すべての不条理と破滅の狂気が去り、外宇宙には本来あるべき深遠な絶対の静寂が戻っていた。
大気圏外、高度数百キロメートルの漆黒の暗黒空間。
かつて世界を破滅の底へと引きずり降ろそうとした不可解な不条理――『ナイチンゲール』が消滅したその絶対零度の戦域から、青白き流星、セイカはソラノミに向けて静かに滑空を続けていた。
真空の宇宙において、運動を妨げる大気の抵抗は存在しない。
一度与えられた僅かな推進力に従い、彼女の体躯は滑らかに、そして滑るように暗黒の虚空を切り裂いていく。
だが、先ほどまでの荒々しく苛烈な超機動とは異なり、いまの彼女を包んでいるのはどこまでも穏やかで、澄み切った慣性飛行の静寂であった。
彼女の手に握られた『メテオバスターライフル』は、すでに全ての光と過給を止め、冷たい沈黙を保っている。
先ほどまでの凄絶な激闘を物語るように、過酷な熱負荷と色彩の侵食、そして限界を超えた連続過給によって砲身の過半は微塵となって消滅していた。
手元に残された重厚なグリップと機関の骨格だけが、彼女の長身の手に静かに収まっている。
歴戦の相棒が見せた最後の輝き。その残り火すらも静かに鎮まり、ただ無言の鉄塊となって彼女の指先にその存在感を伝えていた。
彼女の背後には12基のフィン・ファンネル。
かつて死線を切り拓き、確率の壁すらも撃ち破る絶対の翼であった超機動端末群は、いまやその極大の役割を完全に終えていた。
砲口から溢れていたシアンブルーのビーム光彩は収まり、幾何学的な全方位包囲陣形を解除したファンネルたちは、主人の帰還を守る無口な騎士のように、静かに規則正しい隊列を組んで彼女の背後に追従している。
セイカの視界の先には、漆黒の宇宙にぽっかりと浮かぶ大きな青い球体――キヴォトスがあった。
太陽の光を斜めに浴びて白く煌めく雲の綺麗な渦、深い紺碧の色彩を讃えた広大な海洋、そして数多の人々の温かな日常と息吹が紡がれている大地。
自らの身体を極限まで苛み、限界を超えた演算の果てに守り抜いたその美しき輝きを、セイカは見つめていた。
彼女の胸の奥で、氷のように張り詰めていた重い緊張が、スー……ハァ……という静かな呼吸とともに、少しずつ解けていく。
__________
ピ・ピ・ピ――。
静まり返っていたセイカに、最優先通信スレッドの受信音がピタリと鳴り響いた。
暗黒の真空を越えて届く、微弱な指向性電波。
暗号化されたノイズの混じる回線が滑らかに展開され、開かれると同時に、密閉されたヘルメット内部のスピーカーへ愛しい人の声が直接滑り込んでくる。
『――セイカさん!』
アカネの声だった。
いつも完璧なメイドとしての気品を崩さず、どんな窮地であっても優雅な立ち振る舞いと微笑みを絶やさない彼女が、いまは隠すことすら忘れた切迫した感情を叫び乗せていた。
通信線に乗って届いたその一言だけで、彼女がどれほどの痛切な思いでこの宙域の戦闘結果を待っていたかが痛いほどに伝わってくる。
その声を聞いた瞬間、セイカの氷のように冷徹だった表情が、ふっと薄氷が溶けるように柔らかく綻んだ。
「……無事です、アカネ」
セイカの短い、けれどどこまでも静かな平熱の応答。
心から信頼するただ一人の理解者の名前をまっすぐに呼ぶ。
通信の向こう側で、アカネが大きく、心の底から胸を撫で下ろし、息を吐き出す気配が伝わってきた。
ソラノミのブリッジで、胸に当てられた彼女の手の重みまでが聞こえてきそうなほどの、深く切実な、涙の混じった安堵。
『……よかったです。本当に……本当によかったです、セイカさん……っ』
アカネの声が、微かに湿り気を帯びて震えていた。
感情を殺しきれずに掠れる声。けれど彼女はすぐに持ち前の気丈さを取り戻すように小さく息を吸い込み、どこまでも慈しみに満ちた、柔らかな声で彼女へ語りかける。
