夜、リュエルは水で身体を洗った。
風呂は浴槽に水の魔法石と火の魔法石を入れることで、お湯が出て来る。一般に普及している湯浴み方法。
魔法石。
自然界にある鉱物。魔力と魔法が宿っていて、一定で簡便な手順を踏めば誰にでも魔法が使えるようになる代物。
もちろん高度な魔法を使える魔石は希少で、千年に一個発掘されるかされないか。材料さえあれば作成も不可能ではない。しかし、値段が張る。
ただ、お湯を沸かす程度ならあまり珍しくもない。値段も水と火の魔石一つずつで大銅貨三枚程度。それが一日保つ。
しかし、リュエルは節約のため、井戸の水を汲んで浴室で身体を擦るだけ。冬の水が身に染みる。
リュエルは風呂上りとは名ばかりの冷え切った身体で部屋に戻ろうとして、セフェトに呼び止められた。リュエルは渋面を作った。誰とも会話せず部屋に戻りたかった。
「明日、ハーベラムの森に入られると仰っておりましたが、どういったご用件で入られるのですか?」
「薬草を採りに。……さっきも言った」
夕食後、食器返却時にリュエルは捨てるように告げたのだ。試験のことは言っていない。受かるとは決まっていない。下宿代返済の見込みもない。糠喜びさせても意味がない。憎悪が増すだけだ。
豚鬼についても説明していない。セフェトの表側は優しいから、形だけでも心配してくれるだろう。もしくは不安も言うかもしれない。借金が返されない不安。
「何か、お手伝いできることはありませんか?」
セフェトが見上げながら訊く。今ではリュエルの背丈の方が高い。昔は見上げていた。成長するものだ。嫌な方に。
リュエルは頭を振った。
どのような打算で手伝いたいと言ってきているのか。リュエルはもう貴族ではないし、セフェトも使用人ではない。手伝ってもらう権利も手伝う義務もない。きっと裏があるに違いない。それが悲しかった。
今は誰とも話したくない。
リュエルは踵を返した。
「お嬢様!」
セフェトが呼び掛ける。リュエルは思わず立ち止まる。振り返らない。
「お嬢様はおひとりではございません。それだけでも、覚えていて下さい」
セフェトは黙った。特に何も続けてこなかったので、リュエルはほっとした。話は終わり、とでも言うようにリュエルは部屋に続く階段を上った。踏板が泣いた。
翌日。暗いうちに宿から出た。朝食は貴重な干し肉を食べた。五日分を買ったつもりだったが、十日分あった。店主が間違えたのだろう。余裕があって良い。正直に言うのも勿体ない。間違えたのは向こうなのだから差分はもらっておく。
胸が苦しい。自分が情けない。それでも進まなければならない。人生の辛さ。
王都は青い静けさに包まれていた。東の空すら朧げである。
今頃アメリルは傭兵組合事務所前で待っているだろうか。胸が痛む。騙されている方が悪いのだ、と理性では理解するのだが、疲労のような胸の
リュエルは頭を振って門まで急いだ。
エンリーリヤ王都ザファーには三つの城壁がある。一つ目が王城周辺にある城壁、第一城壁。別名、Royal Wall。
王都を上から見ると、銀杏の葉型をしている。茎と葉の付け根部分にある王城から、貴族街、市民居住区、傭兵組合と各種施設の面する広場、商店街、と層状になっており、第二城壁が囲む。別名、Life Wall。
第二城壁の門に、トタールがいた。
「おいおい、大荷物だな」
呆れたような声。リュエルはむっとする。
確かに大きな背負い鞄。さらに背中には腕の長さほどの剣も佩いている。しかし、荷物に圧し潰され見えにくい。
リュエルは嫌な顔をしてトタールに向く。
「なぜ、いる、ですか?」
「魔法の鞄は持ってないのか? 貸そうか?」
質問に答えない。リュエルは機嫌が悪くなる。
魔法の鞄。簡単に言えば、小さい容積で大容量の荷物が入る鞄。鞄の二倍とか三倍、高価なものでは十倍入る。優秀な魔道具士が作る魔法の道具で、安い物でも小銀貨五枚はあるだろう。
「いらない、です」
リュエルはトタールを警戒して言う。トタールはリュエルの容姿と身体目当てで近付く変態だ。喋りたくもない。
トタールは心配そうに鞄を見ている。
「その荷物だと剣が抜きにくいだろ? 試したのか? 剣が抜けるかどうか? 背中じゃなくて腰に差した方がいい。動き辛くなるが、荷物が多いからあまり変わらん」
