ミレニアムサイエンススクール中央タワー、セミナー執務室。
午後の光が斜めに差し込む室内には、ホログラムディスプレイから投射された無数の青いウィンドウが浮遊し、独特の機器作動音と電子効果音が低く響いていた。
「……いいですか、C&Cの皆さん! 今回の件は、ミレニアムの安全保障と信用に直結する極めて重大な案件なんです! 遊びや腹いせで動くことだけは絶対に許されませんからね!」
セミナー会計、早瀬ユウカの怒声に近い説教から始まった作戦ブリーフィングは、かれこれ三十分を超えようとしていた。ユウカは手に持った端末の画面を鋭い手つきでスワイプしながら、頭痛をこらえるように目元を押さえている。
大型ホログラムモニターの中央に映し出されているのは、太平洋上を悠然と航行する一隻の超大型豪華客船──オデュッセイア海洋高等学校が世界に誇る洋上都市型クルーズ船「ゴールデンフリース号」の精密な三次元構造図面であった。
「ターゲットは、ミレニアムから逃亡中の『白兎』──黒崎コユキ。彼女がセミナーの金庫から持ち出した極秘の暗号解読アルゴリズム、およびそれを悪用して得た巨額の裏金が、ゴールデンフリース号の闇カジノを介して流出・洗浄されようとしています。今回の最優先事項は、黒崎コユキの確実な身柄確保、ならびに盗み出されたデータの完全回収。潜入作戦となるため、公にはミレニアムの正規部隊を動かすことはできません」
ユウカの真剣な説明を、ソファーに深く腰掛けた美甘ネルは退屈そうに聞いていた。足をテーブルの上に豪快に放り投げ、胸の前で腕を組みながら、鼻でふんと息を吐き捨てる。
「はっ、御託はいいんだよ御託は。要するに、その豪華客船とやらに潜り込んで、邪魔な警備どもを片っ端からぶちのめし、あのバカガキの首根っこ掴んで引きずり回せばいいんだろ? さっさと暴れさせてくれよ。ここ最近、ろくな仕事がなくてストレスが溜まってんだ」
「ネル先輩! 暴れるのが目的ではありませんと言っているでしょう!? 相手はオデュッセイアの管轄領域でもあるんです。派手に暴れて船を沈めたりしたら、国際的な政治問題に発展するんですからね!」
「あはは! 部長、豪華客船だって! すごく楽しそうだね! 私、カジノって一回やってみたかったんだよね~!」
ユウカの必死の制止などどこ吹く風で、一ノ瀬アスナが天真爛漫に目を輝かせながら手を叩く。その隣で、長大な対物ライフル「ホークアイ」のメンテナンスを行っていた角楯カリンが、深い溜息をつきながら補足を入れた。
「……アスナ先輩、潜入任務だ。遊びに行くわけじゃない。それに、船内での長距離射撃ラインの確保は難易度が高い。事前に精密な配置を計算しておく必要があるな」
賑やかというよりは収拾のつかないC&Cの日常風景。
そんな喧噪の只中にあって、室笠アカネだけは異質なほどの静寂と優雅さを保っていた。
洗練されたクラシカルなメイド服に身を包み、背筋をピンと伸ばして座る彼女の手元には、一冊の革張り手帳がある。その装丁の表面には、ミレニアムのどの学術部門や部活の規格とも異なる、青と白の幾何学的な結晶紋章が刻まれていた。
アカネは手帳を静かに閉じると、パタンと心地よい革の音を響かせた。
「オデュッセイア海洋高等学校が誇る巨大クルーズ船『ゴールデンフリース号』……。排熱ライン、地下の機関室アクセス構造、およびカジノエリアのセキュリティシステム演算パターン……すべて把握いたしました。ユウカさん。潜入開始からターゲット確保、撤収に至るまでの全所要時間は、最大で48時間と予測します」
アカネの滑らかで落ち着いた声に、ユウカはピタリとタブレットを操作する手を止めた。
「48時間……? ええと、船の規模とセキュリティの複雑さを考えれば、通常なら最低でも三日はかかる見積もりだけれど……アカネ、そんなに短時間で攻略可能なの?」
「ええ。それ以上、任務を延長させるわけにはまいりませんもの。……それ以上遅くなれば、我が家の主が寂しがりますので。迅速に『お掃除』を完了させていただきますわ」
アカネは頬に手を添え、うっとりとした、どこか甘く毒を含んだような微笑を浮かべた。
「……ええ、そうね。天野江……ううん、室笠セイカの奥様になってから、あなた本当に仕事が早くなったわよね、アカネ」
ユウカが半ば呆れ、半ば感心したように大きな溜息をつく。
