スピッキーが名実ともにネルになる話。



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息抜きに作りました。

ほぼ妄想ですが。


ネルになった日

 

使徒が駆け込んできた。

 

息を切らし、半泣きだった。

 

私は書類から顔を上げた。

 

額を押さえる。

 

またか、と思った。

 

幽霊沼。

 

爆ぜる胞子。

 

勝手に動く提灯。

 

不幸しか占わないタロット。

 

面倒しかない場所だ。

 

「火事?」

 

「は、はい……その、ただの火事じゃなくて……イフリートが怒っているって……シェイディが、また……」

 

その名前で、嫌な予感が背筋を撫でた。

 

シェイディ。

 

幽霊どもの中では顔が利く。

 

というより、悪ふざけの中心にいるような奴だ。

 

代表面しているくせに、責任感はない。

 

面白ければ誰に何をしてもいいと思っている節がある。

 

あれがイフリートに悪戯を仕掛けたなら、ろくでもないことになっていても不思議ではなかった。

 

「……幽霊たちは、無事なのか?」

 

口をついて出た問いに、使徒の顔がさらに青ざめた。

 

「スピッキーがまだ、かぼちゃ畑の方にいるって……! でも、あの子は悪戯した方じゃなくて、ただ、畑が……」

 

最後まで聞かなかった。

 

立ち上がる。

 

椅子が後ろに倒れた。

 

私は駆け出した。

 

シェイディがイフリートを怒らせた。

 

その報復が幽霊沼に来た。

 

そして、スピッキーの畑が危ない。

 

それだけで十分だった。

 

走りながら、舌打ちした。

 

幽霊たちはいつだってろくなことをしない。

 

群れて笑う。

 

誰かが泣けば、それすら面白がる。

 

スピッキーも幽霊の一員ではある。

 

だが、あれはどちらかといえば、群れの輪の外にいる方だった。

 

他人の真似ばかりして、悪戯は大してしない。

 

笑わせるでもなく。

 

怖がらせるでもなく。

 

ただ誰かになろうとする。

 

面白くない、と幽霊どもは言う。

 

空気が読めない、とも。

 

だからあいつの周りには、いつも妙な空白があった。

 

誰とでもくっつくようでいて。

 

誰にも本当に混ざれていない。

 

薄ら寒い隙間だった。

 

その隙間を埋めていたのが、あのかぼちゃ畑だったのだろう。

 

スピッキーにとって、かぼちゃは食べ物ではない。

 

友達だ。

 

馬鹿げていると思ったことは何度もある。

 

だが。

 

あいつが畑にしゃがみ込んで、泥だらけの蔓を撫でながら、一つ一つに話しかけているのを見ると。

 

笑い飛ばせなくなることもあった。

 

あれは本気なのだ。

 

本気で、あの丸い野菜どもを友達だと思っている。

 

だから。

 

嫌な予感しかしなかった。

 

幽霊沼に近づくにつれて、空気が変わった。

 

湿った冷気に慣れた場所のはずなのに、今日は妙に熱い。

 

喉の奥を焼くような臭いがする。

 

硫黄。

 

焦げた泥。

 

何か生きたものが無理やり煮立てられるような、胃の底を引っ掻く臭い。

 

白い蒸気の向こうで、何かが爆ぜた。

 

足を速める。

 

木立を抜ける。

 

――だが。

 

私は、そこで立ち尽くした。

 

沼に、火の川が流れ込んでいた。

 

赤い、ではない。

 

赤と橙と白が混じった、粘つく光の濁流だった。

 

煮えた岩が沼を裂く。

 

岸辺を舐める。

 

根を食う。

 

草を黒く潰していく。

 

水が悲鳴みたいな音を立てて蒸発していた。

 

幽霊沼にあるまじき熱だった。

 

湿地のはずのそこが、巨大な鍋の底に変わっている。

 

「なんだよ、これ……」

 

呟いたとき、聞き覚えのある泣き声がした。

 

「だめ、そっちはだめ……! 熱いよ、起きて、お願い、起きてってば……!」

 

視線を向ける。

 

畑の中で白い影が飛び跳ねていた。

 

スピッキーだった。

 

いつものふわふわした動きとは違う。

 

転びそうなくらい慌てて。

 

泥に足を取られながら。

 

かぼちゃを一つ抱え、二つ抱え、また置いて、別のかぼちゃに駆け寄っている。

 

いつものジャック・オー・ランタンの籠は、途中に投げ出されていた。

 

中身の飴が泥にまみれているのに、見向きもしない。

 

「スピッキー!」

 

