「────、え」
視界の端、血と地獄の赫の殿堂で、もぞもぞと動く別の
赤よりも橙に近い明るい髪色の女性。
まだ若い──アジア人は幼く見えるし、こんな田舎だとサンプル数も少なくてミシェルにはよく判らない。年上であろうことは間違いないけれど、さほど高くない身長と、スレンダーな体格がきっと彼女を子供っぽく見せている。それが一目で見て取れるのは、スパイ映画の登場人物みたいなぴっちりしたボディスーツを纏っているから。
彼女はそうっと、死体の観客席をすり抜けて吸血鬼に接近するところだった。そういう意味ではスパイではなく暗殺者。どこからか
「えっ」
まさか気づかれると思っていなかったのか、ミシェルが黙っていてくれると踏んでいたのか。おそらく前者、自分を見て驚いているミシェルの反応で、オレンジの女性がぎくりと硬直する。
「えっ?」
ミシェルの反応、恐怖に慄いているのとは違うリアクションに、怪物も少女の視線を辿って後ろを振り返る。
──終わった、とミシェルは絶望した。
吸血鬼の戦闘力は折り紙付きだ。町の住人の誰一人として太刀打ちできなかった。拳銃もショットガンも、アレにはかすりもしなかった。アクセルベタ踏みのトラックは、ヤツの指先一つでその勢いのままに真っ二つに引き裂かれてしまった。あのパフォーマンスが決定的で、アレを見た全員が“抵抗なんて無意味だ”と刻みつけられてしまった。
きっとあの
……どうして驚いたり、慌てたりしたのか、判らない。
ミシェルが混乱している間に、ことは全て済んでいた。
吸血鬼は振り返り、彫像のように固まっているオレンジの女性を絶対に見て、
「……? 何だい、何だったの? 別に何も──」
「──は、え?」
死徒は仰天した。
これ見よがしに接近してくる教会の狗になど、人間以上の性能を持つV階梯が察知できないはずもない。当然聴覚はちゃんと機能していたし、密やかな足音は判りやす過ぎるくらいに判っていた。なのにどういう理由からか、彼女の接近を
ふざけておどけているようで、その実常に警戒を怠っていなかったはずなのに、見逃すなんてことはあり得ない。その動揺が、死徒の動きを狂わせる。
振り向きながらオレンジの位置を薙ぎ払った。何体もの亡骸が巻き添えを食ってバラバラになったけれど、そこにはもう代行者の影も無い。
──遅すぎる、来ると知っていれば赤子だって避けられるは必定。
敵がそう振り向くと予期していたオレンジは、薙ぎ払うことで真後ろになる位置に首尾よく移動していた。もう手の届く距離、けれどそれが何だというのか。ミシェルの見る限り、オレンジの女性の細腕は、そこに握られている、ナイフは──
──とすり、と。
刃は怪物の背に、突き立った。
「………………あ、ぁ?」
たったそれだけ。人間だって致命傷になるかどうかという程度の刃渡りが刺し入れられただけ。
暴虐の限りを尽くした吸血鬼は、それだけで、まるでフツウの人間みたいに、ばったりと。
客席に突っ伏して、動かなくなった。
「…………ぁ、ぁあ……、ぅ……ぇ……?」
生きてはいるらしかった。意味不明な呻き声が、まだ聞こえているから。けれどそれだけで、ソイツは何も出来ないのだと理解する。リンゴを向くくらいしか出来なそうな短刀一本刺されただけで、まるで芋虫か何かのようにモゾモゾと、なんて無様。
「…………それで、きみ。どうして気付いたのかは、あとでゆっくり聞かせてもらうからね」
女性の言葉は、
もう、亡いものと。ここで途絶するのだろうと、諦めていた、これからのこと。
ミシェルがこれからも生きていけるという保証で──彼女が何よりも切望していた未来。
「────、あ」
彼女は束ねていたゴムを解く。思っていたよりずっと長い髪が焔のようになびいて、鮮やかに焼き付く。
ミシェル・ドーソンはその光景を、一生忘れないよう、神に祈った。