主人公の名前を決めてください   作:タッチペンヲダセツッテンダロォ

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最終話

 男の輪郭が、揺れていた。

 

 ノイズのように形がブレ、保とうとしてまたブレる。マホガニーのデスクの表面が波打ち、床の血だまりが沸騰するように泡立ち始めた。天井の亀裂が広がるたびに、漆喰の粉が頭上に降り注ぐ。

 

 男は腕を振り下ろし続けていた。

 

 衝撃が来るたびに、私の意識が底に向かって落ちていく。落ちながら、糸が皮膚を引き裂く激痛が戻す。落ちる。裂ける。戻る。そのたびに縫い穴が広がり、血が流れ、視界が赤く滲む。眼球が乾燥で焼けるように痛い。涙が出ても、瞼が閉じないから眼球の表面を潤すことができない。頬を伝うだけだ。

 

 それでも、見えている。

 

「なぜだ」

 

 男の声に、最初の冷静さはなかった。

 

「なぜ落ちない。脳の処理が限界に達しているはずだ。なぜ」

 

 答えなかった。

 

 私は、自分の意識の状態を観察していた。

 

 衝撃のたびに意識が落ちかける。落ちかけるが、痛みで戻る。しかし毎回、戻ってくるまでの時間が僅かに長くなっている。糸の張力が皮膚を引き裂くことで痛みが増す一方、縫い穴が広がるにつれて糸の固定力が弱くなっていく。皮膚が完全に裂けてしまえば、糸は意味をなさなくなる。

 

 時間の問題だ。

 

 私はエイミを見た。

 

 エイミは私の腕を掴んだまま、男を見ていた。その目に恐怖はある。しかしそれより強い何かもある。静かな、しかし確実に燃えている何かが。

 

「エイミ」

 

「うん」

 

「糸を、締め直せ」

 

 エイミの視線が私の顔に移った。縫い穴から流れた血が顔の半分を覆っている。皮膚が引き攣れ、糸の一部がすでに緩み始めている。

 

「針は」

 

「ポケットに入れてある」

 

 エイミは迷わなかった。

 

 男がまた腕を振り下ろした。衝撃が来た。意識が落ちる。エイミの手が私の顎を掴む。針が皮膚に触れる。

 

 痛みが戻した。

 

 エイミは無言で作業を続けた。緩んだ糸を引き締め、広がった縫い穴の際に新しく針を通し、皮膚を額と頬に縫い付け直す。

 

 最初に縫った時、エイミは針を前にして止まった。息を吸って、止めてから刺した。今は止まらない。止まることの意味が変わったのだと思う。最初の止まりは迷いだった。一度止まって、それでも刺すと決めた後は、止まることの意味が消えた。

 

 天井から大きな破片が落ちた。エイミが素早く私を引いて躱した。破片が血だまりに落ち、赤黒い液体が飛び散る。

 

「終わった」

 

 エイミの声が耳元で聞こえた。

 

 視界が鮮明になった。眼球の乾燥と痛みは変わらないが、瞼の固定力が戻った。

 

 男を見た。

 

 男の輪郭のブレが、大きくなっていた。形を保とうとするたびにノイズが全身に走り、人間の形から逸脱しそうになる。再構築の力と、それを阻む物理的条件の矛盾が、彼自身の肉体にも影響を及ぼし始めていた。

 

「お前は理解していない」

 

 男の声が、ノイズに侵食されていた。

 

「この空間は私だ。私がこの館であり、この館が私だ。館が崩壊すれば、お前たちも崩壊する。お前が破壊しようとしているのは、お前自身の存在基盤だ」

 

「知っている」

 

 私は一歩、前に出た。

 

「でも、ここから出られないなら、ここが崩れても同じことだ」

 

 男が腕を振り下ろした。

 

 今度の衝撃は、これまでとは質が違った。意識を落とそうとするのではなく、物理的に押し返そうとするような力だった。足が床から離れ、後ろに吹き飛ばされた。背中が本棚に激突する。本が崩れ落ちてくる。

 

 肋骨が軋んでいる。

 

 立ち上がろうとした時、エイミが私の腕を掴んで引き上げた。

 

「大丈夫」

 

 問いかけではなかった。

 

「大丈夫だ」

 

 私は立ち上がり、男に向き直った。

 

 書斎の壁の亀裂が、天井まで達していた。窓のガラスにも亀裂が走り始めている。床の絨毯が、端の方から色を失って消えていく。

 

 男の輪郭が、大きく歪んだ。

 

