真空には、音が届かない。
大気を震わせる媒介を失った世界では、どんなに烈しい爆発も、どんなに絶望的な金属の悲鳴も、すべてが無音の映像へと還元される。
セイカの背後には、天を覆いつくすほどに巨大な人工要塞「アトラ・ハシースの箱舟」と、それに接舷する「ソラノミ」の全景が鎮座していた。箱舟の金属外壁を内側から突き破った際の大爆発の火炎は、酸素を求めて一瞬だけ宇宙空間へ球状に膨らみ、瞬く間に黒い煙の残滓となって静かに拡散し、消えていった。
完全に切り離された。
箱舟内部で今なお繰り広げられているであろう、アビドス対策委員会、ゲーム開発部、美食研究会、そして先生たちの死闘。その熱気も、叫びも、因果の摩擦音も、この絶対の零度と静寂が支配する空間には、一ミリたりとも届かない。
「……ふぅ」
セイカは、自身の口から漏れた白い息がすぐに消えていくのを感じた。
彼女のヘイローは、宇宙空間の果てしない闇の中で、青白く、規則正しく自転を続けている。その輝きは、この星なき深淵において唯一の正確な「時を刻む時計」であった。
だが、その静寂を裂くように、正面の暗黒が赤く濁り始めた。
ズウゥゥゥゥン……。
音ではない。脳髄へ直接叩き込まれるような、不吉な因果の振動。
セイカによって穿たれた箱舟の外壁の破片を跳ね飛ばし、その怪物はゆっくりと、暗黒の虚空へとその巨大な体躯を滑り出させていた。
色彩に侵食された――ナイチンゲール。
空気のないはずの宇宙空間に、その機体を中心に「赤い泥」のような不気味な色彩のオーラが滲み出していた。装甲の各所に刻まれた幾何学的な不吉な紋様が、生き物の血管のようにドクンドクンと脈動している。
先ほどセイカがフィン・ファンネルの全出力で叩き込んだ一撃により、右側の巨大バインダーは半壊し、装甲の一部は黒く焼け焦げて破片を撒き散らしていた。しかし、その損傷部分から溢れ出るのは機械の油でも冷却液でもない。ドロドロとした粘着質な粒子が、まるで負傷した怪物の血液のように流れ出し、真空中へ不気味な球体となって漂っている。
そして、その損傷すらも、色彩の泥が自律的に蠢くことで、ミリ秒単位で「上書き修復」されようとしていた。
キィィィィィィン――。
頭部の中央に配された一つのモノアイが、禍々しい深緑色の光を放って、ゆっくりと左右にスキャンを走らせる。
その冷酷な視線が、再び正確に、正面で愛銃を構えるセイカへと固定された。
逃げ場のない、宇宙の無重力空間。
背後にはキヴォトスという青い惑星と、みんなのいる箱舟。
正面には、時空の壁を食い破って現れた、世界を無へと還す破滅の怪物。
セイカの6基のフィン・ファンネルが、主人の意思と同調し、彼女の背後に美しく、そして猛々しく青白き翼となって展開される。
息を詰めるような、死の旋律が静かに奏でられようとしていた。
__________
『――聞こえますか、セイカさん』
その時。
セイカの耳底へ直接叩き込まれたのは、耳慣れた、しかしどんな状況であっても決して乱れることのない、愛しい恋人の声だった。
ノイズ。激しい電子の雑音。
箱舟の周囲を覆う高密度の不条理干渉と、大気圏外という物理的距離。さらには色彩が撒き散らす因果のノイズによって、通信回線はズタズタに引き裂かれ、途切れ途切れの、いつ途絶えてもおかしくない酷い状態だった。
だが、その声の「軸」だけは、どこまでも澄み切っていた。物柔らかで丁寧な、蜂蜜のように甘い声音。
「……アカネ」
セイカは、正面のナイチンゲールから視線を一切外すことなく、インカムの通信スレッドを思考だけで固定した。
『ええ、私です、セイカさん。……ソラノミのメインフレーム、およびディープデータリンクを介して、あなたの上昇シークエンス、ならびに箱舟の外壁破砕ログを、すべてこちらで監視しておりました』
室笠アカネ。
ミレニアムのC&Cおよび空見観測研究部に所属する2年生。そして、セイカにとってかけがえのない恋人であり、娘であるケイからお母さんのように慕われている存在。
ソラノミの管制室で、全戦域のバックアップを仕切る彼女の静かな声が、宇宙空間の冷気によって凍りつきそうだったセイカの胸の奥に、スッと温かな熱を届ける。