『ソラノミの全ハッチを開放して待っています。……ちゃんと、私のところへ帰ってきてくださいね』
「……はい。すぐに行きます、アカネ」
セイカは短く答え、静かに通信を切った。
無重力の虚空の中で、彼女は左手をそっと持ち上げ、タクティカルグローブ越しに左耳へ触れた。
そこに揺れているのは、白い三日月のイヤリング。
かつて日常のひとときの中で、アカネが彼女のために迷いながら選び、その細い指先で彼女の耳元へと優しくつけてくれた宝物。
金属と樹脂の冷たい感触の向こう側に、アカネの指先が残していった温もりが、いまも確かに宿っているような気がした。
セイカは足裏の超小型スラスターをわずかに微噴射させ、青いキヴォトスを背に、ソラノミへの帰還航路へとその速度を静かに加速させていった。
__________
ソラノミへと向かう静かな滑空の途中、セイカの視界の端をかすめたのは、宇宙空間に沈黙して漂う巨大人工要塞「アトラ・ハシースの箱舟」の残滓であった。
かつてキヴォトス全域に破滅の影を落とした不気味な巨大建築物。
かつては幾何学的な美しさと禍々しさを兼ね備えていたその外壁は、数度の激闘と限界を超えたエネルギー拡散によって無惨に爆砕され、巨大な歪む金属の死骸となって静かに回転していた。
要塞の中心部で不吉な胎動を続けていた巨大なコアは完全に光を失って沈黙し、周囲の空間を酷く歪ませていた赤黒い色彩の不調和波も、跡形もなく消散している。
セイカは滑行しながら、広域戦況センサーのログスレッドを視界の隅で展開させた。
キヴォトス各自治区の防衛ラインにおいて繰り広げられていた、押し寄せる不条理との絶望的な防衛戦。
アトラ・ハシース内部の最深部へ突入し、命を懸けて中枢を目指していた各校選抜部隊の生体反応。
そのすべてが、すでに「戦闘行動の完全停止」と「安全確保」を示していた。
アビドス、トリニティ、ゲヘナ、ミレニアム、百鬼夜行、レッドウィンター、山海経――。
互いに異なる理念を持ち、時には争い合っていた生徒たちが、シャーレの先生と連邦生徒会の指揮のもとで一つとなり、全員が自らの責務を完璧に果たし遂げたのだ。
そして――別の因果の深い渦の中で繰り広げられていた、もう一つの切実で痛切な決着。
世界の崩壊を背負ったプレナパテスと、あちら側の世界から引き裂かれてやってきた別世界のシロコを巡る戦いもまた、すでにすべて終わりを迎えていることが、センサーの静かなデータとして刻まれていた。
破壊と破滅の連鎖は、ついに断ち切られたのだ。
セイカは漂う無数の要塞の装甲破片の間を滑らかに抜けながら、自分たちが命を削って駆け抜けてきた長かった戦いのすべてが、いま本当に、完璧な終わりを迎えたのだと深く胸に噛み締めていた。
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やがて、暗黒の虚空の向こうから、巨大な白銀の艦影が姿を現した。
宇宙戦艦「ソラノミ」。
セイカの長身が接近するにつれ、ソラノミ下部に位置するメインハンガーの巨大な装甲ハッチが、重厚な機械駆動音とともにゆっくりと左右へ開放されていく。
密閉された真空の世界から、ハッチの内部から溢れ出てくる温かなオレンジ色の誘導光。
それが、漆黒の宇宙空間とセイカの満身創痍の姿を優しく照らし出していた。
スー……。
セイカは慣性飛行の勢いを維持したまま、寸分の狂いもない正確さで格納庫の開口部へと滑り込んだ。
ハッチ内部へと侵入した瞬間、気密フィールドが稼働し、人工重力が彼女の大きな身体を緩やかに捉える。
セイカは両足裏の接地用エアスラスターを極小噴射。
