豪華客船「ゴールデンフリース号」の最上層──吹きすさぶ冷たい潮風と、遥か眼下に広がる漆黒の夜海に囲まれた屋上ヘリポート。
先ほどまで船内を包み込んでいたカジノフロアの狂乱的なファンファーレや、地下牢獄の湿っぽく重々しい空気とは対照的に、ここにはただ夜気と、絶え間なく押し寄せる波音だけが支配する静寂が存在していた。
暗雲の切れ間から差し込むかすかな月光が、濡れたヘリポートのコンクリート床を白く照らし出している。
そのヘリポートの最端部、柵を力任せに乗り越えて夜空へと身を乗り出す一人のバニーガールの姿があった。「白兎」こと黒崎コユキである。
「ひゃっはー! 逃げ足と土壇場での悪あがきだけは、世界中の誰にも負けませんよぉぉ! さらばです、C&Cの恐ろしい先輩たち! そして先生ー! もう二度と私を捕まえようなんて思わないでくださいねー!」
コユキは背中に背負った小型の過負荷仕様飛行ドローンの起動スイッチを、祈るような思いで強引に叩き落とした。
──キュイィィィン……!
夜の静寂を切り裂いて、高周波のモーター駆動音が激しく鼓膜を揺さぶる。過負荷状態で駆動を始めた四枚のカーボン製ローターが、視認できないほどの超高速回転を始め、夜闇の中に青白い光の円環を描き出した。
「ふえ? ちょ、ちょっと出力が出すぎな気もしますけど……背に腹は代えられません! イッツ・ア・ショータイムですぅ!」
身体がふわりと浮かび上がる強烈な浮遊感。コユキの身体は重力を振り切るようにして、ヘリポートの突端から夜の海原へと一直線に踊り出た。旋回するドローンの風圧にウサギ耳を激しくなびかせながら、コユキは振り返りざまにべーっと舌を出し、大笑いを破裂させる。
「追ってこられるものなら追ってきてごらんなさーい! この広い夜空と海で、私を捕まえることなんて不可能──」
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勝ち誇るコユキの絶叫が、夜風にかき消されていく。
だが、彼女はまだ気づいていなかった。その暗闇の逃走路の真後方には、一切の情けも、わずかな動揺すらも挟まない冷徹な「沈黙」が静かに構えられているということに。
ヘリポートの突端、湿ったコンクリートの上に深く片膝をつき、微動だにせず構えを維持する一影。C&Cのスナイパー、角楯カリンであった。
彼女が抱える重厚な銃身が、夜風を切り裂くように月光を反射している。
「……逃がさない。これ以上、アカネの帰宅を遅らせるわけにはいかないから」
カリンの低く透き通った声には、揺るぎない意志が宿っていた。
彼女の鋭い視線は、スコープの幾何学的な照準越しに、夜空を不規則な軌道で旋回しながら遠ざかっていくコユキのドローン基部を完璧に捕捉していた。
海面から吹き上げる不規則な突風、海流に伴う湿度変化、気圧、そしてコユキが背負うドローンの異常な加速によるブレ──それら全ての複雑な計算パラメータが、カリンの研ぎ澄まされた戦術経験と直感によってコンマ数秒の間に試算されていく。
すっと息を呑み、胸の鼓動を極限まで穏やかに鎮める。
世界からすべての雑音が消え去り、暗視スコープの中心に浮かぶ赤熱した光点と、旋回するドローンの駆動軸だけが浮き彫りになる。
──引き金にかけた指先に、均等な力が込められた。
──ズドォォンッ!!
ヘリポート全体を激しく揺さぶるほどの重厚な砲声。
マズルブレーキから吐き出された巨大な硝煙と炎の閃光が夜闇を瞬時に切り裂く。放たれた一発の超大型特殊弾頭は、夜風を鋭く穿ちながら放物線を描き、遠ざかるコユキの背後へと一直線に飛来した。
──ガキィィンッ!
