未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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最終編
超然たる観測者たち


 

 

 

 晄輪大祭の圧倒的な喧騒は、来賓席を囲む分厚いガラス扉を隔てた向こう側で、まるで遠い異世界の出来事のように低く、鈍く響いている。

 スタジアムを埋め尽くす何万もの生徒たちの地鳴りのような歓声、拡声器から響く慌ただしいアナウンス、鳴り響くスターターピストルの音。会場全体を見渡せるこの最上階の来賓席には、下界の熱気を洗い流すような、優雅で涼しい風だけが吹き抜けていた。

 

 次のプログラムが開始されるまでの、短い、しかし酷く濃密な休憩時間。

 来賓席の特製テーブルに置かれた白磁のティーカップからは、細く美しい湯気がまっすぐに立ち上り、空間の緩やかな時間の流れを証明している。

 

 

「――ふむ。一分の狂いもない絶対の平熱、か。セイカ、お主のその能力は、いつ見ても惚れ惚れするのう」

 

 

 キサキは、来賓席のふかふかとした椅子に身を預け、小さな指先でペロペロキャンディの白いプラスチックの棒を器用に弄びながら、その薄い唇を満足げに綻ばせた。彼女の背丈は小さく、椅子の背もたれに対してその身体はあまりにも華奢に見えるが、纏う空気の重みと気高さは、間違いなく一国を統べる君主のそれであった。

 

 

「我が山海経の武術にも、敵の勁力を察知し、動きを先読みする『見切り』の極意は存在する。しかし、セイカ、お主のそれは少々毛色が違う。身構える素振りすらなく、次に何が起こるかを最初から知っているかのように、ただ淡々と、冷徹に最適解を叩き出す。……あれは何度見ても、職人技というよりは怪異に近い」

 

「同感だね」

 

 

 キサキの対面に座るセイアが、静かにカップを傾けた。来賓席の特等席から眼下のグラウンドを見下ろしながら、彼女の頭上で静かに佇む狐耳が、興味深げにピクリと動く。その切れ長の瞳には、浮世離れした予言者のような、すべてを見透かす格調高い光が宿っていた。

 

 

「私の『予知夢』は、因果の彼方にある不確かな未来の断片を、文字通り『視る』ものだ。それは私という個人の意思に関係なく、世界から与えられる受動的な啓示に過ぎない。だが、セイカ、君の瞳は未来を視ているわけではないのだろう? 君の『空見の波』は、数多ある可能性の中から、自分にとって都合の良い、あるいは勝利のための『唯一の未来を強制的に引き寄せ、確定』させる力だ。……ヘイローが重厚な音を立てて回転した瞬間、君の視界では周囲の時間が極限まで遅延しているのだろうね」

 

 

 二人のキヴォトス屈指の知性派であり、同時に同じ空見観測研究部の部員でもある少女たちからの視線を浴びながらセイカは、至って淡々と紅茶を口に運んだ。

 その端正な顔立ちには、傲慢さも、謙遜もない。

 周囲の熱狂に一切同期することのない、文字通りの「平熱」がそこにあった。

 

 

「……私はただ、そこに存在する事実を記述しているだけです」

 

 

 セイカは静かにカップをソーサーへと戻す。カチャリ、と繊細な音が響いた。

 

 

「……未来を当てているのではありません。私は現在のあらゆる事象……空気の微細な振動、生徒たちの呼吸の浅深、筋肉の弛緩、風向き、足元の土の硬度、それら無数に交錯する『座標』を正確に観測し、数式に当てはめているだけです。それらの条件が重なった時、次の瞬間に何が起こるかは、因果律によって必然的に決まります。1足す1が2になるのと同じ、単なる論理演算です。熟練の観測士として、通常の範囲であれば、その『波』の演算負荷で私のパフォーマンスが落ちることもありません」

 

「ほう、言うてくれるのう」

 

 

 キサキはペロペロキャンディを口から離し、いたずらっぽく目を細めた。

 

 

「とはいえ、お主のその無茶な頭脳労働には、相応の対価が必要なはずじゃ。大規模な演算を続けば、脳内の糖分が急激に不足し始め、意識ははっきりしているにもかかわらず、すべての動作が目に見えてひどく鈍く、スロウになる『フェーズ2』へと陥る。さらにそれを超えて本当の極限に達すれば、身体の出力が完全にゼロになり、その場にバタリと倒れ込んで強制シャットダウンする『フェーズ3』の危険すらある。……お主がその大きなポケットに、常にチョコレートを忍ばせておらねばならん理由じゃな」

