豪奢な装飾が施されたスロット筐体の前に佇み、今まさに「白兎」黒崎コユキの逃避行を終わらせんとしていたC&Cの面々。その張りつめた緊張感を根底から台無しにするような妙に間の抜けた歓声が、吹き抜けの天井に設置された超巨大LEDモニターのスピーカーから、割れんばかりの大音量で響き渡った。
「……あ? なんだ、ありゃ」
美甘ネルがスロット筐体の金属フレームを力任せに握りしめていた指先からふっと力を抜き、眉間に深いシワを寄せながら首を大きく傾けた。彼女の鋭い視線の先──ハイローラー専用エリアの中央、吹き抜け空間に誇らしげに掲げられた巨大画面には、この豪華客船「ゴールデンフリース号」の最上階に位置する、選ばれしVIPのみが立ち入りを許される最高級カジノエリアの優雅な情景がリアルタイムで映し出されていた。
紫煙と高級シャンパンの泡が揺らめき、各界の重鎮や億万長者たちが血道を上げているはずのその洗練された空間で、一人のバニーガールが無邪気な笑みを振りまきながら、スロットマシンのレバーをリズムよく引き続けている。
あまりにも見覚えのある黄金色の髪と、眩しいほどの笑顔。一之瀬アスナであった。
「あはは! また当たっちゃった! 先生、リーダー! 見て見て、このチケットの山! 私、Aランクになっちゃったみたい!」
モニターの中のアスナは、広角レンズの監視カメラに向かってブンブンと大きく手を振り、太陽のように無邪気な破顔を見せている。彼女の足元、そして周囲の最高級本革ソファの上には、普通の人間であれば数日間の連続遊戯と天文学的な確率をくぐり抜けなければ届かないはずの、山のような「Aランクチケット」がまるで秋の落ち葉のように無造作に積み上げられ、収まりきらずにフロアへ溢れかえっていた。
「……識別、アスナ先輩。……所持チケット数、計測不能。……獲得ランク、A。……相変わらず、理外の幸運です」
飛鳥馬トキが胸の前で両手の手首を交差させてVサインを作りながら、一切の抑揚を排したミリタリー調のトーンで淡々と呟く。
その隣に立つ室笠アカネの周囲では、光学迷彩を透過して揺らめいていたフィンファンネルが、まるで主人の動揺を鏡のように映し出したかのように、空間上で一瞬だけピクリと不自然な微動を見せた。
「……アスナさん。……まさか、私たちが地下システムルームに潜入し、敵の防犯警戒を攪乱するためにC4爆薬を炸裂させている僅かな間に、ご自身の直感と感覚だけでVIPエリアまで到達していたのですか……?」
アカネの顔に張り付いた完璧で上品な笑みに、隠しきれない激しい驚愕と、そして「セイカさんの元へ無事に帰宅する演算スケジュール」が大幅に狂い始めたことへの焦燥がじわじわと混ざり込んでいく。
その時、アカネの耳元に装着された超小型暗号化通信インカムから、静寂を突き破るような激しいノイズと共に声が響いた。
遥か大気圏外、地球低軌道を周回する宇宙戦艦ソラノミのメインブリッジに座す室笠セイカの、かつてないほど動揺し、困惑に満ちた声であった。
『……演算、不能。……一之瀬アスナの行動に伴う因果律の変動は、私の構築した決定論的観測モデルおよび確率予測システムを常に、かつ不可逆的に超越してきます。……彼女の幸運値は、ミレニアムの誇る全スーパーコンピューターを並列駆動させても解析不可能です。……ありえません、このような非合理的な事象は……!』
宇宙戦艦ソラノミの超並列演算ユニットが弾き出すエラーログのアラート音は、通信越しにもはっきりと聞き取れるほど甲高く鳴り響いていた。ミレニアムサイエンススクールが誇る最高峰の高度演算知能をもってしても、一之瀬アスナという存在が自然体で引き起こす「純粋なる奇跡」の前には、ただの無力な数式へと成り果ててしまうのだ。
「セイカさん、落ち着いてください! 船内のメインサーバー経由で受信している画像データ自体がバグを起こしている可能性があります!」
アカネが胸元に手を当て、宥めるように通信へ声を張る。しかし、通信の向こうで交錯する電子警報音とセイカの困惑の溜息は一向に収まる気配を見せない。確率論、統計学、あるいはカジノの制御プログラムが張り巡らせた無数の「計算」を、アスナの野生的な直感と天衣無縫な強運は軽々と、そして容赦なく打ち砕いていく。
「あははー! この煌びやかなボタンを押すと、もっとたくさんのコインが出るんだよねー! ほら、ドバーッて!」
巨大モニターの中で、アスナが何の思惑もなく、ただ思いつきのままに目の前の巨大な赤ボタンをポンと力強く押し込んだ。
──ガガガガガンッ!
