「――各戦線、最終フェーズへ移行! カウント、三、二、一……今です!」
連邦捜査総監室、通称「シャーレ」の地下深くに位置する中央戦略管制室。その重苦しい静寂を切り裂いたのは、キヴォトスのすべての生徒たちが最後に背中を預ける「大人」――先生の、割れんばかりの力強い号令であった。ネクタイを乱し、冷や汗が頬を伝うのも構わずにマイクを握りしめる先生の瞳には、決して折れることのない強い意志の光が灯っていた。
その号令が空間の因果を越えて全戦線へと同期された瞬間、キヴォトス全土に配置された六つの不条理の楔――「虚構のサンクトゥム」へ向けて、すべての学園が誇る最大火力が同時に叩き込まれた。
ゲヘナ学園の本隊が展開する、大地をも揺るがす圧倒的な殲滅砲撃。風紀委員長である空崎ヒナが最前線で指揮を執り、万魔殿の突撃隊が放つ無慈悲な弾幕が、空間の法則を強引に削り取っていく。
トリニティ総合学園の防衛陣地からは、正義実現委員会と救護騎士団の厳重なバックアップのもと、聖園ミカが放つ規格外の破壊力と、天から降り注ぐ聖なる鉄槌が、不条理の構造を物理的に粉砕していく。
ミレニアムサイエンススクールにおいては、セミナーの調月リオが導き出した数理的に最適化された進軍ルートに従い、明星ヒマリが解析した障壁の共振周波数を書き換える一斉掃射が実行され、合理的かつ冷徹に楔を解体していった。
――そして何より、それら六つの戦場すべてを天から正確無比に同期させ、不条理の側による「因果の再構築」を完全に阻害し続けたのが、天空に鎮座する宇宙戦艦ソラノミの超長距離支援砲撃であった。
ブリッジのメインコンソールにしがみつくようにして、小さな指先でアラートの洪水を捌いていたケイが、艦載された因果演算リソースを限界までドライブさせる。
「主砲、および全艦載システム、各戦線との同期ズレ、ゼロミリ秒。……因果相殺パルス、照射!」
彼女の精緻な「眼」が、世界中に分散した六つのエネルギー結节点を一寸の狂いもなく捉えていた。その隣では、アカネがいつもの上品な笑みをその唇に湛えながら、戦闘用メイドとしての、そして家族を守る「お母さん」としての絶対的な手腕で、乱れるパルスをエレガントに補正し、戦艦の防衛ラインを維持していた。
全キヴォトスの意志、そしてソラノミの家族の絆が完全に「一瞬」へと収束した瞬間、世界を繋ぎ止めていた禍々しい赤いエネルギーの網目が、耐えかねたガラスのように甲高い音を立てて砕け散った。
爆風と因果の残滓が、キヴォトスの大気を激しく震わせる。
『こちら風紀委員会、担当戦域の尖塔の消滅を確認。……ふぅ、やっと片付きました』
通信の向こうから、ゲヘナの風紀委員である天雨アコの安堵と疲労の混ざった声が響く。
『正義実現委員会、こちらも完了しました!』
トリニティの羽川ハスミの凛とした声が、勝利の報を告げる。
『……フッ、当然の結果よ。全知の私が導き出したアルゴリズムと、アバンギャルド君の出力に耐えられるわけがないわ。数理的な必然というものです』
