大気圏外、あるいは雲海の遥か上空を沈黙のうちに滑空する巨大な影──空見観測研究部の活動拠点であり、古代の遺産でもある宇宙戦艦『ソラノミ』。
その最深部に位置するメインブリッジ兼観測室は、青白いホログラムディスプレイが何層にも重なり合い、絶え間なく明滅する演算光に満たされていた。
無機質な機械音と、流星の如くスクロールする膨大な数値データ。
室笠セイカは、その巨大な情報空間の中心で静かに端末へと指を滑らせていた。
セイカの瞳には、常に深海のような静謐さと、洗練された理知の光が宿っている。彼女にとって世界とは、過給演算や客観的なデータによって解き明かされるべき構造体の集合であり、あらゆる未知には必ず理由と法則が存在していた。
しかし──今、彼女の眼前にあるホログラムウィンドウに映し出されている分析結果は、その確固たる論理の網目を嘲笑うかのように、奇妙なエラーコードを吐き出し続けていた。
「ふむ……。やはり、私たちの持ち得るキヴォトスのデータベースと演算のシミュレーションだけでは、これ以上の進展は望めそうにありませんね」
「にゅふふ……? セイカのその凄まじい演算でも、解き明かせないアルカナが存在するのですか?」
デスクの反対側で、重厚な黒い本を壊れ物でも扱うかのように大切そうに撫でていた白尾エリが、不思議そうに首をかしげた。
彼女が自分の部屋の棚の奥から見つけ出したその無名の古書は、いまやセイカの知的好奇心を強烈に突き動かす最大の謎となっていた。
「ええ。物理的な組成や位相構造の異常性までは数値化できましたが……この本に記されている記号や構文規則そのものが、キヴォトスで体系化されているいかなる言語・暗号体系とも一致しません。文字としての意味を解読するためには、言語学や古文書学、あるいは古代の文献修復における専門的な知見という『別の軸のデータ』が必要です。私たちだけでこれ以上の独自解釈を重ねるのは、科学的なアプローチとしても不適切でしょう」
「なるほど……! 未知の魔術回路を無理に起動させようとして、暴走させては大変ですものね! そういうことなら……古書の解読や修復に長けた『本物の魔術師』に意見を求めるのが一番です!」
エリはポンと手を叩くと、自分がこれまでに集めてきた膨大なオカルト資料や都市伝説の記憶を辿るように、その瞳をキラキラと輝かせた。
「そういえばセイカ! 私、以前ワイルドハントの怪異譚やキヴォトスの奇談を調べていた時に、気になる噂を聞いたことがあるのです! トリニティ総合学園の広大な地下、あるいは誰も立ち入れない深層の書庫に……あらゆる古文書や傷ついた秘術書を蘇らせる『古書館の魔術師』と呼ばれる人物がいる、と!」
「……『古書館の魔術師』、ですか」
セイカはその整った眉をわずかに寄せ、眼鏡のブリッジをそっと押し上げながら思考を巡らせた。
「都市伝説めいた尾尾ひれがついている可能性は高いですが、トリニティがキヴォトスにおいても屈指の歴史と膨大な歴史的資料、宗教的文献を保有しているのは紛れもない事実です。……確かに、専門家の意見を仰ぐ場所としては、最も合理的な選択肢と言えますね」
「にゅふふ~! 決まりですね! そうと決まれば、いざトリニティへ旅立ちの時です!」
「ええ。未知の言語構造と、この本が持つ異常な位相データ……解析の手がかりが得られると良いのですが」
セイカは黒い古書を、耐衝撃・高次元遮蔽機能を備えた厳重なアタッシュケースへと慎重に収めた。
滑らかな金属の手触り、物理法則を僅かに歪めるような不可思議な質量。この「未知」の先にある真理に思いを馳せながら、セイカはエリと共にソラノミを後にした。
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トリニティ総合学園の敷地に一歩足を踏み入れれば、そこは白亜の石造り建築と、洗練されたゴシック様式の尖塔が立ち並ぶ荘厳なる学園都市。
降り注ぐ柔らかな陽光の下、歴史を感じさせる大聖堂の鐘が遠くで優げに響き渡っていた。
「にゅふふふ……! 素晴らしいです! ワイルドハントの芸術的で尖った伝統とはまた違った、厳かな聖性が立ち込めていますね! この石畳の地下や隠し部屋には、きっと数百年分の古代の秘密やアルカナが眠っているに違いありません!」
