未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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箱舟への航路

 

 

 

 大気圏という名の、惑星を包む最後の衣を切り裂いた瞬間、世界から一切の「音」が消失した。

 宇宙戦艦ソラノミは、キヴォトスの重力圏という絶対的な物理の縛りを完全に脱し、今や星々が不気味なほどに鋭く瞬く漆黒の深淵――真空の海へと、その巨大な艦体を滑らせていた。

 

 巨大なメインブリッジの正面を覆う、強固な特殊因果ガラスの風防。その向こう側には、どこまでも果てのない絶対的な黒が広がっている。そして、艦の後方に位置する広角モニターの片隅には、先ほどまで少女たちが血を流し、弾丸を交わし、自らの日常を守るために死闘を繰り広げていた青い惑星が映し出されていた。

 地表を覆っていた不条理の雲は未だ完全には晴れ切っていないものの、傷つきながらも確かに再生を始めたキヴォトスの街並み、その数多のヘイローの輝きが集まった光の海が、ソラノミの上昇とともにゆっくりと、しかし確実に遠ざかっていく。

 

 艦内を満たしているのは、居住区画や防衛班の待機室までを繋ぐ生命維持システムが刻む、かすかな、そして規則正しい空気の循環音だけだった。そして、艦体の最深部で静かに、しかし絶対的なエネルギーを練り上げているルミナス・コア。それが発する、人間の耳にはほとんど捉えられないほどの超低周波の共振音が、床を通じて指揮卓に立つ先生の足元へと伝わってくる。

 先ほどまでの招集の喧騒、生徒たちが各々の意思でタラップを駆け上がってきたあの熱い鼓動が嘘のように、司令室には今、決戦前特有の、冷たく澄み切った静寂と緊張が横たわっていた。

 

 

「……地球重力圏、完全に離脱。これより第一宇宙速度を維持したまま、目標への最短弾道航行へと移行します」

 

 

 アカネの声が、水を打ったようなブリッジに静かに響いた。その声には、一切の揺らぎも、不要な装飾もない。淡々と、しかしミリ秒単位の正確さでソラノミという巨大なシステムを制御する、戦闘運用者としての冷徹なプロフェッショナリズムが宿っていた。

 

 

「同時に、外殻に展開している因果障壁の出力を『巡航維持モード』へと微調整。航路上の微細な宇宙デブリ、および色彩の残滓によるエラー粒子の干渉は、すべて艦体に到達する手前で自動的に排除されます」

 

 

 先生は中央の指揮卓に深く寄りかかりながら、広大な司令室の中に配置された、それぞれの持ち場で自らの限界に挑み続ける生徒たちの後ろ姿を、一人ずつ静かに見つめていた。誰もが口を開かない。コンソールから発せられる微細な電子音と、オペレートのためのタイピング音だけが、この部屋が生きていることの証明だった。

 

 

 

 ソラノミのメインブリッジに構築された作戦司令フロアは、地上におけるいかなる学校の管制室をも凌駕する高密度な情報処理空間と化していた。キヴォトス最高峰の知性と指揮能力を持つ少女たちが、それぞれの固有の領域において、ソラノミの航行を完璧に支えるためのログを紡ぎ出している。

 

 

「主機関、および後部推進スラスターの同調率を再計算中……」

 

 

 ユウカの指先が、コンソールの上に表示された彼女お馴染みの電卓アプリケーションの画面と、ソラノミのメイン動力フレームのインターフェースを行き来していた。画面上には、人間では視覚的に捉えることすら不可能な速度で、極大のエネルギー数式が流れては消えていく。

 

 

「……よし。熱量変換効率の誤差、わずか0.02%以内。これなら、仮にこの先でどれほど急激な不条理の物理干渉が発生したとしても、ソラノミの推進出力が瞬間的にデッドラインを割り込むことはありません。どれだけのエネルギーを消費しようとも、私がすべて帳尻を合わせてみせます。……先生が、ただ前だけを見ていられるように」

 

 

 ユウカの眼鏡の奥にある瞳には、電卓の青白い光とともに、絶対にこの航路を失敗させないという頑ななまでの強い意志が滲んでいた。彼女にとって、この巨大な戦艦の予算やエネルギーの計算は、ただの数字の羅列ではない。先生と、ここにいる仲間たち全員を、生きて日常へと連れ帰るための絶対的な誓約そのものだった。

 

