ソラノミの強制転送プログラムがもたらした白い閃光が収束したとき、彼女たちが立っていたのは、命を育む大地の温もりとは最もかけ離れた「無機質の極致」とも言える空間だった。
アトラ・ハシースの箱舟、西区画――。
頭上を這い回るのは、太い血管のように脈打つ、赤黒い因果エネルギーが流れる無数の配管。壁面からは不気味な冷却液が滴り落ち、機械が発する耳障りな低周波の駆動音が、胃の奥を不快に揺さぶる。
「……はぁ。ひどい湿気、それにこの不快な機械油の臭い。とてもではありませんが、健全な胃袋が求める環境ではありませんね」
ハルナは、自身の白く美しい制服の袖に付着した不条理な煤を親指でそっと払い、酷く不愉快そうに眉をひそめた。その手には、まるでディナーのフォークを握るかのような優雅さで、愛用のスナイパーライフルが握られている。
「まったくです! 転送されるなら、せめて焼きたてのパンの香りがする場所が良かったです!」
ジュンコが、自身のツインテールをぷんぷんと振り回しながら、サブマシンガンのストックを肩に当てて周囲を警戒した。彼女のヘイローは、不機嫌さを表すかのようにピキピキと鋭い光を放っている。
「ちょっとハルナ、ジュンコ、アカリ、イズミ! のんきに文句を言ってる場合!?」
フウカは、自身の頭を抱え、半泣きになりながら叫んだ。彼女の隣には、強制転送の衝撃で一緒に弾き飛ばされてしまった、給食部の巨大な寸胴鍋と、お玉が虚しく転がっている。
「周囲のセンサーに、ものすごい数の敵対反応が出る! まずは落ち着いて、この区画の構造を分析するところから! ソラノミの管制室から送られてくるルートログを確認して、安全な迂回路を探すのが先決よ。いいわね、勝手に動かないで――」
「おやおや、フウカさん。そんな下準備ばかりに時間を取られていては、素材が腐ってしまいますわ」
ハルナは真顔で、しかしどこか恍惚とした表情を浮かべ、懐から音もなく巨大な高性能C4爆薬を取り出した。
「進路を塞ぐ障害があるのなら……ただ、取り除くだけです」
「待て待て待て待て!!!!」
ジュンコが目を見開いてハルナの手首を掴もうと飛びかかったが、ハルナの指先はすでに、平然と起爆スイッチを押し下げていた。
「美食の第一歩は、厨房の徹底的な清掃から。……お片付けの時間ですわ」
ズガァァァァァァァァァンッッ!!!!
真空の箱舟内部を、力ずくの物理衝撃と爆炎が吹き荒れた。
進路を塞いでいた幾何学的な防衛プレート、および展開を始めていた防衛ドローンの第一波は、ハルナが設置した極大の爆縮エネルギーによって、その構造記述ごと、跡形もなく粉砕されて四散した。
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ゲホゲホ、と煤煙の中で激しく咳き込みながら、ジュンコが煙を振り払って叫んだ。
「だから爆破するなって言ってるでしょーーー!! 防衛機構をまとめて吹き飛ばすのはいいけど、私たちの鼓膜まで吹き飛ぶところだったんだけど!?」
「ジュンコさん、声を荒らげてはいけません。雑味を排し、純粋な素材のみを残す。これが美食の、そして調理の基本ですわ」
ハルナは爆風で乱れた髪をそっと整え、何事もなかったかのようにすましている。
「お願いだから……お願いだから普通に進んでよぉ……」
フウカは完全に魂が抜けかけた表情で、寸胴鍋にすがりつきながら嘆いた。その隣で、アカリがクスクスと嬉しそうに袖で口元を隠し、イズミは爆破された機械の残骸へとトコトコと近づいていった。
チリチリと青い因果の火花を散らす、防衛ドローンの焼けた装甲板。
イズミはそれをじっと見つめ、人差し指を口元に当てながら、首を傾げた。
「……ねぇ、これ、食べられる?」
「食べないで!!」
フウカの、心からの悲鳴のようなツッコミが西区画に響き渡った。
「ちょっとイズミ!? あれはただの機械! 宇宙戦艦の防衛兵器よ!? 炭素も有機物も一グラムも含まれてないわよ!」
「えぇ〜? でもさ、ほら」
アカリが、焼けた装甲板から立ち上る、因果エネルギーの焦げた匂いをクンクンと嗅ぎながら、おっとりとした口調で言った。
「焼けた匂いはするけど……あんまりおいしそうじゃないねぇ、ハルナ。香ばしさが足りないというか、ちょっと不条理な味がしそう」
「食うな!!」
今度はジュンコが、イズミの襟首を掴んで引き剥がしながら叫んだ。
「あんたたち、世界の命運がかかった最終決戦の真ん中で、何を食べようとしてるわけ!? 胃袋の構造どうなってんのよ!」
爆煙とツッコミの応酬。
しかし、そのあまりにも「いつも通り」な美食研究会と給食部のやり取りに、ソラノミの冷徹な空気、箱舟が発する絶対的な死の緊張は、完全に和らいでいた。彼女たちがいる場所は、どれほど不条理な破滅の淵であっても、ただの「騒がしい食堂」へと書き換えられてしまうのだ。
__________
だが、箱舟のシステムも黙ってはいない。
侵入者の強制排除、および破壊された防衛ユニットの「記述の再構成」が開始され、西区画の全域に、赤い防衛アラートが鳴り響いた。
ウィィィィィィィン!!!!
