未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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茜さすスタジアムの特等席から

 

 

 

 

 キヴォトス全土を熱狂の渦に巻き込んだ晄輪大祭も、いよいよ午後のプログラムの最終盤を迎えていた。

 スタジアムを全方位から埋め尽くす巨大な観客席からは、地鳴りとも地響きともつかない、圧倒的な大歓声が絶え間なく響き渡っている。各学園の誇りを示す応援歌、何万ものメガホンが打ち鳴らされる規則的なビート、実況席からの熱を帯びたアナウンス。それら地上のあらゆる熱気が、目に見えない陽炎のようなうねりとなって、秋の高く澄み渡った空へとどこまでも昇り詰めていく。

 

 だが、そんな地上の喧騒を、分厚い特殊強化ガラス一枚で完全に隔てた最上階の来賓席だけは、まるで別世界のような静寂に包まれていた。

 室内を吹き抜けるのは、空調によって完全に管理された、あるいは開け放たれた天窓から滑り込んでくる、穏やかで涼しい秋の風だけだ。

 贅沢な木製の特製テーブルの上には、トリニティ伝統の白磁のティーカップが整然と並べられており、そこから細く美しい湯気が、一分の狂いもなく真っ直ぐに天井へと立ち上っている。その揺るぎない湯気の軌跡こそが、この空間を支配する緩やかで絶対的な時間の流れを証明していた。

 

 

「ふふ、午後の競技もいよいよ大詰めを迎えましたね。皆さん、お茶の注ぎ足しはいかがですか?」

 

 

 アカネは、いつもの完璧な給仕の所作で、重みのある磁器のティーポットを滑らかに傾けた。トトト、と心地よい音を立てて、琥珀色の美しい紅茶がカップを満たしていく。彼女の指先、衣服の皺、そしてその顔に浮かぶ微笑みに至るまで、一切の無駄な動揺は見られない。

 

 

「うむ、大祭もいよいよ終わりか。妾もこうして特等席でのんびりと大祭の顛末を眺めるのは初めてじゃが……ふむ、悪くないものじゃのう。地上で砂に塗れながら競い合うのも一興なれど、こうして世界の営みを上から見下ろすというのは、実に妾の性に合っておるわ」

 

 

 山海経高級中学校の門主であるキサキは、身体のサイズにはいささか大きすぎるふかふかとした革張りの椅子にその小さな身体を深く預け、眼下のグラウンドを満足げに見下ろしている。

 

 

「まったく、同感だね。トリニティの代表としての公式な挨拶や、他校との面倒な政治的交渉は、午前中のうちにすべて終わらせておいたからね。今はただの一人のソラノミの部員として、この見晴らしの良い来賓席で、心地よい風と美味なる紅茶、そして何よりも君たちが配置してくれる『平熱』の空気の中に、ただ静かに身を置いていたい気分さ」

 

 

 トリニティ総合学園の最高幹部であるセイアも、自身の白磁のカップを静かに傾け、その頭上にある美しい狐耳を風の鳴る方に向けながら、穏やかに休ませていた。彼女たちのようなキヴォトスの頂点に立つ者たちにとって、これほどまでに外部のノイズから隔絶され、ただ純粋な観測者として存在できる時間は、奇跡に近い贅沢だった。

 

 セイカの隣では、レナが大きなスケッチブックを膝の上に開き、狂おしいほどの熱量でペンを走らせていた。カリカリ、シャカシャカと、紙を削る心地よい音だけが室内に響く。

 

 

「……ふん。平和な大祭なんて退屈だと思ってたけど……違ったわね。泥だらけになって転んで、それでも笑って立ち上がる、その一瞬一瞬が最高のデザインじゃない。こんな格好いい日常を特等席から眺めて描けるなんて……ま、悪くないわ。全部、この私が最高の一枚に仕上げてあげるんだから!」

 

 

 レナの言葉を聞きながら、セイカの膝の上では、先ほどまで心地よいお茶の香りに包まれてぐっすりと眠っていたケイが、お気に入りのぬいぐるみを小さな両手でしっかりと抱きしめたまま、ゆっくりと目を覚ましていた。

 ケイはまだ半分夢の中にいるような顔をしながらも、お父さんであるセイカの胸元に小さな頭を預け、身体から伝わる一定の平熱の体温を確かめるように、静かに息を吐き出している。

 