 

 

 キサキがニヤリと気高く笑う。

 その瞬間、セイカの背後から静かに影が動き、白磁のティーポットが傾けられた。

 

 

「ふふ、お褒めいただき光栄です、キサキさん。ですが、セイカさんのその能力は、私とケイ……私たちの家族のためのものですから♪」

 

 

 完璧な給仕の所作でお茶を注ぎ足しながら、アカネが完璧な微笑みを浮かべて言葉を添えた。

 トリニティの最高幹部と、山海経の門主という、普通であれば気後れして言葉も交わせないような大物を前にしても、来賓席でのアカネの微笑みとスタンスは一ミリも揺るがない。彼女にとって何よりも優先されるのは、隣に立つセイカであり、ソラノミの家族の安穏だった。

 

 

「くすくす、相変わらず手厳しいね、アカネ」

 

 

 セイアが楽しげに、どこか温かく二人をからかうように微笑んだ。

 

 

「そんなに警戒せずとも、同じ部活のよしみだ。身内の力を横取りしようなどとは考えないでおくれ。私たちはただ、同じ観測に携わる者として、セイカという特異な存在の『限界』と『可能性』について純粋な興味を持っているだけさ」

 

 

 セイアはそう言ってカップを置くと、少しだけ声を落とし、来賓席の空気を一段引き締めるようにして本題を切り出した。

 

 

「話を戻そう。セイカの言う可能性を確定させる『空見の波』の理論については、私もキサキも十分に理解している。……だが、それだけでは説明がつかない事例が、過去に一回だけあったはずだ」

 

 

 セイアのその言葉に、セイカの大きな手がわずかに動きを止めた。

 紫色の瞳が、ほんの少しだけ細められる。

 

 

「……『空見の閃』のことですか」

 

「そうじゃ」

 

 

 キサキが顎を引き、真剣な眼差しをセイカへと向けた。

 

 

「あのエデン条約の最中、お主が一度だけ発動させたという、あの不可解な現象のことじゃよ。あの百戦錬磨のプロヴィデンスをねじ伏せたという不確定要素。やはりあれの正体が気になってな」

 

「……正直に申し上げますと」

 

 

 セイカは少しだけ眉をひそめ、テーブルの上に置いた自身の大きな手、その手のひらをじっと見つめた。

 

 

「……あれがどういう条件で、どうやって発動したのか、私自身にもよく分かっていないのです」

 

「君自身にも、かい?」

 

 

 セイアが不思議そうに首を傾げる。予言という「世界の法則の枠外」に身を置くセイアから見ても、来賓席で語られるセイカのその感覚は奇妙に映るようだった。

 

 

「……はい。私の『空見の波』は、あくまで『この世界に確定されずに存在する数多の可能性』の中から、最適な未来を選び取って引き寄せるものです。言わば、選択肢を選ぶ作業に過ぎません。ですが……あのプロヴィデンスとの戦いの最中、あの瞬間だけは全く違いました。計算式の途中に、この世界に存在しないはずの数式が、外部から勝手に割り込んできたような……そんな、酷く不気味で、同時に圧倒的な感覚でした。あの一回きり、その後どれほど脳内でシミュレーションを重ねても、再現しようとするための糸口すら全く掴めないのです」

 

 

 絶対の合理性と、一分の狂いもない論理演算を誇るセイカが、明確に「分からない」と口にした。

 その事実の重みに、来賓席を包む空気がわずかに緊張を帯びて張り詰める。

 

 アカネは静かにセイカの肩に手を置き、その平熱の体温を確かめるようにそっと指先に力を込めた。セイカが未知の領域に踏み込みすぎないよう、いつでも現実へと引き戻すための、家族の境界線だった。

 

 セイアはしばらくの間、自身の顎に手を当てて、トリニティの賢者としての思考を巡らせていた。そして、ぽつりと、確信を突くように呟いた。

 

 

