彼女の手に触れた時、指先が凍った。
それでも僕は、雨の日を待つようになった。
雨が降ると、あのバス停に行く。
別に、バスに乗るわけじゃない。あそこには屋根がある。錆びたベンチがある。そして——彼女がいる。
最初に気づいたのは、四月の終わりだった。
残業帰り、傘を持たずに家を出た罰で、僕は駅から自宅までの道を走っていた。四月だというのに冷たい雨で、スーツの肩はすぐに重くなった。途中にある古いバス停を見つけて、屋根の下に飛び込んだ。息が上がっていた。革靴の中はぐちゃぐちゃで、靴下が足の裏に張りついて気持ち悪かった。
ベンチに腰を下ろして、ため息をついた。スマホを確認すると、雨はあと一時間は止まないらしい。溜息をもうひとつ。
その時、隣に誰かが座っていることに気づいた。
白いワンピースの女性だった。膝の上に両手を揃えて、まっすぐ前を見ている。髪は長く、肩の下あたりまで伸びていた。雨に濡れてはいないのに、しっとりと湿っているように見えた。不思議な質感だった。
こんな時間に、こんな場所に、女性が一人。少し驚いたけれど、同じ雨宿りだろうと思った。
「すみません、先にいらしたんですね」
声をかけると、彼女はこちらを向いた。
きれいな人だった。
顔の造作がどうとかではなく、空気が澄んでいるような、そういうきれいさだった。黒い瞳が大きくて、雨の向こう側の暗い景色をそのまま映しているみたいだった。肌は街灯の光を受けて白く浮かび上がっていて、現実感が薄かった。
「いいえ。私も、さっき来たところ」
彼女はそう言って、かすかに笑った。声は静かで、雨の音に紛れそうなくらい小さかったけれど、不思議とはっきり聞こえた。
「傘、お持ちじゃないんですか」
「ええ。持ってないの。いつも」
いつも。その言い方が少し引っかかったけれど、深くは考えなかった。
僕たちはしばらく、並んで雨を眺めていた。会話はほとんどなかった。でも、不思議と気まずくはなかった。隣にいる人の気配が、穏やかだったからかもしれない。
三十分ほどして、雨脚が弱まった。僕は立ち上がって、「お先に」と言った。
「また、雨の日に」
彼女はそう返した。社交辞令だと思った。でも、その声が、妙に耳に残った。
それが、始まりだった。
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次に会ったのは、五日後の雨の日だった。
傘は持っていた。でも、あのバス停の前を通りかかった時、足が止まった。屋根の下に、白い影が見えたから。
彼女は同じ場所に座っていた。同じワンピース。同じ姿勢。ベンチの左端、街灯に近い側。まるで、五日前の続きのように、そこにいた。
「こんばんは」
「こんばんは」
僕は傘を畳んで、隣に座った。傘があるのにそうした理由を、自分でもうまく説明できなかった。ただ、傘を差したまま通り過ぎるのは、なんとなく違う気がした。
「雨、よく降りますね」
「ええ。でも、嫌いじゃないの。雨の音って、周りの音を全部消してくれるでしょう。世界が静かになる感じが、好き」
彼女は雨を見つめたまま言った。その横顔を、街灯の弱い光が照らしていた。睫毛が長くて、頬に影を落としていた。
「わかる気がします。雨の日って、自分だけの時間が長くなる感じがする」
「そう。そういう感じ」
彼女は少し嬉しそうに頷いた。
「名前、聞いてもいいですか」
「……雫」
雨の中で出会った人の名前が雫。できすぎていて、少し笑ってしまった。
「なに?」
「いえ。いい名前だなと思って」
「変な人」
彼女は不思議そうにこちらを見て、それから、初めて声を出して笑った。控えめな笑い方だった。口元を手で隠して、目だけが細くなる。その笑い声は、雨音に溶けて、どこかへ消えていった。
「僕は、智樹です」
「智樹さん」
彼女が僕の名前を呼んだ時、胸の奥で何かが小さく動いた。それが何なのか、その時はまだわからなかった。
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それから、僕は雨の日を待つようになった。
天気予報を何度も確認する。朝起きて最初にすることが、スマホの天気アプリを開くことになった。降水確率が五十パーセントを超えると、胸の奥がざわついた。帰り道、空に雲がかかっているだけで、足が速くなった。
会社の同僚に「最近、雨の日に機嫌いいですね」と言われた。自分では気づいていなかった。
雫は、雨の日だけ、あのバス停にいた。
晴れの日に行ったことがある。五月の、よく晴れた日曜日。期待はしていなかった。でも、確かめたかった。
