ミレニアムサイエンススクールが管轄する臨海地区。その一角にある雑居ビルの中に、C&Cが作戦拠点として臨時で借り上げた秘密アジトが存在していた。
無機質なコンクリート壁に囲まれた室内に、耳をつんざくような少女の怒号が響き渡る。
「……はぁ!? バニーガールにならないと中に入れないだぁ!? 巫山戯んな、そんなふざけたドレスコードがあるかよ!!」
美甘ネルは、机の上に置かれたタブレット端末を今にも叩き割りそうな勢いで身を乗り出していた。
ドラゴンの刺繍が入ったスカジャンを揺らし、赤い鋭い瞳を吊り上げて激昂する彼女の前で、先生は苦笑いを浮かべるしかなかった。先生はなだめるように手を掲げ、潜入調査の事前データが記録されたタブレットの画面をそっとネルへ差し出す。
「部長、落ち着いて。私の直感だと、この格好は今回の任務に『必須』みたい。ほら、先生も困った顔してるよ?」
一ノ瀬アスナがいつもの天真爛漫な調子でネルの肩をポンポンと叩く。だが、ネルは耳まで真っ赤にして地団駄を踏み、激しく首を振った。
「アスナ、お前はいいよ! その、なんだ……お前ならどうせ似合うだろうからな! だが私は……この私がそんな恰好できるかよ!」
「ネル先輩、作戦の遂行を最優先とすべきだと判断します。バニーガール仕様の衣装着用は、潜入成功率を87.3%向上させる有効な戦術的選択です。……ピースピース」
影からすっと姿を現した飛鳥馬トキが、無表情のまま胸の前で両手の指を突き立ててVサインを作る。
「ぐぬぬ……!」と声を詰まらせ、言葉を失うネル。長大な対物ライフル「ホークアイ」の弾倉を点検していたカリンも、可哀想なものを見る目でネルを見つめながら、やれやれと頭を振っていた。
そんな騒がしい仲間たちのやり取りをよそに、部屋の奥で手際よく持ち込まれた衣装ケースを開封していたのは、アカネであった。
彼女はケース内に収められた数着のバニースーツを取り出し、縫製や生地の伸縮性、さらには各メンバーの体型に合わせたサイズの違いを手際よく確認していく。
「ふふ、皆様。郷に入っては郷に従え、です。……お掃除を完璧にこなすには、まずは風景に溶け込むことが第一歩ですよ」
アカネは滑らかな手つきで黒地の艶やかなバニースーツを手に取ると、姿見の鏡の前へ立ち、自分の体にそっと当ててみた。
ハイレグのカット、大きく開いた背中、そして胸元を大胆に強調するデザイン。
いつも通りの完璧なお給仕の制服とはまるで異なる大胆な衣装を前に、アカネの白磁のような頬が、ぽっと薄桃色に染まっていく。
「……アカネ先輩。心拍数が微増。平常時より0.8%の上昇を検知しました。……衣装の著しい露出度に対する、羞恥心による生体反応と推測します」
横から覗き込んできたトキの鋭い指摘に対し、アカネはクスクスと品良く微笑んで首を横に振った。
「いえ、トキちゃん。これは羞恥心というより……『これをセイカさんが見たら、一体どんなリアクションをしてくれるかしら』という期待感ですね」
「……肯定不能。セイカの過給演算シークエンスに重大なエラーを発生させる危険性を感知しました」
トキの無機質な返しに、アカネはさらに表情をほころばせた。
__________
アカネは耳元に装着された超小型の通信デバイスにそっと指先を触れた。
端末の端で、ミレニアムの規格には存在しない青と白の光が小さく点滅を始める。それは、遥か上空の大気圏外に滞空する宙域要塞ソラノミと、彼女の意識を直結する不可視の回線であった。
「……セイカさん、聞こえますか?」
静かに呼びかけると、即座にノイズ一つない通信が接続された。受話器の向こうから響いてきたのは、深く、重厚で、どこまでも平熱の落ち着きを保った夫の声であった。
『──アカネ。通信を承認しました。現在、作戦拠点周囲の電波暗室化、ならびに通信の完全暗号化を維持しています』
「ふふ、いつも完璧なサポートをありがとうございます。……ええ、予定通りゴールデンフリース号へ潜入いたしますわ。……ただ、少しだけ困ったことが起きてしまいましたの」
『……トラブルですか。直ちにソラノミの観測レーダーの解像度を極限まで引き上げます。どのような事態が発生しましたか』
真面目そのもののトーンで尋ねてくるセイカに対し、アカネは少しだけ意地悪く、困ったような溜息を吐いてみせた。
「それが……今回の潜入に必要な制服なのですが。非常に……その、風通しが良いのですわ」
『……?』
通信の向こう側で、セイカが一瞬言葉を詰まらせ、息を呑む気配がはっきりと伝わってきた。
ソラノミのメインシートに腰掛け、超広域観測モニターを通じてアカネの周囲の視覚データを取得したセイカの脳内において、全世界の言語と物理法則を総動員した過給演算が暴走を始める。
『……演算外です。……アカネ。現在のあなたの装いは、防寒性・防御力・露出度のすべての指標において許容限度を著しく逸脱しています』
「あらあら……ふふ!」
『……直ちに、私のフィンファンネル群を大気圏内へ展開させます。光学迷彩機能を起動させた状態で作戦地域の周囲に滞留させ、あなたの全身を被覆する視覚的・物理的防壁を張ることを提案します。……不特定多数の他者に、あなたのそのような姿を観測させるなど……到底、許容できません』
過給演算が叩き出した「最適解」が、あまりにも過保護で独占欲に満ち溢れた内容であったことに、アカネは愛おしさが胸から溢れ出すのを抑えきれなかった。
「あはは! 独占欲も『最適解』として提示してくださるのですね。……でも、大丈夫ですよ、セイカさん。私には頼もしい仲間たちがいますし……先生も一緒です。何より私は、あなたの『奥様』なのですから。……これくらい、優雅に着こなしてみせますわ」
『……。……了解しました。ですが、あなたの胸元のバイタルデータに少しでも乱れが生じた場合、私は躊躇なくフィンファンネルの光学迷彩を解除し、船内へ物理的介入を行います。……約束してください、アカネ。無事に帰ってくることを』
「ええ、約束いたしますわ。……あなたと子供たちの待つ、世界で一番温かな私のお家へ……完璧な仕事をして駆け戻ります。愛しています、セイカさん」
『……私も、愛しています、アカネ』
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通信を終えたアカネは、ゆっくりと振り返った。
そこには、C&Cの少女たちのやり取りを温かな眼差しで見守っていた先生の姿があった。
アカネは滑らかな足取りで先生の前へと歩み寄ると、メイドとしての礼儀正しさと、一人の愛される女性としての甘やかな雰囲気を纏いながら、優しく語りかけた。
「先生」
"どうしたの、アカネ?"