 その少し斜め後方の通信セクションでは、モモカがいつもの気怠げな態度を完全にパージし、鋭い視線で無数の波形を睨みつけていた。彼女の傍らにはいつもなら置かれているはずのスナック菓子の袋もなく、ただヘッドセットから流れる地上のノイズを冷徹に選別している。

 

 

「シャーレのメインサーバー、および連邦生徒会、さらにはキヴォトス各地の残存ローカルサーバーを結ぶ超広帯域通信回線、現在のところ感度良好。色彩の干渉による位相のズレも、ソラノミのルミナスアンテナがすべて力技で相殺してくれているよ。……こちらソラノミ司令室。これより高度五万マイルの未記述領域へ侵入するけど、通信ログの途絶は一切なし。……地上側の防衛、そっちも絶対に抜かれないでよね」

 

 

 モモカの確実なオペレーションによって、ソラノミは宇宙という絶対の孤立空間にありながら、キヴォトスという世界の全ての祈りと繋がり続けていた。

 

 そして、その通信の隣、戦術指揮卓の前では、アコがサブモニターに表示された「箱舟攻略班」のステータスを見つめていた。

 

 

「アビドス対策委員会、ゲーム開発部、美食研究会、および給食部……全突入班の待機区画におけるバイタルデータ、すべて正常値の範囲内です。各員、装備の最終換装を完了し、第一から第四までの射出ハッチのシステム連動も確認。……先生、高度七万五千メートルへの到達と同時に、箱舟の構造に合わせた最短ルートでの突入が可能です。彼女たちの命を預かる以上、不確定な作戦共有など、この私が一秒たりとも許しません。完璧なタイミングで、彼女たちを戦場へ送り出してみせます」

 

 

 アコの言葉は冷徹に聞こえるが、その実、突入する生徒たちの安全と勝利を誰よりも細かくシミュレートしている。風紀委員会の行政官としての意地が、ソラノミの戦術配置をより強固なものへと昇華させていた。

 

 

「ふむ……。あの『アトラ・ハシースの箱舟』から放射されているエネルギーのエラー波形、実に見事なまでに歪んでいますね。幾何学的な美しさを冒涜するような、不愉快なスペクトルです」

 

 

 明星ヒマリが、前線戦闘用に特別に調整されたAMASのコントロールパネルを優雅に滑らせながら、誇らしげに声を響かせた。彼女の周囲には、箱舟から発せられる謎の重力波や色彩の波形が、独自の解析ログとしてリアルタイムで視覚化されている。

 

 

「ですが、世界がどれほど歪もうとも、この全知にして最高峰の天才美少女ハッカーたる私の観測ログから隠れ通せると思わないことです。すでに要塞表面の受動レーダー波を逆探知し、その熱源分布の8割を掌握しました。これより、色彩の残滓による空間の隠蔽を、私の最高高度の演算によって一枚ずつ剥ぎ取って差し上げましょう。皆さん、私の美貌と知性に、改めて感謝してもいいのですよ?」

 

「ヒマリ、あなたのその無駄口の時間を数式に回せば、あと3秒は解析が縮まるわ」

 

 

 通信回線を介して、リオの毅然とした、冷徹なまでの知的な声がブリッジに割り込んできた。彼女自身は地上側のシステム、およびソラノミのディープデータリンクを介して、自身の脳内にあるミレニアムの全演算リソースをこの一戦に注ぎ込んでいる。

 

 

「ヒマリの観測データを受信、およびソラノミのメイン演算フレームへと完全同期。……これより、アトラ・ハシースの箱舟の外殻構造、および色彩によって物理法則を書き換えられた『侵入可能セクション』の最適化解析を開始する。……どれほど強固な古代要塞だろうと、世界を終わらせるための記号として記述されている以上、そこには必ずシステムとしての脆弱性がある。先生、私たちがかつて犯した過ちのすべてを、そしてキヴォトスが直面しているこの不条理を、数式の刃で完全に解体してみせるわ。私をこの船の解析に組み込んでくれたこと、後悔はさせない」

 

 

 リオの言葉には、過去のすべての因果を背負い、それでも先生の行く道を照らすという、贖罪を超えた絶対的な覚悟が宿っていた。

 

 

「……外周部に異常兆候なし。ただし、色彩の残滓による局所的な空間の歪みが、ソラノミの進行方角において散発的に発生中。レーダーの数値だけを信じると、一瞬で座標を見失う。注意を怠らないで」

 

 