その瞬間、カジノ全体を揺るがすほどの重低音と共に、最高額ジャックポットのファンファーレが爆音で鳴り響いた。天井の特殊機構から大量の金色の紙吹雪と無数の重厚なメダルが、スコールのような激しさで最上階フロアへとド派手に降り注ぐ。周囲でプレイしていた本物の億万長者やVIP客たちが一斉に目を見開き、地鳴りのような歓声と拍手がラウンジ全体を包み込んでいった。
「……あのバカ、本能だけでカジノのセキュリティシステムと確率制御アルゴリズムを完全に完パケしやがった……」
ネルは呆れ果てて開いた口が塞がらず、先ほどまでコユキの頭部を叩きのめすために力強く構えていた小さな拳を、脱力したように力無く下ろしてしまう。カリンもまた、あまりに規格外すぎる仲間の姿を信じられないものを見るような呆然とした眼差しで見つめていた。
「アスナ先輩の行動には一切の合理性、および戦略的意図が存在しません。ゆえに、敵カジノ側のセキュリティアルゴリズムによる予測も回避も不可能です。……これが、C&C最強の野生感。……恐れ入りました。ピースピース」
トキが無表情のまま、再び胸の前で両手の手首を交差させてVサインを作る。だが、その無機質に見える瞳の奥にも、高度な戦闘演算を超越した事態に対する隠しきれない困惑の色が深く浮かんでいたのだった。
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アスナが巻き起こした天衣無縫な快挙と、それによってカジノ全体へ怒涛のごとく伝播した前代未聞の狂乱。最高額ジャックポットが放つド派手な電子ファンファーレと、天井から降り注ぐ金色の大雨。モニターを仰ぎ見るC&Cの面々はもちろん、傍らに立つ先生までもがそのあまりに規格外すぎる光景に思考を奪われ、完全に呆然と立ち尽くしていた──まさにその一瞬の隙。
アカネのフィンファンネルによって幾何学的な光の格子線の中に閉じ込められ、絶体絶命の窮地に陥っていたはずの「白兎」──黒崎コユキは、その千載一遇の好機を絶対に見逃さなかった。
「(今です! 今しかありませんよぉ! 全員の意識が完全にアスナ先輩のワケの分からないバカ騒ぎに奪われています! この奇跡のような隙を突いて逃げ出せないようでは、黒崎コユキの名が廃るというものです!)」
コユキはウサギ特有の素早さで地を這うように身を極限まで低くすると、アカネのファンネルが展開していた光の格子線のわずかな歪み──主人の動揺と驚愕によって束縛プログラムの同期が一瞬途切れた、僅か数ミリの隙間へと滑り込んだ。
「……っ、白兎!? しまった──」
アカネが我に返り、慌てて耳元のインカムを叩きながらファンネルへ再追尾と空間固定の指令を送った時には、すでに遅かった。コユキの体はぬるりと束縛領域を抜け出し、スロット筐体の陰へと消えていた。
「……ひゃっはー! 見つけましたよぉ! C&Cの恐ろしい先輩たち! 予算管理がどうだの家庭の平和がどうだのと、私を捕まえに来た怖い怖いお掃除屋さん!」
コユキはスロット筐体の陰から勢いよく躍り出ると、壁に設置されたラウンジの非常報知器の赤く光る強化プラスチックカバーを叩き割り、中に収められた巨大な緊急ボタンを親の仇と言わんばかりの勢いで連打し始めた。
「警備員さーん! 助けてくださーい! ここに不審なバニーガールたちがいますよぉ! 私の神聖なゲームと確変モードを力尽くで邪魔する、凶悪で暴力的な悪いウサギたちです!システムの爆破工作もしてます! 早く来て全員捕まえてくださーい!」
ビ────! ビ────!
