未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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色彩に抗う青空

 

 

 ハープーンによって手繰り寄せられた一本の航路――物理法則を無理やり繋ぎ止めた光の接続ラインの上を、宇宙戦艦ソラノミは進んでいた。

 一歩外に踏み出せば、そこは空間そのものが融解し、存在という定義すら消去されかねない赤黒い死の嵐。ハープーンの頑強な結合チェーンが、空間のねじれに干渉されて火花を散らしながら、凄まじい超常の振動を船体へと伝えてくる。キィィィィン、とブリッジの金属フレームが耳障りな高音を立てて軋んでいた。

 

 

「ハープーン接続、依然としてテンションは限界値を維持! ですが……艦首因果障壁の摩耗速度が想定の1.4倍に達しています!」

 

 

 ユウカが、手元のコンソールに表示される摩耗グラフと格闘しながら、大声を上げた。電卓アプリの青いログが、計算不能のエラーコードを次々と吐き出している。

 

 

「このまま境界領域に進入すれば、内部に到達する前に障壁が摩耗し尽くします! リオ会長、何とかなりませんか!? 空間の密度を再定義して、摩擦係数を引き下げるための数式は――」

 

『……不可能よ、ユウカ』

 

 

 ディープデータリンクを介したリオの音声は、冷静でありながらも、一歩も引けない崖っぷちに立たされている焦燥を孕んでいた。

 

 

『現在、ソラノミが前進しているのは、ハープーンという物理的な杭によって歪曲場に「無理やり穿った細い穴」の中だけ。その穴の周囲を囲むのは、箱舟が発する絶対的な拒絶の意志――すなわち神秘、色彩、因果が限界まで超高密度に圧縮された混沌。これをミレニアムの既存の数学的定義で平滑化しようとすれば、演算スレッド自体が空間の不条理に呑み込まれて消失するわ。……今の私たちにできるのは、天野江セイカが繋いだこの細い糸を、ただ信じて限界出力で走り抜けることだけ』

 

「私の誇るべき天才的な頭脳をもってしても、この空間歪曲場の奥底から漏れ出るエネルギー波形は、全くもって『美しくない』としか表現できませんね」

 

 

 ヒマリは、コンソールから流れる狂ったようなエラーログを、自身の細い指先で素早くフィルタリングしながら、深くため息をついた。

 

 

「キヴォトスにおけるどの神秘の文脈にも該当しない、歪んだ色彩の記述。まるで、この世界そのものを憎悪し、しかし同時に強く求めているかのような、極めて不愉快で、そして痛ましいまでの矛盾に満ちています。……先生、この先にあるのは、単なる『防衛機構』ではありません。あれは、もっと根源的な――」

 

 

 ヒマリが言葉を紡ぎ終えるより早く。

 

 

「――静かに」

 

 

 セイカの、氷の結晶のように平徹で静かな声が、ブリッジの喧騒を文字通り一瞬で凍りつかせた。

 セイカは正面の極厚因果ガラスの風防を見つめたまま、微動だにしない。彼女の背後で規則正しくホバーマウントされていた6基のフィンファンネルが、粒子一つ出さずにピきりとその動きを止め、それぞれが前方の一点に向けて鋭い銃口を固定した。

 

 

「……前方の空間、記述の書き換えが始まります。何かが、現れます」

 

 

 セイカが捉えたのは、数秒後に確定する「存在の重なり」。

 彼女のヘイローが静かに自転の周期を変え、そのルミナス・コアが不条理な因果の接近を知らせるかのように、音もなく、しかし張り詰めた緊迫感を伴って明滅した。

 

 次の瞬間、ソラノミの前方、ハープーンの光の道のド真ん中で、空間が濁った水面のように大きく、悍ましく波打った。

 赤黒い色彩の霧が立ち込め、境界領域の光が不自然に折れ曲がる。その光の死角から、まるで深海から浮かび上がる死者のように、一人の少女が静かに、そしてあまりにも唐突に姿を現した。

 

 その少女の姿がメインモニターに、そして正面の風防の向こう側に映し出された瞬間、ブリッジは文字通り「最後の静寂」に包まれた。

 

 

「……え?」

 

 

 誰かが掠れた声を漏らした。それがユウカのものだったのか、それとも後方で息を呑んだアコのものだったのかはわからない。

 

