エイプリルフールで企画したオリジナル聖杯戦争です。
オリジナルサーヴァント・オリジナルマスター・その他オリジナルキャラたちでお送りする2026年フユキ聖杯戦争。原作キャラは一人出るか出ないか。そんな塩梅です。
より多くの人に見て欲しいと思い、ハーメルンにも投稿することにしました。
お読みいただき、お楽しみいただければ幸いです。
※一部演出等を本サイトから変更しております。
叶の最悪の一日
夢覚めやらぬうちに記しておこうと思う。きっと乱文になってしまうが許して欲しい。
こんな時代だ、いつ果てるとも限らない。そうなった時、誰も知らないなんて勿体ないじゃないか。
聖杯戦争──嗚呼、なんて面白い、最高の御祭騒ぎ!
──その日は、毎度のごとく最悪の一日だった。
もう起きた瞬間から判り切っていたことだ。いつもの、目覚めと同時に忘れる悪夢。
汗だくで飛び起きて、全力疾走の後みたいな荒い息は過呼吸寸前で、でも理由は分からなくて。
こころにぽっかり孔が開いたような虚無感と、どうしてこんな思いをしてまで生きていかなくちゃいけないんだろうという怒りとで、頭の中はミキサーにかけられたみたい。いっそ、誰かがそのまま飲み干しちゃってくれればいいのに。そう思っても、けれど、私には誰もそんな人は居なくて。
「はァッ、はッ、はァッ……! う、ぐ……っ」
泥沼の気分をどうにか落ち着かせるのに多大な時間を要して、その日、私は学校に遅刻した。
* * *
「はァ、もう……。最悪だ」
思い出せないとは言うけれど、原因は明白だ。どうせ私の人生において、あの大災害を超えるインパクトなんてない。これまでも、そしてきっと、これから先も。
──
戦後最大の都市火災は、私の家とお父さんを奪い去った。
私も焼け出され、瀕死で彷徨い歩いているところを保護されて、意識を取り戻してみれば何があったか一切合切をきれいさっぱりと忘れていた。
それ以降、私は思い出せない悪夢を見る。
カウンセラーは自己防衛のための記憶障害とストレス障害だろう、無理して思い出す必要はないと言ったけれど、それから10年が経った今でも記憶は戻らないし、悪夢が終わることもない。いやむしろ、ここ最近は頻度が増えてきているくらいだ。
顔を洗ったばかりの、鏡の中の自分と向き合う。
目元の酷いクマはもう長い付き合いで、今更どうということもない。
ちょっと前に染めたばかりの髪は発色が思ったのと違って気にくわないけれど、染め直すほどじゃないしお小遣いも残ってない。
じっと睨むと、鏡の中の私も睨み返してくる。私を睨みつけてくるのは、空色と表現するには曇り気味の瞳。愛想もないときた。
「酷いありさま。……何て顔してるの、
誰かを真似て
ナイナイ尽くしの不機嫌そうな14歳、それがわたし、
見ていて楽しいものでもないから、鏡をのぞき込むのなんか止めて、さっさと支度をすることにした。
どうせ遅刻だからと一日サボってしまえば、今度はカツカツな単位事情の悪夢に
この頃はまだまだ寒い。
……どうせ一限には間に合わないし、今日は二限は入ってない。学校での自由時間なんて、カフェテリアでぼうっとしているか、読みたい本もない図書館をぶらつくくらいのもの。無駄にするくらいなら、月命日でなくても顔を出すくらいはしたっていいだろう。
私の足は自然と、ある場所に引き寄せられるように進む。学校ほどではないけれど、もう通いなれた道だ。
フユキの街並みは栄えている方ではない。せいぜいが
それが、私の歩みに合わせるかのように、見るからに木々がまばらになっていく。
「────」
──10年前のあの日。
真っ赤な炎と、あでやかに染まった夜空。すべてが狂い、焼け落ちて喪われた、大災害。火はフユキの街の西半分を思うまま舐り、飲み込んでいったが──最終的に都市ガスの配管に引火し、クレーターになるような大爆発を起こして鎮火した。
その
中央にそびえる慰霊碑の厳つさもあってか、近寄る
誰も思い出したくはないのだろう……なんて、忘れてしまっている私が言えた義理でもないのだが。
世界に悲劇を刻みつけるようにそそり立つ、黒曜のモニュメント。そこにはしかつめらしい字体で、こう刻まれている。