通路の四方の壁がスライドし、そこから数千、数万を越える防衛ドローン、および多脚型の防衛兵器「シールドジェネレーター」が一斉に這い出してきた。
「防衛兵器の第二波、および第三波が急速接近! 全方位から囲まれてる!」
フウカがタクティカルバイザーのログを見ながら、大急ぎでお玉を構えた。
「アカリちゃん、左! ジュンコちゃん、前! 敵の射線に入らないで!」
「よーし! お腹も空いてイライラしてたところだし、全員まとめてお仕置きよ!」
ジュンコが不敵に笑い、サブマシンガンを両手に構えて前衛へと躍り出た。
突撃しながら引き金を引く。ババババババババババッ!!! と、彼女の放つ弾丸が、迫り来る防衛ドローンの装甲を正確にブチち破り、その回路を次々とショートさせていく。
「はい、お肉の火加減は強火が一番ですわ〜♪」
アカリは、自身の愛用する巨大なマシンガンを腰に抱え、狂暴なまでの連射速度で火力支援を開始した。
彼女の放つ重弾丸の嵐は、通路の壁ごと防衛兵器をなぎ倒し、西区画に「弾丸の雨」を降らせていく。その豪快な破壊っぷりとは裏腹に、アカリの表情はどこまでも穏やかで、おっとりとしたお姉さんの微笑みを崩さない。
「う〜、これを倒したら、今日の晩ご飯は何かなぁ……」
イズミは、敵の放つレーザー攻撃を軽快なステップで(まるでダンスでもするかのように)回避しながら、ショットガンを敵のゼロ距離でぶっ放した。
ドゴォン! とドローンを叩き潰しながら、彼女のヘイローは楽しげに自転している。
「終わったら、先生に美味しいハンバーガー奢ってもらおう! ね、ハルナ!」
「ええ、その約束、必ず果たしてもらいましょう」
ハルナは、前線で大暴れする3人の背後で、一切の焦りを見せずにスナイパーライフルを構えた。
彼女の瞳が、防衛兵器群のコアを完璧に捉える。
「……そこですわ」
パンッ!!!
ハルナが放った一発の弾丸は、アカリの弾幕の隙間をすり抜け、防衛ドローン群を制御していた「マスターユニット」のセンサーを寸分の狂いもなく踏み抜いた。
制御を失ったドローンたちが、互いに衝突し合いながら次々と爆破していく。
「みんな、突っ込みすぎ! ほら、右から狙われてるわよ! ジュンコちゃん、伏せて!」
フウカは、半泣きで叫びながらも、給食部としての完璧なサポート能力を発揮していた。
彼女が投擲した強化シールドが、ジュンコの背後に展開され、敵の放ったレーザーを完璧に弾き返す。さらに、フウカがその場で淹れた「特製栄養ドリンク」のナノマシンデータが、美食研究会全員のデバイスへと同期され、彼女たちの疲労を瞬時に回復させていく。
「ふふ、フウカさんのサポートは相変わらず完璧ですね。……これなら、フルコースの『メインディッシュ』まで、一気に駆け抜けられそうですわ」
ハルナは優雅にライフルをリロードし、爆炎の彼方へと、再び歩みを進めるのだった。
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数千の防衛兵器を文字通り「調理――物理的破壊――」し尽くし、西区画の最も奥深く、因果の波動が最も濃密に渦巻く変電プラットフォームへと到達した時。
彼女たちの目の前に、それは姿を現した。
「……デカすぎるでしょ、これ……」
ジュンコが、自身のサブマシンガンをだらりと下げ、呆然とした表情でそれを見上げた。
そこにあったのは、ソラノミのメインブリッジすらも凌駕するほどの超巨躯を持つ、箱舟の「西側エンジンユニット」。
幾何学的な銀色の円柱が何重にも重なり合い、その隙間からは、色彩の残滓を宿した赤黒いエネルギーの奔流が、ドクン、ドクン、と心臓の鼓動のような不気味な音を立てて噴き出していた。箱舟全体のエネルギー供給網が、この一つの杭へと集中しているのが、誰の目にも明らかだった。
「ええ。私たちの前に立ちはだかるメインディッシュに相応しい、見事な大きさですわ」