『……本当に、恐ろしいほどの無茶をなさいましたね』
アカネの声には、呆れと、そしてそれを上回る絶対的な包容力と愛おしさが同居していた。
単身で最深部へ乗り込み、箱舟の核と同期した怪物を力ずくで捕縛し、そのまま垂直上昇で天井をブチ破って宇宙へと引きずり出す。
一歩間違えればセイカ自身の存在記述が過負荷で擦り切れかねなかった、命懸けの極限行動。
「……最適でした」
セイカの返答は、短く、そして徹底的に平熱だった。
「あの最深部で戦闘を継続した場合、箱舟の核が爆縮し、アビドス、ゲーム開発部、美食研究会、そして先生を巻き込んで崩壊する確率が99.8%を超えていました。……この怪物を『外』へ連れ出すことこそが、全員の生存ログを確保するための、最も合理的な選択です」
『ふふ……』
通信の向こうで、クスリとアカネが小さく上品に笑う気配がした。
『ええ。理屈の上ではその通りです。……ですが、それをたった一人で、眉一つ動かさずに実行してしまうのが、あなたの恐ろしいところであり……私が心から愛しているところですわ。……実に、私のセイカさんらしい判断です』
アカネの言葉に、セイカの唇がほんの少しだけ緩む。
公の場であろうとも、必要とあらば隠すことなく注がれる「恋人」としての甘い独占欲と包容力。自分がどれだけ突拍子もない無茶をしても、この人はすべてを察し、受け止め、完璧な手筈を用意してくれているという絶対の安心感。
『ですが、セイカさん。甘い言葉だけで済ませられる状況ではないことも、重々ご承知のはずです』
アカネの声のトーンが、一瞬にして完璧な「空見観測研究部・兼ソラノミ戦術補佐」の冷徹なプロフェッショナリズムへと切り替わった。
__________
『いま、空見観測研究部総出で、あなたが宇宙へ引きずり出したあの歪んだ機体――ナイチンゲールの戦闘ログを完全解析しました』
「……解析結果は?」
『結論から申し上げます』
アカネは言葉を一度切り、酷く不吉な、しかし紛れもない事実を淡々と告げた。
『――今のままのあなたの装備、および出力では、あの怪物を撃破できる確率は、限りなくゼロに近い。……勝率は、高くありません』
「……把握しています」
セイカは、目の前のナイチンゲールを見つめた。
フィン・ファンネルの装甲は、先ほどナイチンゲールを拘束して上昇した際の熱と色彩の侵食により、すでに限界まで磨耗している。出力は通常の60%まで低下。
対するナイチンゲールは、空気のない宇宙空間に出たことで、かえって色彩の侵食速度を加速させ、壊れたバインダーすらも赤き粘着質の粒子で再構築し始めていた。
あちらは無限の修復力と、不条理な因果改変の火力を誇る怪物。
こちらは満身創痍の少女一人。
普通に考えれば、チェックメイトの盤面だった。
だが――。
『ですが、セイカさん』
アカネの声に、微かな、しかし揺るぎない「力」が宿った。
『私たちは……あなたをただ一人で死地へ送り出すために、このソラノミのブリッジに立っているわけではありません』
「……え?」
『ソラノミの格納庫に整備していた対因果律・高機動迎撃ユニット――メテオストライカーの準備が整いました』
「……『メテオストライカー』ですか。あの莫大なエネルギー制御、ソラノミ側で完全に整ったのですか」
『ええ。万が一の局面に備えて、私とケイで最終調整とシステムチェックを済ませておきましたわ。……ですから、用意いたしました』
ズズズズズズズズ……!
アカネの言葉と同時に、セイカの視界の端――背後のソラノミの船体から、巨大な質量の移動に伴う重低音が、通信回線を介して届いた。
__________
『ソラノミ・カタパルトデッキ、ハッチオープン! 最終固定ロック、解除!』
管制室のアコ、そしてモモカの緊迫した叫びが、アカネの回線の背景から漏れ聞こえる。
『極大質量ユニット、射出シークエンス移行! ターゲット・座標・天野江セイカ! 推力、リミッター解除! 放てぇぇぇぇぇっ!!』
ドガァァァァァァァンッッッ!!!!
