残像温度   作:yami_craft

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彼の作る料理を食べると、記憶が一つ消える。
小学校の担任の名前。実家の猫の毛色。母の手料理の味。
消えていく。一つずつ、確実に。
消えないのは、彼のことだけ。
最後の一皿を前にした時、私はもう、彼の名前すら思い出せなかった。


腐らない林檎

台所から、包丁の音が聞こえる。

 とん、とん、とん。一定のリズム。まな板に刃が落ちる、軽くて確かな音。その合間に、出汁の匂いが漂ってくる。鰹と昆布。蓮の味噌汁は、いつもここから始まる。

 布団の中で、私はその音を聞いていた。起きなきゃいけないのに、もう少しだけ聞いていたかった。この音がする朝は、安心できる。世界がちゃんとここにある、という感じがする。包丁の音は蓮の心拍のようなもので、それが聞こえている間は、全部大丈夫だと思えた。

 私の名前は葉月。二十七歳。蓮と二人で、地方の古い一軒家に住んでいる。蓮とは大学で出会って、卒業してすぐに一緒に暮らし始めた。五年になる。

 起き上がって、台所に行った。蓮が味噌汁の鍋の前に立っていた。背中が少し丸まっている。エプロンの紐が曲がっていて、直してあげたくなる。毎朝曲がっている。毎朝直してあげる。

「おはよう」

 蓮が振り向いた。笑った。でも、一瞬だけ、その目が揺れた気がした。何かを堪えるような、確かめるような。

「おはよう。もうすぐできるよ」

「ありがとう」

 エプロンの紐に手を伸ばして、結び直した。蓮は「あ、また曲がってた?」と照れた。耳が赤い。五年経っても、これが変わらない。

 私はテーブルについた。箸が二膳、きちんと並んでいる。蓮はいつも私より先に起きて、朝食を作ってくれる。そういう人だ。料理が好きというよりは、誰かに食べさせることが好きな人。

 味噌汁と、焼き鮭と、ほうれん草のおひたし。小鉢に、林檎が四切れ。皮を剥いて、うさぎの形にしてある。

「うさぎ林檎、久しぶり」

「なんとなく」

 蓮は向かいに座って、味噌汁を啜った。私も一口飲んだ。美味しい。いつもの味。出汁が効いていて、味噌の加減がちょうどいい。

 林檎を一切れ食べた。甘かった。みずみずしくて、歯ごたえがある。

 その日の午後、ふと気づいた。

 小学校の担任の先生の名前が、思い出せない。

 

 最初は、気のせいだと思った。

 人間は忘れる生き物だ。昔のことなんて、曖昧になって当然。小学校の担任の名前くらい、覚えていない大人の方が多いだろう。

 でも、翌日、別のことが消えた。

 実家で飼っていた猫の毛色が、わからなくなった。三毛だった気がする。いや、キジトラだったか。顔は思い出せる。丸い目。でも体の色が、白く塗りつぶされている。

 その翌日。大学時代の親友の声が、思い出せなくなった。顔はわかる。名前もわかる。でも、彼女がどんな声で笑うのか、それだけが消えている。

 穴が空いていた。記憶のあちこちに、小さな穴が。

 蓮に言った。「最近、忘れっぽいんだよね」

 蓮は味噌汁をよそう手を、一瞬だけ止めた。ほんの一瞬。他の人なら気づかない程度。でも私は見た。

「疲れてるんだよ。ちゃんと食べて、寝なきゃ」

 蓮は笑って、林檎を剥き始めた。とん、とん、とん。皮が途切れずに、長く繋がって落ちていく。彼は林檎を剥くのが上手い。

 その夜、林檎を食べた後、中学の修学旅行の記憶が消えた。京都に行ったはずだ。金閣寺を見た。それは知識として残っている。でも、その時の空気、匂い、隣にいた友人の顔——全部、白い。

 

 一週間で、記憶の穴は広がった。

 高校時代の部活。入っていたはずだけれど、何部だったか。吹奏楽? 美術? 指先に何かの感覚が残っている。筆を持っていた気がする。でも確証がない。

 初めて買ったCDのアーティスト。ジャケットの色だけが残っている。青だった。曲名も歌詞も消えた。

 父親の口癖。「葉月は」の後に何か続くはずなのに、そこだけ無音になっている。

 母親の手料理の味。肉じゃがが得意だった。それは覚えている。でも、その味が——思い出そうとすると、舌の上に何もない。

 消えていく。一つずつ、確実に。

 最初は遠い記憶から消えた。小学校。中学校。知識としては残っている。どこの学校に通ったか、何年に卒業したか。でも、その時の空気が消える。教室の匂い、チャイムの音、隣の席の子の声。そういう、記憶に色をつけているものが、剥がれていく。

