ミレニアムサイエンススクールの生徒会、最高機関「セミナー」の執務室。
普段ならば、規則正しいキーボードの打鍵音と、積み上げられた書類の擦れ合う音だけが響く静謐な空間に、その日の午前、雷鳴のような悲鳴が轟き渡った。
「え、ええええええええっ!?!? な、なにこれ、ちょっと待ちなさいよ──ーっ!!」
セミナー会計、早瀬ユウカの絶叫が防音壁を振動させる。
彼女の手には、連邦生徒会統合行政局およびシャーレから転送されてきた一枚の公式公文書通知書が握られていた。電子的暗号署名が施されたその書類には、ミレニアムの生徒データベースにおける超重要項目──氏名変更および戸籍統合の完了が、厳かな公印とともに記されていた。
『旧名:天野江 セイカ(アマノエ・セイカ)』
『新名:室笠 セイカ(ムロカサ・セイカ)』
『事由:婚姻届の正式受理に伴う改姓手続きの完了』
「こ、婚姻届って……! 相手は……室笠アカネ!? C&Cのあのアカネ!?」
「ええ、ユウカちゃん。間違いなく、あの『室笠アカネ』さんですよ。書類の形式も完璧、連邦生徒会の公印も、先生の証人署名も寸分の狂いもなく揃っていますわ」
隣で優雅に温かな紅茶を嗜んでいたセミナー書記、生塩ノアが、可憐な笑みを浮かべながらメモ帳をパタンと閉じた。その瞳は、波乱の予感と極上のエンターテインメントを前にして、愛らしく細められている。
「ちょっとノア! なんでそんなに落ち着いてるのよ!? 生徒同士の婚姻届なんて、ミレニアムの開校以来……ううん、キヴォトスの歴史を見ても前代未聞じゃない! データベースの学籍更新処理、どうすればいいの!? 苗字が変わったからって、生徒IDの紐付けから税務区分、備品申請の承認フローまで全部書き換えじゃないのよ──ーっ!」
頭を抱えてデスクに突伏するユウカ。電卓を叩く指が、あまりのショックとパニックで痙攣している。
「ふふ、大丈夫ですよユウカちゃん。既に私の方で『室笠セイカ』名義へのデータベース統合プログラムは組み終えています。備品の『メテオストライカー』関連予算も、すべて『室笠家』の共通口座、あるいは空見観測研究部経由で処理できるように一括申請を出しておきましたから」
「手際が良すぎるでしょうが──ーっ!」
絶叫するユウカの背後で、執務室の自動ドアが滑らかに開いた。
歩み寄ってきたのは、セミナー生徒会長・調月リオであった。黒いジャケットを隙なく羽織り、冷徹とも言える合理性の塊のような佇まいを見せる彼女だったが、その手には既に一枚の決済書類が握られていた。
「静かにしなさい、ユウカ。……もっとも、その混乱は想定の範囲内よ。あなたの心情は理解できなくはないわ」
「り、リオ会長! これ、見てください! セイカとアカネが……!」
「把握しているわ。すでにシャーレから、私にも直接報告が届いている」
リオは静かに眼鏡のふちを押し上げると、シアンブルーの瞳でホログラムに映し出された『室笠セイカ』の文字を見つめた。その厳格な唇の端が、ほんのわずかに、けれど確かに柔らかく弛んでいる。
「外宇宙の脅威『ナイチンゲール』の討滅。そして、ソラノミの完全防衛……。彼女は、自らに課せられていた仮初めの因果を断ち切り、自身の意思で生きる場所と家族を選んだ。……彼女らしい、極めて合理的な決断よ。そして、その選択には敬意を払うべきね」
「リオ会長……。じゃあ、この学籍変更と婚姻届の承認は……」
「異論はないわ。即時承認とする。それどころか──」
リオは手にしたペンで、目の前のホログラム決済文書へ流麗なサインを滑らせた。
「セミナー特別予備費より、二人の門出を祝う特例慶弔費を計上する。ソラノミの維持費補填とは別枠でね。……彼女たちは、その未来を自らの手で勝ち取った。その功績に報いることは、セミナーとして当然の責務よ」
「えっ、特別予備費から祝儀を出すんですか!? リオ会長がそんなに柔軟なんて……!」
「私はいつだって合理的に判断していると言っているでしょう、ユウカ」
リオが淡々と答えたその瞬間──執務室のドアが爆音とともに勢いよく開き、ピンク色の髪をなびかせた少女が跳び込んできた!
