宇宙戦艦「ソラノミ」の朝は、静かで澄み切った微振動とともに始まる。
キヴォトスの高度数千メートルを悠然と航行するその巨大な艦体の中には、下界の喧騒や砂漠の荒涼とした風は届かない。壁面のダクトから吹き出す空気は絶妙な湿度と温度に保たれ、通路を照らすLEDパネルはやわらかな初夏の朝日を模した白金色に輝いていた。
自動ドアが滑らかな電子音を立てて左右へと開く。
自室からそっと足を踏み出したのは、砂狼シロコ──今やこの家の長女となった『室笠シロコ』であった。
シロコは歩廊に立つと、まず自分の両手を顔の前にかざした。
指先を握り締め、ゆっくりと開く。
かつてアビドスの壊れた廃墟で、黒い砂にまみれながら握りしめていた銃の感触はない。擦り切れていた衣装は、ミレニアムの最新技術とアカネの丁寧な手仕事によって完璧に仕立て直され、彼女の身体に優しくフィットしていた。銀色の髪からは、かつて染み付いていた乾いた砂の匂いや硝煙の残香はすっかり消え去り、今ではアカネが選んだやわらかなフローラルのシャンプーの香りが微かに漂っている。
「(……朝だ)」
シロコは小さく息を吐き出した。
この宇宙戦艦に引き取られ、「室笠」という新しい姓を与えられてから数日。
朝起きて、顔を洗い、着替える。
そんな当たり前の動作のすべてが、彼女にとっては未だに夢の中の出来事のように現実感を欠いていた。
かつての彼女にとって、朝とは「生存を確認する時間」だった。
目が覚めれば、まず周囲の警戒ログを確認し、銃の残弾を数え、残された不味い非常食を水で流し込む。それが彼女の生きていた世界のすべてだったのだ。
だが、ここでは違う。
トン、トン、トン……。
静かな廊下の先、居住エリアの中央に位置する広大なキッチンから、心地よい包丁の音と香ばしい匂いが漂ってきた。
「──あ、シロコ。おはようございます」
キッチンのカウンター越しに、室笠アカネが優しく微笑んでいた。
クラシカルなメイド服の上から白く清潔なエプロンを身につけ、手際よく朝の片付けを進めていた彼女は、シロコの姿を認めると、手にしていたふきんを置いてそっと歩み寄ってきた。
「おはよう……お母さん」
シロコの唇から漏れた、ほんのわずかに掠れた声。
まだその単語を口にするたび、耳の先端がくすぐったいような熱を帯びる。数日前、砂漠でセイカに手を取られ、涙とともに絞り出したあの誓い。けれど、実際に面と向かって「お母さん」と呼ぶのは、未だに気恥ずかしさが勝ってしまう。
しかし、アカネはその呼び声を聞くたびに、まるで世界で一番大切な宝物をもらったかのように目元を緩めるのだ。
「ええ、おはようございます、シロコ。昨夜はよく眠れましたか?」
「うん。……すごく、ぐっすり眠れた。……夢も、見なかった」
「それは何よりです。ソラノミのエアロ・ディープスリープ機能も効いているのでしょうけれど、何よりシロコの心が休まっている証拠ですね」
アカネはシロコの前に立つと、自然な所作で彼女の寝癖をそっと指先で整えてくれた。
触れ合う手首から伝わってくる、温かく穏やかな体温。シロコはその触れ合いに身を委ねながら、居心地の良さと、どこか申し訳ないようなむず痒さを感じていた。
「……あの、お母さん」
「はい、何でしょう?」
「私……何か手伝うこと、ある? ダクト掃除とか、艦内の哨戒なら、すぐにできるけど」
じっとしていることが落ち着かないシロコは、耳をぴんと立てて問いかけた。自分はただここにいていい存在ではないはずだ、という過去の習慣が、無意識に彼女を動かそうとする。
だが、アカネはくすりと可憐に笑うと、首を横に振った。
「ふふ、哨戒も清掃も結構ですよ。今日は朝のルーティンもすべて終わってしまいましたし……そうですわね」
アカネは少し思案するように顎に指を当てると、パッと表情を輝かせた。カウンターの下から、畳まれた小さなエプロンを取り出して見せる。
「せっかく時間がたっぷりあるのですから……今日は一緒に、クッキーでも焼いてみませんか?」
「クッキー……お菓子、作り……?」
シロコは目を丸くした。
銃の分解清掃、タクティカルリロードの訓練、障害物踏破、自転車のパンク修理。シロコがこれまでの人生で培ってきたスキルの中に、「お菓子を作る」という項目は一つとして存在しなかった。