私が叫ぶと、白い頭が振り向いた。

 

顔がぐしゃぐしゃだった。

 

目の縁を濡らし。

 

口元を歪め。

 

泣きじゃくる寸前の子どもみたいな顔をしている。

 

「教主……!」

 

「何やってる、そこから離れろ!」

 

「無理だよぉ……! だって、みんな、みんなまだいる……!」

 

両腕に抱えたかぼちゃを、スピッキーは潰れものでも扱うように胸へ押しつけた。

 

泥だらけの指が震えている。

 

畑の端では、すでに何本かの蔓が焼けていた。

 

葉が丸まる。

 

黒く縮れる。

 

丸い実の一つが、熱で皮を弾かせた。

 

ぱき、と小さく割れた。

 

スピッキーがしゃくり上げる。

 

「やだ……やだよ……あの子たち、ひとりぼっちになる……」

 

その声を聞いて、胸が詰まった。

 

信頼のできる友達がいないのは、知っていた。

 

幽霊どもに混ざれない。

 

かといって、こちら側に来るには境界を踏み越えすぎる。

 

可愛い顔をして。

 

距離感がおかしくて。

 

悪気も薄い。

 

だからこそ、誰にも深く信用されない。

 

あそこだけが、自分の場所だったのかもしれない。

 

「教主様」

 

すぐ隣で、落ち着いた声がした。

 

少し息が乱れている。

 

それでも、その声は凛としていた。

 

ネルがいた。

 

それだけで、息ができた。

 

こんな状況でも、ネルがいるだけで、世界はまだ崩れ切っていないように思える。

 

馬鹿みたいだが、本当にそうなのだ。

 

いつもそうだった。

 

面倒事が起きれば、ネルが来る。

 

小言を言われる。

 

呆れられる。

 

叱られる。

 

けれど結局、どうにかする道筋を立てるのもあいつだった。

 

毎日、毎日。

 

朝から晩まで顔を合わせて。

 

息をするみたいに隣にいた。

 

書類の山の向こうから、聞き飽きるほど「教主様」と呼ばれた。

 

食事を抜けば見抜かれた。

 

無茶をすれば止められた。

 

エルフィンに振り回されれば、ため息をつかれた。

 

鬱陶しいくらい一緒にいた。

 

だから私は、そのときも当然のように思っていた。

 

ネルが何とかしてくれるのだと。

 

「状況は」

 

声が掠れた。

 

ネルは泥に裾を濡らしたまま、火の流れを見据えていた。

 

「上流から一気に押し寄せています。自然の噴出ではありません。怒りに任せて流されたものでしょう」

 

「止められるか」

 

「正面からは無理です」

 

即答だった。

 

そういうところが、腹立たしいくらいネルらしい。

 

「せめてスピッキーを下がらせないと。あの位置では、地盤ごと崩れます」

 

私は頷き、もう一度叫んだ。

 

「スピッキー! 聞こえてるだろ、こっちへ来い!」

 

「でも、まだ……っ」

 

「全部は無理だ!」

 

「やだよ!」

 

悲鳴のような即答だった。

 

「この子たち、スピッキーの友達なんだよ! ほかの幽霊たちみたいに、あとで笑って終わりにできないもん! この子たち、スピッキーを置いていかないもん!」

 

胸の奥が、ひどく嫌な形で軋んだ。

 

そうか、と一瞬思ってしまった。

 

置いていかないのか。

 

友達だから。

 

人の真似ばかりする幽霊を、煙たがって遠ざけないのは、この畑だけなのか。

 

ネルが一歩進み出た。

 

「スピッキー」

 

静かな声だった。

 

叱る声ではない。

 

むしろ、あまりにも穏やかすぎて、私はそちらを見た。

 

「全部を守ることはできません。ですが、貴女自身まで失えば、それこそ何も残らない」

 

「やだ……やだ、ネル様……」

 

「ええ。嫌でしょうね」

 

ネルはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。

 

優しい顔だった。

 

「それでも来なさい。貴女が抱えられる分だけ連れて、こちらへ」

 

スピッキーは首を振った。

 

涙が散った。

 

「無理、無理だよ……あの子もいる、あっちにもいる、まだ呼んでるもん……」

 

見れば、畑の奥の方に、火の流れから取り残された一角があった。

 

そこにまだ、いくつものかぼちゃが残っている。

 

だが。

 

その周囲の地面は、すでに赤く割れ始めていた。

 

次に踏み込めば戻れなくなる。

 

素人目にもわかった。

 

ネルも、わかっていたはずだ。

 

それでも、なお一歩踏み出した。

 

「ネル」

 

