午後三時。トリニティ総合学園の最も高い塔の最上階に位置する、ティーパーティー執務室。
天井の巨大なシャンデリアから注ぐ柔らかい光と、磨き抜かれた大理石の床。本来であれば、そこは優雅な紅茶の芳香が漂い、クラシック音楽が静かに流れる誇り高き生徒会執務室であるはずだった。
しかし現在、その室内を満たしているのは、ティーパーティーの優雅さとは程遠い、重苦しい溜息と紙の擦れる音であった。
「……ナギサ。これは本当に、今日中に終わらせるべき性質のものなのかい?」
部屋の奥に置かれた巨大なマホガニー製のデスク。その上で、百合園セイアは文字通り「突っ伏して」いた。
長机の端から端までを埋め尽くしているのは、トリニティ管内の各部活から提出された予算申請書、敷地内の備品修繕要求、他学園との交流事業に関する承認書類など、うずたかく積み上げられた膨大な紙の山である。その山に埋もれるようにして、セイアは頬を木目調の天板に押し付け、片方の狐耳を力なくへたりと垂らしていた。
対する桐生ナギサは、一切の乱れもない完璧な所作でティーカップをソーサーへと戻し、氷のように冷ややかで、同時に絶対的な決意を秘めた笑みを浮かべた。
「終わらせるのです、セイアさん。昨日も、一昨日も、まったく同じことを仰っていましたよね?」
「だが……考えてもみたまえ。この書類の厚み、そしてこの枚数だ。人間が一日に処理できる情報量には物理的な限界というものが存在する。これを強行すれば、私の明晰な脳細胞が焼き切れてしまう危険性すらあるのだよ」
「言い訳のボキャブラリーだけは実に豊富ですね。ご安心ください、あなたの脳細胞はそれくらいでは絶対に焼き切れません。さあ、ペンを握ってください」
「……おかしいな。私の予言によれば、今日の私は無理な労働を一切避け、日当たりの良いテラスで静かにウーロン茶を嗜みながら休息を取るべきだと出ていたはずなのだが?」
「その予言、今すぐ破棄してください」
食い気味の即答であった。ナギサの容赦のない手慣れたサボり対策に、セイアはぐぬぬと喉を鳴らし、再び机の上の書類の山へと顔を埋めた。
そんな二人の不毛なやり取りを、室内中央のふかふかの革張りソファーに深く腰掛け、ロールケーキをフォークで突っついていた聖園ミカが、実に楽しそうに眺めていた。
「うわぁ……セイアちゃん、これホントに全部やるの〜? 見てるだけで目が回りそうだよ」
「そうなんだよ、ミカ。見れば分かる通り、私は今、極めて過密かつ重大な公務に追われており、非常に多忙なのだ。だから……」
そう言いながら、セイアは机の上の書類を数枚つまみ上げ、さも「今まさに集中して読んでいる」風を装う。だが、ミカはロールケーキを口に放り込みながら、ジト目でセイアの手元をジッと見つめた。
「……ねえセイアちゃん。さっきから一枚も書いてないよね? むしろさっきから同じ書類を上から下に裏返してるだけじゃない?」
「…………」
「セイアさん?」
「……予言者の直感だが、今日のミカは実に視力が良いようだね」
露骨に目を逸らし、明後日の方向を向くセイア。ナギサは深々と溜息を吐き、自らの額に指を当てた。
「全く……あなたが本気を出せば、こんな書類の山など一時間もかからずに処理できることくらい、私には分かっているのですよ。なぜそうして全力でサボろうとするのですか」
「私はサボっているのではない。精神の平穏を保つための『不可避な猶予』を要請しているのだよ」
「それを世間ではサボりと言うのです」
執務室の重厚な空気が、セイアの抵抗とナギサの正論によって膠着状態に陥っていた、まさにその時であった。
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カチャン、と静かな音を立てて執務室の重厚な防音扉が開いた。
室内へと歩み込んできたのは、ソラノミからトリニティへやってきたケイであった。
ミレニアムのゲーム開発部における新作ゲームのデバッグおよびプログラム補助作業が一区切りついたため、様子を見にトリニティの執務室へと足を運んできたのだ。整えられた制服の裾を揺らしながら、ケイは室内の重苦しい雰囲気を敏感に察知しつつも、迷いのない足取りでセイアのデスクへと近づいていく。
「セイア。仕事中ですか?」
「……! ケイ!」
それまで死に体だったセイアの身体が跳ね上がり、垂れていた狐耳がピンと直立した。顔をパッと輝かせ、まるで救世主でも見つけたかのような表情でケイを見つめる。
