お父さんは走った。がむしゃらに。
街のあちこちから火の手が上がっているから一直線に駆け抜けたりは出来ない。とにかく危なくない方へ、危なくなさそうに見える方へ。
他の避難民たちは見当たらない。みんなてんでばらばらな方角へ散ってしまった。でも仕方ないことだと思う。彼らが逃げてきた方にも、彼らが逃げてゆく方にも、等しく死の危険が待ち構えているんだから。
逃げようと逃げまいと誰も助からないであろう、地上の地獄。
だから、だろうか──
「────」
一人の人間が、居た。
ちょうど広いスペースが出来ていて、そこに跪いている彼は一幅の絵画のようでやけに印象的だった。短髪に刈り込んで引き締まった印象の白人青年が、最初は祈っているのかと思った。
けれど違った。
彼は手を組んでいるのではなく拳銃を掻き抱いており、
彼は神に祈っているのではなく、笑っていた。
「ひ──ひひひひひひ、くふっふひはははは……!」
肩の震えは徐々に大きくなる。
男性は顔を上げる。
彼という器に収まりきらない
泣き笑いだった。
「ひはっ、ふっひはははァふぐひひっ」
「
お父さんが制止する言葉と、彼が銃口を咥えるのが同時だったように、記憶している。
だから私が何をするよりも迅速く、指先一つで彼は自分の
「──、────」
銃声は、不思議と記憶に残っていない。
ただ燃える地獄のなかで何より赤い、本能的忌避感を抱かずにはいられない赤が、ああ、赤が。
当時の私に何が起きたのか理解することは難しかった。今の私でも、すべては分からない。人の心の中に潜り込みでもしない限りその人の考えていることが全部分かることはないし、青年の心はこの時ぐちゃぐちゃに粉砕されて、永遠に喪われてしまったのだから。
彼の亡骸は口から銃を、後頭部から何かどろどろしたものを溢しながらぐらりと揺れて、そのあと反対方向に倒れた。首にかかっていた鎖の先、ロザリオがちゃりんと音を立てる。
ともかく、これが私が見た初めての──自殺だった。
私には理解できなくて“とても厭なもの”と強く感じるばかりだったけれど、成人してものの道理というものを知って
あの頃の私にしてみれば、少し離れた場所で起きた大きな音よりも、お父さんの生身の感情のほうがずっと恐ろしかった。
だから抱っこから降ろそうとされて、悪い夢か何かだと思った。
「…………っ、叶……ちょっとここで待ってなさい。あっちを向いて」
「お父さん……?」
距離のある自殺者に向かって、一人でお父さんが歩いていく。私は子供心に『お父さんに何かできることがあるのかな』と思ったと思う。それくらい、一目見てあの人はもう
お父さんはゆっくりと自殺者のところへ歩いてゆく──まるで彼が急に起き上がって襲い掛かってくるのを警戒しているみたいに。別にそんな、
辿り着いたお父さんは男性の肩に触れた。ぐいと押しても何の反応も返ってこないことを確認すると、開いたままだった瞼をそっと閉じてやった後────彼が未だ両手で保持したままだった拳銃から、一本一本指を外し始めた。
──それは果たして咎めるべき行いだろうか。
極限状態。隣に居た人間が焼け死に、向かった先で発狂した人間が自殺する死地において、幼い
ついに奪った拳銃の弾倉を確認して、お父さんはひとつ頷く。男性が一発で即死したから、残弾は十分だったのだ。いざという時のためにこれだけあればという安心が歪な笑みを浮かべさせて、見ていられなくて私はそこでようやく目を背けた。
私がずっと見ていたとは知らないまま、お父さんは後ろめたいことをした人特有の落ち着きのない挙動で、行く時の倍の早さで戻ってきた。
「行こう、叶──」
「う。ん……」
再び抱き上げられて密着したとき、私はお父さんとの間に確かに感じた。
死体から剥ぎとった拳銃の、怜悧な硬さを。