主人公の名前を決めてください   作:タッチペンヲダセツッテンダロォ

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第5話

 廊下に出た瞬間、音が大きくなった。

 

 書斎の方角から響いてくる、湿った肉の音。骨が連結し、筋肉の繊維が引き合い、何かが組み上がっていく。館の石壁が振動を吸収しきれず、足の裏からも微かに伝わってくる。

 

 私はエイミの手を引いたまま、廊下を進んだ。

 

 足元の絨毯が足音を吸い込む。それだけが、今この瞬間に都合のいいことだった。

 

「ここで待て」

 

 書斎の手前、廊下が少し広くなっている場所で立ち止まった。壁際の装飾台に、青銅の燭台がある。

 

「燭台を持ってきてくれ。できるだけ重いやつを」

 

 エイミは頷き、燭台を両手で抱え上げた。相当な重さのはずだが、彼女は表情を変えない。過去に何十回も同じ廊下を歩いてきた人間の顔だった。慣れているのか諦めているのか、私には判断できない。

 

 私は書斎の扉の前に立った。

 

 中央の曇りガラスは私が割ったままで、木枠だけが残っている。扉は半開き状態で止まっている。内側からカンヌキが外れた状態のまま、私たちが書斎を出た後も、そのままになっていた。

 

 館の音が、また大きくなる。

 

 私は、ネグリジェの裾に包んだペーパーナイフの束をほどいた。数十本の銀色の刃が、廊下のガス燈の光を反射する。すべてに黒い血の跡がこびりついている。エイミが何十回もかけて集めてきたものだ。

 

 扉の蝶番を確認した。三つある。上、中、下。それぞれに金属の関節部がある。

 

 最初の一本を、上の蝶番の隙間にねじ込んだ。

 

「叩いてくれ」

 

 エイミが燭台を振り下ろした。

 

 ガァン、という甲高い音が廊下に響いた。ペーパーナイフが蝶番の奥に食い込む。私はすぐに次の一本を差し込んだ。

 

「もう一回」

 

 また金属音。刃が深く噛み込み、蝶番の関節部が歪み始める。三本目を差し込もうとすると隙間が塞がっていた。別の角度から押し込む。エイミが燭台を振り下ろす。百合の紋章が刻まれた柄が砕け散り、折れた金属片が蝶番に完全に噛み込んだ。

 

 上の蝶番が死んだ。

 

 中と下の蝶番にも、同じ作業を繰り返した。エイミは一度も手を止めなかった。燭台を振り下ろすたびに黒髪が乱れ、息が上がっていく。それでも止まらない。

 

 三つすべての蝶番に刃が打ち込まれた。

 

 次は内側だ。

 

 私は扉の内側へ回り込み、カンヌキのレールと、扉が閉まった際に枠と噛み合う部分を確認した。ここに刃を打ち込めば、扉は現在の半開き状態のまま固定される。

 

「エイミ、こっちに」

 

 彼女が燭台を持ったまま内側に入ってきた。私は残りのペーパーナイフを次々に差し込み、エイミが叩いた。

 

 ガン、ガン、ガン。

 

 金属が金属を削る音。樫の木が割れる音。カンヌキのレールが歪み、扉の枠が欠けていく。最後の一本を打ち込んだ時、扉はびくともしなくなっていた。

 

 引いても押しても動かない。

 

「これで密室の条件は消えた」

 

 私は振り返り、エイミを見た。

 

 彼女の両手が、細かく震えている。燭台をまだ握りしめたまま、書斎の奥を見ていた。その視線を追う。

 

 マホガニーのデスクの上で、赤黒い肉塊が人間の輪郭を取り戻しつつあった。背骨が形成され、肋骨が広がり、筋肉の繊維が層を成して覆っていく。フロックコートの布地が、再生する肉体に合わせて形を取り戻している。

 

 時間がない。

 

「エイミ」

 

 私は彼女の腕に触れた。

 

「裁縫箱はどこにある」

 

 エイミが私を見た。書斎の奥の光景と、私の顔の間で、視線が揺れる。

 