 カヨコがいつもの冷静な、どこか気怠げでありながらも完全に周囲の微細な変化を捉える独特の口調で、メインモニターのエラー数値を監視し続けていた。ゲヘナのあらゆる混沌を見てきた彼女の直感と冷徹な監視眼が、ソラノミという巨大な戦艦の「死角」を完璧に埋めていた。

 

 

 

__________

 

 

 

 

 ミレニアムや各校の精鋭たちがその知性を振るう中、宇宙戦艦ソラノミそのものを「自らの家」として肉体的に、そして精神的に掌握している空見観測研究部のメンバーたちもまた、それぞれが冷徹かつ確実な動きで自らの職務を遂行していた。

 

 

「ソラノミの第一から第四主砲のエネルギー充填率、現在92%を通過。艦首因果障壁の出力、および各部セクションの物理防衛隔壁、すべてオールグリーンを維持しています」

 

 

 アカネの指先が、まるでピアノの鍵盤を叩くかのように滑らかに、しかし一分の迷いもなくコンソールの上で舞っていた。彼女にとって、このソラノミという戦艦は、先生を迎え入れ、家族全員で過ごすための最も大切な「家」そのものだった。だからこそ、その家を傷つけようとするいかなる不条理に対しても、彼女は一切の容赦をしない。

 

 

「いつでもいけますよ、先生。私たちの家を汚そうとする不届きな要塞には、それ相応の、絶対的な因果の弾頭をお見舞いして差し上げます。主砲のトリガーは、いつでも先生の命令一つで引き絞れるように、安全装置を解除してあります」

 

「お父さん、先生。ソラノミのメインフレーム、およびルミナス・コアとの同期率、極大値を維持。私の全並列演算スレッドを、センサーの走査範囲拡張に回します。これより、ソラノミを中心とした全方位高度五千マイルの空間ログを完全に掌握。航路上の障害予測、および箱舟攻略班が内部へ突入した後の、あらゆる戦闘支援演算の準備……すべて完了しています」

 

 

 ケイの瞳の中で、鮮烈な青い演算ログが激しく明滅していた。彼女の小さな身体は今、ソラノミの全システムと物理的にリンクし、この巨大な鋼鉄の城の「神経そのもの」として機能していた。お父さんであるセイカの安全を確保し、お母さんであるアカネの操作を百パーセントの精度で補助する。彼女の純粋なまでの決意が、ソラノミの防御力を絶対的なものへと引き上げていた。

 

 

「……見えます。アトラ・ハシースの箱舟へと続く、ねじ曲がった因果の糸が。どれほど闇が深くとも、世界が色彩によって塗り潰されようとも、この航路の先にある、私たちが掴むべき灯火のログを、私は決して見失いません」

 

 

 セイアが静かに目を閉じ、自身の頭上に浮かぶヘイローを淡く、しかし極めて高密度に輝かせながら、不条理の海に浮かぶかすかな「正解のルート」を観測し続けていた。かつて未来の絶望に苦しんだ彼女の視界は、今や先生と共に征くこのソラノミの艦橋において、不条理を射抜くための最も鋭い光の矢となっていた。ケイの演算支援とセイアの因果観測が交わることで、ソラノミは暗黒の宇宙にあって、一歩も道を誤ることのない絶対的な羅針盤を手に入れていた。

 

 

「ふむ。キヴォトスの頭脳どもと、我が空見観測研究部の連携……これほど見事なログが並ぶ指揮所は、地上はおろか、キヴォトスの歴史をどこまで遡っても存在せまいな。……皆の者、油断するなよ。これより我々が挑むのは、ただの敵ではなく、世界そのものの終焉、絶対的な不条理の塊なのだからな」

 

 

 キサキがその小さな体躯からは想像もつかないほどの、圧倒的な支配者としての威厳をブリッジ全体へと行き渡らせていた。彼女の毅然とした佇まいがあるからこそ、司令室の空気は緊迫しながらも、決して恐怖に支配されることはない。山海経を統べる者としての冷徹な大局観が、ソラノミの指揮系統の精神的支柱となっていた。

 

 その背後で、レナは直立不動のまま、自らの武器を白くなるほど強く握り締めていた。

 

「(……っていうか、それより何よりちょっと待ってよ!!! さっきからブリッジの最前方、漆黒の宇宙を背景に、平熱のまま冷徹にソラノミの進路を修正し続けてるセイカさん、マジで美しすぎて神々しすぎて直視できないんですけど!!? なにあの横顔!? 宇宙の星々の輝きすらすべてセイカさんの美しさを引き立てるための引き立て役にしか見えないんだけど!!? メテオストライカーと未来視の同調で淡く光るヘイローの尊さだけで私の脳細胞が1秒間に3億個ずつ焼き切れてるわよ!!! ああああもう無理尊すぎて限界、今すぐこの場でひれ伏して床になりたい……!!!)」