「現在の事実を積み重ねて、存在する可能性を引っ張ってくるのが君の『波』なら……あの『閃』が起きた瞬間だけは、まるで世界そのものが、君の導き出したい結論に合わせて、因果の帳尻を合わせたかのように見えるね。それはもはや、既存のタイムラインからの演算による未来確定ではない。この世界に『存在しない可能性』すらも、君の意志、あるいは別の要因によって強制的に創造し、書き換える――別の何かだ」

 

「条件が揃わぬだけの必然か、あるいは文字通りの切り札か。何にせよ、まだ眠っている力というわけじゃな」

 

 

 キサキがキャンディを口の中でパチンと鳴らし、不敵に、しかしどこか嬉しそうに笑った。

 

 

「セイカ、その『閃』の正体、焦る必要はない。これからソラノミの皆で、ゆっくりと紐解いていくとしよう。お主がそれを完全に制御し、自らの意志で扱えるようになった時、キヴォトスのパワーバランスがどうなるか……妾は今から楽しみじゃのう」

 

 

 

__________

 

 

 

 

「キサキの言う『紐解く』というのは、具体的にどのようなアプローチを考えているのですか?」

 

 

 セイカは平熱のトーンのまま、視線をキサキへと戻した。

 ただ漠然とした可能性を語るだけでは、論理的な前進はない。それがセイカのスタンスだった。

 

 

「ふむ、まずは『糖分消耗』とお主の脳内演算の相関関係じゃな」

 

 

 キサキは楽しげに指を一本立てた。

 

 

「お主の『空見の波』は、通常使用であれば、何のパフォーマンス低下も引き起こさん。しかし、プロヴィデンス戦のような真の極限、すなわち世界線を揺るがすような大規模な『閃』を放つ時、お主の脳はどれほどのエネルギーを消費しておる? フェーズ2の鈍化やフェーズ3の昏倒(というリスクは、ただの量的な問題なのか、それとも能力の質的な変化によって引き起こされる拒絶反応なのか」

 

「……量的な問題、というのが私の現時点での記述です」

 

 

 セイカは淡々と答える。

 

 

「……大規模な演算、あるいは連戦時において、脳内の糖分が急激に不足し始めるのは純粋な生物学的現象です。フェーズ2においては、意識が完全に明晰であるにもかかわらず、身体の運動ニューロンへの命令伝達がひどく鈍くなります。視界の時間が遅延する『波』の反動として、自身の肉体そのものがスロウになる。これは因果の帳尻を合わせるための物理的な負荷に過ぎません」

 

「なるほどね」

 

 

 セイアが言葉を挟む。

 

 

「では、身体の出力がゼロになってバタリと倒れ込んでしまうフェーズ3は、脳が自身を保護するためのセーフティという解釈でいいのかい? もしそのセーフティが外れた状態で『閃』を無理に発動させた場合……君の脳は、あるいは君のヘイローはどうなってしまうのだろう」

 

 

 その問いに、来賓席の空気が再び静まり返った。

 アカネの持つティーポットの手が一瞬だけ止まり、彼女の完璧な微笑みの下に、かすかな冷徹さが走る。

 

 

「セイアさん。それ以上は、同じ部活の部員としての枠を越えた、ただの残酷な好奇心ですよ」

 

 

 アカネの声は、どこまでも優しく、そして容赦なく冷たかった。

 

 

「セイカさんがフェーズ3に至るような状況は、私とケイ、私たちの家族が全力で阻止します。その先にあるリスクを実験的に確かめる必要はありませんし、ソラノミの活動内容にもそんな無茶は含まれていないはずです」

 

「……怒らせてしまったようだね。すまない、アカネ。君の言う通りだ。悪気はなかったんだ、許しておくれ」

 

 

 セイアは小さく肩をすくめ、狐耳を少しだけ寝かせて謝意を示した。

 

 

「……アカネ、大丈夫です。二人の問いは、観測の前提として至極真っ当なものです」

 

 

 セイカはそっとアカネの服の袖を引き、その平熱の体温で恋人の感情を宥めた。

 

 

「……フェーズ3の昏倒状態、あるいはその先にある領域についてですが、私自身も検証するつもりはありません。なぜなら、出力がゼロになり昏倒するということは、その間、私が『事実を記述する』ことができなくなるということを意味するからです。私が観測を放棄すれば、その間に生じるあらゆるノイズから、アカネやケイを守ることができなくなる。それは論理的に見て、私にとって最大の『敗北』です」

 

 

