残像温度   作:yami_craft

2 / 4

引っ越し先の部屋に、前の住人が残した全身鏡があった。
鏡の中の私が、知らない男の人の隣で笑っている。
私は一人で立っているのに、鏡の中の私は、二人でいる。
あの笑顔が誰のものなのか、知りたくなった。知るべきではなかったのかもしれない。


写し鏡

鏡は、前の住人の忘れ物だった。

 不動産屋には「処分しておきます」と言われたけれど、内見の時に見たその鏡が、どうしても気になった。木製の枠に囲まれた全身鏡。アンティークと呼ぶには古すぎるし、骨董と呼ぶには品がない。でも、何かが引っかかった。鏡面に指を当てた時、ほんの一瞬、温かい気がしたのだ。

 引っ越しの日に「やっぱり残してください」と連絡した。不動産屋は少し困った声を出したけれど、了承してくれた。

 私の名前は凛。二十八歳。グラフィックデザイナー。仕事のために都内から郊外のマンションに越してきた。一人暮らし。恋人はいない。いないことに、特に不便を感じていない。

 友人には「凛は壁が厚い」と言われる。自覚はある。誰かと深く関わることが、昔から苦手だった。人と一緒にいると楽しいけれど、一定の距離を越えると息苦しくなる。だから恋愛もいつも途中で手を引いた。踏み込まれる前に、自分から退く。それを繰り返すうちに、一人の方が楽だと思うようになった。

 鏡は、寝室の壁際に置いた。毎朝、服を選ぶ時に使う。普通の鏡だった。少なくとも、最初の一週間は。

 

 気づいたのは、八日目の夜だった。

 仕事が終わって、風呂上がりにタオルで髪を拭きながら鏡の前を通った。何気なく目をやった。

 鏡の中の私が、笑っていた。

 私は笑っていない。疲れていたし、夕食もまだだった。口元は真一文字のはず。でも、鏡の中の私の唇が、ほんの少し、弧を描いていた。

 そして、目が合った。

 鏡なのだから、目が合うのは当たり前だ。自分の顔を見ているのだから。でも、その時の感覚は違った。「自分を見ている」のではなく、「誰かに見られている」感覚だった。鏡の中の私が、こちら側の私を、観察しているような。

 目を擦った。もう一度見ると、鏡の中の顔は、ちゃんと私と同じ無表情に戻っていた。目線も、動きも、完全に一致している。

 見間違い。そう思った。疲れているのだ。引っ越し直後で、まだ生活リズムが整っていない。

 でも、十日目にも同じことが起きた。

 朝、出勤前に身だしなみを確認していた時。鏡の中の私は、私と同じ動きをしていた。髪を直す。ブラウスの襟を正す。全く同じ。

 でも、目が違った。

 私の目は急いでいる。遅刻しそうだから。鏡の中の私の目は、穏やかだった。急いでいない人の目だった。どこかに行かなければならない人の目ではなく、ここにいたい人の目だった。

 背筋が、うっすらと冷たくなった。

 

 二週間が経った。

 鏡の中の違和感は、少しずつ大きくなっていった。最初は表情のズレだけだった。それが、動きのズレに変わった。

 私が右手を上げると、鏡の中の私も右手を上げる。そこは正しい。でも、下ろすタイミングが、ほんの半拍だけ遅い。私が振り向いても、鏡の中の私は、一瞬だけ、元の方向を見続けている。

 ある夜、気づいた。

 鏡の中の私の背後に、影があった。

 人の形をした影。暗くてよく見えない。でも、鏡の中の私の後ろに、誰かが立っている。私の部屋には、私しかいないのに。

 怖かった。怖かったけれど、鏡から目を離せなかった。

 影は、少しずつ、輪郭を持ち始めていた。

 

