豪華客船「ゴールデンフリース号」の狂乱と静寂が交錯する最上層──吹きすさぶ冷たい潮風と、遥か眼下に広がる漆黒の太平洋に囲まれた屋上ヘリポート。
先ほどまで船内を包み込んでいたカジノフロアの狂乱的なファンファーレや、地下牢獄の湿っぽく重々しい空気とは対照的に、ここにはただ夜気と、絶え間なく押し寄せる波音だけが支配する静寂が存在していた。
暗雲の切れ間から差し込むかすかな月光が、濡れたヘリポートのコンクリート床を白く照らし出している。
そこから夜空へと逃げ延びたはずの「白兎」──黒崎コユキの逃避行は、今や完全に破綻していた。
月光を青白く弾く空中戦艦「ソラノミ」の広大な外部甲板。
極細でありながら戦車すら繋ぎ止める高分子特殊炭素繊維のワイヤーに全身を隙間なく縛り上げられたコユキは、甲板の硬い装甲板の上で芋虫のようにジタバタと蠢きながら、喉を締め付けるような悲鳴を夜空へと響かせていた。
「ひ、ひえぇぇぇ……! なんですかこの家は! 名前を間違えられたと思ったら、今度は最強の包囲網じゃないですかぁ! 私、黒崎コユキですよ! ミレニアムを揺るがす天才数学少女なんですよぉぉ! 人権侵害です! 条約違反ですぅ! 助けてくださいー!」
涙目になりながら長いうさ耳を激しく左右に揺らし、必死の抵抗を試みるコユキ。
オーバーロードによって黒煙を吹き上げた飛行ドローンの残骸が傍らに転がる中、彼女がどれほど足掻こうとも、拘束ワイヤーは微動だにせずその身体を締め上げていた。
だが、その暴走を冷たく見下ろすのは、ソラノミを根城とする室笠家の「守護者」たちであった。
「……ん。黒崎コユキ、確保。……うるさいから、後で口にガムテープを貼っておく。……お父さん、いい?」
銀髪を夜風になびかせたシロコが、手にしていた漆黒のライフルを滑らかな動作で背負い直す。彼女の首元で静かに青い光を放つ透明なペンダントを華奢な指先で弄りながら、シロコは静かな瞳を室笠セイカへと向けた。
かつて世界を滅ぼしかけた絶望の影はなく、そこにあるのは愛する家族の安寧を乱す存在に対する、容赦のない「長女」としての冷徹な護衛本能だった。
「……シロコ、それは少し過激です。……ですが、彼女の『不確定な言動』を制限する必要性は認めます。……ケイ、彼女を客室(という名の監禁室)へ輸送してください」
威厳に満ちた佇まいで佇む室笠セイカが、低く落ち着いた声で命を下す。その周囲には、数基のフィンファンネルが美しい円環を描きながら空中を舞い、完璧な防衛陣形を維持していた。
「了解しました、お父さん。……対象、黒崎コユキの輸送シークエンスを開始。過剰な騒音による精神的ストレスのカット、および不快な周波数の遮断、完了」
セイカの傍らで空中ホログラムディスプレイを滑らかに叩いていたケイが、無表情のまま指先をフリックした。
直後、甲板の重力制御プレートが局所的に作動し、重力を失ったコユキの身体がふわりと宙に浮遊する。
「ふえぇ!? 浮いた!? ちょ、ちょっとどこへ連れて行くんですかぁー! 助けて先生ー! 反省文なら何千枚でも書きますからぁぁー! 許してくださいぃぃー!」
哀れな悲鳴は、重力制御システムによって滑るように引きずられていく装甲ハッチの奥へと吸い込まれ、重厚な耐圧扉が閉じると同時に完全に途絶えたのだった。
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耳障りなコユキの悲鳴が消え去ると、ソラノミの外部甲板には、海面から吹き上げる心地よい夜風の音と、静けさだけが戻ってきた。
黄金に輝くゴールデンフリース号を遥か眼下に臨むこの場所は、過効な任務を完遂した者たちに与えられた唯一の聖域だった。
ヘリポートからのホバーリフトで合流を果たしていたC&Cの面々──角楯カリン、一之瀬アスナ、美甘ネル、飛鳥馬トキ、そして先生は、無事にお掃除が完了した空気感を肌で感じ取っていた。
「先生、本当にありがとうございました。……潜入中のエスコート、そしてアカネを支えてくださったこと、感謝の言葉もありません」
セイカは先生の前へとゆっくり歩み寄ると、姿勢を正し、胸に手を当てて深く丁寧に一礼を捧げた。その動作には、ミレニアムの誇る最高峰の戦術知能としての威厳と、一人の「夫」としての真摯な誠実さが同居していた。
その隣へ、バニースーツの胸元を優雅に整えた室笠アカネが歩み寄る。アカネは柔らかな眼差しで先生を見つめると、セイカの逞しい腕へと愛おしそうに自身の細い腕をそっと絡めた。