ベンチには誰も座っていなかった。錆びた金属の冷たさだけが、指先に残った。周囲を見回しても、白いワンピースの影はどこにもなかった。バス停の時刻表は色褪せていて、もうずいぶん前から路線が廃止されていることを、その時初めて知った。
誰も使わないバス停。彼女は、そこにいる。
雨が降ると、彼女はいる。いつも同じ白いワンピースで、同じ場所に。ベンチの左端。街灯寄り。
僕たちは、いろいろなことを話した。好きな本のこと。季節のこと。子供の頃の些細な記憶。彼女は読書が好きで、特に短い話を好んだ。短編小説、詩、絵本。
「長い物語は、途中で止まるのが怖いから」
そう言った時の彼女の声が、妙に記憶に残っている。途中で止まる。その言葉の裏にあるものを、僕はまだ読み取れなかった。
彼女は静かに話す人だった。大きな声を出すことがない。感情が表に出にくいようにも見えたけれど、注意深く見ていると、目の奥が微かに動くのがわかった。面白い時は瞳が少し大きくなる。悲しい話の時は、視線がわずかに下がる。
僕は、彼女の表情を読むことに、次第に長けていった。それが嬉しかった。他の誰にも見えない変化を、僕だけが見つけられるということが。
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ある雨の夜、話が途切れた瞬間に、僕は彼女の手に触れた。
意図したわけじゃない。ベンチの上で、指先が偶然ぶつかっただけだ。ほんの一瞬の接触。
冷たかった。
氷を握った時のような、芯まで届く冷たさだった。それだけじゃない。その冷たさは、指先から手首へ、手首から腕へと、じわりと伝播してくるような、浸透するような冷たさだった。生きている人間の体温とは、明らかに違うものだった。
驚いて手を引いた。指先の感覚が、しばらく戻らなかった。
「ごめんなさい」
彼女は小さく言った。俯いて、自分の手をぎゅっと握りしめていた。その声には、謝罪以上の何かが含まれているように聞こえた。申し訳なさと、そして、怯え。触れられることを恐れているような。
「冷え性なんです。昔から」
彼女は自分の手を見つめていた。白い指が、膝の上で震えている。
「大丈夫。びっくりしただけだから」
僕はそう答えた。笑顔を作ったつもりだったけれど、うまくできたかわからない。指先に残った冷たさの異質さを、心のどこかで覚えていた。人間の冷たさじゃない。もっと根本的な、温度そのものが存在しないような冷たさだった。
その夜、家に帰ってから、触れた指先をじっと見つめた。見た目には何の変化もない。でも、感覚だけが、しばらくの間、鈍いままだった。
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六月に入った。梅雨の季節。雨の日が増えた。つまり、彼女に会える日が増えた。
嬉しかった。嬉しいはずだった。
でも、気づいてしまったことがある。一つではない。いくつも。目を逸らしていたものが、梅雨の長雨の中で、次々と輪郭を持ち始めた。
雫は、いつも同じ服を着ている。白いワンピース。汚れもなく、皺もない。ほつれもない。洗濯したばかりのような清潔さでもなく、新品のような硬さでもない。まるで、時間の中に存在していないかのように、変わらない白。
雫は、雨に濡れない。屋根の下にいるからだと思っていた。でも、ある日、彼女がベンチから立ち上がって、雨の中に一歩踏み出すのを見た。何かを見つけたのか、ふらりと屋根の外に出た。水滴は、彼女の肩をすり抜けるように落ちていった。髪にも、ワンピースにも、雨粒は留まらなかった。まるで彼女だけが、雨とは別の層にいるみたいだった。
雫は、食べ物の話をしない。「お腹すいた」と言わない。喉が渇いたとも言わない。僕がコンビニで買った缶コーヒーを差し出した時、彼女は微笑んで首を振った。「ありがとう。でも、いいの」。理由は言わなかった。
雫は、このバス停以外の場所の話をしない。「どこに住んでいるの」と聞いた時、彼女は少し困った顔をして、「近く、かな」と曖昧に答え、すぐに別の話題に切り替えた。仕事は。家族は。普段は何をしているの。そのどれにも、彼女は答えなかった。
気づいていた。
たぶん、最初から気づいていた。
彼女の手が冷たい理由も。雨に濡れない理由も。雨の日にしか会えない理由も。このバス停が、とっくに廃止された路線のものだということも。
でも、認めたくなかった。