「……私、お菓子なんて作ったことない。……上手にできるか、分からない」
正直に告白するシロコ。自分のような粗雑で壊れた存在が、そんな可愛らしい「お菓子」などという繊細なものを作って良いのだろうか。失敗して、材料を無駄にしてしまうのではないか。
そんなシロコの不安を察したように、アカネはエプロンをシロコの頭から優しくくぐらせ、背中で紐をきゅっと結んであげた。
「大丈夫ですよ。初めてなんですから、うまくできなくて当たり前です。大切なのは完璧に作ることではありません……楽しむこと。そして、出来上がったものを家族みんなで『おいしいね』と分け合うことですから」
「……家族で、分け合う……」
「ええ。さあ、手をと綺麗に洗って、クッキングをはじめましょうか」
背中を優しくポンと押され、シロコは吸い寄せられるように洗面台へと向かった。
自分の胸の奥で、カチリと何かが新しく動き出す音が聞こえた気がした。
__________
広々としたキッチンの調理台の上には、アカネの手によって手際よく材料が並べられていった。
白い陶器のボウル、ふるい器、木ベラ。
そして、秤の上に乗せられたバター、きび砂糖、小麦粉、そしてアクセント用の小さなチョコレートチップ。
「クッキーの作り方は、とってもシンプルなんですよ」
アカネがシロコの隣に立ち、ゆっくりとした口調で説明を始める。
「まず、常温に戻したバターをクリーム状になるまで練って、そこにお砂糖を加えます。次に卵を少しずつ混ぜて……最後に小麦粉を加えて、サックリと切り混ぜるのです」
「……切り混ぜる?」
「ええ。ぐるぐる練ってしまうと生地が硬くなってしまいますから、こうして……木ベラで『切る』ように混ぜるのがコツですね」
アカネが手本を見せる。彼女の無駄のない洗練された手つきは、まるで優雅な舞踊のようだった。木ベラがボウルの端を滑り、生地が少しずつまとまっていく。
「さあ、シロコもやってみてください」
「……ん。やってみる」
シロコは意気込んで木ベラを両手で握りしめた。
目の前のボウルには、アカネが計量してくれた小麦粉が山のように盛られている。
「(よし……ミッション開始。ターゲット、小麦粉の均一な混ざり込み。……切るように、力強く……!)」
シロコの脳内で、戦術動作と同等のコマンドが構築された。
彼女は真剣そのものの鋭い眼差しでボウルを見つめ、腕の筋肉に力を込めて、一気に木ベラを振り下ろした。
──それが、完全な計算違いであった。
プチッ、ふああっっっ!!!
「っ……!? ひゃっ!?」
ボウル底に叩きつけられた木ベラが小麦粉を盛大に跳ね上げ、一瞬にして爆発的な粉煙がキッチンに立ち込めた。
煙幕のような白い粉が視界を奪う。
シロコの鼻頭、眉毛、そして綺麗な銀髪が見事に真っ白に染まり、隣で優しく見守っていたアカネの顔やメイド服にも、うっすらと白銀の粉が降り積もった。
「つ、あ……っ」
視界が晴れると、そこには悲惨な──あるいはコミカルな──惨状が広がっていた。
シロコは思わず耳をペタンと寝かせ、猫のように体を小さく縮めて身構えた。
「ご……ごめんなさい……! 私、力加減を間違えて……! 敵の攻撃じゃなくて、粉が……!」
失敗した。せっかく用意してくれた材料を台無しにしてしまった。お母さんを汚してしまった。怒られる、あるいは呆れられて「やっぱりあなたは駄目だ」と言われてしまうのではないか。
過剰な罪悪感と恐怖が、シロコの胸を締め付ける。
しかし──
「パチ、パチ……ふふっ」
「……え?」
アカネはパチパチと粉のついたまつ毛を瞬かせると、エプロンの袖で鼻の頭をちょんと拭った。そして、心底楽しそうに、鈴を転がすような声で笑い出したのだ。
「ふふふ、見事な先制攻撃ですね、シロコ。まるで雪山からやってきた小さな白い妖精さんのようです」
「……笑うところじゃないよ、お母さん。服も、顔も、粉だらけに……」
「これが笑わずにいられましょうか?」
アカネは膝を折り、シロコと目線を合わせると、手持ちのハンカチでシロコの頬や鼻についた小麦粉を、優しく優しく拭い取ってくれた。
「最初に言ったでしょう? 失敗しても大丈夫なのだと。こうして粉まみれになって、二人で『やっちゃったね』と顔を見合わせる……これこそが、家族でお菓子を作るときにしか味わえない、最高に愛おしい思い出なのですから」
