エリドゥの深部、無機質な壁に囲まれた通路を進むにつれ、通信機から聞こえるノイズが目に見えて激しくなっていきました。
「……この電子的な不協和音。こちらの視界を奪い、孤立させようとする、リオ会長の意図を感じますね」
耳元を覆う不快な砂嵐に、私は眉をひそめました。ヴェリタスの皆さんが提供してくれていた「安心」という名の情報網が、指の間から砂のように零れ落ちていく。
「え!? ちょ、ちょっと待って! 今、通信の状態が……!」
「マキ、しっかりして! 信号を増幅できないの!?」
慌てふためくマキちゃんの声に、モモイちゃんが悲鳴に近い声を重ねます。その焦燥感は、この場にいる全員に冷たい影を落としました。
「(……セイカさん。あなたは、この静寂さえも視ていたのですか? 誰の助けも届かない、暗闇に取り残されるこの一瞬を)」
脳裏をよぎるのは、ソラノミの自室で、血の気の引いた顔でモニターを凝視していた主の姿。
観測士である彼女にとって、情報の断絶は死にも等しい恐怖のはず。それでも彼女は、この「沈黙」の先にある未来を信じて、己の神経を焼き切る演算に身を投じた。
「これは……ダメです、外部からの干渉が強すぎて……完全にジャックされています……」
コタマ先輩の声が重く響きます。それと同時に、ノイズの向こう側から、あまりに明瞭で冷徹な、一人の女性の声が入り込んできました。
『ヴェリタス……やはり貴女たちだったのね。流石あの「ヒマリ」の後輩なだけあるわ』
「……リオ会長。やはり、こちらの動きはすべて筒抜けというわけですか」
私たちは立ち止まり、銃を構え直しました。
姿は見えずとも、この要塞都市そのものが彼女の意志であるかのような、圧倒的な圧迫感。
「え? だ、誰!?」
「……あぁ!? 何とぼけたこと抜かしてやがんだ。この理屈っぽい喋り方……リオじゃねえか!」
ネル先輩が忌々しげに鼻を鳴らし、マキちゃんの問いに応えました。その直後、耳を刺すような高周波のノイズが走り――。
「……っ、切れた。完全に」
インカムからは、もう何も聞こえません。ヴェリタスとのリンクという「盾」を失い、私たちは巨大な要塞の胃袋の中に、たった数人で放り出されたのです。
「ヴェリタスの通信が……」
「……そんな、これからどうすればいいの……?」
"途絶えてしまった……"
ミドリちゃんの震える声に、先生が静かな、けれど苦渋に満ちた言葉を繋ぎました。それに応えるように、壁のスピーカーからリオ会長の冷徹な声が響き渡ります。
『予想はしていたけれど……本当にここまで来たのね、先生』
"リオ……君を止めに来たよ。たとえ、通信が断たれたとしてもね"
先生の強い眼差しが、通路の先にあるはずのモニターを見据えます。
『……そう。やはり、あの時の私の言葉と行動では貴方を……。そして、その子たちを説得できなかったのね』
スピーカーの向こう側で、リオ会長は私たちを一瞥したあとのような、僅かな間を置いてからそう口にしました。
『先生。トロッコ問題をご存知かしら?』
唐突に投げかけられたその言葉。
戦場にはあまりに不釣り合いな倫理の問いに、場に緊張が走ります。
「トロッコ?」
「……問題?」
「……何、それ。ゲームのギミックか何か?」
ミドリちゃんとユズちゃん、そしてモモイちゃんまでもが困惑した声を上げました。
けれど、私はその問いの裏にある「冷たい計算」を察し、奥歯を噛み締めました。
『簡単なお話よ。故障し、止めることができなくなってしまった列車がレールの上を走っている時。大多数を生かすために1人を犠牲にするか――それとも、1人を生かすために大多数を犠牲にするか――そういう選択を迫る問題』
リオ会長の言葉は、まるで逃れられない宣告のように、重く、冷たく、私たちの足元に沈殿していきます。
アリスちゃんという一人の少女と、キヴォトスの全市民という巨大な数字。
「……けれど、リオ会長。あなたは一つ、計算を間違えています」
私は、愛銃のグリップを強く握り直しました。
「……大多数か、一人か。……セイカさんは、そのどちらも選ばなかった」
「(……セイカさんは、どちらかを選ぶなんて妥協はしなかった。全員を救うための、狂気じみた演算にすべてを懸けたのです)」
私の反論が、冷たい通路に静かに響き渡りました。それに対するリオ会長の沈黙は、わずか数秒。
しかし、次にスピーカーから聞こえてきたのは、先ほどまでの冷徹な響きに、僅かな「痛ましさ」が混じった声でした。