「ふふ、先生。……今日の私は、C&Cのメイドとしてではなく、室笠の『妻』として、あなたに助けられました。バニーガールという特殊な装いで潜入を完遂できたのも、先生の適格な指揮と、セイカさんの存在があったからです。……セイカさんが作ってくれたこの『ソラノミ』は、私たちが帰るべき、一番大切な場所なんです」
「アカネ……。……あなたの生体波形から、極めて高い幸福度と安堵の数値を検出しました。……私の演算は、あなたを無事に迎え入れるためだけに存在しています」
「ええ、分かっていますよ、セイカさん。私を一番愛してくれているのは、世界中であなただけですもの」
見つめ合い、互いの存在を確認し合う二人。二人の周囲には、甘く濃密で他者が一切立ち入ることのできない夫婦の空気が醸し出されていた。
「あーあー! やってらんねえ! 爆破すんぞこのバカ夫婦!」
スカジャンのポケットに手を突っ込み、やれやれと首を振ったのはネルだった。彼女は荒っぽく頭を掻きながらも、どこか誇らしげな笑みを浮かべて先生とセイカを見つめる。
「ま、今回はアスナの強運と先生の指揮に救われたな。アカネが無事に戻ったし、あのうるさいウサギも捕まえた。文句なしのお掃除完了だ」
「あははー! ネル先輩、私何か役に立ったー? 先生と一緒に美味しいごはん食べられたらそれで大満足だよー!」
無邪気に大笑いするアスナの姿に、カリンもようやく緊張の糸が切れたように肩の力を抜き、「……まったく、無茶ばかりする」と小さく苦笑いを漏らした。
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「……お母さん。無事でよかった」
シロコが静かに歩み寄り、アカネとセイカの姿を愛おしそうに見つめる。
かつて孤独と絶望の淵にいた彼女にとって、この温かな家族の光景こそが、命を賭して守るべきかけがえのない宝物だった。
「シロコ……ありがとうね。あなたがソラノミで駆けつけてくれなかったら、コユキちゃんの捕縛も一筋縄ではいきませんでした」
アカネが優しくシロコの銀髪を撫でると、シロコは少し照れたように目を細め、耳をピコピコと揺らした。
「……ん。当然のことをしただけ。……お父さんとお母さんを守るのが、私の役目だから」
「……肯定します。……室笠家における第一防衛ラインとしての機能を完全に遂行しました」
ケイもまた、ディスプレイを消し込みながら淡々と言葉を添える。だがその表情には、どこか満足げな色が伺えた。
「……報告。C&C各員および先生の精神的負荷、および肉体的疲労がピークに達しつつあります。……速やかな艦内への移動と、栄養補給を推奨します。……ついでにピースピース」
トキが淡々と現状を分析し、手元の端末で通信を完了させながら無表情でピースサインを作る。
「……トキ。その提案は極めて論理的です。……先生、C&Cの皆さん。立ち話もここまでとしましょう」
セイカが静かに頷き、ソラノミの中枢へと繋がる巨大なメインハッチへと視線を向けたのだった。
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ソラノミの重厚なメインハッチが、エアの吐出音とともに静かに左右へ開かれた。
甲板を支配していた冷たい海風と夜闇とは対照的に、艦内に足を踏み入れた一行を出迎えたのは、柔らかな木目調のインテリアと温かな橙色のライティングが施された、驚くほど広大で洗練されたメインラウンジであった。
そこは戦闘艦の内部という殺風景なイメージとは程遠く、まるで最高級ホテルのスイートルームか、手入れの行き届いた邸宅の居間を思わせる温もりに満ちていた。
「わあぁぁーっ! すごいすごい! なにこれ、めちゃくちゃ綺麗なご飯がいっぱい並んでるよー!」
真っ先に飛び込んだアスナが、ラウンジ中央に設置された超大型の円形テーブルを見て目を輝かせた。
テーブルの上には、アカネが寸分の狂いもなく仕上げた、極上のフルコースディナーが湯気を立てて並べられていた。絶妙な火加減で焼き上げられたローストビーフ、色彩豊かな季節の温野菜、そして芳醇な香りを漂わせる特製のスープ。
「……おいおい、本気かよ。潜入任務の後に食うにしては豪勢すぎんだろ……」
ネルが呆れたように吐き捨てつつも、空腹を刺激する香ばしい匂いに素直に喉を鳴らす。
カリンもまた、バニースーツの緊張感から解放された安堵とともに、テーブルの御馳走を感心したように見つめていた。
「……みなさんの嗜好、および本日の消費カロリーを演算し、最適化されたメニューです。……遠慮なく摂取してください」
ケイが手元の端末でテーブルの保温機能を調整しながら、淡々と説明を加える。
その横で、セイカが優雅な手つきでアカネのエスコートを行い、彼女をメインシート──すなわち、セイカの真横に用意された最高級レザーのチェアへと静かに誘った。
