残像温度   作:yami_craft

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恋人の体温が、毎日少しずつ下がっている。
36度。35度。34度——。
でも彼女は笑っている。「大丈夫だよ」と。
僕以外の誰も、異変に気づかない。
彼女の手が冷たくなるたび、僕は強く抱きしめた。
その腕の中にあるものが何なのか、まだ気づかないふりをしていた。


体温

目が覚めると、隣が冷たい。

 いつものことだ。紗雪は寝相が悪くて、布団を蹴飛ばす。冬でも薄着で寝るから、朝になると体が冷えている。付き合い始めた頃は心配したけれど、「私、体温高いから平気」と言われて、そういうものかと思った。

 僕はまだ半分眠ったまま、手を伸ばして彼女の肩に触れた。

 冷たい。

 いつもより、明らかに冷たかった。触れた瞬間、指先がひやりとした。寝冷えとは違う。冬の朝に外に置いておいた金属に触れた時のような、体温とは別のものがそこにある感覚。

 体温計をナイトテーブルから取って、彼女の脇に当てた。三十五度八分。低いけれど、異常というほどではない。低体温気味の人なら、このくらいはある。

「……ん、なに」

 紗雪が薄目を開けた。前髪が顔にかかっていて、片目だけこちらを見ている。寝起きの彼女は少し不機嫌で、でもそれが可愛い。

「体温、低くない?」

「平気だよ。いつものこと」

 彼女は僕の手を払って、布団を引き寄せた。そのまままた眠ってしまった。寝顔は穏やかだった。少し開いた唇から、かすかな寝息が漏れている。

 僕は彼女の髪をそっと撫でて、ベッドを出た。

 リビングに行って、コーヒーを淹れた。二人分。僕のはブラック。彼女の分は砂糖を一つ多めに入れる。「甘くないと目が覚めない」と彼女は言う。二年間、毎朝同じ注文。彼女が起きてくるまでに冷めないように、マグカップにラップをかけた。

 カーテンを開けると、冬の朝の光が薄く差し込んだ。何でもない朝だった。

 何でもない朝の、はずだった。

 

 三日後。

 朝、紗雪に触れると、前よりも冷たかった。体温計を当てると、三十五度二分。

「寒くない?」

「全然。むしろ暑いくらい」

 紗雪は笑って、トーストを齧った。彼女の頬は白かったけれど、表情はいつも通りだった。食欲もある。声も明るい。

 僕だけが、気にしすぎているのかもしれない。

 でも、彼女の手を繋いだ時、指先が氷のようだった。僕の体温が吸い取られていくような感覚。それは「冷え性」で片付けられるものではなかった。

「病院、行こうか」

「大げさだなあ。どこも悪くないよ」

 紗雪は首を振って、僕の頬をつついた。「心配しすぎ」。彼女の指先が頬に触れた瞬間、そこだけ感覚が鈍くなった。

 

 一週間後。三十四度五分。

 紗雪は変わらない。朝起きて、朝食を作って、僕を送り出す。「いってらっしゃい」と言って手を振る。夜は僕が帰ると「おかえり」と言って笑う。週末には一緒にスーパーに行って、夕飯の材料を買う。

 何も、変わらない。

 でも、彼女の体だけが冷たくなっていく。

 手を繋いで歩くと、繋いだ方の手だけが凍えた。最初は五分で感覚が鈍くなる程度だった。それが三分になり、一分になり、触れた瞬間に冷たさが走るようになった。手袋越しに握っても、冷気は布を貫通してきた。

 キスをすると、唇が冷たかった。柔らかさはある。彼女の唇の感触は変わらない。でも、温度だけがない。冬の窓ガラスに唇を押し当てたような冷たさだった。

 夜、彼女を抱きしめて眠ると、明け方には体の右半分だけが冷えきっていた。彼女に面した側だけが。まるでベッドの半分が冷蔵庫の中にあるみたいだった。

 会社で同僚に話してみた。「彼女の体温が毎日下がってるんだ」。同僚は笑った。「冷え性じゃないの? 生姜湯でも飲ませたら」。そういう話じゃない、と言いかけたけれど、やめた。言葉にすると、自分がおかしいみたいだった。