 一週間もすると、もっと近い記憶に穴が空き始めた。

 大学の卒業式。出たはずだ。写真も残っている。でも、その日の天気がわからない。誰と隣に並んだのか、思い出せない。

 前の職場の最終日。送別会をしてもらったはずだ。花束を抱えている写真がある。でも、何の花だったのか。誰がくれたのか。白い。

 友人と行った旅行。温泉に入ったらしい。露天風呂から見えた山の名前がわからない。湯の温度がわからない。笑い声だけが、かすかに残っている。それも、日に日に遠くなる。

 怖かった。でも、不思議と、パニックにはならなかった。消えていく記憶の代わりに、蓮との記憶だけが鮮明になっていったから。

 初めて会った日。大学の食堂で、隣の席に座った男。味噌汁をこぼして、慌てて拭いていた。その時の耳の赤さ。

 初めて手を繋いだ日。冬の公園。蓮の手が震えていた。寒さじゃなくて、緊張で。「手、冷たいね」と私が言ったら、「ごめん」と彼は謝った。謝ることじゃないのに。

 初めて料理を作ってくれた日。カレーが辛すぎて、二人で笑った。蓮が「次はちゃんとする」と言って、翌日また作ってきた。今度は甘すぎた。三度目でようやく普通の辛さになった。「やればできるじゃん」と言ったら、蓮は真面目な顔で「林檎は最初から上手く剥けた」と返した。

 全部、鮮烈だった。色も、音も、温度も。他の記憶が薄れていくほど、蓮との記憶だけが色濃くなる。まるで、他の全てを燃料にして、蓮との時間だけを照らしているみたいだった。

 

 気づいたのは、ある朝だった。

 蓮が朝食の支度をしている。包丁の音。出汁の匂い。いつもの朝。

 でも、彼の目が赤かった。

 泣いた後の目だ。腫れている。鼻の頭も赤い。私が起きてくる前に、泣いていた。いや——もしかしたら、毎朝泣いていたのかもしれない。私が起きる前に顔を洗って、何でもない顔を作っていたのかもしれない。今朝は、間に合わなかっただけだ。

「蓮、目、赤いよ」

「花粉。今年ひどいんだ」

 冬だった。花粉の季節じゃない。

 蓮はそれを言ってから、自分でも気づいたらしく、少しだけ目を逸らした。

 私は何も言わなかった。蓮は味噌汁をよそって、林檎を剥いた。いつも通り。うさぎの形。皮は途切れない。

 その林檎を食べた時、会社の同僚の名前が三人分、消えた。昨日まで覚えていた名前が、今朝の一口で、消えた。

 偶然じゃない。

 確かめたかった。確かめたくなかった。でも、もう目を逸らせなかった。

 私は翌朝、蓮の料理を食べなかった。

「お腹、痛くて」

 嘘だった。蓮は心配そうな顔をして、お粥を作ろうとした。それも断った。水だけ飲んで、布団に戻った。蓮は台所で、一人分の朝食を食べていた。その後ろ姿が、いつもより小さく見えた。

 その日、記憶は一つも消えなかった。

 翌日も食べなかった。蓮は無理に勧めなかった。ただ、食卓に二人分を用意し続けた。私の分の味噌汁は、冷めて、そのまま流しに捨てられた。蓮がそれを捨てる時の手つきが、何かを弔うように丁寧だったのを覚えている。

 記憶は消えない。二日間、一つも。

 三日目の朝、蓮の作った味噌汁を一口だけ飲んだ。

 実家への道順が、消えた。

 答え合わせが終わった。

 

「あなたの料理を食べると、記憶が消える」

 夕食の後、私は言った。テーブルを挟んで、蓮と向かい合っていた。

 蓮は箸を置いた。長い間、黙っていた。台所の時計の音だけが、部屋に響いている。

「……気づいてたんだ」

 否定しなかった。

「何を、してるの」

 蓮は答えなかった。テーブルの上の小皿に、林檎が残っている。うさぎの形。蓮は手を伸ばして、その林檎をそっと裏返した。意味のない動作だった。何かをしていないと、壊れてしまいそうな。