次の瞬間、ラウンジ全体に耳をつんざくような甲高い緊急警報音が凄まじい音量で鳴り響いた。天井の豪奢な水晶シャンデリアの優雅な光が消え去り、真っ赤な回転灯が一斉に不気味な光を点滅させ始める。VIP客たちが悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う大混乱の中、通路の奥から重装備で固めた大量のバニー警備員たちが、地鳴りのような足音と共に雪崩を打って押し寄せてきた。
「チッ、このクソウサギが! 先生、下がってろ!」
スカジャンを着たネルが即座に愛銃を構え、押し寄せる警備兵の群れに対して威嚇と迎撃の姿勢をとる。しかし、曲がり角から次々と現れる警備員の数はあまりにも多すぎた。十人や二十人どころの騒ぎではない。カジノの防犯システム全体と連携した自動増援部隊が、まるで黒い波となってラウンジの広大なフロアをあっという間に埋め尽くしていく。
「ネル先輩、待ってください! ここで派手に銃撃戦をやれば、ゴールデンフリース号の外壁が破損して船自体が沈没しかねません! ……セイカさん、ファンネルによる広域非殺傷制圧を!」
『……了解。……ですが、この多重障害物と人命密度の高さ……完全制圧には最短でも3分を要します。……その間に、先生の安全が保障できません……!』
インカム越しに聞こえるセイカの声にも、隠しきれない焦りと苦渋が深く滲んでいた。大気圏外からの遠隔バックアップ演算も、急激に増大した船内の通信混信と重厚な装甲壁によって効率が著しく低下している。何より、非戦闘員である先生をこの無差別な銃撃戦の渦中に晒すリスクは、C&Cにとって絶対に許容できないものであった。
「ハッハッハー! 見ましたか私の頭脳派かつ完璧な立ち回り! 追い詰められた天才兎ほど恐ろしいものはないのですよ! 警備員さん、そいつらです! 容赦なくやっちゃってくださいー!」
完全に安全な重装警備員たちの背後に身を隠したコユキが、勝ち誇った顔でペロリと舌を出し、全力で煽り立てる。
「……ネル先輩。アカネ先輩。……ここは一度、投降を提案します。ピースピース。……先生の安全を、最優先に」
トキの冷徹で客観的な判断が下される。ネルはギリッと力任せに歯噛みし、スカジャンの裾を破れんばかりに強く握りしめた。
「クソが……! ここまで来てあいつの思い通りに引けってのかよ……!」
「ネル先輩、トキの言う通りです。ここで無理に暴れて、先生に一発でも誤射の弾が当たったら元も子もありません」
カリンが静かに銃を下ろし、先生を庇うようにその前に立ち塞がる。
アカネは悔しそうに薄い唇を強く噛み締めた。周囲に浮遊していたフィンファンネルが、主の無念と怒りを代弁するように悲痛な光の粒子を散らしながら、静かに光学迷彩へと姿を消していく。
「……白兎さん。……この借りは、必ず後ほど『徹底的なお掃除』の際に清算させていただきますからね」
アカネの絶対零度の、けれど大切な存在を守り切れなかった無念に満ちた瞳に見送られながら。
押し寄せた無数の警備員たちの銃口が一斉に先生たちに向けられ、その手首には重々しい金属の枷が容赦なく嵌められていくのだった。
こうして、高飛びした白兎を追い詰め、一網打尽にするはずだったC&Cの極秘潜入作戦は、一之瀬アスナの規格外すぎる幸運と、黒崎コユキの土壇場での悪知恵によって完全に瓦解した。
先生とネル、アカネ、カリン、トキの面々は、背後で響き渡るコユキの高笑いを聞きながら、大量の警備員たちによって、豪華客船の最深部──光の届かない冷たく重々しい牢屋へと叩き込まれるのだった。