大気のない漆黒の外宇宙。
破砕した『メテオストライカー』を切り離し、深淵の闇へと見送ったセイカの周囲には、今や静寂だけが残されていた。
残されたのは、満身創痍の体躯と、背後に静かに漂う12基のフィン・ファンネル。
対するナイチンゲールは、先ほどの反撃によってなお圧倒的な存在感を保ち、傷ついた巨躯から濁った赤き泥を噴出しながら、獲物を確実に討ち果たすべく迫り来ている。
だが、セイカの胸中に焦りはなかった。
彼女は自身の損壊状況、残存エネルギー、そして宇宙空間における力学・熱力学的負荷を、ミリ秒単位で冷徹に解析し終えていた。
「……十分です」
セイカは静かに息を整えた。
スー……ハァ……。
彼女が静かに精神を集中させると同時に、頭上に浮かぶ船の舵輪を模した青白きヘイローが、深遠な高周波音を奏でながらゆっくりと回転を始めた。
キィィィィィィン……。
ヘイローの回転速度が徐々に上がっていく。
それに伴い、セイカの脳内において『空見の波』による未来演算の並列スレッドが、ミリ秒ごとに倍々ゲームで増加・開放されていく。
通常、人間や一般的な生徒の脳であれば一瞬で焼き切れるほどの情報処理負荷。
しかし、セイカの思考回路はその負荷を冷徹に受け止め、演算領域を「限界」のその先へと押し上げていく。
回転する舵輪ヘイローを中心に、青白い幾何学的な「演算リング」が幾重にもホログラムのように宇宙空間へ展開された。
そのリングから溢れ出る青白き光線は、まるで漆黒の宇宙に神聖な航跡を描くように広がり、周囲の暗黒を浸食していく。
セイカの視界から、「現在」という曖昧な概念が消え去った。
見えているのは、物理的な物質の配置だけではない。
ナイチンゲールの駆動フレームの収縮、色彩の泥の粘度変化、放射される干渉波の確率密度分布、さらには微細な宇宙塵の移動軌跡まで。
あらゆる過去と現在の変数が瞬時に計算され、それらが交差する未来の姿が、幾筋もの「輝く航路」となって彼女の網膜へ明確にオーバーラップしていく。
「世界は、混沌ではありません」
セイカの平熱な呟き。
「解くべき数式と、選ぶべき航路が存在するだけです」
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かつて、彼女の内に秘められた絶大なる戦闘能力――『空見の閃』は、過度な負荷や極限状態、あるいは偶発的な精神の昂ぶりによってしか引き出せない「運頼みの切り札」であった。
意図的な発動は不可能であり、いつ出るか分からないランダム性が、彼女の戦いに常に紙一重の緊張感をもたらしていたのだ。
しかし――。
ミレニアムでの日々、アカネたちとの絆、そして幾多の死闘の中で『空見の閃』を発動し、その感覚を全身に刻み込んできたセイカの神秘効率は、すでに永続的な底上げを果たしていた。
今、この極限の宇宙空間において。
セイカはその「偶然」を、自らの意志で完全に手繰り寄せた。
カチリ――。
脳内で、ある種の「理」が嵌まる音がした。
発動した瞬間、セイカを包む神秘効率が劇的に上昇。
普通の使用者であれば肉体と精神が耐え切れずに崩壊するレベルの膨大な神秘が、完璧な統率と制御のもとに彼女の全身へと流れ込んでいく。
それは、まさに「ひとつ上の世界に立つ」状態。
セイカの背後、宇宙の闇の中に、水色の巨大な光の翼が滑らかに、そして荘厳に広がった。
彼女の全身を包み込むエネルギーは、【深青・黒・銀色】に禍々しくも圧倒的に美しく輝き始める。
頭上で高速回転するヘイローから流れる光線は、まるで時空そのものを鮮やかに斬り裂いていくかのようだ。
完全習得を果たした最強状態のセイカ。
対峙するナイチンゲールにとって、今の彼女は理屈抜きに「次元の違う存在」――勝てるはずのない、絶対的な理の体現者として認識されていた。
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通常時、未来予知の演算結果が確定するたびにセイカの脳内に鳴り響いていた「ガコン」という重い確定音。
それが、完全に消失していた。
音の消失。それは、未来予知の制御がもはや途切れ途切れの「点」ではなく、完全に連続した「線」として安定・同調したことの証明であった。
頭上の舵輪型ヘイローは、摩擦も抵抗も存在しないかのように無限に高速回転を継続している。
その無限回転に伴い、『空見の波』の未来予知精度は絶え間なく最大化され、セイカの攻撃・防御・移動・射撃のすべての行動と完全に同期した。
毎秒数億通りに及ぶ並列未来観測。
過去・現在のあらゆる情報を一瞬で処理し、常に「完全な最適解」を導き出す。
セイカは未来を「追う」のではない。
無限に分岐する未来の航路の中から、自分が勝利する「最適航路」を選択し続ける状態へと入ったのだ。
「ギ、ガアアアアアアッッ!!」
ナイチンゲールが激昂し、全身から残存する三十基以上の色彩ファンネルを一斉に解き放った。
全方位から迫る赤黒い不条理な弾幕。空間そのものを歪める因果改変の攻撃が、逃げ場のない死の網となってセイカを覆い尽くす。
だが――。
ス……。
セイカが、まるで最初からそこに攻撃が来ないことを知っていたかのように、最小限の力学的移動で赤き光線を回避する。
右へ数センチの変位。コンマ数秒の減速。
一切の無駄を削ぎ落としたその機動は、重力から解き放たれた舞踏のように洗練されていた。
同時に、背後に展開された12基のフィン・ファンネルが、セイカの演算と完全同期して自律駆動。
未来予知の精度が極限に達しているため、放たれるシアンブルーのビームは「どの方向に対しても同時に最大威力」で照射される。
ドカン! ドカン! ドカンッ!