 紗雪の友人が家に来た日、それとなく聞いてみた。「紗雪、最近調子どう?」。友人は首を傾げて、「元気そうだけど」と答えた。友人が紗雪の手に触れた時、何の反応もなかった。冷たさに気づいていない。ごく普通に、「紗雪ちゃんの手、あったかいね」と言った。

 僕だけだった。

 僕だけが、彼女が冷たくなっていることに気づいている。

 そしてもう一つ。体温以外にも、小さな違和感があった。

 ある晩、紗雪が言った。「今日のテレビ、面白かったね。あの料理番組」。僕は頷いた。でも、その日テレビはつけていなかった。

 別の日。「航、明日の出張、気をつけてね」。出張の予定はなかった。三ヶ月前にはあったが、とっくに終わっている。

 会話が、微妙にずれている。彼女の記憶の中の暦が、現実と噛み合っていない。半拍遅れて笑う時がある。僕が冗談を言う前に、笑い始める時がある。

 一度だけ、紗雪が自分の誕生日を間違えた。「来月だっけ」と僕が聞いたら、「五月でしょ」と答えた。紗雪の誕生日は九月だ。

 僕は訂正しなかった。訂正したら、何かが壊れる気がした。

 

 二週間後。三十三度一分。

 抱きしめると、寒かった。彼女の体温は、もう冬の外気と変わらなかった。腕の中にいるのに、暖を取っている感覚がない。むしろ、僕の熱が彼女に流れ込んでいくようだった。抱きしめた後は、いつも体の芯が冷えて、しばらく震えが止まらなかった。

 それでも紗雪は笑っている。

「航、顔怖いよ。大丈夫だって」

 大丈夫じゃない。何も大丈夫じゃない。でも彼女が笑うと、それ以上は言えなかった。彼女の笑顔を否定することは、僕にはできなかった。

 病院に連れていこうとした。二度目の提案だった。今度は強く言った。「頼むから、一回だけ」。紗雪は困った顔をした。

「航。私は元気だよ。どこも痛くないし、苦しくもない。ただ冷たいだけでしょう? それって、病気じゃないよ」

 彼女の言うことは、筋が通っていた。体温が低い以外は、何の症状もない。食べて、笑って、動いて、話して。完璧に健康な人間だった。体温だけを除けば。

 僕は証拠を残そうとした。スマホを向けて、紗雪の写真を撮った。彼女は「なに急に」と笑って、ピースサインをした。

 画面を確認した。

 リビングが映っていた。ソファ。テーブル。窓。

 紗雪だけが、映っていなかった。

 彼女がいた場所に、何もなかった。ソファのクッションは凹んでいない。空気だけが映っている。

 スマホを落としそうになった。紗雪が「どうしたの?」と覗き込んできた。僕はすぐに画面を閉じた。「何でもない」。声が震えていた。

 嘘だ。何かの間違いだ。僕は何度も撮った。角度を変え、距離を変え。十枚。二十枚。全部同じだった。紗雪のいない部屋が、何枚も並んでいた。

 僕はその写真を全部消した。見なかったことにした。

 夜、紗雪が眠った後、僕は部屋の中を見回した。

 違和感があった。前からあったのかもしれない。でも、意識したのは初めてだった。小さなノイズのように、気づかないふりをしていたものが、急に聞こえ始めた。

 クローゼットを開けた。僕の服は左半分にかかっている。右半分は——空だった。ハンガーが等間隔に並んでいるだけで、紗雪の服が一枚もない。花柄のワンピースも、グレーのカーディガンも、去年の誕生日に僕があげたマフラーも。

 洗面台に行った。歯ブラシが一本。僕の青い歯ブラシだけ。紗雪のピンクの歯ブラシが、ない。彼女のスキンケア用品もない。棚の半分が、空っぽだった。

 冷蔵庫を開けた。僕のビール、僕の卵、僕の納豆。紗雪がいつも買う苺のヨーグルトがない。彼女の好きな炭酸水もない。彼女が「安かったから」と言って大量に買う冷凍うどんもない。