ハルナは、その巨大なエンジンユニットを見つめ、恍惚とした、しかしどこか冷徹な瞳を細めた。
「ねぇ、ハルナ、これって一人前?」
イズミが、エンジンユニットに近づき、その表面のエネルギーパイプをペロリと舐めようとした。
「食べないでって言ってるでしょーーー!!」
フウカがイズミの後頭部をハリセン――給食部特製――でパァンと叩き、力ずくで引き離した。
「いや、どう見てもこれ、五人前くらいはあるんじゃない? ハルナさん」
アカリは、エンジンユニットを品定めするように見つめ、人差し指を顎に当ててクスクスと笑う。
「誰が食うのよ、こんな質量兵器!!」
ジュンコが、全力のツインテールツッコミを炸裂させた。
__________
しかし――。
いつもの賑やかなやり取りの中、黒舘ハルナは、ゆっくりとエンジンユニットへと歩み寄り、その冷徹な機械の表面をそっと見つめた。
彼女のヘイローが、静かに自転を止める。
彼女の瞳の奥に宿る、圧倒的な「美食の探求者」としてのプライドが、箱舟のシステムを、その存在そのものを、真っ向から拒絶していた。
「……神秘、機械、虚構。……そして、この色彩の泥」
ハルナの声から、それまでの恍惚とした響きが完全に消え去り、極めて冷たく、鋭い「怒り」が滲み出た。
「何一つとして、調和していません。お互いの存在をただ不条理に押し込め、無理やり結合させているだけ。……これは、下処理すら怠った、極めて低俗な『ゴミ』ですわ」
ハルナは、ライフルをエンジンユニットの最も脆弱な因果の接合点へと真っ直ぐに向けた。
「世界を終わらせる装置だというのなら、せめて見る者を、味わう者を魅了する、至高のメニューであれ。……美食を、そしてこの世界の調和を侮辱するような存在に、私たちが与える慈悲など、一グラムも残されていません」
美食という、彼女の唯一無二の絶対的な価値観。
それによって、箱舟の絶対的な不条理を、ただの「まずい料理」として完全に否定した。
「……うん。壊すのには、私も120%大賛成!」
ジュンコが、そのハルナの怒りに呼応するように、自身のサブマシンガンを構え直した。
「こんな不味そうな機械、さっさと吹き飛ばして、先生と一緒に美味しいパフェでも食べに行こう!」
「ええ、セイカさんたちの未来視ログも、この瞬間の破壊を推奨しています〜♪」
アカリが、限界まで過給したマシンガンの銃口をエンジンへと向ける。
「イズミ、メインディッシュの調理開始だよ!」
「はーい! 早く壊して、美味しいハンバーガー食べに行こう!」
イズミのショットガンが、エンジンの物理外殻に照準を固定した。
「ああ、もう……! わかったわよ!」
フウカは、自身の頭を抱えながらも、寸胴鍋の全システムを「爆縮エネルギーのシールド展開」へと移行させ、最高峰の後方支援を展開した。
「お願いだから、この西区画ごと、私たちまで一緒に吹き飛ばさないでね! 全員、後方シールド展開! 調理開始です!」
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ドガァァァァァァァァァンッッ!!!!
ハルナが仕掛けた爆薬が、エンジンユニットのエネルギー接合部を正確にブチ破った。
アカリのマシンガンが、イズミのショットガンが、ジュンコのサブマシンガンの弾丸の嵐が、崩壊を始めたエンジンユニットのコアへと同時に突き刺さっていく。
西区画全体が、因果の崩壊と爆発の炎によって、赤く、そして美しく染まっていく。
美食研究会と給食部は、その炎の嵐の中、自分たちの未来を取り戻すための「大調理」を、笑顔で、そして最高に騒がしく開始するのだった。
――場面は転換する。
西区画の爆音を、通信ログの向こうで聞きながら。
アビドス対策委員会の進む中枢、ゲーム開発部の進む東のデータ管理区画、そして――天野江セイカがたった一人で進む、最深部へと。