主人公の名前を決めてください   作:タッチペンヲダセツッテンダロォ

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第4話

 エイミが泣き止まない。

 

 私の服を握りしめたまま、声を殺して、肩だけを激しく揺らしている。彼女の冷たさが私の体温を少しずつ奪っていく。衣装棚から溢れ出した血塗れのペーパーナイフが、足元に散乱している。踏めば切れる。だが、どちらも動かなかった。

 

 私は、エイミの背中に手を置いたまま、考え続けていた。

 

 死体が自力でカンヌキを下ろした。

 

 その結論から逃げようとしても、他に辿り着く場所がない。窓は完全に封鎖されていた。隠し通路はなかった。糸のトリックは物理的に不可能で、しかも糸の残骸は内側にあった。私でもエイミでもない何かが、あの部屋に残っていた。あるいは、残っていた何かが、あの部屋に戻ってきた。

 

「エイミ」

 

 彼女の肩が、ぴくりと反応した。泣き声が止まる。

 

「お前が書斎を出た時、男は本当に死んでいたか」

 

 しばらく、沈黙があった。

 

「……死んでいたわ」

 

 くぐもった声だった。私の服に顔を押し当てたまま、答えた。

 

「ピクリとも動かなかった。呼吸もなかった。血も、もう流れていなかった」

 

「それはいつのことだ。私が眠ってから、どれくらい経っていた」

 

「すぐよ。あなたが部屋に戻って倒れ込んで、着替えをさせて、手を拭いて……それからすぐに書斎へ行ったから。あなたが眠ってから、せいぜい十五分か二十分くらい」

 

 私は、男の死体の血を思い出した。

 

 ゼリー状に固まり始めた血の縁。少なくとも三十分から一時間は経過していた状態。しかし私が目覚めてからエイミと合流し、書斎の扉を開けるまで、せいぜい数十分しか経っていない。

 

 その時間のズレを、私はずっと保留にしていた。

 

「男の血は、私が扉を開けた時点で、すでに一時間近く経過した状態だった」

 

 エイミがゆっくりと顔を上げた。濡れた目で、私を見る。

 

「お前が書斎を出た後、扉が施錠された。そしてその後、何らかの時間が経過した。私が目覚めるまでの間に」

 

「……どういうこと」

 

「私が眠っている間、この館の時間が動いていた。お前が部屋を出た後、あの書斎の中だけで、時間が進んでいた可能性がある」

 

 エイミの表情が、苦しげに歪んだ。

 

「……それは」

 

「お前には、覚えがあるんじゃないか」

 

 私が問うと、エイミは唇を噛んだ。視線が床に落ちる。答えるまでに、長い時間がかかった。

 

「……毎回、同じだった」

 

 絞り出すような声だった。

 

「あなたが眠ると、この館が変わるの。空気が変わる感じがして、廊下の燭台が一度全部消えて、またついて。気づくと、書斎の前に新しい扉があって、中はきれいになっていて、男もデスクに座っていて……まるで、何もなかったみたいに」

 

「それが今回は起きなかった」

 

「起きなかった。あなたが眠った後、廊下の燭台が消えたのは分かった。でも、またつかなかった。しばらく真っ暗な廊下で待っていたら、うっすらと灯りが戻ってきて……でも、書斎の扉は前のままで、中からあの匂いがして」

 

 だから彼女は、糸でカンヌキを開けようとした。

 

 通常の輪廻では、館が初期化されるため、エイミが書斎に干渉する必要はない。死体も証拠も、館ごとリセットされる。だが今回は初期化が起きなかった。死体はそのままで、扉は施錠されていた。

 

「なぜ今回だけ、初期化が起きなかったと思う」

 

 エイミは首を横に振った。

 

「分からない。あなたが目を覚ますのが、いつもより早かったから……? いつもはもっと長く眠っているのに、今回は私がまだ廊下で待っている間に、寝室から物音がして」

 

 私が半覚醒の状態で目覚めた。それが原因だとすれば、筋が通る。

 

 館の初期化には、私の意識の完全な消去が必要なのかもしれない。私が深く眠りきらなかったことで、プロセスが途中で止まった。書斎は施錠されたまま、男は死体のまま、時間だけが中途半端に進んで止まった。

 

「エイミ。一つ確認させてくれ」

 

 私は、彼女の目を見た。

 

「お前は毎回、私が眠った後にエイミの部屋へ証拠を隠しに来る。その時、この衣装棚の中身は、前の輪廻の分が残っているのか。それとも、館の初期化と一緒に消えているのか」

 

 エイミは少し考えてから、答えた。

 

「残っているわ。ずっと残っている。館が初期化されても、あの部屋だけは変わらない。だから隠してきたの。あそこだけは、リセットされない」

 

 この部屋が特異点になっている。館の初期化から外れた、唯一の領域。だからこそ、証拠が蓄積され続けてきた。

 

 私は、足元に散乱したペーパーナイフを見下ろした。

 