 玄関に行った。靴が一足。僕の革靴だけ。紗雪のスニーカーも、ブーツも、雨の日用の長靴も、ない。靴箱を開けると、彼女の靴があったはずの段に、薄く埃が積もっていた。長い間、何も置かれていない埃だった。

 リビングに戻った。紗雪の写真を探した。棚の上に写真立てがある。二人で撮った旅行の写真が飾ってあるはずだった。

 写真立ての中に、僕だけが映っていた。海辺で、一人で笑っている。隣には誰もいない。

 息ができなくなった。

 寝室に戻ると、紗雪は眠っていた。布団の中で、静かに息をしている。彼女はそこにいる。確かにそこにいる。目の前に、いる。

 僕は彼女の隣に横たわった。震える手で、彼女の背中に触れた。冷たかった。けれど、確かに、そこに体があった。あるはずだった。

 

 三週間後。三十一度。

 もう体温計が正確な値を示しているのかもわからなかった。人間の体温として、あり得ない数字だった。

 でも紗雪は普通に生活していた。味噌汁を作り、洗濯物を畳み、テレビを見て笑っていた。日曜の午後には二人でソファに座って映画を観た。紗雪はいつも途中で寝る。僕の肩に寄りかかって、小さな寝息を立てる。その重みは感じる。でも温度がない。人間の重さだけがあって、人間の温かさがない。

「ねえ、今日のカレー、ちょっと辛くしすぎたかな」

「いや、美味しいよ」

「ほんと? 航、辛いの苦手でしょ」

「紗雪が作ったものは何でも美味い」

「うわ、なにそれ。気持ち悪い」

 紗雪は笑って、僕の肩を叩いた。こういう会話をする。何でもない会話。付き合い始めた頃からずっと続いている、日常の言葉のやり取り。彼女の声は温かい。体は冷たいのに、声だけは変わらず温かかった。

 この声が聞ける限り、体温なんてどうでもいいと思い始めていた。冷たくても、彼女は彼女だ。笑って、怒って、拗ねて、甘えてくる。温度がないこと以外は、完璧な紗雪だった。

 ある夜、ベッドの中で、紗雪が言った。

「ねえ、航」

「うん」

「私のこと、覚えてる?」

 おかしな質問だった。毎日一緒にいるのに。

「何言ってるんだよ。毎日一緒にいるだろ」

 紗雪は少し黙った。暗い部屋の中で、彼女の目がこちらを見ていた。黒い瞳に、微かな光が映っている。窓の外の街灯の光だろう。彼女の目は少し潤んでいるように見えた。

「うん。そうだね」

 彼女は笑った。少し悲しそうに。いつもの笑顔とは、どこか違った。何かを諦めたような、でも、諦めたくないような。

「ねえ、もう少しだけ、一緒にいていい?」

「当たり前だろ」

 僕は彼女を引き寄せた。冷たかった。抱きしめると、体の芯まで冷気が浸透してくる。歯の根が合わないほど寒かった。でも離したくなかった。離したら、何かが決定的に終わる気がした。腕に力を込めた。彼女を逃がさないように。あるいは、自分が現実に引き戻されないように。

「ありがとう」

 紗雪は小さく言って、僕の胸に顔を埋めた。彼女の睫毛が、胸に触れた。冷たくて、くすぐったくて、どうしようもなく愛しかった。

 

 翌日。二十八度。

 一晩で三度落ちた。それまでの緩やかな低下が嘘のように、数字が崩れ始めていた。

 紗雪の手を握っても、もう「冷たい」という感覚すらなかった。温度を感じる閾値を下回っている。ただ、何かに触れているという圧力だけがある。

 その日、会社を早退した。理由は言わなかった。電車に乗って、家に帰った。ドアを開けると、紗雪がキッチンに立っていた。

「おかえり。早いね」

「うん。早く帰りたかった」

 紗雪は笑って、エプロンで手を拭いた。

「ご飯、もうすぐできるよ」

 僕はキッチンに立つ彼女の後ろ姿を見ていた。細い肩。揺れる髪。エプロンの紐が少し曲がっている。いつもの光景。ここに帰ってくれば、彼女がいる。それだけで、一日の疲れが消える。そういう日常。

