作って逃げた」と思わせるための偽装工作か。

 

「ねえ」

 

 不意に、エイミが私の背中にぴったりと張り付いてきた。氷のように冷たい両腕が、私の腰に回される。背中に押し付けられる体温は、生きている人間とは思えないほど低く、小刻みに震えていた。

 

「もういいじゃない。こんな男が死んだって、誰も悲しまないわ。私たちだけで、ずっとこの館で暮らせばいいの。二人きりで。ねえ、そうでしょう?」

 

 懇願するようでもあり、強迫するようでもある声だった。彼女は私を真実から遠ざけようとしている。異常なほど必死に。

 

 だが、その震えの質が気になった。これは自分の罪が暴かれることへの恐怖ではない。もっと別の何かだ。私に絶対に何かを見せたくない、私を何かから守らなければならないという、ひどく歪んだ庇護の感触がある。

 

 私はエイミの手を静かに、しかし確実に振りほどき、死体の方を向いた。

 

 何かを見落としている。この部屋のどこかに、まだ見ていないものがある。

 

 男の手に目が行った。

 

 右手が前方に突き出されている。死の苦悶で虚空を掻き毟ったような形だ。すでに死後硬直が始まっているその指の間に、何か小さなものが見えた。血の海に半分沈んでいる。

 

 息を止め、男の硬直した指をこじ開けた。筋力が強張ったまま残っており、かなりの力が要った。べちゃりと、半ば凝固した血が跳ねる。

 

 指の間から出てきたのは、小さな布の切れ端だった。

 

 血を吸って赤黒く染まっているが、元の色は白だ。端に、淡い水色のレースがあしらわれている。百合の花を模した、繊細な刺繍。

 

 私の視線が、自分の身体へと下りていった。

 

 今着ているネグリジェの裾を引っ張り上げ、確認する。破れていない。この服は不自然なほど真新しく、どこにも損傷がない。

 

 しかし。

 

 男の手の中にある切れ端の、布の材質、織り目、淡い水色のレースの百合の模様。

 

 今私が着ているネグリジェの裾の装飾と、完全に同じものだった。

 

 頭蓋の奥で、何かが軋んだ。

 

 なぜ破れていない。この服が真新しいのはなぜだ。カビ臭いベッドで目覚めたのに、なぜおろしたてのような服を着ている。

 

 自分の手を見た。綺麗だ。しかし、爪の間に——中指の爪の奥深く、肉との境界線に、針の先ほどの赤黒い汚れがこびりついていた。洗い落とそうとして、落としきれなかった痕跡だ。

 

 微かな石鹸の匂い。私は目覚めてから一度も水場に行っていないのに。

 

 右腕の筋肉疲労。男の背中に刻まれた、合理性を完全に逸脱した無数の刺創。布の切れ端。爪の奥の血。石鹸の匂い。

 

 論理のピースが、組み上がっていく。

 

 私が、彼を殺した。

 

 私が何度も刃物を振り下ろした。返り血を浴び、揉み合いの中でネグリジェの裾を引きちぎられた。血まみれの手で凶器を置き、自室へ戻った。そして誰かが、眠りについた私の手を洗い、血に染まった服を脱がせて、同じデザインの新品のネグリジェを着せた。

 

 私の殺人を、私自身から隠蔽するために。

 

「あ……ああ……」

 

 喉から、意味のない音が漏れた。後ずさりして、足がもつれた。絨毯の上に座り込んだ。

 

「見ないで」

 

 エイミが床に崩れた私に覆い被さってきた。冷たい両手が、私の目を塞ぐ。眼球が潰れるほどの力で。

 

「見ちゃだめ。考えちゃだめ。お願いだから、何も見ないで。私がやったの。全部私がやったのよ」

 

 視界が暗闇になっても、脳の中は止まらない。

 

 男の手の中の布切れ。爪の血。石鹸の匂い。真新しい服。古い血で滴るショール。時間の一致しない二つの血痕。

 

 エイミは自分が犯人だと言っている。しかし、彼女がこの部屋で男を殺したなら、一時間以上前に浴びたはずの血濡れのショールを、なぜ今もそのまま羽織っているのか。証拠を隠す時間は十分にあったはずだ。

 

 彼女が血を被ったのは、もっと後のことだ。

 

 私が殺した後、エイミは書斎に入り、床に広がっていた死体の血を自分のショールに擦り付けた。自分が犯人に見えるように。古く黒ずんだ血が、なぜかまだ滴るほど濡れているのはそのためだ。

 

 偽装工作をしたのはエイミだ。

 

 しかし、男を殺したのは。

 

 エイミの手が、まだ私の目を覆っている。

 

 暗闇の中で、私は自分の右手を床についた。

 

 石鹸の匂いがした。

 

 かすかに、しかし確実に。自分の手から。

 

 私はエイミの手を外す気になれなかった。外せば、また見えてしまう。男の背中の無数の傷が。死体の手に握られた、私の服と同じ布切れが。

 

 しかし暗闇の中でも、論理は止まらなかった。

 

 エイミが私の目を塞いでいる。その手は冷たい。この館に来てからずっと、彼女の手はこの温度だった。人間の手の温度ではない。最初に抱きしめられた時から、ずっとそう思っていた。

 

 なぜ、この少女の手はこんなに冷たいのか。

 

 その問いが浮かんで、すぐに別の問いに押しやられた。今考えるべきことではない。

 

 私が殺した。その事実を、まず受け取らなければならない。

 

 受け取れるかどうかは、別の問題だった。

 

 受け取ることと、受け入れることは違う。事実として把握することと、それを自分のこととして感じることは、今この瞬間、完全に乖離していた。私がやった、という論理的な結論は出ている。しかしその結論が、自分の肉体と繋がっていない。

 

 男の背中の傷と、右腕の筋肉疲労は一致する。

 

 布切れと、私の服は一致する。

 

 爪の血と、石鹸の匂いは一致する。

 

 すべてが一致している。それでも、やった、という実感が来ない。記憶がないからだ。記憶がないまま事実だけがある状態は、他人の罪を背負わされているような感触と、表面上は区別がつかない。

 

 エイミの手が、少し緩んだ。

 

 まだ目を覆っているが、最初ほどの力ではない。彼女の震えが、私の顔に伝わってくる。

 

「……見ないで、いてくれる?」

 

 さっきとは違う声だった。命令でも懇願でもなく、ただ問いかけるような声だった。

 

 私は答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 見ないでいることが、今の私にできることなのかどうか、分からなかった。

 

 エイミの手が、そのままの力で、私の目を覆い続けていた。

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