『……天野江セイカのことね』
「……やはり、知っているのですね」
私は、見えない監視カメラの向こう側にいるリオ会長の表情を想像しました。ミレニアムの頂点に立つ彼女が、同じく「観測」と「演算」の深淵に触れる者を見逃すはずがありません。
『彼女が、自らの精神をリソースとして焼き、存在しないはずの『第三の選択肢』を絞り出そうとしているのは把握しているわ。……けれど、アカネ。その計算がどれほど美しくても、現実に固定できなければ、それはただの『夢』に過ぎない』
"夢じゃない。私たちはその可能性を信じて、ここに立っているんだ"
先生が凛とした声で割って入りました。
その言葉を肯定するように、カリンがライフルの銃身を撫で、クールに言葉を添えます。
「……計算が合わないなら、合うまで弾丸を叩き込むだけ。それがC&Cのやり方」
「ははっ、その通りだ! 効率だの数字だの、そんなもんで語るんじゃねえよ!」
ネル先輩の咆哮が、リオ会長の論理を切り裂くように響きました。しかし、会長の声は再びいつもの合理的なトーンへと戻っていきます。
『彼女の演算は、あまりに不確定要素が多すぎるわ。一人の少女の『心』や、奇跡という名の『誤差』を数式に組み込むなんて……。
それは観測士としては致命的な、あまりに感情的で非効率な計算だと言わざるを得ない』
「ふふっ、でもその『誤差』って、とってもワクワクしない?」
不意に、アスナ先輩が弾むような声で笑いました。
「私にはわかるよ! 会長が難しい顔して計算してる横で、ラッキーな未来が『こっちだよー!』って呼んでるのが! ね、ご主人様!」
"……うん、そうだね。その『誤差』こそが、私たちが今日ここへ辿り着けた理由なんだと思う"
アスナ先輩の言葉を、先生は優しく、しかし確信に満ちた声で受け止めました。
"たとえ計算式には現れなくても、アリスを、そしてみんなを想う気持ちが、未来を変える力になると信じているよ"
「(……理屈を超えた、アスナ先輩の幸運。私たちを支える先生の信頼。……そして、未来を導き出そうとするセイカさんの執念。
……いいえ、その『非効率』こそが、私たちをここまで運んできたのですよ、会長)」
私は愛銃を構え直し、冷たく微笑みました。
「……だから、私はここへ来ました。彼女が身を削って視たその『夢』を、不確定な未来を、私の手でこの現実に……この物理的な世界に『固定』するために」
リオ会長の言葉は、まるで逃れられない宣告のように重く響きましたが、今の私には、それを撥ね退けるだけの確信がありました。
『悪いけれど、アカネ。……セイカが視たその未来は、私の演算が導き出す『確実な救済』の前で霧散することになるわ。……大多数を守るために、私は、彼女の献身ごと排除せざるを得ない』
「……やってみてください、会長。あの方の不器用な願いを、私がお掃除の一部として完遂させてみせますから」
交渉の時間は終わりでした。空気の温度が一段と下がり、要塞都市エリドゥが、私たちを「排除すべきエラー」として認識し、牙を剥き始めました。
『……残念だわ。言葉では、やはりこの『重さ』は伝わらないようね』
リオ会長の冷徹な声が響いた直後、通路の奥から地響きのような駆動音が鳴り響きました。
重厚な金属同士が噛み合い、莫大な電力が一箇所に集約されていく、不気味な脈動。
「……っ、何、この音!? 地震!?」
「いや……地下から巨大な質量が上昇している。熱源反応は……計測不能。規格外だね」
「この波形……まさか、超火力兵器でしょうか!?」
エンジニア部の面々が計測器を二度見し、戦慄の声を上げます。
「わあ、すごい! なんだかとっても強そうなのが来るよ!」
目を輝かせてはしゃぐアスナ先輩を横目に、私は先生を庇うように一歩前へ出ました。
「……この音。ただのオートマタではありませんね」
私は先生を庇うように一歩前へ出て、銃口を暗闇の先へと固定しました。
スピーカーから流れるリオ会長の声は、もはや説得ではなく、淡々と事務的な「実行」の宣言へと変わっています。
『先生、貴方にこの都市の、そしてミレニアムの『正義』の具現を見せてあげる。
……大多数を救うために、あらゆる不確定要素を排除する暴力。それがこれよ』
暗闇を切り裂き、巨大なサーチライトが私たちを射抜きました。
現れたのは、これまでの兵器とは一線を画す威容を誇る、超巨大火力兵器。
『『アバンギャルド君』、発進』