 セイカは平熱のトーンのまま、自身の紫色の瞳を動かし、膝の上の愛娘の頭を大きな手でそっと撫でた。

 彼女の頭上にある舵輪型のヘイローは、今は何の演算ノイズを立てることもなく、ただ穏やかに、主の平熱の精神と同調するように静かに佇んでいる。現在のあらゆる事象、スタジアムを流れる風の向き、一万人を超える生徒たちの呼吸の深浅、グラウンドの土の乾燥具合に至るまで、すべてはセイカの『空見の波』によって把握され、調和していた。

 何も起きないこと。それ自体が、セイカの計算式が導き出した最高の最適解であり、ソラノミの日常そのものだった。

 

 しかしその時、完璧に記述されていたはずの水面に、極めて小さな、しかし決定的なノイズの一滴が落とされた。

 

 

「……ん、ぅ……」

 

 

 ケイが抱きしめていたぬいぐるみの位置をわずかにずらし、手元の小さな情報端末へと視線を落とした。彼女の頭上にあるヘイローが、規則的な明滅のサイクルの中から、ほんの一瞬だけ、肉眼では捉えきれないほどの不規則な瞬きを記録する。

 

 

「……お父さん」

 

 

 ケイはセイカの衣服の袖を小さな指先でそっと引き、静かに呟いた。

 

 

「……ネットワークの最外殻に、微弱なノイズを検知しました」

 

 

 その言葉が室内に落ちた瞬間、セイカの紫色の瞳がわずかに、しかし確実に細められた。

 セイカは表情一つ変えないまま、手元の大型情報端末へと視線を走らせ、ソラノミが独自に展開しているキヴォトス全域の因果座標ラインを確認した。しかし、画面のホログラムに映し出される数値やグラフは、どれも完璧な「正常」を示し続けている。

 

 

「……通信状況、正常。防犯カメラの映像、異常なし。会場全体の供給電力、すべて規定値内。ミレニアムの基幹サーバーにも、クラッキングの形跡は見られません。ケイ、そのノイズの具体的な発生源、あるいは周波数の特定はできますか?」

 

「いえ……現時点では原因不明。物理的なインフラやデータの改ざんなど、目に見える形での異常は一切観測されていません。ですが、確かに私たちの記述の外側……確率の最底流において、微弱なデジタルノイズが走っています。何かが、この空間の因果の計算式を内側から狂わせようとしているかのような、奇妙な摩擦音です」

 

「……記録だけ続けましょう」

 

 

 セイカは一切の動揺を見せず、淡々と、しかし揺るぎない声で言った。

 

 

「現状、私たちの周囲の座標に変化はありません。世界がどれほど揺らごうとも、私たちの記述すべき事象が平熱であるならば、私たちがその波に呑まれる必要はありません。そのまま、ラインの動向を静観してください」

 

 

 現時点では、まだ地上には何の変化も起きていない。観客席の歓声も、選手たちの笑顔も、すべてが予定通りに進行している。ただ、ソラノミの超精密な観測機器だけが捉えた、水面下の歪みに過ぎなかった。

 

 

「……妙だね」

 

 

 不意に、セイアが手元に持っていたティーカップを、ソーサーへと戻した。カチャリ、と磁器同士が触れ合う繊細な音が、静かな室内に冷たく響く。

 彼女は眼下のグラウンドの華やかな光景から完全に視線を外し、吸い込まれそうなほどにどこまでも青く、そして広大に広がったキヴォトスの空を、じっと見上げていた。

 

 

「セイアさん? どうかなさいましたか? 紅茶の温度が、お気に召さなかったでしょうか」

 

 

 アカネが小首を傾げ、心配そうな、しかしすべてを見透かすような深い目をして問いかける。

セイアの切れ長の瞳には、浮世離れした予言者のような、冷徹で透き通った光が宿っていた。だが、その光はいつもの明確な「予知夢」による未来の断片を開示しているときのものとは、明らかに異なっていた。未来が映像として視えているわけではないのだ。ただ、彼女の持つ超越的な直感が、世界の歪みを肌で感じ取っていた。

 

 

「未来が明確な形として視えているわけではないんだ。ただ……何かがおかしい。私の耳に届く世界の羽ばたき、因果の流れる音が、ほんの少しだけ、不自然に歪んでいる。未来のタイムラインが、まるで巨大で不可視な何かに無理やり押し潰され、歪められようとしているかのような……言葉にできない、酷く不快な感覚だ。まるで、この世界の理そのものが、別の何かに書き換えられようとしているかのようなね」