「……私の主──セイカさんが、あなたに私を預けると言っていました。『信頼できる指導者であり、家族の代理人としてアカネをサポートしてほしい』と」
アカネはテーブルの上からうさ耳のヘッドドレスを手に取ると、それを慈しむように自分の艶やかな髪へと添えた。白いカチューシャがミルクティーベージュの髪に収まり、可憐なウサギの耳がちょこんと頭上に戴かれる。
「今日の私は……C&Cのメイドであり。室笠の家で待つ可愛い娘たちの母であり……そして、一人の守られるべき『女の子』です」
そう言ってアカネは、いつもの完璧な笑みとは少し異なる、少女のように可憐で、どこか恥じらいを含んだ微笑みを先生に向けた。
「……先生。どうか、私たちが無事に『お掃除』を終えられるよう、最後まで正しく導いてくださいね? ……もしも私が、戦場の熱さに絆されて道を間違えそうになったら……その時は、セイカさんの代わりに……優しく叱ってくださいませ」
先生は一瞬目を見張り、それからしっかりと頷いた。
"任せておいて、アカネ。全員で無事に帰ろう。セイカたちが待つ家にね"
「ふふ、ありがとうございます。その言葉をいただければ、百人力です」
その時、横からアスナが弾けたような笑顔で先生の腕に飛びついてきた。
「えへへっ♪ アカネちゃん、なんだか急にカッコよくなっちゃったね! ……よーし、先生! 私たちのバニー姿、楽しみにしててね♪ とびっきり可愛く着替えてくるから!」
「触んなアスナ! 先生、こっちを見るんじゃねえぞ! 見たらぶっ飛ばすからな! 頼むからあっち向いてろ!」
真っ赤になったネルがスカジャンを叩きつけながら絶叫し、アスナを必死に引き剥がそうとする。その横で、トキが手帳とペンを取り出しながら、静かに先生へ告げた。
「……先生。バニーガール衣装を着用した私のビジュアル評価、および戦闘時における威圧感・魅了効果の数値的フィードバックについて、後ほどレポート形式での提出を願います。ピースピース」
「トキまで何言つてんだよバカヤローッ!」
アジト内は再び賑やかな怒号と笑い声に包まれた。カリンが呆れ果てて肩をすくめ、先生が苦笑いしながら彼女たちを宥める。
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作戦開始の時刻が刻一刻と近づいていた。
港の向こう、広大な太平洋の水平線の上には、夕陽の残り香を浴びて黄金色に輝く巨大な影──オデュッセイア海洋高等学校が誇る洋上都市型クルーズ船「ゴールデンフリース号」が悠然と佇んでいた。
船全体を彩る絢爛豪華なイルミネーション。闇カジノと秘密オークションが開催されるその船は、まさに欲望と陰謀が渦巻く黄金の楼閣であった。
海風に髪をなびかせるアカネ。
彼女の視線は、遥か上空──肉眼では捉えられない雲海の彼方、ソラノミが存在する絶対座標へと向けられていた。
目には見えずとも、はっきりと感じることができる。
ソラノミの全観測センサーが、そして愛する夫・室笠セイカの紫の瞳が、青と白のフィンファンネルを介して、常に自分を温かく、そして圧倒的な過保護さで見守ってくれていることを。
「(待っていてくださいね、セイカさん。……ケイ、シロコ)」
アカネは胸元のブローチ型バイタルセンサーへそっと手を添え、そして左手薬指に嵌められたおそろいの指輪を、愛おしそうに撫でた。
指輪の冷たい感触の向こう側に、確かに宿る温かな体温と絆。
今の自分には絶対的な誓いを交わしたパートナーがおり、母親のように慕ってくれる大切な存在がおり、帰るべき温かな場所がある。
だからこそ、今の室笠アカネは誰よりも強く、誰よりも美しく、誰よりも優雅に戦うことができるのだ。
「さあ……まいりましょうか」
アカネは優雅にドレスの裾を翻すような仕草を見せ、黄金に輝く巨大な船影へと向かって、まっすぐにその一歩を踏み出した。
愛する人の待つ家へ、胸を張って『ただいま』を言うための──。
最高に華やかで、最高に完璧な潜入任務が、いま幕を開けようとしていた。