ワイルドハント芸術学院の敷地内、寮の片隅にある第4寮404号室。
そこは、オカルトや魔法の力を心から信じる白尾エリが、自らの情熱を傾けて立ち上げた「オカルト研究会」の活動拠点であった。
部屋の中には、エリが学院中やキヴォトス各地からコツコツと集めてきた怪しげな骨董品、古書、怪異の噂をまとめたスクラップブック、タロットカード、そして怪しい光沢を放つ水晶玉が所狭しと並べられている。
その部屋の真ん中で、白尾エリは腕をまくり上げ、元気いっぱいに作業を進めていた。
「にゅふふふ……! 今日も世界は豊かなマナと大いなるミステリーに満ち満ちていますね! 私が創立したこのオカルト研究会も、資料が増えてだんだんと本物の魔術結社らしくなってきました!」
エリは機嫌よく「にゅふふ~」と笑みを浮かべながら、自分で収集し積み上げてきた資料の山を整理していた。
絵画の才能への葛藤や様々な想いを抱えながらも、彼女にとってこの場所は、仲間とともに自分の「好き」とロマンを全力で詰め込んだ特別な城であった。
「おや……? これは一体……何でしょうか?」
エリ自作の棚の最奥、集めたオカルト雑記の陰にひっそりと隠れるように収まっていた一冊の本が、エリの手を止めさせた。
「……こんな本、私……収集しましたでしょうか? ううん、どこかの市場でどさくさに紛れて買い付けたのでしょうか……?」
その本は異質であった。
装丁は重厚な黒。革のようでありながら、どこか金属的な冷たさと滑らかさを併せ持つ不思議な手触り。表紙にも背表紙にも、タイトルや著者名、発行元の刻印すら存在しない。
エリがそっと本を持ち上げると、指先からかすかなピリピリとした感覚──彼女の言うところの「マナの波長」が伝わってきた。
「にゅふふ~……! これは凄いです! ただの古書ではありません! 紙面から溢れんばかりの絶大なアルカナの気配、大いなる魔力の波動を感じますよ!」
ワクワクとした胸の高鳴りを抑えきれず、エリは息をのんでその最初のページをめくった。
そこに書かれていたのは、エリが普段目にするような一般的な幽霊話や怪談、悪魔召喚の呪文といった類のものではなかった。
びっしりと書き込まれていたのは──見たこともない星々の異妙な配置図、空間の歪みや位相のズレをあらわす複雑極まりない図形、多次元の干渉を示す数式のような記号、そしてどこか未知の文明の巨大構造物を思わせる精密なスケッチであった。
「……え? これは……星の巡り? いえ、次元の折り畳み……でしょうか? 私が集めてきたどのオカルト資料とも違う、妙に専門的で……アルカナの法則が凄すぎます!」
エリのオカルト的直感が、けたたましく警鐘を鳴らし、同時に歓喜の声を上げる。
自らオカ研を立ち上げ、数々の都市伝説やオカルトを研究してきた彼女のアンテナが、この本が「本物の未知」であることを強烈に告げていた。
「これは間違いありません! きっと……本当の異世界や、私達の知らない次元の扉を開く『真理の書』に違いないのです! 世界を巡るマナの導きが、私にこの本を引き寄せたのですね!」
胸の奥で爆発する情熱と探求心を抑えきれなくなったエリは、黒い本を大切に抱え直した。
「こうしちゃいられません! この大発見、あの方に見てもらうしかありませんね! 空見観測研究部、そしてソラノミへ出発です!」
__________
大気圏外、あるいは静かな空の彼方を滑空する宇宙戦艦ソラノミ。
そのメインブリッジ兼観測室は、青白いホログラムディスプレイが何層にも重なり合い、未知の宙域からの観測データが流星のような速度でスクロールする静寂の世界であった。
室笠セイカは、その巨大な情報空間の中心で、静かに端末へと指を走らせていた。
「大気圏上層における位相変動係数、0.004。……計算上、この出力ならシステム全体の安定性を維持できますね」
セイカの表情は穏やかだが、その瞳には常に洗練された理知の光が宿っている。彼女にとって世界とは、過給演算やデータによって解き明かされるべき構造体であった。
「ごきげんよう、セイカ! にゅふふふ、お邪魔しますよ!」
静寂を打ち破り、メインブリッジの重厚なハッチが勢いよく開く。
躍動感あふれるステップで飛び込んできたのは、ワイルドハントの制服を翻した白尾エリであった。
「エリ。ごきげんよう。ちょうど大気観測データの確認が一区切りついたところです。今日は、どうされたのですか?」
セイカはディスプレイから視線を外し、落ち着いたトーンでエリを迎えた。
エリは抱えていた黒い本を「じゃじゃーん!」とばかりに突き出し、瞳をキラキラと輝かせながら声を弾ませる。