 

 

 セイアの頭上で、美しい狐耳が危険を察知した野生動物のようにピクリと、僅かに動く。

 

 

「……お主もそう思うか、セイア」

 

 

 キサキがその細い目を限界まで鋭くして外の景色を睨みつけた。眼下のグラウンドでは、相変わらず一万人を超える生徒たちが大歓声を上げて盛り上がっている。だが、数々の闘争と政治の裏舞台をくぐり抜けてきた山海経の絶対たる君主、キサキの皮膚もまた、目に見えない大気の変質、平穏の裏側に潜む「捕食者の気配」を敏感に感じ取っていた。

 

 

「祭りの空気が、少し変わったのう。表面上は熱狂と歓声に満ちておるが、その裏側に、酷く冷たく、異質なナニカが混ざり始めている気がするわ。まるで、嵐の前の静けさが、このスタジアムの熱気そのものを侵食しているかのようなな」

 

 

 日常と事件の境界線が、誰にも気づかれないまま、音も立てずに少しずつ、しかし確実に削り取られ始めていた。

 

 

「お父さん、解析データを更新します。ノイズの発生確率が、先ほどから指数関数的に増加しています」

 

 

 ケイの小さな指先が、情報端末のホログラムウィンドウを高速で叩き、無数の赤いエラーログを虚空に浮き上がらせていく。その瞳からは完全に先ほどまでの眠気が消え去り、冷徹な観測士としての鋭い輝きが宿っていた。

 

 

「通信経路に未知の『揺らぎ』を確認. ……ミレニアムを基幹とする学園ネットワークの一部で、目に見えない規模のエラーが始まっています。ですが、システムそのものは『正常に稼働している』と外部に偽装ログを出力し続けています。内部のログデータが、何者かの手によってリアルタイムで書き換えられている……。これは単なるインフラの不具合ではありません。意図された、極めて高度で超大規模なシステム侵食です」

 

 

 まだ、スタジアムには何の警報も鳴っていない。警備にあたっている風紀委員会も、正義実現委員会も、そして地上にいる先生さえも、まだこの異変には気づいていない。

 しかし――「確実に、何かが起きる」ということだけが、この最上階の来賓席にいる者たちにだけ、数式として、予兆として分かっていた。

 

 セイカは静かに立ち上がった。その瞬間、彼女の頭上にある舵輪型のヘイローが、「ガコン!」と重厚で硬質な音を立てて、静かに、しかし力強く回転を始めた。

 

 

「……ケイ、観測レベルを第二段階へ移行。スタジアム全域の因果座標を強制固定し、すべてのログのバックアップを隔離サーバーへと退避させてください。これより、私たちの視界に入るあらゆる可能性の変動を追跡します」

 

「了解。観測レベル、第二段階へ移行。ラインの全自動記述を開始します」

 

 

 ケイのヘイローもまた、戦闘時の演算モードへと切り替わり、鋭い光を放ち始める。

 その光景を見たアカネは、いつもの完璧な給仕の微笑みをふっと消し、冷徹な家族の守護者、そしてソラノミの「外壁」としての顔を見せた。彼女は手に持っていたティーポットを、音もなく静かにテーブルへと置いた。

 

 

「……皆さんのお茶は、後にしましょう」

 

 

 アカネのその静かな言葉を境に、来賓席を包んでいたのどかな空気は一変し、一瞬にして「戦場の一歩手前」の、極限の緊張感へと完全に切り替わった。ソラノミは、いつでもその力を解放できる準備を整えたのだ。

 

 ――だが、その瞬間だった。来賓席のデスクに置かれていた、ヴァルキューレ警察学校および大祭実行委員会と直通している広域緊急無線機から、激しいデジタルノイズと共に慌ただしい音声が室内へと漏れ出してきた。

 

 

『――こちらヴァルキューレ警察学校、広域警備部隊! スタジアム南側、第七ゲート付近にて、身元不明の不審者グループの侵入を確認!』

 

『待て、容疑者グループの一部が、警備用のコンテナに爆発物を設置した模様――避難誘導を――』

 

 