エリはワイルドハントの制服を翻し、くるりと一回転しながら感嘆の声を漏らした。
絵画や彫刻といった芸術の学園ワイルドハントで学んでいる彼女にとって、伝統と信仰が息づくトリニティの街並みは、まさにオカルトとロマンの宝庫に見えるのだろう。
「歴史的建造物としての価値もさることながら、建造物の配置や空気循環システムも極めて高水準ですね。古い文献が湿気や経年劣化を起こすことなく保存される環境としては、完璧と言って良いでしょう」
周囲の環境データを冷静に観察していたセイカは、携行端末を取り出した。
「まずは、この学園の核心に近く、知識と情報に通じている人物に相談するのが筋でしょうね。……セイアに連絡を取ってみます」
「おお……! ティーパーティーのあの方ですね! 予言や深い知恵を持つという噂は、ワイルドハントにも届いていますよ!」
百合園セイア――トリニティの最高幹部会「ティーパーティー」の一角であり、そしてセイカと同じ「空見観測研究部」の仲間でもあり、類稀なる洞察力と膨大な知識、そしてかつては未来を見通す力すら有していたとされる人物。
彼女であれば、この異質すぎる古書や「古書館の魔術師」の噂についても、何らかの確かな手がかりや知見を持っているはずであった。
セイカは通信回線を確立し、慣れた手つきで呼び出しボタンを押した。
数回の呼出音の後、端末から気だるげで親しげなセイアの声が響く。
『やあ、セイカ。どうしたんだい、こんな時間に通信なんて。ソラノミの方で何か新しい観測データでも撮れたのかい?』
「どうも、セイア。いえ、実は今、ワイルドハントのエリと一緒にトリニティに来ているのです」
『おや、トリニティに? 珍しい組み合わせじゃないか』
セイアはクスクスと軽く笑い、ソラノミで一緒の時間を過ごす部員同士ならではのフランクな調子で言葉を続けた。
「ええ。私の演算でも読み解けない、非常に特殊な構造を持った古本が見つかりましてね。トリニティに古文書や解読の専門家がいるという噂を聞いて、調査に来たところです。……もし時間が空いているなら、セイアにも見てもらおうかと思ったのですが」
『あはは、なるほどね。君の演算を弾く古本か……! 点数は高いよ、すごく興味がある! ぜひ直接見せてもらって一緒にあーだコーダと議論したいところなんだが……』
画面の向こうで、セイアが心の底から悔しそうに、大きなため息をつく気配が伝わってきた。
『……生憎と、今の私は少々身動きが取れなくてね。ティーパーティー内の公務に加え、姉妹校との調整、さらには先日発生した管区内の資料整理の件で、文字通り書類の山に埋もれている最中なのだよ。本日中に片付けねばならない案件が山積みでね……』
「ふむ……やはりティーパーティーとしての仕事が立て込んでいるのですね。声に少し疲れが出ていますよ」
『言わないでおくれよ……。私だって本当は今すぐ抜け出して、君たちと合流してその古本を解読したいよ。部活の調査の方が100倍楽しそうだからね。でも、今日中に片付けないとナギサたちに怒られてしまうんだ……』
「ふふ、無理はしないでくださいね。同じ部員とはいえ、公務で忙しいあなたを無理に引っ張り出すわけにはいきません。セイアに話を聞ければ一番話が早かったのですが、今回は諦めましょう」
『すまないね、セイカ。せっかくトリニティまで来てくれたのに……。あ、でも、もし古い文献の専門家を探しているなら――』
セイアが何かを言いかけたその時、端末の奥から「セイア様、次の資料のご確認をお願いします!」と慌ただしい側近の声が割り込んだ。
『……っと、もうお迎えが来てしまったみたいだ。とにかく、調査気をつけてくれたまえ。また落ち着いたらソラノミで話を聞かせておくれ』
「ええ、お仕事頑張ってください。失礼しますね」
プツリと通信が切れ、セイカは端末を収めた。
「……セイカ? セイアさんは何と……?」
「申し訳ありません、エリ。セイアご自身はご健在なのですが……現在、ティーパーティーに関連する急ぎの公務や諸般の案件が重なっており、どうしても身動きが取れない状態のようです」
「あちゃぁ……そうでしたか。トリニティの要職ともなると、やっぱりお忙しいのですね……」