ヒマリが特設管制室の車椅子の上で、いつもの自信に満ちあふれた全知の笑みを浮かべ、細い指先で誇らしげに髪を払った。
シャーレの中央メインモニターに、次々と青い「CLEARED」の文字が灯っていく。壊滅状態に陥っていた地上の通信網が、復旧した基幹回線を通じて怒涛のように歓喜のログを吐き出し始めた。
キヴォトス各地の通信網から、泥に汚れ、息を切らしながらも、確かに生き残った生徒たちの勝利報告が押し寄せる。
天空を絶望的に覆っていた、あの不気味な真紅のノイズが目に見えて薄れ、空間の底から響いていた世界の上書きを告げる鳴動が止まっていく。地上で愛銃を構え続けていた生徒たちは、互いのヘイローが無事に輝いていることを確認し合い、顔に付いた煤や泥を袖で拭いながら、深く、深く安堵の息を漏らした。
誰もが、この世界を滅ぼさんとする未曾有の不条理は、ここで「終わった」のだと、そう確信していた。
だが、世界が安らぎの平熱を取り戻すよりも早く、ミレニアムの特設管制室に設置された超高度演算端末から、それまで聞いたこともないような、鼓膜を劈く鋭いアラートが鳴り響いた。
「……? 待ちなさい。これは、一体どういうことでしょうか……?」
ヒマリの車椅子の上での全知の笑みが、一瞬にして凍りついた。彼女の全知の思考回路を以てしても、一瞬理解を拒むような、狂った数理のログがモニターを満たしていく。
「各戦線のサンクトゥムが完全に消滅したにもかかわらず、空間の因果波形が安定しません。それどころか、収束するはずのエネルギーが……キヴォトスの全全域の残存エネルギーの指向性が、急速にある一点へと反転、凝縮しています。――これは、異常などという言葉では片付けられない、未知の、そして破滅的なエネルギー反応です!」
ヒマリの細い指先が、目まぐるしくキーボードを叩き、解析を試みるが、端末は次々と処理不能のエラーログを吐き出していく。
「データをこちらへ回しなさい、ヒマリ。セミナーのメインフレームを強制直結するわ」
リオが即座に割り込み、黒いコートの襟を正しながら、自身の端末に数理解析のログを展開した。リオの冷徹な瞳が、モニターに表示された不条理の数式を捉えた瞬間、その端正な顔立ちが驚愕に歪む。
メインモニターに表示されたのは、先ほどまで生徒たちが命を懸けて破壊した六基の尖塔など、比較にすらならない質量。空間そのものを物理的に、そして概念的に歪めるほどの、巨大な黒い特異点。
「場所は……中央区上空。結論を言います。……私たちは、完全な計算違いをしていた。いえ、敵の因果構造に踊らされていたのよ。六つのサンクトゥムは、世界全体の防衛リソースを分散させ、これを現出させるための、ただの前座に過ぎなかった。――出現します、第七のサンクトゥムが」
リオの毅然とした、しかしどこか絶望の色彩を帯びた女性口調が、シャーレの戦略管制室に響き渡る。
その不吉な予言と同時に、中央区の直上、雲を突き抜けた遙か高空の空間が、目に見える亀裂を伴って爆発的に割れた。
"――ッ!!"