 三週間目。

 影は、男の人だった。

 鏡の中にだけ映る男の人。背が高くて、少し猫背で、穏やかな顔をしている。鏡の中の私の隣に立って、何かを話しかけているように見える。口が動いている。でも、声は聞こえない。ガラスの向こうは、音のない世界だった。

 鏡の中の私は、その男の人を見て笑っていた。私が一人で鏡の前に立っている時、鏡の中の私は、彼と二人でいた。

 毎日、少しずつ、鏡の中の場面が変わった。

 ある日は、二人が向かい合ってテーブルについていた。食事をしているらしい。男の人が箸を止めて、何かを言う。鏡の中の私が、口に手を当てて笑う。男の人は少し照れたように頭を掻いている。

 ある日は、男の人が鏡の中の私の後ろに立って、肩に手を置いていた。鏡の中の私は目を閉じて、その手に頬を寄せていた。触れている場所から安心が伝わっているような、そんな体の預け方だった。

 ある日は、二人とも何もせず、ただ並んでソファに座っていた。鏡の中の私の頭が、ゆっくりと男の人の肩に傾いていく。男の人は動かない。そのまま、自然に、受け止めている。当たり前のこととして。

 最初は幽霊だと思った。この部屋に何か出るのだと。でも、違った。鏡の中の空気は怖くなかった。二人は親しげで、自然で、まるで長年一緒にいた夫婦のように見えた。怖いのではなく、あまりにも穏やかだった。

 恐怖よりも、別の感情が湧いた。

 胸が痛んだ。

 理由はわからない。知らない人のはず。鏡の中の映像にすぎない。なのに、あの二人を見ていると、目の奥が熱くなる。失くしたものを見ているような。自分のものではない記憶に、懐かしさを感じるような。

 おかしい。私はこの男の人を知らない。

 でも、鏡の中の「私」は、彼を知っている。あの笑い方は、信頼している人にしか見せない顔だ。あの肩の力の抜き方は、安心している人の体だ。私は、自分の鏡像を通して、自分が知らない感情を見せられていた。

 

 私は調べ始めた。

 怖いからじゃない。怖いなら、鏡を捨てればいい。そうしないのは、鏡の中の二人を見ていると、胸の奥が軋むから。その軋みの正体を知りたかった。

 不動産屋に電話して、前の住人について聞いた。個人情報だからと渋られたけれど、「忘れ物の鏡を返したい」と言ったら、少しだけ教えてくれた。

 前の住人は夫婦だった。三年前に入居して、二年前に退去した。退去の理由は教えられない、と。

 手がかりはそれだけだった。でも、マンションの管理人に話を聞くことができた。一階のエントランス脇の管理室にいる、七十代の女性。住人の出入りをよく覚えている人だった。

「ああ、あの部屋のご夫婦ね」

 管理人は椅子に座ったまま、少し遠い目をした。

「仲が良かったのよ。毎朝、二人で出かけていくの。旦那さんが奥さんの荷物を全部持ってね。奥さんが『自分で持てるよ』って言っても、聞かないの。いつも笑ってた。旦那さん、笑うと目尻の皺がね——」

 目尻の皺。鏡の中の男の顔が浮かんだ。

「休みの日は、二人で買い出しに行って、帰りにここのロビーで荷物を整理してるの。旦那さんが『今日は何作るの』って聞いて、奥さんが『秘密』って言って。毎週同じやり取りしてた。微笑ましかったわ」

 管理人は少し目を伏せた。

「旦那さんが亡くなったの。交通事故で。二年前の冬。十二月だったかしら。奥さん、しばらくはあの部屋にいたけれど、春になって出ていった。最後の一ヶ月くらいは、外で顔を見なかったわ。部屋から出られなかったんだと思う」

 名前を聞いた。旦那さんは拓真。奥さんは美咲。

「奥さん、お宅に少し似てるわね。髪の長さとか、雰囲気が」

 管理人は何気なくそう言った。私は、そのひと言に、心臓を掴まれた気がした。

 鏡が私を美咲と間違えているのだと、その時わかった。だから私の隣に拓真が映る。鏡は、二人が並んでいた頃の記憶を再生し続けている。私の顔に、美咲の面影を重ねて。

 