かつてのアカネを知る者ならば、誰もがこの変化に驚愕せざるを得なかった。かつての彼女は、爆薬の扱いに異常なまでの執着を見せ、任務の成功そのものよりも「破壊の過程」や「作戦の引き延ばし」を楽しむような危うさを孕んでいた。自らの生命に対する執着の薄さ、いつ捨て身で爆発に巻き込まれても構わないと言わんばかりの狂気が、彼女の美しさの裏に隠された刃であった。
しかし、現在の室笠アカネの行動原理は、ただ一点に完璧に最適化されている。
「いかに効率よく、完璧に仕事を終わらせ、夫である室笠セイカの待つソラノミへ帰るか」。
「まあ! セイカさんとの愛が私のパフォーマンスを高めていると評価していただけるなんて、とても誇らしいです。愛する旦那様のために完璧な妻であり続けること……それが現在の私の、最大の原動力にして絶対の命題ですから」
胸の前で両手を合わせ、幸せそうに目を細めるアカネ。その姿には、一切の迷いも、かつてのような自棄的な危うさも存在しなかった。ただひたすらに圧倒的で、確固たる愛に裏打ちされた無敵の「余裕」だけがそこにあった。
「……はあ。相変わらず夫婦揃って規格外なんだから。とにかく、頼んだわよ、C&C。作戦開始は本日1800。健闘を祈るわ」
ユウカの言葉で作戦会議は終了し、セミナー室のホログラムモニターが一斉に消灯した。
__________
セミナータワーからエレベーターで数百メートル下層へ降りると、そこにはミレニアムの極秘作戦用地下ドックが広がっていた。
無機質なコンクリートと鉄骨で組み上げられた巨大な空間には、作戦車両やステルス輸送機が重厚な金属音を立てて整備されている。ガソリンとオイル、そして冷却液の匂いが混ざり合った独特の空気が充満していた。
「おい、アカネ。さっきの48時間ってのは本気か?」
先頭を歩くネルが、腰のホルスターに収められた二丁のサブマシンガン「ツイン・ドラゴン」の調子を確かめながら、振り返らずに尋ねた。
「もちろんですわ、ネル部長。私、セイカさんとの約束を破ったことは一度もございませんもの」
「けっ……相変わらず惚気やがって。だがまあ、ダラダラ時間をかけるよりはマシだ。船の上だろうがどこだろうが、邪魔する奴を全員薙ぎ払って、サクッと終わらせてやるよ」
「あはは! 部長、かっこいい~! 私も早くドレス着たいな! 潜入用のドレス、可愛いのがいいな~!」
「アスナ、今回はパーティーに参加するわけじゃない。バニーガールの衣装だ。着替えの段階で警戒されないよう、細心の注意を払え」
アスナとカリンが作戦用の特殊アタッシュケースを持ち上げながら会話を交わす。
C&C──「Cleaning&Clearing」。ミレニアムの汚れ仕事を一手引き受けるセミナー特殊部隊。彼女たちの足取りは軽やかでありながらも、その身から放たれる圧倒的な戦意と熟練したエージェントとしての気配は、地下ドックの冷たい空気を一層鋭く研ぎ澄ましていた。
だが、その歩みの途中で、影の中から滑り出すように一人の少女が姿を現した。
足音すら立てず、気配を完全に遮断してそこに佇んでいたのは、白と黒の排他的なカラーリングを身に纏った少女──飛鳥馬トキであった。
__________
無表情の中に、機械のような冷徹さと研ぎ澄まされた鋭い知性を秘めた少女。
ミレニアムサイエンススクールが誇る極秘パワードスーツ「アビ・エシュフ」の専属適合者であり、C&Cの五人目のメンバーにして「隠された刃」──飛鳥馬トキ。
「……ネル先輩。アスナ先輩。カリン先輩。アカネ先輩」
トキは感情の起伏を感じさせない平坦な声で呼びかけ、深々と一礼した。
「おう、トキ。遅かったじゃねえか。準備はできてるんだろうな?」
ネルが顎をしゃくると、トキは淡々と視線を上げて答えた。
「肯定。ターゲットである黒崎コユキが潜伏するゴールデンフリース号への潜入ルート、ならびにオデュッセイア警備隊の巡回周期データの解析、すべて完了しています。……いつでも出撃可能です」
「いいぞ。相変わらず仕事が早いな」
「はい、ネル先輩。……アカネ先輩、カリン先輩も、行きましょう。ピースピース」
トキは真顔のまま、両手を胸の前に掲げて小さなVサインを作ってみせた。
その無機質な動作の後、トキの澄んだ双眸が、アカネの胸元へとゆっくりと向けられた。