「あ、あれぇ!? 墜落!? 墜落ですよぉぉ!? 推進力が死にました! エンジンが黒煙と火花を噴いてますー! 誰か助けてぇぇ!」
寸分の狂いもなくドローンの制御コアを貫通・粉砕された衝撃で、コユキの身体は宙で大きく一回転した。黒煙とオレンジ色の火花を散らしながら、揚力を失ったコユキの身体は、漆黒の海面へと一直線に自由落下を始める。
生身で激突すれば水面はコンクリートと同等の硬度と化す高度。死を覚悟したコユキの哀れな悲鳴が、虚しく夜空へと木々にこだまするように響き渡った。
「いやぁぁぁぁ! 海です! 海が重密度のコンクリート並みの勢いで迫ってきてますよぉぉ! 誰か! 誰でもいいから助けてぇぇぇ!」
自由落下の加速により、顔面の皮膚が風圧で歪むほどの衝撃がコユキを襲う。視界の下半分を埋め尽くすのは、月光すら吸い込んで底を見せない漆黒の太平洋。海面激突まで、あとわずか数秒。
まさにその時であった。海面を低く這うように漂っていた濃密な海霧と暗雲が、目に見える形で一気に切り裂かれた。
──ズズズズズ……ッ!
波音すら押し潰す重厚で不可視の圧力を伴い、闇の空域へと滑り込んできたのは、月光を反射して青白く輝く超巨大な銀色の艦体──大気圏外より降下してきた宇宙戦艦「ソラノミ」であった。
海面とコユキの直下、ギリギリの空間へと割り込んだソラノミの外部甲板から、瞬時に数層の高分子衝撃吸収緩衝マットが自動展開される。
──ドサッ……!!
重厚で鈍い衝撃音が夜空に響き渡る。
落下速度のエネルギーを緩衝マットが見事に分散・吸収し、コユキの身体は勢いよくマットの上で跳ね跳び、そのまま無事に着弾を果たした。
「ふえぇ……生きてる……? 私、露と消えてないですかぁ……? 奇跡! まさに理外の幸運ですぅ……!」
目を白黒させ、へたりと垂れたバニー耳を揺らしながら息も絶え絶えに這い上がろうとするコユキ。だが、彼女が安堵の息を吐くことができたのは、ほんの数秒の瞬間に過ぎなかった。
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「……ターゲット、着弾。座標の誤差、ゼロ。……お父さんの事前演算通り」
静かな、だが透き通るような声が頭上から降ってきた。
コユキが怯え混じりに顔を上げると、そこに立っていたのは月光を背に受け、銀髪を潮風になびかせる一人の少女──シロコであった。
低く構えられたライフルの漆黒の銃身。そして、彼女の首元にはセイカから贈られた「家族の証」である透明なペンダントが、月光を受けて淡い青色の光を放っている。
かつて彼女の瞳を支配していた世界の終わりを思わせる絶望の影は、すでに跡形もない。いまそこに宿っているのは、愛する家族と平穏な日常を守り抜くという、静かで揺るぎない意志であった。
「……ひッ!? さ、殺気!? なんか、C&Cの皆さんとはまた違うベクトルでヤバい雰囲気を纏った人がいますよぉ……!」
「……身動きを封じます。対象、白兎。……これ以上の無駄な抵抗および逃走の試みは、エネルギーと時間の浪費であると断定します」
シロコの隣、空中に浮かび上がる半透明のホログラムディスプレイを素早い手つきで操作するケイが、淡々と冷徹な事実を宣告する。
ケイが華奢な指先をフリックした瞬間、外部甲板の各所に仕込まれた特殊格納ハッチが一斉に開いた。
──シュシュシュシュッ!