トシ、と静かな金属接触音とともに、ソラノミの重厚なデッキの上に完璧なバランスで降り立った。
彼女の後方に追従していた12基のフィン・ファンネルが、幾何学的な動きで背後へと浮遊集結し、青い光の粒子を収めて静かに自動待機モードへと移行する。
プシューーッ……という気圧調整の蒸気音。
加圧された温かな空気の匂いと、機械油、そして人間の息吹が交ざり合う格納庫の独特な匂いが、バイザーの吸気フィルターを通じてセイカの肺を満たしていく。
そこに集まっていた空見観測研究部の部員、そして後方支援にあたっていた各校の生徒たちが、降り立ったセイカの姿を見て、誰一人として声を上げることができずにいた。
手にした主砲『メテオバスターライフル』は大半が砕け散って無残な残滓となり、背負っていたはずの巨大な補給兵装『メテオストライカー』は跡形もなく消滅している。
過酷極まる死闘を越えてきた装甲の擦り傷や熱改変の跡。
満身創痍でありながら、その佇まいには圧倒的な神聖さと、どこまでも澄み切った平熱の静寂が纏われていた。
外宇宙の絶対的な絶望と不条理をただ一人で引き受け、撃ち払って帰ってきた英雄の着地。
その圧倒的な存在感を前に、誰もが息を呑み、金縛りに遭ったかのように見惚れていた。
__________
静まり返る格納庫の空気の中で――ただ一人、言葉を失う観衆の列を割って、迷うことなくまっすぐに歩み出る者がいた。
室笠アカネ。
彼女は乱れた呼吸を整えることすら忘れ、静かな、けれど力強い足取りでセイカのもとへと歩み寄っていく。
整えられたメイド服の裾が揺れ、その瞳には世界を救った英雄に対する畏怖も遠慮もなく――ただ、生きて無事に目の前へ帰ってきた愛しい人に対する、溢れんばかりの情愛と安堵だけが宿っていた。
セイカの目の前、手を伸ばせば触れられる距離まで辿り着くと、アカネは何の躊躇も迷いもなく、その細い両腕を大きく伸ばした。
そのまま、セイカの胸元へと飛び込むようにして、その華奢な身体のすべてを使って強く、強く抱きしめる。
「……っ」
冷たい金属と樹脂で覆われたタクティカルスーツ越しにも、鮮明に伝わってくるアカネの確かな体温。
そして、彼女の胸の奥で早警を鳴らすように、微かに、けれど激しく震える心拍と体調。
アカネはセイカの胸に顔を深くうずめ、溢れ出る涙を隠そうともせず、万感の思いを込めてその名を囁いた。
「……おかえりなさい、セイカさん……っ」
セイカは一瞬だけ目を見開き、それから静かに、愛おしそうに目を細めた。
彼女もまた、大破して役目を終えたメテオバスターライフルの残滓をデッキへと静かに置き、長身の長い腕を回した。
アカネの細く華奢な背中を、包み込むようにして優しく、力強く抱き返す。
「……ただいまです、アカネ」
二人はしばらくの間、それ以上の言葉を交わさなかった。
周囲の視線も、格納庫の騒音も、すべてが遠い世界の出来事のように消え去っていた。
ただ互いの鼓動を感じ合い、抱きしめ合う肌から伝わる熱が幻覚などではなく、絶対の現実であることを確かめ合うように、二人は静かに抱擁を重ね続けた。
外宇宙の絶対零度の冷たさに晒されていたセイカの心が、アカネの温もりによって、優しく、綺麗に溶かされていくようだった。
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二人が互いの存在を確かめ合うその温かな光景を見守っていた周囲の者たちの、張り詰めていた緊張がそこでふっと解け去った。
ブリッジからの連絡を受けてデッキへと降りてきていたリンやリオが、その整った容姿に微かな安堵の笑みを浮かべて静かに佇んでいる。