「おも……いで……?」
「ええ。完璧なクッキーなんて、お店で買えばいくらでも手に入ります。でも、シロコが粉を飛ばして作ってくれたクッキーは、世界にひとつしか存在しないのですから」
アカネの言葉には、一切の偽りも、無理をした優しさもなかった。ただ純粋に、シロコと一緒にキッチンに立っていることそのものを心から喜んでいる。
シロコは拭われていく自分の顔の温かさを感じながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「……うん。……次は、もっとそっとやる」
「ふふ、ええ。その意気ですよ」
シロコはもう一度木ベラを握り直すと、今度はそっと、撫でるように生地を切っていった。少しずつ、けれど確実に、小麦粉とバターがひとつに溶け合っていく。
__________
ふたりが生地の感触に集中し始めたその時、キッチンの自動ドアが軽やかな電子音とともに開放された。
「──おや、なにやら楽しそうなカロリー消費イベントが発生している模様です」
入ってきたのは、ミレニアムサイエンススクールの制服を隙なく着こなした室笠ケイであった。
彼女は胸元に小型のデータ端末を抱え、調理台の上に広がる惨状(主に床やカウンターに飛び散った白い粉)と、エプロン姿のふたりを目ざとく観察した。
「状況を分析。お母さんならびにシロコお姉ちゃんによる、クッキー製造シークエンスと判定。室笠家の次女として、プロセスの最適化および計量支援を実施します」
ケイは生真面目な顔で歩み寄ると、制服のポケットからミリ単位の精度を誇るデジタル計測器と電子秤を取り出し、調理台の上へカチリとセットした。
「お姉ちゃん、バターと砂糖の乳化プロセスにおいて、材料の重量誤差は0.1グラム以内に抑える必要があります。誤差が大きくなると、焼き上がり時の油脂分分離リスクが3.2%上昇します」
「えっ……0.1グラム……?」
シロコが包丁を手に固まった。0.1グラム単位の精度など、狙撃の風速計算か爆薬の調合でしか聞いたことがない。
「ケイちゃん、お料理は化学実験ではありませんから、そこまで精密でなくても良いのですよ?」
アカネが苦笑しながらフォローを入れるが、ケイは譲らなかった。
「いいえ、お母さん。加熱調理におけるタンパク質の変性と糖のカラメル化反応は、厳密な化学反応です。室笠家の長女が作る記念すべき初回製品において、不純物や計算誤差による品質低下は許容されま──」
「──ケイ。クッキー作りに軍用精度は不要です」
重厚で、けれどどこまでも平熱の落ち着いた声が、キッチンの入口から響き渡った。
全員が振り返る。
そこに立っていたのは、上着を脱ぎ、白シャツの袖を腕まくりした姿の室笠セイカであった。
普段の冷徹な観測士としての重圧感を漂わせる戦闘装備ではなく、今日の彼女はどこかリラックスした雰囲気を纏っている。けれど、その深遠な顔立ちの中で静かに輝く紫の瞳には、我が家の微笑ましいやり取りを愛おしそうに見つめる光が宿っていた。
「お父さん」
ケイがピシッと背筋を伸ばし、端末を胸元へ抱え直す。
セイカはゆっくりとキッチンへ足を踏み入れ、調理台の上を見下ろした。
シロコが一生懸命に型抜きをした、最初の星型クッキー。
角が少し欠けており、全体的に少し歪に歪んでいる。
「……失敗した。星の形が、綺麗に出なかった……」
シロコは少し気まずそうに、耳をペタンと寝かせてうつむいた。ケイの言う通り、自分の大雑把な手つきのせいで「不純な品質」になってしまったのではないかと思ったのだ。
しかし、セイカはシロコの小さな頭の上に、そっと大きくて温かな手を乗せた。
「いいえ。初回のアテンプトとしては、十分に高品質です」
「……ほんとう?」
「ええ。何より……私の『初めての調理成果』と比較すれば、成功率は圧倒的に上ですね」
セイカのその言葉に、隣にいたアカネが「あら」と悪戯っぽく目を細めた。
「ふふ、覚えていらっしゃいますか、セイカさん? 昔、私に振る舞おうとしてくださった、あの特製スープのことを」
「……アカネ。その件についてのデータベース参照は不要です」
セイカはわずかに視線を泳がせ、長身を少しだけ丸めた。白顔の耳の端が、ほんのりと朱に染まっている。
「お父さん、スープ……焦がしたの?」
