アトラ・ハシースの箱舟の外殻を、ソラノミの強固な因果障壁がブチ破ったその瞬間。
少女たちが待ち受けていたのは、単純な「物理的突入」の衝撃ではなかった。
――グ、ニャリ、と。
世界の「記述」そのものが、巨大なプレスの下で不自然にねじ曲げられるかのような、悍ましい感覚が乗員全員の脳髄を直撃した。
「――ッ!? 重力制御ログ、ロスト! 船体の垂直軸が……いえ、上と下の定義そのものが、1ミリ秒ごとに反転を繰り返しています!」
ユウカが、自身のコンソールにへばりつくようにして悲鳴を上げた。彼女の電卓アプリの画面は、重力の反転を処理しきれずに、幾何学的なエラーコードを弾丸のように吐き出し続けている。
ソラノミのブリッジを、重く冷たい静寂の代わりに、聞いたこともない「不条理な音」が満たした。それは金属の軋みではない。空間そのものが、細いガラスの繊維のように擦れ合い、パキパキと音を立てて微細に砕けていくような、生理的な嫌悪感を誘う高音だった。
「視界情報の更新が追いつきません! 前方の変電空間、通路の構造、壁の配置が、まるでバグったモニターのように目まぐるしく書き換わっています!」
音だけではない。重力も、光も、そして少女たちのヘイローさえも、その物理的な「定義」を箱舟の不条理なシステムによって激しく侵食されていた。
「……観測ログを強制更新。これは、通常の空間歪曲を遥かに超越しています」
ヒマリのモニターには、ソラノミを取り囲むようにして急速に展開していく、無機質で、幾何学的でありながらも、狂気を孕んだ「多次元の網の目」が映し出されていた。
「箱舟の内部構造そのものが、私たちの進入という『エラー』を排除するために、空間の相を強制的に組み替えているのです。……美しくない。実に見事なまでに、この世界に対する暴力的な再構築です。先生、ソラノミの構造維持システムが、この多次元干渉に耐えきれ――」
『……警告するわ、全員、手近な固定グラブを掴みなさい!』
リオの声が、通信ノイズを力ずくで引き裂いてブリッジに響いた。
『箱舟のコアが、ソラノミの質量そのものを「矛盾」として検知した。空間干渉のレベルが臨界点を突破――このままでは、船体そのものが異なる次元の断層へと引き裂かれ――』
リオの警告が途切れる。
次の瞬間、ブリッジの、そしてソラノミの全区画の視界が、すべてを白く塗りつぶす「極大の閃光」によって支配された。
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キィィィィィィィィン――
鼓膜の奥に、不快な高音が残響としていつまでも響いていた。
白い閃光がゆっくりと収束していった時、そこにはもう、ソラノミの慣れ親しんだブリッジの光景は存在しなかった。
「……う、あ……」
砂狼シロコに酷似したあの少女が消えた境界の先。
強制的な転送プログラムによって、ソラノミの突入部隊は、文字通り「バラバラ」に、箱舟の異なる区画へと弾き飛ばされていた。
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無機質で、不気味なほどに静まり返った、果ての見えない通路。
壁は鈍い銀色の幾何学的なプレートで構成され、一定の間隔で、赤黒い因果の光が鼓動のように脈打っている。
「……ふぅ。一瞬、アビドスの砂嵐の中に突っ込んだかと思ったよ」
ホシノは、自らの愛用する巨大な盾を床に突き立て、砂にまみれたような通路の奥を見据えながら、ふぅと小さくため息をついた。そのヘイローは穏やかに回っているが、その鋭い瞳は、周囲の空間から漂う「異常な神秘」を完璧に警戒していた。
「みんな、ケガはないかい? ……アヤネちゃん、そっちの状況はどう?」
「……はい、ホシノ先輩。船体からの強制転送による、バイタルデータの乱れは最小限です。全員、無事です」
アヤネは、自身のタクティカルバイザーのログを素早く走査し、ノイズまみれの画面を見つめながら応じた。