私は反射的に呼んだ。

 

呼んだだけで、止める言葉が出てこなかった。

 

ネルなら危険を測れる。

 

ネルなら引き際も知っている。

 

――ネルなら。

 

――ネルなら。

 

馬鹿みたいに、そう思っていた。

 

ネルは振り向かないまま言った。

 

「教主様は、そこでお待ちください」

 

「待て、無茶だ」

 

「無茶ではありません」

 

その返答には、妙な静けさがあった。

 

「わたくしは司祭長です」

 

知っている。

 

そんなことは、知っている。

 

けれど今の言い方は、まるで自分に言い聞かせているみたいだった。

 

熱気の中、司祭服の背中が遠ざかる。

 

司祭長がスピッキーに近づく。

 

スピッキーが泣きながら首を振っているのが見えた。

 

ネルはその小さな手首を掴み、何か短く言った。

 

たぶん。

 

「行きますよ」とか。

 

「目を閉じなさい」とか。

 

そういう現実的な台詞だ。

 

こんなときでさえ、あいつはきっとそういうことを言う。

 

次の瞬間、地面が崩れた。

 

嫌な音だった。

 

乾いた亀裂ではない。

 

煮えた泥が内側から裂ける、湿って重たい音。

 

崖のように傾斜ができる。

 

「ネル!!」

 

私は叫んで走った。

 

足場が悪い。

 

熱い。

 

蒸気が視界を焼く。

 

けれど止まれなかった。

 

畑の中央で、ネルがスピッキーの前に立っていた。

 

岸辺にいた私との距離は、わずか数歩。

 

次の瞬間、ネルの腕がスピッキーをこちらへ突き飛ばした。

 

小さな体が私の足元へ転がる。

 

白い袖。

 

細い指。

 

何度も書類を捲り。

 

茶を淹れ。

 

エルフィンの襟を直し。

 

私の額を小突いてきた手。

 

その手がスピッキーをこちらへ押し戻して。

 

代わりに、ネルの体が赤い亀裂の方へ傾いた。

 

時間が、そこでおかしくなった。

 

いつもなら。

 

手斧を片手に、小言を言われている距離だ。

 

その数歩が、今はこんなにも遠い。

 

目いっぱい地面に体をこすりつけて、ネルの方に手を伸ばす。

 

落ちる。

 

違う、落ちない。

 

いや、落ちている。

 

まだ間に合う。

 

間に合わない。

 

手を伸ばせ。

 

届かない。

 

届くはずだ。

 

届け。

 

届け。

 

――届け。

 

頭の中で、いくつもの声がぶつかっていた。

 

何ひとつまとまらない。

 

私とネルの間には、あと数歩の距離しかなかった。

 

溶岩さえなければ、飛び越えられる距離だった。

 

だが、その足元で地面が裂けていた。

 

赤く煮えた光が、川のように流れている。

 

熱が噴き上がる。

 

一歩踏み出せば、焼け落ちる。

 

私は泥に足を取られながら、手を伸ばした。

 

馬鹿みたいに、ただ手を伸ばした。

 

あと少しで届くと思った。

 

本気でそう思った。

 

ネルが、初めてこちらを振り向いた。

 

その顔を見た瞬間、私は駄目だとわかった。

 

泣いてはいなかった。

 

怯えてもいなかった。

 

ただ、ひどく悔しそうだった。

 

それがたまらなかった。

 

あいつは自分のことでは滅多に顔を歪めない。

 

そんなネルが、ほんの一瞬だけ、自分の手の届かなかったものを認める顔をした。

 

「教主様……」

 

熱で声がひび割れていた。

 

それでも私は、その呼び方を聞いた。

 

いつもの呼び方だった。

 

いつもと同じ。

 

小言の前触れみたいな、聞き慣れた声だった。

 

手を、もっと伸ばす。

 

届かない。

 

「嫌だ」

 

気づけば、口から出ていた。

 

情けない声。

 

子どもみたいな声。

 

「ネル、来い。来いよ、早く……」

 

ネルの唇がかすかに動いた。

 

最初は何を言っているかわからなかった。

 

熱気と蒸気で、言葉が途切れる。

 

だが、次の一言だけは、はっきり聞こえた。

 

「女王様に……」

 

息が詰まる。

 

こんなときまで。

 

こんなときまで、あいつはエルフィンのことを考えるのか。

 

ネルは、かすかに笑ったように見えた。

 

あるいは、そう見えただけかもしれない。

 

「女王様に、あまり……ご自分を、責めさせないで……ください……あの方は……平気なふりが、お上手ですから……」

 

「やめろ」

 