 直後、ガラス窓の向こう側、スタジアムの遥か南側の一角で、ドン、という鈍い衝撃音と共に、小さく黒い煙が立ち上るのが見えた。コンテナの一部が吹き飛び、それに動脳した観客席の生徒たちの間で、小規模な混乱と、それに乗じた不審者グループによる乱闘が発生したのだ。

 ガラス越しでもはっきりと分かる、スタンド席の巨大なざわめき。

 

 

『容疑者グループ、武器を所持しています! 周辺の生徒は直ちに避難を――いや、先生!? 先生が現場へ向かわれました!』

 

『救護騎士団、正義実現委員会も現地の防衛戦力と合流! 先生の指揮のもと、ただちに容疑者の制圧を開始します!』

 

『抵抗をやめなさい! ヴァルキューレ警察学校です! 対象の退路を遮断、確保を開始!』

 

 

 無線機からは、銃撃の音や怒号、そして現場を的確に統率する先生の声が、激しく交錯しながら響き渡ってくる。

 現場へと迅速に動く先生の姿、そしてそれに呼応して一糸乱れぬ動きで不審者を包囲していく各学園の精鋭たちの姿が、最上階の来賓席からは一望できた。騒ぎはスタジアム全体へと拡大することなく、彼らの圧倒的な迅速さによって、驚くほど短時間で、速やかに鎮圧されていく。

 

 

「お父さん」

 

 

 ケイが手元の端末から視線を上げ、完全に状況を見切ったトーンで静かに報告した。

 

 

「……異常事象は発生しましたが、すでに現地の防衛戦力、および先生の直接指揮によって完全に鎮圧されました。不審者グループは全員拘束. ネットワークへの侵食ログも、ミレニアムのシステムによって強制遮断されました。これ以上の被害拡大の確率は、ゼロに収束しています」

 

 

 セイカは無意識のうちに、バルコニーの最前線へと立ち上がりかけていた。自身の『空見の波』が不穏な確率を感知し、自らの力でその未来を最適解へと固定しようとしたからだ。

 だが、そのセイカの動きを優しく、しかし確実に制するように、アカネが窓の外の騒動の顛末を見つめながら、そっとセイカの大きな肩に手を置いた。

 

 

「必要ありませんね、セイカさん」

 

 

 アカネのどこまでも優しく、しかし揺るぎない冷静さを湛えた言葉に、セイカは紫色の瞳を僅かに瞬かせ、ゆっくりと、自身の椅子へと身体を戻した。彼女のヘイローの回転が、静かに収まっていく。

 

 

「……ええ. 今日の英雄は、彼女らです。私たちがわざわざ記述するまでもなく、世界は自律的に、その正義を回しています」

 

 

 その様子を、冷めかけた紅茶の香りを静かに楽しみながら眺めていたセイアが、どこか試すように、しかし深い温かみを帯びた声音でセイカへと問いかける。

 

 

「動かないのかい、セイカ? 君の持つその圧倒的な『波』の力があれば、あの混乱を最初から、それこそ爆発が起きる前の段階で、完全に未然に防ぐことも容易かったはずだがね。なぜ、その力を振るおうとしないんだい?」

 

「私たちは観測者です」

 

 

 セイカは平熱のトーンのまま、淡々と、しかし一点の曇りもない声で答えた。

 

 

「……すべてを自分たちの手で解決する必要はありません。私たちの目的は、世界の全知全能の神になることではなく、私たちの、この家族の日常を守ること。地上の正義が正しく機能し、先生や生徒たちが自らの力で日常を取り戻せる間は、私たちがその因果の数式に干渉する理由など、どこにもないのです」

 

「了解」

 

 

 ケイが抱きしめていたぬいぐるみをポンポンと叩きながら、淡々と手元の端末のステータスを通常モードへと戻した。

 

 

「現在の危険度、介入閾値を完全に下回りました。これより戦術警戒運用を解除し、通常観測へと移行します」

 

 

 不穏な事件は、ソラノミが動く間もなく、地上の英雄たちの手によって瞬く間に去っていった。しかし、隣にいたレナのペンは、騒動の間も、そして終わったあとも、一度として止まってはいなかった。

 レナは爆発の火煙や不審者たちの醜い姿ではなく、事件が収束したあとに、再び何事もなかったかのように笑顔を浮かべ、互いの肩を叩き合いながら競技へと戻っていく生徒たちの、泥臭くもどこまでも美しい後ろ姿を、スケッチブックの新しいページへと力強く描き留めていた。