シロコが不思議そうに尋ねると、アカネが楽しそうに語り始めた。
「ええ。熱伝導率と分子構造の過給演算を完璧に計算したとおっしゃっていたのですが……温度設定の単位を摂氏と華氏で間違えてしまって、お鍋ごと真っ黒に焦がしてしまわれたのですよ」
「……否定はできません。パラメータの入力値に致命的な誤りがありました」
珍しく照れたように咳払いをするセイカお父さん。
普段はあらゆる不条理を粉砕し、絶対的な理知を誇る最強の存在が、過去に料理で大失敗をしていたという親しみやすい事実。
「ふふ……っ」
シロコは思わず、くすっと小さな笑い声を漏らした。
「なんだ……お父さんも、失敗することあるんだね」
「もちろんです、シロコ。私は完璧な存在ではありません。……ですから、あなたの小さな失敗など、この室笠家においては何の問題にもならないのです」
セイカが、どこまでも優しくシロコを見つめる。
お父さんも失敗する。お母さんも笑って許してくれる。妹のケイも、なんだかんだ言って隣で心配そうに見つめてくれている。
ここには、失敗したからといって切り捨てられる冷酷な世界などどこにもないのだ。
「さあ……続けて型抜きをしなさい、シロコ。あなたの作るクッキーの形を、私は楽しみにしています」
「……うん!」
シロコは力強く頷くと、もう一度型を握り直し、生地の上へとそっと押し当てたのだった。
__________
型抜き作業は、室笠家の個性そのものを映し出すような賑やかな工程となった。
シロコは少し不器用ながらも、ひとつひとつ集中して型を生地に押し当てていく。
星の角が少し欠けた形、少し膨らんで丸みを帯びた形──形はバラバラだったが、そこには彼女が込められる限りの丁寧さと真剣さが溢れていた。
「ふふ、シロコの型抜き、とても可愛らしくできていますよ」
隣で作業するアカネの手元には、寸分の狂いもない綺麗な円型の生地が整然と並べられていた。長年メイドとして培ってきた完璧な手仕事の賜物だ。
「……お母さんのは、すごく綺麗。売り物みたい」
「慣れですよ。でも、私のは少し行儀が良すぎるかもしれませんね。シロコの作った星型の方が、ずっと温かみがあって素敵です」
「……そうかな」
照れくさそうに耳をピコピコと揺らすシロコ。
その横では、ケイが分厚い三角定規とノギスを手に、真剣な眼差しで幾何学的な正六角形を切り出していた。
「分析結果報告。正六角形は、天板上の空間充填効率において数学的最適解です。焼きムラの発生確率を最小限に抑えられます」
「ケイ、クッキーはパズルではありませんよ?」
アカネのクスクスとした笑い声がキッチンに響く。
そして、少し離れた位置で不器用そうに腕を組んでいたセイカもまた、アカネから渡された大きめの丸型を手に取り、静かに生地へ押し当てた。
真面目そのものの表情で出来上がったのは、武骨で他の誰のよりも少し大きな丸いクッキーだった。
「……形状の均一性において、課題が残りますね」
自身の作った生地を見つめ、平熱の声で自己評価を下すセイカお父さん。
「いいえ、お父さん。大きくて力強くて、すごくお父さんらしいです」
シロコが真っ直ぐな瞳でそう告げると、セイカはほんのわずかにを和らげ、「……そうですか」と小さく頷いたのだった。
「さて、天板がいっぱいになりましたね。では、オーブンへ投入いたします」
アカネが手際よく予熱の完了したオーブンの扉を開け、四人の手によって作られた賑やかな生地たちを中へと滑り込ませた。
扉が閉まり、タイマーがカチカチと音を刻み始める。
数分と経たないうちに、ガラス窓の向こうで生地がふっくらと膨らみ始め、キッチンからリビング全体にかけて、甘く香ばしいバターとカラメルの幸せな香りが広がり始めた。
「……すごく、良い匂い」
シロコは思わずオーブンの前にしゃがみ込み、ガラス越しに中の様子をじっと見つめた。
香ばしい匂いが鼻腔をくすぐるたび、お腹が小さく鳴りそうになるのを必死で耐える。
「焼き上がりまであと三分です。シロコお姉ちゃん、視覚による監視はオーブンのセンサーが代行しておりますので、離れて待機することを推奨します」
「ううん。ここで見てる。……刻々と変わっていくの、すごく面白いから」
シロコのその無邪気な反応に、セイカもアカネも、どこまでも愛おしそうな眼差しを向けずにはいられなかった。
チーン!