高張力の特殊炭素繊維で編み込まれた自動捕縛ワイヤーが、幾重もの光の筋となって宙を舞い、一網打尽にコユキへ襲いかかる。
「ふぎゃあぁぁ!? なんて手際の良さですかぁ! ワイヤーが肉に食い込んで……ッ! 全然、指一本動きませんよぉぉ! 助けてぇー!」
ジタバタと暴れるコユキの抵抗も虚しく、ワイヤーは彼女のバニースーツの上から身体を寸分の隙間もなく巻き上げ、瞬く間に完全な「簀巻き」状態を作り上げた。もはや、逃げ出すどころか指先一つ動かすことすら叶わない。
「……確保完了。……お母さん、お父さん。……不確定要素の完全制圧を確認しました。これより本艦内部へと移送を開始します」
甲板上でゴロゴロと転がりながら涙目になり「解いてくださいー! 痛いですー!」と叫ぶコユキを見下ろし、ケイは表情一つ変えずに通信機へと報告を完了させた。
夜空にそびえ立つソラノミの外部甲板にて、危険人物の捕縛は完璧に完了したのである。
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「……ふぅ。捕縛完了のシグナルを確認しましたね。流石は私たちの自慢の娘たちです」
ゴールデンフリース号のヘリポートにて、対物ライフルをゆっくりと降ろしたカリンが、夜風に髪を揺らせながら胸を撫で下ろした。
その隣では、バニースーツ姿のアカネが優雅な手つきで耳元の通信機をタップし、ソラノミ側へホバーリフトの派遣要請を出していた。
「……セイカさん、聞こえますか? こちらの『お掃除』の事前準備はすべて整いました。お迎えをお願いできますでしょうか」
『……了解しました、アカネ。……送迎用リフトを最高速度で急行させます。……怪我はありませんか?』
「ええ、問題ありません。セイカさんの声を聞けただけで、私の心は十分に満たされていますよ」
通信の向こうでセイカが少しだけ息を詰めるような気配が漂う。二人のやり取りを真横で聞いていたネルは、「けッ、相変わらずバカ夫婦がよ……」と呆れたように鼻を鳴らした。
直後、夜闇を切り裂いてソラノミから送られた大型の専用ホバーリフトが滑り込んできた。
甲板の上に降り立ったネル、一之瀬アスナ、カリン、飛鳥馬トキ、そして先生の一行は、リフトの静かな滑空とともに、水上の豪奢な客船を眼下に見下ろしながらソラノミの外部甲板へと移送されていく。
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ホバーリフトがソラノミの広い外部甲板へ着艦し、油圧音とともに安全バーが上がった。
そこには、簀巻きにされて甲板の端で「ふえぇ……もう悪さはしませんからワイヤー解いてくださいぃ……」と芋虫のように蠢いているコユキと、その傍らで静かに銃口を低く構えるシロコ、そして端末を滑らかに操作するケイの姿があった。
「ふぅ……。お疲れ様です、シロコ、ケイ。……二人とも、迅速な手際で本当に助かりましたよ」
アカネは頭に装着していた頭のバニー耳をそっと外し、乱れた金色の髪を指先で優雅に整えながら、出迎えた娘たちへ愛おしそうに目を細めて微笑みかけた。
「あはは! シロコちゃんにケイちゃん! 助けに来てくれたんだねー! ありがとー!」
アスナが満面の笑みを咲かせ、二人まとめて全力で抱きしめようと両手を大きく広げて飛びかかった。
だが、シロコは洗練された流れるようなステップでスッとそれを回避し、ケイは無表情のまま手でアスナの額を制する。
「……パーソナルスペースの適切な維持を強く推奨します。過度な身体的接触は演算および警戒態勢の妨げとなります」
「えーっ! ケイちゃん固いなー! 抱っこくらいさせてくれたっていいのにー!」
アスナが唇を尖らせて不満を漏らし、シロコがそんなアスナを静かに見つめながら首をかしげる。
先ほどまでの緊迫した潜入任務や命がけの追撃劇が嘘のように、ソラノミの甲板上には、いつもの賑やかで温かく、どこか微笑ましい日常の光景が広がっていった。
「チッ、毎度毎度手間の掛かる世話を焼かせやがって。……だが、助かったぜ、お前ら。……で、噂の『お父さん』はどこにいやがるんだ?」
スカジャンのポケットに両手を突っ込み、気まずそうに首の裏を掻きながら、ネルがソラノミの中枢ブリッジを見上げて尋ねた。
ネルの言葉に答えるように、トキが無表情のまま一歩前に出ると、手元の端末で通信を接続する。
「……報告。C&C各員、先生とともにソラノミ甲板へ着弾および合流完了。……なお、ネル先輩の機嫌は通常値の85%まで回復。打撃の危険性は低下しました。ピースピース」