「おお、ケイ! よくぞ来てくれた! 見たまえ、この惨状を! 私は今、トリニティの不条理な官僚主義の犠牲となり、この紙の拷問にかけられているところなのだ!」
「……そうですか」
大袈裟に嘆いてみせるセイアに対し、ケイの反応は至って淡々としていた。感情の起伏の少ない瞳で、机の上に積み上がった書類を一通りスキャンするように見つめている。
だが、セイアが「これで仕事から逃げる口実ができた」と歓喜した瞬間、ナギサの静かで威圧感のある声が室内に響いた。
「ケイさん。お久しぶりですね。ですが申し訳ありませんが、セイアさんを仕事から逃がすような真似はお控えいただけますか?」
「……え?」
いきなり指名を受け、小首をかしげるケイ。セイアは不服そうにナギサへと向き直った。
「失礼な言い草だな、ナギサ。私はまだ何も言っていないよ。友人との友情を温めるために、少しお茶の時間を設けようとしただけではないか」
「あなたの場合、口に出す前から何を考えているか手に取るように分かります。ケイさんが来たのを良いことに、『来客の対応』を理由にして執務室を抜け出そうとしていましたね?」
「……ぐっ」
完璧に見抜かれていた。図星を突かれたセイアが言葉を詰まらせると、ソファーのミカが「あはは! ナギちゃん、セイアちゃんの扱いが完全にプロの領域に入ってる〜!」と手を叩いて笑った。
友人であるセイアと、ティーパーティーのトップであるナギサの攻防を前にして、ケイは少しだけ困惑したように淡い瞳を瞬かせていた。
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状況を完璧に把握したケイは、自らの立場と状況を瞬時に計算した。そして、静かな手つきでセイアのデスクの端に積まれた書類の山へと手を伸ばす。
「私も手伝います」
「!!」
その言葉を聞いた瞬間、セイアの目がこれ以上ないほどに輝いた。感動に打ち震えた様子でケイの手を取ろうとする。
「おお……ケイ! 君という友人は、なんて心優しく、頼もしいのだ! ああ、持つべきものは真の友人だな! よし、ではこの書類の七割ほどを君に──」
「ただし。セイアの仕事を私が全て代行するわけではありません。あくまで『手伝い』です」
「……そこまで予言していたのかい?」
調子の良いセイアの言葉を、ケイは至って冷静に遮った。
ケイはセイアの隣に置かれていた丸椅子を引っ張ってくると、そこにちょこんと腰掛けた。そして、持ち前の高い処理能力を活かし、不規則に置かれていた書類を「予算関連」「施設承認」「他学園交渉」の三つのカテゴリーへとミリ単位の精度で手際よく分類し始めていく。
「私が分類し、重要度をソートします。セイアはそれを見て、承認の署名と最終判断を行ってください。これなら作業効率は従来の300パーセント以上に向上します」
「うぐ……完璧すぎるロジックだ。逃げ道が完全に塞がれてしまったな……」
友人の手伝いという最大の救いの手を得たものの、同時に「自らも仕事をせざるを得ない環境」を完璧に構築されてしまったセイアは、諦めたように溜息を吐き、ペンを握り直した。
カリカリ、と規則的なペンの音がデスクから響き始める。
先ほどまでの泥沼のような遅延が嘘のように、スムーズに処理されていく書類の山を見て、ナギサは心底安心したように胸を撫で下ろした。
「ふふ、素晴らしい手際ですね、ケイさん。これでようやく今日の業務が終わりそうですわ」
「なんか、すごく良いコンビだね〜」
ミカがソファーから乗り出し、隣同士で座ってペンと書類を動かすセイアとケイの姿を眺めて微笑む。
「セイアちゃんは頭が良いのにすぐサボるから、ケイちゃんみたいに淡々と手綱を引いてくれる人が必要なんだよ、きっと」
「友人に対して『手綱』とは聞き捨てならないな、ミカ。私はただ、効率的な作業環境を享受しているだけだよ」
そう言いながらも、セイアの手は滑らかに動き、次々と書類に署名がなされていった。
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紙がめくられる音と、規則的なペン走りの音が心地よく室内を満たす中、書類のソートを続けていたケイが、ふと手を止めた。
隣で静かに署名を続けているセイアの横顔を、チラリと横目で見つめる。
「……セイア」
「ん? なんだい、ケイ?」