 でも、コンロの火がついていないことに、気づいた。

 鍋は置いてある。でも火はついていない。紗雪は何もない鍋の前で、菜箸を動かしている。菜箸は空気をかき混ぜているだけだった。鍋の中には何も入っていない。水すら。

 冷蔵庫に目をやった。今朝見た時は僕の食材があったはずだ。でも扉が少し開いていて、中の灯りがついていなかった。開けてみると、空っぽだった。何もない。棚も、引き出しも。冷気すら感じない。冷蔵庫の電源が、いつの間にか切れていた。

 何もない冷蔵庫から何も取り出さず、火のついていないコンロで、空の鍋をかき混ぜている。

 足元が揺れた。世界の底が抜けたような感覚だった。

 紗雪が振り向いた。

「どうしたの? 顔、真っ青だよ」

 僕は何も言えなかった。彼女は普通の顔をしていた。いつもの笑顔。いつもの声。何も間違っていない顔で、何もかもが間違っている場所に立っていた。

 

 その夜、紗雪は僕の隣で眠った。

 僕は眠れなかった。天井を見つめていた。

 記憶の中に、ノイズが走り始めていた。映像が乱れるように、何かが明滅している。見たくないチャンネルに切り替わるテレビのように、意志とは無関係に、別の景色が割り込んでくる。

 去年の冬。

 電話が鳴った。知らない番号だった。出ると、病院からだった。

 紗雪が倒れた。

 違う。

 紗雪が運ばれた。

 違う、そうじゃない。

 紗雪が——。

 記憶が激しく揺れた。救急車のサイレンの音が、頭の中に響いている。病院の廊下を走った。白い壁。白い天井。蛍光灯の光が目に痛かった。消毒液の匂い。看護師が何かを言った。聞き取れなかった。

 集中治療室の前で待った。何時間待ったのかわからない。椅子に座って、自分の手を見つめていた。手が震えていた。

 医師が来た。マスクを外しながら、僕の前に座った。

 誰かの手を握っていた。

 いつの間にか、ベッドの横にいた。紗雪の手を握っていた。

 冷たい手。

 どんどん冷たくなっていく手。

 握っても、握っても、温まらない手。僕の体温が、全部彼女に流れていけばいいと思った。こんなに熱いのに、なぜ伝わらないんだ。

「航くん」

 医師の声がした。

「航くん、聞こえますか」

 もう、温まらないんです。

 そう言われた。確かに、そう言われた。穏やかな声で。申し訳なさそうな顔で。

 紗雪は——。

 その先の記憶が、白く塗りつぶされていた。葬儀のことを覚えていない。誰が来て、何を言ったのか。覚えていない。ただ、ある朝目を覚ましたら、隣に紗雪がいた。「おはよう」と言って笑った。それが、いつからだったのか、もうわからない。

「航」

 隣から声がした。紗雪の声だった。僕は横を向いた。彼女がそこにいた。暗い部屋の中で、こちらを見ている。

「泣いてる。どうしたの」

 頬が濡れていた。いつから泣いていたのかわからない。

「紗雪」

「うん」

「お前、いるよな。ここに、いるよな」

 紗雪は、少し間を置いて、笑った。

「いるよ。ここにいるよ」

 その声は優しかった。でも、どこか遠くから聞こえるような気がした。

 