「蓮」

「俺の家系には、呪いがある」

 蓮の声は低くて、平坦だった。

「料理を作って、誰かに食べさせると、その人の記憶を一つ消せる。選べるんだ。どの記憶を消すか」

 私は黙って聞いていた。蓮の手が、テーブルの上で拳を作っている。

「半年前のこと、覚えてる?」

 半年前。何もない。白い。

「病院に行ったんだ。二人で」

 知らない。覚えていない。

「末期だった」

 蓮の声が、揺れた。

「帰り道、葉月は泣かなかった。俺の手を握って、『帰ったら何食べようか』って言った。俺は笑えなかった。その夜、葉月が眠ってから、俺は台所で味噌汁を作った」

 蓮は自分の手を見つめた。

「最初に消したのは、それだった。診断の記憶。全部消した。次の日、葉月は『昨日、何してたっけ』って笑ってた」

 私の目から、涙がこぼれた。覚えていないのに。体だけが覚えているみたいに、胸が痛かった。

「それから、痛みの記憶を消した。夜中に泣いた記憶を消した。でも、一つ消すと隣が崩れる。止められなくなった」

 蓮の頬を涙が伝っていた。

「わかってた。わかってて、やめられなかった。葉月が痛がる顔を、もう見たくなかった」

「最初に消したのは、それだった。診断の記憶。治療の記憶。夜中に泣いた記憶。痛みの記憶。葉月が苦しんだ全部を、消した」

 私の目から、涙がこぼれた。自分でも理由がわからなかった。覚えていないのに。体だけが覚えているみたいに。

「でも、苦しみの記憶を全部消したら、他の記憶も薄れ始めた。痛みに繋がってる日常の記憶まで、一緒に引っ張られていく。一つ消すと、隣が崩れる。止められなくなった」

 蓮の目から涙が落ちた。ぼろぼろと。拭いもしない。

「ごめん。もう食べなくていい。これ以上は——」

「蓮」

 私は彼の手を取った。テーブル越しに。彼の手は温かかった。震えていた。

「痛かったの? 私」

「すごく」

「苦しかったの?」

「すごく。毎晩、泣いてた。痛みで眠れなくて、俺の手を握って、朝まで。何もしてやれなかった」

「今は?」

「……痛くない。苦しくもない」

「なら、いいよ」

 蓮が顔を上げた。信じられないような目をしていた。

「痛くて泣いてた私を、助けてくれたんでしょう。それを怒る理由がない」

「でも、葉月の記憶を——」

「痛い記憶なんていらない。友達の名前が消えるのは悲しいよ。お母さんの顔が思い出せないのは辛い。でも、それと引き換えに、痛みのない今日があるなら」

 私は蓮の手を取った。テーブル越しに。彼の手は温かかった。震えていた。指先から、彼の罪悪感が伝わってくるようだった。

「消してくれて、ありがとう」

 

 それからも、私は蓮の料理を食べ続けた。

 蓮は止めようとした。「もう作らない」と言った。私は自分で台所に立って、蓮の味噌汁の鍋を温め直した。「私が食べたいの」と言った。蓮は泣きながら、味噌汁をよそった。

 友人の顔が消えた。一人ずつ、順番に。名前が先に消えて、次に顔が消えて、最後に「誰かがいた」という感覚だけが残って、それも消えた。

 会社に行っていた記憶が消えた。自分が何の仕事をしていたのか、わからなくなった。通勤していたはずの電車の路線が、思い出せない。

 実家の場所が消えた。住所も、最寄り駅も。両親の名前が消えた。「お父さん」「お母さん」という概念はある。でも、その顔に名前がくっつかない。

 自分の誕生日が消えた。何月何日に生まれたのか。何歳なのか。

 残っているのは、蓮のことだけだった。

 蓮の声。蓮の手。蓮の味噌汁の味。蓮が林檎を剥く音。蓮の背中。蓮のエプロンの曲がった紐。蓮が泣く時、音を立てないこと。蓮の耳が、照れると赤くなること。

 それだけが、色鮮やかに残っていた。他の全てが白くなった世界の中で、蓮だけが確かな輪郭を持っていた。

 不思議と、怖くなかった。蓮がいる限り、私は大丈夫だと思えた。何もない世界でも、この人がいれば。

 ある朝、蓮が台所で朝食を作っている音を聞きながら、私は気づいた。

 自分の名前が、思い出せない。

 

「最後に一つだけ、聞いていい」

 朝食のテーブルで、私は言った。蓮が向かいに座っている。味噌汁の湯気が、二人の間に漂っている。朝の光が窓から差し込んで、蓮の顔を半分照らしている。

「何でも」

「あなたは、誰?」

 蓮の箸が、テーブルに落ちた。小さな音がした。

 私は、この人を知っている。この人の味噌汁の味を知っている。この人の手が温かいことを知っている。この人が林檎を剥く時、皮を途切れさせないことを知っている。この人が泣く時、音を立てないことを知っている。この人が花粉のせいにして目を逸らすことを知っている。