認めてしまったら、この雨宿りが終わる気がしたから。名前をつけてしまったら、もう見ないふりはできなくなる。だから、僕は考えることをやめた。彼女は雫で、雨の日にここにいて、僕はそれに会いに来る。それだけでよかった。
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七月になった。梅雨はまだ明けない。
その日は、特に強い雨だった。風を伴って、街路樹が大きく揺れている。排水溝から水が溢れ、歩道に浅い川ができていた。僕は走ってバス停に辿り着いた。
雫は、いた。
いつもと同じ場所。いつもと同じ姿。でも、その夜の彼女は、少しだけ様子が違った。膝の上に置いた手を、きつく握りしめていた。白い指の関節が、さらに白くなるほどに。
「どうしたの」
僕がベンチに座ると、彼女はしばらく黙っていた。雨の音だけが、屋根を叩いている。激しい雨だった。屋根のトタンが、びりびりと振動している。
「ねえ、聞いてもいい?」
「うん」
「あなたは、なんで雨の日にここに来るの?」
わかっている答えを、それでも聞くような声だった。確認ではない。覚悟だった。
「君に会いたいから」
言ってしまった。言葉にしてしまうと、それは取り返しのつかない告白だった。頬が熱くなるのを感じたけれど、撤回する気はなかった。
雫は、僕を見た。黒い瞳に、街灯の光が二つ、揺れている。その目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
「私のこと、怖くないの」
「怖い。指先がまだ冷たいから」
「……そう」
彼女は目を伏せた。長い睫毛が、影を落とす。
「怖いのに、来るの?」
「来る」
沈黙が降りた。雨は、さらに強くなっていた。屋根の端から、水が滝のように流れ落ちている。僕たちは、その水のカーテンの内側に、二人きりで閉じ込められていた。
彼女の唇が、かすかに動いた。聞き取れないほど小さな声で、何かを言った。
「え?」
「……ありがとう」
彼女は前を向いたまま、そう言った。彼女の目から、涙がこぼれた。雨は彼女を濡らさない。だから、それは涙だった。
僕は何も言えなかった。ただ、彼女の隣に座っていた。それしかできなかった。
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それから、僕たちの時間は変わった。
話す内容は同じだった。本のこと、季節のこと、些細なこと。子供の頃に読んだ絵本の話。夏祭りの金魚すくいの話。どこにでもある、誰もが持っているような、小さな記憶。でも、言葉の間にある沈黙が、前より温かくなった気がした。以前は、沈黙が降りると少し不安だった。今は、黙って隣にいることが、それ自体で意味を持つようになっていた。
彼女の手には、触れないようにしていた。あの冷たさを知っているから。もう一度触れたら、今度は手首まで感覚がなくなるかもしれない。そんなことを思っていた。
でもある夜、雫の方から、僕の手に自分の指を重ねてきた。
おそるおそる、という感じだった。指先だけが、僕の手の甲に触れている。躊躇いながら、でも確かめるように。
冷たかった。骨まで染みる冷たさだった。指先から、冷気が腕の中を上っていくのがわかった。
でも僕は、手を引かなかった。
「冷たいね」
「ごめんね」
「いいよ」
僕は彼女の手を握った。指の隙間から、自分の体温が吸い取られていくのがわかった。十秒もすると、握った手の感覚がなくなった。指があるのかないのか、わからなくなる。痛みに似た痺れが、手首の辺りまで広がっていく。
それでも、離さなかった。
彼女は僕の肩にそっと頭を預けてきた。髪から、雨の匂いがした。冷たい匂い。どこか土のような、湿った匂い。でもその奥に、微かに花のような香りがあった。何の花かはわからない。もう枯れてしまった花の、最後の残り香のような。
「ねえ」
「うん」
「もし私が、雨が止んだらいなくなる人だとしたら——あなたは、雨が止まないことを願う?」
仮定の話ではなかった。僕にはわかっていた。
すぐには答えられなかった。
「願わない」
彼女の体が、わずかに強張った。肩に預けていた頭が、ほんの少しだけ持ち上がる。
「晴れた日に、君がいない場所を歩くのは辛い。でも、君のために雨を降らせ続けるのは、もっと辛い」
「……どうして」
「君が雨に閉じ込められたままなのは、嫌だから」
彼女は何も言わなかった。ただ、僕の手を、少しだけ強く握り返した。その力は弱かったけれど、確かにそこにあった。冷たい指が、僕の指に食い込む。痛いくらいだった。でも、その痛みすら、惜しかった。