 その夜、鏡の前に座った。

 鏡の中に、二人がいた。「私」と、拓真。

 今まではぼんやりとした影だった拓真の顔が、はっきり見えるようになっていた。三十代くらい。少し垂れた目。笑うと目尻に皺ができるタイプの顔。

 鏡の中の「私」——いや、美咲は、拓真の隣で笑っていた。テーブルに向かい合って、食事をしているらしい。拓真が何かを言って、美咲が肩を揺らして笑う。拓真が少し照れたように頭を掻く。

 ありふれた夕食の風景。どこにでもある、幸せな日常。ただ、それがもう、どこにもない。

 私は鏡に手を当てた。ガラスは冷たかった。でも、内側から、微かに温かいものが伝わってくる気がした。あの内見の日に感じたのと同じ温度。

 この鏡は、覚えているのだ。この部屋で過ごした二人の時間を。毎朝、並んで身だしなみを整えた朝を。夜、隣に立って歯を磨いた夜を。拓真が美咲の後ろから覗き込んで、ネクタイの結び方を聞いた朝を。

 鏡は、二人を映し続けていた。もういなくなった後も。

 

 美咲を探した。

 いや、正確には、探すかどうかで一週間迷った。

 管理人に聞いた転居先の大まかな地域と、「美咲」という名前。それだけの手がかりで辿れるかもしれない。でも、辿っていいのか。他人の喪失に、部外者が踏み込んでいいのか。

 夫を亡くした女性に、「あなたの鏡に旦那さんが映っています」と伝えることが、優しさなのか残酷なのか、私にはわからなかった。

 それでも、鏡の中の二人を見るたびに、このまま自分だけが抱えていてはいけないと思った。あの鏡は、私のために映しているのではない。

 SNSを調べ、同じマンションに住んでいた住人のつてを辿り、二週間かけて連絡先を見つけた。

 メッセージを送った。「前のお住まいの鏡のことで、お話ししたいことがあります」。送信ボタンを押すまでに、三回、文面を消して書き直した。

 返事は三日後に来た。短いメッセージだった。「お会いできますか」。その一行の下に、何度も書き直した跡があるみたいに、不自然な改行が入っていた。送信するまでに、たぶん何度も迷ったのだろう。

 待ち合わせは、マンションの近くの喫茶店にした。昼下がり。窓際の席。

 美咲は、私に似ていた。

 管理人の言葉は正しかった。髪の長さ、顔の輪郭、目の形。似ている。でも、同じではない。彼女の方が少し頬がこけていて、目の下に薄い影がある。そして彼女の目の奥には、私にはないものがあった。深い疲労と、それでもまだ消えていない、何かへの執着。手放すべきものを手放せずにいる人の目だった。

「鏡、まだあるんですね」

 美咲はコーヒーカップを両手で包みながら言った。指が細くて、少し震えていた。

「引っ越す時、捨てようと思ったんです。でも、できなかった。あの鏡の前で、拓真と毎朝、支度をしていたから」

 彼女はカップの縁を見つめた。

「拓真、寝癖がひどい人だったんです。毎朝あの鏡の前で格闘してた。私が後ろから直してあげると、照れて耳が赤くなるの。三年間、毎朝。三年分の朝が、あの鏡に映ってた」

 コーヒーを一口飲んで、少し笑った。

「完璧な人じゃなかったですよ。味付けがいつも濃くて、何度言っても直らなかった。疲れると黙り込む癖があって、私の話を聞いてないこともあった。一度、大事な記念日を忘れて大喧嘩したこともある。でも——」