「ですが……完全に孤立しています。ソラノミのルミナス・コアとの同調ラインは、極めて細いノイズ混じりの通信スレッドが1本繋がっているだけ。……モモカさん! 聞こえますか!?」
『あー、あー! テス、テス! ……うん、繋がった! アビドスのみんな、無事ー!?』
通信回線の向こうから、由良木モモカの焦ったような、しかしどこか安心させる平熱の声が響いた。
『今、ソラノミのメインフレームから、みんなの転送座標を走査してるんだけど……あちゃー、やっぱりね。みんな、完全にバラバラの区画に弾き飛ばされちゃってる。まさに「強制排除プログラム」って感じ。でも、安心して。先生のいる管制室との回線は、このモモカ様が執念で維持してあげるから!』
「……了解だよ、モモカちゃん」
ホシノはショットガンの機関部をガシャリと引き、頼れる先輩としての不敵な笑みを浮かべた。
「散り散りにされたってことは、それだけ相手も私たちが集まるのを恐れてるってことだしね。……アビドス対策委員会、これより行動を開始するよ」
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「む、むむむ……! ここは一体、どこの隠しダンジョンですか!?」
アリスは、自身の身長ほどもある巨大なレールガン・スーパーノヴァを両手でしっかりと構え、周囲の無機質なデータベース区画を見上げた。
そこは、数千、数万もの「因果のアーカイブ」と思われる巨大な光の結晶が、幾何学的な棚に整然と並べられた、異様な空間だった。
「アリスの解析機能によりますと、ここのモンスターの平均レベルは測定不能! ですが、光の剣の出力は120%を維持、アリスのHPもMPも満タンです! 先生、聞こえますか!?」
「アリス、大きな声を出しちゃダメ! 敵にエンカウントしたらどうするの!」
モモイが、銃口を暗がりの通路に向けて叫んだ。
「ちょっとこれ、完全に最悪のパターンのやつじゃん! ボス部屋の前に強制的にイベントで分断されて、セーブポイントもないまま、それぞれ別のボスと戦わされるやつ! 開発者の性格が最高に悪いタイプのゲームだよ、これ!」
「……モモイ、落ち着いてください」
アリスが、タクティカルバイザーのデータをモモイに共有しながら、冷静に周囲を走査する。
「ここは確かに危険な構造をしていますが、箱舟のシステムの一部であることは間違いありません。……散り散りになった仲間たちのためにも、アリスたちが、この『東の区画』を攻略してみせます!」
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「……はぁ。不条理ですね」
ハルナは、自身の美しいライフルを優雅に肩にかけ、周囲の歪んだ、まるで廃墟となった厨房と変電施設が融合したかのような空間を見渡した。
「いくらアトラ・ハシースの箱舟といえども、これほど味気ない幾何学的な空間に私たちを閉じ込めるとは。……食に対する、そして美食の探求に対する、著しい冒涜と言わざるを得ません」
「ちょっと、ハルナ! のんきに美食の話をしてる場合じゃないでしょ!」
ジュンコが、自身のツインテールを激しく揺らしながら、持っていたサブマシンガンをガチャガチャと弄んだ。
「なんでこんな、何も食べ物がないような薄暗い場所に転送されなきゃいけないのよ! お腹空いてきちゃったじゃない!」
「……ねぇ」
フウカは、自身の頭を抱えながら、その場にへたり込んでいた。彼女の側には、なぜか一緒に転送されてしまった給食部の調理器具や、大きな包丁が転がっている。
「もう……本当に帰りたい……。なんで私まで、こんな世界の終わりのような場所に拉致……じゃなくて、転送されなきゃいけないの……。でも……」
フウカは、ゴクリと唾を飲み込み、その場に転がっていた重い包丁を、しっかりと握り直した。
「ここまで来たら、もうやるしかないわよね。……ハルナ、ジュンコ、イズミにアカリ。さっさとここを突破するわよ。……こんな不条理な場所、あんたたちが爆破しちゃえばいい!」