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八月の最初の雨の日。
梅雨明けの後、二週間ほど晴天が続いた。長い二週間だった。毎日、空を見上げた。雲を探した。天気予報に一喜一憂した。晴れの日が続くほど、胸の奥に溜まっていくものがあった。不安。焦燥。そして、覚悟。
夕立のような、突然の雨が降った。夕方、西の空が急に暗くなり、大粒の雨が降り始めた。僕は傘を持っていなかった。でも、取りに帰ろうとは思わなかった。濡れたまま、走った。
バス停に着くと、雫がいた。
でも、彼女の輪郭が、いつもより薄かった。いつもは街灯の光をくっきり反射していた白いワンピースが、今日はどこか半透明で、背景の暗い景色が透けて見えるような気がした。ワンピースの端が、雨に溶けるように揺れている。風のせいではなかった。風は止んでいた。
「雫」
「来てくれた」
彼女は笑った。いつもの、静かな笑顔。口元を手で隠して、目だけが細くなる。でも、その奥に、覚悟のようなものが見えた。今まで見たことのない、静かな決意。
「久しぶりだね。晴れが続いたから」
「うん。長かったね」
僕はベンチに座った。濡れたズボンが、金属のベンチに張りつく。彼女の隣。いつもの距離。
「話があるの」
彼女は膝の上の手を見つめていた。白い指が、組み合わされている。
「あなたはたぶん、気づいてると思う。私が、何なのか」
「——うん」
「言わないでくれて、ありがとう」
彼女は顔を上げた。黒い瞳が、まっすぐ僕を見ている。いつもより大きく見えた。その中に、街灯の光と、雨と、僕の影が映っていた。
「私はね、ここで死んだの」
雨の音が、一瞬、遠くなった気がした。言葉の意味が、頭の中で処理されるまでに、少し時間がかかった。知っていたはずなのに、彼女の口から聞くと、まるで初めて知ったかのように胸が詰まった。
「去年の秋。雨の夜。十月の、冷たい雨だった」
彼女の声は穏やかだった。誰かの話をするみたいに。遠い昔の、もう済んでしまった出来事を語るみたいに。
「車が歩道に突っ込んできたの。運転手は居眠りをしていたらしい。このバス停のベンチに座っていた私は——バスを待っていたの。もう来ないバスを。路線が廃止されてること、知らなくて」
彼女は少し笑った。自嘲するように。
「馬鹿みたいでしょう。来ないバスを待って、そのまま死んだの」
「馬鹿なんかじゃない」
「優しいね、智樹さんは」
彼女はまた前を向いた。
「気がついたら、雨の日だけ、ここにいた。最初は、何が起きたのかわからなかった。誰も私に気づかない。声をかけても、振り向かない。手を伸ばしても、すり抜ける。私は、透明な存在だった」
雨が強くなっていた。屋根のトタンが鳴っている。
「何ヶ月も、一人だった。雨が降るたびにここに現れて、雨が止むと消える。その繰り返し。自分が何のためにここにいるのか、わからなかった」
彼女は少し間を置いた。
「あなたが来るまでは」
その一言が、静かに、僕の胸に落ちた。
「最初に声をかけてくれた時、驚いたの。私が見えるの、って。でも、聞けなかった。聞いたら、壊れてしまいそうで。せっかく誰かが私を見てくれたのに、幽霊だとわかったら、逃げていくでしょう」
「逃げなかった」
「うん。あなたは逃げなかった」
彼女の声が、わずかに震えた。
「知ってたんだね。自分が——」
「うん」
彼女は微笑んだ。
「知ってた。最初から。自分が死んでいることも、雨が止んだら消えることも。雨の日だけの存在だということも。全部」
僕の喉が詰まった。視界が、少し滲んだ。
「じゃあ、あの日——」
「うん。忘れてるふりをしてた」
彼女の声が、柔らかく揺れた。
「あなたが来てくれるから。あなたが話しかけてくれるから。もう少しだけ、ここにいたかった。あなたの隣で、雨の音を聞いていたかった。それだけで、私は——」
彼女の言葉が途切れた。唇を噛んでいた。
「ずるいよね、私。あなたに、死んだ人間を好きにさせて。あなたの時間を、この錆びたバス停に縛りつけて。あなたには、ちゃんと生きている人と、ちゃんとした場所で——」
「そんなこと——」
「ずるいの」
彼女の声が、初めて震えた。今まで聞いたことのない声だった。静かな彼女が、感情を抑えきれずに震えている。
「だから、終わりにする。今夜で」
---
雨は弱まり始めていた。
さっきまでトタンを叩いていた激しい音が、少しずつ穏やかになっていく。水のカーテンが薄くなり、街灯の光が地面の水たまりに反射して、揺れている。