リオの傍らにホログラムとして展開されたケイの光の体も、先ほどまでの激しいノイズを綺麗に収め、嬉しそうに目元を拭うような仕草をしながらセイカを見つめていた。
「……本当に帰ってきたのじゃな。あの極限の状況を乗り越え、よくぞ無事で戻ったものじゃ。」
キサキが、感極まったように呆然と呟いた。
それを皮切りに、密閉されていた格納庫のあちこちから、長く苦しい緊張から解放された安堵の溜め息と、小さく温かな歓声が波のように広がり始める。
「まったく……無茶ばかりして。本当に、最後までヒヤヒヤさせられましたよ」
アコが呆れたように――けれどその目元に嬉しさを隠しきれない破顔を浮かべて吐き捨てる。
モモカも誇らしげに鼻を鳴らし、誰もがこの長く、残酷だった世界の危機を乗り越えたのだという実感を噛み締めていた。
キヴォトスを覆っていた不気味な色彩の脅威も、世界を無へと還そうとした不条理の悪夢も、いまや完全に過ぎ去った過去となったのだ。
緊迫感に支配されていたソラノミの格納庫に、ようやく平和で、どこまでも穏やかな日常の空気が戻ってきた。
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やがて、ざわめく人混みを割って、一人の男性が静かな足取りで二人のもとへと歩み寄ってきた。
シャーレの先生であった。
連日連夜に及ぶ指揮で疲労の色を濃く残しながらも、その瞳には心からの温かさと安堵を宿して、先生はセイカを見上げる。
"無事でよかった、セイカ"
先生の発した、飾り気のない短い言葉。
セイカはアカネとの長い抱擁をゆっくりと解くと、背筋をすっと伸ばし、立派な体躯で完璧な姿勢を正した。
「――天野江セイカ。外宇宙における色彩残滓『ナイチンゲール』の完全討滅、およびキヴォトス防衛最終任務……すべて完了しました」
どこまでも平熱で、けれど完璧な任務完了の報告。
先生はその報告を聞くと、心底誇らしそうに柔らかく微笑み、彼女の逞しい肩を優しくポンと叩いた。
"うん。……これで、全部終わったね。本当に本当にお疲れ様、セイカ"
「……はい」
先生からの心からの労いの言葉を受け、セイカは静かに頭を下げた。
その胸の中にずっと重く圧しかかっていた「世界を守らなければならない」という途方もない責任と緊張が、ようやく完全に解けて消えていくのを彼女は感じていた。
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彼女はゆっくりと首を巡らせ、周囲の光景を見渡した。
誇らしげな笑顔で自分を温かく迎えてくれるソラノミの仲間たち。
傍らで愛おしそうに自分を見つめ、そっと手に寄り添ってくれているアカネ。
あたたかな眼差しで見守る先生。
そして――格納庫の巨大な強化観測窓の向こう側に広がる、青く、優しく、生命の息吹に満ちて輝くキヴォトスの姿。
たくさんの犠牲と、途方もない死線を潜り抜けて。
自分たちが命を懸け、演算を重ねて繋ぎ止めた、かけがえのない大切な世界。
セイカはいつも通りの平熱で静かな表情のまま、けれどその瞳にどこまでも優しく、暖かな光を宿して――小さく、誇らしげに微笑んだ。
「……守れました」
静かで、けれど揺るぎない確信に満ちた呟き。
その言葉を隣で聞いたアカネは、胸がいっぱいになったように目元を緩ませ、世界で一番美しく、慈愛に満ちた笑みを彼女へ向けた。
「ええ……。あなたが、私たちの世界を守ってくれたんです、セイカさん」
格納庫の大きな窓から差し込む、青い地球のあたたかな光が、寄り添う二人を優しく包み込んでいく。
長い長い絶望の夜は明け、暗黒の外宇宙での死闘はついに完全な終わりを告げた。
世界を救った英雄たちはいま、ようやく――自分たちが命を懸けて守り抜いた、愛する日常へと戻ってきたのだった。