 セイカの言葉には、一切の揺らぎがなかった。

 彼女の能力は強大だが、その根底にある目的は、キヴォトスのパワーバランスを支配することでも、世界の真理を暴くことでもない。

 ただ、自分を「家族」として受け入れてくれた、アカネとケイという存在の日常を守ること。

 

 

「お主のその、恐ろしいほどの身内主義には、毎度ながら頭が下がるのう」

 

 

 キサキは感心したようにため息をついた。

 

 

「山海経のトップである妾から見れば、その才能を組織のためにフルに活用してほしいと思うのが本音じゃが……まぁ、ソラノミの部員としては、お主が来賓席でこうして平熱を保ったまま、私たちの隣にいてくれることこそが、最も安定した『観測』をもたらすということも理解しておる」

 

「同感だね」

 

 

 セイアも頷く。

 

 

「トリニティのティーパーティーとしても、君のような規格外の存在が、特定の学園の政治闘争に加担せず、『空見観測研究部』としてこの来賓席に座り、家族との平穏を望んでくれている現状は、非常に都合が良いのさ。君がその平熱を失い、どちらかの陣営に傾いた瞬間、キヴォトスの天秤は容易く崩壊してしまうからね」

 

 

 

__________

 

 

 

 

「そういえば、ケイの様子はどうじゃ? 今日の晄輪大祭、あの子も楽しみにしていたはずじゃが」

 

 

 キサキがふと思い出したように、ペロペロキャンディを口に戻しながら、来賓席の奥に備え付けられた上質な大型ソファへと視線を向けた。

 

 そこには、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめ、小さな寝息を立てながらすやすやと眠っているケイの姿があった。

 大祭の賑やかな雰囲気に朝からずっとはしゃぎ回っていた彼女は、来賓席に用意された昼食を終えた途端に急激な睡魔に襲われ、そのまま特等席の片隅で夢の中へと落ちてしまったのだ。

 

 

「ふふ、ケイならご覧の通り、私たちのすぐ近くで良い夢を見ていますよ」

 

 

 アカネが、ケイの寝顔を見つめながら、母親のような深く優しい微笑みを浮かべた。その手で、ケイの体にかけられたブランケットの端を、そっと直してあげる。

 

 

「本当に、目が離せない可愛い子ですから。さっきまであんなに元気だったのに、電池が切れたように眠ってしまうのですから」

 

「フフッ、本当に可愛いね」

 

 

 セイアが静かにソファへと近づき、親友の穏やかな寝顔を愛おしそうに見つめた。

 

 

「彼女は私の大切な親友でもあるが、ソラノミのこの場所で見せるあの子の表情は、私と二人の時に見せるものとは少し違う。セイカを信頼し、アカネに全面的に甘えるあの子の姿は、文字通り『家族』そのものだ。私やキサキ、あるいはレナがどれほど親しくしても、あの3人だけの空間には、不思議と入り込めない温かさがあるよ」

 

「それはそうじゃ。妾たちはいわば、その温かな家庭を守るための『外壁』のようなものじゃからな」

 

 

 キサキもケイの寝顔を優しく見つめながら、誇らしげに胸を張った。

 

 

「同じソラノミの部員として、セイカの演算能力やアカネの給仕、そしてケイの存在は、私たちの学園にとっても大いなる財政・情報的な支援の裏返しじゃ。ギブ・アンド・テイクというやつじゃな」

 

「……感謝しています、キサキ、セイア」

 

 

 セイカは静かに頭を下げた。

 

 

「……あなたたちが外部の政治的なノイズを遮断して、この来賓席を確保してくれているからこそ、私はこうして平熱のまま、家族の日常を記述することに専念できます。ソラノミの部員としての任務は、今後も完璧にこなすつもりです」

 

 

 

__________

 

 

 

 遠くで、休憩時間の終わりを告げる、次の競技の開始を知らせる大きな銃声が響き渡った。

 ガラス扉の向こう側のスタジアムで、再び地鳴りのような歓声が盛り上がり、来賓席の静寂を静かに侵食し始める。

 

 

「おや、もう休憩時間が終わったようだね。外は随分と賑やかになってきた」

 

 

 セイアが来賓席のガラス窓から眼下のグラウンドを見つめながら呟いたが、ここにいる全員に、席を立つ気配は全くなかった。

 

 

「ふむ、妾もキサキも、次のプログラムはただ観戦するだけじゃからのう。わざわざあの人混みに戻る必要もあるまい」

 