アカネが着用している洗練されたメイド服の首元──そこには、ミレニアムの装備規格には存在しない、極小のブローチ型デバイスが設置されていた。白銀の金属フレームに囲まれた青と白の結晶体が、かすかな拍動とともに淡い光を放っている。
それは、宙域要塞「ソラノミ」から供給されている、室笠家「家族専用」の超高精度生体バイタルセンサーであった。
「……アカネ先輩。胸元のソラノミ製バイタル伝送デバイスを確認」
トキは一歩アカネへと歩み寄り、その瞳を微かに細めた。まるで精密な光学センサーで対象をスキャンするかのような客観的で冷静な分析が、彼女の口から淡々と紡ぎ出される。
「……生体波形の波幅を計測。心拍数、血圧、ホルモン分泌バランス、および交感神経の緊張状態……すべてのパラメーターが極めて高度な安定領域に維持されています。以前の単独任務時と比較して、恐怖、焦燥、あるいは自我の摩耗に伴う破壊衝動の数値が98.4%減少。代わりに、戦闘意欲に対する『余裕』および『自己保存本能』という名の極めて強力なバフが常時付与されている状態を検知しました」
「あら……ふふ、トキちゃん。よく見ていますね」
アカネは嬉しそうに微笑み、胸元のブローチにそっと指先を添えた。
「……推測を述べます」
トキは姿勢を一切崩さず、淡々と言葉を続ける。
「セイカとの婚姻、および正式に家族となったことによる精神的根幹の確立が、アカネ先輩の戦闘効率、状況判断能力、ならびに生存確率を極限まで高めていると判断されます。……捨て身の戦術を捨て、生きて帰還することを前提とした戦闘思考プロセスへの移行……エージェントとして、非常にうらやましい、かつ強力なアップデートです」
「ええ、その通りです、トキちゃん。今の私は、決して一人で戦っているわけではありませんから」
アカネは、耳元に装着された超小型通信ノード──ソラノミ固有の過給演算波長が常時流れる不可視のデバイス──を愛おしそうに撫でた。
かつてのアカネは、いつ死んでも構わないという虚無感を胸の奥に抱え、爆薬の炎の中に自らの存在理由を探していた。だが今、彼女の背中には、どんな絶望的な戦場からでも必ず駆け戻らねばならない温かな居場所がある。
宙域要塞ソラノミ。そこで待つ夫・室笠セイカの圧倒的な愛と、愛しい娘たちの笑顔。それこそが、アカネをキヴォトス最強のエージェントへと昇華させる無敵の鎧であった。
__________
「おい、輸送機のエンジン始動するぞ! 乗り込め!」
ドックの奥で、カリンが大型輸送機のハッチを開けながら声を張り上げた。
ネルとアスナ、そしてトキが兵装の最終チェックを行うため、ハッチの中へと吸い込まれていく。
そのわずかな隙を突き、アカネは一人、ドックの陰になっている物陰へと静かに移動した。
防音壁に背を預け、耳元のソラノミ通信ノードのスイッチをそっと押し込む。
ポチッ。
鼓膜に届いたのは、ノイズ一つない澄み切った接続音。
そして──地響きのように深く、重厚で、どこまでも平熱の落ち着きを保った、愛する夫の声であった。
『──アカネ。通信を承認しました』
「……セイカさん」
声を聞いた瞬間、アカネの目元が柔らかく弛んだ。
「聞こえますか? 今から出発します。……ええ、ネル部長もアスナさんも、トキちゃんも……みんな、いつも通り元気ですよ」
『理解しています。ソラノミの超広域観測レーダー、ならびに低軌道衛星ネットワークのリンク完了。現在、太平洋上を航行するオデュッセイア船籍「ゴールデンフリース号」のリアルタイム位置情報、および船内熱源分布データを取得完了しています』
相変わらずの圧倒的な情報収集能力と、一切の隙もない超絶的な過保護さ。
受話器の向こう側、ソラノミの重厚な艦橋のメインシートに腰掛け、真面目そのものの厳格な表情でモニターに向けられるセイカの姿が、アカネの脳裏に鮮明に浮かび上がった。
「ふふ、さすがです、セイカさん。ですが……あまり事前に調べ尽くしてしまうと、私たちの『お掃除』の楽しみが減ってしまいますよ?」
『……娯楽としての任務遂行は推奨しません。アカネ、今回の作戦における最優先事項を再確認します』
セイカの声が、わずかに低く重みを増した。平熱のトーンの裏側に、濃厚な所有欲と、愛する妻を慈しむ執着が静かに揺らめいている。
「はい。今回の任務の最優先事項は……ターゲットの確保でも、黒崎コユキのお仕置きでもなく。……『怪我一つなく、あなたの元へ帰ること』。……そう、確定いたしましたわ」