「……机の引き出しに。なぜ」

 

「取ってきてくれ。太い針と、丈夫な糸も」

 

 エイミは何かを言いかけて、止めた。私の目を見て、また書斎の奥を見た。そして、何も言わずに廊下を戻っていった。

 

 私は、その間に書斎の中を確認した。

 

 男の再生は、まだ完全ではない。頭部の形成が始まっているが、顔の細部はまだ曖昧だ。手の指が一本ずつ生え揃っていく。時間はある。しかし多くはない。

 

 エイミが戻ってきた。小さな木製の裁縫箱を両手で持っている。

 

「これで何をするの」

 

 私は箱を受け取り、中を確認した。革用の太い縫い針。蝋引きされた黒糸。必要なものはある。

 

「瞼を縫う」

 

 エイミの動きが、止まった。

 

 止まり方が、単なる驚きではなかった。意味を理解しようとして、理解した瞬間に固まった、という止まり方だった。

 

「……私の、上下の瞼を額と頬に縫い付けてくれ。物理的に目が閉じられない状態にする」

 

「なぜそんなことを」

 

「呪いは私を眠らせようとする。眠れば観測が止まる。観測が止まれば、初期化の条件が揃う」

 

「だから眠らなければいい。それは分かる。でも」

 

「意志で抗えない。お前も知っているはずだ。私は毎回、自分でも気づかないうちに眠りに落ちる」

 

 エイミは答えない。否定できないから、答えない。

 

「瞼が閉じる瞬間が、観測の終わりだ。ならば、物理的に瞼が閉じなければ、観測は続く」

 

「でも」

 

 エイミの声が、低くなった。

 

「痛い。血が出る。傷が残る」

 

「分かっている」

 

「分かっていて」

 

「ほかに方法がない」

 

 エイミは、私の目を見た。

 

 私も、彼女の目を見た。

 

 書斎の奥から、骨が軋む音が聞こえた。再生が進んでいる。

 

「……やり方を教えて」

 

 エイミの声は平坦だった。決意とも諦めとも取れない声だった。

 

 しかし、その言葉の意味を私は一拍受け取った。

 

 やり方を聞くということは、やると決めたということだ。同意ではなく、行動に向かう人間の問いだ。感情的な葛藤の結論ではなく、次に何をするかを確認する問いだ。

 

「上の瞼の縁、睫毛の生え際より少し上を縫って、糸の端を額の皮膚に固定する。下の瞼は頬骨の上の肉に固定する。緩むと意味がない」

 

「どれくらい強く」

 

「瞬きができないくらい」

 

「どこに座ればいい」

 

「書斎の入り口近く。奴の様子を見ながらできる場所がいい」

 

 エイミは頷き、書斎の入り口の壁際に膝をついた。私はその前に腰を下ろした。

 

 エイミが針を持った。

 

 持ったまま、動かなかった。

 

 私はその静止を待った。急かさなかった。書斎の音が続いている。時間が削られていく。それでも待った。

 

 エイミの目が、私の顔を見ていた。顔全体を見ていた。額を見て、頬を見て、目を見た。それからもう一度、額を見た。

 

 エイミの指が、針を持ち直した。

 

 最初の持ち方より、少し深く握っている。

 

「左目から」

 

 彼女は私の顎を左手で固定した。その指が、ひどく冷たい。いつも冷たい。

 

「目を、大きく開けて」

 

 私は目を開けた。

 

 針が、視界に入った。細く、鋼の光沢を持った針の先が、私の左目の上の瞼に近づいてくる。眼球の表面が、反射的に乾燥し始める。

 

 針先が、上の瞼の縁に触れた。

 

 その瞬間、エイミの手が止まった。

 

 止まったまま、動かない。

 

 私は何も言わなかった。

 

 エイミの指が、微かに震えている。針先が瞼に触れたまま、止まっている。書斎から音が来る。骨が連結する乾いた音が混じり始めた。

 

 エイミが息を吸った。

 

 深く、ゆっくり。そして止めた。

 