 

 

「……やっぱり好きだわ、あんたたち。どんな不条理なノイズが混ざっても、すぐに自分たちの意志と力で、いつもの輝かしい日常を取り戻しちゃうんだから。これこそが、私の描くべき最高の『英雄譚(サーガ)』よ」

 

 

 レナの清々しい言葉に、キサキも満足そうに目を細め、手元のペロペロキャンディを再び口へと戻した。

 

 

「誰かが誰かを守る。それが地上の日常、か。ふむ、お主の言う通り、妾たちがわざわざ粋な計らいをするまでもなかったな。キヴォトスの生徒たちは、お主が思うよりも遥かに逞しいわ」

 

「ええ. 世界には世界を守るための無数の意志がある。それをただ正確に、平熱のまま記述することこそが、ソラノミの誇りです」

 

 

 セイカは遠ざかるヴァルキューレの車両の赤色灯を見つめながら、静かに言葉を紡いだ。

 

 

 

__________

 

 

 

 

 大祭のすべての競技が終了を告げると、スタジアムの全天を覆う照明が一斉に輝きを増し、夕闇の迫る秋の空を巨大な光の海へと変えていった。一万人を超える生徒たちが一堂にグラウンドへと集う、壮大なる閉会式の始まりだった。

 

 スタンド席を埋め尽くす観客たちの興奮は未だ冷めやらず、手拍子と大歓声が波のように幾重にも押し寄せる。数々の死闘を繰り広げた各学園の選手たちが一同に並び、互いの健闘を称え合う拍手が地鳴りのように鳴り響いた。先ほどの騒動など最初から幻であったかのように、スタジアムは純粋な感動と、まばゆいばかりの華やかな光に満たされている。

 

 

「それにしても、お主の言う『介入閾値』というのは、実にソラノミらしい合理的、かつ冷徹な基準じゃな」

 

 

 キサキは新しく注がれた紅茶の香りを楽しみながら、椅子の背もたれに小さな身体を深く預けた。

 

 

「普通であれば、あれほどの爆発音が聞こえ、生徒たちが騒ぎ出せば、己の力を誇示するため、あるいは正義感から真っ先に首を突っ込みたがるもの。特にキヴォトスにおいては、力を欲する者が後を絶たん。しかし、お主らはただ、この特等席からその顛末を記述するだけで満足しておる」

 

「誇示するための力など、記述のノイズにしかなりませんから」

 

 

 セイカは淡々と答える。彼女の持つ『空見の波』は、無数に存在する可能性の中から、最も望ましい未来を確定させる能力だ。しかし、それは裏を返せば、世界が持つ本来の流れを歪めることでもある。

 

 

「世界には、先生がいて、各学園の委員会があり、それぞれの役割を持った生徒たちがいます。彼女たちが自らの意志で動き、自らの力でトラブルを解決できるのであれば、そこに私が計算式を割り込ませる必要はないのです。1 足す 1 が 2 になるように、彼女たちの正義が機能している。その事実を、私はただ正確にログに残すだけです」

 

「ふふふ、本当に頑固で、そして誰よりもこの世界を信頼しているんだね、セイカは」

 

 

 セイアが楽しげに狐耳を揺らした。

 

 

「すべてを自分でコントロールしようとしない。それは一見すると冷淡に思えるかもしれないが、実はこのキヴォトスに生きる生徒たちの『可能性』を、誰よりも尊重している証拠さ。私のように、予知夢という受動的な啓示に振り回される者から見れば、その一歩引いた平熱のスタンスは、とても理知的で、羨ましくすらあるよ」

 

「……お褒めいただき光栄です、セイアさん」

 

 

 アカネが、セイアのカップに絶妙なタイミングでお茶を注ぎ足しながら微笑む。

 

 

「セイカさんのその平熱があるからこそ、私とケイは、こうして安心して隣にいられるのです。何でもかんでも救おうとして、自分をすり減らすような英雄では、私たちは毎日のご飯を安心して作れませんからね♪」

 

「お母さんの言う通りです。お父さんは、今のままが一番です」

 

 

 ケイが、アカネの胸元に小さく頭を擦り付けながら、満足そうに呟いた。ケイにとって、セイカが強大な力を振るうかどうかは些細な問題だった。ただ、この来賓席という隔離された温かな空間で、お父さんとお母さんと一緒に、世界のありのままを観測している時間こそが、彼女の存在を定義するすべてだった。