雫の輪郭が、さらに薄くなっていく。指先から、ゆっくりと透けていくのが見えた。ワンピースの裾が、水蒸気のように揺らいでいる。
「嫌だ」
僕は言った。子供のような声だった。情けなくて、みっともなくて、それでも止められなかった。
「嫌だ。まだ話したいことがある。まだ、全然——君のこと、何も知らない。好きな食べ物も、誕生日も、どこに住んでたかも」
「それは——」
「聞きたかった。全部。でも、聞いたら君が困るから、聞かなかった。聞かないまま、隣にいた。それで良かった。だから——もう少しだけ——」
「聞かせて」
彼女は微笑んでいた。泣きながら、笑っていた。涙が頬を伝い、顎の先から落ちて、消えた。地面に届く前に、消えた。
「好きだった。最初に会った日から。声をかけた時、振り向いてくれた瞬間から。冷たくても、幽霊でも、関係ない。僕は——」
「知ってる」
彼女は僕の頬に手を伸ばした。冷たい指が、肌に触れる。骨まで凍るような冷たさ。頬の感覚が消えていく。でも、僕は目を閉じなかった。彼女の顔を見ていた。泣いて、笑って、少しだけ困ったような顔をしている彼女を。
「私もね」
彼女の声が、雨に滲んでいく。輪郭がさらに薄くなる。
「私も、あなたのことが、好きだった。生きていたら、もっとちゃんと、好きになれたのに。手を繋いで歩いたり、一緒にご飯を食べたり、くだらないことで笑ったり。そういう、普通のことが、したかった」
その指先が、僕の頬から離れていった。冷たさの残像だけが、肌に残っている。
僕は手を伸ばした。彼女の手を掴もうとした。でも、指は空を切った。掴んだはずの場所に、何もなかった。
雫は立ち上がっていた。ベンチから一歩、雨の中へ。
今度は、雨粒が彼女の肩に落ちた。ワンピースに、小さな染みが広がる。初めて、雨が彼女を濡らしていた。
「あ——」
「濡れてる。私、濡れてる」
彼女は自分の肩を見て、不思議そうに笑った。両手を広げて、空を仰いだ。雨粒が、彼女の顔に落ちる。涙なのか雨なのか、もう区別がつかなかった。
「最後に、ちゃんと雨に降られたかったの。生きてた時みたいに。冷たくて、鬱陶しくて、でもちゃんと、感じられる雨に」
彼女の体が、雨に溶けていく。足元から、水たまりに還るように。靴先が透明になり、足首が消え、ワンピースの裾が水蒸気のようにほどけていく。
「ねえ、最後に一つだけ」
「何でも」
彼女は振り返った。もう、顔の半分が透けている。でも、その笑顔だけは、はっきりと見えた。
「——傘、差してね。風邪、ひくから」
雫は笑った。泣きながら、最後まで、笑っていた。
彼女の姿が消えた。
最後に残ったのは、笑顔だった。輪郭が消え、ワンピースが消え、髪が消え、それでも笑顔だけが一瞬、雨の中に浮かんでいた。
そして、それも消えた。
そこには、雨だけが残った。ベンチの上に、彼女が座っていた場所に、雨粒がぽつぽつと落ちている。凹みも、温もりも、何の痕跡もなかった。最初から、誰も座っていなかったみたいに。
僕は、濡れたベンチに手を置いた。冷たかった。でも、それは金属の冷たさで、彼女の冷たさとは違った。もう二度と感じることのない、あの冷たさとは。
雨は、やがて止んだ。雲が割れて、月の光が水たまりに落ちた。世界は何事もなかったかのように、静かだった。
---
あれから、一年が経つ。
僕は今でも、雨の日にあのバス停を通る。彼女はいない。ベンチは空のままで、屋根は相変わらず錆びている。雨の日に座ると、ズボンに錆が移る。それでも座る。
彼女は「傘を差して」と言った。
でも、僕は差せないでいる。
雨に濡れていれば、まだあの場所にいる気がする。冷たい水滴が肩を叩くたび、彼女の指先を思い出す。あの、骨まで届く冷たさを。頬に触れた、凍るような指先を。
本当はわかっている。いつか、差す日が来ることも。
でも、もう少しだけ。
もう少しだけ、濡れていたい。
僕はバス停のベンチに座る。隣には誰もいない。でも、雨の音が、少しだけ彼女の笑い声に似ている気がして、目を閉じる。
錆びた屋根が、僕の代わりに泣いているみたいに、雨粒を受け止めている。
さよなら、雫。
僕はまだ、君に傘を差せずにいる。
読んでくださり、ありがとうございます。
「残像温度」第一話をお届けしました。
全四話、それぞれ独立した物語です。
次話「写し鏡」は日曜20:00に公開予定。
鏡の中の自分が、知らない人の隣で笑っていたら——あなたは、覗き続けますか。
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