先生が息を呑む。
窓の外を見上げれば、そこには都市一つを容易く押し潰すほどの圧倒的な質量を持った、真紅と漆黒に彩られた巨大な超構造物が鎮座していた。世界の骨組みが軋むような、物理的な質量を伴った重圧。キヴォトスの空が、先ほどまでの不気味な赤を遥かに凌駕する、底なしの、血のような、あるいは呪いのような色へと急速に再侵食されていく。
__________
しかし、世界が突きつけられた本当の絶望は、その巨大な尖塔の現出だけに留まらなかった。
現出した第七のサンクトゥムの直下、空間の裂け目から、ドス黒い、あらゆる光を吸収するような「色彩」の泥が、滝のように地上へと溢れ出し、空間の一点へと収束して巨大な質量を形成していく。
「グルゥゥゥ、オォォォォォォン……ッ!!!!」
鼓膜を、脳細胞を、そして魂の記号を内側から掻きむしるような、悍ましい咆哮がキヴォトス全土に響き渡った。
空間を物理的に引き裂くような歪みの中から、その巨体を現したのは――かつてキヴォトスの総力を以て、先生の大人のカードの力をも以て、辛うじて撃退したはずの、あの巨大怪獣――ペロロジラであった。
だが、それは通常個体とは完全に、100%別物であった。
その全身は、現世のいかなる絵の具でも表現不可能な「色彩」の禍々しいグラデーションに侵食され、輪郭はデジタルノイズのように激しくブレている。頭上で回るはずのヘイローは歪に歪み、そこから流出するエネルギーの波動だけで、中央区を中心とした周囲数キロメートルのビル群の強化ガラスが、粉々に砕け散って街へと降り注いだ。
「そんな……っ、ペロロジラ……!? でも、あの大きさは、データにある個体とは明らかに違います! 異常すぎます……!」
連邦生徒会のアユムが、モニターに映し出された怪獣の質量データを見て、悲鳴に近い声を上げる。画面のインジケーターは、すでに測定限界を超えて完全に赤く染まっていた。
「ええ、規格外の耐久力、そして測定不能の圧倒的エネルギー反応よ。……これは、ただの怪獣の再現ではないわ。世界そのものを物理的に圧殺するために最適化された、色彩の尖兵。……結論。これまでの敵とは別次元、と判断せざるを得ないわ」
リオの毅然とした声に、初めて明確な戦慄が混ざる。黒いコートを握りしめる彼女の手が、微かに震えていた。それはまさに、キヴォトスという日常のログを、完全に終わりへと導くために送り込まれた、絶対的な不条理の具現であった。
シャーレのモニターに映し出されるその圧倒的な、暴力的なまでの絶望を前に、キヴォトス全土が冷や水を浴びせられたように静まり返った。
歓喜に沸いていた通信網は一瞬で途絶し、ただ不気味なノイズだけがスタジオのスピーカーから漏れ出す。
各地の戦場にいた生徒たちは、先ほどの六つのサンクトゥムを同時に、完璧なタイミングで撃破するために、持てる全ての弾薬、体力、そして精神力を使い果たした直後だった。銃身は熱を帯びて歪み、マガジンは空。何より、勝利を確信した直後に突き落とされた精神的な落差が、彼女たちの心を容赦なくへし折っていた。
「嘘、でしょ……。もう、弾が、一発も残ってないよ……」
トリニティの防衛ラインで、一人の正義実現委員会の一員が、カチカチと空鳴りをさせる愛銃を見つめ、涙を浮かべて呟いた。
「風紀委員会、動ける者は……っ、くっ、みんな立ち上がるのが限界……弾切れ、それに、あんな怪物、どうやって……!」
ゲヘナの前線で、アコが必死に無線を繋ごうとするが、風紀委員たちの多くは地面に膝をつき、荒い息を吐きながら動けないでいた。最強を誇る空崎ヒナすらも、愛銃を杖代わりにし、その瞳に深い疲労を滲ませて、中央区の空に浮かぶ絶望を見つめている。
誰も動けない。銃を構える腕は鉛のように重く震え、足は疲労と恐怖で地面に張り付いている。
各地の前線からシャーレへ届くのは、絶望に満ちた沈黙と、壊れた無線機のノイズだけだった。「ここで終わるのか」「私たちの足掻きは、最初から無意味だったのか」という無力感が、真紅のノイズとなって世界を、そして生徒たちの心を包み込もうとしていた。先生は、拳を血がにじむほど強く握りしめ、モニターを見つめるしかなかった。
__________
その絶望の沈黙を切り裂き、シャーレの最高優先度回線へ直接割り込んできたのは、極めて淡々とした、あの平熱の声だった。
『……問題ありません』
"セイカ……!?"
