主人公の名前を決めてください 作:タッチペンヲダセツッテンダロォ
エイミの手のひらが、目を覆ったまま離れない。
爬虫類の腹のような冷たさだった。指の一本一本が、眼窩に食い込むほど強く押しつけられている。暗闇の中で、彼女の震えだけが伝わってくる。細かく、一定のリズムで、止まらない。
私は、その手を掴んだ。
指を一本ずつ剥がすように引き離した。エイミが短い声を上げたが、構わなかった。
「やめてくれ」
自分の声が、他人の声のように聞こえた。空虚で、掠れていて、感情の重量がなかった。
エイミは抵抗の力を失い、血だまりの端に崩れ落ちた。血で絨毯が汚れることも厭わず、ただ大粒の涙をこぼし始めた。声を出さずに泣いていた。肩だけが、激しく上下している。
私は這いずるようにして死体から距離を取り、本棚に背をあずけた。
浅く速い呼吸を繰り返す。肺の奥が痛い。鉄の匂いと腐敗臭が混じった空気を吸い込むたびに、胃の底が持ち上がってくる。
右腕が、また痛んだ。
男の背中を見る。布切れを握りしめた男の手を見る。自分の爪の奥の赤黒い汚れを見る。
もし、私がこの男を殺したのだとしたら。
この記憶の空白は何だ。
目覚めた時の感覚を思い返す。泥の底から引き剥がされるような、暴力的な覚醒。二日酔いとも疲労とも違う、脳細胞そのものを強制的に落とされたような感触だった。頭痛と右腕の強張り。そして、不自然なほど真新しい服。
洗われた手。爪の奥に残った、落としきれなかった血。
私は立ち上がり、書斎を出た。
「どこへ行くの」
エイミの声が追いかけてきた。
答えなかった。廊下に出て、深紅の絨毯の上を歩く。向かったのは、私が目覚めた寝室だった。すべての事象はあそこから始まっている。
寝室に入り、まず洗面所へ向かった。
蛇口をひねる。金属が軋むだけで、水は出ない。しかし洗面台のボウルに、水滴が乾いた跡があった。排水溝の網目に、薄紅色の水垢がこびりついている。
誰かがここで血を洗い流した。備え付けの陶器の水差しを確認すると、中が湿っていた。あらかじめ用意されていた水を使ったのだ。
鏡を見た。
知らない女の顔が映っていた。青白く、憔悴しきっている。瞳孔が開き、唇が乾き、髪が乱れている。
これが私だ。
洗面所を出て、天蓋付きベッドに近づいた。シーツとマットレスの隙間に手を入れた瞬間、硬く冷たい異物が指先に触れた。
引き出す。
銀色のペーパーナイフだった。刃渡りは十五センチほど。刃が不自然なほど厚く、鋭く研ぎ澄まされていた。柄には百合の紋章が彫り込まれている。刃先から柄の隙間にかけて、どす黒く変色しゼリー状に固まりかけた血がこびりついていた。
私は、右の掌でその柄を握り込んだ。
その瞬間、右腕の筋肉疲労が、このペーパーナイフを握った状態と完全に嵌まり合った。柄には、強い力で何度も握りしめられた痕跡が残っている。
ペーパーナイフを床に置き、黒檀の洋服箪笥へ向かった。観音開きの扉を開いた。
血濡れた服は入っていなかった。
代わりに、私が今着ているものと完全に同一の、純白のコットン製ネグリジェが、何十着も積み上げられていた。裾にはすべて、あの淡い水色のレースがあしらわれている。
まるで、私が血で服を汚すことがあらかじめ決まっていて、何度でも着替えられるように準備されているかのような。
その事実が腹の底に落ちた瞬間だった。
頭蓋の奥で、何かが崩れた。
崩れる、という表現しかできない。分厚い壁が内側から叩き割られるような感触でも、閉じ込められていた何かが溢れ出す感触でもなく、ただ、何かが崩れた。
視界が赤くなった。
正確には、視界が変わったのではない。別の視界が重なった。私が今いる寝室の光景の上に、別の場所の映像が貼り付いてきた。剥がせない。
マホガニーのデスク。生きていた頃の館の主が、そこにいる。