「にはははっ!! 聞きましたよ、見ちゃいましたよ! もう、すっごすぎますって──っ!!」
セミナーのトラブルメーカー、黒崎コユキである。彼女は手に持ったタブレットを振り回しながら、ユウカのデスクへ躍り出た。
「にははははっ!! セイカさんとアカネ先輩が結婚!? センパイ同士で結婚ですか!? えっ、じゃあ『室笠セイカ』ってことは、お二人は『室笠ご夫妻』ってことですよね!? ヤバいヤバいヤバいっ!! ミレニアム初のご夫婦誕生じゃないですかーっ!! これはもう歴史的大事件ですよ! 結婚式の二次会の幹事はぜひぜひこの黒崎コユキにお任せくださいっ! 盛大なクラッカーをバーンッ! って鳴らして、祝儀も暗号通貨でドーンッ! と包んじゃいますから──っ!! ……あ、もちろんちゃんと合法なやつですよ? たぶん!」
「コ・ユ・キ────っ!! どさくさに紛れて変な予算を使おうとしないの!!」
「ひえぇぇぇっ!? ユウカ先輩の電卓投げだ──ーっ!! 速っ!? ちょっ、避ける避ける避ける──ーっ!! にはぁぁぁっ、許してくださいユウカ先輩──ーっ!!」
悲鳴を上げて逃げ惑うコユキと、怒髪天を衝く勢いで追いかけるユウカ。
その大騒ぎを、ノアは楽しそうにクスクスと笑いながら見守り、リオは静かに温かいお茶を口に含んだ。
「……賑やかになりそうね。『室笠セイカ』……彼女には、その名前がよく似合うわ」
ミレニアムの最高権力機関「セミナー」において、こうして『室笠セイカ』の誕生は、大混乱と最高の祝意とともに正式に承認されたのであった。
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ミレニアムの地下深くに位置する、各種怪現象や規格外事象を監視・解明するための部署「特異現象捜査部」。
各種モニターや観測機器の電子音が静かに明滅するその部屋で、車椅子に揺られる天才美少女ハッカー・明星ヒマリは、腹を抱えて大爆笑していた。
「ふふ……あはははっ! いやあ、素晴らしい。実に素晴らしいですよ、エイミ! これこそが我が『特異現象捜査部』の活動における、史上最高にして最大の『奇跡』──つまり、最高の『観測結果』です。ええ、これ以上の成果など、そう簡単には得られないでしょう。……もっとも、この超天才病弱美少女ハッカーである私なら、いつかは観測できると信じていましたけれどね。ふふ」
「……ヒマリ先輩。少し静かにして。声、大きい。適正範囲、超えてる……と思う」
隣でジッパーを半開きにした防寒アウターを着た少女、和泉元エイミが、呆れたようにパフェをスプーンですくいながら呟いた。
だが、ヒマリの興奮は一向に収まる気配を見せない。彼女は華奢な手で車椅子のコントロールレバーを操作し、メインモニターに映し出された『室笠セイカ』のバイタルデータと戸籍情報を大画面に表示させた。
「超高度な戦術AIと、世界の因果を書き換えるほどの干渉能力を備えた、あの彼女ですよ? 幾多の未来予測演算、確率解析、戦術シミュレーション……そのすべてを積み重ねた先で彼女が選択した未来が、『大好きなアカネちゃんと同じ苗字になって夫婦になること』だったとは……! ふふっ、あははははっ! 実に、実に素晴らしい観測結果です! この超天才病弱美少女ハッカーである私の予測アルゴリズムをもってしても、この結末だけは最後まで演算し切れませんでした。……ですが、だからこそ価値がある。予測不能だからこそ、それは『奇跡』と呼ぶに相応しいのですよ」
ヒマリは心底嬉しそうに目を細めると、髪をかき上げて胸を張った。