──もうすぐ一年も終わろうかという冬の夜の悲劇だった。あれ以来、この街はクリスマスシーズンに入ってもどこか物悲しいというか、浮かれて羽目を外すことへの罪悪感が漂うようになった。
街すらもあの惨禍を忘れられはしないのだ。
私以外の、誰も。
「二週間ぶり、くらいかな」
思い付きでぶらりと寄ったものだから、お供え物もお花もありはしない。手ぶらで来てしまったならせめて土産話でもと思ったのだが……困った。生憎と墓前で話して聞かせるような新鮮なネタが一つもない。嫌になるくらい起伏のない単調な日常、退屈で誇れるところのない人間性しか持ち合わせていない証左。
せめてもの償いでもないけれど、備え付けの布巾で磨くくらいはしていこうか。
亡骸すら残らないほどの業火。焼失した人たちのための碑は、彼らの墓替わりなのだから。
一通り拭き終わった私は、布巾を元の場所に戻す。風雨にも磨かれてなめなかになった表面、刻まれたお父さんの名前をそっとなぞる。
「私はまあ、元気でやってるよ、お父さん」
──なんて、大嘘。いやまあ、大病はないけれど、今朝も悪夢で飛び起きたのを“元気”とはフツウ言わないだろう。雲の上から見られているんなら正直に言ってしまっても同じことか、と思いもしたけれど、だとするならわざわざここに来る必要もなくなってしまう。
私はきっと、ここに眠るひとのために来てるんじゃなくて……私自身が、ここに会いに来たいんだと思うのだ。
男手一つで私を育ててくれたお父さん。
私を産んで亡くなっちゃったお母さんとは、ものすごい大恋愛のすえに結婚したって自慢してたっけ。『叶は目と髪質がお母さんそっくりだ』って、聞き飽きるくらい聞かされたから覚えてる。そんなお母さんのお墓も当時の家の近所にあったから、フユキ大火災で一緒に焼けちゃって、今はもう残っていない。
そして。フユキ大火災で大事なお父さんを喪って、一人ぼっちになった私──あと少し救助が遅かったら死んでいた、焼け跡を彷徨い歩いていた私を助けてくれた、
「義母さんも。私は一人でも大丈夫だから」
“Misao Enjoh”の無機質な銘は、お父さんのそれと違って少し真新しいエッジをしている。何故って後から付け足されたからで、
いつか私が死んだら、その時はここに“Kanae Enjoh”と刻まれるのだろう。それが何時になるかは、興味もないけれど。
物思いに耽っていると、誰かの足音が耳に入って現実に引き戻される。
お墓参りは済んだし、邪魔になってもいけないからと退散しようとして──
「……こんな時間にこんなところで、何をしているんですか、キミは」
「げっ。な、なんで……」
私は一番遭遇したくない人物に遭遇してしまった。
まず目を惹くのは銀とも白髪ともつかない色素の薄い髪、次いで少し褐色がかった肌。
10年前に初めて会った時からさほど変わらない、皺ひとつないから青年にも見えるのがいっそ不気味な男性。
整った容姿は、日曜日のミサでは『いつも湛えている微笑も素敵!』とマダムに人気らしいけれど、私と対面するときはいつだってこの、仏頂面。
彼はハル神父。
ここフユキにいくつかある教会の一つで信仰に励む敬虔なる信徒。
そんな人が、なんで。
私の横に立って、碑に花束を手向けるハル神父。その所作はいちいち神父らしくて、手ぶらで来た自分の
彼は祈りを終えると、こちらを向かないまま、
「私は仕事の前の願掛けに。大きいヤマの前にはいつも来ていますから」
……知らなかった。
そんな習慣自体も、そして、願掛けしたくなるくらいの大仕事をしているコトも。教会で見かける彼は、いつもやる気のなさそうな神父にしか見えなかったから。
どんな仕事なの、とつい訊ねそうになるのをぐっと堪える。ちょっと気になったからって、気安い会話をするくらいには許したと思われたくない。
それくらい私は、彼の──したことを。あるいはしなかったことを。許せていない。
黙っていると、ハル神父が、つと私に視線を投げかけてくる。
「ボクのことはいいんです。それよりカナエ、今日は一限から授業があるスケジュールでしょう。──サボりましたね」
「っっ──仕方ないでしょっ、夢見が悪かったんだから!」
頬に朱が差したのを感じる。カッとなってつい叫んでしまっても、ハル神父は小動もせず、圧の強い無表情のまま、