セイアはペンを止めずに問い返す。ケイは少しだけ間を置いてから、静かな声音で尋ねた。
「……メテオストライカー、直ったんですよね」
ピタリ、とセイアの手が止まった。
執務室の空気が、わずかに静まり返る。ソファーでくつろいでいたミカや、紅茶を飲んでいたナギサも、静かに二人のやり取りへと意識を向けた。
ケイの耳にも、ソラノミの格納庫で行われていたあの過酷な修復作業の全貌は届いていた。ナイチンゲール戦で大破したメテオストライカーを蘇らせるため、ミレニアムの頭脳が集結し、二つの心臓を組み込む「ルミナス・ダブルコア化」という極限の改修が行われたことを。
セイアは静かにペンをデスクの上に置くと、優しい表情で目を細めた。
「ああ。無事に完了したよ。……セイカはまた、あのどこまでも広い空を自らのものにする剣を手にした」
「……そうですか」
ケイはホッと安堵したように、胸に小さな手を当てて深く息を吐いた。
無機質に見えがちな彼女の瞳の奥に、確かな安らぎの光が宿る。
「……よかったです。……お父さん、ずっと自分を責めていましたから」
セイアは表情をいっそう柔らかくし、自分の顎に指を当てながら静かに頷いた。
「そうだね。あの子……セイカは前からそうだ。自分が強くありさえすれば、周りのみんなを危険に晒さずに済むのだと、過剰なまでに一人で重責を背負い込もうとする。今回も、機体が壊れたのは自分の力不足のせいだと、ずっと一人で打ちひしがれていたからね」
「はい。お父さんは強くなりたがっています。でも……強くなることばかり考えて、壊れてしまったら意味がありません」
「ふふ、君の言う通りだとも。だが、もう心配はいらないよ」
セイアはそう言って、窓の外に広がる澄み渡った青空を見上げた。
「……あの子の傍らには、アカネがいるからね」
「……はい。お母さんがいるから、大丈夫だと思います」
温かく優しく、そして何よりも強い包容力でセイカを支え、ソラノミという「家族の居場所」を優しく守り続ける存在。
「お母さんは、お父さんが一人で暴走しそうになった時、ちゃんと止めてくれます。お父さんが帰ってくる場所を、ずっと温めて待っていてくれますから」
「ああ。私もまったく同感だよ。あの二人が揃っている限り、ソラノミの空が落ちることはないさ」
過酷な戦闘と激動の修復劇を乗り越えたからこそ存在する、平穏で優しい時間が、執務室の中にしっとりと満ちていた。
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「ふふ。セイアさん、あなたも人の心配ばかりしていないで、ご自分のことを少しは考えてはいかがですか?」
二人の会話を静かに見守っていたナギサが、優雅に一口紅茶を嗜んだ後、くすりと微笑みながら声をかけた。
「……耳が痛いね」
「あはは! ホントだよ〜! セイアちゃんは前から自分のことになると途端に適当になるんだから!」
ミカがロールケーキの最後のひとくちを口に放り込みながら、悪戯っぽく笑う。
「セイカちゃんやアカネちゃんの心配はするのに、自分の書類仕事からは全力で逃げようとするんだもん。ねえ、ケイちゃんもそう思うでしょ?」
ミカから話を振られたケイは、淡々とした表情のままセイアを見つめた。
「はい。セイアは自分の管理能力に関して、やや課題があると感じます」
「ケイまで私を追い詰めるのかい!?」
信じていた友人からの容赦のない一言に、セイアはショックを受けたように胸を押さえた。だが、ナギサは逃がさぬとばかりに攻勢を強める。
「自覚があるなら結構です。では伺いますが、セイアさん。あなたはどうして隙さえあれば仕事をサボって、ソラノミへ逃げようとするのですか?」
「…………」
「セイアさん?」
ナギサの鋭い追及に対し、セイアはすっと目を閉じ、まるで高尚な哲学者のような神妙な面持ちを作ってみせた。
「……予言によれば、現在の私には『沈黙』こそが最も高潔で最善な選択であると示されている」
「「…………」」
露骨すぎる逃走手段に、ナギサとミカは同時に深く深い溜息を吐き出した。
「ハァ……全く、都合の良い時だけ予言を持ち出すのはあなたの悪い癖ですよ」
「そうだよセイアちゃん〜。そんな嘘ついたら、予言の神様に怒られちゃうよ〜?」
「神様に怒られるかどうかは別として、現実にナギサに怒られていることの方が私にとっては死活問題なのだよ……」
弱々しく呟くセイアの姿に、室内にはどっと和やかな笑いが広がった。