 針が、刺さった。

 

 ブチ、という音が頭蓋の中で響いた。薄い皮膚を、鋼の針が貫く。痛みが、遅れて来た。目の周囲の皮膚が燃えるように熱くなり、涙が反射的に溢れ出す。生理的な涙だ。意志とは無関係に出てくる。

 

 エイミは止まらなかった。

 

 針が皮膚を出て、糸が引かれ、額の肉へと縫い付けられていく。糸が皮膚を強く引き攣らせる感触がある。引き攣れたまま、固定される。

 

「下の瞼」

 

 今度は頬骨の上の肉へ固定するために、下の瞼の縁を縫った。糸が引かれ、上下の瞼が強制的に開いた状態になる。眼球が空気に晒される。乾燥が即座に来た。ヒリヒリとした刺激が、縫い傷の痛みの上に重なる。

 

「右目」

 

 エイミが反対側に回る。

 

 私は、左目の状態を確認しようとした。確認できない。瞼が動かないから、感触だけがある。眼球の表面を涙が流れていくが、拭えない。瞼が閉じないから、涙は眼球を潤さずに頬を伝うだけだ。

 

 右目も同じ作業が始まった。

 

 上の瞼に針が触れる。エイミの手が、今度は止まらなかった。

 

 一度止まることで、止まり方を覚えたのだと思う。最初の止まりは迷いだった。一度止まって、それでも刺すと決めた後は、止まることの意味が消えた。

 

 針が刺さる。糸が引かれる。額の肉に固定される。下の瞼、頬骨の上の肉。

 

 右目の糸が切られた時、エイミが針を置いた。

 

 私は瞬きをしようとした。

 

 できなかった。

 

 瞼の筋肉が収縮しようとする。糸がそれを引き留める。皮膚が引っ張られ、縫い穴に鋭い痛みが走る。しかし閉じない。眼球は、強制的に開いたままだ。

 

「見えるか」

 

 エイミの声だった。

 

「見える」

 

 視界は赤く滲んでいた。涙と血が混じっている。しかし、見えている。エイミの顔が見える。血に染まった彼女の指が見える。

 

 エイミの目が、私の顔から逸れた。

 

 逸れて、自分の指を見た。

 

 私の目から流れた血が、彼女の指に付いている。彼女はその指を、じっと見ていた。

 

 私はその時、後悔について考えた。

 

 第3話で記憶が戻った直後、後悔があるかどうか分からないと思った。あの感覚が、今も腹の底にある。

 

 今、この痛みの中にいて、もう一度それを考えた。

 

 エイミを守るためにあの男を殺した。その事実は変わらない。しかし「あの行為は正しかったのか」という問いに、答えが出ない。正しかったと言い切れない。しかし後悔しているとも言い切れない。エイミの指についた私の血を見ながら、その「言い切れなさ」が、まだそこにある。

 

 消えていない。消えないまま、ここに来た。

 

 それでいいのかもしれない。消えないまま持ち続けることと、答えを出すことは、別のことだ。

 

 書斎の奥で、音が変わった。

 

 肉の組み上がる音ではなく、衣擦れの音。そして、椅子が軋む音。

 

「行くぞ」

 

 私は立ち上がった。

 

 エイミが私の腕を掴んだ。引き留めるためではなく、並んで進むために。

 

 書斎に踏み込んだ。

 

 足の裏で、血を吸い込んだ絨毯が鳴った。

 

 マホガニーのデスクに、男が座っていた。

 

 完全に再生していた。背中の傷は塞がり、フロックコートは元通りになっている。浅黒い肌、整った顔立ち。しかしその目は、生きている人間のものではない色をしていた。感情の重量を持たない、標本の目。

 

 その目が、私を捉えた。

 

 私の顔を見て、男の表情が動いた。

 

 困惑だった。

 

 視線が私の目の周囲に固定される。縫い付けられた瞼、額と頬を走る黒糸、流れた血の跡。その異常性を、男はすぐには処理できなかった。

 