真空の宇宙空間において、ソラノミの中央カタパルトデッキから、眩いばかりの純白と幻想的なエメラルドグリーンのプラズマフラッシュが弾けた。
それは、大気圏外の暗黒を疾走する、一筋の美しい「緑の流星」だった。
ソラノミの船体から解き放たれたその巨大な影は、自身の背部に備えられたスラスターと中心部から、神秘的で美しく輝く緑色のルミナス粒子を尾のように撒き散らし、夜空の天の川のように幻想的な光の軌跡を描いてセイカの待つ座標へと直線軌道で突進してくる。
――メテオストライカー。
その中央に鎮座するのは、半永久機関にして絶対的な心臓部『ルミナス・コア』。
莫大かつ無尽蔵のエネルギーを生み出すその熱源が完全起動した瞬間、周囲の空間へ特殊な光粒子――ルミナス粒子が爆発的に拡散される。
機体の重量を自在にコントロールし、巨体でありながら質量を無視したような極限の慣性移動・高機動戦闘を可能にする神秘の光。
「私のかつての作が、ルミナス・コアの完全同調を経て戻ってくるとは……助かりました」
『ふふ、あなたが手掛けた最高傑作ですもの。乗りこなしはお手の物でしょう、私のセイカさん?』
アカネが、誇らしげに、そして蜂蜜のように甘く微笑む。
『あなたが最深部で不条理な怪物と対峙している間、私とケイでルミナス・コアの出力同期を完璧に行っておきました。……あなたに、最高の舞台で、最高の翼をもう一度広げてもらうために』
流星は、セイカの数十メートル手前で急減速。
緑色の輝きを放つルミナス粒子が尾を引き、セイカの周囲を優雅に包み込むようにして滞空した。
__________
ユニットが連結態勢に入り、接近してくるわずかな静寂の中。
通信のノイズが、ふっと消えた。
アカネの声だけが、まるで耳元で囁かれているかのように、甘く、深く、そして優しくセイカの鼓膜へと届く。
『……セイカさん』
「……はい、アカネ」
『あなたの強さは、私が一番よく知っています。……あなたがどれだけ冷静で、どれだけ平熱で、そしてどれだけ深く……キヴォトスの仲間たちを、先生を、セイアさんを、キサキさんを、レナちゃんを、ケイを、そして私を愛してくれているか』
アカネの声音には、作戦補佐としての仮面はすでになかった。
愛する恋人の限界を察し、一切の躊躇なく「恋人・お母さん」としての顔に戻った彼女の、溢れんばかりの包容力とほんの少しの独占欲が込められていた。
『ですから……あなたの「本気」を見せてあげなさい。あの、世界を蔑む不条理な怪物に。……あなたがどれだけ気高く、美しい存在であるかを』
「……」
『そして――』
アカネは息をひそめ、甘く、けれど絶対の誓いとして囁いた。
『……必ず帰ってきてくださいね。私のもとへ。……あなたの大好きな温かいお茶を用意して、抱きしめる準備をして待っておりますから』
不条理な世界の終わりをかけた最終決戦において、かけがえのない恋人からの、甘く重厚な約束。
セイカは無意識に、自身の左手を口元へ寄せた。
グローブ越しにも伝わる、左手薬指に嵌められた指輪の感触。
アカネとおそろいのその指輪は、二人が互いを唯一無二の存在として誓い合っている、絶対的な絆の証だった。
指輪にそっと唇を寄せるようにして、セイカの瞳から最後の一片の迷いが消え去る。
「……はい」
セイカは、短く、しかし世界中のどんな誓いよりも固く、愛を込めた声で応えた。
「……ただいま、と。……あなたの腕の中に、必ず帰りに行きます」
__________
『メテオストライカー・ドッキングシークエンス、開始!!』
アカネの号令とともに、背後に滑り込んできたメテオストライカーが、神秘的な緑色のルミナス粒子の奔流を放ちながら、セイカの背部ラッチへシンプルにカチリと固定された。
ガシィィィィィンッッッ!!!!
重厚な金属振動。
セイカの背中へ、中央にルミナス・コアを擁する大出力バックパック――『メテオストライカー』が寸分の狂いもなく装着される。追加の装甲や複雑なフレーム、過度な飾りなどは一切ない。ただ実用性と超高出力を突き詰めた、美しく洗練された大出力バックパックそのものだった。
カチ、カチ、カチ――ッ!
バックパックから多次元ラックが展開され、浮遊するファンネルの数が一気に増強。合計12基のフィン・ファンネルが、神聖な後光のように背後に扇状に広がった。
『バックパック固定完了! ルミナス・コア出力安定! ディープデータリンク同調率、120%を突破!』
ケイの無機質ながらも熱を孕んだ声が、同調ログを通じてセイカの脳内へと直接流れ込んでくる。
『お父さん! メテオストライカー中枢「ルミナス・コア」、および2挺合体分離機構「メテオバスターライフル」、12基の増設フィン・ファンネルの制御権限、正常に完全同調しました!……暴れてきてください!』
キィィィィィィィィンッッッ!!!!