「日頃の不摂生のせいでしょう。きちんとした生活を送ることです。間違っても夜に出歩いたりしないように」
「うるさいな、関係ないでしょ」
「あります。美青にキミのことを任されていますから。口出しされたくなければさっさと成人することですね」
何を、いけしゃあしゃあと。
任されたとか言っておきながら、彼がウチに訪ねて来たことは一度もない。どころか、連絡さえも
どう考えても私たちに興味が無いのだ、この人は。
「────」
ああ──もう何だか、何もかも馬鹿馬鹿しい。
踵を返す私に、ハル神父は何も告げてはこなかった。
ただどこまでも、私の背に視線を向け続ける気配だけは、じっとりと残っていた。
* * *
くそっ、最悪の気分の更新だ。
寝覚めは悪夢。
学校は遅刻。
お墓参りすれば見たくないツラと鉢合わせ。
勢いのままに一日まるまる休みたいのは山々だけど、そうもいかない。ただでさえ進級が怪しいってのに、これで本当に留年するようなことがあれば、ハル神父がどう動くことやら。
説教の口実を与えたくなくて、Uターンして帰宅したい衝動を必死にこらえて、三限から真面目に授業に出席したけれど、そんなんで身が入るはずもない。そもそも、先のことなんかこれっぽっちも考えていない、考えられもしない人間が『将来のため』なんてお為ごかしを聞かされても、じゃあ頑張ろうとはならないと思うのだ。
私には、思えない。
苦行のような授業、
「あ、臙条。一限居なかったけど、サボり?」
──そうとしたところを、校門で同級生に捕まった。
陽キャで、こうしてたまに話す(というか話しかけられる)こともある人。えーと、名前なんて言ったっけ、ちょっと
「……そうだよ。いいでしょ、別に」
「いやまあ、それも臙条の自由だけどよ。前に、クラブに誘ったじゃん。あん時にさ」
それは覚えている。しつこく誘われたもんだから、私は『単位取得が危ういから、どうせ先生に停められる。進学が優先だろうがー、って』なんて返したのだ。その時は今ほど留年が近くに見えてはいない時分で、あくまで断るための方便だったのだが……要らないことを言ったものだと反省しよう。嘘から出た誠になってしまった。
どうせ真実になったのだから、活かさない手はない。もともと、課外活動に精を出すなんて柄じゃないのだ。
「ん。色々あって、出られなかったの。そういう訳だから、今シーズンも参加厳しそ。ごめんね、誘ってくれてたのに」
「気にしなくていいって。つーか、相変わらず留年危機なのかよ!? 頼むぜ、同級生なんだからせーので卒業しようや!」
──また、先の話。
そのあと、彼に何と返したかは分からない。覚えていない。彼は私を心配してくれていただけと判ってはいても、自分で自分が判らなくなってしまってはどうにもならない。なにか失礼なことを言っていないといいけれど。適当に切り上げた私は、これまでのこともこれからのことも考えたくなくて、大きな音と衝撃で何もかも全部忘れてしまいたくて、道を急ぐ。
流石に走ったりはしない。そんな子供っぽいことするものか。早足程度に抑えて目的地へ。いきつけの店だから、目をつぶっていたって道順は分かる。大橋を渡って新都へ──自転車か、いっそ免許を取って原付でも乗れればすぐなのだろうけれど、別に急がなきゃいけない理由もない。どちらかと言えばのんびり歩いている間は足さえ動かしていれば、あれこれと考えたくないことを考えずに済むから気楽なくらい。
ああ、ほら、もう着いちゃった……と思ったけれど、本番はむしろここからなのを思い出す。
店の扉、強化ガラスにはドットサイトを模したロゴと共にこうある──“Andrew's Shooting Range”。
重たい扉を押し開くと、店内は普段より混んでいた。ガラス越しでも肚に響く絶え間ない発砲音と、店内に漂うガンパウダーの香り。レーンの中には近所にある軍人さんだろうか、髭もじゃ筋肉モリモリの大男ばっかり。ぱっと見でレーンに空きがなくて、こんなトコでも最悪か、と天を恨めしく思う私なのだった。
「カナエ、また来たのか。小遣い大丈夫か?」