「うふふ、その意気ですよ、フウカさん。これより美食の、そして私たちの突破劇を開始しましょう」
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ソラノミの作戦管制室。
各チームの分断という最悪のログを受け取りながらも、アコは一切の取り乱しを見せず、その鋭い瞳でメインコンソールを走査していた。
「――各員の強制転送座標、すべて補足完了! 通信回線、ノイズフィルターを最大値に固定して維持しなさい!」
アコの毅然とした号令が、ノイズだらけの管制室に響き渡る。
「アビドス、ゲーム開発部、美食研究会、全チームのバイタルおよび弾薬残量ログをリアルタイムで同期中! 各員の現在地は、箱舟内部の異なる特異点区画です。……先生、状況は極めて厳しいですが、各チームともに冷静に現地の索敵を開始しています!」
「……解析データを更新しました」
ヒマリの画面に、箱舟の内部立体マップが展開される。そこには、赤く不気味に明滅する「3つの極大の因果コア」が、異なる区画に存在しているのがはっきりと映し出されていた。
「この箱舟の構造は、単一のホストコンピュータによって制御されているわけではありません。……ここです。箱舟の内部に、3つの『エンジンユニット』が分散して配置されており、これらが互いにエネルギーを供給し合うことで、箱舟全体の存在を維持しています」
『……そういうことね、ヒマリ』
リオの解析が、ヒマリの言葉を裏付ける。
『この3つのエンジンユニットは、それぞれが独立した再構成プログラムを有している。……つまり、1つや2つを個別に破壊したところで、残されたエンジンが数秒後には破壊されたユニットを「記述の矛盾」として自動修復してしまうわ。……攻略のための唯一の最適解は――』
「――3つのエンジンユニットを、分断された各部隊が、同時に、一撃で破壊することだね」
管制室の特等席で、セイアはゆっくりと賢者のような笑みを浮かべた。彼女は、3人の家族(が織りなす完璧な観測データを見つめつつ、その神秘的な口調で物語の行く末を紡ぎ出した。
「ふふ、実に不条理で、そして美しいまでの『試練』じゃないか、セイカ。……箱舟のシステムめ、私たちの絆をバラバラに引き裂くことで勝利を確信したようだが、それは大きな間違いだ。……散り散りになったからこそ、それぞれの『絆のログ』が、同時に、同じ未来を目指して鼓動を同期させる。……これは、キヴォトスのすべての生徒たちの、そして先生の『選択』が試される、神聖な舞台の幕開けというわけだね」
格式高い口調の裏に、空見観測研究部の部員たち、そして先生に対する絶対的な信頼を滲ませる先輩の言葉。その存在は、緊迫した管制室の空気を、何よりも強固に繋ぎ止めていた。
「お父さん。セイアの言う通り、各エンジンユニットの稼働状態、および物理障壁の同調率を、私の演算スレッドで常に走査し続けます」
ケイの青い瞳が、セイアに向けて親愛を示すように、そっと明滅した。
「お母さんも、供給ラインのバッファを限界まで開けて待機していますよ、お父さん。……どんな遠く離れた空間であっても、お父さんへのエネルギー同調は、1ミリ秒の遅延もなくお届けします」
アカネの完璧な微笑み。
お父さんがどこへ行こうとも、お母さんと娘の絆は、次元の壁すらも突き抜けて繋がっている。その絶対的な「我が家」のログが、ソラノミのメインフレームを通じて、静かに、しかし力強く稼働していた。
__________
一方――。
ソラノミの突入部隊の中で、最も深奥に近い「最深部への境界通路」に、たった一人で転送された少女がいた。
天野江セイカ。
彼女は、周囲を赤黒い因果の嵐が吹き荒れる無機質な空間の中、平熱のまま、自らの巨大なメテオバスターライフルを静かに握り締めて立っていた。
彼女のヘイローは、不気味な箱舟の干渉を一切受け付けることなく、完璧な自転周期を維持している。彼女の空見の波は、戦場全体の情報を完璧に捉えていた。