 美咲はカップを置いた。

「朝、鏡の前で寝癖と格闘してる後ろ姿を見ると、全部どうでもよくなるの。馬鹿だなって思うんだけど、そういう人だった。欠点ごと好きだった」

「捨てたら、本当に全部なくなる気がして。でも、置いておくこともできなかった。鏡を見るたびに、隣に拓真がいないことを突きつけられるから。鏡って残酷ですよ。一人で立てば、一人しか映らない。そんな当たり前のことが、耐えられなかった」

 彼女は少し笑った。自嘲するような笑い方だった。

「だから、置いていったんです。ずるいですよね。自分で決められないから、他人に委ねた」

「鏡に、映るんです」

 私は言った。言うべきかどうか迷ったけれど、彼女には伝えなければいけないと思った。

「お二人が。鏡の中に、拓真さんと、美咲さんが映るんです。笑っていて、ご飯を食べていて——幸せそうなんです」

 美咲のカップを持つ手が、止まった。

 しばらく、何も言わなかった。喫茶店のBGMが、やけにはっきり聞こえた。

「……見にいっても、いいですか」

 その声は、震えていた。怖いのだと思った。見たいけれど、見るのが怖い。二年間、避け続けてきたものと向き合うことへの恐怖。

「もちろん」

 喫茶店を出て、マンションまで歩いた。五分ほどの距離を、美咲はゆっくりと歩いた。エントランスに入った時、美咲の足が一瞬止まった。ロビーの壁を見つめていた。管理人が言っていた、荷物を整理していた場所。拓真が「今日は何作るの」と聞いた場所。

 美咲は何も言わず、また歩き出した。

 エレベーターの中で、私は美咲の横顔を見ていた。彼女は階数表示を見つめていた。数字が上がるたびに、唇を噛み締めているのがわかった。

 部屋に着いて、寝室の鏡の前に立った。

 私が先に見た。鏡の中にはいつもの光景があった。鏡の中の「私」——鏡にとっての美咲の代替——が、拓真の隣にいる。

「美咲さん」

 私は脇に退いた。

 美咲が、鏡の前に立った。

 鏡の中が、変わった。

 「私」の姿が消えて、美咲自身が映った。当然のことだ。鏡なのだから、前に立った人が映る。でも、拓真はそのまま残っていた。美咲の隣に。鏡の中に。

 今までぼんやりしていた拓真の姿が、一気に鮮明になった。鏡が、本物の美咲を認識したのだ。代替ではない、本物を。拓真の顔の輪郭が、服の皺が、指の一本一本が、くっきりと浮かび上がった。

 拓真が、美咲を見た。

 鏡の中の拓真の顔が、ゆっくりと変わった。驚いたような、信じられないような、そして、どうしようもなく嬉しそうな顔。目尻に皺ができた。管理人が言っていた、あの皺。泣いているのか笑っているのかわからない顔だった。

「拓真……」

 美咲の声が漏れた。掠れて、壊れそうな声だった。

 鏡の中の拓真が、口を動かした。声は聞こえない。ガラス一枚が、生と死の境界になっている。でも、唇の形を、美咲は読み取ったらしい。

「『おかえり』って……言ってる……」

 美咲の膝が、崩れた。床に座り込んで、両手で口を覆って、泣いた。声を殺して、肩を震わせて、泣いた。鏡の前で、まるで拓真の前で泣くように。二年分の涙が、一度に溢れているようだった。

「会いたかった。ずっと、会いたかった……」

 私は立ち尽くしていた。目の前の光景が、あまりにも痛くて、動けなかった。他人の時間に触れてしまったことへの罪悪感と、それでもこの再会が必要だったのだという確信が、同時にあった。