カウンターから声がかかる。軍人さんたちに負けず劣らずガタイのいい店長さんのアンドリュー・ハーバートはアームレスリングの大会で見かけそうなマッチョな体だけど、無類の銃オタク。鍛えた理由も『大口径の銃を撃つのに筋肉はいくらあってもいい』という筋金入りで、好きが高じて射撃場をオープンしたはいいが、接客のことまで考えておらず、一時期は真面目に閉店も考えたんだとか。結局『この店に来る人間は銃に興味があるか銃が好きな同類だけなんだから、銃の話だけしてればいいや』と割り切ったらしい。そうやって考え方を変えると不思議なもので、苦手だったフツーの接客も出来るようになるのだから人間ってわからないものだ。……というアレコレは、全部絶交する前のハル神父の受け売りなのだけれど。
私にとっては、いきつけの店の店長なおじさん。
「ここのお金は私の財布じゃないから。それに別にいいでしょ、そっちは儲かるんだし。はい会員証」
──『銃にはいつでも慣れておいて、いざという時は撃てるようにすること』というのは、生前の
私としても助かる話。銃は数少ない私の趣味の一つなのだから。まるで引き金を引くために生まれて来たみたいに、いい銃は手にピタッと吸い付く感じがする。そういう銃はそう多くはないけれど、だからこそ見つけた時の快感はひとしおだ。
「はあ、ったく……。待ち結構あるけどどうする? 外で待つか?」
「いい。ここで。ここの雰囲気は、好きだから」
「お、おお……。んじゃあ、折角だし入荷したばっかの、見てくか?」
なんか急にモジモジし始めたアンドリューは後ろの棚をガサゴソやり始める。ベンチでぼーっとレーンを眺めながら時間潰していようと思っていた私も、その言葉は看過できない。
「そんなんあるなら先言ってよ。何
「ふふん。こいつはウチには無かったからな。奮発しちゃったぜ」
そう言って彼が厳かな手つきで取りだしたのは、コルト・マムシ2026。コルト社とどこだかの
私も実物を見るのは初めてで、わずかながら体温が上がるのを感じる。カタログ越しだとあんまり好みじゃないとか思っていたクセに、いざご対面してみればこれなのだから現金なものだ。私もまだまだガキってことか、やれやれ。
アンドリューに確認してから手に取ると、──なるほど、これがマムシ。グリップ、トリガー、シリンダー。どれも極めて滑らかで、けれど確かな実用性を感じる。何というか、新品とは思えない肌感覚。使い込まれた愛銃と錯覚させるような具合なのに、どこをとっても知らない銃というのは、いっそ気持ち悪いくらいだ。
「……すごい。撃ってないのに分かる、これ。撃ったら絶対気持ち良いって」
「撃ってくか?」
「えッ、いいの!?」
「カナエはお得意さまだしな。そんな顔してんだ、取り上げたらバチが当たろうってもんさ」
ど、どんな顔してたんだろう。慌てて引き締めるけど、頬が熱い。とはいえ興味があったのは事実なので、ありがたく厚意にあずからせてもらうことにした。ちょうどレーンに空きもできたので、マムシと各種道具──イヤーマフやらゴーグルやら──を入れた篭を持ってガラスの向こう側へ。
レーン内はさらに
──何だと言うのか。こういう場所に、私みたいな細っちいアジア人の小娘が居たらおかしいか? 結局彼は何か言ってきたりはせず、ターゲットに向き直るとアサルトライフルの試射を再開した。
……分かってる。勝手な被害妄想なのくらい。別に今のひとが私に思うことなんてなくて、空気の流れからドアが開いたのを感じて振り返ったら新しい客が来たのにビックリしただけってセンの方があり得るだろう。私が思っているほど、みんな私に興味なんてない。そんなこと分かってるはずなのに、私が、私を、って……馬鹿みたいだ。
ほんのちょっと前まで浮かれ気分だったのが一転、頭の中はつまらない思考でいっぱいだ。はいはいそうだよね、期待して浮かれた私が悪いんだよね、と思い知りながら割り当てられたレーンに入っていく。
ターゲットペーパーを吊るし、イヤーマフとグラスを装着。マムシのシリンダーに銃弾を詰めて、狙いを定める。
銃口が火を吹いた。
* * *
──なるほど、アレがコルト・マムシ。
今日初めて手にしたのに、十年来の相棒を握ったのと同じ撃ち心地。なんというか、店で売ってるダメージジーンズって感じだ。面白いとは思うけれど、自分のコレクションに加えようとは思わなかった。
