駄弁りながらも、支度は済んだ。
名残惜しいが、そろそろ刻限。
これ以上は留まれない。じきに悪魔たちが押し入って来て、キャスターのことをバラバラに引き裂くだろう。そうなれば痛いし、苦しい。土足で踏み入って狼藉を働く以上、家主にも迷惑をかけてしまう。そうなる前に──
決着をつけるのだ。己のやり方で。
キャスターは空白の頁も残りわずかとなった自書をぱたりと閉じる。いくらか欠けて収まりが悪いが、贅沢は言っていられない。
他愛ない雑談で引き留められてしまいそうな心と、己をこの世界に喚びだし繋ぎとめている主に告げる。
「それでは、マスター。これにて御然らばです」
『──ああ、キャスター、宜しく頼む』
彼はぐるりと見渡す。瞳に映らずとも、彼が現界のほとんどを過ごした臙条邸書斎はそこに広がっている。長い──とは言い難い日数でも愛着は湧く。立ち去りたくはなかった。
けれど、これも役目。
「最後に一つ」
自分で『言っておきたいことがあるようでしたら』とまで言ったのだから、きちんと伝えなければ。
恥ずかしいなどと、若返ったものだ。ああ、実際老いた
「──貴方と会えて幸運でした、椎名聖さん。得難い時間、夢のようなひと時。私を召喚してくれて、どうも有難う」
『──、────』
念話の向こう、若く年経た稀なる友が効いてどんな顔をしたか、見届けることは出来ない。千里眼にも近しい世界そのものを読む能力は、残り少ない紙幅を使い切ってしまわないように温存しているから。
けれど、
『俺も、貴方に会えて良かった。感謝を、キャスター』
その言葉に籠った感情だけで、それだけで。
「ご武運を、マスター」
念話を
同時に契約のパスも切断し、完全な孤絶状態。魔力も途切れ、存在の基盤も揺らぎ、刻一刻と霞んで消えてゆく感覚。呼吸が出来なくなるような、けれど苦しみではない安らかさ。奇妙な感覚だったが──この
……思えば召喚されてこのかた、常に彼と共にあった。現界と同時に霊脈は結ばれ、物理的距離が離れても孤独とは言い難かった。
どこか清々しい気分すら感じながら、彼は玄関ドアを開く。
夜の屋外はなかなかに冷え込む。郊外の森で奮闘している彼らは、それどころではないだろうけれど大変だ。風邪などひかなければいいが、と思ってからキャスターは表情をほころばせた。
──彼らがあの森で終わるタマではないと、キャスターは無意識に信じていた。きっと無事に切り抜けるだろうと、その後の彼らの想像をしてしまうほどに。
そういう未来があって欲しいと、願ってもいる。
「そのために──貴方がたには此処で、私とともに消えていただきます」
表に集い、侵入を禁ずる結界をどうにかして破ろうと試みていた連中──ライダーの従僕たるペルシャの悪魔たちへ、穏やかな声のまま、魔術師クラスの彼はそう宣言した。
空色のペーパーバックを取り出す。
これなるは『
キャスターの有する第二宝具にして、霊基の要である。
原典は1944年に刊行された短編小説集。
複数の物語を集めて一冊としたはずの作品集は、サーヴァントの宝具として結実するに当たって変容した。
白紙の頁は
原作小説──あえてそう呼称する、生前の彼が記した作品──にあった奇妙な物語を再現することも不可能ではない。不可能ではないが、それは再記による再現でしかない。
短編とはいえ、ある程度は文章量もある。これまで物語まるまるそのものを再現することを避けてきたのは、それが彼にとって命を削るに等しい行いだからだ。
──
「ご安心を、暴力に訴えるということはありません。もっと残酷に、
彼はその裏表紙を開く。
そこには青い楕円形の印章が押されていて、こうあった──
悪魔たちはそれを見た。
キャスターもまた、それを読んでいた。
それがすべて。
その印章を認識したものはみな、まったくことなる天体、彼の物語の中にしか存在しないはずの
時間はあれど空間はなく、心はあれど物はなく、心理学はあれど科学はなく、この世界とは決して相容れないけれど、認識されることをトリガーとして
もはや魔術師も悪魔たちもない。読んでいるものと喚いているものたちがあるだけで、それも物質的な意味を押し流されていく。もはや色彩はなく、秩序のみがある。
知覚するものだけが存在し、知覚されるもののみが現実となる──異聞すらなお遠い奇妙の
世の人々の誰にも理解しきれない法則がすべてを押し流していき──
──────
──そして、魔力が尽きた。
ぱたんと本を閉じれば、もう読み耽っていた物語は無く、現実が広がっているように、
冬の夜の臙条邸と街並みが、いつもと変わらず続いている。