ただ一度、顔を伏せて、その後に天を仰いで。
──こんなことは良くあることさ。
──夢破れるのも、大事なものを取りこぼすのも、これが初めてって訳じゃない、なあそうだろ? だからさ、ほら、落ち着けって、
内心でひとりごちて、それで感情を切り替えて、悲嘆に暮れる少女の肩を揺さぶる。
「
「あ、ぅあ……。ひじ、り……」
泣き濡れた彼女は、その言葉を理解できてきるのか。怪しいものだ。
聖はつとめて冷静に、同盟者に向ける言葉であることを意識して、一言一言をはっきりと告げる。
「立て。立つんだよ。逃げるぞ、ここから」
「にげて……逃げて、どうするの……? どうせ死ぬんなら、もう……何も──」
涙に溺れそうな少女の呟きに、脳の奥が爆ぜるのを感じた。切り替えたと思った感情は全然燻っていて、ちょっと煽られただけでこのざまだ。
「──何もしたくないってか? 何の意味もないと? このままここで、不貞腐れて、悔いばっかり遺して逝く気か? 許すか、そんなもん!」
襟首をねじり上げて引っ張り上げる。何が起きているか理解できていない表情の臙条
「
──まくしたてながら、聖はおのれの甘さに辟易していた。感情の抑制が効いていない。半人前の証だ。肉体の鍛錬もまだまだ。つくづく惜しい、第五次聖杯戦争がもう十年あとの開催だったなら、こんな無様は決して──
思考がブレている。今考えるべきは二つ。さっさと臙条叶を立ち上がらせて、二人揃ってこのクソッタレなホテルから脱出することだけだ。
上策とは言い難いが、この状況で贅沢を言ってもいられない。多少の負荷をかけてでも、ここは──
「……いいか、臙条。お前が立ち上がんない限り、俺もここを動く気はねえからな。自棄に付き合わせてもう一人死なすか、どうせ死ぬにしてもやれるだけやってみるか。お前が決めろ、時間はあんまりねえけどな」
「…………ッ」
彼女の性格が、ネガティヴな責任感を中心としているのは早い段階で読めている。一体どうすればここまで自罰的な自我が形成されるのかは謎だが、傾向さえ掴めれば動きを誘導することも可能ということ。
『お前次第で俺も死ぬぞ』と圧をかければ、プレッシャーから逃れようとしてきっと立ち上がる。
そうならないだけの強さはあると感じてはいるし、もし駄目なら──その時は
「…………サイアク。性格悪いよ、その言い方」
果たして。臙条叶は泣きながら、それでも自分の足で立ち上がった。
「お陰でこんな地獄に居んのさ」
彼は嘯いて、もう一度空を見上げる。血をぶちまけたような視界一面の赫は、いよいよ佳境という雰囲気。うねり、捻じれ、狂ったように身もだえる。
怖気の走る呪いの領域。
けれど、今は──独りではない。
***
瞳を拭って立ち上がる。
改めて見れば、フユキ・ハイアットホテルだったはずのそこは酷い有様としか形容できない状態だ。
吹き飛んだ天井と荒れ果てた室内はサーヴァントの交戦によるものだけれど、そこに鮮血をぶちまけたみたいに、奇妙な
空からは不透明の粘液のようなものが垂れ注いでいて、触れたらどうなることやら。きっといい気分にはならないだろう。
そんな赤黒が、先刻までルーラーと女性が居たであろうあたりに流れ落ちている。ぬったりと重く絡まっているせいで、滝というよりは樹液の柱という印象だ。
「あの女の人の魔術なんでしょ。だったら、あの人を倒せば──」
あんな中に居る人に手出しとかしたくはないけれど、一応提案してみる。聖も眉間にしわを寄せて、
「下手人はフェリシアっつー死徒……吸血種であって人間じゃない。平たく言っちまうとサーヴァントに匹敵、個体によっちゃ凌駕しかねないクソ化物だから止めるのはほぼ無理。というか」
そこで聖は、地団太を踏むようにドン、ドンと床を示す。綺麗だった絨毯は光の加減によるものか、風もないのにどぶ川のようにうねって見える。
「
「うえぇぇ……っ」
吐き気がした。と同時に、あの粘液の正体が遅ればせながら理解できる。
それで自分とルーラーを包んで、何をしたいのかは知らない。けれどとにかく良くはないことで、その上で私たちにはどうしようもないというのなら──
「つまり、……そーっと逃げる?」
「その通り。ようやく理解したなら、まずは──階段だ」
我が意を得たりと、いつもの調子で笑う椎名聖が走り出すから私も追走する。思えばさっきのクソ説得でも、『ここから逃げる』ってはっきり言っていたっけ。
何はともあれ行動方針も決まり、出来る限りのアクションを起こし始めた、
──私たちの背後。
粘液柱の中から、それよりもなお粘ついた声が漏れ
「──えんじょう? ……えんじょう……