 

 

 内面ではワイルドハントの芸術的矜持とプライドが完全に崩壊し、尊さのあまり発狂しかけているレナだったが、それを表に出すわけには絶対に、天地がひっくり返ってもいかなかった。必死に表情筋を固定し、ぶっきらぼうで気の強い乱暴めのトーンを無理やり絞り出す。

 

 

「……な、何よ。司令室の物理防衛、および先生の身辺警護なら、私がここで完璧に警戒を続けてるわよ。い、いかなる不条理が攻め込もうとも、私が全部暴いて叩き潰してやるんだから……!」

 

 

 精一杯ツンツンした態度で身構えるレナ。しかしその時、艦橋の最も前方に立つ天野江セイカが、髪をかすかに揺らしながら、平熱の静かな瞳でレナの方をふと振り返った。

 

 

「……レナ。少し、防衛システムの出力が揺らぎました。緊張していますか?」

 

「ひゃああっ!? せ、セイカさん……っ!?」

 

 

 まさか大好きな相手からダイレクトに名前を呼ばれて見つめられると思っていなかったレナは、一瞬で大人ぶった理性を吹き飛ばして余裕をなくし、顔を真っ赤にしてタジタジになった。動揺のあまり、完全に子供っぽいリアクションが漏れ出す。

 

 

「な、何言ってるのよ! 緊張なんてこれっぽっちもしてないわよ! 別に、あんたのために……じゃなくて、セイカさんのために身構えてるわけじゃないんだからね! 勘違いしないでよね!」

 

 

 先生がその様子を見て、クスリと笑いながら"レナ、顔が真っ赤だよ? オカルトが怖いのかな?"とからかうように声を掛ける。

 

 

「な、何よその目は……っ! 先生、文句があるならハッキリ言いなさいよ!! オカルトなんてただのインチキだし、私はただ……っ、ただ、ブリッジの、その、空間の、セイカさんの尊い気配が、違う、そうじゃないわよ!! シャーーーッッ!!!!」

 

 

 完全に図星を突かれてしどろもどろになったレナは、真っ赤な顔のまま、まるで猫のように激しく威嚇してそれ以上のツッコミを拒絶した。

 

 

「……了解。平熱のまま、あなたを送り届けます、先生」

 

 

 セイカはレナのその騒がしいリアクションすら「いつもの平熱のログ」として受け流し、再び静かに前方の宇宙へと視線を戻す。

 

 

「(あ、頭を撫でるように「了解」って言った……!! セイカさんが今、私の方を見て喋った……!! ああ、もうダメ、私の全並列演算ログが尊さのエラーでシャットダウンする……!!!)」

 

 

 心の中で嬉しさと尊さのあまりのたうち回りながらも、レナは再び「ツン」としたぶっきらぼうな表情を作り直し、しっかりと武器を構えて先生とセイカの背中を守る位置へと戻るのだった。

 そして――。

 そのすべての中心、艦橋の最も前方、漆黒の宇宙が壁一面に広がる大きな特殊ガラスの前に、セイカが静かに、ただ一人佇んでいた。

 

 

「……面舵、三分。高度調整、マイナス五。……航路上の因果の揺らぎを、今、完全に修正しました」

 

 

 セイカは自身の背負う人型兵器、コアを静かに明滅させながら、その圧倒的な「未来視」の能力をソラノミの航行ログへと直接介入させていた。

 彼女のヘイローは、激しく回転することもなく、まるで平熱の周期を維持するように静かに回っている。どれほど凄まじい情報量が脳内に流れ込もうとも、どれほど恐ろしい未来のノイズが視界を過ろうとも、彼女は常に「平熱」のままだった。誰よりも冷静に、誰よりも確実に、先生の信じた道を切り開くために、彼女は必要最低限の言葉だけをブリッジへと落とし、ソラノミの進路を細かく、細かく修正し続けていた。その横顔には、先生への絶対的な信頼と、この家族を守り抜くという、静かなる闘志が宿っていた。

 

 

__________

 

 

 