 形が崩れ、再び人間の形に戻ろうとし、また崩れる。そのサイクルが加速していく。デスクの表面が溶け始め、椅子の輪郭が曖昧になる。

 

「もう一度だけ聞く」

 

 男の声が、ひどくノイズまじりになった。

 

「眠れ。すべてを忘れて眠れ。お前が眠れば、この少女の苦しみも終わる。このサイクルも終わる。お前が起き続ける限り、この崩壊は止まらない。お前も、この少女も、何も残らなくなる」

 

 私は答えなかった。

 

 エイミを見た。

 

 エイミは男を見ていた。その顔に恐怖はなかった。怒りでも悲しみでもない。長い時間をかけて積み上げられてきた疲労と、それでも手放さなかった何かが、同時に滲んでいた。

 

 私に気づいて、エイミが視線を移した。

 

 何も言わなかった。私も何も言わなかった。

 

 それで十分だった。

 

「崩れるなら崩れろ」

 

 私は男に向き直った。

 

「このサイクルが終わるなら、それでいい。お前がエイミの絶望を集め続けることも、私が同じ殺人を繰り返すことも、エイミが孤独に血の海を片付け続けることも。終われば、それでいい」

 

 男が何かを言おうとした。

 

 言葉にならなかった。

 

 ノイズが言葉を飲み込み、男の輪郭が大きく崩れた。形を保とうとする力が、急激に弱まっていく。

 

 男の肉体が、波打ちながら崩れていく。

 

 ドロドロと溶け出し、黒いタールのように絨毯に染み込んでいった。音もなく、叫びもなく、ただ静かに形を失っていく。デスクが溶ける。椅子が消える。書棚の本が、背表紙の文字から先に薄れていく。

 

 壁の亀裂が走り、石が落ちる。

 

 天井が、大きく軋んだ。

 

「エイミ」

 

 私はエイミの手を掴んだ。

 

「走れ」

 

 廊下に飛び出した。

 

 足元の絨毯が、踏むたびに沈み込む感触が変わっていく。密度が失われている。壁に掛けられた甲冑が、金属の輪郭を保てなくなって崩れ始めている。顔を塗りつぶされた肖像画が、フレームごと溶け落ちていく。

 

 階段に差し掛かった時、踏み板が一段消えていた。

 

「飛べ」

 

 エイミが躊躇なく飛んだ。私も続いた。着地の衝撃が膝に走る。

 

 一階のホールへ駆け下りた。

 

 玄関の両開き扉があった。

 

 石壁と完全に同化していた、あの扉だ。第一話で指先でなぞった時、継ぎ目の感触すらなかった扉。しかし今、扉の輪郭に亀裂が走っていた。石材と木材の間に、細い隙間が生まれ始めていた。

 

 指先を差し込んでみた。爪の先が入る程度の隙間がある。

 

 背後で、階段の踏み板がまた一段消えた音がした。

 

 私は走ったまま、扉に体当たりした。

 

 衝撃が全身に走った。肋骨が軋む。扉は動かなかった。

 

 しかし亀裂が、広がった。石材と木材の間の隙間が、指一本分になった。

 

「一緒に」

 

 エイミが私の隣に来た。

 

 二人で体を投げた。

 

 衝撃。扉が僅かに動いた。木材が軋む音がした。隙間が広がる。しかしまだ開かない。

 

 背後で、天井の大きな塊が廊下に落ちた。石と木材が砕ける音が、ホール全体に響いた。

 

 扉しかない。

 

「もう一回」

 

 三度目、二人の体重が叩きつけられた瞬間、扉が外側に向かって吹き飛んだ。

 

 光が来た。

 

 目が焼けるような、強烈な白い光だった。縫い付けられた眼球に容赦なく直射する。激痛が走る。しかし瞼は閉じない。閉じられない。光の中に何があるのかを、私の目は強制的に見続ける。

 

 私はエイミの手を握ったまま、その光の中に踏み込んだ。

 

 背後で、館が崩れる音がした。

 

 石が落ちる音。木材が砕ける音。それらが、急速に遠くなった。

 

 遠くなりながら、消えていった。

 

---

 

 最初に気づいたのは、匂いだった。

 

 土の匂い。草の匂い。朝露の匂い。どれも、あの館の中では嗅いだことのない種類の匂いだった。

 

 頬に草が触れていた。

 

 湿っていて、細かくて、冷たかった。

 

 体が重かった。全身が痛かった。肋骨が特に痛む。目の周囲は、もはや痛みの種類が混ざりすぎて個別に識別できない。

 

 空が見えた。

 

 青かった。

 