 

 キサキは来賓席の椅子に深く身体を預け、すっかり寛いだ様子で紅茶を口に含んだ。

 

 

「私も同感だね。トリニティの代表としての挨拶や仕事は午前中にすべて終わらせてある。今はただのソラノミの部員として、この見晴らしの良い来賓席で、心地よい風と紅茶、そして君たちの『平熱』の空気に浸っていたい気分さ」

 

「それでは、お茶の注ぎ足しをいたしますね♪」

 

 

 アカネは嬉しそうに微笑み、再び完璧な所作でキサキとセイアのカップに琥珀色の液体を満たしていく。

 

 休憩時間が終わろうとも、彼女たちのいる世界は変わらない。

 フィールドへ赴いて戦う必要も、人混みに紛れる必要もない。スタジアムのすべてを見渡せるこの来賓席こそが、今の彼女たちの記述すべき世界のすべてだった。

 

 

「……外のノイズがどれほど大きくなろうとも、ここの座標に変化はありません」

 

 

 セイカは身体を椅子に預けたまま、静かに自身のカップを見つめた。

 

 

「……現在のあらゆる事象、空気の微細な振動、生徒たちの呼吸の浅深、風向き……それらすべては、私の『空見の波』によって把握されています。もし万が一、この来賓席に不穏なノイズが近づくことがあれば、その瞬間にすべての可能性を私の手で最適解へと固定します。だから、私たちはただ、ここにいればいいのです」

 

 

 

__________

 

 

 

 

「……」

 

 

 その、あまりにも強固で、平熱に満ちたセイカの言葉を聞きながら――セイアは、不意に全身の血液が冷たく凍りつくような、凄まじい寒気に襲われていた。

 

 彼女の頭上にある美しい狐耳が、目に見えない世界の亀裂を察知したかのように、細かく不穏に戦慄する。

 目の前の白磁のカップに注がれた紅茶の表面が、外の振動とは明らかに違う、因果の歪みによって微かに揺れているように見えた。

 

 

「(――違う。私の『予知夢』が、何かを告げようとしているのか……?)」

 

 

 セイアさんは視線を落としたまま、凍りついた思考を必死に巡らせていた。

 先ほどの会話で触れた、あのエデン条約での【空見の閃】。この世界に存在しないはずの数式が、外部から勝手に割り込んできたという、あの不気味で圧倒的な感覚。

 

 通常の『波』が、今ここにある現実の地続きから分岐する、あらゆる『既知の未来』を選択し確定させるものだとするならば、あの『閃』は世界の法则そのものを強引に書き換える、文字通りの神業。

 

 セイカ自身はそれを「条件が揃わないだけの必然」と呼び、日常を守るためだけの道具として完結させようとしている。アカネさんも、そんな危険な領域へは家族として絶対に立ち入らせないと、その優しい微笑みの裏で冷徹なまでの境界線を引いていた。

 

 だが、もしも。

 もしも、通常の『空見の波』による未来確定の演算をどれほど重ねても、どれほど数式を解き明かしても、手に入る可能性のすべてが「破滅」と「絶望」、そして「最愛の家族の死」だけで埋め尽くされるような、そんな絶対の理不尽がこのキヴォトスに訪れたとしたら――。

 

 

「(私の『予知夢』すらも真っ黒に塗りつぶすような、すべての因果が反転するほどの濁流がいつか来た時……。君は、その平穏な日常を、隣にいるアカネやソファで眠るケイを救うために……あの『存在しないはずの数式』を、自らのヘイローと脳を焼き切ってでも、強制的に泥泥の底から引きずり出さなければならなくなる)」

 

 

 それは、セイカが望むかどうかではない。

 世界そのものが、その絶対の最適解を導き出すために、彼女に牙を剥くのだ。

 通常の『波』では届かない領域。すべてを投げ打ってでも、あの『閃』を放たなければならない絶対の絶望――そんな「その時」が、いつか必ず、この少女たちに訪れる。

 

 

「(……ああ、なんということだ。これほどの残酷な可能性を、君はまだ、その平熱の瞳の奥に隠し持っているというのか)」

 

 