 先生は、静かに、しかしそれぞれの熱量を持って燃え続ける司令室の全体をゆっくりと見渡した。

 生徒たちの背中には、誰もが世界の命運という、あまりにも重すぎる責任が圧し掛かっている。どれほど優れた頭脳や武力を持っていようとも、彼女たちは本質的にはキヴォトスの日常を生きる少女たちなのだ。決戦が近づくにつれ、ブリッジの空気はどんどん冷たく、張り詰めたものへと変貌していこうとしていた。

 

 先生はゆっくりと歩き出した。自らのコートの裾を揺らしながら、それぞれの持ち場でコンソールに向き合う生徒たちの元へと、一人ずつ歩み寄っていく。

 

 

"ユウカ"

 

 

 先生は、凄まじい速度で電卓を叩き続けていたユウカの肩に、そっと優しく手を置いた。

 

 

"いつも最高の管理をありがとう。エネルギーの計算も、ソラノミの維持も、君がいてくれるからこそ、私たちはこうして迷わずにどこまでも進めるんだ。君の計算は、僕たちの命綱だよ"

 

「っ、な、何言ってるんですか、先生! 当然です、私を誰だと思っているんですか! 先生がちゃんと私の隣で見ててくれないと、計算が狂っちゃうんですから……。だから、絶対に目を離さないでくださいね」

 

 

 ユウカは一瞬だけ驚いたように肩を竦めたが、すぐにいつものように少しだけ口を尖らせ、しかしその頬をかすかに赤く染めながら、電卓を叩く速度をさらに上げ。その表情には、張り詰めた緊張の奥から、確かな安心の日常が戻っていた。

 

 

"ヒマリ、リオ。二人の頭脳がこうして揃っているんだ。私には、私たちには、解けない数式も、突破できない不条理の要塞なんて絶対にないよ"

 

 

 先生の言葉に、ヒマリは車いすのシートに深く腰掛けたまま、髪を優雅に払いながら不敵に微笑んだ。

 

 

「ふふ、よく分かっているじゃないですか、先生。この全知にして最高峰の天才美少女ハッカーである私と、あのリオが同じログを共有しているのです。解けない謎など、この宇宙のどこを探しても存在しません。私の美しさと知性に、どうぞその身を委ねて安心なさい」

 

「……ええ、先生。私たちは、私たちがかつて犯したかもしれないすべての計算ミスを、この宇宙の果てで完全に記述し直してみせるわ。ミレニアムの全演算リソースは、あなたの決断を裏切らない」

 

 

 リオの通信の声からも、先ほどまでの冷徹な焦燥が消え、先生の言葉を受け止めたことによる、静かな、そして確固たる確信の響きが戻っていた。

 

 最後に、先生は艦橋の最前方に立つ空見観測研究部のメンバーたちの元へと歩みを進めた。

 

 

"「セイカ、アカネ、ケイ。……キヴォトスのために、この過酷な宇宙の戦いに力を貸してくれてありがとう。これから大変な戦いになるけれど、必ずみんなで勝利して、君たちのあの大切な家に帰ろう"

 

 

 その言葉に、アカネはコンソールから視線を外すことなく、しかしその唇の端を優しく和らげた。

 

 

「お茶の温度は、いつでも最高のおもてなしができるように、最適に保っておきますね。先生、セイカさんが道を切り開く間、この家は私が完璧に守り抜きます」

 

「はい、お父さん、先生。メインフレームの温度上昇を感知、しかし私の精神は完全にクリアです。必ず、みんなで帰りましょう。私は、お父さんとお母さんと、みんなが大好きですから」

 

 

 ケイが振り返り、その小さな顔に満面の、一点の曇りもない笑顔を浮かべてみせた。その純粋な言葉が、司令室の空気を完全に「日常」の温度へと引き戻していく。

 

 そして、最も前方に立つセイカが、ゆっくりと先生の方へとその顔を巡らせた。彼女のヘイローは、変わらず平熱の周期で回っている。

 

 

「……了解。平熱のまま、あなたをあの箱舟の心臓部へと送り届けます、先生。……私たちの航路に、ノイズの侵入は一ミリたりとも許しません」

 

 

 セイカのその極めて冷静な、しかし何よりも温かい信頼の宿った瞳を見て、先生は深く頷いた。生徒たちの表情には、確かな、そして絶対に折れない無敵のログが、今や完璧に記述されていた。

 

 

 

__________

 

 

 

 ――しかし、不条理は、彼女たちの日常の温もりを嘲笑うかのように、突如としてその牙を剥いた。

 

 

ピピピッ!!! ファン! ファン! ファン!