彼はデスクの上にエイミの腕を押さえつけていた。エイミは声にならない悲鳴を上げている。男の手に、奇妙な形状の器具がある。注射器に似ているが、針が複数に分岐していて、先端が細い管のように中空になっている。その管の先から、エイミの腕の皮膚の下に何かが沈み込んでいく。
エイミの瞳から、生気が抜けていく。
急速に。目に見えて。
男の手にあるガラスの小瓶の中に、光の粒のようなものが集まっていく。エイミの腕から抽出されているのだと、私は理解した。何を抽出しているのかは分からない。記憶か、感情か、それとも別の何かか。ただ、エイミの瞳から色が消えていくのと比例して、小瓶の中に光が増えていく。
『これほど濃密な恐怖の結晶は、久しぶりだ……』
男の口元が動いた。
私の手に、ペーパーナイフがあった。
気づいた時には、走っていた。
跳びかかった。
肉を裂く感触。骨を削る音。赤黒いものが飛び散る。顔に当たる。服に当たる。生温かい。
男が私のネグリジェの裾を掴んだ。引きちぎった。
刃を振り下ろす。また振り下ろす。
映像が、途切れた。
私は寝室の床に倒れていた。
頬が冷たい。床の埃の匂いがする。荒い息が、床面に反射して自分の顔に戻ってくる。
起き上がれなかった。
しばらく、そのまま床に伏せていた。
これが、私の記憶だった。映像として見たのではなく、私の体がやったことだと分かった。あの肉を裂く感触は、私の右腕が覚えている感触と一致した。あの時の服の、レースの欠片を、男は死の間際に握りしめていた。
後悔があるかどうか、自分でも分からなかった。
エイミを守るためにやったという事実は分かる。しかし「後悔がない」と思えるほど、あの感触を自分のものとして受け取れていない。他人がやったことのような遠さがある。しかし、他人ではない。私がやった。
どちらでもない、宙ぶらりんの感覚のまま、私はゆっくりと床から起き上がった。
その「宙ぶらりん」が、ひどく不快だった。
後悔がないなら、ないと言い切れるはずだ。後悔があるなら、あると感じられるはずだ。しかしどちらも来ない。記憶がないからなのか、それとも記憶があったとしても答えは出ないのか、判断できない。
判断できないまま、立った。
「……思い出したのね」
寝室の入り口にエイミが立っていた。
いつから来ていたのか分からない。泣きはらした赤い目で、床から起き上がった私を見ている。甘い香水の匂いが、部屋に漂ってくる。
「ああ」
「全部?」
「全部かどうかは分からない。ただ、私がやったことは分かった」
エイミは何も言わなかった。
「どうして、お前はあんなに血を浴びているんだ」
私が聞くと、エイミは視線を床に落とした。
「あなたが部屋を出てきた後、私が書斎に入ったの。床の血を、自分のショールに擦り付けた」
「なぜ」
「あなたが目を覚ました時に、自分がやったと気づかないように」
私は、彼女の言葉を聞きながら、同時に密室のことを考えていた。
「あの扉のカンヌキは誰が閉めた」
エイミの表情が、微かに変わった。変わり方が分かりにくい。悲しみなのか、恐怖なのか、それとも別の何かなのか、判断できない。
「私が書斎に入った時、鍵は開いていた。偽装して、そのまま出ただけ。カンヌキには触っていない」
「お前が出た後、誰かが内側から閉めた」
「……そう、なるわね」
「窓はすべて封鎖されていた。隠し通路もない。糸のトリックは物理的に不可能で、しかも残骸は内側にあった」
エイミは答えなかった。
「つまり、お前が部屋を出た後、あの部屋の中に誰かがいた。そしてカンヌキを下ろした」
「彼は死んでいたわ」
エイミの声が、僅かに硬くなった。
「私が出た時、確かに死んでいた」
「死んだ人間がカンヌキを下ろせるか」
エイミは答えない。
私も、答えを持っていない。ただ、物理的に可能な選択肢を消去していけば、あり得ない結論しか残らないということだけが分かっている。
「一人にしてくれ」
