私はソラノミの自室で、底の見えない昏睡の淵に沈んでいた。
「空見の波」――それは、数多の可能性の海から、確定すべき未来を無理やり掬い上げる、あまりに過酷な作業。
ケイとアリス、その両方が生き残る未来を割り出すため、私は自分の神経系が焼き切れるのも厭わず、並列演算を限界まで強行した。
その代償は、脳を直接灼かれるような激痛となり、今はただ、泥のような眠りの中に私を繋ぎ止めている。
ソラノミには今、私以外に誰もいない。
かつて「Key」と呼ばれたあの少女を、そして「アリス」という光を取り戻すため、アカネは先生たちと共に、死地であるエリドゥへと向かった。
静まり返った艦内には、私の苦しげな呼吸だけが、空虚に響いている。
「……アカネ……」
掠れた声で、無意識にその名を呼んでいた。けれど、冷たい空気の中に私の声に応える者はいない。
「(……ああ、そうか。彼女は……あの子たちを助けに、行ってしまったんだった……)」
自意識の境界線が融け落ちていく。私の意識は、深い、深い青の底へと沈んでいく。
現実の音も光も届かない、静寂と孤独だけが支配する「意味の空白」――深層意識の境界空間へと。ゆっくりと、水面のような世界で目を開ける。
ここには重力も、私を苛んでいた肉体的な苦痛も存在しない。ただ、どこまでも透き通った水のような青が、無限の平原となって広がっている。
「……ここは、私の内側か。それとも……過負荷で焼き切れた計算回路が見せる、美しいバグなのか……」
自分の手を見つめてみる。輪郭は曖昧で、まるで夢の残像のように頼りない。その時、鏡のように凪いでいた水面が、私の中心から静かに波立った。
「……ふふ。随分と深い傷を負っているね、観測士」
柔らかく、けれど悠久の時を経験したかのような、古風で優雅な少女の声。
私は、意識の底に潜んでいた人物に向けて、鋭い視線を投げかける。
そこに立っていたのは、金色の長い髪を揺らす、幻想的な少女。頭には柔らかそうな狐の耳。白い衣装を纏い、その瞳はすべてを見透かすような、穏やかで深い黄色を湛えていた。
「……あなたは誰ですか。私の記憶にあるミレニアムの生徒の中に、あなたのような神秘的なパラメータを持つ存在は登録されていませんが」
警戒を露わにする私を見て、金髪の少女はくすりと楽しげに笑った。
「私は百合園セイア。……君と同じように、望まぬ未来を『視て』しまう者の一人だよ。ここは、私たちのような『予言者』が、魂の摩耗を癒やすための空白地帯。現実という名の荒波から逃れて、束の間の休息を取る場所さ」
セイアと名乗った少女は、私の傍らまで歩み寄ると、私の顔を慈しむようにじっと見つめてくる。
「君は……天野江セイカ、だね。……驚くほど、冷たく、そして激しい孤独を抱えている。……空見の波、だったかな。それを、使いすぎたんだろう?」
心臓がわずかに揺れた。初対面のはずの彼女が、極秘事項であるはずの私の能力名を、あまりに正確に口にしたから。
「……どうして、それを。トリニティの『予言者』が、ミレニアムの観測士に一体何の用だと言うのです」
「用があるわけじゃない。ただ、共鳴したのさ。あまりに痛切な願いを込めて未来を視ようとする君の意志が、私の眠りを妨げたんだ」
セイアは静かに、水面へと腰を下ろした。
「予言者同士だから、言葉にしなくても伝わってくる。……君の胸の奥で燻っている、名前を持たない『大切な人』への想い。……今はまだ、一人で全てを背負い、使い捨てられる部品のように戦おうとしているね」
「……随分と、不躾なスキャンをするんですね。……私はただの観測士。キヴォトスに迫る不条理な脅威……その変数を一つでも多く確定させ、対処可能な形に演算する。その過程でリソースを使い切った……ただ、それだけのことです。コストとリターンの計算は、いつだって、あっています」
「それで、心が死んでもいいと?」
セイアは、悲しげに微笑んだ。
「君は、一人ですべてを終わらせようとしている。その寂しさを、理論武装で隠し通せると本気で思っているのかい?」
胸に、鋭い痛みが走る。けれど、それは不思議と温かさを伴っていた。
「……私はただ、私の観測範囲内にあるものが、理不尽に損なわれるのが耐えられないだけです。……例えそれが、私が自ら作り出した『演算結果』に過ぎなかったとしても」
セイアは、指先から淡い金色の光をこぼした。
「君の力は強すぎる。でも、強すぎる光は、時に自分自身の影を濃くし、心を切り裂く。……私は何度も、それを見てきた。未来に怯えるあまり、今この瞬間にある幸福を忘れてしまった人たちを」
その光に包まれながら、私は、初めて自分の本心を、誰に聞かせるでもなく独白していた。
「……今は、アカネというメイドがいます。……彼女は、私の勝手な振る舞いを咎め、呆れながらも、毎日決まった時間に紅茶を淹れてくれる。……その温かさが、たまに……恐ろしくなるんです。この心地よい『誤差』が、私の冷徹な演算を狂わせてしまうのではないかと。……彼女を失うことが、論理を超えた恐怖として、私の意識に居座っている」
セイアは静かに頷き、私の肩にそっと手を置いた。
「その恐怖は、君が初めて『守るべき隣人』を見つけた証だよ。……天野江セイカ。君はまだ、何者でもない。けれど、いつかその答えを、自らの手で掴む日が来るだろう。……その時、君は一人で戦ってはいけない。……大切な人は、君が思うよりずっと強く、君の盾になり、剣になってくれるのだから」
意識が、少しずつ現実の重力に引き寄せられていく。境界の青が、次第に淡い朝靄のような白へと変わっていく。
「……セイア。……あなたは、なぜ見ず知らずの私に、これほどまでの干渉を……」
セイアは金色の髪を揺らし、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「予言者同士、寂しい者同士……少しだけ、お節介を焼きたくなっただけさ。……さあ、そろそろ目覚めの時間だ。君のメイドが、地獄の底から、君の愛した『家族』を連れて帰ってくるのを……一番近くで待っていなくてはならないだろう?」
セイアの姿が、光の粒子となって霧散していく。私の意識は、深い沈黙の底から、静かなソラノミの自室へと、ゆっくりと浮上していった。
「(……セイカさん……! ……お願い、目を開けて……セイカさん!)」
遠くから、アカネの声が聞こえた気がした。まだエリドゥを攻略中のはずの、けれどいつも通り、凛としていて、それでいて優しさに満ちた彼女の声が。
鉛のように重い瞼を、一ミリずつ、必死に押し上げる。視界に映ったのは、見慣れたソラノミの天井と、無機質な計器の瞬き。部屋には、やはり自分一人しかいない。それでも、私は小さく、誰にも気づかれないような微笑みを浮かべた。
「……ただいま、と言うべきなのかな。……アカネ。……君の淹れる紅茶が、どうやら……今の私の演算には、不可欠な要素のようだ」
まだ何者でもない私。けれど、いつかその答えを掴み、彼女たちを本当の家族として抱きしめる日が可能性の海のどこかに必ず存在する。そんな非合理な、しかし何よりも強固な確信を胸に、私は痛む体を引きずりながら再びモニターの前へと這い進む。
愛する者が、迷わずに帰るべき道を、この瞳で照らし続けるために。