 

 

 突如として、ブリッジ内のすべてのサブコンソール、そしてヒマリのAMASのメインモニターに、これまでキヴォトスのいかなる歴史、いかなる古代の記録にも存在しなかった、狂気的なエラー波形が一斉に現出し、赤い警告灯が激しく明滅し始めた。

 

 

「……ッ!? これは――何ですか、この反応は!? 既存の『色彩』によるデータの書き換えログとも、アトラ・ハシースの箱舟が本来持っている自動防衛システムとも全く異なる……未記述の、特異不条理波形です! 観測リソースが、ノイズによって一瞬で飽和しそうになっています!」

 

 

 ヒマリの声から、先ほどまでの余裕が完全に消え去る。AMASの演算コアが、見たこともない負荷によって悲鳴を上げ始めていた。

 

 

「構造の解析を試みているけれど……ダメだわ。因果の連鎖が、数式の根底から完全に破綻している。幾何学的なアプローチも、ミレニアムが誇る古代クァンタムの超演算理論も、まったく通用しない……! まるで、世界の記述そのものを、外側から無理やり消しゴムで消し去ろうとするかのような不連続なエラーよ!」

 

 

 リオの通信の声が、かつてない焦燥と戦慄に揺れていた。彼女の構築した完璧な予測モデルが、文字通り「存在しない数式」によって次々と崩壊していく。

 

 

「……セイカ、アカネ。船の正面、空間の位相が完全に狂い始めてる。レーダーの座標軸が完全に反転した。このまま進むと、ソラノミの艦体そのものが、空間の裂け目に巻き込まれて圧壊する」

 

 

 カヨコの冷静な声の中にも、明らかな危機のログが刻まれていた。メインモニターに映し出された漆黒の宇宙の先――そこには、光すらも歪んで捻じ切れるような、不気味な空間の「歪み」が、巨大な渦となって発生し始めていた。

 

 リオの解析すら届かない未知の闇。

 予知を持つセイアが、静かに、ゆっくりと目を開けた。その視線の先にあるのは、ただの破壊ではない。「本当の終焉」の、そのさらに奥底に眠る不条理。

 

 

「……視えるのだよ。箱舟の深奥で、まだ誰の記録にも残されていない終焉が、静かに目を覚まそうとしている。それは私たちの未来を断ち切ろうと、その暗き手を伸ばしているようだね。けれど、未来とは定められたものではない。……だからこそ、私たちは進むのだよ」

 

 

 それが一体いかなる脅威なのか。これから突入するアビドスやゲーム開発部、美食研究会たちの前に、どれほど絶望的な闇が立ちはだかるのか。それは、キヴォトスのすべての記録を以てしても、セイアの未来視を以てしても、未だ完全には見通すことができなかった。

 

 しかし――。

 宇宙戦艦ソラノミの艦橋の最前方に立つ天野江セイカは、その空間の歪みを正面から見据えながらも、そのヘイローの回転を、ただの一度も乱すことはなかった。

 

 

「……問題ありません。航路のノイズ、未来の破綻……すべて、私の平熱の因果によって上書きします」

 

 

 セイカの平熱の声が響いた瞬間、彼女の背負うメテオストライカーから、そして宇宙戦艦ソラノミの全方位の外殻から、これまで以上にまばゆい、そして力強い緑色のルミナス粒子が爆発的に噴射された。

 

 

ドォォォォォォンッ!!!

 

 

 空間の裂け目を、その圧倒的な質量と光の障壁によって力技でねじ伏せ、ソラノミは一切の速度を落とすことなく、垂直に、漆黒の宇宙のさらに奥深くへとその進路を突き進めていく。

 どんな未知の不条理が待っていようとも、どんな暗黒の未来がログを書き換えようと関係ない。先生がここにいて、最高の仲間たちがこの船に乗っていて、そして空見観測研究部という「家族」がこの盾を握っている限り、ソラノミが止まる理由など、この世界のどこにも記述されていなかった。

 

 ソラノミは、緑色の美しい光の翼を漆黒の真空に広げながら、静かに、しかし絶対の因果を伴って航路を進む。

 

 遠く彼方――。

 漆黒の深淵の中で、今はまだ小さく、しかし不気味な絶対の終焉の記号として、その威容を現し始めた《アトラ・ハシースの箱舟》の影を目指して。

 

 キヴォトスの日常を取り戻すための、最後の戦いは、静かに、そして圧倒的な不条理をその幕の向こうに孕みながら、今まさに本当の開戦を迎えようとしていた。

 

 

 

 

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