「かつての彼女は、外宇宙の不条理を排除するための『絶対的な兵器』として、自らを消耗し続けていました。……ですが、今の彼女の生体データをご覧なさい。脈拍、自律神経、脳波、ホルモンバランス──あらゆる観測項目が示しているのは、『愛する家族を得て、幸福に満たされた一人の少女』という、これ以上なく明快な解析結果です。ふふ……素晴らしい。実に素晴らしいですよ。この超天才病弱美少女ハッカーである私が、どれほど高度な解析アルゴリズムを用いたとしても、この観測結果を上回る幸福の証明は導き出せません。ええ、断言しましょう。これこそが、彼女にとっての最適解であり、最高のエンディングなのです」
「……うん。セイカ、すごく幸せそうだった。……よかったね、ヒマリ先輩」
エイミはスプーンを止め、静かに画面を見つめた。言葉数こそ少ないが、その瞳には温かな祝福の色彩が宿っている。
「もちろんですとも! さあ、エイミ。立ち止まっている暇はありませんよ! これから史上最高の観測結果を記念する、特製のお祝いビデオメッセージを収録します。こんな歴史的瞬間を記録しないなんて、超天才病弱美少女ハッカーとして到底見過ごせませんからね。ふふ。さあ、カメラの準備をお願いします!」
「……えー。私、喋るの苦手。ヒマリ先輩が一人で喋ればいいと思う」
「何を言っているのですか、エイミ! 仲間からの祝福が増えれば増えるほど、新婚のお二人の幸福度が上昇する──これは私の統計解析でも証明済みの事実なのですよ! ふふ、この超天才病弱美少女ハッカーの導き出したデータを疑う余地はありません。さあ、歴史的観測結果をさらに輝かせるためにも、あなたもレンズの前へ。遠慮は不要ですよ!」
ヒマリに強引にカメラの前へ立たされたエイミは、少し面倒そうに首を傾げながらも、レンズに向かってぽつりと口を開いた。
「……セイカ、アカネ先輩。結婚、おめでとう。……末永く、お幸せに。……今度、お祝いに温かいスープ、一緒に食べよう」
「ふふ、素晴らしいですね。簡潔ながら、十分に心が伝わるメッセージでした。こういうデータは高く評価できます。それでは、お待たせしました。次は私の番ですよ!」
ヒマリはカメラに向かって最高に自信満々な、けれどどこまでも温かい笑顔を向けた。
「室笠セイカさん、そして室笠アカネさん。ご結婚、本当におめでとうございます! ふふ……お二人が選び取ったその未来は、キヴォトスに存在するいかなる数式やアルゴリズムをもってしても導き出せないほど、美しく、そして完璧な『最適解』です。幾千万もの可能性を解析したとしても、この結論を上回る未来は、おそらく存在しないでしょう。どうかこれからも、お互いの手を取り合い、世界で一番幸福な家庭という最高の観測結果を更新し続けてください。……この超天才病弱美少女ハッカー・明星ヒマリが、お二人の未来を心から、そして永久に祝福いたします!」
地下の観測室に響き渡る、誇らしげな祝福の声。
かつて世界の破滅を監視していたスクリーンには今、二人の幸福な未来を証明するデータが、どこまでも優しく輝いていた。
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場所は変わり、ミレニアムの部室棟の一角にある「ゲーム開発部」。
ドアを開けた瞬間、飛び込んできたのはクラッカーの爆音と、無邪気な大歓声であった。
「パパ──ーンッ!!」
「セイカ!! そしてアカネ先輩!! 結婚おめでとうございます──ーっ!!」
ゲーム開発部のアリスが、両手を高く掲げて天高く跳び上がった。その隣では、モモイがニヤニヤと意地の悪い──けれど心からの祝福が込められた――笑みを浮かべて腕を組んでいる。
「いや〜〜〜っ! まさかあの大きくて強くてクールなセイカがねぇ〜〜〜!? アカネ先輩に『婚姻届』を出されちゃって、デレデレの『室笠セイカ』になっちゃうなんてねぇ〜〜〜っ! ねぇセイカ、今の気分はどう!? 苗字が変わって『室笠』になった気分はどんな感じ〜〜〜!?」