先生が叫ぶように、マイクへ向かって声を上げた。モニターの隅に、天空で真紅の嵐に耐えながらホバリングを続ける、宇宙戦艦ソラノミの艦影が映し出される。
『アカネ、ケイ。これより宇宙戦艦ソラノミの全防衛システム、ならびに全因果観測リソースを一時的に私が単独で引き受け、直接迎撃行動に移行します。我が家の留守をお願いしますね』
ソラノミの艦橋。セイカはいつもと全く変わらない平熱のまま、ただ一人、正面の展望窓の向こうで荒れ狂う色彩の怪獣と、赤く染まったキヴォトスの空を見つめていた。彼女の頭上で回る舵輪型のヘイローが、決意を示すように微かにその輝きを増す。
『了解しました、セイカさん』
アカネがその隣に歩み寄り、いつも通りの、しかしどこか冷徹な凄みを帯びた丁寧な口調で応じる。その瞳には、大切な家族を送り出す「お母さん」としての絶対的な信頼があった。
『私の観測範囲、ならびにソラノミの全センサーを以て、あの不気味な怪物の隙を完全に排除して差し上げます。……うふふ、お母さんとして、これ以上ない最高の舞台をお見送りします。コントロールはお任せください。気をつけて行ってきなさい』
『了解しました、お父さん。これよりメテオストライカーの出撃準備、およびカタパルト展開』
ケイの瞳に、戦艦のメインフレームと同調する鮮烈な青い光が眩しく灯る。
『ルミナス・コアの出力、120%までアップ。……お父さんの勝利確率、100%をこの娘が保証します。あの不条理の記号を、私たちの日常から完全に消去してください』
「ありがとう、二人とも。……行ってきます」
セイカは小さく頷き、艦内の転送ポートへと歩みを進めた。背後の艦載格納庫から、ソラノミの最終兵器であり、対因果律・高機動迎撃ユニットである巨大な無人重武装ユニット『メテオストライカー』が、重厚な駆動音を上げながらせり出してくる。
その中央、機体の最深部に鎮座するのは、メテオストライカーの絶対的な心臓部にして永久機関――『ルミナス・コア』。
「ルミナス・コア、直結。……最大出力へ」
セイカの平熱の声と同調するように、コアが空間の底を揺らすような重低音とともに激しく拍動を開始した。
その瞬間、機体装甲の隙間、そして各部スラスターから、神秘的で、この世のどの神秘よりも美しい輝きを放つ「ルミナス粒子」が爆発的に空間へと放出された。
世界の上書きを拒絶するような、鮮烈な緑色の光粒子。それは瞬く間に、空を舞うセイカの背後で巨大な「緑色の光の翼」を形成し、真紅に染まったキヴォトスの夜空に、まるで天の川のような、あるいは満天の星々が流れるような、圧倒的に美しい尾を引いて広がっていった。
ルミナス粒子が持つ、絶対的な質量制御効果。
その光の波動が空間を満たした瞬間、メテオストライカーはその凄まじい大質量を完全に無視し、慣性の法則すらも超越した、重力から完全に解き放たれた絶対的な存在へと変貌を遂げた。
背後には、コアからの無尽蔵のエネルギーを供給され、ルミナス粒子を纏って怪しく明滅する12基のフィンファンネル、そして中央にガシャリと固定された巨大な「メテオバスターライフル」が、圧倒的な存在感を放ちながら展開していく。
「準備完了」
ケイの指先がキーを叩いた瞬間、ソラノミの格納庫から、緑色の光の閃光とともにセイカの姿が消え失せた。
次の瞬間、中央区上空――色彩ペロロジラの直上、第七のサンクトゥムが放つ真紅の重圧の真ん中に、空間を切り裂いて天の川の光が爆発した。
まばゆい緑色の粒子ストリームを夜空に引き散らしながら、翼を広げて降下してきたのは、天野江セイカ。
誰もが絶望し、武器を落としたその死の空で、彼女はただ一人、無尽蔵の超火力と、極限の空中機動力を秘めた装甲を纏い、キヴォトスのすべての日常を守り抜くために、巨大な怪物を見下ろしながら静かに立ちはだかった。