 そこに立っていたのは、アビドス対策委員会の砂狼シロコに酷似した少女だった。

 しかし、その姿はあまりにも異質だった。

 かつて先生がよく知る、あのアビドスの青空の下で軽快に自転車を走らせていたシロコの面影は、その全身を覆う悍ましい色彩の泥と、砂に塗れたような漆黒の装束によって、見る影もなく歪められている。彼女の頭上に浮かぶヘイローは、崩壊しかけた因果律を示すかのように細かく異常振動し、トゲを周囲の空間へと突き刺していた。

 

 突然の出現。それも、キヴォトスを滅ぼそうとするアトラ・ハシースの箱舟の、その絶対的な防壁の内側から現れたのが「彼女」であるという事実。

 誰も動くことができなかった。レナも、いつもなら「不審者発見!」と叫んで武器を構えるはずの場面で、その少女が纏う圧倒的な「死」と「悲哀」の気配に圧倒され、ただ銃を握り締めたまま硬直していた。

 

 少女――シロコ*テラーは、無機質な、しかし世界のすべてを見通したかのような冷徹な瞳で、ソラノミの艦橋を、そして指揮卓に立つ「先生」を真っ直ぐに見つめていた。

 

 

「……先生」

 

 

 シロコの声が、ソラノミのスピーカーを介さず、ブリッジにいる全員の脳裏に、直接因果の響きとして届いた。それは驚くほどに静かで、どこか懐かしく、そして胸が締め付けられるほどに冷たい声だった。

 

 

「……まだ、引き返せる」

 

 

 彼女の周りで、空間がキリキリと音を立てて軋んでいる。

 

 

「これ以上進んではいけない。この先にあるのは、先生たちが知るような救いではない。……すべてが壊れてしまう。キヴォトスも、あなたたちの絆も、すべてが、この箱舟の記述の前に瓦解する。だから、戻って」

 

 

 その言葉は、純粋な「脅迫」ではなかった。

 そこには、かつて先生を信じ、アビドスを愛していた一人の少女としての、切実な、そして痛ましいまでの「警告」が混ざり合っていた。

 

 先生は、自分の胸の奥が引き裂かれるような痛みに襲われるのを感じた。

 目の前にいるのは、シロコだ。だが、自分が知るシロコではない。それでありながら、彼女を構成する一番深い魂の部分は、やはりあの「砂狼シロコ」その人であることを、先生の直感が確信していた。

 

 先生は、ブリッジの指揮卓から静かに一歩を踏み出した。

 

 

「先生、危険です!」

 

 

 ユウカが思わず先生の袖を掴もうとしたが、先生は優しくその手を解き、風防のギリギリのところまで歩み寄った。防風ガラスの向こう、わずか数メートルの真空の先で浮かぶ、色彩に汚れた少女に向けて、真っ直ぐに手を伸ばすように呼びかける。

 

 

"……シロコ。もう戻ろう。君のいるべき場所へ、一緒に帰るんだ。アビドスのみんなも、君を待っている"

 

 

 だが、シロコは哀しげに、そして冷徹に、小さく首を横に振った。

 

 

「私は……もう戻れない。私の世界は、もうどこにもないから。私を定義している因果は、この色彩と、このアトラ・ハシースの箱舟の終わりだけ。私はもう、戻れるような存在ではないんだよ、先生」

 

 

 

_________

 

 

 

 

 

 その対峙を、空見観測研究部の部員たちはそれぞれの瞳で静かに、しかし深く見つめていた。

 

「……セイカさん」

 

 

 アカネが、いつもの穏やかな微笑みを消し、真剣な表情で隣に立つセイカを見つめた。

 

 

「彼女の因果波形……どこか、歪ですが」

 

「……ええ」

 

 

 セイカは瞳を走らせ、シロコを取り巻く情報の奔流を極限まで解析していた。

 

 

「箱舟の絶対的なシステム記述に侵食され、色彩の泥に塗れている。ですが……その一番奥にあるコア、因果の『結び目』だけは、未だに完全な書き換えを拒んでいる。……彼女を繋ぎ止めているのは、プログラムでも、箱舟の意志でもありません。あれは、純粋な――」

 

「お父さんの言う通りです」

 

 

 ケイの赤い瞳が、セイカのログと同期して明滅する。

 

 