「……モモイ。調子に乗りすぎると、お父さんのパンチが飛んできますよ」
淡々とした声でツッコミを入れたのは、ミレニアムの制服を隙なく着こなした室笠ケイであった。
ゲーム開発部の部室のソファーにちょこんと座り、膝の上にノートPCを載せたケイは、生真面目な面持ちでキーボードを叩いている。
「あ、あれ!? ケイちゃん、なんか冷たくない!? だってケイちゃんにとっても、セイカとアカネ先輩が結婚したってことは、本当の意味で『お父さん』と『お母さん』になったってことでしょ!?」
「……言われなくても、客観的データとして理解しています」
ケイは淡々と答えながらも、ほんのわずかに頬を緩ませ、画面を操作した。
「すでに私のローカルデータベースにおいて、家族定義ファイルの更新は完了しています。『天野江セイカ』の参照パスはすべて『室笠セイカ』へと書き換えられました。……ちなみに、現在のお父さんの幸福度指数を計測したところ、測定上限値を大きく突破してエラーを起こしました。完全に照れ隠しのオーバーヒート状態です」
「あはははっ! セイカったら分かりやすすぎ──ーっ!」
モモイが大爆笑する横で、双子の妹であるミドリは、スケッチブックに夢中でペンを走らせていた。
「……んー、ウェディングドレスのアカネ先輩と、タキシード姿のセイカさん……うん、絶対映えるよね! 190cmのセイカさんがタキシードを着たら、モデルさんみたいで絶対カッコいいよ……! アリスちゃん、ちょっと参考ポーズ取ってみて!」
「はい! 勇者のポーズです!」
「アリス、勇者のポーズじゃなくて、新郎が新娘を抱きかかえる『お姫様抱っこ』のポーズだよ!」
「お姫様抱っこ! 了解しました! アリス、筋力値には自信があります!」
「ちょっとアリス、私を持ち上げないで──ーっ!?」
ドタバタと騒がしい部室の中で、ケイは膝の上のPC画面を愛おしそうに見つめていた。
画面の中に作成された新しいフォルダ──【室笠家_家族データ】。
そこには、ソラノミで撮影されたお父さんとお母さん、そして自分の3人が並んだ笑顔の写真が、大切に保存されていた。
「……ふふ。お父さん、お母さん。ゲームのセーブデータと同じです。……この温かい日常は、私が絶対に上書き削除なんてさせませんから」
生真面目な娘の静かな誓いとともに、ゲーム開発部の部室には、いつまでも賑やかな祝福のゲームオーバー――ではなく、最高のクリアファンファーレ――が響き渡っていたのだった。
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ミレニアムの誇る秘密特殊奉仕室「C&C(Clean&Clearing)」。
普段は冷徹に任務を遂行するエージェントたちが集うそのサロンで、この日、一際大きな「歓声」と「衝撃」が同時に弾けていた。
「きゃはははっ♪ えぇーっ!? 本当に!? あのセイカちゃんが『室笠』になっちゃったなんて、びっくりだよ~! えへへ♪ なんだかすっごく幸せそうで、私まで嬉しくなっちゃう!」
金髪を揺らしながら、無邪気な大笑顔でソファの上を跳ね回っているのは一ノ瀬アスナだ。
彼女の手には、アカネから個人的に送られてきたメッセージ画面が映し出された端末が握られている。
「すごーい! アカネちゃんとお揃いの苗字だよ! ねぇカリンちゃん、これって実質『C&Cの家族』が増えたってことだよね!?」
「あ、ああ……そうだな。……いや、正直驚いたが……」
隣でスナイパーライフルの手入れをしていた角楯カリンが、作業の手を止めて深く息を吐いた。照れくさそうに視線を泳がせながらも、その目元には隠しきれない温かな祝福の色彩が浮かんでいる。