折角の出会いなので、納得いく限り、もう撃つ必要がないくらいにありったけ撃っていたら、もうこんな時間。店が閉まるギリギリまで延長して満喫してしまった。入店時点で日が暮れていた屋外は、時間が経てば必然として、
「ううっ……寒」
日中わりと暖かかったのもあって、軽めの外套をチョイスしたのは失敗だった。
ここまで気温が低下すると知っていれば、一番分厚いのを引っ張り出しても良かったろう。あれに硝煙の匂いをつけるのは違うから、もしも着ていればシューティングレンジに足を運ぶこともなかったろうし、そうするとこの時間まで外出していることもなくて、結果として着過ぎ、ということに──
……あれ、結局ちょうどいい塩梅になることはなさそうだな。
「……帰ろ」
選ばなかった選択肢に意味はない。そんなものに思いを馳せるより、さっさと帰ってあったまる方が優先される。
足早に新都を進んでいく。表通りの喧噪からは遠く、暗く、人気のない路地ならば、私は他人に倍する速度で歩を進められる。もちろん、路地裏ゆえの見たくもないアレコレに出くわす可能性も跳ね上がるけれど、そんなものはどうとでもなる。ひらりと躱してしまえばいいことだから。それくらいの身軽さは、自慢じゃないけれど備えているつもりだ。
「─────」
──そう思っていたのは、どうやら甘かったみたい。
ぴり、と肌がひりつく感覚。猛獣の巣食う密林なんかは、きっと似たようなものではないだろうか。つまりは殺気というヤツで、頭の奥の方が警戒を訴えてくる。もう寒気なんかどこかへ行ってしまった。散々な一日の終わりに、これ以上悪くなることもないだろうと、私は好奇心に従って気配をトレースする。
……最初は、見えなかった。
剣呑な存在感だけがそこにあって、私は本能的に呼吸を抑える。音も匂いもない何かは姿もまた見せず、路地裏の無明に溶け込んでいる。疑問は、何にその殺気を向けているのか、ということ。私がやって来たのに気づいているなら、さっさと加害行動に移るはずだ。五感で捉えられない存在がわざわざ時間をかけても利はないだろう、と考えて思い至る。
路地の壁面、絡み合う配管か室外機でも足場にして、上方。猿か何かのような身軽さの、わだかまって実体を成す影、としか形容し得ないもの。人間の常識の外にあるソレは、私程度ならばどうとでも出来そうなのに──また別の存在に対しては、敵意を剥き出しに、自らを害し得るものとして認めていた。
それは、虚空に浮かぶ幽冥なる魔。
壁面の影は、全容を把握することは困難でも、まだカタチがある方だったのだと痛感させられる。中空の魔はそれすらあやふやな、色のついた気体のような朧げさ。霧散して然るべきソレは、火種もないのに黒い焔の如くに燃え盛っていた。
カタチある影と、妖なる炎。その関係性は、敵対。
「……ッ」
黒影が高所より飛びかかる。ケダモノよりもなお鋭い爪が、魔炎を破壊せんと襲いかかったのだ。かすめるだけでも肉を裂き、骨に届くような斬閃はしかし、敵手には届かない。物理的に触れられない──という訳ではなく、魔炎は機敏に身を翻して避けたのだ。その速さたるや、かき消えたかと錯覚するほど。影が追いかけて飛び上がらなければ、私はそのまま消えたと勘違いしていただろう。
追撃に奔る影。回避したと言うことは、影の攻撃は通用すると炎が判断したということ。次の一撃で決着か、と思いきや──炎が反撃に打って出た。
一回り膨れ上がったかと思うと、小さな火球──これらも当然黒色──が複数、拳銃弾よりも早く放たれる。その速度だけでも十分な危険性を孕むそれらは、影にぶつかり、しかし貫くことはできなかった。
影がその爪を振るい、撃ち払ったのだ。
人ならざる可動域、猛獣と比しても格段に速く、鋭く、そして力強い斬閃。
「──っ、すご……!」
見事な攻防だった。炎の射撃は人知のそれではない。
「────」
──それらに見とれて、つい声を漏らした私の存在に、気づいた素振り。
「や、ば……ッ」
なんて迂闊。いずれ劣らぬ化物、理外の怪、その立ち回りが即興の舞のようだったからと、自らの状況がすっぽ抜けるなんて。あんな非日常の連中が、目撃者なんて放っておくはずがないというのに! 何を観客気分でいるのか、