試したことはない。咄嗟の時に剣が抜けなければ命取りだ。腰に剣を佩くと走る時や激しい動きで鞘が脚にぶつかる。ぶつからない走り方や動き方があるのかもしれないが、リュエルは知らない。背中に装備するほかなかった。
リュエルは鼻を鳴らした。
「大丈夫。構わないで」
リュエルは言い放ち、トタールの横を通り過ぎる。門を潜った。トタールは何も言わなかった。
第二城壁を抜けると、左右に畑が広がっていた。秋には麦穂畑が見渡せるが、今は冬で収穫後の寂しい地面。畑を通り過ぎると第三城壁が見えてくる。別名、Food Wall。
第三城壁には検閲と通行税のために門兵がいる。
「嬢ちゃんじゃないか」
知り合いの門兵に声をかけられる。髭面。どこかでイースナと呼ばれていた男。リュエルは丁寧にお辞儀した。
「そんな荷物背負って、どこ行くんだい?」
「ハーベラムの森」
門兵は顔を顰めた。
「もしかして奥まで行こってのか? 今は止めとけ。豚鬼が出るぞ」
ここでもか、とリュエルは溜息が出そうになるのを我慢した。門兵との間に剣呑な雰囲気を作りたくなかった。門兵と仲が悪いと通行するのに時間がかかってしまう。試験は一週間。無駄は省きたい。
「大丈夫。準備してきた」
リュエルがにこやかな笑顔で言った。門兵は心配そうな顔をした。
「本当か? 森には何しに行くんだ?」
「アルニマム採取」
「アルニマムは森の泉に生えてる。森の地図はいるか?」
地図は古いが持っていた。余計な荷物で嵩張るのは好ましくない。さらに、地図も無料ではないはず。
リュエルは、いらないです、と言って門兵の許しが出るまで待った。
「地図は新しくなってる。もしかして、他で手に入れたのか?」
「そんなとこ」
新しくなっているのか、とリュエルは心の中で悔しがる。しかし、いらないと言った手前引けない。お金もないのもある。まぁ、新しいと言っても地形が大きく変わることはない。古いのでも大丈夫だろう。
リュエルの返事にある程度の納得を示して、通行税をとる門兵。小銅貨一枚。奇跡的に探したらその一枚が部屋の隅に落ちていた。それを払う。見つけられて良かった。帰る時は魔物の素材や薬草を通行税にできる。門を通った。
城壁の外は原っぱだった。秋のためか踝まで薄茶の草。それらが丘を越えて森まで続く。ハーベラムの森だ。
ハーベラムの森は針葉樹林が鬱蒼と茂っている。ザファーの冬が茶黒白に染まるのは確かだが、全ての色が三色になる訳でもない。ハーベラムの森は年中緑。
雲が出て来た。太陽が隠れ、いつもよりも怪しい雰囲気を纏う森。リュエルは森へと入った。
小鳥の囀りはない。鹿が時々鳴き、枯草を踏む音。風が木の葉を擦り、森林の冷たい空気をリュエルは吸い込む。一人で入るには不気味な雰囲気。そこで自由を感じた。
昼食の干し肉を食べながら歩く。堅いが奥歯で噛み唾液を混ぜれば食べられるようになる。塩辛い味と
奥の見通しが悪い。樹木が空を覆い、雲が光量を減らす。時々揺れる木漏れ日が不安を募らせる。
倒木を乗り越え岩の間を通り昼食を噛む。森の浅層。その時、奥の草叢から跳び出す生物。人型。醜い目鼻の肥大。
エンリーリヤの冬は比較的暖かいとはいえ、腰衣だけの骨皮姿はみすぼらしい。手には錆びた小刀。何かから逃げているような、そんな慌て方だ。リュエルの方へ来る。
リュエルは残りの肉片を飲み込み、背中の剣に手をかけた。目の前に小鬼が迫る。リュエルは剣を抜こうと力を入れる。
しかし、抜けない。背中の荷物が邪魔だ。冷っとして脇へ逸れる。小鬼が両手で持っていた小刀を突き出す。リュエルは後ろに下がる。右手は剣の柄から離さない。小鬼は追いかけてくる。涎を撒き散らしてくる。
トタールの予想が当たった。リュエルは焦る。小鬼が次々に迫る。錆びた小刀。三匹に囲まれそうになり、ひらりと脱出する。一体を蹴り上げて、間合いを取る。剣はまだ抜けない。
小鬼が高く飛び上がる。小刀を振り下ろす。リュエルは身を捻って躱す。それが幸いだった。するりと剣が抜けた。リュエルは構えた。
一体がリュエルの近くに来た。小刀で突き刺す特攻。リュエルは左脚を軸に斬り払う。どさ、と一体絶命。
もう一体が横から現れる。リュエルは余裕を保って躱し、兜割り。脳漿と血が飛び散り、小鬼は膝を付く。痙攣して倒れる。血は青緑色。