「誰の機嫌がどうしたって!? トキ、てめえ後で覚えてろよ!」
「……ネル先輩の咆哮を確認。測定データを更新します」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるネルと、淡々とそれを煽るようなトキのやり取りを見て、カリンは「はぁ……いつものC&Cに戻ったな」と苦笑いを漏らした。
だが、その表情には密かな安堵と、この不可侵の空中城塞がもたらす圧倒的な安全への信頼が滲み出ていた。
先生もまた、バニーチェイサーとしての過酷な任務を無事に終え、仲間たちが誰一人欠けることなく笑顔でここに揃ったことに、深く静かな安らぎを感じていた。
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ネルの咆哮とトキの無機質な報告が甲板の上に響き渡る中、ソラノミの中枢ブリッジへと繋がる重厚な第一格納ハッチが、エアの吹き出す音と共に静かに左右へと開かれた。
闇の中から姿を現したのは、静謐な青と白の光芒を全身に纏った室笠セイカであった。
彼女の周囲には、主人の登場を祝ぐかのように、数基のフィンファンネルが美しい円環を描きながら空中を舞っている。洗練されたその佇まいは、ミレニアムの科学力の結晶でありながら、どこか神聖な気品すら感じさせた。
「……先生、そしてC&Cの皆さん。……うちの奥様と娘たちが、大変ご苦労をおかけしました。……そしてアカネ、おかえりなさい。……あなたのバイタルデータが元に戻って、ようやく私の演算システムも完全に安定しました」
セイカは先生に向かって丁寧に一礼を捧げると、その足でまっすぐにアカネの元へと歩み寄った。
先ほどまでの冷徹な戦術AIのような表情は消え去り、その瞳には愛する伴侶への深い情愛と、隠しきれない安堵の色が浮かんでいる。セイカは少しだけ頬を朱に染めながら、手袋越しにアカネの手をそっと取り、温もりを確かめるように包み込んだ。
「……セイカさん。……ただいま戻りました。……私のバニーガール姿、あまり長くお見せできなくて残念でしたか?」
アカネは少し首をかしげ、いたずらっぽく微笑みながらセイカの顔を覗き込んだ。
普段は冷静沈着を地で行くセイカが、その問いかけに対して僅かに視線を泳がせ、口元を手で覆う。
「……いえ。……その姿は、家で『二人きり』の時に、改めてじっくりと……観測させていただきますので」
「ふふ、楽しみに期待しておりますね。今夜は特別なハーブティーとともに、たっぷりとお手伝いさせていただきます」
二人の間に漂う、甘く濃密で他者が一切立ち入ることのできない夫婦の空気に、ネルは「あーあー! やってらんねえ! 爆破すんぞこのバカ夫婦!」と大悪党のように叫んであからさまに顔を背けた。
カリンは耳まで真っ赤にして「な、何を二人で言ってるんだ……!」とあちこちに視線を泳がせ、トキは手元の端末のキーを打つ速度を加速させる。
「……夫婦の親密度、測定不能の最大値を計測。……室笠家における幸福度パラメータの上昇を確認。ピースピース」
「……トキ。その記録データ、後で私にも共有して」
「……承知しました、シロコ先輩」
シロコとトキが淡々とデータをやり取りする横で、ケイが「……パーソナルデータの私的流用に関する規約違反を検知」と小さな口を挟む。ソラノミの甲板は、戦場から一転して温かな家庭の延長線へと塗り替えられていた。
「さあ、皆さん。……冷たい海風は体に毒です。……船内には温かい食事と、最高級のハーブティーを用意してあります。……先生、今夜はソラノミでゆっくりと、勝利の祝杯を挙げましょう」
セイカの静かな合図とともに、ソラノミの超大型メインスラスターが静かに、そして力強い青い光を放ち始めた。
重力を軽々と振り切り、圧倒的な存在感を放つ巨大戦艦は、ゴールデンフリース号を遠く眼下に見下ろしながら、ゆっくりと夜空へ向かって浮上していく。
甲板の端では、完全にワイヤーで簀巻きにされたコユキが「ふえぇ……反省してますから私にもハーブティー飲ませてくださいぃ……」と力無く呟いていたが、誰一人として取り合おうとはしなかった。
暗雲を突き抜け、月光が澄み渡る大気圏近くの絶景の中、青と白の絶対的な翼に守られた「室笠家」という名の安らぎの聖域。
激しい戦いを乗り越え、確かな絆で結ばれた家族と仲間たちを乗せて、ソラノミはミレニアムの澄み渡る夜空へと、静かに、そして誇らしげに帰っていったのだった。