私は言った。
「だめ」
即座だった。エイミが一歩、前に出た。
「一人にしない。あなたがまた、どこかへ行ってしまう」
「逃げない。ただ頭を冷やしたい」
「それでもだめ。あなたが一人でいると、また壊れる。前みたいに」
前みたいに、という言葉が引っかかった。
「前?」
エイミが、口を閉じた。
言いすぎた、という顔だった。
「前に、同じことがあったのか」
エイミは答えない。しかし否定もしない。
私は、その沈黙から一つの事実を受け取った。これは、今回が最初ではない。私がこの館で何かに気づいて、一人になって、そして「壊れた」ことが、過去にもあったのだ。
だからエイミは一人にしたくない。
「……水を持ってきてくれないか」
私は別の方向から試みた。
「洗面所の水は出なかったが、お前は水のありかを知っているはずだ。私の手を洗ったのだから」
エイミが、私の顔をしばらく見た。私が何を考えているのか、測ろうとしているような目だった。それから、過去の輪廻で同じ問いを何度か受け取っているのかもしれない、とも思った。
エイミは「また水を頼むのね」とは言わなかった。しかし、その目の奥に、何かを認識した光が、一瞬だけ灯った。
それでも、彼女は動いた。
「……持ってくる。だからここから動かないで」
「ああ」
「約束して」
「約束する」
エイミは名残惜しそうに身を離し、血濡れのショールを引きずりながら部屋を出た。足音が絨毯に吸い込まれて消えるまで待った。
完全に消えてから、立ち上がった。
廊下に出る。向かったのは、廊下の反対側にあるエイミの私室だった。
彼女は嘘をついている。その嘘の形は分かってきた。しかし嘘の輪郭が分かっても、嘘の根がどこにあるのかが分からない。彼女のテリトリーに、隠し通そうとしているものが必ず残っているはずだ。
鍵のかかっていない扉のノブを回し、押し開ける。
甘い香水の匂いが、異常な密度で充満していた。何かを上書きしようとする量だ。しかし上書きしきれていない。鉄と肉の腐敗臭が、香水の層の下から染み出している。
部屋は整頓されていた。しかし生活感がない。シーツに皺がなく、化粧台に埃がない。ここで暮らしている人間の部屋ではなく、ただ待機するための部屋のような印象だった。
奥の黒檀の衣装棚に近づいた。扉の隙間から、腐敗臭が濃く漏れている。
取っ手を引いた。
衣服は一枚もなかった。
代わりにあったのは、天井近くまで積み上げられた黒と赤の山だった。エイミが今羽織っているものと同じ、分厚い黒のショールが、何十枚も、あるいは百枚近く、無造作に積まれている。そのすべてが、大量の血を吸って赤黒く変色し、完全に乾燥してゴワゴワに硬直していた。
血の匂いが、鼻腔を打った。
手を伸ばし、ショールの山をかき分けた。金属音が鳴り、何かがこぼれ落ちてきた。
銀色のペーパーナイフ。私のベッドに隠されていたものと同じ形状、同じ百合の紋章が刻まれた刃物が、数十本。すべてに黒い血の跡がこびりついている。刃こぼれを起こしているものもある。
引き出しを開けた。
淡い水色のレースがあしらわれた、純白の布の切れ端が、透明なガラス瓶の中にぎっしりと詰め込まれていた。私のネグリジェの裾と同じ生地、同じレースの欠片が。
私はその場に立ち尽くした。
模造品ではない。血の付着の仕方、刃の欠け方、布の引きちぎられ方。すべてが、あの書斎で起きた事象と同一の痕跡を持っている。
しかし、数が合わない。
何十本ものナイフ。何十枚ものショール。何十個もの布の切れ端。
一度の殺人で生じる量ではない。
私が彼を殺した。記憶を失った。エイミが証拠を隠した。そしてまた、同じことが起きた。その回数だけ、この山は積み上げられている。
自室の箪笥に詰め込まれていた「無数の真新しいネグリジェ」が、頭の中で繋がった。