 ひび割れていない。腐敗した色でもない。ただ青い空だった。雲が流れている。遠くの稜線から、陽光が差し込んでいる。朝だった。

 

 私はゆっくりと上半身を起こした。

 

 草地だった。森の端に近い、開けた場所だ。木々は葉を持ち、風に揺れている。完全な静寂ではない。鳥の声が、遠くから聞こえた。

 

 館はなかった。

 

 私たちが飛び出してきたはずの方角を見た。木々が並んでいるだけだった。瓦礫もない。基礎の痕跡もない。草地が続いているだけだ。

 

 私はその方角をしばらく見ていた。

 

 何かを感じようとしたが、何も来なかった。

 

 エイミが、私の隣で草の上に座っていた。

 

 血濡れのショールは消えていた。彼女が着ているのは、質素な黒いワンピースだった。血の跡もなく、破れてもいない。しかし顔は青白く、目の下に深い隈がある。

 

 私の手には、まだペーパーナイフが一本握られていた。

 

 私はそれを、草むらに置いた。

 

 手放した、という感覚はなかった。ただ置いた。置いた後も、手のひらに柄の感触が残っていた。

 

 エイミが私の顔を見ていた。

 

 縫い付けられた糸が、まだ顔に残っている。

 

「外さないと」

 

 エイミが先に言った。

 

「ああ」

 

 エイミが、ポケットから針を取り出した。糸を切るために、草むらに置いたペーパーナイフを拾い直した。

 

 エイミが私の前に膝をついた。

 

 針の頭を使って糸の結び目を持ち上げ、ペーパーナイフの刃を滑り込ませて切る。一本ずつ、丁寧に。糸が抜けるたびに、引き攣れていた皮膚が戻ろうとして鋭い痛みが走った。

 

 左目の糸が全部抜けた。

 

 瞼が、閉じた。

 

 暗闇が来た。

 

 体が強張った。また暗転するのかと思った。しかし何も起きなかった。ただ暗かった。眼球の表面に、生理的な涙が広がっていく感触があった。乾燥で焼けていた痛みが、少しずつ引いていく。

 

 瞼を開けた。

 

 エイミがいた。

 

「右目」

 

「ああ」

 

 右目の糸も切られた。最後の一本が抜けた時、右の瞼が閉じた。また暗闘。また何も起きない。また開く。

 

 エイミがペーパーナイフと針を草の上に置いた。

 

 私たちはしばらく、何も言わなかった。

 

 鳥の声が続いていた。風が草を揺らす音がした。遠くで木の枝が軋む音がした。

 

 エイミの手が、草の上に置かれていた。

 

 私の手の、少し隣に。触れていない。ただ、そこにある。

 

 私はその手を見た。

 

 冷たいはずだ。この館に来てからずっと、彼女の手はあの温度だった。最初に抱きしめられた時から、今の今まで、ずっと。

 

 手を伸ばす前に、別のことを考えていた。

 

 後悔について、だった。

 

 第3話でフラッシュバックが終わった後、後悔があるかどうか分からないと思った。第4話でも、第5話でも、その感覚は消えなかった。今もある。

 

 あの男を殺したことが正しかったのか、間違いだったのか。エイミを守ったという事実と、人を何十回も肉塊に変えたという事実が、同じ行為として自分の中で繋がっていない。

 

 繋がらないまま、ここに来た。

 

 繋がらないまま、この先を歩く。

 

 その事実に、何かが来た。

 

 論理ではない何かだった。

 

 胸の奥で、何かが詰まった。言葉にならない。分析もできない。ただ、何かが来て、すぐに引いた。波のように来て、引いた。残ったのは、重さだけだった。

 

 私は、その重さを受け取った。

 

 受け取ることしか、できなかった。

 

「覚えているか、と聞くつもりでしょう」

 

 エイミが先に言った。

 

 私は少し驚いた。

 

「何回もそこから始まるから。分かるようになったの」

 

 何回も、という言葉の重さを、私はしばらく受け取っていた。彼女は何十回も、この場面を経験している。草地で目覚め、私が「覚えているか」と聞く。そのたびに、私は覚えていなかった。

 

「覚えている」

 

 エイミの表情が、微かに動いた。動き方が分かりにくかった。喜びではない。安堵とも違う。ただ、何かが変わった顔だった。

 

「全部?」

 

「全部かどうかは分からない。ただ、お前のことも、あの館のことも、私がやったことも、覚えている」

 

 エイミは何も言わなかった。

 

 私も、しばらく何も言わなかった。

 

「私は人を殺した」

 