最後の一体を確認する。怖じ気づいておろおろしている。リュエルは死体を足で押さえ剣を抜く。血糊が粘りつく。糸を引く。最後の一体へ駆け、袈裟斬り。殲滅が完了した。呆気なかった。
ひやりとしたが動きとしてはいつもより良い。幼い頃から自衛剣術を叩き込まれたため剣技はある程度得意だ。学園の剣術も模擬試合で優勝したこともある。もちろん
学園から追放された時、持ち物は筆と少量の金銭、着ていた衣装、それとこの剣だけ。メリュールの国境で捨てられ、山脈を越えてザファーに辿り着いた。ここまで独りで生きてきた。
これなら一人でも試験達成は可能だ。自信が湧くのを感じる。アメリルもトタールも受付嬢のマリーも心配し過ぎだ。自分はここまでできるのだ。豚鬼も怖くない。
リュエルは血糊の付いた剣を払って、背中の鞘に納める。
小鬼討伐の証拠は小鬼の右耳。腰に下げた小刀を抜き、襷掛けの中程度の雑嚢から小袋を取り出す。小鬼の死体に近づき右耳を削ぎ、それを袋へ入れた。一体だけ耳の皮が厚く、首筋まで皮が剥がれたが、三体の右耳を収納し、死体を一ヶ所へ。
残った死体は燃やす。放っておくと他の魔物が餌にしたり、依り代として
傭兵組合では魔物の死体を焼却、もしくは持ち帰ることが義務になる。持って帰れば魔物研究所に売って金銭になるが、リュエルの場合は小鬼一体でも持って帰るのは至難だ。この後アルニマム採取もある。そのため燃やす。
死体が一ヶ所に集まる。小型の鍬を取り出し、死体の周囲の土を掘る。下草を伝って火が森に移らないように溝で囲むのだ。
掘り返し、小壜から液体燃料を死体にかける。発火棒で着火。火は舐めるような広がりを見せる。小鬼の腰衣が炭に変わり、目玉が沸騰し、皮膚が爛れて行く。
小鬼は何かから逃げ出しているような様子だった。リュエルは小鬼が飛び出して来た草叢の奥を見る。魔物が逃げる理由は自分よりも強い魔物や存在に出会った時だけ。原因を確かめた方がいいかもしれない。
火が木々に燃え移らないことを確認して、リュエルは奥へと踏み込もうとした。
その時、地面が揺れた。迫る足音。僅かだが、律動に合わせて揺れる。何かが近付いて来る。リュエルは肝が冷える。本能が叫ぶ。身を隠さねばならぬと。急いで近くの草叢に飛び込む。小枝が引っかかって痛い。悪い姿勢のまま隙間から外を見る。
森の奥。人型の巨体が現れた。顔は豚鼻。目は小さく醜い。大きな牙が上へと伸び下唇が捲れている。頬には十字の傷。脂肪を内包した胸と腹は弛んで垂れており、皮膚はぼこぼこと薄橙色。腰衣だけで右手には大きな棍棒と左手に何かの植物。
豚鬼だ。
リュエルは目を見開いた。豚鬼が持っている植物は薬草アルニマム。株に似た白い根っこ。青々とした葉っぱ。何より茎から渦を巻いた蔓。間違いない。
アルニマムを持って来たということは、豚鬼がやって来た方向にアルニマムがあるということだ。
豚鬼は燃える小鬼に近付く。周りを見渡す。リュエルは固まる。
先程の自信はなかった。実際に豚鬼を見て、巨体を見て、勝てる見込みが思い付かなかった。恐ろしい顔。覇気と凶暴。丸太のように太い腕に巨木を削った杵のような棍棒。リュエルの力では簡単に捻り潰されるだろう。
リュエルは草叢で丸まった。
豚鬼は火の周りを回る。鼻を動かし、臭いを確かめている。近くの木を揺すったり、草叢に棍棒を振り下ろしたりする。確認している。誰か隠れていないかを。
魔物の中には知能が高いものもいる。豚鬼がそうであったかは忘れた。これなら『魔物観察図鑑』をサークから借りれば良かった。借りれば、今逃げた方がいいのか、隠れたままでいいのか、判断できたというのに。
リュエルは頭を振った。自信を持て。頭の中に、豚鬼と知性が結び付く記憶がない。そういった記載があれば何かしらの印象が残るはず。不安に思う必要はない。魔物学はあまり成績はよくなかったが。
トタールは逃げろと言ったが、嘘だ。豚鬼が速い場合、逃げる途中で追いつかれる。危険が増すだけ。木の陰に隠れるほかない。
豚鬼は一通り辺りを見渡して、そのまま通り過ぎて行った。リュエルはほっとした。肩の力が抜けた。
豚鬼が行った方角を見る。後姿が遠ざかる。暗い森の奥へ消えた。
リュエルは反対を見る。奴が来た方角だ。持っていた薬草アルニマム。豚鬼が現れた方向へ行けばアルニマムが手に入る可能性がある。手に入れば試験完了。D級への近道。
しばらくしてリュエルは森の奥へと進んだ。