「敵対存在としての登録は認められますが、その行動原理に『破壊』を目的とするプログラムの最適化が見られません。彼女の未来予測ベクトルの終着点は、先生を拒絶することではなく……先生を『守る』ことに収束しています」

 

「……ふむ」

 

 

 作戦司令フロアの特等席で、セイアはゆっくりと扇子を閉じ、その知性豊かな瞳をシロコへと向けた。彼女は、3人が織りなす完璧な観察眼を温かく見守りつつ、同じ空見観測研究部の最高学年として、そしてケイの親友として、この不条理な対峙の「本質」をその神秘的な言葉で紡ぎ出した。

 

 

「実に、痛ましくも愛おしい因果の迷い子だね。……セイカ、アカネ、ケイ。お前たちの言う通り、あの娘は決して、この世界を滅ぼすための冷酷な『刃』としてそこに立っているわけではない。むしろ、自らがその刃となることで、愛する者をこの破滅の記述から遠ざけようと、必死にその小さな両手を伸ばしているのさ」

 

 

 セイアはゆっくりと歩み寄り、先生の背中をその凛とした視線で後押しするように、静かに微笑んだ。

 

 

「神託などという安っぽい予言を持ち出すまでもない。……先生。あの娘は、君がその手で救い上げるべき『未来』の記述そのものだ。ここで君が引き返せば、あの娘は本当の意味で、この不条理な箱舟の虚無へと消えてしまうだろう。……どうする? 君の、その一人の人間としての、そして指揮官としての『選択』を聞かせてほしいね」

 

 

 セイアの、賢者としての格調高い言葉が、ブリッジの空気の重さを一気に変えた。

 先生は、セイアの言葉に深く頷き、再び風防越しにシロコを見つめた。

 

 

「来ないで……!」

 

 

 シロコの声が、今度は明確な「揺らぎ」を伴って震えた。

 

 

「本当に、戻れなくなる。私を壊して、先生自身も壊れて、そうして手に入る未来なんて、どこにもない。……お願いだから、来ないで、先生!」

 

"いいや、進むよ、シロコ"

 

 

 先生は、迷わずにシロコの瞳を真っ直ぐに射抜いた。

 

 

"君がそこにいるからね。君が泣いて、一人で傷つきながら私たちを止めようとしているなら、私は君を置いていくことなんて、絶対にできない。君を取り戻して、一緒に未来に帰るんだ。……それが、私の選択だ"

 

「――ッ」

 

 

 シロコは、完全に言葉を失った。

 その言葉は、かつて彼女が最も求めていた、しかし決して得られなかった「別の世界の先生」の、魂の記述そのものだった。彼女の崩壊しかけていたヘイローが一瞬だけ、かつての美しい青空の色を取り戻すかのように、純粋な青い閃光を放って激しく明滅した。

 

 

「……嘘つき。そんなこと言ったら、また……また、私は諦められなくなる」

 

 

 シロコは、溢れそうになる感情を無理やり押し殺すように、色彩の霧の中へとゆっくりと後退していった。彼女の姿が、箱舟の絶対的な因果の歪みの奥へと溶けていく。

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

 消え際、風のささやきよりも小さな、誰の耳にも届かないはずの謝罪の声が、ソラノミのブリッジの静寂に、確かに、いつまでも残響として響き渡っていた。

 

 

 

_________

 

 

 

 シロコが消えた境界領域には、再び重く、しかし先ほどとは全く異なる「覚悟」に満ちた静寂が流れた。

 先生は、シロコが消えた空間をじっと見つめた後、ゆっくりと振り返り、ブリッジの全乗組員を見渡した。その瞳には、もう一ミリの迷いも残されていなかった。

 

 

"……行こう。みんな"

 

「了解です、先生」

 

 

 セイカが応じた。

 彼女の右手には、あの超巨大なメテオバスターライフルが再びしっかりと握られていた。粒子を一切出さない無機質な存在感でありながら、それが湛える破壊の記述は、今や箱舟そのものを両断するに足る臨界点に達している。

 

 

「突入経路、空間歪曲場の最小抵抗ポイントを特定。ケイ、セイア、全システムを突入モードへ移行させてください」

 

「はい、セイカさん。……ルミナス・コア、出力150%まで強制過給。エネルギー供給ライン、完全に安定しています」

 