 でも、名前が、出てこない。昨日まではあった。今朝、最後の味噌汁を飲んだ時に、消えた。

「……わからない。あなたが誰か、わからない」

 蓮が声を殺して泣いた。肩が震えている。両手で顔を覆って、テーブルに突っ伏した。嗚咽が漏れていた。押し殺そうとして、殺しきれない音だった。

 私は手を伸ばした。テーブル越しに、彼の頭に触れた。髪の感触がある。これを、私は知っている。何度も触れた髪だ。

 彼が顔を上げた。涙で濡れた顔。赤い鼻。腫れた目。今まで見た中で一番みっともない顔だった。一番、人間の顔だった。

 私は彼の手を取った。温かかった。この温度を、私は知っている。何もかも消えた世界で、この温度だけは残っている。

「でも、あなたの手を握っていたい。それだけは、わかる」

 蓮は私の手を握り返した。強く。壊れそうなほど強く。

 私は笑った。泣いている人の前で笑うのは失礼かもしれない。でも、笑えた。この手を握っている限り、私は大丈夫だと思えた。名前を知らなくても。この人が何者かわからなくても。この手の温度だけが、私にとっての全部だった。

 

 夜が来た。

 蓮が最後の料理を作った。味噌汁。焼き鮭。ほうれん草のおひたし。そして、うさぎの形の林檎。最初の朝と、同じ献立だった。

 蓮はいつもより丁寧だった。味噌汁の温度を何度も確かめ、鮭の焼き加減を見守り、おひたしの出汁を調整した。林檎は三つ、うさぎの形に剥いた。皮は一度も途切れなかった。

 テーブルに並べて、蓮は私の向かいに座った。

「いただきます」

 私はそう言った。蓮は少し遅れて、「いただきます」と返した。声が掠れていた。

 味噌汁を飲んだ。美味しかった。出汁の味がする。これが何という調味料で作られているのか、もうわからない。でも、この味は知っている。毎朝飲んでいた味。この人が作ってくれた味。

 鮭を食べた。おひたしを食べた。林檎を食べた。全部、美味しかった。世界で一番美味しかった。

「ごちそうさま」

 私はそう言った。言えた。この言葉は覚えていた。

 蓮は何も言わなかった。ただ、頷いた。目が赤かった。でも、泣いていなかった。泣くのを、こらえていた。

 私は蓮の腕の中で、目を閉じた。温かかった。この温度の中にいれば、何も怖くない。名前がなくても。記憶がなくても。この温度が、私の全てだった。

 意識がゆっくりと遠のいていく。蓮の心臓の音が聞こえる。規則正しく、確かに。

 蓮が何か言った。聞き取れなかった。でも、その声の震え方だけは、わかった。

 

 朝が来た。

 蓮は目を開けた。腕の中に、葉月がいた。

 穏やかな顔だった。眠っているように見えた。でも、胸は動いていなかった。手を握ったまま。蓮の手を、最後まで離さなかった。その手は冷たかった。でも、蓮はしばらく離さなかった。

 どのくらいの時間が経ったのかわからない。窓から差し込む光の角度が変わって、テーブルの上の食器に朝日が当たるまで。

 やがて、蓮は立ち上がった。

 台所に行った。

 テーブルの上に、林檎が一つ残っていた。昨夜、葉月が食べ残した最後の一切れ。うさぎの形。

 変色していなかった。

 切ってから何時間も経っているのに、白いまま。茶色くならない。腐らない。蓮の料理には時間を止める力がある。記憶を消す代わりに、一つだけ、永遠に残るものがある。

 蓮はその林檎に触れなかった。小皿の上に、そのまま置いた。棚にしまうでもなく、捨てるでもなく。ただ、そこに。

 味噌汁を作った。出汁を引いて、味噌を溶いた。椀によそった。二つ。

 テーブルに置いた。箸を二膳、並べた。

 向かいの椅子には、誰も座っていない。

 蓮は椅子に座った。手を合わせた。

「いただきます」

 向かいの味噌汁から、湯気が立ち上っている。飲む人のいない湯気が、朝の光の中で、静かに消えていく。

 蓮はそれを見つめていた。箸は動かさなかった。ただ、湯気を見ていた。

 テーブルの隅に、うさぎの林檎がある。白いまま。永遠に腐らない、最後の一切れ。




読んでくださり、ありがとうございます。

「残像温度」全四話、これで終わりです。

傘を差せない人。鏡に「おはよう」と言う人。返事のない部屋で「いってきます」と言う人。飲まれない味噌汁を作り続ける人。

誰かの温度を忘れられない人が、どこかにいるかもしれません。

闇工房
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