「さあ、アカネ。ここがあなたの指定席です。……今夜はあなたがバニーガールとして果たしてくれた数々の功績と、何より無事の帰還を祝うための夜なのですから」
「ふふ、ありがとうございます、セイカさん。……こんなにも素敵なお出迎えをして頂けるなら、たまにはバニーガールのお給仕も悪くありませんわね」
「……いえ。バニーガールの衣装は、先ほども申し上げた通り『私と二人きり』の空間限定とさせていただきます。……他の者の視線にあなたの美しさを晒すのは、私の演算システムにとって過度な嫉妬となりますので」
「まあ……ふふっ、セイカさんたら」
真っ直ぐな瞳でさらりと一線を踏み越えるセイカの発言に、アカネは頬を少しだけ赤く染めながら、心底嬉しそうに目を細めた。
二人の間に流れる甘い空気に、ネルは「はいはい、ごちそうさまでしたー」と投げやりに叫びながら肉料理へと手を伸ばし、アスナは大笑いしながらスープを口に運ぶ。
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賑やかな宴が始まり、ソラノミのラウンジには笑い声と食器の触れ合う心地よい音が響き渡っていた。
先生はグラスを手に、C&Cのメンバーやシロコ、ケイたちと今日の激戦を振り返りながら穏やかな時間を過ごしていた。潜入任務の緊張感、コユキの暴走、そして夜空での一網打尽──どれも一歩間違えれば大惨事になりかねない綱渡りだったが、こうして全員が無事に笑い合えていることが、何よりの成果だった。
「……先生」
ふと、隣に立ったシロコが、温かいハーブティーの入ったカップを両手で持ちながら、静かに語りかけてきた。
彼女の透明なペンダントが、温かな照明を反射して優しく揺れている。
「……ん。今日の作戦、先生の指示が的確だった。……お母さんが無事で、本当によかった。……ありがとう、先生」
"シロコが真っ先に駆けつけてくれたおかげだよ。ありがとう"
先生が微笑みながら頭を撫でると、シロコは一瞬目を見開き、それから嬉しそうに少しだけ頭を預けてきた。その表情には、かつて世界を巡る絶望に苛まれていた面影はどこにもない。いまここにいるのは、大好きな家族と先生の隣で、穏やかな幸福を噛み締める一人の少女だった。
「……先生、およびシロコ先輩。……幸福度の上昇に伴い、心拍数の微増を確認。……なお、私もハーブティーの味覚シミュレーションにおいて99.8%の満足度を計測しました。ピースピース」
いつの間にか隣に並んでいたトキが、静かにカップを傾けながら無表情でピースサインを作る。
「トキ、お前いつの間にそこに……。……まあいいや、本当に、みんないい顔をしてるな」
カリンが遠くからその光景を見つめながら、ぽつりと呟いた。
過酷なお掃除任務を完璧に遂行し、ミレニアムの平和を守り切った仲間たち。そして何より、互いを信頼し合い、絶対に揺らぐことのない「絆」を手に入れた室笠家の姿。
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宴が一段落し、C&Cの面々が満足そうにソファでくつろぎ始めた頃、セイカとアカネはラウンジの巨大な展望ウィンドウの前に並んで立っていた。
窓の外には、幾千の星々が瞬く澄み切った大気圏近くの夜空と、遥か眼下に広がるミレニアムの街並みがネオンの海となって広がっている。
地上を騒がせた事件も、夜空の静寂の中ではまるで遠いおとぎ話のようだった。
「……セイカさん。……今日の星空は、一段と綺麗ですね」
アカネが窓に映るセイカの横顔を見つめながら、静かに語りかける。
セイカはそっとアカネの腰に手を回し、引き寄せるようにしてその肩を抱いた。
「……ええ。ですが、私にとって最も美しく、観測し続ける価値のある光は、いつだってあなたの隣にあります。……アカネ。どれほど強い敵が立ちふさがろうと、どれほど複雑な計算が立ちはだかろうと……私はあなたと、私たちの家族を守り抜きます。……このソラノミとともに」
「ええ、知っていますわ。……あなたの導く計算なら、私はどこへだってついていきます。私の愛する旦那様」
アカネはセイカの胸元にそっと額を預け、二人は静かに目を閉じた。
言葉はなくとも、通い合う体温と呼吸だけで、二人の絆はどこまでも深く、確かなものとして刻まれていく。
ソラノミは静かに、しかし力強く大気を滑りながら、未来への航路を突き進んでいく。
青と白の翼に守られたこの聖域には、何者にも脅かされることのない、確定された絶対の幸福と温かな愛が、いつまでも満ち溢れ続けていたのだった。