 声に出した。

 

「何十回も。毎回、記憶をなくして、また殺した。覚えていないことが、無実の証明にはならない」

 

「あなたは私を守るために」

 

「それは動機だ。事実は変わらない」

 

 エイミは何も言わなかった。

 

「後悔があるかどうか、まだ分からない」

 

 私は続けた。

 

「あの男を殺したことが正しかったのか、間違いだったのか。お前を守ったという事実と、人を何十回も殺したという事実が、自分の中で繋がっていない。フラッシュバックで記憶が戻った時から、ずっとそのままだ。ここに来ても、消えていない」

 

「……消えなくていいと思う」

 

 エイミの声は、静かだった。

 

「消えたら、嘘になる。あなたがやったことの重さが、消えたら」

 

 私は、その言葉を受け取った。

 

 消えなくていい。消えないまま持ち続けることが、この手が覚えていることへの、唯一の誠実さかもしれない。

 

「私も覚えている」

 

 エイミが続けた。

 

「毎回、あなたが眠った後、一人であの部屋に入った。床の血を拭いた。証拠を隠した。あなたに着替えをさせた。何十回もやった。毎回、あなたが目を覚ます前に終わらせた」

 

「なぜ、私に言わなかった」

 

「最初は言ったわ」

 

 エイミの声のトーンが、少し変わった。

 

「あなたは信じた。信じて、壊れた。自分が人殺しだという事実を受け取って、立ち直れなくなった。ずっと自分を責め続けて、部屋から出てこなくなって……次の輪廻ではもう何も覚えていないから、また最初から始まる。でも私は全部覚えている。あなたが壊れていく様子も、全部」

 

「それで隠すことにした」

 

「そう」

 

 私は、その判断を責める気になれなかった。しかし正しかったとも思えない。

 

「これからは隠さないでくれ。どれだけ私が壊れても」

 

 エイミが、草の上に置いた自分の手を、少し動かした。指先が、私の指先に触れた。

 

 冷たかった。

 

 館の中で感じたのと、同じ冷たさだった。この場所に来ても、朝の光を受けても、変わっていない。

 

「約束できない」

 

 エイミの声は、平坦だった。感情を抑えているのではなく、ただそのままの声だった。

 

「あなたが壊れていくのを見ることが、私にできるか分からない。また隠したくなると思う。そういう人間だから、私は」

 

「分かった」

 

「怒らないの」

 

「怒らない」

 

 触れている指先の冷たさを感じていた。

 

「なぜ、お前の手はいつも冷たいんだ」

 

 エイミはすぐに答えなかった。

 

 答えをどう言うか考えている、という間があった。

 

「この館に来てから、ずっとこうなの」

 

 エイミは、重ねられた私の手を見ながら言った。

 

「来る前は、こんなじゃなかった。普通の温度だった。でも、あの男が最初に私から何かを抜いた後から、こうなった」

 

「抜かれたものは、戻らなかったのか」

 

「戻らなかった。あなたが何度あの男を殺しても、戻らなかった。記憶か体温か、それとも別の何かか、自分でも分からない。ただ、ここが終わっても、たぶん戻らない」

 

 私は、その事実を受け取った。

 

 館が崩れ、男が消えた。しかしエイミが失ったものは、戻っていない。

 

「そうか」

 

「嫌?」

 

「嫌じゃない」

 

 エイミが私の手の上に、自分のもう一方の手を重ねた。両手で包まれた。冷たさが、両側から来た。

 

「その時はまた私が言う。隠すなと」

 

 エイミが、小さく息を吐いた。

 

「……それでいいの。そんな関係で」

 

「それ以外に何がある」

 

 エイミは答えなかった。

 

 答えない理由が、拒絶ではないことは分かった。

 

 風が吹いた。草が揺れた。遠くの木々が、葉の擦れる音を立てた。陽光が少し強くなった。

 

 私は縫い穴の残る目で、空を見た。

 

「立てるか」

 

「立てる」

 

 二人で、草の上に立った。

 

 館はない。扉もない。カンヌキもない。あの赤紫色の空も、ひび割れた月も、深紅の絨毯も、何もない。

 

 ただ、朝の光と、風と、生きている森がある。

 

 どちらが先に歩き始めたのか、分からなかった。

 

 気づいた時には、二人で歩いていた。

 

 行き先は決まっていない。私が何者なのかも、まだ分からない。名前すら、まだない。

 

 後悔が分からないまま、名前がないまま。

 

 エイミの冷たい手が、私の手に触れている。

 

 足は動いた。

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