私は叫んだ。

 

頼むからやめろと思った。

 

そんな最期の言葉みたいなものを言うな。

 

いつもみたいに、あとで言え。

 

あとで、エルフィンに直接説教しろ。

 

私に小言を言え。

 

書類を積め。

 

嫌味を言え。

 

何でもいいから、生きたまま言え。

 

手を伸ばす。

 

指先まで、あと指一本分。

 

届かない。

 

もう一度。

 

届かない。

 

「ネル」

 

声が割れた。

 

亀裂の縁から、白い蒸気が噴き上がった。

 

熱が押し寄せる。

 

視界が潰れる。

 

真っ白だった。

 

見えない。

 

いや。

 

見えなくなる、その直前まで、私はネルを見ていた。

 

青白い司祭服。

 

揺れる裾。

 

細い肩。

 

こちらを向いた顔。

 

唇が、何かを言おうとしていた。

 

そこにいた。

 

たしかに、いた。

 

手を伸ばす。

 

届かない。

 

指先まで、あとわずか。

 

届かない。

 

蒸気の奥で、赤い光が跳ねた。

 

その一瞬だけ、白が揺れた気がした。

 

まだいると思った。

 

まだ間に合うと思った。

 

ネルも、こちらへ手を伸ばしていた気がした。

 

錯覚だったのかもしれない。

 

それでも――。

 

信じた。

 

そして。

 

白が閉じる。

 

光が呑み込む。

 

音が消える。

 

 

何も、見えなくなった。

 

何も、届かなくなった。

 

 

そして――

 

何もなくなった。

 

 

 

ーーその向こうにあったはずの輪郭が、

 

崩れて。

 

溶けて。

 

見えなくなった。

 

 

 

私はその場で膝をついた。

 

足が動かなかった。

 

呼吸の仕方がわからなかった。

 

目の前の光景の意味だけが、ひどく鮮明にわかってしまう。

 

ーーいなくなった。

 

ーーネルが。

 

そんなはずがなかった。

 

さっきまで隣にいた。

 

声がしていた。

 

立っていた。

 

いつも通りだった。

 

いつも通り、私より先に状況を見て。

 

私より先に動いて。

 

私より先に誰かを助けた。

 

それだけだ。

 

それだけの延長で、そんなふうに消えるわけがない。

 

なのに、いない。

 

蒸気の向こうに、もう青と白の司祭服はなかった。

 

耳の奥で、スピッキーが泣き叫んでいる。

 

遠くで沼が煮えている。

 

何かがまだ爆ぜている。

 

世界は続いている。

 

そんなことが許せなかった。

 

「……うそだ」

 

声に出したつもりだった。

 

けれど、自分でもほとんど聞こえなかった。

 

うそだ。

 

うそだろ。

 

そんなわけがない。

 

エーリアスは死のない世界のはずだ。

 

だから。

 

明日もいるはずだ。

 

明後日もいるはずだ。

 

朝になれば、何事もなかった顔で書類を持ってきて。

 

教主様、と呆れた声で呼ぶはずだ。

 

いつもそうだったのだから。

 

明日だけ違うなんて、そんなの、あるはずがない。

 

ない。

 

ない、のに。

 

泥の中に手をついた。

 

熱も痛みもわからなかった。

 

ただ、空っぽになった場所だけがわかった。

 

ネルがいた場所だ。

 

私の隣に、いつもあった場所だ。

 

叱る声。

 

整った字。

 

ため息。

 

白い指。

 

エルフィンに向ける、あの呆れたみたいな、それでいて甘い目。

 

私に向ける、容赦のない正論。

 

毎日あったものが、急に世界から切り取られている。

 

そんなものに耐えられるわけがなかった。

 

その時。

 

誰かが私の服の裾を掴んでいた。

 

熱と泥で重くなった布が、かすかに引かれる。

 

私は息もまともに吸えないまま、ゆっくり振り向いた。

 

そこにいたのは、白い影だった。

 

泥にまみれて。

 

肩を震わせて。

 

泣き腫らした目で私を見上げている。

 

細い腕。

 

青白い輪郭。

 

熱に揺らいで滲む姿。

 

胸の奥が、ぐしゃりと潰れる。

 

ネルがいない。

 

さっきまでいた場所に、もういない。

 

声も。

 

手も。

 

青白い司祭服も。

 

全部、あの蒸気の向こうに消えた。

 

それなのに。

 

目の前には同じ色のものがいる。

 

細くて。

 

小さくて。

 

泣いていて。

 

私の裾を掴んでいる。

 

私はそれを見た。

 