 鏡の中の拓真が、手を伸ばしていた。ガラスの向こうから、美咲に向かって。

 美咲も手を伸ばした。指先がガラスに触れた。

 ぴき、と音がした。

 鏡面に、細い亀裂が走った。指先から放射状に、蜘蛛の巣のように広がっていく。

 拓真が、首を振った。

 穏やかに、でも、はっきりと。

 来るな。

 こっちに来てはいけない。

 美咲の指がガラスに触れたまま、動けなくなっていた。亀裂はゆっくりと広がり続けている。鏡全体にひびが入っていく。拓真の姿が、ひびの隙間で分断されていく。

「嫌。待って。まだ——」

 鏡が、割れた。

 静かだった。大きな音は立てなかった。パリン、ではなく、さらさらと崩れるように、破片が足元に散らばった。木枠だけが壁に残って、中身が全部、床に落ちた。

 一つ一つの破片に、一瞬だけ、拓真の笑顔が映った。

 何十もの小さな鏡面に、同じ笑顔が、ばらばらの角度で。

 それも、すぐに消えた。破片はただのガラスに戻った。何も映さない、冷たいガラスの欠片。

 美咲は床に座ったまま、動かなかった。涙も止まっていた。ただ、破片を見つめていた。

 

 長い沈黙の後、美咲は小さな破片を一つ、拾い上げた。

 親指の爪ほどの、小さなかけら。端で指先を切って、赤い線が一筋走った。美咲はそれを気にせず、破片をそっと掌に載せた。破片の中には、もう何も映っていなかった。ただのガラス。でも美咲は、そこに何かが見えているかのように、じっと見つめていた。

「……笑ってた」

 美咲の声は、不思議と穏やかだった。泣き尽くした後の、静けさだった。

「最後に見せてくれた顔、笑ってた。あの人、いつもそうだった。自分が辛い時ほど笑うの。私を心配させないように。事故の前の日も、残業で疲れてたくせに、帰ってきたら笑ってた。『ただいま』って」

 美咲は立ち上がって、破片をハンカチに包んだ。丁寧に、壊れ物を扱うように。

「二年間、お別れが言えなかったの。急だったから。朝、いってらっしゃいって言ったのが最後で。ちゃんとさよならしてない。だからずっと、終われなかった」

 美咲は私を見た。目は赤かったけれど、表情は穏やかだった。

「ありがとう。連絡をくれて」

「美咲さん——」

「大丈夫。これで、ちゃんと。ちゃんとお別れできる気がする」

 美咲は少し笑った。泣いた後の顔だった。でも、来た時より、どこか軽く見えた。重力が一つ減ったような。背筋が、少しだけ伸びていた。

「拓真は、来るなって言ったんです。こっちに来るなって」

「うん」

「あの人は、私に生きてほしいんですね。鏡の向こうじゃなくて、こっち側で」

 美咲は玄関で靴を履いた。背中が小さかった。でも、さっきまでの震えはなかった。

「二年間、夢に見るの。あの人が笑ってる夢。でも目が覚めると、隣にいない。それが一番辛かった。夢の中では会えるのに、起きると独り。その繰り返しで、どっちが本当かわからなくなる」

 美咲は振り返った。

「でも今日、はっきりした。あの人はあっち側にいて、私はこっち側にいる。鏡一枚分の距離が、生と死の距離なんだって」

「あなたがあの部屋に住んでくれて、よかった。あの鏡を、残してくれて。拓真が一人きりにならなくて済んだから」

 ドアが閉まった。

 美咲の足音が、廊下に消えていった。静かな足音だった。来た時よりも、少しだけ確かな足音。

 私は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。他人の人生に、深く踏み込んでしまった。でも、後悔はなかった。あの鏡が私の部屋にあったことに、理由があったのだとしたら——美咲を、もう一度、拓真に会わせるためだったのかもしれない。

 寝室に戻ると、壁に木枠だけが残っていた。中身のない額縁のように。床の破片は、美咲が一つ持っていった以外、そのままだった。

 私は箒を取ってきて、破片を集めた。ガラスの欠片が、蛍光灯の光を反射して、小さくきらきら光っていた。その一つ一つに、ほんの一瞬だけ、何かが映った気がした。気のせいかもしれない。でも、私はそう思いたかった。