 何十本もの、血の乾いた刃。何十枚もの、硬直したショール。何十個もの、ガラス瓶に詰められた布の欠片。

 

 これだけの回数、私は同じことを繰り返してきた。

 

 男に跳びかかり、刃を振り下ろし、血を浴び、眠り、忘れた。そのたびにエイミが孤独に後始末をして、私を綺麗なまま次の朝に送り出した。

 

 胃の底が、重くなった。

 

 そして同時に、第3話でフラッシュバックの後に感じたあの感覚が、また浮かんできた。

 

 後悔があるかどうか、分からない。

 

 この山を目の前にしても、まだ分からない。何十回も繰り返してきたという事実の重さは分かる。エイミが孤独に抱えてきたものの重さも分かる。しかし「あの男を殺したことへの後悔」が、あるのかないのか、まだ答えが出ない。

 

 答えが出ないまま、私はエイミに向き直った。

 

「お前は毎回、私に何も言わなかったのか」

 

 エイミの目が、微かに揺れた。

 

「言ったこともあったわ。最初の頃は」

 

「どうなった」

 

「あなたは信じた。信じて、壊れた。自分が人殺しだという事実を受け取って、立ち直れなくなった。ずっと自分を責め続けて、部屋から出てこなくなって……次の輪廻ではもう何も覚えていないから、また最初から始まる。でも私は全部覚えている。あなたが壊れていく様子も、全部」

 

「それで、言わないことにした」

 

「そう。あなたを壊したくなかった」

 

 私は、その言葉を受け取った。

 

 責める気になれなかった。しかし正しかったとも言えない。そしてその判断自体が、今の私にはまだ下せない。

 

 ただ、一つだけ聞かなければならないことがあった。

 

「前みたいに、とお前は言った。三話で」

 

 エイミが、わずかに顔を伏せた。

 

「私が壊れたことが、前にもあったんだな」

 

「……ある」

 

「何回」

 

「数えていない」

 

 私は、その答えを受け取った。

 

 数えていない、というのは、数えられないほどということかもしれない。あるいは、数えることに意味を感じなくなったということかもしれない。どちらなのかは分からない。

 

「密室の問題が残っている」

 

 私は、感情の処理を保留して言葉を続けた。

 

「男は今回、書斎の扉を内側から施錠した。それは初期化が失敗したイレギュラーな状況で起きた。なぜ男は、死にながらカンヌキを下ろしたんだ」

 

 エイミは答えない。知らないのではなく、答えたくないように見えた。

 

「お前は、男について何を知っている」

 

「……この館の主よ。私の記憶を集めることに、異常な執着を持っている。恐怖や絶望の記憶が、特に好きみたいで」

 

「お前の記憶を抽出しようとしていた。そのためにお前をここに閉じ込めた」

 

「そう」

 

「私は」

 

 一拍、置いた。

 

「私は、なぜここにいる」

 

 エイミの表情が、複雑に動いた。悲しみと、罪悪感と、それから何か別のものが混じった顔だった。

 

「……あなたは、私のために来たの」

 

「自分の意志で」

 

「そう。自分の意志で」

 

 それ以上は言わなかった。私も、それ以上は聞かなかった。

 

「男が死体のままカンヌキを下ろせたとしたら、この館での死は、外の世界とは違う意味を持っている」

 

 私は、声に出しながら考えを整理した。

 

「男はこの館の法則そのものに近い存在かもしれない。肉体が死んでも、完全には機能を失わない。あるいは、一定の条件下でのみ、死体の状態でも特定の行動が可能になる」

 

「カンヌキを下ろすのは、なぜ」

 

 エイミが、静かに問い返した。

 

「初期化のための条件だ。館が世界を再配置するためには、完全な密室が必要なのかもしれない。誰の目にも触れない、完全に閉じられた空間。その中でのみ、男の肉体は再生できる」

 

「観測されない、ということ?」

 

「そうだ。扉が開いていれば、誰かがその空間に干渉できる。干渉される可能性がある限り、再生のプロセスは完全に起動できない。だから男は、死の間際あるいは死後に、カンヌキを下ろす」

 

 エイミは、じっと私の顔を見ていた。

 

「それと同時に、もう一つの条件が必要だ。私の意識の消去だ」

 

「いくら書斎が密室になっても、私がこの館の異常を認識し続けている限り、世界の連続性は保たれてしまう。だから男は、殺人という極限の体験を私に与えて、強制的に眠りに落とす。私が深く眠ることで、観測者が消える。密室と、観測者の消去。その二つが揃った時、館は初期化される」

 

 エイミの顔が、青ざめていた。

 

「今回はその両方が、中途半端な状態で止まった」

 

「……あなたが完全に眠りきらなかったから」

 

「おそらく。そして、お前が密室に干渉しようとしたから」

 

 沈黙が落ちた。

 

 館の奥から、微かな音が聞こえ始めた。

 