"……セイカ"
通信回線から、先生の、彼女を気遣う優しくも切実な声が届く。
「……はい、先生。問題ありません。私の波は、この箱舟のすべての因果の網の目を、完璧に補足しています」
セイカは、自身の目の前に浮かび上がる「全戦域の因果マップ」を、ソラノミの管制室へ、そして各部隊のデバイスへと同期させた。
彼女の指先が、空間のノイズを平熱のまま払いのけ、最適な「攻略ルート」を次々と記述していく。
「これより、分断作戦を開始します。……アビドス対策委員会は、この箱舟の『中枢ルート』へ。ホシノ先輩の防御力と、全員の突破力があれば、最も強固な防衛機構をねじ伏せることができます」
『了解だよ、セイカちゃん。中枢は私たちに任せなさい』
ホシノの頼もしい声が、ノイズの向こうから響く。
「……ゲーム開発部は、東の『データ管理区画』へ。アリスの光の剣の出力と、モモイたちの臨機応変なゲームセンスがあれば、あの幾何学的な迷宮の記述を、力ずくで書き換えることができます」
『はい! アリスにお任せください! クエストクリアまで、一瞬です!』
「……美食研究会は、西の『物質転送・エネルギー配管区画』へ。……ハルナたちの、あらゆる常識を逸脱したテロ行為……いえ、突破力があれば、箱舟のエネルギー供給網を最も効率的に遮断できます」
『ふふ、お任せください、セイカさん。私たちの美食の探求を邪魔するシステムなど、存在してはならないのですから』
セイカの、淡々としていながらも、各員の「特性」と「因果の強さ」を完璧に見極めたルート割り振りに、誰も、一言の異論すら唱えなかった。彼女は、ただの「兵器」ではない。戦場全体の因果を紡ぐ、平熱の指揮官だった。
「――そして、私は」
セイカは、正面の最も深く、最も暗い最深部へと続くゲートを見据えた。
「単独で、最深部の『記述中枢』へと向かいます。……箱舟のホストシステムそのものを貫きます」
「(ちょ、ちょっと待って……!!!)」
防衛班の衣斐レナは、通信回線の向こうで、自身の胸を両手で強く押さえながら、内面で大発狂の極致に達していた。
「……ふん。勝手に行きなさいよ。……後ろは、私たちが完璧に守ってあげるんだから」
レナは顔を真っ真っ赤にして、ぶっきらぼうに銃口を構え直すのだった。
"……セイカ"
先生は、再び通信越しに、最深部へと一人で進む少女の名前を呼んだ。
"無理はしないで。君のログが、僕たちの最大の光なんだから。必ず、みんなで一緒に帰ろう"
「……了解です、先生」
セイカの瞳の奥に、ほんのわずかだけ、アカネの淹れる紅茶のような、温かで愛おしい「家族の光」が宿った。
「……終わらせてきます」
__________
「――全チーム、作戦準備完了ですね!?」
アコの、限界まで張り詰め、しかし最高の熱量を孕んだ声が、全回線を同期して箱舟内部の全区画へと響き渡った。
「泣いても笑っても、これが本当に、この世界を終わらせる不条理に対する、私たちの『最後の回答』です! 各自、目の前のエンジンユニットを、愛おしい日常のために、完璧に粉砕しなさい! ……作戦、開始!!」
「――了解!」
アビドス対策委員会のショットガンが、暗闇を切り裂いて火花を散らした。
ゲーム開発部のレールガンが、幾何学的な結晶を貫いて青い閃光を放った。
美食研究会の爆薬が、退屈な配管区画を美しく彩るように爆発した。
そして――。
セイカは、その華奢な体躯で、最深部へと続く暗闇のゲートへと、音もなく滑るようにして突入していった。その背後で、6基のフィンファンネルが、未来の記述を切り開くようにして鋭く自転を開始する。
分断された仲間たち。
しかし、彼女たちのヘイローが放つ光は、この星なき深淵の不条理な迷宮の中で、決して消えることのない、一つの美しい「星座」を形作っていた。
アトラ・ハシースの箱舟。その心臓部を破壊するための、少女たちと先生の、最後の、そして最も神聖な分断作戦の幕が、今、完全に切って落とされた。