セイカが背中の水色の翼を羽ばたかせた瞬間、装甲の隙間やスラスターから放出された膨大なルミナス粒子が、宇宙の暗黒の中に天の川のように美しく尾を引いた。
12基のフィン・ファンネルと、両手に保持された2挺のメテオバスターライフルにも光粒子が纏われ、その威力が極限まで増幅・安定化されていく。
通常時、分割形態として2挺の大出力ライフルを左右の手で軽々と構えたそのシルエットは、190cmのセイカの立ち姿と相まって凄絶なまでの威厳を放っていた。
――天野江セイカ【メテオストライカー装着形態】。
ルミナス・コアによる無尽蔵のエネルギーと極限の超高速空中機動を手に入れた青白き守護者。
星の海を疾走し、不条理な破滅の宿命をその圧倒的な火力と機動力で撃ち払うための、真の「流星」の姿がここに見参した。
__________
ズズズズズズズズ……!!
セイカの圧倒的な形態変化(覚醒)に対し、正面のナイチンゲールが敏感に反応した。
損傷を完全に色彩の泥で塞ぎ終えた巨大な怪物が、その全身の無数のスラスターから、赤く不気味な色彩の炎を噴き上げる。
その重質量な巨躯が、宇宙空間の暗黒を削り取るような怒涛の勢いで加速。左右の巨大バインダーが開かれ、そこから修復・強化された数十基の「色彩ファンネル」が、一斉に暗黒の海へと放たれた。
シュシュシュシュシュッ!!
放たれた赤いファンネル群は、不規則な因果改変の軌道を描き、彗星のような赤い尾を引いて全方位からセイカを圧殺せんと迫り来る。
さらに、ナイチンゲールの胸部中央の超大型メガ粒子砲が朱色の極大光線を放った。
「――『空見の波』、思考同期」
セイカの瞳が、静かに光る。
ルミナス・コアが無尽蔵に吐き出す光粒子が、セイカの感覚演算を異次元の領域へと引き上げていた。
敵がどれほど高速で動こうが、どう身を隠そうが、未来の交差点において「絶対に直撃する運命の座標」が、セイカの脳内に鮮明なシアンブルーの着弾点として浮かび上がる。
「――メテオバスターライフル、フルバースト」
シュヴァヴァヴァヴァヴァッッ!!
セイカは左右のメテオバスターライフルを分割保持したまま、舞うように華麗に旋回。ルミナス粒子による質量を無視した超高機動で、ナイチンゲールの極大ビームを紙一重でかわしながら、2挺のライフルと12基のフィン・ファンネルによるフルバーストを叩き込んだ。
未来の絶対座標へと精密かつ完璧にコントロールされたフルバーストの弾幕は、全方位から迫っていた赤い色彩ファンネル群を、回避の余地すら与えず一瞬にしてことごとく撃滅・雲散霧消させた。
「ギ、ガ、ガガガガガガッッッ!!!!」
全攻撃を完璧に破砕されたナイチンゲールが、逆上したように咆哮を上げ、巨大な実体光刃を振りかざして突進してくる。
セイカは虚空で静かに両腕を交差させた。
ガチィィィィンッッッ!!!
左右のメテオバスターライフルが、セイカの胸前で合体。2挺の銃身が中央でドッキングし、彼女の長身をも超える1挺の巨大な主砲へと姿を変えた。
ルミナス・コアから直結された無尽蔵のエネルギーが、合体したメテオバスターライフルの砲口へと逆流するように集中する。纏われたルミナス粒子が爆発的に輝き、宇宙の闇を青白く染め上げていく。
「――どれほど未来を折り曲げようと。運命の交差点は、すでにここに固定されました」
ナイチンゲールが間近まで迫る。
左手薬指の指輪に宿るアカネとの絆を胸に、セイカの指が合体主砲のトリガーを引いた。
「――吹き飛びなさい!」
ズガァァァァァァァァァァンッッッ!!!!
合体最大出力照射。
未来予知と連動した絶対狙撃の座標へ向けて放たれた極大のシアンブルーの閃光が、宇宙空間の暗黒を完全に塗りつぶし、突進するナイチンゲールの巨躯を正面から呑み込んでいった。
青と白の光の翼。
赤き色彩の闇。
星々の海を舞台にした最終決戦は、ルミナス・コアの輝きと『メテオバスターライフル』の圧倒的な閃光とともに、ついに完全なる決着の刻へと突き進んでいく。