 次の朝。

 体温計が示した数字を、僕は長い間見つめていた。

 表示は、動かなかった。測定不能。体温として認識できる温度が、もうなかった。

「ごめんね」

 紗雪の声が聞こえた。ベッドの横に、彼女が立っていた。いつもの寝間着。いつもの髪。でも、彼女の体の輪郭が、朝の光の中で薄く見えた。

「もう少しだけ、一緒にいたかった」

 同じ言葉を、前にも聞いた。あの夜、病院のベッドの横で、彼女の手を握りながら。

「もう少しだけ。もう少しだけでいいから」

 あの時の僕は、誰に向かって言っていたんだろう。

「航」

 紗雪が、僕の前に膝をついた。黒い瞳が、僕を映している。

「去年の冬。覚えてないの?」

 覚えている。覚えていないふりをしていた。

「十二月。私、ここからいなくなったの」

 わかっている。

 わかっていた。

 クローゼットに服がないことも。歯ブラシが一本しかないことも。写真に彼女が映っていないことも。火のつかないコンロも。空の鍋も。全部。

 全部、知っていた。知っていて、見ないふりをしていた。

「……そっか」

 紗雪が、静かに言った。

「ずっと、そうだったんだね」

 涙が止まらなかった。

 紗雪は僕の頬に手を伸ばした。

 何も感じなかった。冷たさも、温かさも、圧力すらも。指はそこにあるように見えるのに、何も触れていない。

「さよなら、航」

「嫌だ」

「コーヒー、砂糖一つ多めに入れてくれるの、好きだったよ」

 彼女は最後に笑った。その笑顔は、朝の光に透けていた。影がなかった。彼女には、最初から影がなかった。

 紗雪の姿が消えた。音もなく。朝の光の中に、溶けるように。何も残さず。

 

 部屋に、僕だけが残った。

 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。埃が光の中を漂っている。静かだった。こんなに静かな朝は、久しぶりだった。いや、ずっとこの静けさの中にいたのに、聞こえないふりをしていただけだ。

 ベッドの紗雪側のシーツに、顔を埋めた。匂いを探した。彼女の髪の匂い。シャンプーの匂い。何でもいい。残っていてくれ。何か一つでも。

 何もなかった。

 温度もない。匂いもない。皺もない。シーツは完璧に平らだった。最初から、誰も寝ていなかった。一年間、ずっと。僕はこの平らなシーツの隣で、毎晩、誰もいない空間を抱きしめていた。

 リビングに出た。テーブルの上に、マグカップが一つだけ置いてある。僕のマグカップ。紗雪のマグカップは——棚の奥にしまってあった。いつしまったのか覚えていない。たぶん、一年前の冬に。

 僕はそのマグカップを取り出した。薄い埃がかぶっている。ウサギの絵が描いてある、紗雪が好きだったマグカップ。水で埃を洗い流した。ウサギの絵は少し色褪せていた。

 コーヒーを淹れた。二人分。紗雪の分は砂糖を一つ多めに。彼女の分のマグカップに注ぐと、湯気が立った。

 テーブルに置いた。向かいの椅子には、誰も座っていない。湯気が二つ、静かに立ち上っている。片方は飲まれることがない。冷めて、ただそこに残るだけだ。

 飲むのは、僕だけだ。わかっている。もう作り続ける理由はない。彼女はいない。一年前からいない。

 でも、まだやめられなかった。やめたら、本当に一人になる。二人分のコーヒーを淹れている間だけ、この部屋に誰かがいた時間が続いている気がした。

 玄関で靴を履いた。鍵を持って、ドアを開ける前に、振り返った。

「いってきます」

 返事はない。

 一年間、毎朝返ってきた「いってらっしゃい」は、僕自身の声だった。

 それでも、言わずにはいられない。

 ドアを開けた。冬の空気が、頬に触れた。冷たかった。

 でも、それは、ただの冬の冷たさだった。紗雪の冷たさじゃない。もうどこにもない、あの体温の不在とは、違うものだった。




読んでくださり、ありがとうございます。

「残像温度」第三話をお届けしました。
冷たかったのは、彼女ではなく、彼の方だったのかもしれません。

次話「腐らない林檎」は日曜20:00に公開予定。最終話です。
彼の料理を食べると、記憶が一つ消える——最後の一皿、食べますか。

闇工房
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