見て、理解した。

 

理解したくなかった。

 

「……教主……」

 

掠れた声だった。

 

スピッキーの声だ。

 

そんなことはわかっていた。

 

わかっていたはずだった。

 

なのに、口が先に動いた。

 

「ケガはないか、ネル?」

 

言ってから、自分で何を言ったのかわからなかった。

 

ただ、その瞬間だけ、胸の奥の何かが少しだけ軽くなった。

 

ああ、無事だったのか、と。

 

よかった、と。

 

そう思ってしまった。

 

目の前の影が固まる。

 

「……え」

 

小さく、そう漏らした。

 

大きな目が揺れる。

 

涙の粒が、睫毛に重たくぶら下がっている。

 

私はその肩を掴んだ。

 

思ったより軽かった。

 

熱で溶けてしまいそうなくらい軽い。

 

ひどく頼りなくて。

 

だからなおさら、取り落とすのが怖かった。

 

「ネル、しっかりしろ。どこをやった。見せろ」

 

「きょ、教主……スピッキー、は……」

 

「よかった」

 

自分でも驚くほど掠れた声が出た。

 

私はたぶん、泣きそうになっていた。

 

あるいは、もう泣いていたのかもしれない。

 

熱と蒸気でよくわからなかった。

 

「よかった……」

 

何がよかったのか、自分でわかっていなかった。

 

何一つ、よくなどない。

 

ネルはいない。

 

消えた。

 

もう二度と、あの声で私を呼ばない。

 

そういう現実だけが目の前にある。

 

なのに私は、目の前の影を掴んだまま、必死で別の形に現実を捻じ曲げようとしていた。

 

スピッキーが、震えた。

 

「ちが……」

 

その一言は小さかった。

 

あまりにも小さくて、私は聞こえなかったふりをしたのかもしれない。

 

「ネル」

 

今度は、はっきり呼んだ。

 

呼んでしまえば、その名前は少しだけ現実味を持った。

 

目の前の誰かが、その名に結びつく。

 

結びついてくれれば、私はまだ立っていられる気がした。

 

「歩けるか」

 

スピッキーの唇が、かすかに開いて閉じる。

 

泣きそうな顔だった。

 

いや、実際に泣いていた。

 

けれどそれは、自分が助かったからではなく、たぶん別の理由だった。

 

ネルを失わせたことへの恐怖か。

 

否定しきれない罪悪感か。

 

それとも、私の目がおかしいことへの怯えか。

 

たぶん全部だ。

 

「……ネル、じゃ、ない……」

 

細い声が、確かにそう言った。

 

胸の奥で、何かが軋んだ。

 

その言葉を認めたら、私はたぶん立てなくなる。

 

だから私は、目の前の震える肩を支えるように抱き寄せて、ひどく静かな声で言った。

 

「無理に喋るな」

 

スピッキーが息を呑む。

 

「今は何も言わなくていい。帰るぞ、ネル」

 

それでも、もう止められなかった。

 

スピッキーは私の腕の中で小さく震えていた。

 

押し返してくるわけでもなく。

 

縋りついてくるわけでもなく。

 

ただ怯えたみたいに固まっている。

 

その曖昧さが、かえって残酷だった。

 

本物のネルなら、こんなふうにはしない。

 

まず私の手を外して。

 

もっと冷静に状況確認をして。

 

スピッキーの安否と沼の被害を優先して。

 

それからたぶん、私に言う。

 

「教主様、しっかりなさってください」と。

 

そんなことはわかっている。

 

わかっているのに、目の前のものから手を離せなかった。

 

離したら、本当にいなくなる気がした。

 

背後で沼が煮えている。

 

蒸気が昇る。

 

赤い光が脈打つ。

 

その向こうに、ネルが消えた。

 

見なかった。

 

振り返らなかった。

 

青白い影を抱く。

 

名前を与える。

 

それだけで、まだここにいる気がした。

 

「帰ろう」

 

返事はない。

 

小さな体が震えた。

 

「ネル」

 

もう一度呼ぶ。

 

訂正はされなかった。

 

その沈黙が、優しかった。

 

一歩。

 

また一歩。

 

泥が靴に絡みつく。

 

それでも進む。

 

夜風が頬を撫でる。

 

冷たい。

 

それだけが現実だった。

 

「ネル」

 

答えはない。

 

それでも呼んだ。

 

腕の中の影は、何も言わない。

 

ただ静かに震えている。

 

私は前を見る。

 

名前を手放さないために。

 

――私はその日。

 

ネルと一緒に帰った。

 






新米教主さんがみたら、なんだこれってならないかな……。

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