全方位から迫っていた色彩ファンネルが、セイカの身体に触れることすら許されず、次々と正確無比に撃墜されていく。
反撃すら許さない、完全なる先回り。
ナイチンゲールの不条理な攻撃は、セイカが選択し続ける最適航路の前に、何一つ実を結ぶことはなかった。
__________
全方位の弾幕を完璧に回避・迎撃しながら、セイカの視界(バイザー)はある一つの目標を捉えていた。
先ほど切り離されたメテオストライカーとともに、宇宙の虚空を漂っていた『メテオバスターライフル』。
砲身の前半部分は激しい過給によって砕け散っていたものの、その手元にある中枢のエネルギー収束回路とグリップフレームは、なお破壊を免れて宙を舞っていた。
「……回収します」
セイカは滑らかな慣性移動で、漂流するライフルへ肉薄。
長身の腕を伸ばし、そのグリップを正確に握り直した。
ガコン。
セイカの細い指がグリップを保持した瞬間、彼女自身の劇的に上昇した神秘エネルギーが、破損したライフルの回路へと直接逆流入する。
かつてルミナス・コアから供給され、ライフル内部のコンデンサに残留していた濃密な高純度エネルギー。
それがセイカの『ひとつ上の世界』の神秘と同調し、失われた砲身の代わりに、シアンブルーと銀色の「光の砲身」を仮想形成しながら一気に過給・再収束を開始した。
ブワァァァァァンッ!
セイカの背後に広がる巨大な水色の翼と、深青・黒・銀の光芒が、回収されたメテオバスターライフルへと流れ込んでいく。
歴戦の相棒が残していった最後の残り火を、セイカ自身の圧倒的な能力で再点火したのだ。
12基のフィン・ファンネルが自律的にセイカの周囲へと集結。
ライフルの威力を極限まで引き増幅させるための「砲撃支援陣形」へと完璧に移行した。
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「――面舵、固定」
セイカの冷徹な号令。
12基のフィン・ファンネルが、深青と銀の光の尾を引きながら宇宙空間を疾走した。
それらは単に敵を囲むのではない。
高速回転する舵輪ヘイローが弾き出した「ナイチンゲールの未来の全行動パターン」を先回りし、怪物が逃げ込もうとするあらゆる空間の座標に、あらかじめ射線を配置する形で展開されたのだ。
上空、下空、左右、背後、知識の及ぶあらゆる斜角。
完全なる幾何学模様を描いてナイチンゲールを包囲する12基のファンネル。
ナイチンゲールが異形のバインダーを蠢かせ、残された色彩の力で空間を歪め、不条理な因果改変によって脱出を図ろうと足掻く。
だが――遅い。
怪物が不条理を起こそうとする「その直前の因果の結び目」を、セイカの先回り演算が完璧に捉えている。
ナイチンゲールが動こうとした瞬間、その動く先の空間へファンネルからの精密な牽制射撃が叩き込まれ、行動そのものが未然に潰されていく。
攻撃もできない。
防御も破られる。
逃げることも、歪めることも許されない。
宇宙のその一画は、完全に天野江セイカの神秘と演算によって支配された「絶対領域」と化していた。
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セイカは静かに、両手で仮想砲身を纏うメテオバスターライフルを構えた。
毎秒数億通りの未来観測。
無数に枝分かれしていた未来の可能性が、無限回転する舵輪の演算によって次々と削ぎ落とされ、ただ一つの決定的な結果へと収束していく。
ナイチンゲールの装甲の目に見えない微細な亀裂。
色彩の脈動が最も低下するコンマ数ミリ秒の周期。
因果の結び目が最も薄くなる物理座標。
すべての条件が完璧に重なり合う、唯一無二のポイント。
カチリ。
セイカの視界の真ん中に、美しくシアンブルーに輝く「運命の交差点」が、ただひとつ鮮明に浮かび上がった。
逃れられない、不可避の終着点。
「見えました」
セイカの声は、どこまでも平熱で、そして透き通るほどに美しかった。
「……ここが、あなたの終着点です」
包囲する12基のフィン・ファンネルが、全出力をメテオバスターライフルの砲口へと向けて一括供給。
極限まで高められた神秘とエネルギーが、星なき深淵の宇宙を白銀と深青の光で満たしていく。
背負う外付けの切り札はもうない。
だが、積み重ねてきた鍛錬と、大切な人々を守るための意志、そして完全習得を果たした己の力がある。
セイカの細く確かな指が、迷いなく引き金を絞り込んでいく――。
「――『空見の閃』、穿ちなさい!」