隠れていたポリバケツを蹴倒して駆けだす。
背後からは追跡者の馳せる音。案の定だ、追いつかれれば最後、この音からして実体持つ影、ヤツに引き裂かれての絶命が待っている。
それは恐ろしいことだ。想像するだけで膝が震えて、走れなくなってしまいそうになる。
……いっそ、立ち止まってしまおうか。そうすればこんな苦しいこともなく、怖いこともなく、何にも悩まされることない。あっさりとこの人生を終わらせて、無に帰れば──
「──ダメ、だめ、駄目、だ……ッ」
何も、無くなってしまう。無駄になってしまう。
まだ何も、私はやっていない。出来ていない。今死んだら、あの火の夜に私を助けてくれた、
「っ、く、うッ」
どんな思いがあろうとも、足が速くなるワケじゃないし、いつかは体力の限界が訪れる。
その時を虎視眈々と待っていたらしい影怪物が飛びかかればあっけないもので、私は地べたに転がって押さえつけられるしかない。片手だけで上半身を覆われて、首を締めあげられる。
「ゔあっ、──かはッ」
両の手で掻きむしったって、こんなもの、どうにかなる方がおかしい。あーあ、これで終わりか、と心のどこかがぼんやり考えている。最悪の一日だって思っていたけれど、まさかここまで
今日まで頑張ってきた意味が、価値が、いったいこの有様のどこにあるというのだろう。ここで死んで、きっと殺したこいつは私を忘れて、何も変わらないまま世の中は回っていくなら、私は、何の──ため、に──
寸断される血流。
暗転する視界。
酸素を求めて、ぱくぱくと陸のサカナみたいに喘ぐだけの私。
「かッ…………あ゙、ッ──」
苦しい、けど……何だろ──この苦しさを、わたしは、知って……
* * *
「バカが。だから、止めとけ、って言ったろうが。いつまでも世話の焼ける」
まあ聞こえちゃいまいが、と続く言葉。
それに応じる者も、聞く物もない虚無の廃墟、一人ぼっち。
否、一█と表現すべきか。
姿かたちは、白い女性。白皙という言葉すら置き去りにする、アルビノと見紛う白さは、それだけで彼女が只人ではないことを知らしめる。銀糸でさえ彼女の髪には劣るだろう。なぜならそれらは、彼女の一挙一動にあわせてさらさらと流れ、光を纏ってキラキラと輝く権利を持たないのだから。
瞑目し胡座するそれは、しかし寛いでいる訳ではない。閉じた瞼の奥、深淵なる思考回路は複数同時に稼働する。
「結局こうなるなら、抵抗するだけ無駄だったな」
──緊急避難条項適用申請。
……………………承認。臙条叶の干渉権を使用。
──運命線走査開始。
──条件:個体「臙条叶」の肉体・精神の保全:高。
該当:なし。
──………………個体「臙条叶」の肉体・精神の保全:中。
該当:一件。
──大聖杯への介入経路確立。
──ログ:20161222224311を流用。
完了。
「いいさ、それがお前の選択なら」
──召喚式構築。
成立。
──召喚、開始。
「聖杯戦争を──ぶち壊すとしよう」
* * *
にじり寄る死の影を裂いて輝くものなど、ないのだと。
けれど、首を締めあげていた怪腕が唐突に消え、せき込んで滲んだ視界でも、まだ在って。
それは高貴を人型に押し固めて成立した芸術のような、
迷うことなく宙を貫く一条の希星のような、
憧れの遥か先の幻想──
「今を生きる、あなた」
精密な銀細工の鎧と黒の外套を纏う貴女は、その手に長柄の得物を携えていた。あれは──槍、か?
私が見た閃光はその一刺だったらしい。あれだけ私を追い回して命を奪おうと襲い掛かってきた
彼女が守ってくれたのだ。怪物の、文字通りの魔の手から。
私をその背に庇って立っていた彼女が振り向く。装いに劣らぬどころか、なお美しい面立ち。同じ性別なのか、どころか同じ人間なのかすら疑わしくなるほどの、天から与えられたとしか言えない完璧な均衡。
切れ長の銀眼も、夜風にそよぐ黒髪も、とおった鼻筋も、わずかに朱のさす唇も、すらりと高い背も、鎧に隠れているけれど、そのプロポーションも。
誰もが焦がれてやまないであろう、理想そのものの具現。
「あなたが、私のマスターですね」
こんな人間が存在するのか、と。
私だってこんな風になりたい、と。
そう思いながら、私は意識を手放した──