 

 その時、グラウンドの中央に巨大なステージが設置され始め、スタジアムの全天を覆うような光のカーテンが展開された。大祭のフィナーレを飾る、閉会式の準備が完全に整ったのだ。

 

 

「あ、始まるみたいよ!」

 

 

 レナがスケッチブックを持ったまま、バルコニーのガラス窓へと駆け寄った。彼女の瞳は、これから始まる光と音の祭典に向けて、少女らしい純粋な興奮で輝いている。

 

 スタジアムの照明が一度完全に落とされ、次の瞬間、一万人を超える生徒たちが持つマルチカラーのペンライトが一斉に点灯した。赤、青、緑、黄色、紫――無数の光の粒が、スタンド席からグラウンドへと向かって、まるで光の天の川のように美しくうねり、流れていく。

 

 

『――晄輪大祭、閉会式を執り行います!』

 

 

 実況席のスピーカーから、今度はノイズのない、クリアで感動に満ちた音声がスタジアム全体へと響き渡った。

 ファンファーレの華やかな音が鳴り響き、夜空へと向かって無数の色鮮やかな風船が放たれていく。グラウンドの中央には、今日一日の競技を戦い抜いた各学園の代表たちが並び、スポットライトを浴びていた。

 

 

「ほう……これは見事なものじゃな」

 

 

 キサキが小さく感嘆の声を漏らした。

 

 

「山海経の祭りも華やかではあるが、これほど多くの学園が垣根を越えて一つの光を創り出す光景は、そうそう見られるものではない。あの騒動を乗り越えたからこそ、この光の美しさがより一層際立つというものじゃ」

 

「そうだね」

 

 

 セイアもまた、バルコニーの最前線へと立ち、その美しい狐耳を風に揺らしながら眼下の光の海を見つめていた。

 

 

「一万人以上の生徒たちが、今この瞬間、同じ感動を共有している。それぞれの学園に政治があり、思惑があり、時には対立することもある。けれど、この閉会式の光の中では、誰もがただの『一人の生徒』として笑い合っている。これこそが、先生が守ろうとした地上の日常の、一つの完成形なのかもしれないね」

 

 

 無数の光の粒が、最上階の来賓席のガラス窓にも反射し、セイカの紫色の瞳を美しく彩っていた。

 

 

「お父さん、グラウンド中央の熱量、および生徒たちの感情バイタルを記述中。……すべてが極めて高い幸福度を示しています」

 

 

 ケイが手元の端末を見せながら、セイカの顔を覗き込んだ。画面には、一万人以上の数値が整然と並び、そのどれもが緑色の「安定」を示している。

 

 

「……良いログです、ケイ」

 

 

 セイカは大きな手で、ケイの柔らかな髪を優しく撫でた。

 

 

「……私たちが手を下さずとも、世界はこれほど美しい最適解を自ら導き出すことができる。それをこうして家族と共に記述できることこそが、私にとっての最大の報酬です」

 

「ふふ、今日は私たちの出番ではありませんでしたね。ですが、それこそが何よりの、最高の最適解です」

 

 

 アカネが嬉しそうに微笑み、セイカの隣へとそっと寄り添う。その瞳には、最愛の家族と共にこの平和な光景を見届けられたことへの、深い充足感が満ちていた。

 

 

「観測ログ更新」

 

 

 ケイが小さな指先で、本日の大祭、そして閉会式の記録の末尾に、静かな文字列を記述した。

 

 

「……『英雄は一人ではない』を記録します」

 

 

 ガラスの向こう側では、閉会式のクライマックスとして、スタジアムの夜空に巨大な花火が一斉に打ち上げられていた。

 ドン、と重厚な音が来賓席のガラスを微かに震わせ、赤や金色の光が、一万人の歓声と共に夜空を埋め尽くしていく。

 

 世界を揺るがすような事件がいつか起きるとしても、あるいは彼女たちがその強大な「空見」の力を戦時運用せねばならない過酷な未来が待っているとしても。

 今、この来賓席に満ちている絶対の平熱と、家族の温かなタイムラインだけは、何者にも侵されない確固たる事実として、ソラノミのログに深く、美しく刻まれていくのだった。

 

 大祭の光が、彼女たちの横顔をいつまでも優しく照らし続けていた。

 

 

 

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