「実はですね! 私が立ち上げましたオカルト研究会の資料を整理していたところ、この大いなるマナを秘めた秘術書を発見したのです! タイトルも作者もないのですが、ものすごいオカルトエネルギーを感じるのですよ! 星空と未知を探求するセイカなら、この本の『秘められた魔力』について何か知っているのではないかと思いまして!」
「……なるほど。確かに、この本は普通のオカルト資料とは少し違いますね」
セイカは差し出された黒い本へ視線を落とした。
その瞬間──。
ピキ、と空間の空気が凍りついたかのような静寂が走る。
常に冷静沈着で、どんな異常事態に対しても波風を立てないセイカの眉が、わずかに跳ね上がった。
セイカの瞳の奥で、過剰なまでの情報処理──過給演算が、凄まじい速度で起動する。
彼女の瞳が鋭くなり、いつもの包容力に満ちた表情の裏から、冷徹なまでに鋭い「観察者としての本能」が露わになった。
エリはその劇的な変化を見逃さなかった。
「にゅふふ! セイカの瞳にものすごい魔力の閃光が走りましたね! ……やっぱり、何か知っているのですね!?」
エリが期待に胸を膨らませて身を乗り出すと、セイカは一度深く息を吐き、静かに首を振った。
「いいえ……知っているわけではありません。ですが、エリ。この本について、少し詳しく分析させてもらえますか? 私としても、事実を確認しておきたいところですから」
「もちろんです! 秘められたマナの真実を暴いてやりましょう!」
セイカは即座にその黒い本を、ソラノミの高性能物質スキャナーへセットした。
非破壊検査光が本を包み込み、紙質、インクの化学組成、綴じ糸の分子構造、さらには記述されている言語の構文パターンが過給演算によって瞬時にデータ化されていく。
「……データを確認しましたが、なかなか興味深い結果が出ましたね。紙の劣化度と炭素年代測定の数値が、理屈として完全に矛盾しています。インクに含まれる微量元素も、キヴォトスで一般的に流通している物質とは分子構造レベルで異なっている。……結論として、これは少なくとも私たちの世界で普通に製造された本ではありません」
セイカの冷静かつ的確な分析結果を聞き、エリは「パァッ」と顔を輝かせた。
「にゅふふふ! やっぱりです! 異世界からの召喚物、あるいは失われた古代魔法文明の遺産なんですね! 世界はやっぱり素晴らしいマナと未確認要素で満ちています!」
「確定はできませんが、異次元からの流出物である可能性は極めて高いでしょう。……通常であれば、こうした未知の境界物は危険性を考慮し、厳重に封印・管理下に置くのが研究者としての正解ですが……ふふ、エリのその嬉しそうな瞳を見ていると、ただ箱に閉じ込めてしまうのは少し野蛮に思えてきますね」
セイカは、エリの過剰とも言えるオカルトへのパッションと探求心を決して否定しない。それどころか、自ら部活を創設してまで未知を追いかける彼女の純粋な好奇心を慈しむように、優しく目を細めた。
__________
ソラノミの観測室に、二人のための大きなワークスペースが用意された。
ホログラムの画面と、机の上に広げられた重厚な黒い古書。
科学の到達点である宇宙戦艦のブリッジと、謎の古書という非日常的な対比の中で、二人の分析作業が始まった。
「セイカ、見てください! この『境界の揺らぎ』と書かれた魔法陣のような図、オカルトでよく言われる『神隠しが起きる魔の刻』の伝承と完璧に一致しているのですよ!」
エリがページの一角を指差し、身を乗り出す。
「興味深い指摘ですね、エリ。その伝承における『神隠し』を、空間の位相干渉による過渡的次元跳躍現象と仮定して、過給演算のシミュレーションを回してみましょう。……なるほど、この図に描かれた幾何学的な紋様は、位相境界の崩壊を防ぎ、空間を安定させるための幾何学的触媒として機能している可能性があります」
二人並んでデスクにつき、本を囲む。
エリは「オカルト・魔法・アルカナ・伝承の視点」から、自らの感性とタロット的な直感で謎を投げかける。
セイカはそれを「科学・過給演算・観察・次元物理の視点」から、論理と数式を用いて解き明かしていく。
一見すれば、真反対のアプローチ。
科学者とオカルト研究会の会長という、相容れないはずの二人。
しかし、二人の会話は滞るどころか、まるで美しい旋律を奏でるように噛み合っていった。
「素晴らしいです! 私が集めた知識やオカルトの直感が、セイカの魔法を通すことで、次々と実体を持って解き明かされていきます! まさにアルカナの共鳴、マナの調和ですよ!」
「私にとっても、これは非常に驚くべき体験です。数式や物理データとしてしか捉えていなかった多次元現象に、エリの自由な発想や歴史的伝承の知識が合わさることで、演算の解が劇的に広がり、解法への最短ルートが導き出されていく……」