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ケイの無駄のない完璧な処理能力とサポートにより、一時は天を突くかと思われた書類の山も、ついに最後の数十枚を残すのみとなっていた。
デスクの上の整理を終え、立ち上がって制服の皺を伸ばしたケイは、去り際にふと思い立ったようにセイアへと視線を向けた。
「セイア」
「ん? なんだい、ケイ?」
ペンを滑らせていたセイアが顔を上げる。ケイは少しだけ躊躇するような仕草を見せた後、静かに告げた。
「今度、ゲーム開発部に遊びに来ませんか?」
「……ん?」
意外な誘いに、セイアは驚いたようにパチクリと目を瞬かせた。
ケイが普段からミレニアムのゲーム開発部へ足繁く通い、モモイやミドリたちと新作ゲームのデバッグやプレイを楽しんでいるのは知っていたが、まさか自分に声がかかるとは思っていなかったのだ。
「ゲーム開発部かい? うーむ……あいにく私は、そういった現代的なデジタル娯楽にはあまり造詣が深くないのだが……」
「大丈夫です。私が手取り足取り教えますから」
「……ほう。君が直々に指導してくれるのかい?」
「はい。モモイたちが作った新しいレトロ風RPGのプレイテストをしてほしいのです。セイアのような『予言者』の直感が、ゲームのシナリオや選択肢にどう影響するか興味があります」
「ふむ……! それは実に知的好奇心を刺激される魅力的な提案だな!」
乗り気になったセイアが乗り出そうとした瞬間、ソファーからミカがバッと勢いよく飛び出してきた。
「えっ!? なになに! ゲーム開発部!? 楽しそう! ねぇねぇケイちゃん、私も行っていい!? 私もゲームやってみたい!」
「ミカさんまで……! おやめなさい、あなたが行ったらゲーム開発部の部室が壊れてしまいます!」
「壊さないよ〜! ひどいなナギちゃん! 私はただ楽しくピコピコしたいだけなのに〜!」
騒ぎ出すミカと、それを必死に宥めるナギサ。頭を抱えるナギサの姿を見て、ミカはキャッキャと楽しそうに笑い転げている。
「いいじゃんナギちゃん! たまには息抜きも必要だよ! ずっとこの硬い執務室でお仕事ばっかりしてたら、お肌にも良くないんだから!」
「私のお肌の話は今関係ありません! そもそもあなた方は……!」
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大きな窓の外では、トリニティの白亜の校舎群が茜色の美しい夕焼け空へと染まり始めていた。
室内を満たしていた賑やかな声援も落ち着き、ケイが「それでは、私はこれで帰還します」と執務室の重厚な扉に手をかけた。
セイアはデスクに向かい、残った最後の数枚の書類に署名を走らせている。
扉を開けたケイは、退出する間際にふと足を止め、振り返ってセイアの背中に声をかけた。
「セイア」
「なんだい?」
セイアが顔を上げると、ケイはどこか柔らかい、温かな眼差しでセイアを見つめていた。
「……ちゃんと、休んでくださいね」
友人としての、心からの気遣い。
普段は無表情なケイが見せたその優しさに、セイアは一瞬だけ目を見張り、それから心底愛おしそうに、目を細めて微笑んだ。
「……フフ。君は本当に、私よりもずっと大人びているね、ケイ」
ケイは満足そうに少しだけ口元をほころばせると、「失礼しました」と静かに言い残して扉を閉め、去っていった。
カチャン、と静かな閉塞音が響き、夕闇が差し込む執務室に再び静寂が戻る。
セイアが扉の方向を温かな眼差しで見送っていると、すぐ隣から、冷酷なまでに完璧なタイミングでナギサの声が響いた。
「……では、セイアさん。残りの書類を終わらせてしまいましょうか」
「……分かっているとも」
セイアはペンを握り直し、最後の数枚に素早く署名を叩き込んでいく。
そして、すべての書類を書き終えると、デスクに肘をついてチラリとナギサを見上げた。
「……ところで、ナギサ」
「なんでしょう?」
「来週のスケジュールだが……ゲーム開発部へ行く許可を──」
「仕事が全部終わってからです」
「……はい」
間髪を容れぬナギサの即答に、ソファーのミカが「あははは! やっぱり駄目だった〜!」と大爆笑する。
茜色に染まる執務室に、楽しげで賑やかな笑い声がいつまでも響き渡っていた。
「(……やれやれ。どうやら予言者の長い一日は、まだ終わりそうにないな)」