エリは少しだけ肩を落としたが、すぐに「にゅふふ」と前向きな笑みを浮かべた。
「でも、セイアさんが忙しいのは仕方ありません! 大賢者様が頑張っているのですから、私たちが自分たちの足で手がかりを探すのも、オカルト探求の醍醐味ですよ!」
セイカは端末をポケットへと収めた。
「ええ、その通りです。落ち込む必要はありません。セイアさん個人へ直接お会いできなくとも、トリニティ内で古い文献や歴史資料がどのように扱われ、どこに集約されているか……その『構造』を探るルートは他に存在します」
「別のルート……ですか?」
エリが興味津々に身を乗り出す。
セイカは手元の情報端末へ素早くアクセスし、過給演算のデータベースからトリニティ総合学園の組織構造マップを淡々と画面に映し出した。
「専門家本人に直接会うルートが一時的に塞がれたのであれば、その専門家が所属、あるいは深い関連を持っている『組織』にアプローチするのが次の解です。トリニティにおいて、最も古い文献や宗教的遺物、歴史資料の管理・保護を一手に担っている組織……それがどこか、分かりますか?」
「ふむふむ……! トリニティで最も古く、厳かな場所といえば……!」
「ええ。『シスターフッド』です」
セイカが提示したホログラム画面には、トリニティ大聖堂の地下深く、そして膨大な古文書を保管するシスターフッドの管理領域が赤くハイライトされていた。
「シスターフッド……! 神秘と祈りを司る聖なる乙女たちの結社ですね! にゅふふ、いかにも重要な古文書や古代の伝承を秘めていそうな場所です!」
「過度な期待や感情的判断は危険ですが……理論上、トリニティで最も古い文献の修復や解読を行う人物がいるとすれば、シスターフッドの管理下、あるいは彼女たちと何らかの形で協力関係にある施設にいる確率が極めて高い」
セイカはアタッシュケースの取っ手を握り直し、論理的な思考を言葉に乗せる。
「シスターフッドはトリニティの歴史そのものを保存する機関でもあります。仮に『古書館の魔術師』と呼ばれる人物が非公開の書庫に引きこもっている専門家であるならば、シスターフッドに問い合わせることで、その人物への正当な仲介や、資料の参照許可が得られる可能性は極めて高いと言えます」
「完璧なロジックです、セイカ! オカルトの直感と過給演算の論理が、見事に次の目的地を示してくれましたね!」
「……ふふ。ですがエリ、ここから先はトリニティの深く厳かな領域に足を踏み入れることになります。あの黒い本が持つ異常な位相データや『未知の可能性』は、扱いを一歩間違えれば無用な警戒や混乱を招きかねません。取り扱いには細心の注意を払い、慎重に進めましょう」
「はいっ! セイカの指示ならバッチリ従いますよ! 秘術書の封印を解くための第一歩ですね!」
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二人は白亜の石畳を歩み、トリニティの中央にそびえ立つ大聖堂の敷地へと足を踏み入れた。
風が通り抜けるたびに、周囲を囲む古い樹木がざわめき、静謐な雰囲気が二人を包み込んでいく。ワイルドハントの賑やかで自由奔放な空気とは対照的な、規律と信仰に守られた空間。
アタッシュケースを抱えた室笠セイカは、大聖堂の重厚な扉を見上げながら、瞳の奥で静かに過給演算の光を巡らせていた。
「(……あの黒い本に記された過給エンジンと同型の設計思想。そして、キヴォトスのどの言語とも異なる幾何学記号……。トリニティの古文書保管体制の中に、その解に至るピースが存在するのか)」
冷静な観察者としての自分と、未知の真理に触れようとしている一人の探求者としての自分。
セイカの胸の中で、静かな情熱の炎が熱を帯びていく。
「にゅふふ~! 見えてきましたよ、セイカ! あの大きな扉の向こうに、大いなるマナと知識の聖域が待っています!」
エリがワクワクを隠しきれない様子で指をさす。
セイカはそんなエリの姿に、柔らかく穏やかな笑みを向けた。
「ええ。行きましょう、エリ。シスターフッドの皆さんに事情を説明し、私たちの探求を次の一歩へと進めるために」
二人の足音は大聖堂の長い廊下に静かに響き渡り、やがて神秘と歴史の深淵へと続いていくのであった──。