 遠く、くぐもった音だ。だが徐々に大きくなってきて、その正体が分かった瞬間、胃の底が凍りついた。

 

 肉の音だった。

 

 湿った、有機的な、何かが組み上がっていくような音。骨が連結する乾いた音と、筋肉の繊維が引き合う湿った音が交互に混じっている。

 

 書斎の方角だった。

 

「嘘……」

 

 エイミの顔から色が消えた。

 

「早すぎる。まだ全然、時間が経っていないのに……」

 

 彼女は両耳を手で塞ぎ、その場にしゃがみ込もうとした。私はその腕を掴んだ。

 

「聞け」

 

「いやっ、また始まる、また彼が……」

 

「エイミ」

 

 強く、しかし低い声で言った。彼女が動きを止めた。

 

「初期化の条件が分かった。密室と、私の睡眠だ。ならば、意図的にその条件を破壊することができる」

 

 エイミが私を見た。怯えと、かすかな期待が混じった目だった。

 

「密室を作らせなければいい。あの扉を、二度と閉まらない状態にする」

 

「でも、あなたがまた彼を殺したら、また眠ってしまう。眠れば終わりよ。目を覚ました時にはまた最初からで」

 

「眠らなければいい」

 

「気合でどうにかなるものじゃない。あなたはいつも、部屋に戻る前に意識が落ちていくの。自分でも気づかないうちに」

 

 分かっている。意志の力で抗えるような仕組みではない。

 

 館の音が、大きくなっている。

 

 私は足元の血塗れのペーパーナイフを一本拾い上げた。

 

 眠らないためには、眠れない状態を物理的に作るしかない。瞼が閉じることが、観測の終わりだ。瞼が、物理的に閉じられなければ。

 

「エイミ」

 

 私は振り返り、彼女の目を見た。

 

「裁縫箱はどこにある」

 

 エイミが、怪訝な顔をした。

 

「机の引き出しに……なぜ」

 

「太い針と、丈夫な黒糸を出してくれ」

 

 エイミは引き出しを開け、小さな木製の裁縫箱を取り出した。私の前に差し出しながら、その意図をまだ測りかねている顔をしている。

 

 私は箱の中から、革用の太い縫い針と、蝋引きされた強靭な黒糸を取り出した。

 

「瞼を縫う」

 

 エイミの動きが、完全に止まった。

 

「私の上下の瞼を、この糸で額と頬に縫い付けてくれ。物理的に目が閉じられない状態にする。呪いがどれだけ強引に私を眠らせようとしても、瞼が閉じなければ観測は続く」

 

「……そんなこと、できない。あなたの目に針を刺すなんて」

 

「できる。お前にしかできない」

 

「痛いだけじゃない。傷が残るわ。一生消えない傷が、あなたの顔に」

 

「構わない」

 

「構わないって……」

 

「この傷が残ることと、この地獄をもう何十回も繰り返すことを、天秤にかけてくれ」

 

 エイミは、針を見ていた。私の顔を見た。また針を見た。

 

 館の音が、ひときわ大きく響いた。

 

 エイミは答えなかった。

 

 答えない間、私は待った。この決定はエイミが自分で選ばなければならない。

 

 エイミの目が、衣装棚の方へ動いた。

 

 山積みになった血塗れのショールを、一度だけ見た。

 

 それから、私を見た。

 

 何かを決めた顔だった。

 

「……一緒に痛みを受け取るから」

 

 震える声だった。

 

「あなたの痛みを、私も背負う。それだけは、約束させて」

 

 私は頷いた。

 

「それからもう一つだ」

 

 私は、衣装棚から血塗れのペーパーナイフをかき集め、ネグリジェの裾に包んだ。

 

「奴が再生を完了する前に、あの書斎の扉の蝶番とカンヌキのレールに、このナイフをすべて楔として打ち込む。扉が物理的に閉まらないようにする。奴は二度と完全な密室を構築できない」

 

 エイミは包まれたナイフの束を見た。

 

「これが全部、楔になるのね」

 

「お前が何十回も孤独に集めてきたものが、今回だけは使える」

 

 エイミは小さく息を吐いた。

 

 しかし、廊下に向かって歩き出した直前に、エイミが足を止めた。

 

 彼女は衣装棚に戻った。積み上げられた血塗れのショールの山の前に立ち、一番上の一枚に手を伸ばした。

 

 引き抜きかけて、止めた。

 

 私は、その動作を見ていた。何も言わなかった。

 

 エイミは、引き抜きかけたショールを、元の位置に戻した。

 

「持っていかない」

 

 彼女は、衣装棚に背を向けた。

 

「あなたが『隠すな』と言ったから。次に隠したくなった時にまた言ってくれるって言ったから」

 

 私は頷いた。

 

「今がその時だった」

 

 エイミが私の手を取った。冷たい指が、絡みついてくる。

 

 館の奥から、肉が沸騰するような音が鳴り響いている。

 

「行こう」

 

 私はエイミの手を引いた。

 

 時間がない。

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