軽やかなベルの音が鳴り響き、調理完了を知らせた。
「さあ、出来上がりましたよ!」
アカネがミトンをはめ、慎重に天板を取り出す。
そこに広がっていたのは、こんがりと美しいきつね色に焼き上がった、世界にひとつだけのクッキーたちだった。
シロコの少し欠けた星型も、アカネの綺麗な円も、ケイの完璧な六角形も、セイカの大きな丸も、熱によってふっくらと合わさり、どれもが最高に美味しそうな光沢を放っている。
「……できた」
「ええ、大成功です! さあ、冷めないうちに焼き立てをひとつ、味見してみましょう」
アカネが網の上で少し粗熱を取ったクッキーを、シロコのお皿へと乗せてあげた。
シロコは少し緊張した面持ちで、自分が作った星型のクッキーを指先でつまみ上げ、口へと運んだ。
サクッ……。
繊細で心地よい音が口内に響き、次の瞬間、バターの濃厚な香ばしさと優しい甘みが、溢れ出すように広がった。
「……っ美味しい……! すごく、美味しい……っ!」
シロコの顔が、パッと明るい喜びで満たされた。
自分が作ったものが、こんなにも温かくて美味しいのだという感動。
「味覚センサおよび脳内反応ログを解析」
ケイも自身の作った六角形クッキーをかみしめながら、静かに、けれど嬉しそうに報告する。
「幸福度インデックスが平常値の142%まで上昇。結論として、本調理ミッションは極めて高品質な成果を達成しました」
「ふふ、大成功ですね、シロコ」
アカネが目元を緩め、セイカもまた自身の大きなクッキーを口にし、「……素晴らしい味です」と深く満足そうに頷いた。
__________
四人がテーブルを囲み、焼き立てのクッキーの美味しさを分かち合っていたその時──
ピンポーン、とソラノミのメイン玄関から、来訪者を知らせる軽やかなインターホンが響き渡った。
「あら? こんな時間にどなたかしら」
「外部センサーログを参照。……シャーレの先生です。玄関ハッチ前にて待機中」
「先生……!?」
ケイの報告を聞いた瞬間、シロコはパッと耳を立てて立ち上がった。
お皿をテーブルに置くと、吸い寄せられるように玄関へと駆け出していく。
重厚なハッチが滑らかな電子音とともに開き、外の回廊からシャーレの先生が姿を現した。
"やあ、シロコ。近くまで用事があったから寄ってみたんだけど──"
先生は言葉の途中でパチパチと目を瞬かせ、驚いたようにシロコを見つめた。
そこにいたのは、かつてアビドスの砂漠で孤独に肩を震わせ、今にも消えてしまいそうだったあの少女ではなかった。
エプロンを身につけ、銀髪に少しだけ白い小麦粉をつけながら、誇らしげで、どこまでも自然で可憐な笑顔を浮かべた一人の少女だ。
「先生! ちょうど良かった……! いま、クッキーが焼けたところなの」
"クッキー? シロコが作ったの?"
「うん。お母さんに教えてもらって、みんなで作ったの。……先生の分もあるよ。入って」
シロコに手を取られ、そのままリビングへと促される先生。
リビングの扉を開けると、そこには温かな紅茶を準備しているアカネ、端末を抱えてペコリとお辞儀をするケイ、そしてシャツ姿で静かに佇むセイカの姿があった。
「ようこそ、先生。丁度良いタイミングでしたね」
アカネが上品な所作で手際よく新しいカップを並べ、淹れたての高貴な香りが漂う紅茶を注いでいく。
「さあ先生、どうぞ召し上がってください。シロコがとっても頑張って作ったのですよ」
"ありがとう、いただきます。……うん! すごくサクサクしてて、バターの香りが効いてて美味しいよ、シロコ!"