「お父さんの未来視と、お母さんの供給、そして私の補助演算……3つの因果スレッドが完全に重なりました。……いつでもいけます、先生。お父さんを信じて、前へ」

 

 

 ケイの瞳に、極大の演算ログが満ちていく。

 

 

「さあ! 各員、これが最後の突入です!」

 

 

 アコが、襟を正し、全艦のスピーカーに向けて凛とした、しかしどこか誇らしげな声を張り上げた。

 

 

「突入班、および防衛班、各戦闘配置を最終確認! これより箱舟内部の未知の敵対存在をすべて排除し、先生の進む道を完璧に維持しなさい! 泣いても笑ってもこれが最後です。一歩も退くことは許しません!」

 

「通常航路の障壁、完全無力化を確認〜」

 

 

 モモカが、コンソールを叩きながら不敵に笑う。

 

 

「リン先輩、もうどこをどう通っても大丈夫だよ。ソラノミを邪魔するものは、何も残ってないからね」

 

「……ええ。連邦生徒会、行政手続組織首席として、これより最終作戦の開始を宣言します」

 

 

 七神リンの静かな、しかし絶対的な命令が、ソラノミの全区画へと響き渡った。

 

 

「全艦、衝撃に備えよ! 目標、アトラ・ハシースの箱舟内部――突入!」

 

「……了解」

 

 

 防衛班の衣斐レナは、自らの武器のセーフティを解除し、正面の風防の向こうに迫る巨大な壁を、鋭い瞳で見据えた。

 

 内面では相変わらず尊さによる大発狂を限界まで繰り広げながらも、レナは顔を真っ赤にしてフンスと鼻を鳴らし、ツンとした厳しい表情を維持して先生の背後を固めるのだった。

 

 

__________

 

 

ドンッッッッッ!!!!!!

 

 

 再加速のGが、ブリッジの乗組員全員の身体に強烈にかかる。

 ハープーンの後部から伸びる固定アンカーが、歪曲場を真っ二つに引き裂きながら、ソラノミをアトラ・ハシースの箱舟の内部へと力強く牽引していく。

 一歩外に出れば、神秘と色彩と因果が擦れ合い、物理法則が崩壊して存在そのものが消滅する極限の不条理。ソラノミの艦首因果障壁が、左右から迫る赤黒い嵐と激しく衝突し、摩擦音のない真空の宇宙で、目も眩むような因果の火花を爆発的に散らせる。

 

 

ガガガガガガガガガガガッッッ!!!!

 

 

 ハープーンが穿った外殻ハッチを、ソラノミはその強固な艦首装甲によって、物理的にブチ破って内部へと進入した。

 一瞬、ブリッジの全モニターが激しいホワイトアウトを起こし、視覚的なログが完全に消失する。因果律の激しい干渉波が、少女たちのヘイローに、そして先生の五感に、強烈な衝撃波となって襲いかかった。

 

 だが――。

 誰も、コンソールから指を離さなかった。

 誰も、その瞳の光を曇らせることはなかった。

 

 不気味な色彩の霧を、因果の拒絶を、ソラノミはその艦体すべてをもって、完全に突破した。

 ホワイトアウトがゆっくりと収束し、モニターの視覚ログが再定義された次の瞬間――。

 

 少女たち、そして先生の視界のすべてを覆い尽くしたのは、漆黒の宇宙でも、荒涼としたアビドスの砂漠でもなかった。

 

 それは、幾何学的でありながらも、神聖な静謐さを湛えた、果てのない未知の巨大変電空間。

 アトラ・ハシースの箱舟の「心臓部」――。

 

 ついに到達した、最終決戦の舞台。

 ここに、世界を終わらせるための記述が、そしてそれを書き換えるための少女たちの絆が、すべて揃った。

 

 先生がここにいて、空見観測研究部の不可侵の絆がここにあり、ソラノミに命を預けてくれたキヴォトスのすべての生徒たちが共にいる限り、どんな不条理の終わりであっても、必ずその手で、愛おしいいつもの「日常」のログへと書き換えてみせる。

 

 宇宙戦艦ソラノミは、ハープーンによって手繰り寄せた絶対の勝利への航路を進み、ついに世界の命運を賭けた最終決戦の深奥へと、堂々とその艦体を突入させるのだった。

 

 

 

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