「……あのアカネが、あんなに幸せそうな顔をして報告してくるなんてな。あいつはいつも自分のことを後回しにして、俺たちのサポートばかりしていたから……自分の本当の幸せを掴んでくれたのは、素直に嬉しいよ」
「ふん……何を感心してんだよ。そんなんで驚いてんじゃねぇ」
部屋の奥、アームチェアに深く腰掛けたC&Cの部長・美甘ネルが、腕を組みながら不機嫌そうに鼻をならした。
スカジャンを羽織り、足を投げ出したその態度は相変わらず粗野に見えるが、彼女の足元にはミレニアム最高級洋菓子店から特注で取り寄せられた、巨大な豪華デコレーションケーキの箱がデンと置かれている。
「ったくよぉ……生徒同士で婚姻届なんて出しやがって、どこまで型破りなんだよ、あいつらは。……ま、あのバカでかい図体でアカネを命懸けで守り抜いたってんなら、その根性だけは認めてやるけどよ」
ネルは短く溜息をつくと、赤い瞳を鋭く光らせて立ち上がった。
「おい、カリン、アスナ。ケーキと祝いのノミモン持ってソラノミに乗り込むぞ。……『室笠セイカ』のツラ、直接拝んで一発言ってやらねぇと気が済まねぇ」
「きゃはっ♪ 部長のお祝い殴り込みだ~! えへへっ、楽しそうだし私も一緒に行こ~♪」
「……やれやれ。手加減してあげてください、ネル先輩」
ネルはケーキの箱を片手で豪快に抱え上げると、ふっと口元をニヤリと歪ませた。
「へっ……『アカネ泣かせたら、ソラノミごとブチ壊してやる』……それがあたしからの祝辞だ。ちゃんと受け取れよ、室笠セイカ」
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夕闇が静かに包み込む「ソラノミ」のプライベートルーム。
普段は整然とした広々とした室内は今、キヴォトス各地から送られてきた大量の「結婚祝い」の品々で足の踏み場もないほどに埋め尽くされていた。
セミナーからの豪華な特別記念品、特異現象捜査部からの謎の健康観測機器、ゲーム開発部からの手作りお祝いイラスト、C&Cが持ってきた特注ケーキの箱……。
「……ふふ、本当に賑やかですね。皆さんからの温かいお祝いのお気持ち、本当に感謝してもしきれません」
エプロン姿の室笠アカネが、愛おしそうに一つひとつのプレゼントを整理しながら、柔らかく微笑んでいる。
その胸元には、茜色の夕日に照らされて美しく輝く婚約指輪。
そこへ、背後から静かな足音が近づいてきた。
室笠セイカが、無言のまま優しくアカネの細い身体を後ろから包み込むように、そっと腕を回した。
「……セイカさん?」
アカネが嬉しそうに目を細め、セイカの腕の中に背中を預ける。
セイカはアカネの首元に深く顔をうずめ、彼女から漂う温かな紅茶の香りを静かに吸い込んだ。
「……アカネ」
いつもの静かで平熱な、けれど深く満ち足りた熱を孕んだ声。
「『天野江』という苗字を捨て、あなたと同じ『室笠』の名を背負った時……胸の奥で、長年漂っていた冷たい違和感が完全に消え去りました」
セイカの大きな手が、アカネの小さな手をそっと包み込み、重ね合わされた二人の薬指の指輪がかちりと温かな音を立てる。
「世界の兵器としてではなく……不条理を払う存在としてでもなく。……私は、あなたと同じ苗字になることで、ようやく自分の本当の『居場所』が、この世界にただ一つだけ完成したのだと……そう確信できました」
「……セイカさん……っ」
アカネの目元が愛おしさに潤み、重ねられた手へと愛を込めてギュッと握り返す。
二人だけの至高の空間。言葉などなくても通じ合う、完璧な夫婦の温もり。
──そこへ。
「……お父さん、お母さん。大変申し訳ありませんが、私の中に搭載された『惚気防止センサー』は、現在の室内環境において完全に機能停止しております」