先生がシロコの作った星型クッキーを口にし、心からの笑顔で褒めたたえる。
「……うん。……よかった」
シロコは照れくさそうに耳を伏せながらも、嬉しそうに頭をかいた。その姿はどこからどう見ても、愛される家族の長女そのものだった。
__________
賑やかなティータイムが流れる中、先生は温かい紅茶を一口含み、向かいに座るセイカへと視線を向けた。
"それにしても、セイカ。ソラノミの艦内整備や、周囲の警戒観測の方は順調かな? いつも膨大なデータを処理して、忙しそうにしているから……少し気になっていたんだ。無理はしていない? 私にできることがあれば、遠慮なく言ってほしい"
先生の問いかけに対し、セイカは手元のカップをそっとテーブルの上に置いた。
彼女の深遠な顔が、シロコとアカネ、そしてケイが楽しそうにお菓子を分け合っている光景を静かに見つめる。
「本日……すべての防衛演習、ならびに高度警戒演算シークエンスは休止としています」
"えっ、セイカが演算を休止しているのかい? 珍しいね"
驚く先生に対し、セイカは平熱の落ち着いた声で、けれど迷いのない力強さを込めて言った。
「ええ。今日は……家族との時間を最優先する日です」
セイカの言葉に、テーブルの全員の動きがふっと止まった。
「かつての世界において、私は観測者として、あるいは兵器として効率と論理のみを求めて存在していました。ですが……今の私には、守るべき『室笠家』という居場所があります」
セイカは隣に座るアカネと視線を合わせ、続いてシロコとケイの頭へ、慈愛に満ちた眼差しを向けた。
「愛する家族とともに過ごし、同じお菓子を味わい、笑い合う時間……。それ以上に優先すべきミッションなど、このキヴォトスのどこにも存在しませんから」
お父さんとしての、確固たる覚悟と誓い。
その言葉の重みに、先生は深く感じ入るように微笑み頷いたのだった。
__________
温かなティータイムが過ぎ、先生を見送った頃には、窓の外の景色はあたたかな茜色から、深紺の美しい夜空へと静かに移り変わっていた。
片付けを終えたソラノミの巨大な観測室。
シロコは温かい紅茶の残るカップを両手で包み込みながら、巨大なガラス窓のすぐそばに一人立っていた。
静寂に包まれた観測室の窓の外には、果てしない群青色の夜空が広がり、雲の隙間からすっと差し込むように、白銀に輝く一筋の「白い三日月」が浮んでいる。
数日前まで──。
自分は、荒涼としたアビドスの壊れた廃墟で、たった一人で冷たい夜風に打たれていた。
帰る場所もなく、温もりを知らず、ただすり減っていく未来を諦めるように受け入れていた。
けれど、今は。
ふと後ろを振り返れば、キッチンで優しく片付けの続きをしているお母さん(アカネ)がいる。
端末を叩きながら明日の朝食の栄養バランスを計算している妹(ケイ)がいる。
そして──。
自分のすぐ隣に静かに歩み寄り、寄り添ってくれているお父さん(セイカ)がいる。
ガラス窓に映る、自分たちの姿。
そこには、もう孤独な狼の姿はどこにもなかった。
シロコは窓の外に浮かぶ三日月を見つめ、小さく、けれど胸の奥から溢れ出るような愛おしさを込めて呟いた。
「……こんな普通の日が……一番、幸せなんだね」
銃をぶっ放すスリルも、命を懸けた戦いも、破滅の危機もない。
ただ家族で笑い合い、失敗しながらお菓子を作り、「美味しいね」と分け合う時間。
それが、どれほど贅沢で、どれほど尊い奇跡なのかを、シロコは今、全身で理解していた。
セイカはシロコの小さな呟きを聞き、その小さな頭の上に、大きくて温かな手をそっと乗せた。
「……ええ」
セイカが、窓の外の白銀の月明かりと共鳴するように、美しく深く輝く。
「この何気ない……あまりにも愛おしい日常こそが。私たちが手を取り合い、戦い抜き、守りたかった……最高の未来です」
ソラノミは静かな夜空を滑るように航行していく。
艦内には、焼き上がったクッキーの甘い香りと、温かな家族の笑い声がいつまでも、どこまでも心地よく漂い続けていた。
世界を失いかけた一匹の狼は、今、愛する家族の真ん中で──かけがえのない「普通の日々」という本当の幸せを、静かに、深くかみしめているのだった。