この館は何らかの条件で初期状態に戻る。男の肉体を再生させ、私の服を新品に書き換え、凶器を再配置する。しかし使用済みの物質を消去することはできない。だからエイミは毎回、私が眠りについた後、残された証拠品をここに隠し続けてきた。
その事実を、頭の中で組み上げながら、私は同時に別のことを考えていた。
後悔が分からない、という感覚が、まだ腹の底にある。
この山を見ていると、それがさらに深くなる。私は何十回も同じことを繰り返してきた。何十回も男を殺し、何十回も記憶を失い、何十回もエイミに後始末をさせた。その回数だけ、この山は積み上がっている。
後悔すべきなのかどうか、まだ分からない。しかし、この山の重さだけは確かに分かった。
「……だから、一人にしちゃだめだって言ったのに」
背後から声がした。
振り返ると、エイミが入り口に立っていた。水差しが床に落ちて割れている。陶器の破片が足元に散らばっている。
彼女の顔には、甘い微笑みも悲痛な涙もなかった。すべてを諦めたような空虚さだけが張り付いている。しかしその目の奥に、私への執着だけが、暗く灯っている。
「あなたはいつもそう。どれだけ隠しても、必ずここへたどり着く」
エイミはゆっくりと歩み寄り、足元の血濡れのペーパーナイフを、素足で踏みつけながら近づいてきた。
「これは全部、私がやったこと。あなたが彼を殺すたびに、私が証拠を片付けて、あなたが目を覚ます前にここに隠してきた。館はあなたが眠るたびに彼を生き返らせて、新しい服とナイフを用意する。だから私が古いものを隠さなきゃいけなかった」
彼女は私の顔を両手で包み込んだ。
「もう気づいたでしょう。あなたは彼を殺す運命から逃れられない。彼が私の心を奪おうとする限り、あなたは何度でも彼を殺す。そして私は、何度でもその証拠を隠し続ける」
冷たい指先が、頬に食い込む。
いつも冷たい。この館に来てからずっと。最初に抱きしめられた時から、今この瞬間まで、ずっとこの温度だ。人間の手の温度ではない。
なぜ冷たいのか、という問いが浮かんだ。しかしすぐに別の問いに押しやられた。
「もし館が私の眠りの後に初期化されるなら、なぜ今回、男は死体のまま放置されていた。なぜあの書斎は内側から施錠されていた」
エイミの指先が、微かに強張った。
「エイミ」
私は低く言った。
「あの扉の前に落ちていた黒い糸。あれは密室を作った痕跡じゃない」
「だめ」
エイミの声が割れた。
「それ以上は考えないで」
「お前は、外からカンヌキを開けようとしたんだ」
エイミの体が、大きく跳ねた。
「私が眠った後、いつものように書斎へ向かった。しかし扉は内側から閉まっていた。お前は糸を使って開けようとしたが、隙間テープの摩擦で糸が切れた。残骸が内側に残った」
エイミは私の首に両腕を回してきた。引きずり込もうとするように、強く。
「中に入れなかったお前は、別の方法で偽装した。過去に溜め込んだ古い血塗れのショールを羽織って、書斎の前に立った」
「やめて」
「なぜ今回は初期化が起きなかったのか、お前は知っているか」
エイミが泣き始めた。声を押し殺した、みじめな泣き方だった。
「知らない。分からない。でも、もういいじゃない。あなたは私と一緒にいれば」
「お前が何十回も、この地獄の後始末を一人でやってきた」
私はエイミの背中を強く抱いた。
「それは分かった。お前が私のためにやってきたことも分かった」
エイミの震えが、私の体に伝わってくる。
「しかし、密室の問いだけは手放せない。誰が、なぜ、あの書斎を内側から施錠したのか。男は死んでいた。お前は外にいた。私は眠っていた。それなのに、カンヌキは落ちていた」
エイミは答えない。
窓の外に、ひび割れた二つの月が浮かんでいる。
後悔が分からないまま、密室の答えも出ない。二つの問いが、腹の底で並んでいる。どちらも、今すぐ片付けられるものではない。
ただ、エイミの冷たさだけが、確かに伝わってくる。