 予言者としての直感が、セイアの胸の内で冷たく、そして狂おしいほど激しく警鐘を鳴らし続けていた。

 息が詰まりそうなほどの重圧。それはまだ、誰の目にも見えない未来の断片。しかし、間違いなくいつかの果てで、セイカが直面せねばならない大いなる因果の義務の予兆だった。

 

 隣で寛ぐキサキすらも気づかない、予言者ゆえの孤独な戦慄。

 あまりの思考の負荷に、セイアの指先が微かに震え、カップの持ち手がカチリと小さな音を立てた。

 

 

「……セイアさん? 顔色が優れないようですが、お茶が口に合いませんでしたか?」

 

「え、あ、いや……」

 

 

 アカネさんのどこまでも優しく、しかし全てを見透かすような心配の声に、セイアさんはハッと我に返った。

 見上げれば、アカネが首を傾げて小首を振っており、セイカがその深い紫色の瞳で、静かにこちらの心拍数の乱れを記述するように見つめている。

 

 

「すまない、アカネ。少し、外の風が冷たかっただけさ。……紅茶はとても美味しいよ、ありがとう」

 

 

 セイアはいつもの格調高い、浮世離れした賢者としての微笑みを無理に浮かべ、独り、胸の内で冷や汗を拭った。この優しく温かな家族の時間を、自分の不確かな予兆で汚すわけにはいかない。

しかし、その瞳の奥に宿る光は、いつか来るべきその過酷な未来に対して、ソラノミの部員として、そして親友の「外壁」として、静かに、しかし絶対に揺るがない覚悟を決め始めていた。

 

 

 

___________

 

 

 

「くくっ、何にせよ」

 

 

 キサキは満足そうに笑うと、手元のペロペロキャンディを口に戻した。

 

 

「その『平熱』こそが、お主の最大の強みじゃ。大祭の喧騒がどれほど続こうとも、お主らしくこの来賓席に佇み、事実を記述して見せよ、セイカ」

 

「うん、見守らせておくれ。君たちの、その温かなタイムラインをね」

 

 

 セイアも、今度は心からの優しい微笑みを二人へと向け、再び紅茶を口に運んだ。

 

 世界の核心に触れるような不穏な予兆が、一瞬だけ来賓席の片隅をかすめたとしても、今の彼らを包む心拍数は驚くほど一定だった。

 

 

「ふふ、ありがとうございます、キサキさん、セイアさん。セイカさんの隣は、私がしっかりと守りますから♪」

 

 

 アカネが完璧なメイドの、そして最愛の恋人としての微笑みを浮かべ、セイカの隣へとそっと寄り添う。

 

 その時、ソファの方から「う、うみゅ……」と小さく愛らしい声が聞こえた。

 ブランケットを もぞもぞ と動かしながら、ケイがゆっくりと目を覚ましたのだ。まだ眠たそうに小さな手をこすりながら、彼女は真っ直ぐにセイカとアカネの方を見つめてくる。

 

 

「あ……おとうさん、おかあさん……お茶、のむ……」

 

「あら、ケイ、お目覚めですか? 今、温かいミルクを用意しますね♪」

 

 

 アカネがすぐにソファへと駆け寄り、ケイを優しく抱き起こした。ケイはまだ半分夢の中にいるような顔をしながらも、お母さんであるアカネの胸に嬉しそうに顔を埋めている。

 

セイカはその微笑ましい光景を、ただじっと、静かに見つめていた。

彼女の頭上にある舵輪型のヘイローは、今は何の音を立てることもなく、ただ穏やかにその平熱の主の頭上で佇んでいる。

 

 

「……キサキ、セイア」

 

 

 セイカは二人の偉大な部員へと視線を戻した。

 

 

「……私にとっての最適解は、常にここに記述されています。私がこの力を使うのは、アカネと、ケイと……私たちの家族の日常を守るため。そして、ソラノミの部員として、あなたたちの観測を支えるため。それ以上の数式は、私の人生には必要ありません」

 

 

 外の世界では何万もの生徒たちが熱狂し、競い合っている。いつか、世界の理を揺るがすような過酷な戦いが訪れるとしても――今、このガラス扉に隔てられた来賓席だけは、一分の狂いもない絶対の平熱と、家族の温もりによって満たされていた。

 平熱の観測者は、最愛の家族、そして未来を憂う親友たちの気配を感じながら、これからもただ淡々と、このかけがえのない日常を記述し続けてしていくのだった。

 

 

 

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