 

 翌日、新しい鏡を買った。

 量販店で選んだ、何の変哲もない全身鏡。軽くて、木枠もなくて、アルミのフレーム。前の鏡があった場所に置いた。壁に少し跡が残っていて、新しい鏡はそれを隠すには小さかった。

 鏡には、私だけが映っている。

 当たり前のことだ。鏡の中に別の誰かが映る方がおかしい。隣に誰もいない鏡は、正しい鏡だ。

 でも、少しだけ寂しかった。

 あの鏡の中には、小さな世界があった。二人だけの、閉じた世界。毎朝の支度、夕食の笑い声、名前を呼び合う声。声は聞こえなかったけれど、確かにそこにあった。

 時々、鏡の前に立つと、自分の笑顔が少しだけ変わった気がする。以前の私は、鏡に向かって笑うことがなかった。身だしなみを確認して、不備がないことを確かめるだけの道具。自分の顔を「見る」ことはあっても、自分の顔に「向き合う」ことはなかった。

 今は、少しだけ、笑ってから鏡を離れるようになった。

 誰かに見せるためではない。ただ、あの鏡の中にいた二人が、あまりにも自然に笑っていたから。隣に誰かがいるということは、ああいう顔になるということなのだと、知ってしまったから。

 美咲からメッセージが来た。「ありがとうございました。破片は、仏壇に置きました」。短い文面の後に、もう一行。「拓真の写真の横に。二人で並んでいるみたいで、少し嬉しいです」。

 私はまだ一人だ。恋人もいない。部屋に帰れば、鏡には私だけが映る。

 友人に言われた「壁が厚い」という言葉を、ふと思い出した。他人と深く関わることを避けてきた私が、見知らぬ女性を探し出し、他人の悲しみに踏み込み、鏡の前で泣く美咲の隣に立っていた。あの時、壁はなかった。少なくとも、私はそこにいることを選んだ。

 美咲と拓真は、欠点も喧嘩も含めて、互いの領域に踏み込んで生きていた。それは面倒で、時に痛くて、でも温かいものだった。鏡は、そのことを私に見せた。

 でも、あの鏡の中にいた時間は、確かにあった。拓真と美咲の時間は、本物だった。鏡が割れても、あの小さな破片の中に、まだあの笑顔が残っている。消えたんじゃない。形を変えて、美咲の手の中に移っただけだ。

 壊れても、消えても、それでも残るもの。

 私にはまだわからない。でも、いつか、わかる日が来るのかもしれない。

 

 ある朝、出勤前に鏡の前に立った時、口が勝手に動いた。

「おはよう」

 鏡の中の私に向かって。

 いや、違う。鏡の中の「誰か」に向かって。まだ会っていない、いつかの隣の人に向かって。

 自分で言ったことに少し驚いて、それから、少し笑った。

 鏡の中の私も、同じタイミングで笑っていた。今度はちゃんと同じ動きで。ずれはない。当たり前のことが、少しだけ、温かかった。

 私はバッグを持って、玄関に向かった。

 靴を履いて、ドアを開ける直前に、もう一度だけ振り返った。

 廊下の奥に、新しい鏡がある。

 そこには、私しか映っていない。

 でも、それでいい。

 鏡はもう何も覚えていない。でも、私が覚えている。あの二人の笑顔を。あの、ありふれた夕食の温度を。

 玄関のドアを開けた。朝の光が、廊下の奥の鏡に反射して、一瞬、白く光った。




あとがき

読んでくださり、ありがとうございます。

「残像温度」第二話をお届けしました。
鏡の中に残っていたのは、幽霊ではなく、時間でした。

次話「体温」は木曜20:00に公開予定。
恋人の体温が、毎日1度ずつ下がっていく——あなたなら、気づかないふりをしますか。

闇工房
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。