『……当然です』
セイカがほんのわずかに息を呑む気配が、超高品質な通信線を介してアカネの耳に伝わった。
『あなたの胸元に装着されたバイタル伝送デバイスは、私の過給演算シークエンスへリアルタイムで直結されています。心拍数、血圧、体温、皮膚抵抗値……あらゆるパラメータを私はミリ秒単位で監視しています。……少しでも不可逆的な危険、あるいは回避不能な因果の兆候が視えた場合、私は即座に強制介入を行います』
「強制介入……ですか?」
『肯定。ソラノミに搭載された全主砲の照準をゴールデンフリース号へ指向。同時に、白銀のフィンファンネル群を大気圏へ突入させ、極大射撃による敵勢力の物理的消滅、ならびにあなたを空間転送ポータルにて強制保護します。そのつもりで任務に臨んでください』
「あはは……! それはとっても心強いですけれど……」
アカネは思わずクスッと声を立てて笑ってしまった。
「そんな派手な介入をして船を沈めてしまったら、オデュッセイアとの国際問題になって、ユウカにものすごく怒られてしまいますよ?」
『……ユウカからの抗議および損害賠償請求はすべて受け入れますが、あなたの安全および無傷の帰還よりも優先される事項は、この世界に存在しません』
一切の躊躇もない、完璧で絶対的な過保護。
世界を敵に回してでも妻一人を守るというその圧倒的な宣言に、アカネの胸は熱い愛しさで満たされていく。
「ふふ……本当に、頼もしくて過保護な旦那様ですね。ですが、大丈夫ですわ。私を誰だと思っていらっしゃるのです? あなたが愛し、あなたを選んだ最高のメイド……室笠アカネですよ」
アカネは手帳を胸に抱きしめ、愛を込めて受話器へと囁いた。
「危険な真似など絶対にいたしません。完璧に、優雅に仕事をこなし……無事にあなたと、大好きな子供たちの待つお家へ駆け戻りますわ」
通信の向こうで、セイカが短い沈黙の後、静かに、しかし深く応じた。
『……了解しました。無事の帰還を待っています、アカネ。……愛しています』
「ええ。私も、心から愛しておりますわ、セイカさん」
__________
通信を終え、端末をポケットに収めたアカネは、優雅な足取りでドックの影から歩み出た。
「おう、アカネ。おかえり。……ったく、どこほっつき歩いてたんだ? そのニヤケ面見りゃ何かあったのはバレバレだぜ。ほら、吐いちまえよ」
輸送機のタラップの上で、二丁のサブマシンガンを肩に担いだネルが、怪訝そうに眉をひそめて尋ねた。
「ふふ、少しばかり『旦那様』へいってらっしゃいの挨拶をしておりました」
アカネは白手袋の付け根をキュッと引き締め、完璧な角度で微笑んで見せた。
「へっ、相変わらず熱々じゃねぇか。そういうのはアタシらの前じゃなくて壁にでも向かってやれっての。……ったく、まあいい。これで全員揃ったな!」
ネルが二丁のサブマシンガンをガチャリと豪快にコッキングし、輸送機の機内全体に響き渡る声で叫んだ。
「ターゲットは『白兎』黒崎コユキと、オデュッセイアの超豪華クルーズ船『ゴールデンフリース号』! 派手に暴れまくって、敵の防衛線を全部ぶちのめして、あのバカガキを引っ捕らえるぞ!」
「オーッ! 暴れるぞー!」と天真爛漫に拳を突き上げるアスナ。
「……作戦開始だ。配置につけ」と静かにライフルを構え直すカリン。
「了解。アビ・エシュフ、待機シークエンス完了。……ピースピース」と淡々とVサインを作るトキ。
「(最高のお掃除を終わらせて……そして)」
アカネの胸の中に広がっているのは、温かな温もりに満ちた居場所。
宙の上で自らの無事を信じ、過給演算を回しながら待ってくれている愛する夫。
「お母さん」と呼んで抱きついてくる愛おしい子供たち。
「(最高の『ただいま』を、大好きなあなたに届けるために──)」
「さあ、ネル部長。行きましょう。……最高に華やかな『お掃除』を。……そして、最高の『ただいま』を言うために」
地下ドックの巨大なハッチが重々しい響きとともに開かれ、滑走路の向こう側に広がる茜色の夕陽が、輸送機の機体を鮮やかに染め上げていく。
夕陽を背に、動き出すC&C。
最強の部長と、最強の幸運児。冷徹な精密射撃手と、隠された最鋭の刃。
そして──愛する家族の待つ座標を背負った、最強のメイドが。
豪華客船ゴールデンフリース号という戦場へ向け、いま力強く駆け出していった。