熱心にデータを検証し、ページを繰るセイカの横顔を、エリはふと覗き込んだ。
普段のセイカは、どこか達観しており、すべてを遠い場所から見守る大人びた雰囲気を纏っている。だが今の彼女は──瞳の奥に、未知の謎に挑む少女のような無邪気さと、情熱的な知的好奇心の炎を爛々と燃え上がらせていた。
「……にゅふふ~」
「……? エリ、急にどうされましたか? 私の顔に何か付着していますか?」
「にゅふふふ! やっぱりセイカは凄いです! こういう『誰も知らない未知の話』になると、瞳の中のマナがとっても嬉しそうに輝き出しますね! 普段の冷静で頼もしいセイカもとっても素敵ですが、今のワクワクを隠しきれていないセイカも、私は大好きですよ!」
エリが屈託のない、満面の笑顔でそう言い放つ。
セイカは一瞬ポカンと目を丸くし、それから少しだけ決まずそうに、けれど嬉しさを隠せない様子で視線を泳がせた。
「……む。私はいつだって至って冷静に観察を行っているつもりですが……そのように見えますか?」
「ええ、バッチリ見えています! 占うまでもありません、私のハートのアルカナがそう告げていますよ! セイカは今、最高に楽しんでいるのです!」
「……ふふ、否定はできませんね。未知の領域を解き明かすことほど、観察者としての知的好奇心を刺激されるものはありませんから」
ふたりは顔を見合わせ、楽しそうに笑い合った。
__________
調査が深まり、時計の針が幾度も回転した頃。
セイカの指先が、その黒い本の最後のページへと辿り着いた。
そこには、これまでのページ以上に細密な線で描かれた構造図と、古代言語とも暗号ともつかない特殊な記号群がびっしりと刻まれていた。
その図面を目にした瞬間──セイカの動きが完全に止まった。
「……これは」
セイカの声から、かすかに余裕が消える。
「どうされたのですか、セイカ? 何か恐ろしい古代の呪いでも書かれているのでしょうか!?」
エリが心配そうに覗き込む。
セイカの瞳の中では、青いホログラム演算の光がこれまでにない異常な密度と速度で駆け巡っていた。過給演算がフルスロットルで回っている証拠だった。
「いいえ……呪いなどではありません。ただ、予想していませんでしたね。……この構造では、エネルギーの流入量に対して排熱が追いついていないように見えますが、特殊な位相安定化システムによって相殺されています。……そしてこの設計思想は、ソラノミの過給エンジン、そして私が制作した『ルミナス・コア』の初期理論と、ほぼ同型です」
「ええっ……!? セイカたちしか知らないはずのソラノミの秘密が、なぜ私の集めたオカルト本に……!?」
エリが驚きで目を丸くする。
事態は単なる古い本という枠を超え、セイカの探求する世界の真理そのものへと繋がり始めていた。
「……これは、少し興味深いですね」
セイカは静かに本を閉じ、落ち着いた視線をエリに向けた。
「エリ。もし本当に異世界や未知の次元について記述されているのなら……これはとても興味深い資料になります。私としても、追及しておきたい問題です」
エリは胸の前で黒い本をぎゅっと抱え直し、瞳をこれまで以上の輝きで満たしながらセイカを見つめ返した。
「にゅふふふ! ねえ、セイカ! この本に秘められた大いなる真実、そして世界を巡る究極のマナの謎……私とセイカの二人だけで調べてみませんか!?」
「二人で、ですか?」
「はい! 私が作ったワイルドハントのオカルト研究会と、セイカの空見観測研究部! アプローチは違っても、『世界に満ちる未知とロマンを追いかける』という想いは絶対に同じはずです! 演算のセイカと、アルカナを信じる私……この二人なら、どんな世界の謎だって解き明かせる気がするのです!」
自ら部活を立ち上げ、夢とロマンを追い求め続けてきたエリだからこその、まっすぐで力強い言葉。
セイカはそっと目を閉じ、自らの胸の中に湧き上がる温かな感情と情熱を確かめるように頷いた。
そして、目を開くと──これまでで一番柔らかく、親愛の込もった笑みを浮かべた。
「ええ。エリがそう望むのであれば……喜んで協力しましょう。オカルトと演算、二つのアプローチで、この本の先にある『真実』を解き明かしてみせます」
「決まりですね! にゅふふ~、頼りにしていますよ、最高のパートナー!」
元気いっぱいに差し出されたエリの手を、セイカが大きな手でしっかりと握り返す。
オカルト研究会で白尾エリが見つけ出した一冊の無名の黒い本。
それは、世界を魔法とマナで彩る少女と、星空と異世界を追う過給演算の観察者を強く結びつける、壮大な探求の旅の始まりであった。