「なぜ、まだ起きている」

 

 空気を振動させて届く通常の音ではなかった。頭蓋の内側に直接響く、ノイズまじりの振動だった。

 

「お前は眠るはずだ。罪を犯した後は、深い眠りに落ちる。それがこの空間の法則だ」

 

「知っている」

 

 私は書斎の中へ進んだ。

 

「密室と、私の睡眠。その二つが揃って初めて、この館は初期化される。お前の肉体が再生するための条件だ」

 

 男の目が、私の目から扉へと動いた。

 

 蝶番に打ち込まれた無数のペーパーナイフ。歪んだカンヌキのレール。二度と閉まらない扉。

 

 その視線が戻ってきた時、男の表情に別の何かが混じった。

 

「お前は、自分の目を縫った」

 

「そうだ」

 

「痛みで眠れないと思っているのか。呪いの強制力は」

 

「痛みで眠らないわけじゃない」

 

 私は、縫い付けられた目で男を見た。

 

「物理的に瞼が閉じない。呪いがどれだけ強く私を暗闇に引きずり込もうとしても、眠りに落ちかけるたびに、瞼が閉じようとする筋肉の収縮と、それを固定する糸の張力が皮膚を引き裂く。その痛みが私を引き戻す。観測は止まらない」

 

 男は答えなかった。

 

 代わりに、再生した右腕を私に向けて振り下ろした。

 

 脳を正面から叩き割られるような衝撃が来た。

 

 音もなく、予告もなく、ただ巨大な質量が意識を直撃した。膝から力が抜ける。崩れ落ちそうになった。脳細胞の電気信号を強制的にシャットダウンしようとする、圧倒的な暴力だった。

 

 視界が揺れた。

 

 瞼の筋肉が、呪いの命令に従って収縮を始めた。閉じようとする。強烈な力で、閉じようとする。

 

 糸が引っ張られた。

 

 皮膚が裂ける音が、頭蓋の内側で鳴った。縫い穴が広がり、血が流れる。激痛が走った。

 

 その痛みが、意識を引き戻した。

 

 脳のシャットダウンが、弾き返された。

 

 私は血に染まった視界で、男を見た。眼球が乾いて痛い。涙が血と混じって頬を流れる。見えている。

 

「なぜだ」

 

 男の声に、初めて感情の色が混じった。

 

「なぜ暗転しない」

 

「扉は死んだ」

 

 私は言った。

 

「密室の条件は、永遠に揃わない。条件を満たせないまま、世界を再配置しようとする力だけが、この閉じた空間に溜まり続ける。その歪みに、この館は耐えられない」

 

 男が腕を振り下ろした。

 

 また衝撃が来た。今度は先ほどより強い。意識が底なし沼に引きずり込まれる感触。瞼が閉じようとする。糸が皮膚を裂く。激痛が戻す。

 

 また衝撃。

 

 また皮膚が裂ける。

 

 また戻る。

 

 男が、言葉ではない何かを発した。頭蓋の内側に叩き込まれる、意味を持たない激しい振動。

 

 それと同時に、書斎の石壁に亀裂が走り始めた。

 

 ピキ、という乾いた音から始まり、メキメキと広がっていく。天井の漆喰が粉になって落ちてくる。

 

 条件を満たせない力が、行き場をなくして内側に溜まり続けている。

 

「エイミ」

 

 私は振り返った。

 

 エイミが書斎の入り口に立っていた。崩れ落ちる天井の欠片が降り注ぐ中、血に染まった両手を体の横で握りしめ、縫い付けられた私の目を見ていた。

 

「離れるな」

 

「うん」

 

 彼女は私の元へ来た。

 

 男がまた腕を振り下ろす。衝撃。皮膚が裂ける。激痛。戻る。天井がまた落ちる。壁の亀裂が広がる。男の輪郭が、ノイズまじりにブレ始める。

 

 エイミが私の隣に立ち、私の腕を掴んだ。

 

 引き留めるためではなく、並んで立つために。

 

 男の輪郭が、大きく揺れた。

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