ドアの隙間から、生真面目な面持ちの室笠ケイがぬっと顔を覗かせた。
膝にノートPCを抱えたケイは、淡々としたトーンで正論を並べ立てる。
「二人から検出される熱量および多幸感指数が空間許容量を超過しています。論理的に考えて、これ以上の密着は私の精神衛生上、著しいオーバーヒートを引き起こすリスクが存在します」
「ふふ、ごめんなさいね、ケイ。つい、お父さんと甘えたくなってしまって」
アカネがクスクスと笑うと、ケイはほんのりと頬を朱に染め、「……甘えるのは論理的権利ですので、許可します」と小さく呟いて、照れくさそうに視線を逸らしたのだった。
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翌日。雲ひとつない快晴の下、三人は連邦捜査生「シャーレ」のオフィスを訪れていた。
デスクの前に並んで立つ、室笠セイカ、室笠アカネ、そして室笠ケイの三人。
先生は手に持った『婚姻届受理証明書』を満足げに眺めると、心からの温かな笑顔を三人へと向けた。
"改めて……セイカ、アカネ。結婚、本当におめでとう!"
「ありがとうございます、先生」
アカネが腕を組みながら、誇らしげに微笑む。
そして、セイカが一歩前へ踏み出た。タクティカルバイザーを外した素顔、澄み渡るシアンブルーの双眸が、まっ直ぐに先生を見つめる。
「先生。……私はこれより、『室笠セイカ』として新たな人生を歩み始めます。……かつて世界を守るために戦ったこの力は、これからは愛する『室笠家』の二人を守るため、そして二人とともに生きるこのキヴォトスの平和を守るために振るいます」
迷いのない、確固たる信念に満ちた宣言。
だが、その直後──隣にいたケイが、すっと手元の端末を開いて無表情で告げた。
「……補足いたします。お父さんは本日、シャーレへ向かう道中において『アカネと同じ苗字で呼ばれるたびに、心拍数が平均15%上昇する』という謎のデレ現象を起こしておりました。現在の精神状態はデレデレです」
「ケ、ケイ……っ!? な、何を言っているのですか……っ!?」
淡々と娘に暴露された瞬間、あの冷静沈着で190cmのクールなセイカが、顔を耳まで真っ赤に染め上げて狼狽した。
「事実の客観的データ分析です、お父さん。恥ずかしがる必要はありません」
「っ……! ろ、論理的ではありません……っ!」
照れ隠しでしどろもどろになるセイカと、そんな彼女の手を嬉しそうに握りしめるアカネ。
その微笑ましすぎる「室笠家」のやり取りに、先生はこらえきれず大爆笑した。
"あはははっ! 最高だよ、室笠家! これからもよろしくね、セイカ!"
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茜色の夕陽が、キヴォトスの街並みをどこまでも優しく染め上げていく。
ソラノミのバルコニーへと続く石畳の道を、二人並んで歩く影。
歩調を完璧に合わせた二人の影は、夕日の光を受けて長く、深く重なり合っていた。
かつて外宇宙の果て、世界の不条理と戦かった時の名──「天野江セイカ」。
その名は、もうどこにも存在しない。
今、ここにいるのは。
愛する人の手を取り、同じ苗字を胸に抱き、温かな家族とともに明日へ向かって歩む一人の少女。
『室笠 セイカ』
風が吹き抜け、彼女の左耳に飾られた「白い三日月のイヤリング」が、シャランと美しく清らかな音を奏でた。
「……セイカさん」
「はい、アカネ」
繋いだ手の指輪が、夕闇の中に美しく煌めく。
寄り添い合う二人の笑い声と、後ろから追ってくる愛娘の足音。
夫婦となった二人の、そして「室笠家」の、新しく愛おしい日常は、これからもずっと、ずっと続いていく──。